ミカとカズサがパン屋でアルバイトをするお話 作:空を飛ぶジンベエザメ
ナギサの願い出もあって、差し入れのパンを配り終えたミカは、早速あのパン屋に連絡を入れてみることにした。
「あんなこと言ってたし、断られるかも......」と、半ば諦め気味に電話してみたのだが、意外にもスマホの向こう側で話す婦人の声は嬉しそうで
「大したお金は払えないけど、うちで良かったら是非!」
と、ミカの申し出を快く受け入れてしてくれた。そんなこんなで人生初のアルバイトをすることになったミカは翌日の早朝、水平線から顔を出すオレンジの朝日に照らされながら、パン屋の入り口の前に立っていた。
「ふわぁ~...」と大きな欠伸をしたミカは、アンティークレンガの壁に取り付けられたインターフォンを押す。間もなくして、カランカランとドアベルを鳴らして、婦人が顔を出した。
「ミカさんいらっしゃい!今日からよろしくお願いしますね!」
生地を捏ねていたのか、羽の先を白く染めている婦人はミカの顔を見ると、ニコッと子供のように笑った。昨日見せていた寂しい笑顔より、よっぽど似合っている。
「それにしても、本当に私のお店で良かったのですか?昨日も言ったけど、こんな小さなパン屋だから、お給料も大した額出せませんし......」
「大丈夫!昨日のおばあちゃんの顔見てたら、何か放って置けなくなっちゃって!閉店しちゃうのは寂しいけど、その間は頑張って働くからよろしくね!」
ミカはぺこりと頭を下げる。本当はこんな素敵な場所にあるお店を閉めて貰いたくないが、部外者である自分がどうこう言える権利は無いし、それに働いた経験が無い自分がどれだけお店に貢献できるかも分からない。だからミカは閉店のことについては「私と働いて、おばあちゃんの気持ちが自然と変われば良いな」程度に考えることにしていた。
「あらら。それは何だか、悪いことをしちゃいましたね......」
「気にしないで!あ、それとおばあちゃんのことは何て呼んだら良いかな?それからやっぱり、お仕事中は敬語使ったほうが良いよね?」
「好きに呼んで頂いて構いませんよ。それにミカさんのような身分の高い方に『ですます』を使って話されては、私のような者にとってはかえって気まずいかもしれませんね」
「そっか......じゃあこのまま、おばあちゃんって呼ぶね!」
「はい」と、おばあちゃんは微笑みながら答えた。なんだかアルバイトとその雇い主というよりは、仲の良い孫娘と祖母のようなやり取りだ。
「そしたら立ち話も何ですから、そろそろお店の中に入りましょう。改めて、よろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願いします!」
店に入ったミカは持ってきた仕事着に着替え、おばあちゃんに店内を案内してもらった。レジの裏にある厨房には、一抱えほどもある大きなボウルや、それを設置できるこれまた大きな電動ミキサー、そして人一人なら余裕で入れそうなほどの業務用オーブン等が並んでおり、ミカが初めて見るものばかりだった。
「珍しいですか?」
小さい、けれど手入れが行き届いた清潔な厨房を見回していると、おばあちゃんがそう聞いてきた。
「うん。私の友達にお菓子作りが趣味の人がいて、電動ミキサーとかオーブンレンジとか色んな道具を持ってるんだけど、流石にここまで大きいのは初めて見たかな」
ミカは厨房の器具達を見て、いつもクッキーやスコーンを焼いてはお茶請けとして持って来てくれるナギサの事を思い出していた。
「あら、そうだったんですね。ではこのお店が無くなった時には、そのお友達へのプレゼントとして、ここにあるもの全て持って行って頂いても構いませんよ。私も処分する手間が省けるので!」
おばあちゃんはそう言って、翼で口元を隠し「うふふ」と上品に笑った。
「アハハッ!そんなことしたら私の友達、学校辞めてパティシエになっちゃうかも!」
そんな冗談を交えながらも、ミカはまた、心の中にあるモヤモヤが大きくなったのを感じていた。残念ながらこのマダムの決意は思った以上に固いようだ。自分がどうにかできるような余地は、もしかしたら殆ど無いかもしれない......
