秋の天皇賞。東京で行われる2000mのレースだ。東京開催ということもあって、長距離移動がないのは地味に助かる。
俺の育成方針はメイクラシナリオを元にしている。つまり、出られるGⅠレースは基本的に全て出走するということだ。距離2000mはスズカにとってベストな距離であり、前のレースから十分に期間を空けたことでコンディションも万全。むしろ走りたくてうずうずしているくらいだ。
スズカは基本的に練習で走らない。走らせない。それは本人の負担を考慮したものであり、あとスズカがプライベートで勝手に走ることで釣り合いがとれているからだ。今のスズカは満足に走れていないことでフラストレーションが溜まっている状態である。普通のウマ娘ならこうはならないが、スズカは走行中毒者なのだから。
「トレーナーさん。私はどう走ればいいですか?」
「いつも通りだ」
控え室から出る直前、スズカは一度だけ振り返って俺の指示を仰ぐ。ルーティンのようなものだ。それまでに散々打ち合わせはしているが、スズカは最後のダメ押しを求める。逃げ切っていいのか。最初から全開で走ってもいいのか。期待を込めた瞳を俺に向ける。
「スタートからハナを取って、そのまま突き進め」
俺の仕事は、そんなスズカを力強く肯定すること。するとスズカは、許可が出たと言わんばかりにふわりと微笑む。
俺は会話の合間にそれとなくスズカのコンディションをチェック。GⅠレースの直前だというのに、当の本人はリラックスした様子だ。ガチガチに緊張するわけでもなく、レースに向けて闘志を滾らせるわけでもなく、無邪気にレースを楽しみにしている。
俺ですらちょこっと緊張しているのに、スズカは調子が良さそうに尻尾を揺らしているのだから恐れ入る。スズカは繊細なようで図太くて、やっぱり繊細なウマ娘だ。今は目の前のレースが楽しみすぎて緊張とか忘れてる感じかな。
スズカと別れた俺は、観客席からレースの様子を見守ることにした。ここまでくると俺にできることは何もないので、逆に気楽なものだ。GⅠとはいえネームドはエアグルーヴくらいで、スズカが負ける可能性は低い……とは言い切れない。バブルガムフェローを始めとする強豪が、スズカの前に立ちはだかるだろう。
◇
ファンファーレが鳴り響く。
ゲートに入ってからの勝負は一瞬。わずか3分足らずのために、ウマ娘達は数ヶ月の調整を経てここにいる。たった一人を除いて。
『6番サイレンススズカ! 先行争いから悠々と抜け出しました!』
2番人気はサイレンススズカ。重賞3連勝と流れに乗っているウマ娘である。中でも大逃げでの大差勝ちのインパクトは凄まじく、話題性だけなら一番人気のエアグルーヴすらも上回る。
そして注目されていたのはサイレンススズカの作戦だ。大逃げはロマン脚質というイメージが強く、目の前のレースに勝つための奇策として用いられることもある。そのため大逃げが常態的に戦術に組み込まれるのは珍しいことだった。
(走ってきた……!)
それがウマ娘達の内心だった。サイレンススズカが大逃げに転向したのはごく最近。データが少ないこともあって、他のトレーナー達はサイレンススズカの動きを読み切ることができない。単なる逃げなのか、大逃げなのか、どちらにも対応できるように戦術を仕込んである。
しかしこれではっきりした。サイレンススズカは大逃げで勝つつもりなのだと。それに合わせて、ウマ娘達はそれぞれのレースを思い描く。最後には自分が一着でゴールする、そんな確固たるイメージを持って。
そんなことが起こっているとはつゆ知らず。サイレンススズカはのびのびと先頭を進む。ぽつりと孤立している彼女に、駆け引きの類いは必要ない。ハナを奪って進み続ける、という作戦とも呼べないような何かを担いで、ぐんぐんと加速していった。
(まだ余裕はある……)
そう気づいたそばから加速する。3連勝を経たサイレンススズカは、笑ってしまうほどに絶好調だった。前へと進む脚は止まらない。コーナリングは驚くほどスムーズで、多少の高低差など平然と乗り越える強さがあった。
普通のウマ娘であれば、最後にレースに出たのは一ヶ月前くらいだろう。これは疲労を抜きつつもレース勘を絶やさない理想的な間隔である。中には三ヶ月ぶりにレースに出走した、故障明けのウマ娘もいる。
一方でサイレンススズカは、短期間でレースに出走し続けたことで、ちょっとした覚醒を果たした。感覚派ウマ娘であるサイレンススズカは、その感覚をレースを通して研ぎ澄ますことに成功した。
観客の喧噪。ターフの跳ね返り。顔に当たる風の強さ。
サイレンススズカはそんな些細なレースのピースを、他のウマ娘よりも多く所持している。故にサイレンススズカは迷わない。一人だけレースの展開から外れても、己の走りを信じて突き進むことができた。
(何を考えているんだあのたわけ……!?)
