空魚たちがIKEAに閉じ込められる話   作:わいばん

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前編

 誰もいない家具売り場が続いていた。

 ソファが並んでいる。

 ベッドが並んでいる。

 テーブルが並んでいる。

 どれも見覚えのある家具なのに、その配置だけが現実離れしていた。

 区画を抜けても、また同じような区画が現れる。

 ソファ売り場の先にソファ売り場があり、その先にもソファ売り場が続いていた。

 天井はない。

 存在しないはずなのに、照明の光がどこから降ってきているのかわからない。

 店内放送は流れていなかった。

 客の声もない。

 店員の声もない。

 ただ、広すぎる空間だけが静かに横たわっていた。

 閉店後の店みたいだ、と思う。

 その考えが浮かんだ瞬間。

 遠くで何かが動いた。

 黄色いシャツ。

 青いジーンズ。

 人影に見える。

 けれど歩き方がおかしい。

 関節をひとつ余計に持っているみたいに、身体がぎくりと折れ曲がる。

 一歩。

 また一歩。

 こちらへ向かってくる。

 急いで隠れなければならない気がした。

 理由はわからない。

 ただ、それだけはわかる。

 人影はゆっくり歩いている。

 なのに距離だけが異様な速さで縮まっていく。

 家具と家具の隙間を抜ける。

 通路を曲がる。

 一瞬だけ姿が消えた。

 ……と思った次の瞬間には、もう近くまで来ていた。

 静かな店内に足音だけが響く。

 コツ。

 コツ。

 コツ。

 それは人間の足音によく似ていた。

 店員の足音だ。

 そう思った瞬間、自分でも理由のわからない恐怖が背筋を走った。

 

 

 

1

 スマホのアラームが枕元で震えるように鳴った。無理やり朝を快活に見せかけようとする音。どこか別の現実から届いたノイズのようだったが、触れてみれば、確かに現実だった。

 指先で画面を叩き、音を止める。

 九時半。

 早いわけではないが、余裕を感じるには少し足りない。

 真夏の朝の光が、カーテン越しに部屋に差し込む。壁に落ちた橙色の光は、眠気の残る目にはぼんやりと滲んで見えた。

 ここは日暮里のマンションだ。

 私と鳥子は、いまこの部屋で暮らしている。

 裏世界から持ち帰った遺物を売る探索と、ゲート周辺の「牧場」の管理。その収入が、どうにか家賃を支えていた。

 天井が視界にぼんやり浮かんでいる。

 輪郭がはっきりするまで、数秒かかった。

 もう一度、深く息をつく。

 その隣で、鳥子が身じろぎした。ゆっくりと身を起こし、眠そうに目を細めながら私に向かって言った。

「おはよう空魚ぉ」

 言葉の直後。

 頬に、額に、立て続けに何かが触れる。柔らかく、あたたかい感触。鳥子の唇だった。

「愛してるよぉ」

 くぐもった声。まだ完全には覚醒していないその音には、夢の余韻が残っている。

「おはよ……私も、愛してる」

 鳥子は目を閉じたまま、こちらに顔を向けている。わかっている。これはキスを待っている合図だ。

 私は自然に上体を起こし、鳥子の頬と額に唇を寄せる。なにも考えずに、ただその感触を受け入れる。

 これが日常になっていることが、いまだに少し不思議だった。

 大学を卒業して、私たちは同棲を始めた。以前の家は大学に近いという理由で住み着いていたのだが、卒業後も特に引っ越す理由はなく、ズルズルと暮らしていた。

 そんな私に鳥子は熱を帯びた声で言った。

 ──空魚と一緒に、住みたい。

 異論はなかった。

 私はうなずいただけだった。

 しばらく無言の時間が流れる。枕元のスマホの小さな光と、冷房の稼働音。カーテン越しの朝日だけが、穏やかな朝を形作っていた。

 何も起こらない、穏やかで、少し心許ない朝だった。

 何も考えず鳥子と同じ天井を眺めていると、ふいに、部屋の静けさが妙に広く感じられた。床には最低限の家具と、本棚が並ぶ。整ってはいるが……どこか穴が空いている。

「この部屋さあ、空魚の痕跡が少ないんだよね」

 思考を読まれたかのようなタイミングで、鳥子は眉間に浅く皺を寄せて言った。私は枕を抱えたまま、横目で鳥子を見る。

「痕跡?」

「うん。なんか私の部屋に空魚が間借りしてるみたい」

 私は部屋を見回した。

 本棚と本。服が少し。それ以外はほとんど鳥子のものだ。

「そんなことないでしょ」

「あるよ。空魚って荷物まとめたら三十分で引っ越せそうだもん」

「失礼だな」

「でも否定できないでしょ?」

「……まあ」

 鳥子の言葉を聞いて、改めて部屋を見回した。

「でも、別に困ってないんだけど」

「私は困ってる」

「なんで」

「空魚の痕跡が少ないからだってば」

「……痕跡ねえ」

「近いうちに家具、買いに行こうね」

 鳥子の言葉を反芻する。荷物の少なさを自覚してはいたけど、そんなに気になるものなのだろうか。

 鳥子が布団を抜けて立ち上がり、振り返りながら言った。 

「なんだかね、ある日突然、空魚がいなくなりそうって不安に思うときあるんだぁ」

 そのままリビングへ歩いていく背中だけが残される。

「人はそんな簡単に消えないよ」

 鳥子に聞こえるかどうかの声で答えて、少し遅れて私も起き上がり、キッチンへ向かった。

 冷房の効いた寝室からリビングへ出る。肌にまとわりつく夏の空気が、冷気を押し返すようだった。

 鳥子はちょうどソファに腰を下ろすところだった。座面が沈む。

 ギシギシ……。

 普段聞き慣れない木のきしむ音に、鳥子は首を傾げて小さく肩をすくめる。

「空魚、今の聞こえた?」

「うん。聞こえた」

「やばくない?」

「やばい」

 鳥子はクスクスと笑ったが、私は苦笑することもなく受け流した。

 家具をどこで買うか──正直、どうでもよかった。通販で十分だし、色や形にこだわりもない。家賃は折半している。それでも私の中では、この部屋はまだ鳥子の家で、私はそこへ居候しているような気分だった。

 家具を選ぶのも、たぶん鳥子に任せてしまえばいい。

 洒落たケトルに水を入れ、火にかける。今朝は豆を挽く気になれなかった。家具を買いに行くことを考えるだけで、少し気が重かった。

 インスタントコーヒーの瓶を手に取り、マグに粉を落とす。湯が沸くのを待ちながら、木製のトレイにマグとシュガーポット、牛乳の小ジャグを並べる。湯を注ぐと、立ち上る香りが鼻をくすぐった。私にとっての、ささやかな朝食の代わりだ。

 カップを二つ並べ、トレイを手にリビングに戻る。

「何を買えばいいと思う?」

 クッションを抱えた鳥子に声をかけると、鳥子は少し首を傾けて答えた。

「空魚専用のクローゼット、イスは……」

「クローゼットは置ける場所ないし、イスも四脚ちゃんと揃ってるのに、一脚だけ違うデザインで浮くのは変じゃない?」

「うん、いま言いながらそう思ってた」

 鳥子は前のめりになった。

 期待と少しの不安が入り混じった目で、私を見ている。

「じゃあ、小物とかインテリア、たくさん買おうよ。それなら置く場所あるでしょ?」

「んー……」

「だめ?」

「だめじゃないけど……」

 正直に言えば、選ぶという行為そのものが億劫だった。

 それを何個も選ぶとなると、それだけで気が重くなる。

 私はコーヒーにミルクと砂糖を入れながら答えた。

「見てみないと、なんとも言えないかな」

「じゃあ家具屋さん行こう。空魚が選んでいいよ。猫の置物とか、猫のスリッパとか、猫のランチョンマットとか」

「猫……」

「どう?」

「うーん」

「行かないの?」

「……行こうかな」

 押し切られたように私はうなずく。

「どこ行く? 希望ある?」

「全然ない」

「じゃあさ、IKEAにしようよ」

「IKEAねぇ。いいけどなんで?」

「だって前に話したじゃん。一緒に行こうって」

「……そんな話した?」

「したよ。外館さんがいた頃。マヨイガで」

「よく覚えてるね」

 首を傾ける。外館という懐かしい名前だけが胸に引っ掛かった。何かを思い出しかける感覚だけが残って、肝心の記憶は浮かんでこない。

 私はトレイからカップを取って鳥子に渡し、もう一つを手にソファに腰を下ろす。

 ミシッ──尻の下で、嫌な予感を伴って重心が沈む。さっきよりもはっきりしていた。

 そっと体を浮かせ、もう一度ゆっくり座り直す。鳥子も気づいたようでこちらを見る。座面にはわずかな傾きが出ていた。一瞬、どちらも何も言わなかった。

「まただ……今の──」

 パキッ。

 木材が割れる音が、一拍遅れて部屋に落ちた。

 尻の下が一段沈み、やばい、と頭より先に身体が反応して腰を浮かせる。私が座っていた座面が、斜めに沈んでいた。

「あ、これ……」

 割れ目ではなく、私を一瞥してから、鳥子はソファの下を覗き込み、顔をしかめた。

「あー、割れてる……やっぱり限界だったんだ」

「……ごめん」

「ううん。空魚のせいじゃないから気にしないで。私が子供の頃から使ってたし、ジャンプして遊んでたんだもん」

 鳥子はポンポンと壊れた座面を叩く。その仕草は軽いのに、目だけが、時間の奥を見るみたいに遠くを向いていた。

 壊れた座面を撫でながら、鳥子がぽつりと言った。

「そういえばね、このソファもIKEAで買ったやつだったなぁ」

「そうなんだ」

 私は鳥子の座るソファを見る。低い背もたれ、三人は並んで座れそうな横幅。

 鳥子のお母さんとママさん、そして小さかった鳥子──そんな並びが自然に想像できた。

「……実はね、子供の頃IKEAに行ってね、展示されてたソファの上で飛び跳ねちゃったことがあってさ」

「……ヤバくない?」

「そう。ヤバかった。運が悪かったのかパキッと割っちゃって、泣きそうになった……ううん、泣いた覚えがある。結局、その場ではママが払ってくれたんだけど、私のお小遣いで後から全額弁償したの。十ヶ月以上かけてね」

「怒られた?」

「めっちゃ怒られたよ! ママにもお母さんにも」

「店員さんにも?」

「店員さんは笑ってた」

「笑いながら賠償請求?」

「うん!」

 鳥子は少し照れくさそうに笑う。

 その笑顔を見ていると、さっきまでの失敗談まで、どこか懐かしい思い出みたいに思えてきた。

 壊れたソファを挟んで向かい合いながら、私もつられて息を吐く。

 ──たぶん、このソファの寿命は、ずっと前から決まっていたのだ。

 鳥子が子供の頃に跳ねて壊したソファの話と、いま目の前で壊れたソファが、不思議なくらい自然につながって見えた。

「じゃあ次もIKEAで決まりでいい? ソファも買い替えなきゃね」

「いいけど……IKEAって配達サービスなかったよね?」

 私が言うと、鳥子は顎に手を添え、記憶を探るみたいに視線を泳がせた。

「車で行って、家具は自分で積んで持って帰る。家で組み立てる。そういうスタイルだったはず」

「私たち、車も免許もないよ」

「うーん……」

 鳥子は目を閉じ、数秒だけ静止した。思考のエンジンをかけ直すみたいに、ぱちりと目を開く。

「あ、じゃあ、明日小桜に頼もうよ。小桜に運転してもらうの。レンタカー借りて行こう」

「『いいよ』って、言ってもらえると思う?」

「もらえるよ。小桜、やさしいし」

 

 

 

「やだよ、めんどくせえ」

 翌日、七月二十四日。午前十一時前。

 小桜屋敷の応接間で、冷房の冷風にあたりながら、私たちはテーブルを囲んでいた。

 話題は裏世界探索の次のルートから、最近の牧場の様子まで、節操なく行き来している。

 最初から小桜は輪に入る気ゼロで、口は出さないし、出す気もない、という顔だった。私たちの議論を片肘つきながら眺めているだけだったが、そもそも今日ここに来た理由──車を出してほしい──という打診を持ち出したところ、この返答である。

「なんで? 小桜、暇でしょ。霞もあんまり手がかからなくなってきたみたいだし」

 鳥子がストレートに刺す。小桜は気だるげに横目を向けた。

「暇なわけねえだろ。仮に時間が空いたとしても、このクソ暑い中で外に出るくらいなら、あたしは寝る。しっかり、ぐっすり」

「へえ、今日は休みの日?」

「そう。貴重な一日を、お前らが潰しに来た」

「でも、自営業で在宅なら、融通は利きそうじゃない?」

 鳥子の無邪気な言葉に、小桜の眉がぴくりと動く。

「……学校の連絡は平日の昼間だ。授業短縮だの急な面談だの、だいたい急に飛んでくる。こっちは『はい、わかりました』って言うしかない」

 小桜は肩を竦めた。

「そのたびに仕事止めて、クライアントに謝って、締め切りだけは変わらない。そんな生活してる人間が暇なわけねえだろ」

 一息つく。

「あるなら今すぐベッドに倒れて夢のひとつでも見たいね」

「……それは寝たくなりますね」

「だろ?」

 口に出してから、あまりにも無難すぎたと自分で思った。しかし私の言葉に、小桜は「そうなんだよ」と深く頷く。

 その頷きとともに少し肩の力が抜けたのか、革張りのソファへ背中を預け、腕を組んだまま天井をぼんやり見上げた。

 会話が途切れ、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。

 そして、小桜は虚空に向かってぽつりと呟いた。

「……でも霞の家具が足りてないな」

 ぼやきというより、独り言に近い声だった。

「何が足りないの?」

「勉強机とかか……?」

「そうなんだ。霞、どれくらい勉強できるようになったの?」

「小学一年生相当のワークを、解けるまで椅子に座ってられるようになったな。外では『シフトは絶対に使うな』って言い付けだけは守ってるから助かってるけど……まあ、それでも悩みどころに変わりはない」

「……そうですね」

 形だけの相槌だった。内心、軽く歯を食いしばっている。

 困った。話の流れが、じりじりと脇道へそれていく。このままだとIKEAの話題がフェードアウトしてしまう。どうにか元の線路に戻さないといけない。

「それでも……何かしら買ってあげたら喜ぶんじゃないでしょうか」

 言いながら、自分でも頼りないと感じていた。

「親が自分のために買ってくれたものって、案外、記憶に残るものだと思うんです……よね?」

 語尾がしぼんだ。

 その瞬間、私は気付いた。親に何か買ってもらった記憶なんて、ほとんど残っていない。

 思い返そうとしても、場面が浮かばなかった。なかったわけでは、ないはずなのに……。

 どこかで聞いたような言葉を並べただけだった。自分で言っていても、ひどく空々しい。

 案の定、小桜の視線がこちらに向いた。

 怒っているわけでも呆れているわけでもない。逆に、妙に優しい眼差しで。

「空魚ちゃん」

「はい?」

「露骨すぎ。失格」

「なんでですか!」

 ふふん、と鼻で笑ってから、小桜はマグを口に運び、炭酸の抜けたアイスコーラをひと口だけ含んだ。

 あまりにも自然な仕草で、その一連の動作だけ妙に板について見えた。

「でもさ、冗談抜きで霞を連れて行くの、アリなんじゃないかな。今回のIKEAに限らずね」

 鳥子が一拍置いて言った。

 さっきまでの軽さが、すっと消えていた。

「子どもの頃に家族と出かけた場所って、ずっと記憶に残るでしょう? そこで買ってもらった物も」

「…………そうかもな」

 小桜が神妙に頷く。

 私が言った時とは、えらい反応が違う。この反応の差はなんだ。なにか補正が掛かっているのだろうか。

「だけど、行き先がIKEAで本当に楽しめるのか? あたしは行ったことがないんだが」

「大丈夫。広いし、いい匂いもするし、ご飯もおいしいし……私は楽しかったなぁ」

「なるほどねえ──どうだ、霞。興味あるか?」

 小桜が隣に座る少女──霞へ視線を向ける。

 二年前に保護されてから、霞は随分と変わった。幼く丸かった顔は引き締まり、背丈は小桜と並ぶほどになった。それでも、食欲に忠実で、覚えた言葉をワードサラダみたいに混ぜる癖は相変わらずだ。

 はっきり変わった点があるとすれば──私たちに通じる形で言葉を発する頻度が、明らかに増えたことだ。

 その霞が、私たち三人の視線が自分に集まっていることに気付いたらしい。

 手土産のフィナンシェを齧る手が止まった。

「どうしたの? 霞ちゃん」

 霞が、自分に向けられた質問を真似て口にした。

 これも、誰かから言われたフレーズの再利用なのだろう。

 話の流れをまったく追っていなかったらしく、小首を傾げている。

 鳥子が優しい口調で霞に語りかける。

「私たちと小桜で、すっごく大きくて広いお店に行くの。そこでご飯食べたり、霞の欲しい物、小桜が買ってくれるよ。みんなで一緒に行ってみない? どお?」

「それじゃあ、行こうね」

 どこで覚えたのか分からない言葉だった。霞はコクコクと頷き、小桜を一瞥してから口を閉じた。

 はい、おしまい。

 みたいな空気を出すと、そのまま「自分の仕事は完了」と判断したのか、またフィナンシェを前歯でちまちま齧る作業に戻っていく。

 その霞の頭を、小桜がやわらかく一撫でした。霞は嫌がることもなく、フィナンシェを齧り続けている。

 さっきまでの刺々しさは、もうほとんど残っていなかった。

「そういえば」

 霞の頭を撫でたまま、小桜がぽつりと言った。

「霞のベッド、まだ買ってなかったな」

「え? じゃあ今までどこで寝てたの? 床?」

「んなわけねえだろ。ベッドだよ。あたしの」

「そうなんだ。じゃあ今まで同じベッドだったの?」

「ああ。放っておくと床で寝るから、髪も服も埃だらけになる。だから仕方なく一緒」

 そう言ってから、少し間を置いて続けた。

「でももう中学年に片足突っ込むわけだし、そろそろ自分のベッドを用意してやりたい」

「いいね。霞に合うのが見つかるといいなあ」

「そうだなぁ……」

 小桜は相変わらず霞の頭を撫で続けている。

 その様子を鳥子がやわらかい目で見つめて、部屋の空気が、一瞬だけ静かになった。

 ──ダメだ、このままじゃ、また脱線してしまう。

 私は軽く咳払いして、話題をIKEAへと引き戻そうと試みた。

「小桜さん。霞のベッドを買うにも車が必要です。レンタル代もガソリン代も人件費も、全部私たちが持ちますから……IKEAまで運転をお願いできませんか?」

「ん……なら、まあいいか」

「やった!」

 鳥子が無邪気にガッツポーズする。ついでに私へウインク。かわいい。ずるい。

「だが、そうなると……」

 小桜は首をめぐらせて、私たち二人を順に見た。

「大人三人子ども一人が乗って、でかい荷物も積める車、ってなると……ワンボックスか軽トラ級のデカい車種になるんだよな」

「えーと、そうなんですかね? 何か問題でも?」

 小桜は腕を組み、うーむと喉の奥でうなる。

「慣れてない車は怖えんだよ」

「なるほど……」

「だから気が進まねえ」

 そこで、小桜はふと自分の身体を見下ろした。

「……ていうか、そもそも、あたしの身長じゃ運転制限かかるんじゃないか?」

「へえ〜……?」

 鳥子が言った。

「ふぅ〜ん……?」

 私も曖昧に相槌を打つ。

 そんなことがあるのか──車にまったく興味のない私は、思わず気のない返事をしてしまった。

 だが、それでは困る。

 そもそも私たちは、車を出してもらうために小桜を訪ねてきたのだ。小桜が運転できないとなると、ただIKEAに行く人数が増えただけになってしまう。

「ねえねえ。汀さんに運転頼んでみるのはどう?」

「汀? なんでだよ。無理だろ」

「え、ダメかな?」

 小桜は片眉を上げ、鳥子を見る。そのまま考え込むように目を閉じた。

「……まあ、汀なら、トラックでもなんでも運転はできるだろうが……さすがにIKEAに連れて行ってほしいから車回せ、なんて言えないな」

「でも必要だよ。一回汀さんに訊いてみない?」

「そうは言ってもな……うーん」

 小桜の悩む様子に、私は心の中でそっと同意した。私だって汀を足代わりに使うことには少し気が引けていた。しかし、もう一押しすれば小桜が電話してくれそうな雰囲気でもある。ここは波に乗っておきたい。

「小桜さん!」

「うおっ、なんだよ。びっくりした」

「すみません。お願いです。汀さんに電話してくれませんか?」

「ああ? でもなあ……」

「汀さんと友達みたいにお喋りできるの、小桜さんだけなんですよ」

「……まあ、『みたい』じゃなくて普通に友達のつもりだが」

「小桜さん、お願いです。私たちの距離感だと、ちょっと頼みづらいんです」

「ああ、うん。はいはい、わかったわかった」

 意外なほどあっさり、小桜は頷いた。

 鳥子が驚いたように目を丸くする。

「え? それでいいんだ?」

「おまえたちがあたしを都合よく使おうとしてるのと同じで、あたしは汀を都合よく使えばいいんだろ。まったく」

 そう言いながら小桜は席を立ち、デスク上の充電器につながったスマホを取って戻ってきた。

「言っとくが、頼むだけ頼んではやるけど、細かい段取りはそっちでやれよ」

 小桜がスマホを操作し、耳に当てる。

 室内が一気に静まり返る。誰も、言葉を挟まなかった。

 コール音がやけに響く。

 鳴り続ける。

 ……長い。

 飯能の牧場の管理について、汀とは何度か電話しているが、こんなに出ないのは初めてだ。そろそろ切ったほうが良いのでは?──そんな空気が私たちの間に漂いはじめた頃、ようやくコール音が途切れた。

 スマホの向こうから、低く落ち着いた男の声が聞こえた。

「あ〜、もしもし? あたしあたし。いや、いきなり悪いね。いま大丈夫かな」

 小桜の口調が、いつもより少し砕けている。こちらに向けるのとは、明らかに違う声色だった。

 汀が何か返す。その声はスマホ越しでも存在感があった。

「いやあ、それがねえ。だいぶあたし達にとって都合のいい話で悪いんだけど……」

 前置きだけで、すでに小桜の後ろめたさが滲んでいた。

 それから、小桜は要点だけを選んで、これまでの経緯を淡々と説明し始めた。

 

 

 

《今日、ですか……》

 私たちも会話に加わったほうが礼儀として正しいだろう。

 小桜がそう言ってスマホをスピーカーモードにしたので、私と鳥子は思わず姿勢を正した。初対面の頃よりは格段に関係がよくなったとはいえ、相手は汀だ。人見知り女二人としては、やっぱり緊張する。

 空気が一段、硬くなった。

「なんか忙しそうだね。何かあったの?」

 小桜が、私たち相手にはなかなか見せない柔らかい声で尋ねた。

《ええ、実は今朝、患者様が一名、亡くなられました》

 一瞬、誰も言葉を返せなかった。

「そりゃあ……大変だね」

 一拍置いてから、小桜は焦ったように続ける。

「え、なに? もしかして責任問われてるとか?」

《医療上の問題というより、そもそも想定されていた経過ではあるのですが……ご遺族の方々の感情的な整理が追いついていないようでして》

「それって大丈夫なの? 汀さんたち」

 隣の鳥子が、声を落として問う。

《正直に申し上げるなら、少々まずいですね。特に、DS研に多額の資金提供を頂いていた方々だったので》

「そうなんですか……」

 汀の声は淡々としていた。けれど、その奥には明らかな疲労が滲んでいた。

《なので……申し訳ありませんが、本日の送迎は難しい状況です》

「そうですか……」

《申し訳ございません》

「あ、いえ。全然大丈夫なんで」

 ただ車を出してほしいだけだったのに、いま一番大変な人に気を遣わせてしまっている。

 いたたまれなくなってきたところで、小桜が会話を引き取った。

「忙しいところに電話しちゃってごめんね」

《いえ、ご遺族の対応に、自分でもわかるほど気を張っていたので、お電話頂けてむしろ助かりました。場を離れられたので》

 その返事に、ほんの少しだけ空気が緩んだように聞こえた。

「そっか……なら良かったんだけどさ」

 小桜がまだ心配を拭い切れない声で言う。続けて鳥子が優しく言葉を重ねた。

「汀さん、頑張ってね。こっちのことはこっちでなんとかするから気にしないで。空魚もそれで良いでしょ?」

「うん。もちろん」

 返しながら、胸の奥に罪悪感のようなものがよぎった。こんなときに頼みごとをした後ろめたさかもしれない。

《ああ……トーチライトに依頼をするという方法もあるにはありますが、いかがでしょうか》

「トーチライトを?」

《はい。運転手を一人レンタルするだけなら、それほど費用もかかりません》

「ええと、それはいくらくらいになりそう……ですか?」

《費用、は……ああ、今回の件はUBL絡みではないので、DS研からは費用を出せないですね……。そもそも、運転代行を頼んだほうが安いかもしれないです。ははは……申し訳ありません》

