憲之介には弟が居た。
豪場英太(ごうば えいた)。
彼は力士として奮闘する憲之介を何時も自慢の兄と応援していた。
かつて、光に満ちていた頃の憲之介の記憶。
そこには病魔に怯える戦士ではなく、ただ純粋に上を目指す一人の力士と、彼を信じて疑わない少年の姿があった。
『兄ちゃん、どすこーい! ほら、もっと腰ば落として!』
地元の小さな神社の境内に、英太の元気な声が響いていた。
まだ幼い英太は、稽古終わりの憲之介の真似をして、不格好な四股を踏んでみせる。
『ははは! 英太、そげな腰高じゃあ、一発で土俵の外たい』
憲之介は、白く乾いた砂を叩き落としながら、豪快に笑った。
この頃の彼は、まさに山のような男だった。
はち切れんばかりの筋肉と、若さと自信に満ちた精悍な面構え。
地方巡業で戻ってくるたび、英太にとって憲之介は、テレビの中のヒーローよりもずっと大きく、
眩しい存在だった。
『兄ちゃん、次は十両やろ? その次は幕内! ずっと勝って、いつか横綱になるとよね?』
英太がキラキラとした瞳で憲之介を見上げる。
憲之介は大きな掌を英太の頭に乗せ、乱暴にかき回した。
『当たり前たい。俺が横綱になったら、英太に一番よか席で相撲ば見せてやるけん。楽しみにしておけ』
『本当!? やったぁ! 俺、学校の友達みんなに自慢すると。俺の兄ちゃんは、日本一強い力士になる男だって!』
英太は誇らしげに鼻を高くし、憲之介の太い腕にぶら下がった。
憲之介にとって、厳しい稽古も、激しいぶつかり合いも、すべてはこの弟の笑顔を守るためのものだった。自分を信じて疑わないこの小さな背中に、いつまでも「強い兄」の姿を見せ続けてやりたかった。
夕暮れの境内、二人の影が長く伸びる。
『兄ちゃん、お腹空いた! 今日は母ちゃんが唐揚げば作っとるって!』
『おぅ、しっかり食わんと強うなれんぞ』
笑い合いながら歩く帰り道。
あの時、憲之介の背中を吹き抜けた風は、あんなに穏やかで温かかった......
「兄ちゃん、今日はちゃんこ屋の予約ば入れとるよ。みんなで快気祝いばしようや!」
時は過ぎ、中学生になった快活な英太の声が、狭いアパートの部屋に響く。
彼にとって、憲之介はいつだって誇りだった。
近所の子供たちに「俺の兄ちゃんは未来の横綱たい」と胸を張って語り、
憲之介が土俵で勝つたびに、自分のことのように涙を流して喜んでくれた。
だが、今の憲之介にとって
その眩しい笑顔は毒に等しかった。
「……もう、よか。飯は勝手に食え」
憲之介は英太の顔を見ようともせず、寝床で背中を向けた。
病気が発症し引退して以降、力士としての名声を失うのは一瞬だった。
無理に四股を踏もうとすれば膝が笑い、呼吸をするだけで全身を激痛が駆け抜ける事もある。
「兄ちゃん、そんなこと言わんで……またリハビリば頑張ればきっと……」
「リハビリしてどうなるんか!?医者も見放したんぞ!?」
「っ!」
思わず怒鳴り声を上げ、憲之介は起き上がった。
弟の顔に走った困惑と悲しみ。
それを見た瞬間、憲之介の胸に鋭い自責の念が突き刺さる。
「あ..........」
自分の失態を自覚し声が詰まる憲之介。
本当はわかっていた。
弟は何も悪くない。一番心配してくれているのは彼だ。
だが、脱け殻になった自分を、憐れみの目で見られるのが何よりも耐え難かった。
かつての「自慢の兄」ではない今の姿を、これ以上晒し続けたくなかった。
「すまん……一人にしてくれ……また、外の空気吸うてくる……」
「…………うん……」
憲之介は逃げるように部屋を飛び出した。
深夜の冷たい風に吹かれながら、あてもなく歩く。
「……すまん……すまんなぁ……」
暗い夜道で、誰に届くともない謝罪が口をつく。
毎日繰り返す深夜の徘徊は、病の痛みを紛らわすためだけではない。
弟への申し訳なさと、彼を突き放してしまう自分への嫌悪感から逃げるための、
卑怯な「逃走」でもあった。
一人になりたい。
けれど誰かにこの絶望を止めてほしい。
そんな矛盾した感情を抱えて歩き続けた夜の果て。
あの日、あの男が現れた。
『土俵に戻りたいか?』
◆
ディスパイダーとの戦闘後。
「君と話がしたい……この戦いを止めるために」
「はぁ?」
人気の無い路地裏で、榊原の言葉に眉をしかめる憲之介。
だが直後、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
「……ぐ、ああぁっ!」
憲之介は壁を掴み、その場に膝をついた。
先ほどまでアドレナリンで抑え込んでいた持病の激痛が、冷え切った風と共に、牙を剥いて襲いかかってきたのだ。
