サイレンススズカは長く続いた入院生活で絶不調に陥っていた。閉鎖的な環境によるストレス。走れないという状況は想像以上にダメージを与える。自分のアイデンティティがガリガリと削られていくのを、ただ見送るしかない。
病室に備え付けられたテレビを見るのはやめた。ニュースを見れば必ず自分の報道が目に入る。昼のワイドショーで、専門家のような人物がプリン頭を厳しく非難していたのを見てから、何も見たくなくなった。
そうやってじわじわと蓄積した心労は、サイレンススズカの心を蝕んでいる。
(このまま……溶けて消えてしまいそう……)
憂鬱。とても憂鬱だ。時たまお見舞いに来てくれる友人達の前だけでは、笑うことができた。いや、無理に笑おうとしているのか。もはやサイレンススズカには判断がつかない。
そしてプリン頭とは一度も会っていない。簡単なメッセージのやり取りのみで、無難な報告を繰り返すだけの日々。プリン頭との間に一種の気まずさのようなものを感じていたサイレンススズカは、そんな状況を消極的ながら歓迎していた。
自分の無茶──というか冒険心がなければ、少なくとも故障はなかった。いつも通りにレースに勝って、次のレースに思いを馳せていたはずである。やはりバツが悪い。
(それでも会えないのは……少し寂しい……)
帰りたいと思った。トレセン学園に。あの部室に。そんなささやかな願いが成就して、サイレンススズカはトレセン学園に帰還することになったのだ。
◇
プリン頭が謹慎を命じられたことで、図らずとも数年ぶりにまとまった休養を手に入れた。普段は仕事をしない時間が12時間以上続いた記憶はないので、これは驚くべきことである。
とはいえ家に帰る気にもなれないので、部室でぼんやりと過ごしている。反射的にパソコンを開いたが、彼の抱える仕事はない。ネットニュースに目を通しても、ウマ娘関連だと真っ先にサイレンススズカの名前が挙がる。
「サイレンススズカのトレーナーさん、いますか?」
ノックもなしに部室のドアが開かれた。現れたのは黒髪の若い女性。いつぞやのメジロドーベルのトレーナーである。
「クソプリンさん。何ですかあのざまは」
「え、急に何」
「サイレンススズカがジャパンカップに出ないなんて冗談ではありませんよ。
突然現れたドベトレはプリン頭を捲し立てる。丁寧な口調の中にはっきりとした怒りを滲ませながら。そして何より、自分の担当ウマ娘であるメジロドーベルが、ずっと憂鬱な表情をしている元凶が許せなかった。
そんなドベトレにプリン頭もタメ語で応じた。不穏な空気を感じながら。
「あー、本当に申し訳ない。スズカの件は俺の責任だ」
「トレーナー、辞めるつもりですか」
「え?」
プリン頭の処遇はまだ決まっていない。URAから調査の手が入り、プリン頭も何度か聴き取りに応じている。それでもプリン頭へのペナルティに関しては、秋川理事長の頑張り次第といったところ。
尤も、ウマ娘競技界の元締めであるURAに対して、中央トレセン学園の理事長としての権力がどれくらい作用するかは未知数であるが。
「ではサイレンススズカの担当は?」
「……辞めるべきだ」
間髪入れずに踏み込んだドベトレに対して、プリン頭は言葉を濁した。
「俺がこのままスズカのトレーナーを続けるなら、ファンは不信感を抱く。……スズカのイメージが落ちることは避けたい」
「彼女はそこまで気にするような性格ではないと思いますが」
「俺が耐えられない。この期に及んで、俺がスズカの足を引っ張るようなことをしたくないんだよ」
その気持ちはドベトレも痛いほどわかる。それでも彼女はプリン頭を説得するためにここに来た。自分なら耐えきれないだろう、と思いながら。
「あの故障……私は貴方に害意があったとは思いませんよ」
「……そうか」
「重いペナルティが科せられることもないでしょう」
それは、プリン頭も薄々感じていた。そもそも証拠がない。学園にはレース毎の精密検査の記録が残っているし、壊れる前のスズカの脚の状態は、そこからしか判断できない。後は過密なローテを組んでいた、という状況証拠だけ。
「たしかに、俺が厳しく罰せられることはないと思う」
「ではいいのでは?」
「暴論だろ、それは」
自罰的だな……とドベトレは目を細める。トレーナーとして責任感を持つのは悪くない。しかし、トレーナーを続けていれば突発的な事故とは何度も遭遇する。そんな時に悲劇を乗り越える力も必要なのだ。
「……別に擁護したいわけじゃないですよ。必要以上に気に病むことはないと思いますが」
あれは事故だった。そんな自身の判断に、ドベトレは絶対の自信を持っていた。少なくとも彼女の周囲では似たような意見ばかりだ。
「故障の原因も、わかっているのでしょう?」
スピードの向こう側。
プリン頭はその言葉をずっと考えていた。サイレンススズカの夢であり、秋天で至ったレースの極致のようなものだ。サイレンススズカが最終直線に入った時、プリン頭もまた、音のない世界の幻覚を共有していた。