しかし他のウマ娘にとって、サイレンススズカの行為は意味不明に見えた。序盤から快調に飛ばしたかと思えば、当然のように差を広げていく。その後も気まぐれにしか思えない加速を繰り返し、みるみるうちに差は開いていった。
選択を迫られるのは好位につけたウマ娘達である。本来は逃げウマを射程圏内に入れながら走る彼女らは、目の前の光景にただただ困惑していた。50m近いリードは、実際に走っていると余計に長く見える。狂気すらも感じるサイレンススズカの走りに、先頭集団は選択を迫られていた。
ペースを保って機を窺うか、サイレンススズカを追いかけるのか。
エアグルーヴは後者を選んだ。最後にサイレンススズカを差し切るために、じわじわと加速していく。サイレンススズカを射程内に収めながら、自分はギリギリまで差し切るための脚を溜める。聞くだけで目眩がするような難易度だが、エアグルーヴが臆することはない。
他にも何名かが抜け出し、縦に大きく広がった展開。観客席のプリン頭は、それを俯瞰しながら呟いた。
「まあ、そうなるわな」
ハイペースの逃げが牽引するようなレースでは、必然的にバ群が縦に伸びる。サイレンススズカにとっては悪くない展開だ。しかしプリン頭は慢心せずに、じっとレースを睨み付ける。
「エアグルーヴ……仕掛けてないか……?」
先頭集団から抜け出し、徐々にサイレンススズカに迫ってきている。データにない動きだ。他のウマ娘は忘れて、サイレンススズカを差し切るための動き。他のウマ娘も似たような動きを見せている。自分のペースを崩してまで、サイレンススズカを引きずり下ろそうと必死なのだ。完全に脅威として認定された。
無理もない、とプリン頭は思う。あのリードを放置できるウマ娘はいない。中盤を過ぎても埋まらない大差。じわじわとこみ上げる焦燥感に耐えることはできないだろう。
一人の爆走ウマ娘によって、レースの型は完全に崩れた。駆け引きを経て抜け出すような王道の展開ではなく、もっと原始的なかけっこが始まる。バ群は限界まで引き延ばされ、誰もが先頭を狙って走り出した。単純な
(まだ、こんなにも遠い……!)
エアグルーヴは自分の目が信じられなかった。二番手を突き進む彼女を以てしても、その差は埋まらない。あり得ないだろう、とエアグルーヴは独白する。序盤から快調に飛ばし、中盤も加速を繰り返した。そんな無茶な走りが、終盤になっても続いている。若干減速したような気もするが、サイレンススズカが放つ存在感は大きくなる一方だ。
無視できない負荷だろう。肺が焼き切れてしまうだろう。サイレンススズカが苦痛を呑み込みながら走っているのを、エアグルーヴはその後ろ姿から察していた。それと同時に、腑に落ちた感覚があった。彼女らしい不器用な走りから、はっきりとした喜色が伝わってくるのだから。
サイレンススズカは走るという行為が好きだ。そのことは痛いほど理解しているつもりだった。
しかし誰が予想できたのだろうか。GⅠという舞台で、夢見心地で走っている。はやる気持ちが抑えきれない、という理由で爆逃げをかましているウマ娘の存在を。
(まだ足りない……)
急造のロングスパートは悪くなかった。スタミナの管理も、最後の末脚も完璧なバランスだった。しかし、それだけではサイレンススズカに届かない。
そこでエアグルーヴは思考を打ち切った。最後の直線。考えるよりも先に脚を回す。足りない分は補えばいい。全力を振り絞るエアグルーヴが追い上げるが、サイレンススズカはリードを守り切った。
2バ身差。
終わってみればサイレンススズカが圧倒したレースだった。