 私たちは自然と視線を上げた。

 三人で無言のアイコンタクトを交わす。

 ──これは、無理だ。

 会話の節々から、汀の疲労が滲んでいた。

 いつもは余裕を崩さない汀が、冗談とも本気ともつかないことを口にしている。

 それだけで、こちらまで気後れしてしまう。

 私は返事をする前に、少しだけ言葉を選んだ。

「ええと、トーチライトさんに頼むかどうかは……ちょっと考えさせてもらいたいです」

《そうですね。その方が良いかと》

 鳥子が続けて声をかける。

「汀さん、大丈夫? いつ終わるかわからないけど、終わったらしっかり休んでね?」

《ありがとうございます、仁科さん。ご心配をおかけして申し訳ありません》

 小桜がスマホに目を落としながら言った。

「じゃあ電話切るけど、マジで身体に気をつけてな」

《ええ、もちろん。それでは失礼します》

 通話が切れる音がして、画面が暗くなった。

 小桜がスマホをテーブルに置いた。

 部屋に静けさが戻った。

 エアコンの音だけが、妙に大きく聞こえる。

「汀さん、大変だよね」

 鳥子が、呟くみたいに言った。

「そうだね」

 私も頷くしかなかった。

「地位が上がると責任が増えるっていう典型だな」

 小桜はそう言いながら、テーブルの上のマグを持ち上げる。

「なにか他に良い案、ないかな?」

 鳥子が私と小桜を交互に見る。けれど、私の返事は最初から変わらない。

「思い浮かばないね」

 腕を組んで首を振る。こういうときこそ切れ味のいい代替案でもひねれればいいのに、私の脳は残念ながら沈黙モードを選んでいた。

「おまえら、車回せる友達いねえのかよ」

「うぅ……」

「ぐぅ……」

 鳥子が肩をすくめる。私も同じように声を漏らした。

 反論のしようがない。痛いところを突かれたというより、ただ事実を並べられただけだ。

 事実ハラスメントで訴えたい。

「どうせいませんよ、そんな人……」

「すねんなよ」

「あっ!」

 鳥子が手を打ち鳴らした。

「いるじゃん!」

「誰が?」

 訝しげに眉をひそめる小桜に、ほとんど叫ぶみたいに言ってから鳥子は続ける。

「夏妃!」

 

 

 

 

《はい……市川っす》

 電話を鳴らしてから、数コール。

通話が繋がるまでの時間が、やけに長く感じられた。

「あ、市川さん。私、紙越だけど」

《………………ああ、はい。ご無沙汰っす》

「あ、うん。ご無沙汰。えーと、元気だった?」

《まあ、はい。おかげさまっす》

「あー、そっかあ〜」

 沈黙が、数秒分だけ落ちる。

《…………》

「えーと…………」

 視線が宙を泳ぐ。言葉がどこにも見つからない。

《……仁科センパイたちは、元気すか》

「あ、うん。元気だよ。たまに連絡してあげて。喜ぶと思うから」

《そっすか》

「うん。うん……」

 再び会話が途切れる。受話器越しの空白が、耳の奥で膨らんでいく。

《…………》

「…………」

 どうしよう。会話、終わっちゃったよ。

「空魚ちゃん、どんだけコミュ障なんだよ」

 小桜が笑った。

 その声色は、刺すというよりも、呆れと諦観でできている。

 鳥子がのぞき込むように顔を近付けてくる。

「ねえねえ空魚、スピーカーにして。私も夏妃と話したい」

 小桜の失笑と、妙に嬉しそうな鳥子の視線に促されて、私はしぶしぶ画面を操作しスピーカーに切り替えた。

《ん?……他に誰かいるんすか?》

「うん。鳥子と小桜さんがいるよ」

《え、マジっすか》

 なにがマジなのかは知らない。けど、声の硬さが一気にとれて柔らかい余白が混じった。

 ……分かりやすいことで。

「やっほー。夏妃、元気にしてた? 鳥子だよ」

「おっすー」

 軽く手を上げながら小桜。

《おおー、マジでお久しぶりっす。一年振りくらいっすかね。どうしたんすか? ウチに何か用ですか?》

「うん、あのね──」

 鳥子が話し始める横で、私は黙っていた。別に夏妃に何かした覚えはない。けれど、さっきまでのよそよそしさが胸に引っかかっていた。

 鳥子、小桜、夏妃の会話は滑らかに続く。輪ができ、その中心で三人の声が行き交う。

 その輪の外側に、私はひとり取り残されていた。

 ……なんでだろう。

「茜理を狙うイケイケのビアン」疑惑は解けたはずなのに。

 相変わらず夏妃は私相手だとぎこちない。

 本当に解せぬ。

「──だから夏妃に車出して欲しくって。お願いできない?」

《あー……》

 途端に、夏妃の声が鈍くなる。

《その、車回すのは別に構わないんすけど……》

 ため息まじりの声。

《今日じゃなきゃダメっすかね。今ちょっと用事があって……》

 そのときだった。

 電話の奥で、まったく別の声が割り込む。

 高めで、芯のある声だ。

《あれ? なっつん、電話? 誰と?》

《お、おん……ちょっと、な》

《どうしたの? 顔色悪いけど、平気?》

「ああ、茜理と遊んでたんだねー」

 鳥子が反応した。声が緩んでいる。

《まあ……そうっすね》

「デートの邪魔してごめんね」

《いや、デートとかでは、別に……》

《ねえねえ、誰と電話してるの?》

《いや、誰でもねえよ》

《えーっ、じゃあどうして隠すのー?》

 電話の向こうのじゃれ合いに、鳥子がくすっと笑う。

「じゃあ、また今度、都合が合う日があったら車出してもらえるかな。ガソリン代とか向こうでのご飯代とか全部こっちで出すからさ」

《いや、そんなんいっすよ。普通に車出しますから》

「そういうわけにはいかないでしょー?」

《いやいや、大丈夫っすから。マジで気にしないでください》

 押し返してくる夏妃に、鳥子も折れた。

「わかった! じゃあ、その話はまたね。後で都合の悪い日を教えて。私たちの方で合わせるから」

《うっす。わかりました……ん?》

 一拍置いて。

《そういえば、他には誰かいるんすか? 全部で何人?》

「四人だね。空魚、小桜、霞、それに私」

《四人……? あー……》

 電話の向こうで、夏妃が何かに引っかかった気配がした。

「あれ? ダメだった?」

《荷物も人も、運転するウチ含めて五人乗せるってなると……車がないすね》

 そこで、私はなんとなく、滑り込むように口が勝手に動いた。

「ねえ、それ、私たちが軽トラの荷台に乗るとかは──」

《無理っす。道交法違反っすよ。それ》

「あっ、そ、そうなんだぁ〜……はは」

 軽い冗談のつもりが、予想以上にすげなくバッサリ斬られ、声が情けなく萎んだ。

 もう黙っとこう……これ以上しゃべるとまた刺されそうだし。

「あ、閃いたわ。それならさ」

 小桜が手を打つ。

「あたしたちは電車で移動して、荷物の運搬だけ市川さんに頼むのはどう?」

《おー、それいいすね。それならなんも問題ないす》

「でも、これだとほんと市川さんをこき使うみたいで悪いんだけど」

《いいっす、いいっす。ウチそういうの気にしないんで》

 ひと巡りして、話がまとまりつつある空気になった。

「それじゃ、またメッセージ送るね。本当にありがとう。夏妃」

《うっす。じゃあ、またお願いします》

「ありがとう。茜理にもよろしくね」

《……うっす》

 私が言うと、夏妃はわずかに間を置いて返事をした。

 その瞬間、スピーカーの奥で、ガタン、と何かがぶつかる音が響く。

 弾んだ声が、スピーカー越しに跳ねた。

《なっつん! いま紙越センパイの声しなかった!? 紙越センパイと電話してるの!?》

《お、おおん……まあ、紙越センパイとも話してたけど……》

《もおー! なんで教えてくれないのー!》

《いや別に、隠してたわけじゃねえんだけど……》

《紙越センパイ!?》

 スピーカーの向こうで何かが倒れる音がした。

《お久しぶりです!》

「うわっ」

 思わずスマホを耳から少し離す。

 茜理の声だけ妙に近かった。

「うん、久しぶり。茜理は元気そうだね」

《はい! おかげさまで、元気です! それで、なっつんに何か用が?》

「まあ……そうだね。うん」

 曖昧に返しつつ、私は部屋の空気を確認するように視線を巡らせた。

 これ……茜理にも話していい内容なんだっけ? 何か夏妃の地雷を踏んだりしないよね? と、一瞬だけ迷う。

 鳥子は困ったような笑みを浮かべて小首を傾げた。小桜は腕を組んだまま目を閉じ、完全にログアウトしている。ダメだ、我関せずを貫こうとしてる。

 仕方なく私は電話へと向き直った。

「あー……近いうちにね、家具とかいろいろ買いに行こうって話になってて。そのために市川さんに車、出してもらえないかなーって相談してたの」

《あーっ、そうだったんですね。……ちなみにどこに行く予定だったんですか?》

「IKEAだよ。家具だけじゃなくて、なんかいろいろ楽しいらしいからさ。みんなで行こう、って流れになってたの」

《え……IKEA?》

 茜理が、ひとりごとみたいな声で呟いた。

「あ、もしかしてIKEA知らない? 大きな家具屋さんなんだけど」

《あ、いえいえ! 知ってはいます。行ったことはないですけど。ただ──》

「なら、茜理も一緒に来る? 大学の予定とかが合うな──」

《行きます!》

 割り込むような即答だった。

「──合うなら、って言おうとしたのに。早いよ」

 呆れるより先に、ちょっと笑ってしまう。

 スピーカーの向こうで、茜理も笑っている気がした。

《大丈夫です、私すごく暇なんで! 予定とか全然合わせられますから!》

「そうなんだ」

《ちなみに今日とかはどうですか?》

「今日? 今日は市川さんの都合が悪いって話だったよ」

《あれ?》

 茜理が疑問をそのまま声に出した。

 通話越しなのに、頭の上にクエスチョンマークが浮かんで見える。

《ねー、なっつん! 今日なんか予定あったっけ?》

《いや……まあ、別に……ねえけどさ》

《んんー? なっつん、大丈夫みたいですよ?》

 今の夏妃の顔は、間違いなく「現実から目を逸らしたい時」の顔になっている。

 つまり、全然大丈夫じゃない。

「えーと……そっか。ありがとね、茜理」

《はい!》

 さっきよりさらに、嬉しそうで、明るい声が返ってくる。

 止められない勢いで続く。

《私はもちろん暇ですし、紙越センパイたちも時間があるんですよねっ? なら、もう今日行くのが最善じゃないですか!?》

「あー、ちょっと待ってね」

 私は、もう一度部屋を見回した。

 鳥子は「まあ、そうなるよね」という顔で苦笑。

 小桜は、腕を組んだまま、面白がっている気配すらある。

 霞は……相変わらず無表情。逆に安心する。

 ……じゃあ、もう悪いけど、夏妃には犠牲になってもらおう。本人も気にするなって言ってたし。

 その代わり、IKEAでは美味しいものくらい奢ろう、とだけ決めた。

「じゃあ、それでお願いしてもいい?」

《わっかりました!》

「細かいことは、これからメッセージで送るから……私たちは、準備でき次第出発しても大丈夫そう?」

《はいっ、なっつんに聞いてみますね!……ねえねえ、なっつ……あれ、どうしたの? なっつん。平気?》

《いや……なんもない》

 夏妃の声が、悟りを開いた後みたいなトーンになっていた。

 諦めて受け入れた人間の音色だ。

 そのまま細かい確認をして、茜理との通話を切る。

「夏妃、大変そうだね」

 鳥子がぽそりと言った。

「ね。なんか……ちょっと悪いことした気分」

 私と鳥子が、ため息混じりにやりとりしていると、小桜が「よしっ」と膝を叩いて立ち上がった。

「それじゃ、あたしと霞は外出る準備してくるわ──行くぞ、霞」

 小桜はそう言って、隣の霞の手を取る。

 霞は、一瞬だけ、フィナンシェと小桜の手を見比べた。

 それから何も言わずにフィナンシェをテーブルに置く。私をちらりと見てから小桜の手を取り、その後について部屋を出ていった。

 部屋を出ていく霞の背中を見送りながら、ふと昨夜の夢を思い出した。

 どこまでも続く家具売り場。

 黄色いシャツ。

 人間みたいな何か。

 目を閉じる。

 ただの夢だ。

 そう思っていた。

 そのときは。

 

 

 

 

2

 石神井公園駅からいくつもの路線を乗り継ぎ、私たちは立川へ向かった。

 いくつもの路線を乗り継ぎながら、私は窓の外に流れていく街を眺めていた。

 夏の光がアスファルトに跳ね、視界の端でちらつく。

 疲れているわけでもないのに、どこか現実感が薄かった。

 遠くの景色を、無理やり拡大して見ているような感覚。

 ──気のせいだ。

 そう思うことにした。理由のない違和感を真面目に扱うと、ろくなことにならない。

 目的地は〈IKEA立川店〉。

 小桜屋敷からなら渋谷の方が近い。でも休日の都心は混む。だから立川になった。移動の手間を差し引いても、落ち着いて買い物ができるなら、それが一番だ。

 というか、小桜が「この暑い中、人混みに揉まれるのは嫌だ」と一言呟いた時点で、行き先は半ば決まったようなものだった。

 茜理と夏妃も、休日の都心に車を出すのは気が進まなかったらしく、このルートは案外すんなり通った。

 私たち四人は、電車内のロングシートに横並びで座っている。

 流れていく窓外の景色は、どれも似たような熱気をまとって見えた。

 不意に身体が震えた。冷房が強すぎる。

「空魚、寒い? これ使って」

 鳥子の薄手の上着が、肩にふわりと掛けられる。

 冷房の冷気が皮膚から剥がれ落ちるみたいに和らいで、そこでようやく、自分が強張っていたことに気付いた。

 ……ただの冷えだ。

「茜理と夏妃には?」

「さっきメッセージ送ったよ」

「なんて言ったの?」

 来るだろうと思っていた質問に、私は少しだけ背筋を伸ばす。

「『IKEAのフードコートに集合』って。夏妃は軽トラ出してくれたってさ」

「うんうん」

 鳥子は満足げに、私の頭を撫ではじめた。撫でるというより、ごしごし雑に揉むような手つきだ。

「ちゃんと伝えられたんだ。よしよし、えらいぞ」

 そう言いながら、今度は頬にキスしてくる。チュ、チュ、と軽い音。

 私は視線をそらしつつ、反射的に車内の乗客の気配を探った。けれど、誰もこちらを見てはいなかった。……たぶん。

「……何様よ」

「空魚からはしてくれないの?」

「しない」

「してよー」

「しないって」

「えー、なんでー?」

「おまえらさあ。少しは慎みを覚えろよ」

 霞を挟んだ向こうから、小桜が小声で割って入る。

「大丈夫だよ。誰も見てないもん」

「そう思ってても、見られてるし、気付かれてるもんなんだよ。そういうのは」

 小桜は鳥子を一瞥し、深く息を吐いた。

「公共の場で好き勝手されるとな、教育してる側としてはクソ困るんだが?」

「え〜? そこまでかなあ」

 二人の言い合いをよそに、私はスマホを確認した。

 通知が一件。茜理からだった。

「茜理たち、もうIKEA着いたって。先に中に入ってるらしい」

「そっか。じゃあ、急がなきゃね」

 鳥子がそう言った、ちょうどそのとき。

 電車がホームに滑り込む。

 立川駅。

 ホームの柱に取り付けられた駅名標が、窓の外をゆっくり流れていった。

 駅に着いた瞬間、空気がわずかに重くなった気がした。

 正午前の熱気とは別の、どこか乾いた気配。

 私は手早く茜理に返事を打つ。

《いま立川駅についた。待たせてごめん》

 改札を抜けて外へ出た瞬間、白い舗装の巨大な陸橋が視界いっぱいに広がった。

 ペデストリアンデッキというらしい。陸橋というより、空中に浮いた広場みたいだった。

「歩きは……きついかも」

 思わず漏れた声に、小桜がこちらを見る。

「IKEAってそんな遠いの?」

「確認しますね」

 スマホを取り出してマップアプリを開く。

 太陽の反射で画面はほとんど見えず、空中に黒い板をかざしているみたいだった。それでも、十数秒で結果は出る。

「……一キロ。徒歩十五分くらいですね」

「あー無理無理。焼け死ぬわ」

 小桜は即答した。

 鳥子が手で顔をあおぐ。その手首から、ほんのり日焼け止めの匂いがした。

 わざわざ嗅ぐ距離でもないのに、私の鼻は勝手に拾ってしまう。

「鳥子、ちゃんと日焼け止め塗ってきた?」

「うん、家出る前に。空魚にも塗ってあげればよかったね」

「私はいいよ」

「よくないよ。焦げちゃうよ?」

 そのやりとりを続けようとしたところで、小桜がずいと割り込んできた。

「たわむれてるとこ悪いが、タクシーで行くぞ。ロータリー、どこから降りるんだ?」

「あっちかな? あれ、階段だよね」

 鳥子の指差す先には、陽光をぎらぎら反射するコンクリートの階段。

 手すりは太陽光を反射して銀色に光っていた。

 私たちは口数が減り、できるだけ影を拾うようにして階段を下りていく。

 この日差しをまともに浴び続けたら、本気でカリカリのベーコンみたいに仕上がってしまいそうだ。

 階段を下り切ったところで、狙ったみたいなタイミングで、タクシーが一台滑り込んできた。

 誰も口を開かないまま、短い目配せだけで全員の意志が揃った。

 鳥子がすっと手を挙げると、ドアが静かに開いた。

 すると、鳥子は真っ先に後部座席の右端へと滑り込む。

 逃げ足が速いな、と思った。知らない人と喋りたくないのだろう。私も人のことは言えないけれど。

 続いて小桜と霞が並び、そのあとで私は後部座席に座るスペースがないことに気付き、少しだけ迷ってから助手席に収まった。

 開いたドアから冷気が流れ出す。むわっとした外気とぶつかり合い、その境目をくぐるようにして私は助手席へ滑り込んだ。

「すみません。IKEAまでお願いします」

「はい、IKEAですねー。シートベルトだけお願いします」

 運転手は穏やかに答え、私がシートベルトを着けると、車はゆっくりと走り出した。

 短距離利用は嫌がられると聞いたことがある。でも運転手は穏やかな様子だった。

 後部座席には左から小桜、霞、鳥子。

 誰も話さない。空調の風の音だけが静かに耳を撫でる。窓の外の景色だけが、じわじわと入れ替わっていった。

 暑さのせいか。

 目的地が近いからか。

 それとも、この密閉された空間の沈黙そのものか。

 理由はよくわからない。ただ、とにかく静かだった。

「あ、昭和記念公園」

 小桜がぽつりと言い、私は外へ視線を移す。

 見えたのは、背の高い木々と暗色のフェンスだけだった。

「昭和記念公園?」

「空魚ちゃん、知らないの?」

 小桜がこちらを向く。

「名前だけは、なんとなく……」

「前に行ったことあるけど、結構いいところだぞ。子供向けのアスレチックとかもあってさ」

「へえ……」

 私の気のない返事を受け、小桜は今度は霞に話題を振った。

「霞はどうだ? 今度行ってみるか?」

 小桜が訊くと、霞はちらりと横目で小桜を見る。

「明日の遠足のお弁当はなんだと思う?」

 一瞬、小桜が言葉を探すように間を置いた。

「売店があったと思う。とりあえず食べるものはあるぞ」

「じゃあ、みんなと行きましょうね。楽しみだね。霞ちゃん」

「よし、じゃあ今度行くか」

 そう言いながら、小桜は霞の頭を撫でた。

 霞は目を細め、人に懐いた野良猫みたいに、グリグリとされるがままになっている。

 ……今のやりとり、成立してるのか?

 霞の返事は、私にはいつも三割くらいしか分からない。

 でも小桜には、それで十分だったらしい。

 私は二人から視線をそらし、進行方向へ顔を向けた。

 そのとき、前方の景色の奥に、青い巨体がぬっと現れた。

 ──IKEA。

 黄色と青の爽やかで派手なロゴが、夏の雲のない空を背景に、くっきりと浮かび上がっている。

 建物そのものが巨大な看板みたいで、遠目に見ても圧があった。

 すごい……大きい。

 こんなスケールの商業施設を見るのは、初めてかもしれない。

 新宿や渋谷にも高層ビルはあるけれど、それとはまるで雰囲気が違う。

 まっさらな巨大物体が、ぽんと無造作に置かれている感じ。

 見慣れない迫力に、胸の奥でじわじわと新鮮な感動が広がっていく。

「お待たせしました。八百円になります」

 運転手の声で、私は現実に引き戻された。

「え? あっ、はい──」

 ぼんやりと外観に見とれていた私は、慌ててバッグを探る。

 その前に、小桜がクレジットカードを差し出していた。

「カード使えます?」

 そんなの、いいのに──そう言いかけて、言葉を飲み込む。

 車内で余計なやり取りをすれば、運転手の迷惑になるだろう。私は小さく頭を下げた。

 タクシーを降りると、目の前には「入口」と大きく書かれた看板。

 照り返すアスファルトの熱で、足元が少しふらつく。

「小桜さん、ありがとうございます。でも、よかったのに」

「いいんだよ。気分よく奢られてろ」

「ありがとうね、小桜」

「うーい」

 小桜はそう言って、日差しを手で遮りながら霞を連れて入口へ向かう。

 私と鳥子も、そのあとに続いた。

 トートバッグからスマホを取り出し、茜理に到着の連絡をしようとした、その瞬間。

 違和感が、喉元に引っかかった。

 思わず歩く速度を落とす。

「どうしたの、空魚? 歩きスマホ、危ないよ」

「うん……じゃあ、危なくないようにして」

「うーん?……いいよ。こっち来て」

 鳥子が腰に手を回し、私とぴったり並ぶ。

 視界の端で感じる、軽い温もりと、少しの重み。

 たしかに、これなら安心だ。

 スマホに目を戻し、歩きながらさっきの違和感の正体を探る。

 すぐにわかった。胸の奥の、ほんの小さな引っかかり。

「ああ、なるほど」

「何がなるほどだったの?」

 鳥子が横から覗き込む。

「茜理に送ったメッセージ、既読がついてない」

「ん? それだけ?」

「うん。それだけ」

「ふうん? そっかあ」

 鳥子はあっさり顔を戻し、私の歩幅に合わせて歩く。

 軽い会話のはずなのに、胸の内側に、ざらついた違和感だけが残った。

 数分前。

 立川駅で送ったメッセージが、まだ未読のまま。

 たったそれだけのことだ。

 そう思ったはずなのに、妙に引っかかる。

 茜理が返事を遅らせることは……なくはない。

 けれど「未読のまま」というのは、なんとなく珍しい気がした。

 いや、本当に「気がした」程度の話で、深く考えるほどの理由なんてないのだけれど。

 ……まあ、そうだよね。

 求めすぎだ。

 読めない瞬間くらい、誰にだってある。

 あるいは、単純にIKEAの中は電波が悪いだけかもしれない。

 私は自分にそう言い聞かせながら、もう一通だけメッセージを送る。

《着いたよ。待たせてごめん。今からフードコート行くね》

 送信してから、反射的に時計を見る。

 茜理から「IKEAに着きました」と連絡が来て、およそ二十五分。三十分も経っていなかった。

「空魚? どうかしたの?」

「ううん。なんでもない。到着報告しただけ」

 口ではそう言いながら、胸の奥に残っていた小さなざわつきを、ひとまず押し流す。

 スマホをスリープにしてバッグへしまい、鳥子の手を軽くつかむ。

 入口の前で待っている小桜と霞の方へ、私たちはトトッと駆けだした。

 

 

 

 自動ドアと防犯ゲートをくぐり、店内へ足を踏み入れる。

 ひんやりとした空気が肌を撫でてきた。電車の冷房とは違う、客が長居しても嫌にならないように調節された涼しさ。外の熱に焦がされた体が、ほっと息をつく。

「さっきの電車の中みたいな寒さだったらさ、ゆっくり品物も見てられないよね」

 そう言うと、鳥子が笑いながら頷いた。

「うん。クーラーって、快適と苦痛の境目が紙一重って感じする」

 店内はやたら広くて、天井が高い。レストランとカフェの案内板がぶら下がり、奥の通路には売り出し中の家具がきっちりと並んでいる。カラフルなポスターやPOPが視界を横切り、商品の配置図が数ヶ所に掲げられていた。ここが屋内であることを一瞬忘れさせるスケール感がある。

 私は階段の前にある、ポスターホルダーに収まったフロアマップを見た。

 ……フードコートは二階にあるようだ。

「空魚、カート引かない?」

「そんなに買うの?」

「一応ね。一応」

 ワクワク顔で鳥子はそう言ったので、私はカート置き場から一台引き出した。ゴムの車輪が床を擦る音を、穏やかな店内BGMが包み込んでいく。

 そのとき、鳥子がふと立ち止まった。

「あ、これ……懐かしい香り」

 反射的に私も鼻を鳴らす。

 ── 甘い。

 木材でも、パンでも、花でもない。

 何かを思い出しそうで思い出せない匂いだった。

 次の瞬間には、跡形もなく消えていた。

「今のわかった?」

 鳥子が訊く。

「一瞬だけ……」

 私が応えると、鳥子はもう一度、深く息を吸い込んでから首を振る。

「カナダのIKEAでもね、同じ匂いがしてたんだ。だから……ちょっと懐かしくって」

 少し遠い目をして鳥子は言った。

 瞬き一つ分そうしてから、鳥子は再び胸いっぱいに空気を吸い込む。しかし、数秒の間を置き、眉をひそめた。

「あれ? 匂い、どこか行っちゃった……」

 肩を落とす横顔が、妙にしょんぼりして見えた。

「……どこから来てたんだろ?」

「どこからだろうね」

「この匂いのする商品、買いたいな」

「そんなに良い匂いだった?」

「うん……」

 鳥子が深く頷く。それだけのことなのに、言葉には真剣な響きがあった。……可能なら、あとで店員さんに訊いてみよう。売り物なら教えてくれるだろうし、非売品なら、ワンチャンどこで取り扱っているのか教えてくれるかもしれない。

