神崎から最後通牒を突きつけられてから、さらに数日が過ぎた。
憲之介は依然として、光の射さない自室で失意の底を彷徨っていた。世間では謎の神隠しが加速し、ミラーワールドではライダーたちが次々と脱落していく。
強欲の権化であった高見沢も、狂気の象徴だった浅倉も、何時しか共倒れという形でその命を散らしたらしい。
だが、そんな血生臭い報告も、今の憲之介の鼓膜には届かない。
不思議なことが一つだけあった。
契約モンスターであるハードカクターは、鏡の向こうからじっと憲之介を眺め続けている。
本来ならば契約不履行としてとっくに主(ぬし)を食らっていてもおかしくない時間が経過していた。
でもその巨大なサボテンの怪物は、捕食の牙を剥こうとはしない。
ただ無機質な複眼で、動かぬ憲之介の姿を映し出し、静かにそこに留まっている。
(……何を見とる。食いたかとなら、さっさと食えばよかろうもん)
憲之介は声に出す気力もなく、心の中でだけ毒づいた。
それは、かつて土俵で培った「不屈」の精神が爆発し、再起する事を期待し見極めているのか。
あるいは今の無様な姿を、鏡の向こうから最高のご馳走として嘲笑っているのか。
怪物の真意は、彼にも分からない。
静寂に包まれた部屋の中で、窓ガラスに映るハードカクターの甲殻が、時折不気味に鈍く光る。
憲之介はただ、その光を虚ろに眺めながら、
神崎が残した『呪い』が、自身の心臓をじわじわと侵食していくのを感じていた。
「……弟を、蘇らせる……」
その禁断の響きが、
澱んだ憲之介の思考を支配しようとした、その時だった。
キィィィィィィィン……ッ!!
「!!」
これまで経験したことのない、鼓膜を八裂きにするような強烈な金属音が脳を貫いた。
モンスターの気配。だが、それは「一体」や「数体」といった生易しいものではない。数千、数万の悪意が一度に押し寄せてくるような、圧倒的なまでの殺気の奔流。
突如、外から大地を揺らすような爆音が響き渡る。
「........な、何なん?」
日本の日常生活を送る中ではまず聞く事の無い、明確な爆発音に、自室が振動する。
憲之介は重い体を引きずり、震える手で窓を押し開けた。
「……な…….....」
絶句した。
視界を埋め尽くしていたのは、
地獄の蓋が開いたかのような光景だった。
地上には繭から羽化したばかりの「レイドラグーン」の集団が蝗害(こうがい)のごとく溢れかえっている。
さらに上空には、その進化態である「ハイドラグーン」が巨大な翅を広げ五月の空を黒く塗り潰していた。
モンスターたちは街中のあらゆる鏡、窓ガラス、車のバックミラーから文字通り「溢れ出して」いたのだ。
「助けてえええ!」
「誰か、うわあああああ!!」
平和だったはずの街並みが、一瞬にして絶叫の渦に飲み込まれていく。
無辜(むこ)の民を蹂躙(じゅうりん)する異形の軍勢。
訳も解らず逃げ惑う人々を、鉤爪が、牙が、無慈悲に引き裂いていく。
それはもはや「神隠し」などという生温いものではない。
ミラーワールドという異界そのものが現実を喰らい尽くそうとする、終わりの始まりであった。
窓枠を掴む憲之介の手に、力がこもる。
目の前で繰り広げられる惨劇は、あの日のマンションの廊下、英太を失った瞬間の光景とあまりに酷似していた。
鏡に映るハードカクターが、一際激しく棘を脈動させる。
戦え。喰らえ。
怪物の意志が、憲之介の絶望を「怒り」へと無理矢理塗り替えていく..........。
◆
場面は変わり、悲鳴と爆音に包まれた街中。
「逃げろ! 早く、逃げるんだ!」
榊原は、ひび割れたアスファルトの上を必死に駆け抜けていた。
すぐ背後のショーウィンドウからは、レイドラグーンの鋭い鉤爪が突き出し、
逃げ惑う人々を次々と鏡の中へと引きずり込んでいく。
「くそっ、なぜ……こんな数のモンスターが!?」
額から流れる汗を拭う暇もない。
押し寄せる絶望的なまでの物量。
空を仰げば、ハイドラグーンの群れが巨大な黒雲のように街を覆い尽くしている。
憲之介が失意の底で蹲っていた数日間、榊原はただ手をこまねいていたわけではなかった。彼は一人、ミラーワールドの核心へと迫る調査を続けていたのだ。
「……俺が、もっと早く『あれ』を見つけていれば……!」
唇を噛み締めながら、榊原の脳裏には一つの「確信」が浮かんでいた。
戦いを止めるための、唯一の希望。
神崎士郎が仕組んだ、最後の一人になるまで終わらないというこの呪われたシステム。
それを根底から覆し、ミラーワールドそのものを物理的に、
あるいは概念的に閉じる事ができる「かも」しれない方法。
死闘の果てに、榊原はついに辿り着いていた。
この終わりのない地獄に、真の意味で終止符を打つための「鍵」を。
だがそれを実行するためには、あまりにも時間が足りない。
そして何より、今の街の状況は、その「鍵」を使わせまいとする神崎の意志その物の様に荒れ狂っている。
逃げ惑う群衆の足音と、怪物の咆哮が混じり合う喧噪の中。
榊原の視界の端で、一人の青年が足をもつれさせ、派手に転倒するのが見えた。
直ぐに駆け寄り、介抱する榊原。
「君、大丈夫か!」
「す、すみません……」
顔を上げた青年の瞳を見た瞬間 ―― 榊原の脳漿を、凄まじい密度の「記憶」が撃ち抜いた。
「!?」
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
それは以前、シザースやタイガの断片を見た時よりも、
遥かに鮮明で、血の匂いがするほどに生々しい映像だった。
(……なんだ、これは……!?)
記憶の中の自分は、腹部に致命的な重傷を負い、血の海に沈んでいた。
その傍らで、今の目の前の青年が、不慣れな手つきで『龍騎』のデッキを構えている。
『デッキを装填しろ! カードを使って……戦うんだ!!』
記憶の中の榊原が、必死に声を絞り出す。
『お前は……ライダーの戦いに…………巻き込まれるな……』
そして、青年が変身した龍騎に抱えられながら、自分は静かに事切れた――。
「あの……何か?」
「っは!」
現実の青年の声に、榊原は弾かれたように我に返った。
目の前の青年は、記憶の中のような悲痛な表情ではなく、ただただ困惑した顔で自分を見つめている。
その時、群衆の先から一人の男が怒鳴り声を上げた。
「おい真司! 何やってんだ、置いていくぞ!」
「わわぁ、編集長! 待ってくださいよぉーっ!」
真司と呼ばれた青年は、慌ててその男の方へと駆け出していった。
(何だ……? 俺は、あの青年と会ったことがあるのか? そんな筈は……)
榊原は疼く頭を押さえながら、遠ざかる青年の背中を凝視した。
だが、疑問に耽っている猶予は一秒たりともない。
「……今は、それどころじゃない!」
榊原は迷いを振り払うように、懐から龍騎のカードデッキを抜き放った。
燃え盛る炎を反射するショーウィンドウに、紅蓮の龍が咆哮を上げる。
「変身ッ!!」
赤い光の奔流に包まれ、榊原は龍騎へと姿を変える。
そのまま、レイドラグーンが溢れ出す鏡の境界線へと、その身を躍らせた。