案内も終わり、ミカが最初に受けた仕事。それは店内の掃除だった。おばあちゃんが開店の時に出すパンを作っている間、ミカは空の商品棚を水拭きしたり、床を掃いたり、お客さんが使うトングとトレーを消毒したりしていた。
厨房から漂って来る香ばしい匂いに包まれながら掃除をしている間に、ミカは店の裏手に庭があることに気付いた。店内と同様にしっかりとした手入れがされているようで、敷かれている青い芝は綺麗に整えられ、その上に置かれている白いガーデンテーブルとチェアも、朝日に照らされてキラキラ輝いている。更に庭の奥にはステンレスの煙突が生えた小屋が鎮座しており、不思議な存在感を放っていた。今は夏なので暑いが、春や秋の晴れた日ならパンと飲み物で心地良い時間が過ごせそうな、そんな素敵な庭だった。庭の手入れが好きなナギサなら、きっと気に入るだろう。
一通り店内を綺麗にし終えた時、厨房からおばあちゃんが顔を出した。
「ミカさんお疲れ様。朝ごはんって、食べてきてないですよね?」
「うん」と、ミカは答えた。まだ日が昇る前に学校を出て来たので食欲もあまり無かったし、そもそも食べる時間も無かった。
「良かった!これ、パンを焼いている片手間で作ったんです。良かったら食べませんか?」
そう言っておばあちゃんが差し出してきたのは、ホカホカと湯気を立てるパンケーキだった。付け合せで、こんがり焼けたソーセージも添えられている。
「うわぁ、美味しそう!頂きます!」
体を動かしたことで空腹を感じていたこともあり、ミカは遠慮なく皿を受け取った。適当な椅子に座って、ナイフで4等分にしたパンケーキを頬張った。湯気と共に伝わって来るバターの良い香りとふわふわな食感が、自然と頬を緩ませる。
「おばあちゃん凄いね。片手間でこんなに美味しいパンケーキ作っちゃうなんて!」
おばあちゃんは気恥しそうにはにかんだ。
「ありがとうね。でも、そんなに褒められるほどのことじゃありませんよ。パンケーキなんて、材料混ぜて焼くだけで終わりますから」
「あ、それ私の友達もよく言う!『お菓子作りなんて、材料を混ぜればあとはあっという間ですよ』って!」
ミカはまた、ナギサのことを思い出した。材料を正確に計量したり、生地を混ぜたり伸ばしたり型を取ったり...。ミカもそういう作業が嫌いというわけではないけれど、趣味にできるほど好きになれる自信は無いし、洗い物の手間等を考えれば、楽しいより面倒くさいの感情が勝ってしまう。積極的にキッチンに立つ人間はやっぱり、そういうところが違うのかもしれない。
パンケーキでエネルギーを補充したミカは、おばあちゃんと共に出来上がったパンを棚に並べる。焼きたてのパンはどれも仄かに湯気が立っていて、つい手が出そうになるほど美味しそうだった。
「おばあちゃんごめん!お手洗い借りていい?」
開店間際、おばあちゃんが店の看板を「OPEN」にした時、ミカがトイレを借りにバックルームへと戻って行った。その直後、けたたましい爆音と共に、店の外に白いオープンカーが現れた。早朝に何事かと身構えたおばあちゃんだったが、それから降り、そして店内に入って来た二人組を見て、緊張を解いた。
「......セイアさん。どうして最後のカーブで、車を横滑りさせたのですか......?あの時は本当に、遠心力で空を飛んだ気分でした......」
「すまなかったね、ナギサ。いつも通り安全運転を心掛けていたつもりだったが、あの美しい曲線を見た瞬間、身体の疼きが抑えられなくなってしまったんだ」
「......そうですか。帰りは、歩いて帰ることにします......」
真っ青な顔で、ナギサは店の扉を押す。その後ろから、ここまでのドライブを存分に楽しんだセイアがほくほく顔で続く。
「いらっしゃいませ。昨日に引き続き、こんなパン屋には贅沢過ぎるお客様ですね」