「おーい」

 小桜の声が背中に飛んできた。振り返ると、小桜は手をひらひらさせながら近付いてくる。

「悪いんだけどさ、おまえら先にフードコート行っててくれないか?」

「え? どうして? 一緒に行こうよ」

 鳥子が私から離れ、小桜の腕に駆け寄る。ぴたりと横につくその不自然な距離感が、なんだかちょっとだけ微笑ましい。

「ただのトイレだよ。ガキじゃねえんだから、揃って行かなくてもいいだろ」

 小桜はそう言いながら、隣の霞に視線を向けた。

 ところが肝心の霞は、店内の景色を落ち着かない目つきで追いかけている。棚の影から影へ、視線の居場所を探すみたいに。

 ──初めての場所に迷ってる、という感じでもない。

 落ち着かない。

 棚の隙間を、一つ一つ確認しているような。

 何かを探している犬みたいな

「霞ー? できるときに行っとかないと、あとで悲しいことになるぞ?」

 小桜が手を握って気を引いた瞬間、霞が場違いなほど整った声で言った。

「みなさん、下校時間になりました。教室に残っている人も、早く帰りましょう」

 あまりにも唐突で、私は思わず瞬きをした。

「……もう出たい。ってこと?」

 私の口から勝手に出た。小桜が困ったように笑う。

「だけどな、霞。今帰ったら、霞専用の机もベッドも買えないんだぞ? それでもいいのか?」

 その問いに、霞はまっすぐ小桜を見つめ、ゆっくり深く頷いた。

「あー……」

 小桜は頭をがしがし掻いた。諦め半分、といった顔だ。

「わかった。じゃあ、フードコートでみんなで飯食って、それでも帰りたかったら、先に帰ろう。それでいいか?」

 霞は渋い顔になり、嫌々を隠さない様子でもう一度だけ頷く。

「じゃあ……あたしと霞はトイレ寄ってから行くからさ、先に行っててくれる?」

「わかりました」

 小桜と霞がてくてく歩き出す。二人の背中が売り場の中に溶けていくのを見送り、私はカートの持ち手に手をかけた。

 目的地は二階のフードコートだ。

 私はもう一度だけスマホを見た。

 まだ、既読は付いていなかった。

 

 

 

 エスカレーターを上がると、いかにも「これがIKEAか……」と言いたくなる広々とした空間が現れた。

 店内は妙に広かった。家具屋というより、生活そのものを展示している博物館みたいだ。

 私が黙ったまま棚と棚の間を進んでいると、後ろから鳥子の声が落ちてきた。

「空魚、カート引こうか?」

 振り返らずに答える。

「ううん、平気。大丈夫」

 カートを押して歩いていると、床に映った光が揺れた。照明の反射が、つるりとした床の上で水面みたいに歪む。

 通路の片隅に、ぬいぐるみが山のように積まれたワゴンがあった。その横で、黒猫たちだけが整然と並び、ひときわ目を引いていた。金色のボタンで象られた目が、こちらの動きを追ってくるように思えて、私はつい足を止める。

「鳥子、ここちょっと見ていい?」

「いいよー」

 ワゴンから一つ、黒猫を手に取った。

 短い漆黒の毛並みは、すべすべと手のひらに吸いつくようだ。サイズは手のひらにすっぽり収まる程度。三角の耳がぴんと立ち、やけに大きな金色の目が光を受けてチラチラ揺れる。その不自然なまでのきらめきが、ときどき本当に視線を交わしたような気がする。

 首もとはわずかに細く、背中を丸め、前足を揃えて座っている。その姿勢には、商品特有の無機質さよりも、むしろ「誰かを待っている」ような気配を感じさせた。

 こういうの……あんまり見続けないほうがいい気がする。

 なんとなく、そんな考えがふと脳裏をかすめた。

 鳥子がカートの前に回り込み、私の顔をのぞき込んできた。

「空魚、楽しそうだね」

「え?」

 唐突すぎて、一瞬返事が遅れた。

「そうかな?」

「うん。楽しそうに見えるよ」

「家具屋が楽しいって……正直あんまりピンと来ないんだよね。だって、ただの家具屋なんだよ?」

「そう? でも楽しいじゃん」

 鳥子は肩越しに振り返って、軽く笑った。

 私は少し考え込み、視線を落としてから言った。

「……そう。たぶん、楽しいのかもね。でも、それがちょっと不思議でさ。納得いかないんだ」

 顔を上げると、カラフルなクッションが棚に整列していた。値札が風に触れるたび、紙の端だけが静かに揺れる。空調の流れが売り場の境界をなでていくのが、肌でわかる。

「たくさん欲しいものに囲まれて、それが自分の家や生活の一部になる未来を想像するのが楽しいんじゃない?」

 鳥子の言葉に、私は顔を上げた。

 曖昧に漂っていた感情の輪郭を、ぴたりと掴まれたような感覚がした。

「あ……うん。たしかに。そんな感じかも」

「でしょ? だから私、こういうお店けっこう好きなんだよね。今も考えてるよ」

 鳥子は売り場全体を見回しながら言った。

「空魚との生活に、どんな家具があったら、もっと幸せになれるかなって」

「……なんかそれ、恥ずかしいからやめて」

「えーやだー」

 自分で口にしておきながら、頬をほんのり赤くして鳥子がコロコロ笑っている。

 その照れ方が反則みたいに可愛くて、見ているこっちまで頬が熱くなった。

 そして鳥子は、誤魔化すように鼻の下をかきながら続けた。

「ちなみに、空魚がこの辺で一番気に入った物ってなに?」

「なんでもいいの?」

「うん。大きさも値段も気にしなくていいよ」

「ん……なら」

 私は猫のぬいぐるみを棚に戻し、近くに展示されていたベッドの端へ腰を下ろした。

 マットレスが静かに沈み、背中を受け止める。柔らかすぎず、固すぎず、その沈み方が「心地よい」の正解みたいな具合だった。

「ベッドかな」

「ベッドか〜」

 鳥子はマットレスを軽く押して反発を確かめると、そのまま私の隣へ倒れ込んだ。

「あ゛〜……動けなくなるぅ〜」

「ほら起きて。茜理たち待ってるでしょ」

「え〜」

「ほら、ちゃんとして。私はそんな鳥子の方が好きだから」

「……今それ言うの?」

 鳥子は照れ隠しみたいに笑って起き上がった。拍子抜けするくらいの素直さだ。

 私は黙ったまま、それを了承と受け取る。

 鳥子はベッドから立ち上がると、私の手をそっと握って歩き出す。

 私はその手に引かれながら、一度だけフロア全体を見渡した。

 そのとき、胸の奥に、説明のつかない引っかかりが生まれる。

 空気の温度が一段だけ下がったような、そんな感覚。

 私は足を止めた。

「空魚?」

 立ち止まった私に手を引かれた鳥子の声が、一歩先から響く。

 普段から聞き慣れているはずの鳥子の声が、明るさの皮が一枚だけ剥がれ落ちたように、わずかに心許ない音色に聞こえた。

「ねえ、鳥子。なんとなくなんだけどさ……」

「うん」

「人……いなくない? さっきまで……たくさんいた気がするんだけど」

「え?」

 鳥子はすぐに振り返り、鋭く周囲を見回した。

 数秒の沈黙。ショールームに並ぶ家具たちが急に模型に変わったような、そんな空洞感が漂う。

 鳥子が私の方を見る。その顔には、はっきりとした「理解」と、わずかな「警戒」があった。

「いないね」

 ぽつりと落ちたその声の重みが、逆に静けさを際立たせる。

「だよね」

 私も頷きながら、店内を見回す。

「偶然だと思う?」

 問いながら耳を澄ます。人の気配を探る──。

 ……なにも聞こえない。

 客たちの話し声。近くの足音。キャスターの転がる乾いた音。子どもの泣き声。優しい印象のBGM。

 この店のどこかで必ず鳴っているはずの生活音が、まるで最初から存在しなかったみたいに跡形もない。

 鳥子が眉を寄せ、再び周囲を見渡す。

 私は無意識に左手首の腕時計へ視線を落とした。嫌な予感がした。

 ……数字が、一部だけ変わっている。

 アラビア数字のはずの文字盤に、見慣れない──いや、見覚えがあるようで絶対に読み取れない、「ここ」特有の奇妙な記号が混ざっていた。

 視界の端がざわつくほど異質で、脳が解読を拒むような意味不明な記号。目を離せば、別の形になってしまいそうな気がして、瞬きすら躊躇った。

「……もしかして、裏世界になってる?」

 鳥子は小さく呟いた。

「そうだね……どっちかっていうと、中間領域だけど」

 ここが裏世界なら、もっと明確な崩壊が見えるだろう。例えば骨組みビルのように──壁の劣化、天井の剥落、構造のガタつき。老朽化していたりしないとおかしい。

 ──いや、必ずしもそうではないのかもしれないが、経験上そうでないとどこか違和感がある。

 でも、ここは「まだ」それが来ていない。しかしその「まだ」が逆に不気味だった。

「なら、早く出ないと。茜理と夏妃だけじゃなくて、小桜と霞まで待たせちゃう」

「そうだね……」

 私が頷くと、鳥子は少しだけ考え込むような顔をした。

「小桜たちまで入り込んじゃってる可能性とかないかな?」

「……なくもないかな」

 私は頷き、右目のカラコンに指を伸ばす。

 外すと、視界が一段クリアになる。空気の粒子の並びがわずかに変わった気がした。

 光の輪郭が、微妙に揺れて見える。

 改めて辺りを見る。棚、ソファ、テーブル──綺麗に並んでいるはずなのに、それがどこかで何度もコピー&ペーストを繰り返された画像の境界が浮いているような歪みを感じさせる。

 私は見落としがないか確かめるように売り場を見渡した。

 出口があるはずだと思って。

 けれど、ゲートを示す青白い燐光はどこにもなかった。

「鳥子、ごめん。何にも見つからない──」

 そう言って振り向いた瞬間、私の胸にひやりとしたわずかな違和感が走った。

 私から少し離れた場所。鳥子が、何かに引き寄せられたみたいにフロアマップの前で立ち尽くしていたからだ。

 視線だけがポスターに吸い込まれて、そのまま動かない。

 一瞬、声をかけるより先に足が前に出そうになる。けれど、鳥子はこちらを見ずに手だけをひょいと上げてチョイチョイと手招きした。

「空魚ー。これ、見て」

 その声があまりに普段通りで、緊張していた肩の力が少しだけ抜けた。

 私はカートをカラコロと押して、黙って鳥子の隣に並び、額縁に収まった店内案内図を覗き込む。

「──なにこれ」

 口から勝手に零れた。目に入った図が、異常を通り越して意味不明に見えたのだ。

 地図の文字はほとんどが奇妙にねじれ、まるで印刷の途中で誰かが紙を引っぱったみたいに引き延ばされている。

 区画も配置も、視線を落とした瞬間は理解できそうなのに、次の瞬間には何を示していたのか思い出せなくなる。

 地図として成立していない。

 通路だけが蜘蛛の巣みたいに枝分かれし、どこまでも続いていた。

「……どこを見るの?」

「ここ。あと、ここ、それからここ」

 鳥子が指した三か所に、赤い丸。

 よく知っている「現在地」マーク──の「崩れたコピー」が三つ。

 それぞれに寄り添う言葉は、読めそうで……完全には読めない。

 活字の形をしているのに、知っているはずの言語なのに、意味がもやに吸われていく。

 その中でも、わずかに残った判読できそうな字面を頼りに、私はどうにか解読を試みる。

 ──『現〇〇 Y〇〇 A〇〇 〇〇〇〇』

「……『現在地』『YOU ARE HERE』。合ってると思う?」

 問いかけると、鳥子はこくりと頷いた。

「うん。合ってると思う」

「でもさ、現在地が三つって変じゃない? どれが本当の『ここ』なの?」

「うーん……どれでもなかったりして」

 鳥子はポスターの表面に手を置き、指先で四隅をそっとなぞった。

 その動作は、まるで本当に二次元なのか確かめているみたいだった。

「……これ、マップがフレームの外にまで続いてる」

「え?」

 私は思わず顔を近づける。

 地図の端は、ポスターの境界で終わっていなかった。

 紙の外に伸びている──というより、ここで無理矢理切り取られているように見える。

 本来はもっと広がっている図面を、強引に狭い額縁に押し込めた結果、隅が溢れて歪んでいる、そんな異常さ。

 この店舗の実寸と合っているはずがない。

 縮尺という概念そのものがどこかへ失踪している。

 地図としての役割を放棄しているようにしか見えなかった。

 さらに見つめるうち、マップ全体にじっとりとした不快な歪みが見えてきた。

 通路は細かく枝分かれし、無数の区画が蜘蛛の巣のように絡み合い、ねじれ、交わり、途切れ、またどこかへ続いていく。

 これは、商業施設の案内図とは思えなかった。

 迷路の成長過程をそのまま描いたような、理不尽な広がりだった。

「……広いにも程があるよ」

 つぶやいた声は、自分でも驚くほど小さく、息の狭間に消えていった。

 その音が飲み込まれる静けさが、やけに耳に残った。

「あれ? これ……」

 不意に響いた鳥子の声で、私の意識がその視線の先へ引き戻される。私が引いていたカートだ。

 本来なら空のはずの買い物カート。まだ何も入れていなかったはずだ。

 なのに、そこには黒い猫のぬいぐるみが一体、ぽつんと置かれていた。

 起毛した黒い生地。丸い金色のボタンの目。小さな三角耳。細い尻尾だけが、底に沿うように伸びている。

 ──さっき私が手に持っていた、あの黒猫だ。

「あれ……カートに入れたっけ? 私……」

 言いながら自分で首をひねる。記憶の手触りが曖昧すぎる。

「ううん。見てたけど、空魚なにも入れてなかったよ」

 カートの中の黒猫のぬいぐるみ。その首元で、小さなタグが揺れていた。

 そこにはこう書かれていた。

《Bring me back》

 太字の筆記体で、その文だけが印刷されている。余白が広すぎて、逆に目に焼きつく。

 意味は単純なのに、やけに胸の奥に刺さる。

 針で突かれたみたいに、呼吸の途中で引っかかった。

 誰が置いたのかも、どうしてここにあるのかもわからない。

 ぬいぐるみはなにも言わない。ただそこにあるだけなのに、こちらだけが見られている気がした。

 私はタグを見つめたまま、小さく息を吸った。

 持ち上げると、鳥子が手を伸ばして覗き込む。

「空魚が入れるなら、ちゃんと『これ買っていい?』って訊いてくるもんね。……欲しい?」

「ううん。いらない。全然」

 私と鳥子が小さく笑う。けれど、笑ったあとに残る空気はどこか冷たい。

 鳥子がタグをつまみ、軽く持ち上げた。

「『Bring me back』って、なに? 返品希望ってこと、にゃん?」

 猫に語尾を合わせる鳥子を、私はあえて無視する。

「タグにそんなこと書く商品、普通ある?」

「まあ、ないよね」

 鳥子はぬいぐるみを棚へ戻した。

 黒猫は、何事もなかったように元の場所へ座る。

 私はそれを見届けて視線を外した。

 ……その瞬間だけ。

 金色の目が、こちらを見返した気がした。

「…………」

「…………」

 私と鳥子のあいだに、沈黙が落ちた。

 さっきまでとは違う種類の静けさだ。

 この猫のせいだろうか。

 このまま考え続けるのが嫌で、私は話題をねじ曲げた。

「……IKEAに入った時の、あの香りさ? 空調から流れてきたって可能性、あるかな?」

 気を紛らわせたかったのかもしれない。自覚も曖昧なまま、私は鳥子に顔を向けた。

「ああ、別のエリアから香ってきてた、とか?」

 鳥子はすぐ答えてくれた。私の意図を汲んだのか、ただの反射なのかは判断がつかない。

「そうそう。だったら、ダクトを辿って行けば良いのかも」

「でも、空調のダクトって、普通は壁の中とか、天井に埋まってない?」

「あ……確かに」

 反射的に顔を上げた。

 空調の吹き出し口を探そうとして。

 そこで、視線が止まる。

 ……ない。

 天井が、なかった。

 梁も。

 照明も。

 非常口の案内板も。

 見上げれば必ずあるはずのものだけが、綺麗に切り取られたみたいに消えていた。

 灰色の空間だけが、どこまでも続いている。

 奥行きの感覚が壊れていた。

「……え」

 自分でも驚くほど、か細い声が漏れた。

「空魚?」

 鳥子も私の視線を追って、同じように顔を上げる。

「わあ……天井、なくなっちゃった」

 鳥子が唖然として言う。私は返事をしなかった。できなかった。

 胸の奥のひっかかりは、本当はもっと前から、ずっとあったはずなのに。

 私はそれを見ないようにしていただけだ。日常のほうに重心を預けて、異常の感触を避けていた。

 だから今、驚いている自分がどこか滑稽ですらあった。

「これはて……すごいね」

 ようやく出た声は、妙に軽く響いた。

「まずは、一驚きってとこかな」

 私が言うと、鳥子が続ける。

「だね……次の驚きは、もっと楽しいのだといいんだけど」

 しばらく、私たちは無言で、天井だった場所を見上げていた。

 音がなかった。空調の駆動音も、客の足音も、店内BGMも。

 いや──消えた、というより、空間そのものが音を拒んでいるような静けさだった。

 背中の奥が、じわりと冷える。

 空間が切り替わった。たぶん、もう簡単には戻れない。

 鳥子が小さく息を吐く。

 私も、それに続いた。

 私たちの呼吸だけが、広すぎる店内へ静かに吸い込まれていった。

 

 

 

3

 

「とりあえず、フードコート目指して行こうか」

 私はそう言って、カートの持ち手を握り直した。

 落ち着いているつもりだったが、手のひらだけがじんわりと汗ばんでいる。

 改めて周囲を見渡す。

 遥か上空。本来なら天井が収まっているはずの位置には、照明の影すらない。それなのに、店内は一面がオレンジ色の光に照らされていた。

 光源がない。

 そのことを不自然だと思う感覚さえ、少しずつ麻痺してきている。

「行けるかな? フードコート」

 鳥子の声は、空気の膜を押し分けるように静かだった。

「行けるだけ行ってみる。途中で出口が見つかるかもしれないし」

「行ってみて、誰もいなかったら?」

「その時は……出口探しに集中しよう」

「うん。そうだね」

 短いやり取りのあと、私は小さく息を飲んで、一歩踏み出した。

 カートの車輪が床を転がる音だけが、どこか不釣り合いなほど鮮明に耳に残った。

 いくつかのブースを抜けたところで、視界がぱっと色づいた。

 子ども用のプレイマットが山のように積まれ、青や赤、蛍光色の布が棚の影から溢れ出している。

 吊られたラベルに目を向ける。

 そこに並んでいるのは、文字に似た線だった。

 読めない、というより、意味を理解しようとした瞬間に、文字そのものがほどけていく。

 中間領域では、文字が文字として機能しなくなることは珍しくない。

 だから、これ自体は驚くようなことじゃない。

 ただ、ここまで徹底していると、逆に妙な可笑しさが込み上げてきた。

 その時だった。

 耳の奥で、ざらりと雑踏が弾けた。

 壁の向こうで、誰かがコソコソと話しているような気配。

 ほんの一瞬だけだった。

 私は反射的に足を止め、鳥子と目が合う。

 けれど、互いに何も言わなかった。

 もう、この程度のノイズでは足を止めなくなっていた。

 怖くなくなったわけじゃない。

 ただ、いちいち反応していたら、先へ進めなくなるだけだ。

 入店したときに見た、正しい店内マップ。

 それによれば、フードコートはこの店舗の端の方にあったはずだ。

 通路に描かれた矢印を追っていく。

 最初は商品の棚や展示品に挟まれていた通路が、少しずつ広がっていった。

 やがて、視界が開ける。

 その先に、不自然なほど整然と並んだテーブルと椅子が見えた。

 ──フードコートだ。

 そう認識した瞬間だった。

 死んだように静かだった通路に、突然ざわめきが混じり始めた。

 遠くで誰かが笑う。

 別の誰かが叫ぶ。

 ざかざかと靴音が走り、トレイがカウンターに置かれる乾いた音まで聞こえてくる。

 あまりにも日常的だった。

 だからこそ、不自然だった。

「人……」

 鳥子が、小さく声を漏らした。

「いるわけないよね?」

「はず、だけど」

 自分でも、声が少し固くなっているのが分かった。

 音だけを聞けば、フードコートは昼時のように賑わっている。

 でも、決定的に噛み合っていない。

 私はゆっくりと足を進めた。

 背後から、鳥子の足音が静かについてくる。

 近づくほどに、フードコートの内部が見えてきた。

 家族連れ。

 学生の集団。

 テーブルを囲み、楽しそうに食事をしている。

 どこにでもある昼時のフードコートだ。

 ここが、中間領域でさえなければ。

 私は呼吸を整え、右目に意識を寄せた。

 その瞬間。

 ざわめきが、ふっと遠のいた。

 まるで、人々も音も、この空間の向こう側に薄く貼り付いているだけみたいに。

 そこにある。

 なのに、触れられない。

 実体が、ひどく薄い。

 ほんのわずかな空間の「ズレ」。

 これは……現実じゃない。

 私は改めて確信した。

「入ってみる?」

 鳥子が眉を寄せながら訊く。

「入ろうか。鳥子は大丈夫そう?」

「うん、大丈夫」

 鳥子はバッグの中にそっと手を入れた。

 私もカートの持ち手から右手を離し、バッグの上に添える。

 マカロフの位置を確かめる。

 フードコートの入り口手前で、私たちは小さく頷き合った。

 そして。

 境界を一歩またいだ。

 その瞬間──。

 すべての音と人影が消えた。

 ざわめきも、笑い声も、食器の触れ合う音も。

 ほんの一秒前まで確かに存在していた気配が、跡形もなく切り取られる。

 火を吹き消したみたいに。

 余韻すら残さず。

 静寂だけが落ちてきた。

 私は反射的に歩みを止めた。

 目の前には、長テーブルと椅子が整然と並んでいる。

 フードコートそのものは、何も変わっていない。

 ただ、人だけが綺麗に消えていた。

「空魚」

 鳥子が、そっと名前を呼んだ。

 背中を軽く指で払われる。

 張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。

「やっぱり……誰もいないね」

 私が周囲を見回しながら言うと、鳥子は静かに頷いた。

「うん。茜理と夏妃も、ここにはいなさそうだね」

「たぶん、そうだね」

「そっかぁ……」

 鳥子が小さく息を吐いた。

 その声を最後に、会話が途切れる。

 私たちは足を止めたまま、整然としたフードコートを眺めていた。

 人のいないフードコート。

 本来なら、ただの広い空間のはずなのに。

 音がなさすぎる。

「空魚、念のためフードコートの中、一回りしておく?」

「……うん。そうしよっか」

 私たちは並んで歩き出した。

 人の気配はまるでない。

 なのに、椅子やテーブルはきちんと整えられていた。

 誰も座っていない。

 それなのに、ついさっきまで誰かがいたような──そんな温度だけが残っている。

 私は気を張りながら、鳥子の肩越しに周囲を警戒した。

 鳥子も黙ったまま歩いていたが、しばらくして、ぴたりと足を止めた。

「……あ」

「どうしたの?」

「良い匂いがする」

 また、あのアロマの香りかと思った。

 私は鼻をすんと鳴らす。

 けれど、違う。

 食べ物の匂いだった。

 言われてみれば、確かに香ばしい匂いが漂っている。

 鳥子に指摘されるまで気付かなかった自分のほうが、むしろ不思議だった。

「この匂いも、なんだか懐かしいなぁ」

「カナダでも同じだった?」

「うん。同じだったと思う」

「なら、早く脱出しようか。そしたらゆっくりご飯食べられるよ」

「うん」

 私たちはそのまま、フードコートの奥へ進んだ。

 あたりは静まり返っている。

 私たちの足音だけが、タイルの床に淡々と吸い込まれていく。

 それでも、匂いだけははっきりしていた。

 空気の流れに乗って、途切れることなく鼻をくすぐってくる。

「匂い、あっちからするんじゃない?」

 鳥子が指差した先。

 そこには、フードコート奥のビュッフェラインがあった。

 私たちは頷き合って近づいていく。

 無人のレジカウンター。

 その奥には調理スペースが覗いている。

 誰もいない。……はずなのに。

 そこには、食べ物が置かれていた。

 二つのトレイに整然と並ぶホットドッグとフライドポテト。

 紙コップに入ったコーラ。

 まるで、誰かが注文して受け取る直前の状態のまま。

 しかも、それらは出来たてみたいに湯気を立てていた。

 誰かが、今まさに受け取りに来るのを待っているみたいに。

 ポテトには塩がきらきらと光り、ホットドッグのパンはふっくらと柔らかそうだった。

 現実にある食べ物の質感を、完璧に再現している。

「……なにこれ」

 私は声をひそめた。

 鳥子は黙ったまま、そのトレイを凝視している。

 匂いは、本物の食べ物と同じだった。

 今すぐ手を伸ばしたくなるほど、普通で、美味しそうで。

 だからこそ、危うい。

「……やめとこ」

 鳥子がぽつりと言った。

「うん」

 私は頷いた。

 少しだけお腹は減っていた。けれど。

 どうにも、食べる気にはなれなかった。

 

 

 

 

 

