カードデッキを手にしてから二ヶ月余り。
季節は移ろいを見せていたが、豪場憲之介の心象風景は、あの日からずっと凍りついたままだった。
五月の陽光を浴びながら、病院からの帰り道を一歩ずつ噛みしめるように歩く。かつて砂を蹴り、巨体を支えた強靭な脚は、今や一歩ごとに疼く鈍痛を伴っていた。
「……これ以上は、持たんばい」
誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟きが漏れる。
ミラーワールドでの連日の死闘は、病に蝕まれた肉体を容赦なく削り取っていた。
モンスターを狩るたびに寿命が縮まるような感覚。
それでいて病気を言い訳に、未だに他のライダーを手に掛ける事のできない
「甘さ」が自分にはある。
覚悟が足りないのか、それとも人としての何かがそれを拒んでいるのか。
そんな自問自答を繰り返しながら、見慣れたマンションの影が見えてきた時だった。
――キィィィィィィィン……ッ!!
鼓膜の奥を直接爪で掻きむしるような、不快極まる金属音が頭蓋を震わせた。
憲之介の全身に、現役時代の立ち合いにも似た鋭い緊張が走る。
モンスターの気配だ。
それも、吐き気がするほど近く、濃い。
「どこや……どこおる!?」
血走った目で周囲を索敵する。
しかし、通行人の姿は疎らで、鏡となるような遮蔽物も見当たらない。
だが、その殺気の源を辿った憲之介は、戦慄に目を見開いた。
気配の「核」は、あろう事か自分が住むマンション、その一点から放たれていたのだ。
「……まさか」
あり得ない事ではない。
鏡の世界に棲む飢えた獣にとって、
獲物が何処に住んでいようと関係はないのだ。
一瞬、住人の誰かが狙われているのかと考えた憲之介だったが、その時、脳裏にある約束が雷鳴のように鳴り響いた。
『兄ちゃん、明日の昼頃、母ちゃんの弁当ば持って行くけんね』
昨夜、電話の向こうで明るく笑っていた英太の声。
憲之介が通院で留守にしている間に、
合鍵を使って部屋で待っていると言っていたはずだ。
「……英太ッ!!」
心臓が跳ね上がった。
病の痛みも、二ヶ月の疲労も、一瞬で怒りと恐怖の炎に焼き尽くされた。
憲之介は全力で地を蹴った。
かつての猛り狂う重戦車のような突進。
マンションの入り口へ、そして英太の待つ自室へと、彼は狂ったように駆け出した。
気配は間違いない。
異形の化け物は、今まさに、憲之介の平穏の象徴である「自分の部屋」を侵食している。
「英太! 英太ッ!」
もどかしいほどに重い足を引きずり、憲之介はマンションの階段を二段飛ばしで駆け上がった。自室の前に辿り着くと、いつもは閉じているはずの玄関のドアが、わずかに隙間を開けて彼を待っていた。
嫌な汗が背中を伝う。憲之介はそれを乱暴に押し開け、土足のまま居間へと飛び込んだ。
「英太! おるか!? 英太ッ!」
返ってくるのは、自分の荒い呼吸と、時計の刻む無機質な音だけだった。
生活感の残る無人の部屋。その異様な静寂が、かえって憲之介の焦燥を煽る。
視線を必死に彷徨わせた彼の足が、不意に止まった。
フローリングの床。
そこに、中身の詰まった弁当箱が無造作に転がっていた。
彩り豊かなおかずが床に散らばり、好物だと伝えてあった玉子焼きが、踏みつけられたように潰れている。
「英太……?」
それは、さっきまで確かにそこに誰かがいたという、残酷な証拠だった。
その時、脱衣所の方から微かな、だが決定的な気配が漏れた。
憲之介は獲物に飛びかかる獣のような勢いで洗面台へと向かう。
そして、見てしまった。
洗面台に設置された大きな鏡。
その銀色の奥底、左右の反転した自分の部屋の中に、それはいた。
白銀の滑らかな甲殻に覆われた、名も知らぬモンスター。
怪物は、こちらを振り返りもしない。
ただ、何かを成し遂げた後のように、白い背中を向けていた。
「やめれ........やめれ!」
最悪な状況を想像し、
憲之介の呼吸数と心拍数がみるみる内に上昇する。
白いモンスターはそんな憲之介をあざ笑うかの如く、そそくさと鏡の中の自室を出て行った。
「待てコラぁっ!!」
震える手で懐からデッキを引き抜き、鏡面へと叩きつけるように突き出した。
Vバックルの装着音とともに、鏡の中から放たれた光の奔流が彼を飲み込む。
仮面ライダーザボテスに変身を終えた憲之介は、そのまま鏡の世界へと飛び込んだ。
白いモンスターは、節足動物を思わせる奇怪な動作でマンションの外壁へと躍り出た。
その口から粘着質な白い糸を吐き出し、向かいのビルへと固定すると、振り子のように巨大な弧を描いて夜の闇を跳ねていく。
「待てぇッ! 待て言いよろうがッ!!」
ザボテスは重厚な装甲を軋ませ、白いモンスターを見上げながら地上を疾走する。
祈るような想いだった。
もし、あいつの手になにも無い理由が、自分の想像している「最悪」の結果であるならば――。
憲之介は首を振った。そんなはずはない。英太は生きている。
