「レコードを獲りましょうか」
タイキシャトルのトレーナーは開口一番にそう言い放つ。忠犬タイキシャトルは、その言葉に黙って耳を傾けた。未だ不慣れな日本語を一言一句聞き逃さないために。
「打倒サイレンススズカ。次のレースは彼女を超えないと勝てないでしょう」
タイキシャトルの次走は安田記念。1600mはタイキシャトルにとって大好物であるが、最近マイルで無双しているサイレンススズカに対しては少々分が悪い。マイルCSでの敗北も記憶に新しい中で、サイレンススズカを迎え撃つのは難題だった。
「スズカに追いつくイメージはあるのデスが……最後の最後で突き放されてしまいマス」
「ええ、あの末脚は脅威ですね」
勝つイメージが湧かない。それが率直な感想だった。あの高速化したレースの中でサイレンススズカを捉えることができるのは、それこそマルゼンスキーのような前時代の傑物だけだろう。それくらい遠いのだ。果てしなく。
それでもトレーナーは落ち着いた様子だった。データ型人間を自称する彼は、眼鏡をくいくいっと持ち上げる。
「だけどサイレンススズカ君も完璧なウマ娘じゃない。彼女が勝利にこだわっている間は、僕らにも勝機はある」
サイレンススズカが新たに習得した逃げて差す走法。大阪杯でメジロドーベルを置き去りにし、ヴィクトリアマイルで快勝した末脚は、サイレンススズカの勝利を決定づけるダメ押しになる。最終直線で差が開いていく感覚は、多くのウマ娘にとって絶望そのものだった。
「遅くなってますよ、彼女は」
そんなの関係ねぇ、と言わんばかりに断言するトレーナー。彼には彼なりの勝算があった。
「サイレンススズカ君の持ち味は大胆な大逃げと、そこから生まれるハイペース展開。戦術も駆け引きも全部無視して、相手を自分の土俵に引きずり込むことが強みです」
サイレンススズカによって縦に引き延ばされたバ群の中では従来のような駆け引きが発生しない。レースはよーいどんで速いウマ娘が勝つだけのかけっこに成り下がる。
そしてサイレンススズカは一番速いから勝った。1600~2200mを誰よりも速く駆けることができたから。誰にも邪魔されずにまっさらなターフを走る。それだけでサイレンススズカは栄光を手に入れ続けた。
単純明快。だからこそ対策が難しい。爆走かけっこウマ娘を止めるのは非常に困難だった。
「ですが最近は……少し毛色が変わりましたね」
「シコウサクゴ? していマスね」
サイレンススズカは自分でペースを管理するようになった。無鉄砲な走りの面影はあれど、少なくとも以前のような意味不明な走りではない。
「喜ばしい限りです。何も考えずに走ってくるのなら、かなり厳しい戦いになったでしょう」
ですが、とトレーナーは付け加える。わざわざこちら側の流儀に合わせてくれるなら、勝ち目はあると。
「絶対的な速さで言えば、サイレンススズカ君は間違いなく遅くなっています。それでも並大抵のウマ娘より速いですが、タイキシャトル君なら手が届くはずですよ」
トレーナーはいつもの様子で、タイキシャトルを鼓舞する。
「手はず通り、勝負は4コーナーで。君なら勝てると信じています」
◇
肌にまとわりつくような湿った熱さだった。6月の東京は梅雨入りしたこともあり、じめじめとした日が続いている。雨で走れなくなったサイレンススズカは世界に絶望し、やる気が2段階下がった。
そんな状態で迎えた安田記念。直前にヴィクトリアマイルを走ったサイレンススズカからすれば、見慣れた景色である。
静かにゲートに入ったサイレンススズカは、ごく自然に息を整える。肺に吸い込んだ嫌な熱気を全て吐き出すように。
『さあゲートが開いた! 先頭はサイレンススズカ!!』
いつも通り。サイレンススズカはハナを突き進む。それが何度も繰り返されてきた、サイレンススズカの必勝パターン。後に続くように、何名かのウマ娘がバ群から飛び出した。
後方の脚質だろうとお構いなしに、我先にと前を目指す。高速化したレースの中で、脚を緩めることは許されない。ぐんぐんと遠ざかっていく背中を追いかける。
(Wow……やっぱり遠いデスね!)
そして2番手。タイキシャトルがサイレンススズカを追う。冬が終わって春になり、対決の機会を与えられたのは6月のこと。何度もイメージしてきた。1600mで、サイレンススズカを差し切る自分の姿を。
ウマ娘にとって、リベンジの機会を与えられるのは珍しいことである。調整や適正の関係……怪我や引退。同じウマ娘が何度もレースで対決することはそこまで多くない。ましてやGⅠという舞台で、再び戦えることはタイキシャトルにとって幸運だった。
(今日も……勝つ……!)