 フードコートを一周して、私と鳥子は足を止めた。

 無言のまま、ゆっくり顔を見合わせる。

 やはり、茜理と夏妃の姿はなかった。

 ここに来ていた形跡すらない。

 もしかしたら、もうどこかへ移動したのかもしれない。

 あるいは、最初からここを通っていなかったのかもしれない。

 どちらなのか、判断できない。

 その曖昧さが、じわりと不安の輪郭を濃くしていく。

 私と鳥子は並んで、フードコートの出口へ向かった。

 境界から足を踏み出した、その瞬間。

 ざわ……。

 耳の内側を指でこすられたような感触が走った。

 囁き声。

 笑い声。

 椅子を引く金属音。

 紙コップが倒れて転がる、軽い音。

 さっきまで消えていた音が、まるで堰を切ったように背後から押し寄せてくる。

 反射的に振り返った。

 そこには──。

 フードコートがあった。

 人の姿はない。

 整然と並んだテーブル。

 少しも乱れていない椅子。

 食器も、食べ残しもない。

 それなのに、音だけが戻っている。

 囁き声がする。

 誰かが笑っている。

 どこかで椅子が引かれ、紙コップが床を転がる。

 まるで「ここでは人間が騒がしく過ごしている」という事実だけを、空間が覚えているみたいだった。

 私はしばらく、その光景を見つめた。

 不気味だった。

 けれど、それ以上に気になった。

 もし、この音が「表」の空間に近いものなら。

 どこかにゲートがあるんじゃないか。

 そう思った。

 私は唇を結び、右目に意識を集中させる。

 膜の向こう──重なり合った空間の奥を、透かすように見る。

 椅子の影。

 調理カウンターの奥。

 非常扉の先に続く通路。

 視線を滑らせる。

 どこかに、青白い燐光はないか。

 現実とこちら側を繋ぐ、あの出口は。

 けれど──。

 何もない。

 異常な歪みも。

 潜んでいる気配も。

 ゲートらしいものも。

 ただ、「ここにいない誰か」の声だけが、膜越しに響き続けている。

 鳥子も、いつの間にか私と同じ場所を追うように視線を動かしていた。

 横顔に、いつもの余裕はない。

 しばらく探したあと、私は小さく息を吐いた。

「……だめっぽい」

 鳥子はゆっくり頷いた。

「うん。ここじゃないね」

 そう言って、鳥子は私の肩をそっと抱き、頭にひとつキスを落とした。

 その仕草が、不思議と胸の奥の緊張をほどいてくれた。

 私は最後にもう一度だけ、右目で周囲を撫でる。

 やっぱり、何もない。

 諦めて、鳥子と並んでフードコートの外へ足を向けた。

 背後では、いまだに誰かが笑っていた。

 けれど。

 数歩進むと、その声はもう届かなくなっていた。

 

 

 

 

 フードコートを出ると、道の脇にフロアマップの描かれたA看板が立っていた。

 私はなんとなく視線を向ける。

 本来なら「現在地」「YOU ARE HERE」と書かれているはずの場所は、印刷不良とも違う歪み方をしていて、もう文字として読むことができなかった。

 ただ、その上に──赤い点が三つ、ぽつんと灯っている。

 一つはフードコートのピクトグラムの上。

 たぶん、今の私たちの位置だ。

 もう一つは、少し離れた売り場と思しきエリアに。

 そして最後の一点は──地図の端に近い、やけに遠い場所にあった。

「これ、現在地がいくつもあるのってさ……何か意味あると思う?」

 鳥子が不思議そうに言う。

 私はマップから目を離さずに答えた。

「全然わからないけど……あるとしたら、誰か他の──」

 私がそう口にした瞬間だった。

 私たちから一番離れた赤い点が──ツツッ、と静かに横へずれた。

「…………」

「…………」

 私と鳥子の間に、短い沈黙が落ちる。

 五秒ほど経ってから、私は鳥子の方を見る。

「ねえ、鳥子。いまの」

「うん。見てた」

「動いたよね?」

「うん。動いてた」

 鳥子の声は落ち着いている。

 けれど、いつもの軽さはなかった。

 静かな驚きが、その奥に沈んでいる。

「これ、ただの地図じゃないんだ。現在進行形で『誰か』の位置を示してるんじゃないかな。ただの思いつきだけど……私の思考、飛躍しすぎ?」

 鳥子はゆっくり首を横に振った。

「ううん。私もそう思う」

 鳥子は、私たちを示しているらしい赤い点を指先で軽くなぞる。

「じゃあ、他の点は……」

「茜理たちとか。小桜さんたちとか。それか、まったく知らない誰かかも」

 そう言った瞬間、自分でも気づかないうちに深く息を吐いていた。

「……茜理と小桜たち、どこにいるんだろう」

 鳥子の声にも、かすかな迷いが混じっていた。

「さっきまではフードコートにいるかもって思ってたけど……ここまで来て会えないなら、違うよね」

「茜理たちは、こっちかな」

 鳥子が、私たちから一番近い赤い点を指差す。

「どうだろう」

「小桜と霞はこっち?」

 今度は、さっき動いた赤い点。

 私は確信を持てないまま頷いた。

「……そうなのかもね」

 地図の上で遠く離れた二つの赤点。

 それが示しているのが誰なのか。あるいは……何なのか。

 はっきりとはわからない。

 けれど、他に手掛かりもない。

 待ち合わせたはずのフードコートには、茜理も夏妃もいなかった。

 小桜と霞がいないのは予想通りとしても、こうも空振りが続くと胸がざわつく。

「行ってみようか」

 顔を見合わせ、小さく頷き合う。

 赤い点が示す先が誰であれ。

 今は、そこへ向かうしかなかった。

 歩き出そうとしたとき──不意に、胸の奥を何かが撫でていった。

 右目の端に引っかかった違和感に、私は無意識に足を止める。

 売り物のテーブル脇。

 そこに、ぽつんとカートが一台だけ置かれていた。

 周囲の空気が薄ぼんやりしている中で、その一角だけが妙に輪郭を濃くしている。

 場違いなくらい、はっきりと。

 胸の奥で、ひどく小さなざわめきが立った。

 引き寄せられるみたいに、私はカートへ近づき、中を覗き込む。

 ──黒い猫のぬいぐるみが、こちらを見上げていた。

「……また?」

 思わず呟いた。

 さっき見つけたものと、同じ。

 少なくとも、見た目はまったく同じだった。

 私はぬいぐるみを拾い上げる。

 柔らかな毛並み。

 丸い金色のボタンの目。

 小さな三角耳。

 けれど、手触りの柔らかさより先に、ひどく冷たい印象だけが指先に残った。

 首元にはタグが二つ。

「価格」「防犯」──そして、その横に貼られた小さな白い札。

〈Bring me back〉

 それだけ。

 シンプルな筆記体なのに、何度読んでも妙に温度のない字面だった。

 思わず息を飲む。

 嫌な予感というほど大げさじゃない。

 ただ、どこかで「私に関わるな」と言いたくなるような、不愉快な感じがした。

 私はぬいぐるみをカートへ戻した。

 その瞬間、金色のボタンの目が、ほんの一瞬だけこちらを向いたように見えた。

「…………」

 私は見なかったことにした。

 胸ポケットからスマホを取り出す。

 無性に茜理と小桜に連絡を取りたかった。

 けれど、電波は圏外だった。

 スマホのアンテナは沈黙したまま。

 Wi-Fiのリストにも、何も表示されない。

 本来なら繋がるはずの場所なのに、電波もWi-Fiも完全に死んでいる。

 いや。

 ここでは、繋がらないことが当たり前になっている。

 まあ……仕方ないけど。

 ここ中間領域だもん。

「鳥子はどう?」

「圏外だね。残念だけど」

 鳥子は自分のスマホをこちらへ傾ける。

 やっぱり、同じだった。

「だよねぇ」

 私はスマホを伏せ、カートの持ち手に軽く押し当てる。

 深いため息が漏れた。

 どうにもならない。

 もう進むしかない。

「よし。いっちょ行ったるかっ」

「うん、行こう行こう!」

 ちょっと気合いが空回りしたまま、私たちはカートを押して歩き出した。

 ……が。

 数歩進んだところで、私はぴたりと足を止めた。

 視界の端を、何かがかすめた気がした。

 反射的にそちらを向く。

 さっきとは別のカートが、通路の脇に置かれていた。

「…………」

 近づいて、中を覗き込む。

 ──いた。

 黒猫のぬいぐるみ。

 さっきのヤツと同じなのか、それとも別のものなのか。

 見分けはつかなかった。

「また?」

 私は小さく呟いた。

 首元のタグに目が吸い寄せられる。

 筆記体の、あの文字。

 〈Bring me back〉

「もう、しつこいなあ。どこに戻してほしいのよ」

「さすがに飽きるね」

 鳥子と私の間に、ほんの一拍だけ空白が落ちる。

 ……ふと思いついた。

「鳥子、これさ」

「うん?」

「持って帰ったらDS研に売れそうじゃない?」

「これが?」

「うん。『どこまでも追いかけてくる猫のぬいぐるみ』……ってどう?」

「うーん、それだと……売っても、DS研から返ってくるんじゃない?」

「そしたらまた売ろう。仕入れ値ゼロで利益率は最高だよ。錬金術じゃん」

「悪どいなあ、もう」

 私はぬいぐるみを手に取る。

 少しだけ迷ってから、そのままバッグへ突っ込んだ。

「あーあ。〈Bring me back〉って書いてあるのに、連れ去られちゃった」

「ついてくるのが悪い」

「だねぇ」

「最近、裏世界の開発ばっかりで探索サボってたし、ちょうどいい収入だよ」

「ふふっ」

「なに?」

「多分これ、私たちを怖がらせるために置かれてたんだろうなって」

「まあ、そうだね」

「全然怖がられてないの、ちょっとかわいそう」

「もう一味足りなかった。最初はちょっと薄気味悪かったんだけどね」

「うん。そうだね」

 私と鳥子は顔を見合わせる。

 そして、くすくすと笑い合った。

 くだらないやりとりの余韻が、胸の奥に温かく残る。

 さっきまで確かにあった緊張が、少しだけ遠ざかっていく。

 笑いが自然に落ち着くころには、どちらからともなく足が前へ動いていた。

 私たちは、赤い点の示す場所へ向かって歩き出した。

 

 

 

「じゃあ、近い方の赤点に行ってみようか」

 しばらく歩いた後、壁にかけられたフロアマップを指差し、私が最寄りの赤点を示すと、鳥子も素直に頷いた。

 顔を見合わせ、言葉は交わさずそのまま歩き出す。

 売り場をいくつか抜け、間仕切りと通路が作る迷路みたいな構造を、無言のままくぐり続ける。慣れてきたはずのIKEAの静寂が、妙に落ち着かない。

 やがて、さっきと同じ形のA看板が視界に入った。ほとんど同じ構図で、さっきと同じ場所に戻ってきたように見える。

 私たちは足を止めて顔を見合わせ、同時にマップを見る。

「……あれ?」

 鳥子が眉を寄せる。私も覗き込んだ。

 三つあったはずの赤い点が……二つになっていた。

 いまいる「現在地」の赤い印と、いま目指している近くの印。

 その二つから離れた場所にあった、三つ目の赤い印だけが、跡形もなく消えていた。

「ひとつ消えてる……」

 私が呟くと、鳥子は唇を噛み、短く息を吸ってから言った。

「あの点、誰だったんだろう?」

「もし小桜さんだったら……霞の力で、一緒に脱出できたのかもしれないね」

「でも、茜理や夏妃だったら? それか、まったく別の迷い込んだお客さんとか」

 鳥子の言葉で、思考の回転が少しだけ早くなる。

 もし、消えた赤点が茜理と夏妃の現在地だったとしたら──。

「……うん。そこも考えてる」

 誰かに何かが起きて、その結果として「現在地」が消えた。そんな可能性が頭をよぎる。

 私はスマホを取り出した。圏外。Wi-Fiもなし。見慣れた表示に軽くため息をつき、画面を伏せてカートの持ち手に押し当てた。

「無事だと……いいんだけど」

「うん……」

 小さな沈黙が落ちる。

 そのときだった。

 手の中で、スマホが短く震えた。

 通知のリズムとメロディを覚えている。これは電話だ。

 私はスマホの画面を見たが、文字化けしていて誰からなのか読めなかった。

 一瞬だけ迷って、それでも通話ボタンを押した。

「空魚、誰から!?」

「わかんないっ」

 鳥子が一歩近付く。私は即答し、スマホを耳に押し当てた。

「……もしもし、誰?」

《あ、センパイ! いま、どこにいますか?》

 電話の相手は、茜理だった。

 私は安堵のため息を吐いた。受話口から聞こえる茜理の声は、少しかすれていて、息が上がっている。

 焦りというより、走り続けたあとの疲労に近いと感じた。

 私は鳥子と短く視線を交わし、スピーカーに切り替えながら周囲を見回した。

「こっちは……たぶんキッチンコーナーの奥。展示のキッチンがたくさん並んでて……って、これじゃ説明になってないか」

《うーん……ちょっとわからないですねぇ……》

 電話の向こうで茜理が苦笑した。まあ、そりゃあそうだ。

《なんだか、私となっつん、裏世界に入っちゃったみたいで……》

「うん。やっぱそうだよね。私たちもいるから、すぐに迎えに行くよ」

 そう言った瞬間、茜理の声が跳ね上がった。

《本当ですか!? よかったぁ〜!》

 少しだけ、空気が軽くなった。

「フロアマップ、ある? 見てみて。そこに私たちと茜理の現在地が出てるはずだから。でも、あんまり動かないで。何がどう作用するか、全然わかんないから」

《はい! でも、いまなっつんが怪我してるので、あんまり動き回れな──》

 そこで、唐突に声が途切れた。

「茜理?」

 呼んでも返事がない。

 代わりに、徐々にノイズが入りはじめる。電子音が歪んだような、湿度のない音。

 ジャリ……ジャリ……。

 その隙間から、音声が割り込んだ。

《……いらっしゃいませ》

「……は?」

 茜理の声が言った。

 だけど──違う。

 茜理の声なのに、私に向けられていない。棚や壁に向かって言われているみたいだった。

 問い返す暇もなく、同じ一言が繰り返される。

《いらっしゃいませ……》

 今度は少しだけ遅く、少しだけ低く、変な粘り気を帯びて。

《いらっしゃいませ……いらっしゃいませ……いらっしゃいませ……》

 繰り返されるたび、頭のどこかが薄く冷えていく。

 鳥子が肩を強張らせ、何か言いかけて黙る。

 私は一呼吸置き、スピーカーを切ってからゆっくりと耳に戻した。

「ああ、はい……お邪魔してます」

 その瞬間、受話口の向こうで、ほんのわずかに間が空いた。

《──────ごゆっくりどうぞ》

 応答されて、反射的に私は通話を切った。

 せっかく上がりかけた気持ちが、一瞬でしぼんだ。

 さっきまで、茜理の声が聞こえたことに安心していたはずなのに。

 その声が、本人ではない何かに使われた。

 そう考えると、胸の奥に嫌な冷たさが残った。

「茜理……大丈夫かな」

「……わかんない。はぁ……」

 自分から茜理や小桜に電話をかけることは、最初から考えていた。

 でも、すぐに却下した。

 ここで電話をかけたら、〈向こう側の何か〉と繋がってしまうかもしれない。

 そんな可能性を、わざわざ試したくなかった。

 だから電話は最後の手段だった。

 それなのに──向こうからかかってきた。

「はぁ……」

「空魚。ほら、よしよし」

 こぼしたため息と連動するように、鳥子に髪をぐしゃぐしゃにされる。

 普段だったら怒るところだが、今はそんな気分にはならなかった。

 むしろ、その雑な手つきがありがたかった。

 私は少しだけ目を細めて、鳥子を見る。

 鳥子も私を見ていた。

「……行こうか」

「うん」

 私たちはもう一度だけフロアマップを振り返った。

 赤い点は、二つ。

 そのうち一つは、私たち。

 もう一つが、茜理たちなのかもしれない。

 だったら、そこへ行く。

 電話の向こうで何が起きたのかを確かめるためにも。

 私たちはカートを押し、再び歩き始めた。

 

 

 

 いくつもの売り場を抜けていく。

 見慣れない什器が並んでいる一方で、間取りはどこか微妙に歪んでいた。初めて見るはずなのに、何度も同じ場所を通っているような既視感だけがまとわりついてくる。

 私たちは、フロアマップで一番近くにあった「現在地」の赤い点を目指して、言葉を交わさず歩き続けていた。

 けれど、進んでいるはずなのに、距離感だけが少しずつ曖昧になっていく。

 近付いているのか。

 それとも、むしろ遠ざかっているのか。

 もう、自分の感覚だけでは判断できない。

 それでも、あの赤い印の先に誰かがいると信じて進むしかなかった。

 そのときだった。

 前方に、影が立っていた。

 ……いや。

 違う。

 立っていた、というより……最初から、そこにあった。

 私は一瞬、それを売り場の柱か、巨大な展示用オブジェだと思った。

 あまりにも大きくて、あまりにも周囲の景色に馴染んでいたからだ。

 けれど、数歩進んだところで、その認識が間違っていることに気付いた。

 長すぎる腕。

 短すぎる脚。

 大木を無理やり削って、人間の形だけを与えたような身体。

 そして、その巨体を包んでいるのは──IKEAスタッフの黄色と青の制服だった。

 頭は、展示棚よりも遥かに高い。

 十メートルどころではない。

 歪んだ頭部には、目らしきものも、口らしきものも見当たらない。

 それなのに。

 私は、確かに「見られている」と感じた。

 目がないはずなのに、視線だけが存在している。

 それが肌の上をゆっくり這うように、じわじわと私たちへ向けられていた。

 怪物は、微動だにしない。

 ただ、そこに立っている。

 空間そのものが固まってしまったみたいだった。

 私は思わず息を飲み、足を止めた。

 隣の鳥子も、ほとんど同時に立ち止まる。

「……なにこれ。大きすぎる」

 鳥子の声が、やけに小さく聞こえた。

 私はバッグを開き、マカロフを取り出す。

 銃口を向けたまま、怪物から目を離さない。

 動かない。

 何もしてこない。

 けれど、胸の奥には嫌な感覚が張り付いている。

 怪物の胸元では、スタッフ用のバッジだけが光を反射していた。

 名前も部署も、ここからでは判別できない。

「動かないね」

 鳥子もマカロフを構え、私の隣に並んだ。

「うん」

 目の前のソレは、巨大な陳列用オブジェにしか見えない。

 作り物。

 そう思いたくなる。

 けれど、異様な存在感だけは、そんな言葉では片付けられなかった。

「撃ってみる? 試しに」

「………………ううん」

 しばし考えて、私は小さく首を振った。

「動いたら撃つ。弾丸、節約したい」

「わかった」

 鳥子もそれ以上は言わなかった。

 私たちは銃口を向けたまま、慎重に歩き始める。

 一歩。

 反応はない。

 もう一歩。

 動かない。

 呼吸音すら聞こえない。

 ただ、こちらに向けられた「注意」だけが消えない。

 無視して通れるなら、それが一番いい。

 そう思った。

「……通れるかな」

「……やってみる」

 私たちは息を殺し、怪物の横を通り抜けようとする。

 一歩。

 また一歩。

 動かない。

 あと数歩。

 ──これなら、何事もなく通り過ぎられる。

 そう思いかけた、そのとき。

 頭上から、声が落ちてきた。

『いらっしゃいませ──』

「うわっ!」

「きゃっ!」

 反射的に声が出た。

 空気そのものが震えた。

 腹の底まで響く、異様に低い声だった。

 私は鳥子と同時に駆け出した。

 展示通路を駆け抜ける。

 振り返る余裕なんてない。

 ただ、背後から何かが追ってこないことだけを祈りながら走った。

 十分に距離を取ってから、ようやく足を止める。

 荒い息を整えながら、私は恐る恐る振り返った。

 怪物は──動いていなかった。

 最初に見たときと、まったく同じ姿勢。

 石像のように、そこに立っている。

 そして、こちらを見ている。

「きゅ、急に喋るのは反則でしょ……!?」

 胸の奥で心臓がドコドコ暴れている。

 情けない声が、自分でも分かるくらい震えていた。

 鳥子も肩で息をしながら、振り返ったまま呟く。

「……なんだったんだろう、あれ」

「わかんない……」

 私はまだ銃を下ろせない。

「店員さんの制服着た、化け物? そんな感じ……」

「……うん。そうとしか言えない」

 鳥子も否定しなかった。

 私はようやく怪物から視線を外し、前を向く。

 背中には、まだあの視線が貼り付いているような気がする。

 けれど、もう私たちは振り返らない。

 目的の「現在地」は、まだ先だった。

 

 

 

 

 私たちは、フロアマップに残った赤い点を目指して歩いていた。

 あそこにいるのが茜理と夏妃だと、私はまだ半信半疑だった。

 それでも、そうであってほしいと思っている。

 商品の並びは、どこまでも似通っていた。

 同じ売り場を何度も歩いているような錯覚が、じわじわとまとわりついてくる。

 ときどきフロアマップを見つけては、現在地を確認する。

 私たちを示す赤い点は、ちゃんと動いていた。

 目標の赤い点との距離も、少しずつ縮まっている。

 ……けれど。

 最初にあった三つ目の赤い点だけは、どのマップからも消えたままだった。

 それが、ずっと頭の隅から離れない。

「……消えたままだね」

 目を細めマップを睨みながら、鳥子が低く呟いた。

 あの赤い点のことを、鳥子はずっと気にしているようだった。

 歩きながら、鳥子は何度か足首を回していた。

 歩幅も、いつもより少しだけ狭い。

 疲れを隠そうとしているのだろうけれど、長時間の移動が効いているのは明らかだった。

「何があったのかな」

「小桜さんと霞は、自力で脱出できるだろうからいいとして……」

 私は少しだけ言葉を選んだ。

「正直、知らない人のことまで気にしてる余裕は、あんまりないよね。私たちだって、どうなるかわからないんだし」

「……うん。そうなんだけど」

 鳥子は少し口をつぐんだ。

 それでも、目はマップから離れない。

「でも、もしあの点が誰かを示してたんだとしたら……今はもう、いないってことになるよね」

 その言葉に、口の中がかすかに苦くなった。

 いない。

 その一言が、妙に重かった。

 私は不安と焦燥をごまかすように、ポケットからスマホを取り出した。

 歩数計アプリを開く。

 現実のIKEAなら、とっくに建物の外へ出ている距離だった。

 画面を見ると、数字は読み解けないが歩数はすでに五桁を超えている。

「……もう少ししたら、ちょっと休もうか」

 私はスマホをしまいながら言った。

「うん……同じこと思ってた」

 鳥子の声には、安堵と疲労の両方がはっきり混じっていた。

 休めそうな場所を探しながら歩いていると、柱に、これまでより大きめのフロアマップが掲げられているのが見えた。

 私は立ち止まり、地図を確認する。

 鳥子も私の肩越しに覗き込んできた。

 私たちを示す赤い点と、目指している赤い点。

 二つの距離は、もうそれほど遠くない。

「あと少しかな」

 鳥子が呟く。

「そうだね」

 私は軽く頷いた。

「夏妃が怪我してるって……茜理言ってたよね?」

「うん。でも、あれも『ここ』での通話だから、鵜呑みにはできないけど」

 むかし、私たちがきさらぎ駅に迷い込んだとき、裏世界から表世界にいる小桜に電話をかけたことがあった。

 そのときの小桜は、奇妙な言葉を発する、不気味な機械のような応答をしていた。

 ああいう前例がある以上、さっきの茜理の「夏妃が怪我をした」という話も、すべてを信じるわけにはいかない。

 そもそも、おかしな言葉を吐き始める前の茜理だって、本当に茜理だったのか。

 あれも、この空間が作り出した現象のひとつだった可能性はある。

「鳥子、平気?」

「うーん……ごめん。あんまり平気じゃないかも」

 鳥子は苦笑した。

「足の裏が、ぴきぴき痛い……」

「そっか……。じゃあ、良さそうな場所、早く見つけなきゃ」

 そう言ったところで、ちょうど目の前にソファ売り場が広がった。

 整然と並べられた何十脚ものソファ。

 どれも「どうぞ座ってください」とでも言うように、静かにこちらを向いている。

 あまりにも整っていて、逆に落ち着かなかった。

「ああ……なんだか、ちょうどいいところに」

「つ、疲れたー……」

 鳥子は息を吐きながら、まっすぐ一つのソファへ倒れ込んだ。

 足元を引っ張ると足掛けが出てきて、ベッドのようになるタイプだ。

 鳥子はそこへ身体を沈め、だらしなく手足を投げ出した。

 私は隣に腰を下ろした。

 けれど、横にはならない。

 それに鳥子はすぐ気付いたらしい。

「空魚、どうしたの? 寝っ転がらないの?」

「んー……一応、ここも中間領域だしさ」

 私は周囲を見回した。

「さっき、変な化け物もいたし。最低限の警戒はしておいたほうがいいかなって」

「あ……そっか」

 鳥子は身体を起こしかけた。

「じゃあ、私が先にやるよ。空魚は休んでて」

「ううん。大丈夫」

 私は首を横に振った。

「私、あんまり疲れてないから」

「え?」

 鳥子が心配そうに私を見る。

「空魚、私と同じ距離歩いたよね。クタクタじゃないの?」

「ううん」

 私は自分の足を見下ろした。

「私、中高の頃、よく歩いてたから。こういうのは慣れてるんだよ」

「そうなの?」

「鳥子は走るほうが得意でしょ? たぶん使ってる筋肉が違うんだと思う。だから、鳥子のほうが疲れてるんじゃないかな」

「うーん……」

 鳥子は不満そうに唇を尖らせた。

 けれど、それ以上は反論してこなかった。

「とにかく、安心して休んで。鳥子が休み終わったら、交代で私も少し休ませてもらうから」

「……わかった。じゃあ、頼んだよ」

 そう言いながら、鳥子は渋々と身体をソファへ戻した。

 そして今度は、そのまま私の膝に頭を乗せてくる。

「……鳥子?」

「ここが一番安心するから」

 そう言って、鳥子は目を閉じた。

 私は少しだけ困りながら、それでも髪を静かに撫でる。

 何度か指を通しているうちに、鳥子の呼吸がゆっくりになっていく。

 やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

「……寝ちゃったか」

 呟いた声に、応える者は誰もいない。

 私はスマホを取り出した。

 タイマーを三十分にセットしようとして──少し考える。

 三十分では短い。

 鳥子の疲れ方を見る限り、もう少し休ませたほうがいい。

 一時間。

 私はタイマーを一時間にセットした。

 それから小さく息を吐き、背もたれに身体を預ける。

 静まり返った売り場には、私と鳥子の呼吸だけが残っていた。

 さっきまで歩いていた通路の向こうにも、あの巨大な店員が立っている。

 そう思うと、完全に気を抜くことはできない。

 私は膝の上で眠る鳥子の髪を、もう一度だけ撫でた。

 せめて、この一時間くらいは。

 何も起こらなければいいと思った。

 