どこかに隠されているだけだ。そう自分に言い聞かせ、
肺が焼けるような痛みを無視して、ペダルを漕ぎ続けるように足を動かした。
やがて、白い影が街中の広場へと着地した。
同時にザボテスも追いつき、その足を止める。
「 もう逃がさんけんなッ!!」
ザボテスの叫びに、
モンスターは何者だ?と思ったのか止め、ゆっくりと、執拗なほど緩慢な動きでこちらを振り返った。
「ヴッ……ぺヴェッ……ぺヴェッ……」
湿り気を帯びた、不気味な鳴き声が漏れる。
その正体はミラーワールドに無数に生息する捕食者、
シアゴースト。
しかし憲之介の目に飛び込んできたのは、その無機質な白銀の体ではなかった。
シアゴーストの鋭い牙が並ぶ口元。
そして、その平坦な胸部。
そこには今しがた浴びたばかりのような、
どす黒く鮮烈なおびただしい量の血痕が悍ましく付着していた。
「あ…………」
瞬間、ザボテスの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
シアゴーストの口元。
不気味に蠢く牙の隙間に、赤黒い液体に濡れて張り付いた「異物」がある。
それはいつも、
英太が身に着けていた筈の、
見慣れた衣服の破片だった。
「あ…………あぁ…………………」
ザボテスの喉から、ひび割れたような声が漏れる。
夢であってほしかった。
しかし現実はあまりに残酷だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
この野郎おおおおおおおおおおおおお!!!!」
それは最早言葉ではなかった。
魂が、血が、憲之介という人間のすべてが爆発した叫びだった。
空気が爆ぜるほどの踏み込み。
ザボテスは重厚な装甲を感じさせない速度でシアゴーストへ肉薄し、その細い胴体を地面へと叩き伏せた。
「ヴェエェっ!!」
「うあああああああああああ、あああああああああああああああ!!!!!!!!」
馬乗りになったザボテスは、拳を振り上げた。
理性をかなぐり捨て、ただの「獣」となった憲之介は、
鋼鉄の拳をシアゴーストの顔面に叩き込む。
一度、二度、三度、四度、五度、
殴るたびに、モンスターの体液と、
英太のものであったはずの「赤」がザボテスの拳にこびりついていく。
顔面がひしゃげ、眼球が潰れ、装甲が粉々に砕け散っても、憲之介の手は止まらなかった。
もはや、自分が何をしているのか、此処が何処なのかさえ分からなかった。
視界は怒りで血の色に染まり、
ただ目の前の「肉塊」をこの世から消し去ることだけが、
彼を突き動かす唯一の衝動だった。
「うううおおおおおおおああああああああああああああッ!!」
最後の一撃。
ザボテスは腰のホルスターから、
小型丸鋸型召喚機、カクトゥバイザーを荒々しく引き抜いた。
超振動する刃が、唸りを上げて起動する。
ザボテスはそれを、まだ痙攣を続けているシアゴーストの、ひしゃげた顔面の中心へと突き立てた。
火花と汚濁が噴き上がり、絶叫さえ許さない速度で丸鋸が白銀の頭蓋を割り進む。
そのまま一気に振り下ろされた刃が、シアゴーストの頭部を、胴体を、真っ二つに引き裂いた。
「グヴェェアアあああ!!」
バラバラに霧散していくモンスターの残骸。
静寂が戻った広場に、ザボテスの荒い呼吸と、カクトゥバイザーが空回りする虚しい駆動音だけが響いた。
シアゴーストが爆散し、立ち上る黒煙がミラーワールドの澱んだ空気に溶けていく。
あんなに憎く、あんなに禍々しかった怪物の最期は、
あまりにも呆気なく、簡単な処理だった。
復讐は終わった。
だがその場に残されたのは達成感でも安らぎでもない。
ただ膝をつくザボテスの拳にこびりついた、
白濁したモンスターの体液と、泥と血に汚れた「弟の一部」だけだった。
「英太………………おい、英太ぁ……返事してくれやぁ……」
白銀のバイザー越しに、憲之介の瞳は虚空を見つめる。
いくらモンスターを屠ろうとも、この「反転した世界」の時間は巻き戻らない。
先ほどまで、自分の為に弁当を持って来て、笑って待ってた筈の弟は、もう何処にもいない。
この世で唯一、自分を信じ、誇りに思ってくれた最愛の弟。
その命を守れなかったばかりか、自分を救う為の「力」を振るうその場所で、
最も救いたかった存在を失った。
「 英太ぁ…………………… 英太あああああああぁぁぁぁぁッ!!」
慟哭。
それは、言葉という形を失った魂の叫びだった。
ザボテスの咆哮は、冷たい鏡の壁に跳ね返り、主を嘲笑うかのように空しくこだまする。
どれほど強大な力を手にしようとも。
どれほど誇り高くあろうとも。
このミラーワールドという地獄は、望んだものとは正反対の「絶望」を、最も残酷な形で突きつけてくる。
灰色のビル群。ただ只管広い空。
逃げ場のない静寂の中に、一人の男の壊れた叫びだけが、
いつまでも、いつまでも響き渡っていた。