英太が失踪したという情報は、瞬く間に両親の元へも行き渡った。
現場が憲之介のマンションであったことから、警察は真っ先に彼への疑いを向けた。しかし、それはすぐに立ち消えることになる。
憲之介と英太がどれほど仲の良い兄弟であったか。両親や友人、英太の同級生たちに至るまで、彼を知る者は口を揃えて「憲之介が英太に何かするはずがない」と断言した。さらに、失踪当時に憲之介が病院にいたという明確なアリバイ、そして室内には争った形跡すら残されていないという不可解な状況が、警察の追求を阻んだ。
結局、この事件もまた、ここ数ヶ月世間を震撼させている「連続神隠し事件」の一環として処理されることになった。
「きっと大丈夫だ。英太はきっと帰ってくるさ」
親族や知人たちは、一人暮らしの自室で座り尽くす憲之介を囲み、そう励ました。
それは独り身の彼を気遣う優しさであり、
同時に自分たちを鼓舞する為の切実な願いでもあっただろう。
だが憲之介はその言葉を、ただ無機質な風の音のように聞き流していた。
皆は知らないのだ。
一連の失踪事件は全て、鏡の中に潜む野生のモンスター達の仕業であるという事を。
引きずり込まれた人間は、
その瞬間に文字通り「喰われ」、
この世から抹消された故人であるという事を。
「.........あぁ....................そうやね.........」
憲之介はただただ、力無くそう応えるしかなかった。
◆
英太がこの世から消えて、数日が過ぎた。
憲之介は自室のフローリングに、ただひたすら壁にもたれかかり、俯いたまま座り込んでいた。カーテンを閉め切った室内は昼夜の区別もなく、ただ澱んだ空気が停滞している。
弟を失ったショックは計り知れず、食欲などという本能はとうに死に絶えていた。数口ほど手をつけた形跡のあるコンビニの袋が、異臭を放ちながら床に転がっているが、今の彼にはそれを片付ける気力すら残っていない。
「…………」
口は微かに開いてるが真面な声は出た試しがない。
今まで「観客」を守るため、病を抱えた体で数多くのモンスターを屠ってきた。見知らぬ他人の命を救い、誇りを守ってきたはずだった。なのに、一番身近で、誰よりも守りたかった、ただ一人の弟を救えなかった。
その無力感が、毒のように憲之介の心根を腐らせていく。
今の彼は、文字通り魂の抜けた殻だった。
焦点の定まらない目は、どこを見るでもなく、ただ目の前の、埃の舞う何もない空間を虚ろに眺めているだけである。
その静寂を切り裂くように、絶望の極致にある彼の元に、音もなく、一人の男が姿を現した。
コートの裾を揺らし、鏡から染み出したようなその男――神崎士郎は、感情を排した冷たい目で憲之介を見下ろすと、静かにこう告げてきた。
『タイムリミットだ。あと5日以内に最後の一人を決めなければ、願い事は叶わなくなる。お前の病気を治し、相撲界に返り咲く望みも、全て夢へと消え去るだろう』
神崎士郎の声は、冷徹な判決のように室内に響いた。
しかし、憲之介は顔を上げることも、神崎に視線を向けることさえしなかった。
微動だにせず、ただひび割れた唇から、消え入りそうな囁きを漏らす。
「……もう…………どうでも………
よか……………んなもん……」
誇りも、土俵も、今の彼にとっては砂を噛むような虚しさでしかなかった。
その抜け殻のような姿を冷ややかに見下ろし、神崎はさらに言葉を重ねる。
『脱落を望むなら好きにしろ。たが、それが何を意味するのか……お前が一番解っている筈だ』
神崎が告げると同時に、すぐ側の窓ガラスが禍々しく波打った。
そこには憲之介が契約したミラーモンスター、ハードカクターが映り込む。
異形の怪物は、飢えてるかの如くじっと主を見つめている。
モンスターは契約者に強大な力を与える代わりに、定期的な「餌」の供給を義務付ける。
モンスターを倒してその核を食わせるか、あるいは人間を捧げるか。
もしそれを怠れば契約破棄と見なされ、契約者はモンスターにその身を捧げなくてはならない。
それが、鏡の世界の逃れられぬ鉄則。
このまま憲之介が戦いを放棄し続ければ、
彼はハードカクターの顎(あぎと)に沈む運命にある。
その様な死の宣告にも等しい警告を突きつけられても、
憲之介は碌な反応を示さず、ただひたすら目の前の虚無を見つめ続けていた。
死ぬならそれもいい。
そんな自暴自棄な静寂が彼を包んでいた。
だが神崎は去り際に、呪いのような一言を付け加えた。
『……もしその気が有るなら、願い事を変えるのも一つの手だぞ。病気が治らない代わりに、弟を蘇らせる、とな』
その瞬間。
憲之介の肩が、ほんの僅かに、ピクリと反応を見せた。
その言葉だけが、凍りついた彼の魂の深層に、波紋のように届いたのだった。
しかし反応はそれだけ。
彼は再び重い沈黙に沈み込み、さっきと同じように虚空を見つめる。
神崎はそれ以上の言葉を費やすことはなかった。
『警告はした。あとはお前次第だ』
短くそう言い残すと、神崎の姿は陽炎のように鏡の中へと消えていった。
暗い部屋に残されたのは、死を待つ一人の男と、鏡の向こうで契約者の命を狙う怪物の、不気味な気配だけだった。
◆
静まり返った憲之介の自室とは対照的に、
ミラーワールドでは一つの異変が起きていた。
無人の道路、ひび割れたアスファルトの上。
そこには数え切れないほどのシアゴースト達が、まるで行き倒れた生存者の様に蹲っていた。
しかしそれは死を待つ姿ではない。
彼らの体からは粘着質な分泌液が溢れ出し、
みるみるうちに自身の全身を白く硬い繭で包み込んでいく。
鏡の世界を埋め尽くす、異様な数の白い繭。
やがて、その中の一体の背中が、内側からの圧力に耐えかねたように不気味な音を立てて割れた。
「ヴェ......ヴェプ.....ヴェプ........ヴェプ........」
古い殻を脱ぎ捨てるようにして、中から新たな異形が這い出てくる。
白銀の幼体から、より洗練された、より殺傷能力の高い飛行形態へ。
レイドラグーン
シアゴーストから進化したそのモンスター達は、一匹、また一匹と殻を割り、濡れた翅(はね)を広げて立ち上がる。
彼らは鏡の中の太陽を仰ぐようにして頭部の翅を小刻みに震わせると、
重力を無視して次々と灰色の空へと舞い上がった。