 

 

 鳥子が、私の膝に頭を乗せて眠っている。

 ここがIKEAを模した「中間領域」だということを、忘れてしまいそうになるほど穏やかな時間だった。

 背後には展示用の背の高い観葉植物。

 前には斜めに傾いた間接照明と、革張りのソファが整然と並んでいる。

 どう見ても、ひとつのディスプレイとして完成された空間だ。

 しかも中間領域にしては妙に居心地がよく、ここなら人がそのまま深く眠ってしまっても不思議ではない。

 仰向けになった鳥子の額にかかる髪を、指先でそっと払う。

 鳥子の呼吸は深く、規則正しい。完全に警戒を解ききった寝息だった。

 ここへ来てから、フードコートの喧騒と猫のぬいぐるみ、巨大なスタッフの化け物を除けば、不気味なくらい何も起きていない。

 誰の姿も見えない。

 足音ひとつ聞こえない。

 この場所だけが、中間領域から切り離されているみたいだった。

 周囲を警戒していた私も、何度か意識が落ちかけ、そのたびに首を振って眠気を追い払った。

 何気なく腕時計を見る。

 ……三時間以上、経っていた。

 鳥子を起こしたくなくて、途中でアラームを止めたのだ。

 さすがにのんびりしすぎたかもしれない。

 でも、まあ、いいか。

 この空間で「正確な時間」に、どれほどの意味があるんだろう。

 そう思いながら、もう一度腕時計に目を落とす。

 十八時五十八分。

 あと二分で十九時になる。

 ……夕飯の時間だ。

 いつの間にか、私と鳥子の間では十九時が「夕食の時間」として定着してしまっている。

 時間を意識した途端、胃の奥が静かに空腹を訴えはじめた。

 おかしなほど忠実で、ちょっと憎たらしい。

 さっきフードコートで食べておけばよかったかも、と今さら後悔する。

 普段ならバッグに入れている非常食も、消費期限が切れていたため、新品と総入れ替えをしようとバッグから全て出してしまっていた。新しいものは……まだ買ってすらいなかった。

 ……ほんと、間が悪い。

 抜けてるなあ、私。非常食の意味ないじゃん。

 内心で苦笑しながら顔を手で覆い、私は天井のない虚空をぼんやりと仰いだ。

「………………え?」

 そのとき、ようやく気付いた。

 胸の奥に引っかかっていた違和感が、輪郭を持つ。

「……暗くなってる?」

 口にした瞬間、背筋がひやりとした。

 気のせいじゃない。

 ついさっきまでオレンジ色の光に照らされていた店内が──売り場の向こうから、ゆっくりと暗くなっている。

 間接照明が弱まり、展示スペースが影に沈んでいく。

 私は「照明の調子が悪いだけだ」と、誰に言い訳するでもなく思おうとした。

 けれど、違う。

 点滅でも、停電でもない。

 光そのものが、底へ沈んでいくような失われ方だった。

 夕暮れが落ちてくるときの空気に似ている。

 でも、ここには空なんてない。

 それでも、日が沈む気配だけが妙にリアルだった。

 暗さは静かで、しつこくて、逃げ場がない。

 ゆっくりなのに、止まらない。

 そして──目が慣れる暇もないまま、店内全体が闇に呑み込まれた。

 自分の手すら見えない。

 すぐ目の前にいるはずの鳥子の姿さえ、闇に溶けて消えていた。

「鳥子……」

 声にならない呼びかけと同時に、私は手を伸ばした。

 暗闇の中では、その動作さえ不確かだった。

 指先が肩に触れる。

 じん、と温もりが返ってきた。

 それだけで、ようやく息が戻った。

「鳥子、起きてっ」

 小さく声をかける。

 返事はない。

 もう一度、今度は肩を軽く揺する。

「……鳥子、起きて。暗くなった」

 その言葉に反応したのか、鳥子の体がわずかに動いた。

 目をこする気配。

「なあにぃ……?」

 眠たげな声が返ってくる。

 次の瞬間。

「──えっ、何これ? 暗い!」

「照明が全部、落ちたみたい。完全に真っ暗」

「う、うそぉ……」

 鳥子の声が、かすかに震えた。

 私はすぐに鳥子の手を探り当て、しっかり握る。

 見えない分、手のひらの温度が心強かった。

「とにかく、まずは立とう。どこか安全な場所を探さなきゃ」

「うん……ありがと、空魚」

 ソファから立ち上がる。

 微かな軋みが、闇の中ではやけに大きく響いた。

 照明は戻らない。

 天井があるのかどうかさえ分からない空間に、何かに蓋をされたような重たい圧迫感がのしかかってくる。

 私たちは立ち上がったまま、しばらく動けなかった。

 物音は何もない。

 ただ、自分たちの呼吸だけが妙に響いている。

 この静けさが、誰かに聞かれているような気がしてならなかった。

 鳥子が私の肩に手を置く。

 指先が、少し震えている。

 ……私も同じだった。

 大抵の異常には慣れたつもりでいた。

 でも、闇だけは別だった。

 ……出口はある。

 そう思っていないと、足が動かなくなりそうだった。

 そのとき──。

 突然、ぱっと視界が明るくなった。

「っ!」

 反射的に体が跳ねる。

 光源を探そうと振り向くと、鳥子が私の腕をトントンと軽く叩いた。

 白い光が拡散し、足元のソファやタイルを照らしている。

 鳥子がスマホのライトをつけたのだ。

 背面をこちらに向けて、「どう? 安心したでしょ」とでも言いたげに、にっこり笑っている。

「びっくりした……」

 胸が跳ねた。

 でも、暗闇に飲み込まれていた感覚が、ほんの少しだけ軽くなった。

「ありがとう、鳥子。助かった」

「どういたしまして」

 短いやり取りだった。

 それだけなのに、随分と呼吸が楽になった。

 私は前に向き直り、肩に力を入れる。

「よし、進もうか──」

 言い終わる前に、鳥子の腕がすっと伸びてきた。

 人差し指が、私の唇の前で静かに立てられる。

 私は右手で口を覆った。

 鳥子の仕草だけで、意味はおおよそ伝わった。

 ──何か、音がする。

 闇の奥。

 とても遠くのはずなのに、不自然なほどはっきり聞こえる。

 靴底が床を擦るような、乾いた足音。

 ひとつ。

 ……またひとつ。

 増えていく。

 前方。

 右手。

 左手。

 背後。

 方向が一つではない。

 もっと広い範囲から、店内全体のどこかから聞こえてくる。

 何かが徘徊している。

 ゆっくり。

 けれど確実に。

 店内のあちこちから、こちらへ近付いてきている。

 息が詰まった。

 喉の奥がごろりと鳴った気がして、慌てて口を閉じる。

 鳥子が、そっと手を握ってくる。

 ぬるりとした汗が、互いの指の間にまとわりついていた。

 私は素早く鳥子の手元のスマホに触れ、画面を下向きに押し下げる。

 鳥子はすぐに意図を察し、ライトを消した。

 店内は、再び完全な闇に沈んだ。

 暗闇の中で、ほかの感覚が鋭くなる。

 ……足音の数が増えている。

 遠かったものが、複数のルートから少しずつ距離を詰めてくる。

 そのとき、嫌な確信が背中に張りついた。

 ──目で見ているだけじゃない。

 この店内にいるのは、ただの人影でも迷い人でもない。

 先ほど見た、十メートル級の巨体。

 IKEAスタッフの制服をまとった、あの化け物。

 あれが一体きりとは限らない。

 むしろ、最初からずっと、あちこちに散らばっていたのかもしれない。

 なのに、なぜ今になって。

 なぜ一斉に、私たちへ近付いてくる? どうして? いや……どうやって?

 視覚以外の何かで、私たちを探知しているとしか思えなかった。

 音。……匂い?

 ……違う。

 もっと得体の知れない何かで。

「……鳥子」

 かすかな囁き。

 鳥子が、小さく振り返った気配だけが分かる。

「なに?」

「もし、もっと近づいてきたら……ライトつけ直して、走って逃げよう」

 私は息を殺したまま続ける。

「多分、あいつら、見えてなくてもこっちに来る」

 一瞬の沈黙。

 鳥子の髪が、さらりと揺れた。

 頷いたのだ。

「……うん。わかった」

 その直後、私たちの間に粘ついた沈黙が落ちた。

 息を潜める。

 耳を澄ます。

 神経の奥まで焼き付くような静けさの中で──。

 ず……り。

 ずり。

 ずり、ずり、ずり。

 床を擦る足音だけが、私たちの居場所をなぞるように近づいてくる。

 一歩ずつ。

 けれど、進むたびに距離が縮む速度が速くなっているように感じる。

 遠いと思っていたのは、もう過去の話だった。

 今は──すぐ向こう側にいる。

 もう、限界だ。

 これ以上ここにいたら、見つかる。

 私は握っていた鳥子の手を、もう片方の指でトントンと叩いた。

 いまだ。

 声は出さない。

 手の合図だけで伝える。

 次の瞬間──。

 光。

 スマホのライトが、一気に点灯した。

 強烈な白光が闇を裂き、棚と床、私たちの足元を暴力的なまでに照らし出す。

 同時に、全身が跳ねた。

 怖いというより、身体が勝手に逃げ出したがっている。

 鳥子の手を引き、私はすぐに駆け出した。

 棚の隙間をすり抜け、広く、見通しのきく方向へ直感だけで走る。

 足音が跳ね返ってきた。

 私たちのものじゃない。

 重く、低く、異常に間隔の長い足音。

 まるで巨大な何かが、慎重に、しかし確実に駆け寄ってくるみたいに──すぐ背後へ迫ってくる。

「来てる、来てる、来てる……!」

 声が勝手に裏返る。

 呼吸が上ずった。

 鳥子は何も言わない。

 私と固く手を握り、斜め前を必死に走っている。

 前方を照らすライトが大きく揺れる。

 その瞬間、背後で──。

 ──ブオンッ!!

 空気を裂く音。

 振り返る余裕なんてない。

 けれど、何かがすぐ後ろにいることだけは分かった。

 視界の端に、巨大な影が一瞬だけ映る。

 IKEAの制服を着た──あれが。

 信じられない速度で距離を詰めてきている。

 もう五メートルもない。

 今振り返れば、手が届く距離にいそうで……。

 喉の奥に悲鳴がせり上がる。

 私はそれを噛み殺した。

 鳥子のスマホの明かりが、前方の大きな看板を捉える。

 右を示す、大きな矢印。

 逃げ道は──まだある。

「鳥子、右!」

 叫びながら右へ身を翻す。

 足がもつれそうになるのを無理やり踏ん張り、通路を右へ、さらに奥へ走る。

 ガンッ──!

 背後で、何かが角を曲がりきれず商品棚に激突した。

 床から振動が伝わってくる。

 棚が崩れた。

 鉄の軋む音。

 重いものが次々に倒れる音。

 今だ。

「撃つ! 照らして!」

「わかった!」

 バッグからマカロフを引き抜き、安全装置を外す。

 鳥子がライトで照らし出した「ソレ」に、私は照準を合わせた。

 光に浮かび上がった姿は──明らかに人間ではなかった。

 三メートルはありそうな体躯。

 肩だけが異様に張り出し、首がにゅうっと伸びている。

 照らし出された皮膚は、不気味なほど滑らかだった。

 なのに、ところどころには剃り残した髭のようなざらつきがある。

 生白い皮膚には青黒い静脈が走っていた。

 それが蟻か、蜘蛛の巣のように全身へ広がっている。

 異様なほど、生気がない。

 そして顔は──ぼやけていた。

 光が当たっているはずなのに、目も鼻も口も曖昧で、焦点を結ばない。

 ただ、こちらを向いている。

 その事実だけは、はっきりと分かった。

 サイズの合っていないIKEAの制服は、布地が引きつれ、縫い目が裂けかけていて、ところどころから肌が露出していた。

 着せられているのか。それとも、着ているのか。

 その違いすら分からない。

 怪物が、ぎくしゃくと頭を傾けた。

 私たちを、見ている。

 そして──ないはずの口が開いた。

「本日は、IKEA立川店をご利用いただき誠にありがとうございます。当店は十九時をもちまして閉店となります。お買い忘れのないよう、お気をつけください──」

 女の声。

 だが、生身の人間の声ではない。

 古いテープレコーダーのようにノイズが混じり、微妙に音程が揺れている。

 口も動いていない。

 喉も動いていない。

 そもそも、音がどこから出ているのか分からなかった。

 こんなにライトを当てているのに。

「……他には何かある?」

 問いかけた自分の声が、思ったより落ち着いていた。

「本日は、IKEA立川店をご利用いただき誠にありがとうござ──」

 私は、構えたままのマカロフの引き金を引いた。

 閃光が弾ける。

 巨体がびくりと震えた。

 のけぞる。

 そして──「崩れた」。

 くしゃり、と。

 まるで中身を失ったように、巨体が床へ沈んだ。

 骨が折れる音はしなかった。

 肉が潰れる音もしない。

 残ったのは、潰れた厚手の皮のような「外皮」だけだった。

「え……」

 なにそれ。

 目の前で倒れているのは、確かに私が撃った「何か」だった。

 なのに、そこには「肉体」がない。

 中身が──ない。

 ただ硬い床の上に、萎びた皮袋だけが力なくだれていた。

 私は大きく息を吐いた。

 背中が汗でじっとりと濡れている。

 不快感に顔を歪めながら、私は鳥子を見る。

「鳥子、これ……なんだと思う?」

「……わからないけど、今は考えてる暇、ないと思う」

 確かに。

 足元に広がる空っぽの皮袋を見ているだけで、頭がこんがらがりそうになる。

 だが、立ち止まっている場合ではない。

 すぐに、ほかの足音が追いついてくるだろう。

 あの、異常に長い間隔で鳴る重い足音が。

 スタッフたちが、このIKEAの中に何体いるのかは分からない。

 でも、今の銃声は広い店内に響き渡った。

 来る。

 間違いなく、集まってくる。

「とりあえず、ここから離れようか。鳥子」

「……うん。わかった」

 鳥子の返事が、悩ましく、わずかに遅れた。

 息遣いだけじゃない。

 言葉の温度が、どこか変だった。

 私は思わず鳥子の顔を覗き込む。

「……本当に大丈夫?」

「うん。ただ……なんていうかさ」

 鳥子は、表情にわずかな苦さを浮かべた。

「いつの間にか空魚って、私より引き金軽くなったよね」

 その言い方が、冗談なのか本気なのか分からなくて、胸が少しだけざわついた。

「え、そう?」

「そうだよ。なんでもかんでもパンパン撃って……」

「だって……これが一番早いんだもん」

「いつからこんな物騒な子になっちゃったのかなぁ……」

 鳥子のぼやきに肩をすくめ、私はその背中を押した。

「ほら、行くよ」

「はいはい」

 そして、また走り出す。

 走りながら、さっきのアナウンスを思い返していた。

 ──十九時をもちまして閉店。

 もし十九時の閉店が、奴らの「活動開始の合図」だったのだとしたら。

 その「終わり」は、いったいいつになる?

 あと、どれだけこんな逃走劇を続けなければならない?

 自分の思考に、胸の奥が冷えていく。

 息が深いところまでうまく入らない。

 十九時になった。

 そして、まだ何も終わっていない。

 この夜は、とても……とても長くなりそうだった。

 

 

 

 それから、どれくらい逃げ続けただろう。

 暗闇のIKEAの中を、私たちはひたすら走り続けていた。

 家具売り場のブースをかすめ、ベッドやソファが並ぶショールームへ滑り込む。迷路のような展示通路は、どこもかしこも同じに見えて、逃げ場にはならない。

 棚と棚の隙間に吊された間接照明が、暗闇の中で死んだ装飾のように揺れている。その下をくぐり抜け、踏み外せば転びそうな細い通路を、わざと選んで跳び越える。

 わずかな障害物につまずいた「スタッフ」を、私は考えるより先に、反射的に撃ち抜いた。

 迷いも、ためらいも、なかった。

 引き金を引く感覚だけが、手に残っている。

 もう、何かを考える余裕すらなかった。

 気付けば、潰したスタッフは十体を超えていた。

 それでも、この巨大なIKEAに潜む怪物たちは、倒しても倒しても、数が減っているようには到底思えない。

 倒すそばから、闇の奥からまた別のスタッフが現れる。

 まるで、店舗全体が息をしているみたいに。

 迫る足音。

 棚が倒れる音。

 途切れ途切れに流れる、雑音まみれの閉店アナウンス。

 それらが背後と両脇から絶え間なく押し寄せて、呼吸のリズムまで狂わせてくる。

 走って、撃って、走って、また撃つ。

 汗と硝煙と焦燥が入り混じり、喉の奥がひどく熱かった。

「空魚! あとどれくらい弾丸、残ってる?」

 前を走る鳥子が、振り返らずに訊いてきた。

 私はマカロフをちらりと見下ろす。

 最初の弾倉は、とっくに空だった。

 ついさっき空撃ちした瞬間、鳥子は無言で自分のマカロフを私に押し付けてきた。

 いま私が握っているのは、その鳥子の銃だ。

「確認する!」

 私は鳥子の腕を引き、近くの棚の陰へ滑り込んだ。

 鳥子がスマホのライトを向ける。

 白い光の中で、私は素早くマガジンを抜き取った。

 ……六発。

 チャンバー内に一発。

 合計、七発。

 多いとは、とても言えない。

 下手をすれば、あと何度か遭遇しただけで使い切ってもおかしくない量だ。

 私は息を細く吐き、マガジンを押し込む。

 顔を上げると、鳥子がしゃがんだまま、じっとこちらを見ていた。

 表情には、張りつめた緊張と不安、それから、ほんの少しの迷いが浮かんでいる。

 肩が、わずかに上下していた。

「七発。慎重に使うしかないね」

 私が言うと、鳥子は頷いた。

 けれど、その動きは鈍かった。

「うん……」

 短い返事。

 その息の揺らぎは、恐怖だけではないように感じた。

 鳥子は一度視線を落とし、それからためらいがちに口を開いた。

「……役割、交代する?」

 ほんの少しだけ、申し訳なさそうな声だった。

 けれど、銃を見る目は真剣そのものだった。

 私は、その提案の意味をすぐに理解した。

 そして、即座に頷く。

 ここまで、流れのまま私が撃ち続けていた。

 でも、本来こういう役は鳥子のほうが向いている。

 この七発は、一発も無駄にできない。

「うん。そのほうがいい。お願い」

 銃を渡そうとした、その瞬間──。

 私と鳥子は、ほぼ同時に振り返った。

 案の定。

 あの、地響きのような足音だ。

 ドス、ドス、と重く鈍い振動が、暗闇の奥から這い寄ってくる。

 奴らは、まだ諦めていなかった。

 私は目を細め、音の主を探そうとした。

 けれど、ライトの届く範囲には、人影どころか動く気配すらない。

 ただ音だけが、確かにこちらへ向かってくる。

「行こう、鳥子!」

「わかった!」

 走りながら、頭のどこかが冷静に考えていた。

 どうすれば、この状況をひっくり返せるのか。

 考えろ。

 思考を放棄するな。

 考えろ、考えろ、考えろ──。

「あ」

 喉が焼けつく。

 息が続かない。

「鳥子、AK持ってきてるよね!?」

 暗闇の中で、鳥子が頷いたのが分かった。

「持ってるっ! でも組み立てなきゃっ!」

「組み立て……!」

「暗くてもできるけど、組む時間がない!」

「──わかった! またタイミングがあったらお願い!」

 それだけ言って、私は再び思考に集中する。

 ──閉店時間。

 その言葉が、真っ先に浮かび上がった。

 もし、それが奴らの「活動開始」の合図だとすれば。

 逆に、開店時間になれば、沈静化するのかもしれない。

 でも、その推測が当たっていたとしても──。

 この終わりの見えない暗闇の中で、そこまで逃げ切れる気がしなかった。

 開店時間は何時だ?

 朝か?

 そうだとして、今のこの状態で朝まで持つのか?

 ──間違いなく無理だ。

 考えるまでもない。

 逃げ続けるだけではなく、どこかに隠れなければならない。

 気付かれずに、「朝」を待てる場所。

 この巨大な店舗のどこかに、そんな場所が残っているだろうか。

 じわじわと体力が削られていく。

 汗で髪が頬に貼りつき、呼吸は浅い。

 足は、鉛のように重かった。

 隣を走る鳥子も、いつものランニングの余裕など、とっくに失っている。

 呼吸は荒く、足取りにも疲労が滲んでいた。

 通路の先には、もう何も見えない。

 暗すぎる。

 スマホのライトは心許なく、ほんの足元を照らすだけだ。

 その先の闇は、まるで光を呑み込んだまま、沈黙している。

 一歩踏み出せば、触れてはいけない何かにぶつかりそうで、足が竦む。

 でも、後ろからは、あの足音が迫ってくる。

 曲がり角を一つ越えたときだった。

 ──ガタン。

 何かが倒れる音。

 ライトが揺れ、黒い影が前方を横切った。

「まずいっ!」

 叫んだ瞬間、通路の両側から黄色と青の制服が──「スタッフ」が現れた。

 左右から。

 前方から。

 そして、背後から。

 四方を、完全に塞がれた。

 鳥子が振り向き、息を呑む。

「後ろ、大きいの来てるよ!」

 確かに、地を揺らすような足音が近づいていた。

 もう、逃げ場は──。

「空魚! こっち!」

 鳥子が指さした先。

 床に転がる大きなキャビネットと、キャスター付きワゴンの隙間。

 狭い。

 でも、そこしかない。

 私は迷わずしゃがみ込み、手をついて体を滑り込ませた。

 鳥子もすぐ後ろに続く。

 直後、通路全体が揺れた。

 そう錯覚するほどの衝撃だった。

 複数の足音が床を踏み鳴らし、低い唸りのような空気の震えが伝わってくる。

「空魚、ライト消してっ……!」

 鳥子の言葉に反応して、反射的に手が動く。

 スマホの光を落とした。

 闇が一気に押し寄せ、視界が完全に潰れる。

 呼吸が喉で引っかかった。

 息を殺し、耳を澄ます。

 ──聞こえる。

 重く、ゆっくりとした足音。

 何人、いや。

 何体いる?