四肢の末端から心臓まで、数千本の針が突き抜けるような感覚。顔面からは血の気が引き、脂汗が装甲を脱いだばかりの肌を濡らす。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か!?」
榊原が駆け寄り、その屈強な腕で憲之介の巨体を支えた。
◆
憲之介は榊原により病院に連れられた。
病室を包む重苦しい消毒液の匂い。
点滴の滴る音だけが、不気味に静かな時間を刻んでいる。
憲之介はベッドの背を少しだけ上げ、パイプ椅子に腰掛ける榊原を、険しい視線で睨み据えた。
「つまりお前さんは……そうやってライダー達に説得して回っとるとか。そげな夢みたいな事、本気で通用すると思って……」
なんでも彼は、自分も仮面ライダーでありながら人間同士の命の奪い合いを快く思わず、一人でライダー達に戦いを止めようとしてるらしい。
榊原は膝の上に置いた己の拳を見つめながら、静かに、しかし重い口調で語り始めた。
「夢じゃない……既に何人ものライダーがこの争いで命を落としている。
鏡の中へ消え、誰に知られる事もなく、ただの粒子になってな」
榊原は一度言葉を切り、憲之介の瞳を真っ直ぐに見返した。
「神崎士郎は人の願いを餌に、俺達をただの戦う駒として飼っているに過ぎない。
豪場、君の願いがどれほど切実な物かは俺は知らない。だが、死んでしまえば元も子も無いんだ。このまま戦い続ければ取り返しのつかない事になるだろう……頼む。俺と一緒に、この戦いを止める側に回ってくれ」
榊原の言葉には数多の修羅場を潜り抜けてきた男特有の、血の通った説得力を感じた。
その誠実さは卑劣なシザースやタイガとは正反対のものだ。
だが。
「断る」
「!…」
その返答は、あまりにも短く、即答だった。
憲之介は点滴の刺さった自分の腕を忌々しげに見つめた後、榊原を射貫くような眼光で言葉を継いだ。
「『死んだら元も子もない』と言ったな?……ばってん榊原さん。俺にとっては、土俵に上がれん今の状態こそが、死んどるのと同じたい。 ただ息をしとるだけの抜け殻に、これ以上何を守れと?」
その声には、病魔にすべてを奪われた男の、底知れない絶望と執念が混じり合っていた。
「たとえ神崎に利用されとるだけだとしても、俺にはこれしか道はなか……命ば懸けて、また四股ば踏める体ば取り戻す。それが例え人殺しの果てにあるもんだとしても、俺は止まらん……お前さんに説得される謂われはなか」
憲之介は、痛みで強張る体を無理やり動かし、榊原から顔を背けて壁を向いた。
これ以上、この「正義」に満ちた男の言葉を聞いていれば、自分の僅かな決意が揺らいでしまう――そんな恐怖が、彼の背中を冷たく撫でていた。
榊原は、背を向けた憲之介の広い背中に向けて、絞り出すように言葉を重ねた。
「それでも……君はモンスターから人を助けているじゃないか。自分の命しか懸けない男が、あんな真似をするのか?」
榊原は見ていた。
先ほどの戦いの直前、ミラーモンスター・デッドリマーが一般人を鏡に引き込もうとした時、憲之介が男を逃がした瞬間を。
だが憲之介は鼻で笑い、忌々しげに言い返した。
「……そげなもん、関係なか人間の犠牲は気分が悪かだけたい。客が傷ついて喜ぶ関取が何処におる? 俺が助けたのは『人』じゃなか、土俵の外におる観客たい」
「嘘だな。君の根底には、まだ他者を想う心が残っている。先ほどの戦いもそうだ。シザースやタイガにも、君はとどめを刺す瞬間に躊躇した。だから俺は君に話しかけたんだ。まだ誰も殺していない君なら、引き返せると!」
榊原の熱を帯びた言葉が、病室の静かな空気を震わせる。
だが憲之介にとってその「善意」は、今や喉元を締め上げる縄でしかなかった。
「……いい加減しつこいばい、お前さん。余計なお世話たい」
憲之介はゆっくりと体を起こし、榊原を冷たく睨み据えた。
「大体、ライダーはみんな自分の意志で戦っとるんやろ? それを止めて回って、お前さんに何の得がある? 全員、縁もゆかりもなか赤の他人やろが」
「損得の問題じゃない! 人の命がかかっているんだぞ。ライダー同士が殺し合う必要なんて、本当はないんだ!」
勢いよくパイプ椅子から立ち上がった榊原の反論に、憲之介の怒りがついに爆発した。
「それで止めたら、そいつらの『願い』はどうなるとか!」
怒声が病室に響き渡る。点滴のチューブが激しく揺れた。
「病気ば治したい、失った誇りば取り戻したい……
そんな泥水を啜るような思いで、デッキを掴んだ奴は他にも居る筈ばい。
それを『命大事だ』なんて綺麗事で奪って。
お前に大事なもんを失った奴の気持ちがわかるんか!?