世界の輪郭に少し触れた程度だが、それでもわかる。アレはよくないものだ。プリン頭のトレーナーとしての勘が警鐘を鳴らしている。
「たぶん、あれは……」
その正体はサイレンススズカ本人にしかわからない。ただ、プリン頭はここ数日でソレに対する解釈を深めつつあった。
スピードの向こう側に至るには、尋常ではない速度が必要だろう。サイレンススズカですら一瞬で限界を迎え、その代償に骨折する程度には。普段は160km/hを投げる野球選手が、突然180km/hを投げたようなものだ。壊れて当然である。
そしてサイレンススズカは一瞬だけ、ウマ娘が到達するはずのない速度までたどり着いた。それは技術でもフィジカルでもなく、生物としての根本的な限界。人間が100mを8秒台で走れないように、180km/hのボールを投げられないように。
「『スピードの向こう側』の正体はそれだ」
ウマ娘という種族の限界。越えられるはずのない壁に対して、サイレンススズカは挑んでいたのだ。
「夏合宿でサイレンススズカと話したときは理解できませんでしたが……貴方の解説と合わせれば、なんとなく理解できるつもりです」
「あくまで現象から逆算しただけだから、本人に聞けばまた違った答えが返ってくると思うが」
にわかには信じがたい話だが、現実で起きた以上は納得しなければならない。
物理的に不可能な走り。それを可能にするのは常軌を逸した精神性。強制的にリミッターを外すことで上限値を引き上げる離れ業だ。
サイレンススズカはよく言っていた。スピードに乗ると音が消える、痛みが消える、感覚が消える、と。五感を捨てるのは覚醒の前準備だった。
そう考えればサイレンススズカのあの走りにも合点がいく。毎回のレースで無茶な加速を繰り返していたのは、段階的にスピードの上限値を引き上げると同時に、身体をその無茶に慣れさせるためだ。
「恐ろしい話ですが、ある意味当然と言えるでしょう。トレーナーの存在は、ウマ娘にとってあまりにも大きい」
ただし、そんな無茶は長くは続かない。仮に続いたとしても、スピードの向こう側に至るのは不可能に近いだろう。それだけでは圧倒的に足りない。ウマ娘に立ちはだかる速度限界の壁は、身を削った程度で破れるわけがない。
「貴方が最後のピースでしたか」
プリン頭は心血を注いでサイレンススズカを強化し、何度も覚醒を促してきた。伸び悩んでいたサイレンススズカを15連勝させたのはプリン頭の功罪である。
「……気の毒には思いますよ。仮に秋天を越え、ジャパンカップを越え、有馬を越えたとしても。いずれサイレンススズカは同じ結末を辿っていたでしょう」
あくまでも私の認識ですが、と付け加える。そしてその言葉が正しいことをプリン頭も感覚的にわかっていた。
「そうだな。ずっと前から、俺達は詰んでいた。気づかないうちに」
プリン頭は思わず苦笑いをこぼす。言っている内容はこの上なく正論だ。プリン頭の思考の霧を晴らすように、その言葉がしみ込んでいく。
「私も故障が起こるまでは何も気づかなかった。これは私のミスです。しかし貴方なら再び立ち上がってサイレンススズカと──」
「契約は解除するつもりだ」
プリン頭ははっきりと告げた。
「俺とスズカは、最初から出会わない方がよかった」
今さらになって、プリン頭は気づいたのだ。
表面上は上手くいっているように見えた。輝かしい栄光の裏も積み上げた勝利も、地獄への道中にすぎなかったのだ。いずれサイレンススズカはスピードの向こう側へたどり着く。あとは早いか遅いかの違いだった。
「レースは2ヶ月に一度。何度か重賞を勝って満足して引退する。それなりに幸福なウマ娘にはなれたはずだ」
それはあり得たはずの未来の一つ。プリン頭が関わらなければ、ぬるま湯に浸かるような幸せのまま、笑顔で終えることができただろう。プリン頭である必要がない。むしろ、彼の存在は都合が悪い。
「私は、貴方達が得た栄光までを否定するつもりはありません」
「それは俺も同じだ。ただ、もっといい終わり方があったかもしれない」
夢の景色を知ったサイレンススズカは、そこが地獄であると知った。他のウマ娘が空を飛んでいる中で、彼女は一人だけ宇宙を目指し、空の果てから叩き落とされたのだ。再び立ち上がることができないほどの傷を与えられて。
「わかるか? スズカはこれから二度と本気で走ることができない」
絞り出したそれは、プリン頭の悲鳴のようなものだった。
「俺が枷を与えたんだ。一生外すことのできない、最悪の呪いを」
サイレンススズカが次で壊れない保証はない。あの誰よりも自由なウマ娘から、その自由を奪ってしまった。その事実にどうしても耐えられない。
そこでドベトレはバツが悪そうな顔になった。
「貴方は……ウマ娘の気持ちを