 スタッフたちが通路を塞ぎ、見失った獲物の残り香を探す様に、私たちが隠れた商品の隙間すぐそばを、のそり、のそりと通り過ぎていく。

 薄い板一枚隔てた向こうに、あの異形がいる。

 指を伸ばせば、触れてしまいそうな距離に。

 そう思うだけで、鼓動の音すらうるさく感じた。

 物音ひとつ。

 呼吸ひとつ。

 それすら許されない。

 こいつらは、おそらく視覚や聴覚などで私たちを察知しているのではない。五感ではない。もっと別の感覚で……。

 だとしたら、隠れることにそれほどの意味はないのでは……? 不安が脳内を駆け巡る。

 それでも私たちは闇に紛れ、商品と商品の間で息を殺した。

「……だめ。見つかった」

 鳥子の声は鋭く、それでいて低かった。

 棚の向こうから、のっそりと「何か」が現れた気配がした。

 鼻先に生ぬるい湿気がまとわりつく。

 肺を、誰かの掌で掴まれたような感覚。

 ずるずると這うような、それでいて確かに歩いている足取り。

 地面を踏む間合いが、狂っている。

 息は斜めに漏れ、首が不自然な角度で傾いているような気配がする。

 まっすぐこちらへ向かってくることだけは、分かった。

 背骨の奥で、冷たいものがぞわりと逆立つ。

 人間のふりをした「何か」が、足を引きずりながら近づいてくる。

 その様子が、皮膚の上を冷たい恐怖となって這い回った。

 逃げ場はない。

 通路は狭く、背後は壁。

 私は意を決し、鋭く息を吸い込んだ。

「鳥子、撃って!」

 叫ぶと同時に、スマホのライトを「それ」へ向ける。

 中肉中背の男。

 ──いや。

 「スタッフ」だ。

 鳥子が即座にマカロフを構えた、その瞬間。

 スタッフの身体が、突然宙に浮いた。

 何が起きたのか理解する暇もない。

 誰かの膝が、横からスタッフの顎を撃ち抜いた。

 ボキッ。

 硬い何かが砕ける、嫌な音。

 スタッフが床に叩きつけられる。

 私は反射的にライトをそちらへ向けた。

 倒れたスタッフの胸元に、馬乗りになる影。

 ……女だ。

 背中越しでも、それだけは分かった。

 理解より先に、体がそう判断していた。

 彼女の手元が、ギラリと光る。

 大きな裁ち鋏。

 持ち手には、握りやすいよう布切れが巻かれていた。

 次の瞬間、彼女は両手でハサミを掲げ、一気に振り下ろした。

「はぁっ!!」

 気合のこもった声とともに、ハサミがスタッフの顔面へ吸い込まれる。

 その動きには、不思議なほどの洗練があった。

 プシュンッ、と間の抜けた音が響く。

 スタッフの身体が、しぼむように薄くなった。

 事が済むと、彼女はこちらを振り向いた。

 ライトが眩しいのか、目元を手で覆い、顔をしかめる。

 私は慌てて、手で光を遮った。

 漏れた明かりが、彼女の顔をわずかに照らす。

「あの……紙越センパイと仁科センパイ、ですか?」

 右手にハサミを逆手に持ち、薄明かりに目を細めながらこちらを見る、その姿は──。

 紛れもなく、瀬戸茜理だった。

 

 

4

「こっちに! 避難できる場所があります!」

 茜理の声が夜のIKEAに鋭く響いた。

 私たちの足音は三人分。でも背後から迫るそれは、三つどころじゃない。少し振り返っただけで、通路の奥に黒い影がいくつも揺れているのがわかった。

 どこをどう走っているのか、もう把握できない。棚と展示スペースが入り交じる迷路を、息が切れるまま駆け抜ける。肩からずり落ちるバッグを掛け直すたび、焦りが胸の奥を鋭く突いた。

 そして、合流直後のあれが、いまだに頭から離れなかった。

 ──あのとき。私たちを確認した瞬間、茜理は無言で加速した。

 二体のスタッフの懐へ、一気に飛び込んでいく。

 一体の顎を跳び膝で打ち抜き、よろめいたところへハサミを突き込む。もう一体には足を払って体勢を崩させ、そのまま喉元へ刃を沈めた。

 あまりにも動きが速くて、私には何が起きたのか、ほとんど理解できなかった。

 私のスマホの光、鳥子のマカロフの発砲──そのすぐそばで、茜理はためらいゼロで動いた。本能と鍛え込みだけで戦っている、そんな迫力があった。

 空手ってすごい。

「空魚、こっち!」

 鳥子の声が、揺れそうだった意識を繋ぎ止める。私は息を吸い直し、暗がりへ跳び込んだ。手の中のスマホが投げる光は心もとない。後ろから迫る足音は、ますます距離を詰めてくる。

 三人でどうにかできる数じゃない。

 茜理がどれだけ強くても、あれだけの数を相手にし続けるのは無理だ。

 突き当たりに差しかかった瞬間、背の高いスタッフがぬっと現れた。

 骨が軋むような音を立て、ゆっくり腕を振り上げる──。

 鳥子が前に出て、ためらいなく引き金を引いた。乾いた発砲音が響く。

 それとほぼ同時に、横から茜理が飛び込み、スタッフの背に体重を乗せるように蹴りを叩き込む。ぐらついた胴へ、ハサミが素早く突き刺さった。

 ぷしゅっと空気が抜けるような音。スタッフは前のめりに崩れた。

 立ち止まる余裕はない。私たちはそのまま再び走り出した。

「もう少しです……この先に、バリケードがあります!」

 茜理の息は荒いけれど、声は落ち着いていた。

 曲がりくねった通路を抜けた先、家具が壁のように積まれた場所が現れた。外から見れば、ただ家具を積み上げただけの廃材置き場にしか見えない。机、段ボール、ベッドフレーム。その奥の隙間から淡い灯りが漏れている。

 光が見えた途端、緊張がわずかに緩んだ──そのときだった。

「おい!!」

 突然、怒鳴り声が落ちてきた。頭上から、叩きつけるような男の声。

「え?」

 思わず顔を上げる。しかし、上には誰もいない。どこから聞こえたのかすらわからなかった。

 胸がざわつき、思わず鳥子を振り返ろうとした瞬間──。

 ざわざわ、と。

 ざわざわざわ、と。

 今度は、無数の声がいっせいに降り注いできた。

「こっちだ、こっち!」

「キャーッ!!」

「逃げて逃げて逃げて! 早くー!」

「もうダメだ! 逃げるぞ!!」

 怒る声。泣きそうな声。叫ぶ声。励ます声。

 あらゆる種類の声が混じって、滝みたいに押し寄せてくる。

 無数の声が、バリケードの奥から一斉に呼びかけてきた。

 まるで、何十人もの人間が向こう側に隠れていて、私たちに向かって好き放題叫んでいるみたいだ。

「ええ……?」

 自分でも驚くほど呆けた声が漏れた。

 横を見ると、鳥子も目を丸くしていた。驚きと戸惑いが顔にそのまま出ている。

 これって……まさか、他にも人が?

「茜理、この中って──」

「あ、中にいるのは、私となっつんだけです。ここから入ります」

 さらっと言って、茜理は家具の部品を組み合わせて作ったような、不恰好な門を開けて、隙間から体を滑り込ませた。

 そのあいだも例の声は止まらない。怒鳴る声、急かす声、泣きつくような声まで混じっているのに、茜理は気にする様子もない。

 私たちも後に続く。

 身を縮めて、門の間をくぐり抜けた。その瞬間。

 ぴたり、と声が止んだ。

 静けさが戻ってくる、というより、音が急にかき消えたように感じた。音の寒暖差に耳がきゅうっとなる。

「今の声……何だったの?」

 思わず尋ねると、茜理は軽く首を傾けて答えた。

「このバリケードに近づくと、いつも聞こえるんですよ。中に入ると聞こえなくなるんです。不思議ですけど、誰もいないので。無害なんで、安心してください」

 あまりに普通の調子で言われ、逆に返す言葉が詰まってしまう。

 そして、茜理が何気なく振り返った瞬間──私は息を呑んだ。

「茜理……顔、どうしたの?」

 代わりに鳥子の声が上がった。

 スマホの灯りに照らされ、茜理の頬は青黒く腫れ上がり、皮膚の下で血の痕がうっすら滲んでいるのが見えた。

「あー……これはー……最初にあいつらに遭遇したとき、ちょっと油断してて。思いっきり、いい横拳もらっちゃいまして……大丈夫なんで、あんまり気にしないでください!」

 茜理は照れくさそうに笑いながら頭をかいた。

 本当に、軽く言うけれど、全然軽い傷に見えない。

 でも、「大丈夫」と言われたら、それ以上言えなかった。

 その笑顔があまりにも自然で、心配する言葉を重ねることのほうが、かえって野暮に思えた。

 私たちは、茜理に続いてそのままバリケード奥へ進んだ。

 中は、まるで要塞だった。

 思わず足が止まる。

 机。棚。ベッドフレーム。何かの金属部品。

 IKEAにあるものを片っ端からかき集めて組み上げたような壁が、私たちの目の前にそびえていた。

 あるものをすべてかき集めて作ったような、崩されることを拒む空気が漂っていた。

 十五メートルほどの高さに電線が這い、そこから吊るされたLEDライトが内部を明るく照らしている。

 配線が壁を蛇のように伸びていて……剥き出しのそれを見ているだけで、胸の奥がざわついた。

 拠点の中心には大量の椅子。

 そのそばに──ひとり、座り込む影があった。こちらに背を向けたまま、ぴくりとも動かない。

 根元が黒くなった赤髪が、ライトの光を受けて少し揺れた。

 夏妃だ。

「なっつん! ただいまー!」

 茜理の声が響いた瞬間、夏妃の肩がびくっと跳ねた。

 振り返る動作はゆっくりで、表情は強ばっている。

 けれど茜理の姿を確認した途端、その緊張が溶けるようにやわらいだ。

 ──が。

 私と鳥子が視界に入った瞬間、夏妃の動きが止まった。

 目が見開かれ、口がわずかに動き、そして逸らされる。

 ほんの小さな仕草なのに、やけに胸の奥がざわつく。

「お、おかえり……アカリ。紙越センパイと仁科センパイも……」

 夏妃の声はかろうじて聞き取れるほどに小さく掠れていた。

 この静かな拠点の空気に、そのまま沈んでいきそうなほど弱々しく。

 ……数秒の沈黙。

 誰もが言葉を探して、でも見つけられなかった、そんな間。

 それを破ったのは鳥子だった。

「夏妃、大丈夫? ケガの調子はどう?」

「え……」

 鳥子の問いに、夏妃がきょとんと目を瞬かせた。

 鳥子は迷いなく距離を詰め、夏妃の両肩にそっと手を置いた。

「どこケガしたの? やっぱり足? それとも他にも?」

 鳥子の声には、自分の怪我を心配しているみたいな切迫感があった。

 夏妃は戸惑ったように視線を泳がせ、しばらくしてようやく口を開く。

「えっと……あ、はい。足を……ちょい、ぐねっただけなんすけど」

 そう言いながら、ちらりと茜理の方を見やった。

 その視線に気づいた茜理が、首をかしげて鳥子に尋ねる。

「仁科センパイ、どうしてなっつんが足ケガしてるって分かったんですか?」

「え? だって……」

 鳥子はぱちりと目を瞬かせ、それから助けを求めるみたいに私の方へ振り向いた。

 私は軽く肩をすくめて、代わりに答える。

「昼頃に茜理から電話があったんだよ。そのとき、市川さんがケガしてる。って聞いたんだ。でも……実際は、やっぱりちょっと違ったみたいだね」

 自分で言葉にしながら、私は茜理の顔色をうかがう。

 たぶん否定される。分かっていても、実際にその瞬間が来ると、胸の奥がモヤっとする。

 案の定、茜理は腕を組んだまま、小さく首を傾けた。

「私、センパイ達や小桜さんに電話しましたけど、一回も繋がらなかったですよ?」

 ほとんど、思った通りの答えだった。

 でも、特に驚きはなかった。本題はそこじゃない。

「うん、じゃあやっぱり。あれは茜理じゃなかったんだ」

「えっ? どういうことですか?」

 茜理の眉がきゅっと寄り、興味深そうに私を見つめる。

 私はできるだけ落ち着いた声で続けた。

「簡単に言うと──茜理そっくりの声で誰かが私に電話をかけてきたの。『自分たちも裏世界に入った』とか『市川さんが怪我した』とか……そんな内容だった」

「えぇ……」

 茜理は目を丸くした。

「でも、途中から様子がおかしくなったんだよ」

「おかしく、ですか?」

「『いらっしゃいませ』しか言わなくなった」

「えっ」

「それも、店内アナウンスみたいな声で」

 数秒の沈黙。

 茜理は腕を組み、何かを考え込むように唸った。

「つまり……ここには私の偽物が居る、ってことなんですか? ドッペルゲンガー的な……」

「あー……いや。『いる』っていうより、そういう『現象』が起きただけだと思う。たぶんね」

「え? そう、なんですか?」

 茜理がより一層、興味を深めたように詰め寄ってきた。

「う、うん。昔、同じようなのがあったけど、やっぱりただの現象でしかなかったよ。だから……実体として『偽茜理』みたいな物が存在してるわけじゃないと思う。たぶんね」

「なるほど……!」

 自分でも、どこまでが説明できるのか曖昧だった。

 ただ、ひとつだけ確かなのは──あの声は茜理じゃなかったということ。

「へぇ〜〜。はぁ〜〜……」

 茜理は感心したように、なぜか満足気に何度もうなずいた。

「そんなこともあるんですねぇ。裏世界って……ほんと、不思議だなぁ」

 その呟きが、どこか嬉しそうで、私は思わず息を飲む。

 この子、やっぱり普通じゃない。

 ずっとそう思っていたけれど、今はもう確信に近い。

 でも、不思議と怖さはなかった。むしろ、少しだけ心強い。

 異常な世界に、ひとりだけ涼しい顔で適応している人間がいる。

 それが、今は妙に心強かった。

 そのとき。

 ガンッ!

 拠点の外壁に、硬いものが叩きつけられるような鈍い音が響いた。

 最初は一発だけ。だがすぐに、ガン、ガン……ガンガンガン! と間隔の狭い衝撃が続き、棚と資材で組んだ壁がわずかに震える。

 次の瞬間、一体や二体どころじゃない。まるで波がぶつかってくるみたいに、数十の打撃音が一斉に襲いかかってきた。

 アイツらだ……!

「──着いてきたっ!」

 茜理が短く鋭い声を上げた。その瞬間にはもう、顔つきが変わっていた。

 普段の柔らかい雰囲気がスッと消えて、研ぎ澄まされた気配だけが残った。

 まるで、どこかにスイッチがあるみたいだった。

 音のする方へ駆け寄った茜理は、しゃがみ込み、足元に転がっていた長細い物体をガチャガチャと手早く拾い上げた。

 一メートル強の長さ。先端が斜めに削られた木の棒──即席の槍のような武器だった。

 それを三本抱えたまま戻ってくると、茜理は迷いなく私と鳥子に向かって槍を差し出した。

「すみません、センパイっ! あいつら倒す必要があるんで、助けてもらってもいいですかっ?」

「わかった!」

 鳥子が、反射のように答える。私もすぐに首を縦に振る。

「わかった。どうすればいい?」

「ありがとうございます! こっちです!」

 茜理が再び駆け出そうとした、そのとき。

「ア、アカリ!」

 背後から夏妃の声が飛んだ。ほんの少し震えていた。

「今回は、ウチもやるから!」

 夏妃の顔には焦りが滲んでいた。でも茜理は一拍も置かずに首を振った。

「なっつんはケガしてるからダメ! 危ないから、ここで待ってて!」

 あまりにも一直線な戦力外通告。

 夏妃は小さく口を開けたまま固まり、数秒後、ゆっくりとうつむいた。そして動かなくなった。

 何か声をかけてやるべきなのかもとは思ったが、今はそれどころじゃない。

 バリケードの外側を殴る音が、ひたすら拠点の中に鳴り響いていた。

「行こう、鳥子!」

「……うん」

 鳥子は心配そうに何度も夏妃を振り返った。

 私が軽く腕を引くと、ようやく鳥子は息をつめ、覚悟を決めたように走り出した。

 

 

 

 バリケードの壁にたどり着くと、茜理はもう動いていた。

 隙間に身体を寄せ、槍を構えたまま、一瞬だけ動きを止める。

 次の瞬間、ためらいなく突き込んだ。

 バリケード越しに、スタッフの身体が風船のように萎み、床へと崩れ落ちる。

 何度も見た光景だけど、やっぱり慣れない。

 私と鳥子は短く息を合わせ、同じように槍を握って隙間へ差し込んだ。

「……行くよ!」

 外にいるスタッフは、ざっと数えて二十体はいる。

 だが、目の前にいるのが全部じゃない。

 薄暗い照明の向こう、さらに奥で影が蠢いている。

 ゆっくり、ゆっくりと──横並びになった追加のスタッフたちが近づいてくる。照明に照らされた輪郭が、奇妙に歪んでいた。

 バリケードは丈夫そうに見える。

 でも、この数を相手にして、いつまで保つかなんて分からない。

 きっと長くはもたない。

 いや、もたない前提で動くしかない。

 私は息を整え、隙間の向こうにいるスタッフの顔面めがけて棒を突き出した。

 ぶすり。

 軽い感触が手に伝わる。

 スタッフは空気の抜けた人形みたいに、その場で崩れ落ちた。

 こんな調子でやっていても、追いつかないかもしれない。

 いや、とにかく早く数を減らさないと──次の波が来る。

 焦りが、じわりと背中を冷たく濡らしていった。

 

     

 

「これで最後!」

 茜理が槍の先端を細身のスタッフの顔面へ突き刺した。

 ぐしゃり、と鈍い音。

 スタッフはその場で崩れ落ちた。

 正確な時間感覚は、とうに失われていた。

 スタッフたちがバリケードを叩き始めてから、どれくらい経ったのかも分からない。

 ただ、ずいぶん長いこと戦っていた気がする。

 私たちはバリケードの壁にもたれるようにして座り込み、息を整えていた。

 喉はカラカラで、腕も足も重い。

 戦っているあいだは気が張っていた。

 だから気づかなかった。

 終わった途端、溜め込んでいた疲労が、一気に身体へ押し寄せてきた。

 バリケード越しに外を覗く。

 床には、萎んだスタッフたちが折り重なり、山のようになっていた。

 空気の抜けたビニールプールを、雑に畳んで積み上げたみたいな有様だ。

 このまま放っておくわけにもいかないんだろうけど。

「これ、どうしたらいいと思う?」

 私はうんざりした声で茜理に訊いた。

 臭いがするような気がする。

 でも、それが本当に臭っているのか、それとも脳が勝手に嫌な連想をしているだけなのか、もう判断できない。

「あ、これはですね。ちょっと遠いんですけど、こいつら専用のゴミ置き場があって……そこにまとめて運ぶんです」

「これを? この量を……?」

 鳥子が呆れたように言うと、茜理は真面目な顔でこくこく頷いた。

「なるべく小さく畳んで、カートに詰めるんです。私ひとりなら三往復くらいでいけると思います」

「……そっかぁ」

 鳥子は苦笑して、小さくため息をついた。

「じゃあ、その時は教えて。一緒に行くから」

「本当ですか!? 助かります!」

 茜理の表情が、ぱっと明るくなる。

 鳥子はにこっと笑って、さらに訊いた。

「いつ行く予定なの? 明るくなった後?」

「はい! 暗いと危険なので!」

「なるほどね」

 鳥子が私を見る。

「空魚も行く?」

 突然ふられて、少し迷った。

 けれど、結局私は頷いた。

「うん。じゃあ私も──」

「あ、すみません、紙越センパイ!」

 私の言葉に、茜理が慌ててかぶせてきた。

 茜理が、私の言葉を遮ってまで何かを言う。

 それだけで、少し意外だった。

「どうしたの?」

「できれば、センパイにはここに残っててほしいんです」

「え?」

 完全に予想外だった。

「なんで?」

 茜理は少し言いにくそうに視線を伏せ、それから続けた。

「なっつんのこと、できるだけ一人にしたくなくて。最近、ちょっと元気がないんです。今日もずっと沈んでて……」

「えーと……」

 それは茜理が戦力外通告したせいじゃないの?

 さっきのやりとりからして、今回が初めてじゃなさそうだったし。

 そう言いかけて、私は口を閉じた。

「うーん……」

 思わず、渋い返事が漏れる。

 茜理はすぐにそれに気づいたらしく、眉を下げて悲しそうな顔をした。

「ダメ……ですか?」

「別にダメってわけじゃないけど……」

 思わず茜理の顔を見る。

 なんで、私なんだ?

 今ここにいる面子で、夏妃と距離が近そうなのは、茜理を除けば明らかに鳥子だ。

 それなのに、わざわざ私を指名する理由が見当たらない。

 そう思った。

 けれど、それを口にするのはためらわれた。

 なんとなく。

 その質問を口にしたら、今までと何かが変わってしまいそうな気がした。

「……わかった。市川さんと一緒に留守番しとくよ」

「本当ですか!?」

 茜理の目が、ぱっと輝いた。

 その無邪気さに、私は少し圧される。

「ありがとうございます! なっつん、きっと喜びます!」

「ああ……うん。了解」

 テンション高めな茜理とは対照的に、私は完全にローテンションだった。

 なぜ私を選んだのか、その理由がさっぱり分からない。

 だって夏妃は……私と話したがっているようには、とても見えなかった。

 そんなことを考えていると、茜理が突然おかしなことを言い出した。

「なっつん、紙越センパイのこと、すっごく尊敬してるみたいなんですよ!」

「はあ?」

 思わず声が裏返った。

 尊敬?

 あの市川夏妃が?

 なんの冗談だ、それ。

「いやいやいや、ないないない」

 頭をぶんぶん振って否定すると、茜理はぽかんと目を丸くして首を傾げた。

「えっ? 本当ですよ? 紙越センパイの話になると、なっつん、いつも言ってますよ」

 そこで一度、茜理は夏妃の口調を真似るようにして言った。

「『紙越センパイはウチと違ってすごい。ウチができなかったこと、その日のうちに速攻でやってて羨ましい』って」

 ……固まった。

 嘘だ。

 あの市川夏妃が、そんなことを言うなんて信じられない。

「……市川さんが、そんなこと言うとは思えないんだけど?」

「恥ずかしがってるんですよ、きっと。なっつん、そういうところありますから」

 茜理はにこにこと屈託なく笑っている。

 でも私は、どうしてもその笑顔を素直に受け止められなかった。

 尊敬される覚えなんて、一ミリもない。

 それに──それに……ああ、もう。

「……まあ、いいや」

 言いたいことは色々ある。

 けれど、ここでわがままを言っても仕方がない。

 諦め混じりに息を吐き、ようやく返事をした。

「わかった……市川さんのこと、見ててあげればいいのね」

「あっ、見てていただけるのももちろんありがたいんですけどぉ……」

 茜理は少しだけ身を乗り出した。

「できれば少し、お話もしてあげてくれませんか?」

「話……」

 私が、夏妃と?

 ……いや、無理でしょ。

 何を話せばいいんだ。

「なっつん、さっき言ったみたいに、ここに来てからずっと落ち込んじゃってるんです……。私の方でも色々話してみたんですけど、あんまり効果なくて」

 茜理の声には、心底心配している色が滲んでいた。

 たぶん、茜理なりに何度も夏妃に手を差し伸べてきたのだろう。

 けれど、届かなかった。

「あのさ……」

「はい?」

「……いや、なんでもない」

 言いかけて、言葉を飲み込む。

 ……私はカウンセラーじゃないんだけど?

 そもそも、人の心を救えるほど器用でも、優しくもない。

 カウンセラーがやるという、いわゆる傾聴とかいうのも、私にはできそうにない。

 それでも、茜理の期待を込めた瞳に見つめられると、どうしても断れそうになかった。

 私は首を斜めに倒し、茜理の頼みを受ける。

「わかった……でも、あんまり期待しないでね。私、そういうの苦手だから」

 そう言うと、茜理の顔がぱっと明るくなった。

 目を見開き、嬉しさを隠しきれない子どものように笑う。

「ありがとうございます! なっつんも、きっと大喜びすると思います!!」

「大喜びはない」

 

     

 

 茜理との会話を終えた私たちは、拠点の中心部へ戻った。

 並んだ椅子の隙間から、赤毛がゆらりと揺れる。

「ただいま、なっつん。大丈夫だった?」

「ああ……うん、大丈夫……。アカリたちは……」

「平気!」

 顔を上げた夏妃の表情は、言葉とは裏腹にやつれて見えた。

 約一年ぶりに顔を合わせる。

 けれど、以前と比べて頬は少しこけ、目の下にはくっきりと濃いクマが浮かんでいる。肌の色も、どこか灰色がかっているようにさえ感じた。

 数時間。

 いや、それ以上かもしれない。

 こんな得体の知れない場所に監禁されていれば、誰だって心が摩耗する。

 そう考えれば、納得できる変化ではある。

 ……あるのだが。

 私の中には、引っかかるものが残った。

 夏妃と目が合った。

 数秒だけ、そのまま互いを見る。

 半分閉じた瞼の奥に、乾いた光がぼんやり灯っている。

 ふいに、夏妃が視線を落とした。

 気まずさというより、意図的に会話を避けたような仕草だった。

 睨まれるでもない。

 文句を言われるでもない。

 ただ、何も起こらない。

 いや。

 正確には、「何もない」という反応そのものが、何かの兆候のように思えた。

 本来なら表に出るはずの感情を、夏妃は意識して押し殺している。

 私は、そんなふうに感じた。

 視線が自然と夏妃の足元へ落ちる。

 ジャージに隠れて分かりにくいが、右足首には白いタオルがぐるぐると巻かれていた。

 あまり詳しくはないけれど、テーピングのような処置なのだろうか。

 ケガで動けない。

 そのせいで役に立つ機会がない。

 確かに辛くはなるだろう。

 でも……それだけで、ここまで気持ちは沈むものなのだろうか。

「紙越センパイ! 仁科センパイ!」

 思考の底に沈みかけていた私を、茜理の声が引き戻した。

 少し離れた場所から、弾むような調子で呼んでいる。

「なにー?」

 私が振り向くより先に、鳥子が返事をした。

「こっちに濡れタオルとお水があるので、好きに使っちゃってください!」

 鳥子と視線が合う。

 言われて初めて、自分の状態に気づいた。

 私も鳥子も、汗でシャツが肌に張りつくほどびっしょりだった。

 息はまだ浅い。

 火照った頬を、拠点の冷たい空気が撫でていく。

 そりゃそうだ。

 あの距離を全力で駆け抜けて、同時に襲いかかってきたスタッフを相手にしたのだから。

「行こっか」

「うん」

 鳥子の一言に頷き、足を踏み出す。

 拠点からほど近いキャビネットの上に、一抱えもありそうな大きなガラス瓶が置かれていた。

 瓶の側面には蛇口が付いている。

 中には水が半分より少し少なめに入っていた。

 ドリンクサーバーだ。

 隣にはコップが六つ。

 さらにその隣には、手拭いサイズのタオルがくるくると綺麗に巻かれて積み重ねられている。

 キャビネットの横にはバケツが置かれ、中には少しだけ水が溜まっていた。

「このドリンクサーバーは飲める水なので、好きなだけ使ってください。飲み残しはバケツに捨てちゃってください。濡れタオルはこっちです」

 茜理が指先で一つずつ示しながら、簡潔に説明する。

 思わず、私と鳥子は「おお」と声を上げた。

「茜理たち、なんか……すごいね。この拠点もそうだけど、水とかタオルとか……完全に適応してるよね。空魚もそう思わない?」

「思う。すごいよね」

「ええっ、そんなことないですよ〜!」

 鳥子の称賛に、私も素直に同意する。

 茜理は照れ笑いを浮かべる。

 でも、この状況で生活の基盤を整えるという発想と行動力自体が、異常なほどすごい。

 比べて、今日の私たちは──ただ歩き回って、走って、戦って。

 そして汗まみれになっただけだ。

「こういうの、よく揃えられたね」

「えへへ、時間はありましたから」

 私が言うと、茜理は赤くなった顔を隠すように、私と鳥子の手へ濡れタオルを押し込んだ。

 冷たい感触が指先から腕へ染み渡り、火照った肌がじんわり落ち着いていく。

 ああ……これだけで、少し生き返る。

 私は濡れタオルを手に取ると、まず顔を拭った。

 布地のひんやりとした感触が、火照った頬とこめかみをなぞる。

 額の汗を拭い、首筋をなぞる。

 そこから両腕へ。

 湿った肌をタオルがするすると滑っていく。

 腹部と胸元も軽く押さえたところで、ふと手が止まった。

 ……背中はどうしよう。

 服を着たままじゃ、拭きにくい。

「空魚、タオル貸して。背中拭くよ」

 後ろから鳥子の声がした。

 差し出された手に、私は素直にタオルを渡す。

「ありがと。後で鳥子の背中も拭くね」

「そうしてくれると嬉しい」

 鳥子は軽く笑き、次に茜理へ視線を送った。

「茜理もこっち来ない? 空魚に背中、拭いてもらったら?」

「きょっ!? い、いいんですか……?」

 茜理が、普段なら聞かないような高い声を上げた。

 その表情は少し照れたようで、でも嬉しさを隠しきれないらしい。

 落ち着かない笑顔を浮かべている。

「たしかに、今日は茜理に助けられっぱなしだったね。貸して。拭くよ」

「あ、ありがとうございます……!」

 タオルを受け取り、茜理が背を向ける。

 ──その瞬間。

「あれ?」

 思わず声が漏れた。

 白いシャツの背中側。

 布がざっくり裂けている。

 乾きかけた赤黒い染みが広がり、その下から細い赤い筋が裾へと延びていた。

「どうしたの?」

 鳥子が不思議そうに訊いてくる。

 私は茜理に尋ねた。

「茜理、背中も怪我してるの?」

 茜理は「あー……」と一瞬だけ言葉に詰まり、気まずそうに後頭部をかいた。

「顔を殴られたときに一緒にやったやつですね。よろけてガラスのテーブルに突っ込んだんです」

 茜理は淡々と続ける。

 また、なんでもないことのように。

「もう、すっかり痛みも引いてたんで忘れてました」

 ──ん?

