ミカとカズサがパン屋でアルバイトをするお話 作:空を飛ぶジンベエザメ
「あちゃー...まな板じゃ大きさ足りなかったか...」
自宅のキッチン。バイト先のそれよりも何倍も狭い作業スペースで、カズサは困った顔で打ち粉で白くなった指先を咥える。彼女の前には、小さなまな板の上に置かれた、先日スーパーで買ってきた冷凍のパイシート。ボウルで材料を混ぜる必要も、その時に入れる大量のバターに対して罪悪感を覚えることも無い、解凍するだけで使える優れものだ。ただ一つ想定外だったのは、シートと一緒に買った麺棒でそれを伸ばすには、家に元々あったまな板が小さすぎるということだった。
「やっぱケチらずに捏ね板も買っときゃよかった...。このままやっても綺麗に伸ばせないだろうし......よし!今回は仕方ない!」
カズサはまな板を片手で1度退かすと、シンクに置いておいた小麦粉の袋にもう片方の手を突っ込み、掴んだ粉を台所に直接ばらまいた。そしてその上にシートを移すと、まいた粉を打ち粉にして生地を伸ばし始めた。後の掃除が恐ろしく面倒になるだろうが、今から作ろうとしているものは、これからやって来るお客さん達に振る舞うもの。自分自身が料理に不慣れなこともあって、調理の工程に妥協はできなかった。
生地を伸ばし終えたカズサは、用意していた丸い耐熱皿に生地をそっと被せる。皿からはみ出た端の生地は包丁で切り取って1つに纏め、まな板の上に戻した。
「結構綺麗に出来たんじゃない!?そしたらこれに...」
カズサは皿に敷いたパイ生地の上に、予め作っておいたリンゴのコンポートを流し込む。仕事でもう何回も作っているから、このコンポートの味は間違いない。あとはこれを、焦がさないように焼くだけ...
残った生地を再度伸ばした後に細く切り、それをコンポートの上に網目状に乗せ、艶出し卵を全体に薄く塗る。そして最後に、いつも使っているトースターに耐熱皿を慎重に入れ、ツマミを回した。
「うん、一人でもできた!やるじゃん私!」
まだ焼き始めたばかりのパイをガラス越しに覗き込んで、カズサは満足げに鼻を鳴らした。その時、「ピンポーン」とインターホンが鳴る。
「あ、もう来たんだ。はーい!」
玄関を開けると、私服姿のいつもの三人が、ニコニコ顔で立っていた。
「カズサちゃんこんにちは!今日は誘ってくれてありがとね!カズサちゃんの手作りお菓子、すっごい楽しみ!」
「誰かの手作りスイーツなんて食べるの久しぶりだから、私もお腹空かせて来ちゃったわ!」
「ふむ、この匂いは...アップルパイだね?あのカズサがこの一週間でそんなものを作れるまでに成長するなんて、驚きだよ」
仲間達から期待の眼差しを向けられ、カズサは誇らしさと気恥ずかしさが混じった、何とも言えない気持ちになった。
「ま、まぁ、お店でいつも作ってるのをそのまま真似しただけだから、大したことじゃないよ!もうすぐ焼き上がるから、上がって上がって!」
居間に上がって数分後、三人の前にバニラアイスを乗せた熱々のアップルパイが運ばれてきた。
『うわぁ、美味しそう!!!』
カズサ渾身のパイを見て、三人は歓声を上げた。
「カズサちゃん凄いよ!お店で作ったやつをそのまま出しましたって言われても、私信じちゃう自信ある!」
「...見事」
「これ本当にタダで食べて良いの!?」
仲間達からの褒め殺しに、カズサは頬が熱くなるのを感じた。
「当たり前じゃん!友達からお金なんて取らないって!あ、でも食べるのちょっと待って...!」
フォークを配り終えたカズサは今にもパイに飛びつきそうな三人に待ったをかけると、一度台所に戻り、真新しいティーポットを持って戻って来た。ティーカップの中にちょこんと入った黒猫が中心に描かれた透明のポットの中には、濃いオレンジ色の紅茶が満たされている。
「それ、紅茶...?」
「そ。甘いパイには丁度良いかなって」
皆で囲うテーブルの中心にポットを置いたカズサは再び台所に戻り、今度は人数分のマグカップを持ってきた。本当ならティーカップのほうがオシャレだろうけど、このメンバーで使うならマグカップのほうが「らしい」と思って、カズサは敢えて用意しなかった。
「お待たせ!さ、食べてみて!」
淹れたばかりのアールグレイを注ぎ終えたカズサは、三人に食べるよう促した。それを合図に『いただきますッ!』と、三人は早速フォークを手に取る。見た目は文句なしだが、味の方は果たして...