ウマ娘と同じ視点を持つのは問題ない。同じイメージを共有し、寄り添えるようなトレーナーは貴重だ。しかし、トレーナーはウマ娘の命綱になるべきで、決して共に飛び降りる存在ではない。
「……すみません。たらればを言ったのは私の八つ当たりのようなものです。ですがサイレンススズカは貴方との契約を望んでいると聞きました。貴方の慕う先輩から」
残念ながら応えられない、とプリン頭は首を横に振った。
「ここで彼女を手放すと? それこそ愚かだと思いますが」
「黙れよ。だいたいあんたは何なんだ。人の失敗を丁寧に言語化しやがって」
正論をズバズバと突きつけてくるドベトレは、プリン頭の傷口に塩を塗り込んだ。荒くなった語気に対して一瞬ビクっとなったドベトレも負けじと言い返す。
「私は、もう一度貴方達のコンビが見たいと思って……」
「余計なお世話だわクソガキが! 俺は今機嫌が悪いんだよ!」
プリン頭は普通にキレていた。
「そ、そこまで怒れるならなぜ! 私は! 貴方のことをもっと覚悟がある人間だと思っていましたよ!」
「あるよ覚悟! 舐めんな!」
ドベトレの誤算はたった一つ。プリン頭が想像以上にヤベーやつだったということ。
「俺が何のためにトレーナーやってると思ってるんだよ! スズカの望みを叶えるためだよ!」
そのためなら何だってやった。私生活を削って仕事を続け、全ての時間をサイレンススズカに捧げる。土日は全国を飛び回り、勝っても次のレースが待っている。そんな地獄のようなサイクルの中で、プリン頭はサイレンススズカを勝たせ続けた。
「アホみたいなローテ組んで散々周りから言われて! ネットでもボロクソ書かれてんだぞ! ウマ娘からは遠巻きに見られるし、未だに同期からは距離置かれてるよ!」
好感度はドブに捨てた。そっちの方がサイレンススズカが速くなれると思ったから。
「あいつが勝つためならそれくらいやるさ! 他のウマ娘に嫌われてもいい! こっちはハナからスズカとの未来以外は考えてねーんだよ!!」
「にゃ゛!? ちょ、顔近……」
プリン頭がドベトレに詰め寄る。
「秋天の後も散々言われたよ! 黙れよ素人! こっちは二人分の人生懸かってるんだ! 浅っさい判断で出走させたわけねーだろ! それでも乗り越えられると思ったんだよ! 俺のスズカならいけると信じてたんだよ!!」
もうヤケクソだった。怒りの矛先は明後日の方向へ向かっていった。同僚のトレーナーから言われた嫌味は数知れず、ここぞとばかりに手のひらを返してきたトレーナー達の顔を、全て覚えている。
「俺は道化だよ! ここまでやって、俺の努力は一人のウマ娘を破滅させただけだ! そうとも知らずに必死になってた俺はマヌケなトレーナーだよ!」
「そ、そこまでは言ってにゃい……」
プリン頭は道化だった。愚直に破滅へと突き進むマヌケだった。
「それでもまだあいつと一緒にいたいんだよ! 1年だ。たった1年でお別れとか納得できるわけねぇだろクソが! その1年が俺にとっての全部なんだよ!」
「わ、わかったから落ち着いて……」
プリン頭が初めてウマ娘を担当してから1年。数え切れない勝利も記録も、たった一人のウマ娘と積み上げたものだ。
「今さら手放せるわけない。俺のような凡人が栄光を掴めるくらいには強くて、清々しいくらい真っ直ぐなウマ娘なんだ。俺のスズカは最強なんだよ! 俺がどんな思いで……契約を解除するって言ったか……!」
今サイレンススズカを手放せば、少なくとも向こう十年は引きずる。毎晩のように思い出しては、胸の奥が締め付けられるだろう。それくらい綺麗でカッコいいウマ娘なのだ。わざわざ口に出して伝えたことはないが。
「俺の覚悟舐めんじゃねええ!!!」
「うにゃあ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
ほとんど叫ぶように言い放つ。この時だけは、プリン頭は目の前で悲鳴を上げているトレーナーが先輩だということを忘れていた。
「はぁ……はぁ……。スズカが幸せなら、俺はそれでいいんだよ。でも失敗した。スズカの幸せを奪ったんだよ。こんな俺があいつの隣にいる資格なんて──」
──その時、こんこんと部室のドアが叩かれた。こんな状況でもノックしてしまうのは彼女が律儀だからか、ただ天然なだけなのか。栗毛のウマ娘は自分で車椅子を押しながら、ゆっくりと部室に入ってくる。
「トレーナーさん。私にもその話、聞かせてください」
なんて古典的な──とプリン頭は思った。ウマ娘の聴力は人間のそれを遙かに凌ぐ。ドア越しに会話を盗み聞くことくらい容易い。
「…………どこから聞いていた?」
「私の故障の原因あたりから……」
ほぼ全てじゃねーか。プリン頭は思わず天を仰いだ。
「な、なぁ。スズカ……」
「はい。あなたのスズカですよ」
プリン頭は自分の顔が引きつるのを自覚していた。何か……相当マズいことを口走っていた気がする。それでも目の前の、満面の笑みを浮かべるサイレンススズカからは逃げられそうにない。