ティーパーティーの二人を前に、おばあちゃんは丁寧にお辞儀をした。
「おはようございます、マダム。突然の来訪、どうかご容赦下さい。トリニティ総合学園、ティーパーティーの桐藤ナギサです。本日は聖園ミカのアルバイト受け入れに感謝を伝えたく、お伺いした次第です」
堅い口調で挨拶をしたナギサは、手に持っていた紙袋をおばあちゃんに差し出した。
「こちら、私が焼いた紅茶のシフォンケーキになります」
「まぁ、わざわざありがとうございます...うん?私が焼いた...?」
ナギサからケーキを受け取ったおばあちゃんは、その顔色を伺うかのようにナギサの顔を見た。
「もしかしてミカさんのおっしゃっていた『お菓子作りが趣味の友達』というのは、ナギサさんのことですか?」
その問いに一瞬きょとんとした顔を見せたナギサだったが、直ぐにその表情を崩し、穏やかな笑みを浮かべた。
「どうやらミカが話したようですね。はい、私はお菓子を作るのが好きでして、親しい者にはよく振舞っているのです」
「やっぱり!開店の準備をしている間、ミカさんはナギサさんのことを嬉しそうに話されていましたよ!」
「そうでしたか、お喋りな友人で申し訳ありません。ああ見えて力はかなり強いので、どうか存分に使ってやって下さい。ところで、当の本人は......」
その時、厨房から当の本人のミカが飛び出して来た。
「ごめんねおばあちゃん!遅くなっちゃった...ってあれ、ナギちゃんにセイアちゃん!?こんなに朝早くからどうしたの?」
ナギサは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でミカを凝視する。
「おばあ、ちゃん......?ミカさん、今彼女のことを、おばあちゃんと......?」
「そうだよ!おばあちゃんが好きに呼んで良いよって言ってくれたから、そうしてるんだ!」
瞬間、ナギサの額に深い皺が刻まれた。
(あ、やっちゃった......)
厳格な彼女の前で、今の態度は不味かったようだ。ナギサは込み上げて来るものを抑え、できるだけ穏やかな声色を保ちつつミカに語りかける。
「ミカさん、良いですか?貴女は今、仕事をしている最中なのですよ?それなのに雇い主に対して敬語を使わないどころか、『おばあちゃん』とは......」
「ナギサさん。私は構いませんよ。勿論、最低限のマナーというのはどんな仕事でも必要ですが、ミカさんほどの方がそれを弁えていないとは思えませんし、それに折角働きに来てくれたのですから、私としてはミカさんがのびのびしているのが一番だと思います」
「そうだよ!働くのは私なんだから、ナギちゃんは口出ししないで!」
おばあちゃんの助け舟に便乗したミカに対し、ナギサは鋭い睨みを飛ばした。
「セイアさんからも何とか言って下さい!このままではミカさんの為にもなりません!」
そう言って後ろを振り返ったナギサは、飛び込んで来た光景に、再び唖然とした。背後のセイアはナギサに加勢するどころか、我関せずといった態度で、トング片手に並べられたパンを物色していた。もう片方の手に乗せられたトレーには、既に3つほどパンが乗っている。
「セイアさん、一体何を......」
ナギサと目が合ったセイアは、ナギサの瞬きに合わせてトングをカチカチ鳴らした。
「見れば分かるだろう、パンを選んでいたんだ。良いドライブには、それに相応しい食事が不可欠だからね。ミカ、会計を頼むよ」
「あ、ごめんねセイアちゃん。まだレジの使い方習って...」
「セイアさんッ!!!」
呆れが混じったナギサの怒号が、店内に響き渡った。そしてその日の仕事が終わり、学校に帰ったミカを待ち受けていたのは、疲れた顔のナギサによる、二時間を優に超える説教だった。