そんなんただの自己満足やろが!」
憲之介の叫びは、自分自身に向けた悲鳴でもあった。
願いを捨てろということは、再びあの絶望の底で、ただ死を待つだけの日々に戻れと言うことだ。榊原の正論は憲之介にとっては「救い」ではなく、残酷な「宣告」に他ならなかった。
榊原は言葉を失い、立ち尽くした。憲之介の瞳に宿る、血を吐くような執念。それが、どれほどの絶望から生まれたものかを、榊原は痛いほどに感じ取ってしまったのだ。
「.....................」
「.....................」
病室には重苦しい静寂が降りた。
榊原は何も言い返せなかった。
憲之介の言う「失った者の執念」を、ただの部外者が否定する事の傲慢さを思い知らされたからだ。
憲之介は荒い息を整え、低く、湿り気を帯びた声で付け加えた。
「……助けてくれた事には礼ば言う。感謝しとる」
視線は、窓の外の暗闇に向けられたまま。
「ばってん、俺も他の皆と同じ、願いの為に魂ば売った男たい……
次、鏡の中で会うたときは、覚悟しとき」
それは、憲之介なりのケジメだった。
馴れ合いはしない。恩を仇で返すような真似はしたくないが、土俵に上がれば敵だという力士としての、そして仮面ライダーとしての宣戦布告。
榊原は、憲之介の横顔を一度だけ見つめた後、静かに歩み始める。
足音がドアに向かうが、憲之介は振り返らない。
すると、ドアノブに手をかけた榊原が、部屋を出る直前、背中を向けたまま一言だけ言葉を贈る。
「……失ったものなら、俺にもある…………」
その一言は、これまで彼が口にしてきたどの言葉よりも重く、
冷たく、そして孤独だった。
憲之介は思わず目を向けたが、
その時にはもう、榊原の姿は廊下の闇に消えていた。
「…………」
独り残された病室で、憲之介は榊原が置いていった缶コーヒーを手に取った。
既にぬるくなったそれを一口飲み、彼は天井を見上げる。
(失ったもの、か……)
榊原のあの悲しげな瞳を思い出す。
あいつもまた、何かを取り戻すために戦い、そしてその過程でさらに何かを失い続けているのではないか。
榊原が去ってから数分。静まり返った病室に、せきを切ったような足音が近づき、勢いよくドアが開いた。
「兄ちゃん!」
肩で息をしながら飛び込んできたのは、英太だった。その顔は青ざめ、必死に街中を走り回っていたのか、制服のシャツは乱れ、額には汗がにじんでいる。
「英太……どげんしたとや、まだ学校の時間やろ?」
憲之介は驚きを隠し、努めて平静を装った。ベッドの上で点滴を受けている兄の姿を見て、英太は泣き出しそうな表情で駆け寄る。
「どげんしたも無かよ! 急に病院から連絡があったから、俺……!」
「……すまん、心配させて。ちょっと持病の痛みが強うなってな。通りがかりの人に助けてもろうたとたい」
憲之介は大きな掌を英太の頭に乗せようとしたが、今の自分の手が「戦いの道具」であることを思い出し、わずかに躊躇してシーツを握りしめた。
「その人、もう帰ったと? お礼ば言わんと……」
「あぁ、忙しい人みたいでな。もう行ったばい。……俺も明日には退院できる。今日はもう遅かけん、お前も今日は帰って休め」
「……本当? 本当に大丈夫とね?」
「あぁ。約束したやろ、俺はもう一度、日本一強い力士になる男たい。こげな病気に負けるわけなかろうもん」
憲之介のその言葉は、英太に向けた嘘であり、自分自身への呪いでもあった。
英太はまだ何か言いたげだったが、兄の力強い(ふりをした)言葉に少しだけ安心したのか、何度も振り返りながら病室を後にした。
独りになった憲之介は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
そこには、愛する弟にさえ真実を言えず、鏡の中の殺し合いに身を投じる一人の「鬼」の姿があった。
◆