「美味しいッ!」
目をキラキラさせて、頬に手を当てるアイリ。
「熱々のパイに冷たいバニラアイスが良いアクセントね!とっても美味しいわ、カズサ!」
そう言ったヨシミは、既に溶けかかったアイスを器用にパイに絡ませて、次々に口に運ぶ。
「歯の上を弾むパイ生地、舌を甘く撫でる黄金のコンポート...。サクサクとトロトロという相反する食感を見事なバランスで共存させ、更にその二つの世界に冷たいバニラアイスという異端が、いがみ合うこと無く溶け込んでいる...」
パイをつっつきながら、一人難しいことを呟くナツ。だが彼女独自のスイーツ論が展開されている時点で、それはもう「美味しい」と言っているのと同じだ。
三人はあっという間にパイを平らげると、マグカップに入った紅茶を片手にほっと一息を吐く。
「ごちそうさまでした。お陰でおなかいっぱい!それにこの紅茶もとっても良い匂い!なんか結構高そうなお茶だけど、何処で買ったの?それに、そんなティーポットも持ってなかったよね?」
ヨシミからの問いに「あぁ、これ?」と、カズサは含みを持った感じで空になったティーポットを手に取る。
「実はこの前、バイト先の先輩と仕事終わりに遊びに行ったんだけど、その時先輩に紅茶の専門店に連れて行って貰って、そこでポットと一緒に買ったんだ」
「あ~、そういえば二個上の先輩がいるって言ってたわね。私達がお店に来た時は急用で休んでたとかいう...」
そこで何故かヨシミは言葉を切り、アイリとナツの二人と顔を見合わせた。そして、三人で優しく微笑んだ。
「え、何...?何で笑ってるの...?」
その行動の意味が分からず、カズサは目をぱちくりさせる。
「何か、カズサ色々変わったな~って思って。先輩と一緒に遊びに行くとか、今までのカズサなら考えもしないでしょ?」
「そ、そうかな...?別に付き合いがあれば先輩でも遊びに行くことくらいあると思うけど...」
その言葉にヨシミは「ふ~ん?」と言いながら、探るような目つきでカズサの顔を見た。
「な、何...!?そんな目で見ないでよ...!」
カズサは座ったままの姿勢でヨシミから距離を取った。
「ま、良いわ。でも一番変わったというか、びっくりしたのは、カズサがモモトークで『手作りのお菓子を皆に食べて貰いたい』って言ったことね!」
ヨシミの言葉に続いて、アイリとナツもうんうんと首を振る。
「ヨシミちゃんの言う通り!それでいてこんな美味しいアップルパイを作って、お洒落な紅茶まで淹れてくれたんだから猶更びっくりだよ!今までのカズサちゃんが好きじゃないってわけじゃ勿論ないけど、今のカズサちゃん、凄く上品な感じがして、私好きだよ」
「手作りのパイに、ポットで淹れた紅茶。トリニティの生徒らしい休日の過ごし方だね。カズサのお陰で、今日だけは私達もティーパーティーだ」
カズサは思わず、まだ温かいポットを見下ろした。
勿論、気持ちの整理は既に付いている。ミカと一日一緒に過ごして以来、良い意味で彼女に憧れるようなことは無くなったし、水族館でミカと別れてから、このポットも中に入っていた紅茶も、セレブな先輩からの些細なプレゼント以上の意味は持っていない。
だが仲間達の言葉を受けて初めて、カズサは自分自身でも気付いた。アルバイトでの経験とミカとの出会いは確かに、自分に良い変化を与えてくれた。かつて求めてしまっていた「トリニティの生徒らしい姿」に、無意識のうちに近づけていた、ということに。
「...そっか。皆、ありがとね」
カズサは素っ気なく、でも皆の顔をしっかりと見て感謝を告げる。一方でその感謝が、今学校で同じようにお茶を楽しんでいる友人にも向けられていることに気付く余地など、目の前の友人達には無かったが。
「ねぇねぇカズサちゃん!その先輩の写真とか無いの!?あったら見せて欲しいな!」
「それは気になるね。かのキャスパリーグと対等な時間を過ごせるなど、只者ではないことは確実なんだから...!」
アイリの願い出に「ごめん、それは...」と断ろうとしたカズサだったが、間髪入れずに飛んできたナツの”いつものやつ”に、考えが変わった。
「...そうだね。ナツの言う通り」
カズサはそう言うと、自分のスマホを手に取り、写真フォルダから一枚の写真を見せた。
「はいこれ。一緒に水族館行った時に撮ったの」
イルカの水槽の前で、ミカとカズサの二人が両腕で大きなハートを作っている写真を見た瞬間、三人は言葉を失った。
「え、え...?こ、この人ってティーパーティーのミカ様...だよね...?」
「そ。私のせ・ん・ぱ・い。だから言ったでしょ、ナツの言う通り只者じゃないって」
それから数分の間、いつかの自分のように凍り付いた三人を、カズサはそれは愉快そうに眺めていた。