「初めまして。今日から俺が君のトレーナーになる」
さっそくサイレンススズカを呼び出した。思い立ったが吉日。スズカはすでにクラシック級である。足踏みしている時間はない。
「その……初めまして」
「急なことで困惑していると思うが、安心してくれ。引き継ぎは完璧に済ませてある」
スズカからすれば突然のトレーナー交代だ。スランプに陥っていると思われるスズカにとって、不安の種だろう。このファーストコンタクトは双方にとって大きな意味を持つ。
ふとスズカの様子に目をやる。ピンと立った耳。伸ばした背筋に沿って明るい栗毛が長く伸びている。全体的に線が細く、華奢な印象を受けた。
「君のトレーナーになった以上は、俺は君を勝たせる義務がある。まずは不調の原因だが、こっちはある程度予想がついていて──」
「待ってください、新しいトレーナーさん」
そこでストップをかけたスズカ。
「ええと……前のトレーナーさんは私について何か言っていましたか?」
「『相性が悪かった』。要約するとこんな感じだ。前の担当は君のことを悔いていたよ」
俺は馬鹿正直に答える。先輩から引き継いだ資料は細かな部分までよく作り込まれていて、担当ウマ娘への愛を感じた。これは誇張でもなんでもない。トレーナーであれば担当ウマ娘を死ぬ気で勝たせようとするのは当然のことだ。
先輩は複数のウマ娘を掛け持ちながらも、スズカに対して手を抜くことはなかった。それは引き継ぎ資料を見ればわかる。ではなぜ先輩は苦戦していたのか。それはサイレンススズカというウマ娘が特殊すぎたからだろう。
「俺はバトンを継いだ。先輩の分まで君を勝たせてみせる」
「ええ、はい。そのことで少しご相談があるのですが」
前世の記憶を頼りに考察すると、スズカはバリバリの感覚派ウマ娘だ。独特の感性と哲学。理論と呼ぶにはあまりにも曖昧なそれが、今の彼女を支えている。そして理論を振りかざすトレーナーという生き物とはすこぶる相性が悪い。特に先輩のような自分の型を持っているトレーナーとはウマが合わないのも納得できる。
「私、レースになると足が重くなるんです。気乗りしないというわけではなくて……その、泥を蹴っているような……。トレーナーさんはどう思いますか?」
しれっと致命的なことを言うスズカ。
感覚派……あるいは天然ウマ娘。スズカと対峙する上である程度は覚悟していたことだ。彼女だけの感覚と繊細な感性に向き合うことは、ある種の試練になり得ると。
結論を言うと、スズカの不調の理由はわかっている。それはセオリーであるペース配分が彼女と噛み合わなかったことだ。
レースに出る以上、短距離だろうとペース配分は重要になってくる。例えば人間の場合、全力疾走を維持できる時間は十秒にも満たない。これは無酸素運動の限界であり、スタミナとは違って鍛えてもすぐに限界がくる。オリンピック選手ですら100mを最高速度で最後まで走り抜けることはできないのだ。
ウマ娘は人間よりも高い出力を長時間維持することができるが、それでも限界は存在する。生物である以上はATPの制限から逃げられないからだ。だからウマ娘はあるタイミングでスパートをかける。それまで守っていたペースを崩し、ゴール直前で全力疾走に近い状態に切り替えることは理にかなっている。
「レースの違和感はレースで解消するしかない。少しずつ試していくのがいいと思う」
別にそんなことはないのだが、スズカの場合は足を溜めるという行為が致命的に向いていないだけだ。先輩はスズカに抑えた走りを、半ば先行のような走り方を習得させようとしていた。
逃げは序盤に築いた有利を最後まで守り切る脚質だ。しかし大半の逃げは終盤に差し切られてしまう。あるいは、最後の直線でぷつりと糸が切れたように減速し、そのままバ群に呑み込まれていくか。
これを防ぐにはこちらも余力を残すしかない。幸いにも逃げはレースのペースを支配できる脚質だ。『スピードを制御した計画的な走り』。先輩はスズカにそれを身につけさせようとした。
まあ、その作戦がスズカと死ぬほど噛み合わなかったんだがな!
……と、ここまでが俺の考察だ。スズカの育成ストーリーもこんな感じの内容だったので、大きくは外れていないはず。
「まずは次回のレース。差し当たって『大逃げ』でいこうか」
◇
小倉記念。福岡県北九州市の小倉レース場で開催されるGⅢレースがスズカの復帰戦になる。2000mの右回りで適正は文句なし。だが前のレースから期間が空いているので、試合勘が鈍っている可能性がある。
「ト、トレーナーさん。本当に大丈夫かしら……」
福岡まで来ておいて弱音を吐くスズカ。トレーナー交代から間もない時間で、本人もスランプから抜け出す糸口が掴めていない状態だ。不安に感じるのも無理はない。
「言ったとおりに走れば問題ない。それに、このレースはあくまで調整用だ」
「仮にも重賞ですよ……?」
「言ったとおりに走れば問題ない」
「うそでしょ……」
スズカとは対照的に俺は気が楽だった。だって諸々の問題は、スズカが爆逃げすることで解決するから。スズカがレースで感じる違和感も、イマイチ乗り切れていない不調も、彼女が吹っ切れて走ることで消し飛ぶことになる。少なくとも育成ストーリーではそうだった。
「最後にもう一度だけ作戦を確認しよう」
「はい。ええと、スタートからハナを取って、そのまま怪我しない程度に全力で走る。ですよね」
「そうだ。ペースのことは考えなくていい。後続との距離も無視してくれ」
「うそでしょ……」
本当だ。今のスズカにはこれくらい極端な指示の方が効果があるだろう。このレースを通して本人の意識に深く刷り込まなければならない。「私は何も考えずに爆走した方が速いのだ」と。
最後まで不安そうにこちらを振り返るスズカを見送ると、俺はのんびり客席で観覧する。負けてもいいが、たぶん勝つだろう。それくらいに考えている。アプリ版のウマ娘ではGⅢくらい勝っても当然という感覚があるが、現実はそうはいかない。目覚まし時計がないように、レースに絶対は存在しない。
「それでも、スズカは自分の走りを見つけられるはずだ」
だからまあ、大丈夫だろ。