病院のロビーを抜け全身が夕陽に照らされた時、
榊原の耳に先ほどの憲之介の怒声がリフレインした。
『お前に大事なもんを失った奴の気持ちがわかるんか!? そんなんただの自己満足やろが!』
一歩、また一歩と重い足取りで歩きながら、榊原は自嘲気味に口角を上げた。
「……自己満足、か。違いないな」
否定はできなかった。
ライダーたちから戦う理由を奪い、その先に待つ救済の保証もないまま「戦うな」と説得して回る。
それは見方を変えれば、理想を押し付けているに過ぎないのかもしれない。
「それでも……俺は……」
彼らが消えていくのを、ただ指をくわえて見ている事など出来ない。
その呟きが白く消えようとした時、待っていたかのようにその男が現れた。
「神崎……」
榊原は足を止め、憎しみを押し殺したような鋭い視線でその背中を射抜いた。
神崎に目立った反応は無く榊原を睨む。
その瞳は獲物を狙う鷹のように冷徹で、感情の機微を一切寄せ付けない。
『何時までそんな真似を続ける気だ? 既に何人ものライダーが脱落している。
お前も他のライダー同様、自分の為に戦った方が楽だぞ』
「ふざけるな……何が目的が知らないが、アイツらが命を懸けたのは、お前の勝手な欲望を満たすためじゃない」
榊原が握りしめた拳の中には、一枚のカードがあった。
鈍い光を放つ『サバイブ-烈火-』
脳裏に、かつて共に戦い、そして散っていった男たちの顔がよぎる。
己の運命を予知しながらも、最後まで他者のために戦い抜いた親友、手塚海之。
頑なな孤独を貫きながらも、最後の最後で自分に賛同し、背中を預けてくれた戦友、秋山蓮。
このカードは、彼らが死の間際、託してくれた魂そのものだ。
彼らの死を無駄にしたくない。その想いが、元から正義感が強かった榊原をつき動かすのだ。
「どれだけ言われようと、俺の意志は変わらない。俺が動ける限り、犠牲者は一人でも減らしてみせる。必ず、この戦いを終わらせてやる」
榊原の強い言葉に、神崎は嘲笑うことさえせず、淡々と残酷な事実を突きつけた。
『では好きにするがいい。どの道、お前もライダーである以上、戦いは避けられない……
その抵抗が、最後の一人を生み出す余興になればいい』
神崎の姿が、陽炎のようにゆらりと歪み、背景に溶けるかの如く消えていく。
一人残された榊原は、拳を強く握り直した。指が白くなるほどの力で。
「やはり、戦いを止めるには……ミラーワールドその物を閉じるしかないのか。だがどうやって……」
神崎士郎が作り上げた、この歪な鏡の檻。
出口を求めて足掻くほど、誰かの命がこぼれ落ちていく。
榊原は夕空を見上げ、その向こう側にあるはずの答えを探そうと改めて決意した。
その時。
榊原はこめかみを強く押さえ、激しい眩暈に身をよじった。
「くっ……あ、がぁっ……!」
脳髄を直接針で刺されたような、鋭い頭痛。
歪む視界の向こう側に、先ほど戦ったはずの「タイガ」と「シザース」の姿が浮かび上がる。
だが、その仮面の奥から響いてくるのは、戸塚や石橋とは似ても似つかぬ、会ったこともない者たちの声だった。
【私は、絶対に生き延びて!!】
【勇気さえあれば、誰でも英雄になれるからね】
悲痛な叫びをあげる男と、狂気を孕んだ無邪気さで「英雄」を語る青年。
榊原の知るタイガ(戸塚)でも、シザース(石橋)でもない。
だが、何故かその声には聞き覚えがあるような、魂が激しく拒絶するような、不気味な既視感(デジャヴ)があった。
「誰だ……? お前たちは……っ」
手を伸ばそうとした瞬間、イメージはガラスが砕けるように散り、数秒の苦痛と共に消え去った。
冷たい夜風が頬をなで、後に残ったのは、先ほどまで脳裏を掠めていたはずの言葉すら思い出せなくなった空虚感だけだった。
「……まただ。一体、何なんだ……?」
榊原は、訳もわからない、得体の知れない気持ちに襲われながらも、
重い足取りで闇の中へと進んでいった。