6月下旬。梅雨が明けたこともあって、その日はカラッとした晴天だった。
ファンが待ち望んだ宝塚記念には名だたるメンバーが集まった。サイレンススズカを筆頭に、トゥインクルシリーズを支配するスターウマ娘が揃い踏みだ。
そして筆頭であるサイレンススズカは……レース場の外を走り回っていた。
レース前のウォーミングアップだと解釈すれば理にかなっているが、単純に高ぶる気持ちを抑えられないだけだった。サイレンススズカにとっては珍しいことではない。そんな時はプリン頭も黙って走らせている。
調子は超絶好調。視界はどこまでもクリアで、頬に当たる風が心地良い。今ならきっと速く走れる……そんな確信があった。
「あれは……ステゴ先輩?」
そんなサイレンススズカの研ぎ澄まされた感覚が、レース場の端にいるウマ娘を発見した。小柄な黒髪のウマ娘。特徴的なコートには見覚えがあった。
「お久しぶりです。ステゴ先輩」
「あぁ……スズカか」
ステイゴールド。宝塚記念に出走するウマ娘の一人だ。サイレンススズカにとっては先輩にあたり、旅人気質な自由人。トレセン学園で見かけることは滅多になく、時には海外を放浪していることもある。
「私がいない間に、順調に勝ってるらしいじゃないか」
「そういう先輩は今までどこへ……?」
「いろいろ、だよ。話すつもりはないが」
どこか飄々とした態度は、サイレンススズカが知るステイゴールドだった。秘密主義なところも変わっていない。
「そっちこそ、レース前に走って平気なのか?」
「私、すごく調子がいいんです」
「またそれか。あんたは変わらないな」
調子が悪くても走っているだろう。ステイゴールドの認識はそんなところだった。間違ってはいない。だからこそ、つい口が滑った。
「立ち止まって休んだ方がいいこともある。長旅を続ける秘訣だ」
「えっと……その……」
「まあ、あんたに止まれって言うのは無理な話か」
サイレンススズカは進み続けるウマ娘である。尋常ではないペースでレースに出走し、常に自分を更新し続けている。そんな回遊魚じみた性質は、ステイゴールドもよく知るところであった。
走り続けないと、死ぬ。そういう星の下に生まれてきたのか、サイレンススズカは走ることを止めない。
「
そう言ってステイゴールドは意味深に目を伏せる。ここではない、どこか遠い場所を見るように。
「……悪い夢を見てるんだ。あんたも。あんたのトレーナーも」
それはステイゴールドにしては珍しい、苦々しい表情だった。何重にも重ねた仮面から覗いた、隠すべき本音。
「……ステゴ先輩」
「いや、いい。忘れてくれ。失言だった」
ステイゴールドはすぐに自分の発言を後悔した。レース前だというのに、無難な会話で切り上げられなかったのは自分の落ち度だ。
「その、よくわかりませんが。あの人は……トレーナーさんは、私と同じ夢を見てくれるんです」
普段通りの表情。しかし儚さはいつもより増しているように感じる。
「私は、それがたまらなく嬉しいんですよ」
「……そうか」
サイレンススズカを止める言葉を、ステイゴールドは持ち合わせていない。力なくうなずいた彼女は、ただ黙って遠ざかっていくサイレンススズカの背中を見送った。
「……早いんだよあんたは。いろいろと……」
◇
ファンファーレが鳴る。
トゥインクルシリーズの集大成とも呼べる宝塚記念。例年のようなライバル達がしのぎを削るドリームマッチとは、どこか雰囲気が違う。サイレンススズカというラスボスを倒すために立ち上がった精鋭12名。世間の印象はそんなところだった。
ゲートに入ったエアグルーヴは大きく息を吸い込む。この栄誉ある舞台で全員をねじ伏せて勝つ。そんな決意を秘めてターフの先を見つめる。
メジロドーベルは落ち着いていた。準備は整っている。彼女のトレーナーが完璧な調整を施した。今なら勝てるにゃ! と意気込んでいたのだから、勝算は十分にあるのだろう。部室の神棚はより豪華になっていた。
空を仰いだステイゴールドは、自然に身を委ねる。緊張した筋肉を解き、万全の状態で踏み出せるように。
「やろうか、スズカ」
あるべき流れが、ステイゴールドには見えている。沈黙も黄金も、彼女は一度知っている。しかしそんな記憶を滅茶苦茶にして、新たな旅程を描くのが彼女の流儀。
「ここであんたを止めないと、いよいよマズそうだからな」
三者三様の思いを込めて。狙うのは一着。サイレンススズカを超えること。
『さあ始まった! ハナに立ったのはサイレンススズカ!!』
ただ一つ誤算があったなら、それはサイレンススズカが速すぎたことだろう。じゃあ逃げるから追いかけてね、と言わんばかりの軽い足取りで爆発的な初速を生み出す。今日はサイレンススズカが仕掛ける側だった。
サイレンススズカより遅ければ負ける。戦術で上回っても意味がない。駆け引きすらさせてもらえない。そんな単純で残酷なレースがスタートする。
(覚悟はしてたつもりだった……!)
メジロドーベル気づく。あれ、思ったよりも遠い。
予想よりも二段階ほど速いサイレンススズカを見て、即座にペースを修正する。記憶のサイレンススズカよりも明らかに速い。とにかく速い。
途中で潰れてしまうのではないか。それくらいのペースで駆けている。しかしそれはサイレンススズカにとって通常運転。無茶をするのは慣れっこだった。
(もっと……もっと進める)
楽しい。とてもたのしい。
サイレンススズカはレースを思いっきり楽しんでいた。ペース配分なんて考えたことがない。持ち前のスピードを活かして、勝手気ままに加速し続ける。
自由で、子供のような走り。それが多くのウマ娘とトレーナーが恐れた、サイレンススズカの真骨頂。どれだけの無茶をしようとも、全部踏み倒して走ることができる。
肺が焼けるように痛い。腕の感覚はすでに消えた。視界にはチカチカとノイズが走っている。そんな苦痛を抱えながら、サイレンススズカはさらにギアを上げる。もっと速くなれると確信しているから。
二番手とのリードは10バ身。ここまで離されると、いくら一流のウマ娘でも焦りが勝つ。米粒のように小さくなってしまったサイレンススズカを見ていると、ギシギシと心が締め付けられる。
(それでこそ……それでこそだスズカ!)
エアグルーヴは燃えていた。ただ一人だけサイレンススズカを過小評価していない彼女は、目の前の光景を当然のように受け入れている。スズカなら私の想像など超えるはずだ。そんな無責任な信頼に、サイレンススズカは応えた。
(その上で勝つ! 借りは返すッ!)
今度こそ、勝つ。エアグルーヴは、それはもうメラメラしていた。親友とも呼べるウマ娘と最高峰のレースで競い合う。これほど燃えるシチュエーションはない。
そんな思いを知ってか知らずか、サイレンススズカは悠々と先頭を進む。流れる景色の中で世界の輪郭が曖昧になっていくのを感じながら、自分の世界にどこまでも沈んでいく。
ウマ娘はだいたい二種類に分けられる。サイレンススズカのように、自我の中に潜っていくダウナー系と、闘争心をむき出しにするアッパー系。どちらにも強みがあり欠点がある。エアグルーヴは後者でメジロドーベルは前者。
そして、そのどちらにも分類されない中立のウマ娘も存在する。レースを通して自分を表現する。そんな変わり者が。
(まだここからだろ? スズカ)
サイレンススズカの世界に、黄金が降りかかる。