当然のように勝利を目指すサイレンススズカは、力強くターフを蹴った。体の重さを誤魔化すように決意を込めて。
「やっぱタイキシャトル強えな……」
タイキシャトルは王道を走るウマ娘だ。前寄りの展開から、最後の直線で仕留めきる総合力。メジロドーベルの一件でプリン頭は再確認した。やはりサイレンススズカの敵になるのは、センスを磨き続けた天才なのだろう。
ゲーム的な表現なら、高いレベルでバランスよくまとまったステータス。そして豊富なスキルと、それに裏打ちされた潤沢な加速。世代トップクラスのウマ娘は爆発力と安定感を両立させる。
一方で
(タイキはまだ遠いわね……)
後方を確認したサイレンススズカは、微かに減速した。全体を通して2分にも満たないレースの中では、一瞬の判断が明暗を分ける。
例えば4コーナー手前。勢いよく飛び出してきた亜麻色のウマ娘のように。
(I'm ready!)
勝負に出た。
と、観客全員が察するほどの爆発的な加速だった。最高速度までブチ上げたタイキシャトルは、そのままコーナーへと突っ込んでいく。
ウマ娘にとってコーナリングとは、永遠のテーマである。速く曲がる、という単純な行為には語り尽くせないほどの技術が詰まっている。前提として、時速70キロに近いスピードでカーブを曲がろうとすれば、その肉体には膨大な遠心力が作用する。
外に振れる体を必死に制御して、いかに損失を減らすか。それがコーナリングの妙というものだ。
(HAHAHA!)
普通のウマ娘は速度を落としてコーナーを曲がる。
一流のウマ娘はロスを減らしてコーナーを曲がる。
タイキシャトルは、全力疾走でコーナーを曲がる。
少しのミスで転倒してしまうような。そんなギリギリのバランスを保ったままで、誰よりも速くコーナーを抜け出した。
それはタイキシャトルが冬を越えて手に入れた武器。サイレンススズカを射程内に捉えるために、磨き上げた理外のコーナリング。
『最後の直線だ! タイキシャトル! タイキシャトルが来たッ!!』
サイレンススズカは一度だけ後ろを振り返った。なぜ、と彼女の疑問に答える者は誰もいない。粘っこい空気が脚に絡みつく。そんな形容し難い気持ち悪さが、一瞬だけサイレンススズカの勢いを削いだ。
『並んだ! 並んだか!?』
気づけばタイキシャトルがすぐそこまで迫っている。そんな予想外に対して、サイレンススズカは反射的に後ろを見た。築き上げたリードはもう存在しない。忘れたはずの湿った熱さがこみ上げてくる。
最初から違和感はあった。
息苦しさを振り切るために走ったつもりだった。歯車がズレたような、どこか浮ついた感覚を無視していたのは、他でもない自分の意思だ。
それなら、
最後の直線を駆ける。気づいてしまえば、脚はいつものように動かない。シャットアウトしたはずの雑音が鼓膜を揺らす。いつものような物理的な苦しさではない。自分の感覚が信じられなくなった恐怖が押し寄せる。
『どっちだ!? 僅かに速かったのは──』
◇
「お疲れ様。いいレースだった」
控え室に戻った後、サイレンススズカは浮かない表情だった。焦点の合わない瞳で虚空を見つめていたサイレンススズカは、プリン頭の言葉で再起動した。
「トレーナーさん……」
「それでも、思うところがあったらしいな」
勝ったやつの表情じゃねぇ……。
プリン頭は内心でため息をついた。無論、それを表に出さないだけの分別はあったが。
最後のタイキシャトルとのデッドヒート。ほんの少しの差で勝利したサイレンススズカであったが、レースがあとコンマ一秒でも続いていれば、勝敗は変わっていただろう。少なくともサイレンススズカはそう確信していた。
尻尾をだらりと垂れ下げたまま、どんよりとした表情を浮かべているサイレンススズカ。流石にマズいと思ったプリン頭が声を掛ける。
「少し休んだらウイニングライブだ。準備はいいか?」
「……」
はい、いいえ。どちらも言わなかった。問題はあるが、ライブに出ないわけにはいかない。そんなところだろう。嘘でも笑うように、と指示したプリン頭は、不安そうにサイレンススズカを送り出した。
「…………放置しすぎたか」
ヴィクトリアマイルから予感はあった。走法を変えたサイレンススズカは、最後まで圧倒的な走りを維持している──ように見えた。
実際は目に見えて遅くなっている。タイムではなく、もっと本質的な意味で。そしてあの様子では本人は気づいていなかったのだろう。
指摘しなかったのはプリン頭の判断だ。ウマ娘本人の創意工夫は受け入れるべきであるし、なぜかはわからないが勝利を目指すようになったのであれば、止める理由もない。中途半端な声を掛けて、サイレンススズカの勢いを削ぐことはしたくなかった。
「だが、俺の勘違いじゃなければ、あいつが目指す場所は変わってないはず」
軸がブレている。速さのその先の景色を追い求めるのが、サイレンススズカの原動力だったはずだ。あえて悪い表現をすれば、今のサイレンススズカは勝利に囚われている。その結果として自由な走りは失われた。
「……帰ったらちゃんと話さないとな」