サイレンススズカにとって、トレーナー交代は寝耳に水だった。たしかに前のトレーナーとは相性が悪かったかもしれない。しかし彼女はスズカを尊重していたし、レースに勝てるように苦心していた。その行為が無駄であったとは、サイレンススズカは思わない。
しかし新たなトレーナーを見ると思うのだ。自分はこの人とやっていけるのだろうか、と。
新たなトレーナーに出会ったとき、彼の第一印象はその外見に引っ張られていた。ヤンキー、チンピラ、その辺だろうか。地毛に戻りつつある金髪は見事なプリン頭になっている。少なくともサイレンススズカが見たことのないタイプのトレーナーだった。
中央のトレーナーはどこかエリート気質で、家柄に恵まれている者が多い。しかし彼の纏う雰囲気は真逆で、トレーナーの中では浮いていると言える。
変わり者。それがサイレンススズカがトレーナーに下した評価だった。悪い意味ばかりではない。少しの警戒心と淡い期待を持って、スズカは新たなトレーナーを歓迎していた。
やがてファンファーレが鳴る。ゲートに入ったサイレンススズカは、直前まで不安を拭うことができなかった。トレーナーから授けられたのは大雑把な作戦だけ。それもペースを無視して走れという意味不明なものだった。
(なにか狙いがあるのかしら)
サイレンススズカにはそれが見当もつかない。少なくとも前のトレーナーの方針とは真っ向から対立している。
サイレンススズカは考えることをやめた。難しい戦術や駆け引きは自分の性に合わない。それに、レースはすぐ始まってしまうのだから。
ゲートが開く。
飛び出したサイレンススズカは作戦通りにハナを取った。このレースには自分以外の逃げウマはいないと聞いている。あっさりと先頭に立つことができたサイレンススズカは、そのままグングンと加速していく。
前のトレーナーは言った。最初から飛ばしすぎるな、と。
今のトレーナーは言った。最初から全力で突き進め、と。
逃げウマとしてのセオリーは、前者だ。ハナを取ることは重要で、他の逃げウマと競り合うのはいい。だが脚を残さなければレースには勝てない。
しかし今のサイレンススズカに余力を残すという考えはない。浅い呼吸を繰り返し、後先も考えずにギアを上げる。後続を突き放してその差を伸ばし続ける。
(不思議ね……脚が軽い……!)
ペースを無視して無茶な走りをしている。それなのにサイレンススズカの脚はいつも以上に軽い。愚直なほどに前へと突き進むことを、楽しいと感じてしまう。そのことに気づいた瞬間、わずかに残っていた迷いは完全に消えた。
楽しい。
レース中にそう感じたのは久しぶりだ。何も考えなくていい。脚を溜めるなんて、
「えげつねー。単騎逃げだとこうなるのか。まあ、吹っ切れたみたいだな」
二番手とは目算でも40m以上の距離が開いている。指示した本人はその光景をドン引きしながら見ていた。いずれ失速するだろうが、それでもこの走りは圧倒的だ。荒削りなスタミナ、拙いコーナリング、伸び代はいくらでもある。
やがてレースは最後の直線に入る。先頭をキープし続けたサイレンススズカの消耗は激しい。序盤から一度も緩めないハイペースで大逃げを敢行したことで、スタミナは底をついている。
(流石に苦しいわね……)
視界にノイズが走り、体は酸欠を訴えている。脚は鉛のように重い。しかし思考はどこまでもクリアだった。走れば走るほど研ぎ澄まされていく感覚に一片の曇りもない。それはサイレンススズカにとって新鮮な体験だった。とっくに限界を迎えているはずなのに、まだ速くなれる気がする、と。
サイレンススズカはそこで思考を打ち切った。それすらも速さに変えて、ひたすらに突き進む。
事実として、サイレンススズカは最終直線で減速している。減速しているが、それを感じさせない妙な凄みがあった。
すでに後方の集団のことは頭から抜けていた。これだけの距離が離れてしまえば、サイレンススズカに干渉することは不可能である。影すら踏ませない圧倒的な走り。逃げウマの理想を体現したような走りに、観客達は息を呑んだ。
『サイレンススズカ圧勝ッ!! 最後まで逃げ切りました!!!』
7バ身差。復帰戦で鮮烈な記録を残したサイレンススズカは、レースが終わった後もぼんやりとした表情でターフを歩いていた。客に手を振ることも忘れ、魂の抜けたような状態でターフを彷徨う。
「今日の走りはどうだった? 何か掴んだようだったが」
サイレンススズカが再起動したのは、レースが終わってトレーナーに話しかけられたところである。ウイニングライブ中も心ここにあらずといった様子で、それでもそれなりのパフォーマンスを発揮したのは、単にサイレンススズカがライブ巧者なのだろう。
「楽しかった。楽しかったわ……」
ほとんど独り言のように話すサイレンススズカ。自分の感覚を少しずつ言葉にするように、サイレンススズカはレースを思い起こす。
「音が、消えたんです。その次に芝の感触が。レースなのに、まるで私だけが走っているように感じました」
思案するような口調とは裏腹に忙しなく揺れ動く尻尾。サイレンススズカなりにテンションが上がっているのだとわかる。サイレンススズカは高揚していた。レース中に見た澄み切った景色。雑音は消え失せ、世界でひとりぼっちになった感覚。そんな美しい世界の余韻を感じながら。
「最後には視界も何も閉ざされて。でも走っている感覚だけはありました」
「なるほど(?)」
抽象的な、おそらく本人にしかわからない感覚があるのだろう。決して言語化が苦手なのではなく、限りなく近い言葉に訳した結果がコレなのだ。無理に言葉に落とし込むと違和感が生じてしまう。そんな先鋭化された感覚こそが、サイレンススズカの強さの根幹である。
「私、もう一度あの感覚を味わいたいです。どうすればいいですか?」
「もう一度レースに出る」
トレーナーは当たり前のことを言った。彼にはスズカの言っていることが半分も理解できなかった。走行中のウマ娘の感覚など、ウマ娘にしかわからない。特にサイレンススズカのような独特な感性の持ち主なら、共感することは不可能である。
「調子がいいなら早くレースに出て、その走り方をモノにした方がいい。来週もレースに出てもらう」
「はい……! 私、今ならもっと速く走れそうです」
「再来週もレース。その次もレースだ」
「うそでしょ……」