 胸の奥に、小さな棘が引っかかった。

 見落としてはいけないものを、今まで見過ごしていた。

 そんな気がした。

 理由はまだ、形にならない。

 けれど。

 この拠点に足を踏み入れてから、ずっと何かがちぐはぐな気がする。

 夏妃の様子。

 茜理の異様な適応ぶり。

 そして──この傷。

「大丈夫なの、それ? 空魚、めくって見せてみて」

「……うん」

「いや、全然大丈夫ですよ〜。深くもないし、痛くもないですから」

 背中越しに手を振って、「平気」をアピールする茜理。

 私はその言葉を無視して、シャツの裾をそっと持ち上げた。

 現れたのは、赤い一本の傷跡だった。

 すでに傷口は閉じていて、細長いかさぶたが背中を斜めに走っている。

 その一部だけが割れ、薄く血が滲んでいた。

 眉間が自然と寄る。

 点在していた違和感が、一本の線になってつながっていく。

 そんな感覚だった。

「ねえ茜理、血が出てるよ。私のバッグに消毒液と絆創膏があるから、それ使おう」

「いや〜、大丈夫ですよ? 空手やってれば、これくらいのケガなんて日常ですから!」

「空手って、こんなケガするの……?」

 鳥子の率直な疑問を横耳で聞き流し、私は茜理の肩をぐっと掴んだ。

 喉の奥が、妙に渇いている。

「ねえ、茜理……」

「あ、紙越センパイもっ、これくらいのケガなんて気にしないで──」

「ごめん、その話じゃないんだ」

 首を振る。

 掴んだ肩に力を込める。

 やや驚いた表情で、茜理が振り返った。

 私は一歩詰めて、その顔を見た。

 ──私の想像を否定してほしい。

 そう思っていた。

「茜理。このケガしたの、いつ?」

「え?」

 私の質問に、茜理は一瞬、不思議そうな顔をした。

 それから、指を折りながら記憶を辿る。

「ここに来た日にやられた傷なんで──」

 そこまで聞いた瞬間。

 半信半疑だった違和感が、確信に変わった。

「今日で三日前ですね」

 

 

5

 

「おはよう、夏妃。ちゃんと眠れた?」

「……うす」

 何かを引きずるような足音が、静かな拠点の奥から近づいてきた。

 暗闇から現れた夏妃は、薄暗い照明に照らされ、目の下のクマが不自然なほど濃く浮かび上がっていた。

 とても数時間眠った人間の顔には見えない。

 鳥子も同じ印象を受けたらしく、眉をひそめながら夏妃の顔を覗き込んでいる。

 私はバリケード脇に置かれた頑丈な椅子から立ち上がった。

 歩いてくる夏妃の足取りを確かめるように近づき、その横へ回る。

「肩、貸すよ。市川さん」

「……いや。もう大して痛くないんで」

「いいから。気になるんだって」

 返事を待たず、夏妃の腕をそっと肩へ回した。

 夏妃は一瞬だけ私を見たが、反論はしなかった。

 代わりに視線を床へ落とし、呼吸をひとつ押し殺す。

「私も貸した方がいい? 肩」

「ううん。大丈夫そう」

「そっかぁ」

 鳥子が座っていた木製の椅子を引き、私はそこへ夏妃をそっと座らせた。

 そのまま向かいの椅子に腰を下ろす。

 ひやりとした空気が、首筋を撫でていった。

 バリケードの向こうには、黒い海のような暗闇が広がっている。

 動きもしない。

 音すら立てない。

 なのに、妙な圧迫感だけが、じわじわとこちらへ滲んでくる。

 見られているわけでもない。

 追われているわけでもない。

 それでも、どうにも落ち着かなかった。

 茜理の提案で、夜は見張りを立てることになった。

 二人一組の交代制。

 今は私と鳥子の番で、夏妃は鳥子の交代要員として起きてきたところだ。

 拠点の奥には、シングルベッドが二つ、肩を寄せ合うように並んでいる。

 夜の間は交代でそこへ潜り込み、ほんのわずかな眠りを拾う。

 けれど、この闇の中で完全に気を緩めるなんて、どう考えても無理だった。

「じゃあ、私、寝てくるね。おやすみ、夏妃」

「はい……お疲れっした」

 鳥子が夏妃の肩にそっと手を添える。

 その一瞬の接触に、夏妃はわずかに身を揺らし、小さく会釈した。

「お疲れ、鳥子。おやすみ」

「うん。おやすみ、空魚──愛してるよ」

 鳥子が私の頬に、軽く唇を触れさせた。

 反射的に、頭の中が真っ白になった。

 隣には──夏妃が座っている。

 心臓が跳ね、肺の奥がきゅっと縮んだ。

 ──いや、さすがにTPOというものがあるのでは!?!?

「あ、あお、おやすみ……鳥子。あ……愛してる」

 ひどく情けない声が、自分の口から漏れた。

 その瞬間を、夏妃は確かに見ていた。

 淡い表情のまま、こちらを一瞥する。

 何か言いかけたようにも見えた。

 けれど、結局は何も言わず、ゆっくりと視線をバリケードの外へ逸らした。

「それじゃあね。また後で」

「あ……うん。また後で」

 鳥子が軽く手を振り、奥の暗がりへ消えていく。

 その途端、周囲の空気がひんやりと冷たくなったように感じた。

 耳が痛くなるほどの静寂。

 私と夏妃の間には、会話の欠片すら落ちてこない。

 バリケードの向こうから聞こえるはずの物音もない。

 かえって、その静けさが落ち着かなかった。

 まあ、そこまで親しいわけでもない。

 無言が続くのも自然なはずなのに。

 ──居心地は、まるでよくなかった。

 私は努めて夏妃を視界の端へ追いやり、バリケードの隙間から見える暗闇に目を向ける。

 時間だけが、重たい液体みたいに流れていく。

 退屈を持て余した脳が、勝手に数時間前の記憶を引きずり上げた。

 思い出したいわけでもない。

 なのに、ふいに浮かんできた。

 あれは、さっき拠点に落ち着いてから、茜理の傷について話していたときのことだ。

 

 

 

 

「ここに来た日にやられた傷なんで──今日で三日前ですね」

 あっけらかんとした茜理の声に、私も鳥子も、同じタイミングで言葉を失った。

 沈黙が、じわりと茜理のほうへ広がっていく。

 その異変に気づいたのか、茜理は慌てて両手を振りながら、半歩後ろへ下がった。

「えっ……あの? 私、変なこと言いました……?」

 鳥子と顔を見合わせる。

 鳥子が小さく頷いた。

 ──話してしまおう。

 そういう合図だった。

「茜理。よく聞いてほしいんだけど……私と鳥子は、今日の午後にここへ来たの。茜理たちの時間で言えば……『迷い込んだ日の午後』になる」

 言い終えてから、自分の声が妙に乾いていたことに気づいた。

 喉の奥がひりつく。

 唾を飲み込む音だけが、やけに大きく響いた。

 鳥子も横で小さく頷く。

 ぽかんとしていた茜理は、顎に手を添え、眉を八の字にして考え込んだ。

「ええと、それは……どんなふうに解釈すれば……?」

「たぶん、ここの中と外とで時間がズレてるんだよ」

 鳥子が静かに言った。

 その言葉を聞いた茜理の表情から、少しずつ困惑が消えていく。

 代わりに、真剣な眼差しが私たちへ向けられた。

「……私となっつんは、外で行方不明になっていて……助けに来てくれたセンパイたちと三日経ってから合流した、みたいな話だと思ってたんですが……そういうのではなく?」

「違う。私たちの側では、茜理たちと連絡が取れなくなってから、まだ一日……どころか、二十分も経ってないんだ」

「時間がズレてるって……映画とか漫画とかでよくありそうな、そういうやつですか?」

「よくありそうかはわからないけど、うん。たぶん、それ」

「……なるほど。──わかりました」

 茜理は深く一度、頷いた。

 その顔は、まごうことなく真剣だった。

 どうやら、納得したらしい。

 ………………。

「え、それだけ?」

 思わず顔を寄せる。

 茜理は真面目な顔のまま、きっぱりと言った。

「紙越センパイと仁科センパイが、こんな状況で変な嘘をつくわけないじゃないですか。信じる以外に、ないですよ」

 迷いのない声だった。

「お、おお……そっか」

 背筋を冷たいものがすっと走った。

 もし今の会話で私がおふざけをしていたら──茜理は、その冗談すら信じてしまうのではないだろうか。

 そして後になって、それが全部嘘だとバレたりしたら。

 そう空想すると、それだけで喉がきゅっと狭くなった。

 この後輩から向けられる信頼というものが、こんなにも重いものなのだと、そこで初めて実感した。

「あー、そっか……。茜理たち、三日もここにいたから、この拠点もいろいろ整ってたんだね」

 鳥子が、場に残った妙な緊張をほぐすように柔らかく言った。

「ちなみに、この拠点も茜理と夏妃が作ったの?」

「あ、いえ。ここ自体はもともとあったのを初日に見つけて、なっつんと勝手に使ってるだけです」

「ああ、やっぱり。二人でここまで大きいのは作れないもんね。誰が作ったんだろう?」

「えーと……わからないですね。すみません」

 私は顎に手を添えた。

「それにしても、どうしてこんなに時間の食い違いが起きたのか、少し気になる」

「たぶんですけど……IKEAに入った順番に関係があるんじゃないかな、って思いました。確信はないですけど」

 茜理の仮説に、私と鳥子は小さく頷いた。

 私も、おおよそ同じところへ考えが行き着いていた。

「私となっつんは、センパイたちより到着が早かったですよね。それで、先に中へ入ってたんです」

 私は静かに頷く。

「迷い込んだのがいつ頃かはわかる?」

「たぶん、フードコートに着いたあたりです。でも、IKEAに入った瞬間から、何となく変だな……とは感じてました」

 茜理は少しだけ眉を寄せた。

「『猫の忍者』に襲われた時みたいな、あの感覚に近かったんです。……あの時、自分の勘を信じてお店に入ってなければ、センパイたちも、なっつんも、こんなことにはなってなかったですよね……」

 肩をすくめる。

 その表情が、一瞬だけ曇った。

「……あの時の判断、間違ってたのかなって、ちょっと思います」

 その言葉に返事をしようとしたところで、茜理がふと思い出したように顔を上げた。

「あの……話変わるし、今更すぎてすごく失礼なんですけど……小桜さんと霞ちゃんは、大丈夫なんでしょうか?」

 もっともな質問だった。

「正直、分からない」

 私は短く答えた。

「入店は一緒にしたんだけど、すぐに二人とは別行動してたからさ。でも──」

「無事だよ。小桜たちは無事」

 鳥子が私を見る。

「そうだよね、空魚?」

「うん、まあ……」

 私たちのやり取りに、茜理が興味深そうに目を見開いた。

「もしかして……小桜さんたちの安否を確かめる方法、あるんですか?」

「安否というより……位置情報かな」

「位置情報……?」

 茜理が腕を組み、眉をひそめる。

「GPS……?」

「まあ、似たようなもんかな」

「それじゃわからないよ。ほら、あの……」

 鳥子が両手を組んで、四角を作った。

「IKEAのフロアマップ、覚えてる? あれを見たとき、人の位置みたいな赤い点が三つ表示されてたんだ」

「えっ? あのマップ、そんな機能あったんですか?」

「うん。でも、小桜たちの点は途中で消えちゃった。たぶんだけど、小桜は霞の能力で先に脱出したんだと思う」

 私は口を挟んだ。

「正確には、『小桜さんと霞と思われる誰か』の赤点だけどね。確信はない」

「そう、ですか……」

 茜理は驚きと納得の入り混じった顔で頷いた。

「でも、それなら少しは安心です。小桜さん、格闘技とかやってなさそうで、身を守る方法なんてないですし……」

 そこで茜理は、少し申し訳なさそうに続けた。

「それに私、マップをただの案内板だと思ってて、あんまりまともに見てませんでした。この拠点を出入りする時に見るくらいで。その時は印も一箇所だけでしたし……」

「まあ、茜理たちからすれば仕方ないよね。私たちが来るまでの三日間、マップには何の変化もなかったはずだし」

「そうだね」

 私が頷くと、鳥子がふと顔を上げた。

「あれ? じゃあ、どうやって私たちが襲われてるときに現場に駆けつけられたの? マップを見てないなら、私たちの居場所わからないでしょ?」

 そう尋ねられると、茜理は少し困ったように笑った。

「あ、はい。何度も遠くから銃の音が聴こえたので、その音に向かって行ったんです。チラチラ光も見えてたので」

「あ、そっか」

 私は納得する。

 バンバン撃ちまくっていたのだ。

 そりゃ気づく。

 しかし、フレンドリーファイアは怖くなかったのだろうか。

 なんとなく茜理なら、「誤射されても大丈夫です!」とか言い出しそうで、逆に訊くのが怖かった。

 いやいや、と私は頭を振って雑念を追い払う。

「でも、本当に危ないところだったからさ。助かったよ」

「茜理、すごいタイミングで助けに来てくれたよね。かっこよかった」

「あはは……」

 私たちの感謝に、茜理は決まりが悪そうに笑った。

「実は……あれでも、遅れた方なんですよね」

 指先をもてあそびながら、視線を少し落とす。

「……私、なっつんから、あんまり離れたくなかったんです」

 言葉がそこで途切れた。

 茜理は短く息を吐いてから、続ける。

「こんな所……何があるかわからないし。銃声だって、ほぼ間違いなくセンパイたちのだってわかってたんですけど……もしかしたら罠かもしれない、って思うと……」

 眉が寄る。

「そのままスタッフに囲まれたりするんじゃないか、とか……考えちゃって。空手にも一応、限界はあるので……」

 声が、ほんの少しだけ揺れた。

「そうじゃなくても──」

 茜理は一瞬だけ、拠点の中央へ視線を向けた。

 什器に遮られて、その先は見えない。

 けれど、そこにはきっと夏妃がいる。

「なっつんと一回離れたら……こんな場所だし、もう会えなくなるんじゃないかって……毎回……」

 一度、言葉を切る。

 そして小さく息を吸った。

「それが、すごく怖かったんです」

「それはそうだよね」

 私は頷いた。

「でも、結局は『センパイたちが助けに来てくれていて、スタッフに襲われてるんじゃないか? 何かあったんじゃないか? このまま放っておいたらまずいんじゃないか?』って話になって。なっつんと相談して、私が迎えに行くことになったんです」

「市川さん、茜理が危ないのに反対しなかったんだ?」

 意外に思って訊くと、茜理の様子が変わった。

「ぁうー……」

 気まずそうに視線を泳がせる。

「危ないから、行かない方がいいかも……って話は出ましたよね……当然? ……あっ、でも最後は、センパイたちが危ないから迎えに行った方がいいって、賛成してくれましたよ。なっつんは!」

「……そっか」

 なるほど。

 茜理の言動から察するに……かなり強硬に反対したんだろうな、夏妃は。

 まあ、当然と言えば当然か。

 逆の立場なら、私だって反対意見の一つや二つくらい出す。

 ただ、夏妃が折れるのがあと少し遅かったら、私たちはどうなっていたかわからない。

 ぶっちゃけ、マカロフは弾切れ、AKは組み立てが間に合わずで死んでいただろう。

 そういう意味では、夏妃が反対を押し切らず、最後には茜理を送り出してくれたことで、私たちは命を繋いだことになる。

 ……本人には皮肉か嫌味に聞こえるかもしれないけれど。

 ここは、感謝の一つくらい伝えておくべきだろうか。

「市川さんには……一応、ちゃんとお礼言わなきゃかな」

「ね。夏妃も、茜理を危ないところに送り出すのも、足を怪我した状態で自分一人で取り残されるのも、きっとすごく怖かっただろうから。ちゃんと『ありがとう』って伝えなきゃね」

 鳥子はそこで、ふっと笑った。

「でも──」

 次の瞬間、茜理の正面へ回り、そのまま柔らかく抱きしめた。

「一番すごかったのは茜理だよね。ありがとう。空魚と私を助けに来てくれて」

「えっ!? わっ、わあ〜……えへへ」

 茜理は嬉しそうに鳥子のハグを受け入れ、背中に手を回した。

 数秒、そうしていた鳥子が、首を巡らせて私を見る。

「ほら、空魚も」

「え?」

 急に話を振られ、私は思わず身を引いた。

 カナダでの習慣は知らないが、日本育ちの、しかもバリバリの陰キャである私にとって、ハグはそんなに気軽な行為ではない。

 そんな私の逡巡を見透かしたように、鳥子がクイクイと手招きする。

「茜理は命の恩人だよ? ハグくらいはしないと」

 その理屈は正直よくわからない。

 でも、鳥子の腕から解放された茜理がこちらを見ている。

 その顔を前にすると、断る言葉は出てこなかった。

 私はぎこちなく、一歩踏み出す。

 茜理も私に合わせるように振り返り、そっと腕を広げた。

 もともと血色のいい頬が、さらにほんのり朱に染まっている。

 そして──。

 ……身長が、私より高い。

 こんな状況で、こんなことに気づくのもおかしいけれど、なんとなく意外だった。

「えっと……じゃあ、するよ?」

「はいっ、お願いします!」

 やけに張り切った声に、私は観念して、その体へ腕を回した。

 ……柔らかい。

 思っていたよりもしっかりした弾力と温もりが返ってきて、少しだけ体の力が抜けた。

 茜理の体温がじんわり伝わってきて、胸の奥がくすぐったい。

「ありがとうね、茜理」

「はいっ!」

「うん……あったかいね」

 口に出すと少し照れくさいけれど、本心だった。

 ──色々な偶然と判断が重なって、私と鳥子は生き延びてきた。

 一つでも違っていたら、ここにはいない。

 そう思うと、茜理の温かさが、深く深く胸に沁みた。

 私たちは夏妃へ感謝を伝え、現状を整理して共有するため、拠点の中央へ足を向けた。

 什器の隙間から見えたのは、こちらを窺うように座っている夏妃の姿だった。

 目が合う。

 夏妃はびくりと肩をすくめ、慌てたように視線を逸らした。

 まるで、これから叱られるとわかっている子どもみたいだった。

 …………やっぱり、何かを抱え込んでいる。

 私たちの救出を渋ったことを気にしているのか。

 それとも、別の理由なのか。

 どちらにせよ、その重苦しい横顔は、さっきまで茜理が浮かべていた無邪気な笑顔とは正反対だった。

 私たち三人は椅子を引き、輪になって座った。

 私は夏妃の正面に。

 鳥子は私の隣に。

 茜理は夏妃の隣に腰を下ろし、水の入ったカップをそっと差し出す。

 それぞれが水を口に運ぶ。

 けれど、夏妃だけは俯いたまま、コップの中を覗き込んでいた。

 指先だけが、わずかに震えている。

 見ているだけで、胸の奥が詰まった。

 今の時点では、夏妃を責める理由なんて何一つないはずなのに。

 どうして、この子はこんなにも気分を落としたままなのだろう。

 この先、一緒に行動していくのに、ずっとこの調子でいられてはたまらない。

 どう声をかけるべきか考えていると、静寂を破ったのは、夏妃自身だった。

 ゆっくりと顔を上げる。

 瞳には、何かを訴えたい気持ちと、それを押し殺そうとする迷いが入り混じっていた。

 そして、その視線が鳥子へ向く。

 助けを求めるようでもあり、怯えているようでもあり──どこか複雑だった。

「どうしたの? 夏妃。ずっと元気ないよね」

 鳥子の声は柔らかい。

 しかし夏妃は、また視線を落とした。

 正面で小さく丸まった肩が、微かに震える。

 しばらくして、夏妃は茜理へ向き直った。

 私と鳥子は、何も言わずにその様子を見守った。

 茜理は首を大きく横に振り、夏妃の袖をきゅっと掴む。

 目で制するように、「何もしなくていい」と伝えている。

 その必死さが、かえって事態の深刻さを際立たせていた。

 二人が顔を寄せ、小声で話し始める。

 ……そんなに、まずい話なのだろうか。

 私と鳥子は口を挟まず、ただ二人の次の言葉を待った。

「やっぱウチは、ちゃんと言った方がいいと思う……」

「いいよ、まだ言わなくていいよっ」

 二人の声は小さい。

 けれど、そのやり取りには明らかな切迫感があった。

 ……もう、直接訊いてしまってもいいんじゃないか。

 そう思って口を開きかけた私より先に、鳥子が淡々と核心を突いた。

「夏妃が言いたいことって、このIKEAのことだよね?」

 ぴたり。

 二人の動きが止まった。

「茜理が止めるってことは……夏妃が何かのトリガーを、気づかずに引いちゃったのかもしれない。結果として、まずいことになった。……そういう話でしょ?」

 夏妃も茜理も、驚いたように目を見開き、鳥子を凝視した。

 一応、私もそこまでは読めていた。

 たぶん、夏妃が何かをやらかした。

 その結果、ここに至る何かが起こった。

 そして茜理は、それを私たちに隠そうとしている。

 理由はまだわからない。

 単に、夏妃を責められたくないだけかもしれない。

「大丈夫。どんな話でも私たちは怒らないから。ね、空魚?」

「え? ……うーん」

 ──それは、モノによるぞぉ……?

 私は心の中で呟いた。

 黙って考えを巡らせていると、茜理がこちらへ向き直った。

「あ……あのっ!」

「うん。なあに?」

 鳥子の声は優しく、緊張を和らげるように響く。

 茜理は少しだけ肩の力を抜き、私と鳥子を懇願するように見つめた。

 そして、グイッと身を乗り出す。

「あ、あのっ! なっつんは、全然悪気なんてなかったんです! 私のために、してくれたことなんです。だから……怒るなら、私を──」

「はあ!? なんでだよ!」

 それまで小声だった夏妃が、慌てたように立ち上がった。

「ウチがひとりで勝手にやっただけ! アカリ、なんも悪くねえじゃん!」

「でもっ、私が……!」

 茜理の声も勢いを増す。

 二人の言葉がぶつかり合い、空気が一気に張り詰めた。

 私は思わず息を呑む。

 ……夏妃が折れるのか。

 それとも、茜理が押し切るのか。

 互いの声が少しずつ大きくなっていく。

 私は一度息を吸い、うんざりした気持ちを飲み込んでから、二人の間に割って入った。

「結局どうしたの?」

 二人の視線が私へ向く。

「市川さんが何かやらかしたとしても、もちろん限度はあるけど、私たちは大抵のことは許すよ。さっき鳥子が言ってたように」

 一度、言葉を切る。

「私だって今まで散々やらかしてきたし。それに裏世界は、こっちの想像を平気で踏み越えてくる。ここは、そういう場所なの。だから、気に病まずに話してみてよ」

「うん。ほんとだよ。話してみようよ、夏妃」

 鳥子が静かに背中を押す。

 二人の肩から、ほんの少しだけ強張りが抜けた。

 茜理が夏妃を見つめる。

 夏妃も、その視線を受け止めた。

 数秒の沈黙。

 やがて夏妃はコップを掴み、一気に水を飲み干した。

 喉の奥に溜めていた何かを押し込むように息を吐く。

 その勢いのまま、私たちをまっすぐ見据えた。

「あの、いいっすか。……違う。いいですか」

 一瞬、言葉を探す。

 夏妃は小さく息を吸った。

「……話します」

 さっきまでの砕けた口調を正し、夏妃は座り直した。

 声は喉の奥で震えていた。

 言葉につまずくたび、聞いているこっちの胸まで締めつけられるようだった。

「うん。どうぞ」

「紙越センパイなら……知ってるかもしれないんですけど……」

 夏妃は身を乗り出し、ぎゅっと唇を噛んだ。

 そして、覚悟を決めるように一度息を吸う。

「……『SCP』って、知ってますか?」

「え?」

 ──SCP。

 その単語が空気を割った瞬間、私の思考が一拍遅れた。

 まさかここで。

 しかも、夏妃の口から。

 そんな単語を聞くことになるなんて、想像もしていなかった。

 どう答えるべきか迷っていると、何を誤解したのか、夏妃の顔色がみるみる曇っていく。

 突然、夏妃が自分の前髪を乱暴に掴んだ。

 ぐい、と引き寄せる。

 そして次の瞬間には、両手で顔を覆った。

 自分自身を押し潰し、消してしまおうとでもするような動きだった。

 見ていて、ぞっとする。

 私は反射的に腰を浮かせ、鳥子へ視線を送った。

 鳥子も息を呑み、前へ手を伸ばす。

 止めようとしたのだろう。

 しかし、それより一瞬早く、茜理が夏妃の両手をそっと包み込んだ。

 抵抗させないように、優しく。

 そのまま膝の上へ下ろしていく。

 声もまた、壊れやすいものを扱うように柔らかかった。

「大丈夫だよ、なっつん。なっつんのせいじゃないって、何回も話したでしょ?」

 茜理は、夏妃の手を包んだまま続ける。

「センパイたちも言ってくれたじゃん。誰も怒ってないよ。……話したくないなら、いまは無理に話さなくていいの。あとでゆっくり……ね?」

「う、うぅ……」

 夏妃の喉から、押し殺したような低い唸りが漏れた。

 歯を噛み砕いて、血を吐くんじゃないか。

 そんな想像まで頭をよぎる。

「アカリはそう言うけどさぁっ……どう考えても、ウチのせいじゃん。それに──」

「それでも違うよ。ね?」

 茜理が顔を上げる。

 そのまっすぐな眼差しが、私へ向いた。

 私は、その視線を受け止めきれず、思わず息を呑んだ。

「センパイ。SCPって、知ってますか?」

「……知ってはいるけど」

「やっぱり。さすがですね、センパイ」

 茜理は落ち着いた声で言った。

 けれど、その隣では夏妃の手がまだ震えている。

 指先が落ち着きなく重なっては、ほどけていく。

 鳥子が私の肩に軽く触れ、首を傾げた。

「ねえ、SCPってなに? そんなに怖いやつなの?」

「どうだろ。……あんまり詳しくないんだよね。興味がなかったっていうか」

「あれ? そうなんだ」

 鳥子の目が丸くなる。

「じゃあSCPって、どういうモノなのかも知らないの?」

「SCPは……そうねぇ」

 私は顎に手を当てた。

 頭の中で言葉を並べ替える。

 前提知識のない鳥子にも伝わるように説明するなら、どこまで噛み砕けばいいだろう。

「一言で言うと……ネット上で、異常な存在や現象を『収容記録』みたいな形で共有している創作サイト。そういう認識で合ってるはず」

 確認するように茜理を見る。

 茜理は小さく頷いた。

「ああ、空魚は『実話怪談』派だもんね。作り話だから興味なかったんだ」

「ん。まあ、そういうこと」

 軽く頷きながら続ける。

「でもSCPにも面白い話はあったよ。読み物として完全に刺さらないわけじゃなかった。ただ、難解なのが多いんだよね。文章も凝ってるし、取っつきにくいっていうか」

「ふーん……なるほどね?」

 鳥子はまだ霧の中を歩いているような顔で、曖昧に頷いた。

「だから、SCPを知ってはいるけど、詳しい読者ってわけじゃない。ほんの触りしか読んでないよ」

 私は鳥子から視線を外し、茜理と夏妃を見る。

「それで……SCPの話が出てくるってことは、このIKEAが、SCPにそっくり──そういうこと?」

 二人は一瞬、視線を交わした。

 言葉を探しているというより、答えを出す覚悟を確かめ合っているように見えた。

 わずかな沈黙。

 そして──。

「……はい」

「そうっす……そうです」

 二人は深く、ゆっくりと頷いた。

 否定の余地を残さない、その動きだけで十分だった。

 胸の奥がひりつく。

 息を呑む。

 喉が乾く。

 じわじわと心臓が熱を帯びていくのがわかった。

 脳裏に浮かびかけた「不吉な答え」を押し込みながら、私は茜理が口にした単語を、もう一度ゆっくり噛みしめた。

 ──SCP。

 知っている。

 けれど、ほとんど何も知らない。

 名前と、断片的なイメージだけが重なっている。

 ただ一つ、うっすら理解していることがある。

 それは、投稿されている話のほとんどが、ろくでもない結末を迎える、ということだ。

 そのイメージが、胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。

 抜こうとすれば、もっと深く食い込みそうで。

 私は、そのままにしていた。

 だからこそ、無意識に訊き返していた。

「……今回のSCPって、具体的にどんな話なの?」

 すぐには返答がなかった。

 代わりに、夏妃の指先が落ち着きなく揺れ、やがて自分の膝をぎゅっと掴む。

 爪が食い込むほどの力だった。

 その仕草に、場の空気がわずかに沈む。

 それでも──夏妃は静かに口を開いた。

 茜理と夏妃が断片的に語る内容を、私は頭の中でゆっくり繋いでいった。

〈SCP-3008 完全に普通のIKEA〉

 正式なタイトルは、長くて二人とも覚えていないらしい。

 ただ、少なくともここは「完全に普通」ではない。

 ──それは、一見どこにでもある、ただの古びたIKEA。

 ただの家具屋で。

 ただの郊外型ショッピングモール。

 なのに、一歩でも中へ入ったら最後、建物そのものが別物になる。

 外から見た大きさなんて、とっくに意味を失っている。

 キッチンコーナー。

 ソファ売り場。

 照明。

 雑貨。

 見覚えのある配置が、少しずつ形を変えながら繰り返される。

 どれも似ている。

 けれど、同じ場所は一つもない。

 そして、何より問題なのは──夜。

 照明がすべて落ちた瞬間、「スタッフ」と呼ばれる怪物が動き出す。

 そこまで聞いた瞬間、私は息を止めた。

 夜の売り場で見た怪物たちの姿が、鮮明によみがえる。

 姿形は様々だった。

 背丈が二メートルを優に超える個体もいる。

 やたらと長かったり、短かったりする手足。

 顔には目も鼻も口もない。

 なのに、確かに「見られている」という感覚だけが残る。

 そんなものたちが、夜になると獲物を探して歩き回る。

 そして、声を上げる。

 まるで決まり文句のように、淡々と。

「営業時間外です。退店をお願いします」

 笑えない冗談みたいだ。

 けれど、本気で言っているらしい。

 言葉通りの意味で。

 退店させる方法が、「殺すこと」しかないだけで。

 だから迷い込んだ「客」。私たちのような人間は、夜になる前に食料と寝床を確保し、物陰に隠れて、声一つ立てずに朝を待つしかない。

 生き延びる。

 それ以外の目的は、許されていない。

 ただ、それだけ。

 何日も。

 何週間も。

 何年も。

 何十年も。

 夏妃たちの話によれば、それが〈SCP-3008〉と呼ばれている場所の「物語」なのだという。

「物語」と呼ぶには、あまりにも生々しすぎた。

 馬鹿げている、所詮作り話だ、と切り捨てられたなら、どれだけ気楽だっただろう。

 二人の話が途切れる。

 シン、と静かになった。

 耳鳴りのような音だけが残る。

 四人分の呼吸が、やけに大きく聞こえた。

 その静けさを壊したのは、鳥子だった。

「とにかく……今日はもう休んだほうがいいよね。もう深夜だし……」

 そこで鳥子が、ふと眉を下げる。

「あ、でも。スタッフがまた襲ってきたら、どうしよう……」

 その一言で、全員の表情が変わった。

 あの化け物たちの姿を思い出しただけで、喉の奥がひやりと冷える。

「あの……交代で見張りをするのは、どうでしょう。ベッドも二人分しかないですし。それなら、ちょうどいいかと」

 茜理が控えめに提案した。

 異論を挟む者はいなかった。

 互いの顔を見合わせ、自然と頷き合う。

 決めた、というより。

 決めさせられた。

 そんな感覚だった。

 誰もが心の底では、「眠るのは怖い」と思っている。

 それが、はっきりと伝わってきた。

 バリケードの向こうの闇が、こちらの決定を静かに聞いているような気がした。

 そして──数時間後。

 私は夏妃と並んで、バリケードの隙間に押し込むように置いた椅子へ腰を下ろしていた。

 暗がりへ視線を向けながら、胸の奥で跳ねる自分の鼓動を数える。

 耳だけが妙に冴えていた。

 わずかな物音でさえ、闇の奥から何かがこちらを探っているように鋭く聞こえる。

 遠くで、何かが軋んだ。

 ……気のせいかもしれない。

 それでも反射的に喉が鳴った。

 少し冷えた空気が肺へ入り込み、胸をきゅっと締めつける。

 ……隣には、夏妃がいる。

 なのに、私はまるで安心できなかった。

 それが闇のせいだけではないことくらい、自分でもわかっていた。

 

 

6

 

 私は腕時計をちらりと確かめた。

 夏妃との見張りが始まってから、これで何度目の確認だろう。

 秒針の動きが、やけに鈍く感じられた。

 私と夏妃のあいだには、ずっと会話がなかった。

 沈黙が、ふたりのあいだにゆっくり積もっていく。触れたら粉になって崩れそうな、乾いた静けさだった。

 バリケードの向こう、暗闇の底で、どこかの棚が軋むような音がした気がした。

 そのたびに耳がそちらへ引き寄せられ、心臓が意味もなく跳ねる。

 視線の端で、夏妃の横顔を盗み見る。

 夏妃は身をかがめ、肘を膝に乗せたまま、暗がりをぼんやり見つめていた。

 その表情を、私はうまく言葉にできない。

 言葉になりかけたものを、何度も飲み込んでいるように見えた。

 唇がかすかに動いては止まり、小さなため息だけが空気を震わせる。

 やがて夏妃が顔を上げた。

 私と視線が正面からぶつかる。

 そのまま、夏妃の唇が──何かを言おうとして、止まった。

 暗がりの色を宿した瞳に触れた瞬間、胸の奥をざらりと逆撫でされたような気がした。

 私は耐えきれず、そっと視線を逸らした。

 闇の方へ逃げるみたいに。

 わずかな静けさでさえ、息苦しかった。

 飲み込んだ言葉の重さが、胸の奥へ沈んでいく。

 そのとき、夏妃がぽつりと言った。

「申し訳ないです」

「え?」

 唐突な謝罪に驚き、思わず首を巡らせる。

 夏妃は背筋を少し起こし、暗がりの中でまっすぐ私を見ていた。

 その表情は、決意とも諦めともつかない影をまとっていた。

 なにが?──と訊く前に、夏妃は小さく息を吐き、続けた。

「ウチ、ぜんぜん愛想とかなくって……だるいっすよね。ウチと一緒にいると」

「え、いや……」

 うん。まあ、そうだね。

 とは、さすがに言えなかった。

 むしろ、夏妃が自分の態度に自覚を持っていたことに驚く。

 ──いやまあ、自覚があるなら、なおさらダメだろ。

 心の中だけでツッコむ。

 夏妃は俯いたまま、ぽつぽつと言葉を絞り出した。

「センパイに失礼なこと言ったり、態度悪かったり……自分でもわかってるんすよ。……いや、わかってんなら、やめろよって話なんすけど」

「……うん。まあ……」

 反応に困り、曖昧な相槌だけが口から出た。

 何を言おうとしているのか。

 どこまで話すつもりなのか。

 少し期待して黙ってみたが、夏妃は再び視線を膝へ落とし、そこに沈むように黙り込んでしまった。

 ……モヤモヤが募る。

 これ、このまま放置してもいいのだろうか?

 ……いや。

 ここは、きっと踏み込むべきだ。

 私は汗ばみ始めた手のひらをズボンでぬぐってから、身体を少し捻って夏妃の方へ向き直った。

 言わないなら、こっちから訊く。

 待っているだけでは、たぶん何も変わらない。

「市川さん、ちょっといい?」

 思ったより低くて、強い声が出た。

 夏妃は突然ビンタでも食らったみたいに肩を跳ねさせ、ぱっとこちらを見る。

「え、あ、なんすか……?」

「まだ何か、話したいことがあるんじゃないの?」

 夏妃の返事に被せるように言う。

 完全に虚を突かれた顔だった。

 よし。

 ──押せる。

「まだ隠してることとか、言いづらいこととか……あるんじゃない?」

「…………」

 夏妃が口をつぐむ。

 私は、その沈黙ごと押し流すように続けた。

「だってさ、市川さんが茜理とSCPを読んで、それが原因でIKEAに閉じ込められたんじゃないか? って話は、もう出てるよね」

 夏妃は黙ったままだ。

「責任を感じるのはわかる。でも……それだけじゃない気がするんだ」

 私は言葉を探しながら続ける。

「もちろん、その罪悪感がすぐに割り切れる話じゃないのはわかる。周囲を巻き込んだっていうんだから、責任は感じると思う。でも……それにしたって、落ち込み方が少し違うんじゃない? 深く考え込み過ぎてるように見えるんだよ。どうなの?」

 そこまで言われて、夏妃は小さく身をよじり、右手でうなじを押さえた。

 視線が泳ぎ、暗闇の奥をさまよう。

「……どうって、言われても……」

 言葉はそこで途切れた。

 私は待った。

 けれど、夏妃はなかなか続けない。

「完全にじゃなくても、このIKEAの話は一旦落ち着いてるじゃん?」

 私は、できるだけ穏やかな声を意識した。

「じゃあ、今そんなに沈む理由って何? そのままだと鳥子も茜理も心配するし……私だって、気になる」

 夏妃の指先が、膝の上で小さく動いた。

「話してよ。少しくらいなら、解決の手伝いできるかもしれないし」

 すると、夏妃の表情がさらに曇った。

 私は内心で首を捻る。

 本当に、夏妃の考えていることが読めない。

 ……というか、もしかしてだけど──。

 これ、そんなにも話したくないことなのだろうか。

 ふと、そんな思考が脳裏をよぎる。

 だとしたら、やってしまったかもしれない。

 私の浅はかさが……。

 無遠慮に踏み込んで、人の地雷を踏み抜く。

 得意技みたいになっているのが、本当に嫌だ。

 誰にだって、触れられたくないところのひとつやふたつある。

 もしかすると私は今、その「触れてほしくない領域」をこじ開けようとしているんじゃないか?

 ……この追及は、本当に正しいのか。

 そう思った瞬間、胸の奥に澱が重く降りた。

 私は唇をきゅっと引き結び、数秒だけ呼吸を整える。

「あー、ええと……市川さん」

 呼びかけた自分の声は、思ったより静かで、かすかに震えていた。

 夏妃がゆっくり視線を戻す。

「あのさ。本気で話したくないなら……やっぱりいいからね」

 私は小さく息を吐いた。

「ごめん。無理に聞き出そうとして、悪かったね」

「あ、いや……そんなんじゃ」

 夏妃は慌てたように首を横に振った。

 けれど、その動きには力がない。

 視線は私の肩口あたりをうろついて、落ち着く場所を見つけられないままだ。

 吐き出したい。

 でも怖い。

 そんな揺れが、そのまま顔に出ていた。

「市川さんが元気ないのも気になるけど……市川さん、あんまり私に塩すぎてさ」

 少しだけ冗談めかして言う。

「ほら、私が茜理を狙ってる……『イケイケのビアン』って誤解は、だいぶ前に解けてるよね?」

「それは……はい。そう、なんすけど」

 夏妃はひとつ大きく息を吸った。

 それを吐き出すとき、肩がかすかに震える。

 何かを決める寸前の、人がほんの少しだけ弱くなる瞬間だった。

「……ガチな話、していいすか」

 その声は、今までとは違っていた。

 言葉の重さがひとつ増えたみたいに、低く、真っ直ぐだった。

 私は黙って頷いた。

「ちょっと……正直に全部吐きます。ウザいことも言うかもしれないすけど……でも、言います」

 胸の奥のどこかを探りながら話しているような声音だった。

 夏妃は唇をぎゅっと噛み、迷いの痕跡をそこに残したまま私を見る。

「……どうぞ」

 私は手のひらを軽く向け、続きを促した。

 暗がりのなか、空気がすっと細く張りつめた。

「──シット……っすね。センパイへの……シット。それっすよ、やっぱ」

「…………」

 うん?

 耳に入った音が、意味として頭に引っかかるまで妙に時間がかかった。

 シット……嫉妬?

 反射的に、胸の奥を指で突かれた気がした。

 私に……?

「え、何の?」

 脳が追いつかず、素で聞き返してしまう。

 さっき確認したように、私が茜理に気がないことは夏妃も理解している。

 じゃあ、いったい私のどこが嫉妬の材料になるのか。

 夏妃は、じとりとした目つきでこちらを睨みつけた。

「センパイは……いいっすよね。やるときはちゃんとできる人で」

 さっき茜理から聞いた話だった。

 ……本当に言ってたんだ。

 私は少しだけ仰け反る。

「えっと……そうかな?」

「はい。マジでリスペクトっすわ」

 褒め言葉の角で私を殴ろうとしてくるようでもある。

 リスペクトと言いながら、目はぜんぜん尊敬していない。

 むしろ、完全に不満一色だ。

「ごめん。あのさ……今って、具体的に何の話してるの?」

「は? センパイ、とぼけてます?」

「いや、とぼけてはないけど……」

 夏妃は大きくため息を吐き、頭をがしがしと掻く。

「だから、センパイが羨ましいって話っすよ。単純に」

「……私、が?」

 意図を測れず、私は夏妃の表情を探った。

 薄暗い照明の下、眉間に寄った皺が、どこか苦しげに見える。

「やっぱ……とぼけてます? センパイ」

「いやいや……だから、本当にわからないんだってば」

 夏妃はむくれたように唇を尖らせた。

 しばらく沈黙したあと──ぽつり、と言う。

「ウチ、センパイのこと……ちょっとイラついてたんすよ」

 言われた瞬間、背筋が伸びた。

 来るかもしれないとは思っていた。

 でも、真正面から言われると、胸の奥がざわつく。

「それは、どうして?」

 軽く問い返すと、夏妃はすぐには答えなかった。

 視線を落とし、指先同士をいじる。

 言いづらい。

 でも飲み込めない。

 そんな気配が、仕草の端々に滲んでいた。

 数秒して、ようやく声が出る。

「……ウチは茜理との関係、全然進んでなくって。うまくいってないのに……」

 かすれた声だった。

「センパイはウチからアドバイスもらっただけで……すぐ仁科センパイといい感じになって……いや別に、ウチのおかげで、とかいうつもりはないんすけど」

 夏妃の肩がわずかに震える。

 責めているというより、自分に刺さった棘を、そのまま掴んで見せているような顔だった。

「センパイはできたのに……なんでウチは……って。ずっと思ってたんすよ」

 悔しさと情けなさが混ざって、言葉の端々に引っかかっている。

「……でも、違うんすよ。センパイがすごいから悔しいってだけじゃないんです」

 夏妃は一度、唇を噛んだ。

「ウチは、アカリにとって、センパイみたいに『必要な人』になれてない気がして……それが、ずっと悔しかったんす」

 その言葉に、私の胸の奥もひりついた。

「自分でもわかってます。ガキ臭えって……でも、こんなん、不公平だって思わないっすか?」

「え? いや、別に……」

「はあ!? なんでっすか! なんでそこで即答なんすか!?」

 夏妃の身体から、怒りというより「拗ね」が濃縮された何かが立ち上ってくる。

 握った拳に力がこもっている。

 でも、殴る気はないらしい。

 手つきでわかる。

 私は思う。そんなん知らんわ。

 冷たいかもしれないけれど、本当に「知らん」のだ。

 私だって当時は、鳥子とうまくやろうと必死だった。

 成功したという自覚すら、まともにない。

 夏妃は続けざまに言うでもなく、悔しそうにつま先で地面をこすった。

 その仕草を見て、ようやく少しだけ理解する。

 これは、うまくいかない恋の八つ当たりなのだ。

 私に向けられているように見えて、本当は自分自身への苛立ちが混じっている。

 ……そういう気持ちなら、なんとなくわかる。

 私だって、もし鳥子の顔に、他の誰かに向けられた笑顔が映っていたら、絶対にまともではいられないだろう。

 夏妃は感情の行き場を探して、ぐるぐると迷子になっているようだった。

 苛立ちの奥に、寂しさみたいなものが透けている。

「三日前だってそうっすよっ……!」

 三日前。

 ──茜理と夏妃から見て、IKEAに迷い込んだ初日だ。

 私は首を捻る。少しイラついてきた。

 いい加減、八つ当たりもほどほどにしてほしい。

 いったい、私とそれに何の関係が──。

「ウチが! アカリと! 仕事の合間を縫って、久々に!! 二人きりで遊んでたのにっ……いきなり電話してきてっ!! 何かと思ったら、IKEA行きたいっ!? 行きたいなら勝手に行ってくださいよっ!! こっちは茜理とのデートプランだって立ててたのにっ!!」

 めちゃめちゃ私のせいだった。

「そ、それは……ええと、ごめん……」

「それだけじゃないっすよ!」

 怒声が通路に跳ね返る。

 夏妃は視線を泳がせ、言葉を探し、唇を噛んだ。

 怒っているのに、迷子の子どもみたいな顔だ。

「茜理、いまだにセンパイに夢中で、センパイのことずっと追っかけてるんすよ!」

「え? またストーカーしてるの?」

 私が首をかしげると、夏妃は一瞬、「言葉を落とした」という顔になった。

 そして次の瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込む。

「はああっ!? 茜理がそんなことするわけないじゃないすか! てか『また』ってなんすかっ! ふざけて適当なこと言わないでくださいよ!」

「ああ……うん」

 ふざけて、ないんだけどなあ……。

 茜理の過去のストーカー的な行為の詳細を話したら、余計ややこしくなる未来が見えたので、私は口をつぐんだ。

 興奮して声を荒げ、顔を真っ赤にしている夏妃に、私は両手を前に出して「ドウドウ」と制止のジェスチャーをする。

「ごめんごめん。それで? 茜理が私を追いかけてるって……どういうことなの?」

 大学卒業後、茜理と会ったのなんて数えるほどだ。

 それ以外で接点らしい接点もない。

 住んでいる場所が変わったことで、そこら辺で偶然顔を合わせる、ということもなかった。

 この程度で追いかけられていると言われても、ピンとこない。

 夏妃は自分を落ち着かせるみたいに腕を組み、深く息を吸った。

「アカリ……元々興味はあったみたいなんすけど、センパイの影響で、怖い話とか不気味な話にめちゃくちゃハマったらしくて……」

 一度、ため息を挟む。

「ウチといる時も、目ぇ離すと、ずーっとスマホでそういうサイト見てるんすよ……」

「あー、それは……良くないね」

「そうなんすよ!」

 夏妃はここぞとばかりに前のめりになってくる。

「しかも、センパイの名前、ちょいちょい出すんすよ! 『紙越センパイがね〜』とか、『紙越センパイこれ好きそう〜』とか! なんでだよ! ウチそこにいんのに! 聞こえてんのに! なんでウチじゃなくてセンパイ基準なんすか!」

「それは……知らんけど……」

「知らんけどじゃないっ! ウチは結構傷ついてるんすよ!?」

 夏妃の声は怒りというより、拗ねた幼児みたいなトーンになってきている。

 でもこれ、嫉妬とか恋とか、そういう次元よりも──。

「推しを取られたオタクの怨嗟」に近いのでは……?

 しかし、さすがにそれは言えない。

「で、極めつけが、あれっすよ」

 夏妃は本気で嫌そうに眉をしかめた。

 嫌な予感しかしない。

「まだあるの……?」

「まだある!!」

 一度深呼吸してから、夏妃は告げた。

「アカリ、最近……ネットに自作の怪談、投稿し始めたんすよ」

「………………は?」

「なんかこう……『実体験ぽい体で書くのがコツらしい』とかいって。ウチの横でニヤニヤしながらスマホぺちぺちして……!」

 私は背筋に冷や汗をかくような錯覚にかすかに震えながら、夏妃に訊ねる。

「……ねえ、もしかしてなんだけど、それ『洒落怖』とかに投稿したり……してないよね?」

「よくわかんないすけど……『洒落怖』がどうこうとは言ってましたね」

「それは良くない!!」

「良くないんすよ!!」

 鼻息荒く、夏妃と私は同調した。

 私としては最初、あくまで人といる時にスマホばかり見ているのはいかがなものか、という話をしようとしただけだった。

 なのに、なんということだろう。

 いつのまにか後輩が創作系怪談作家になっていた。

 しかも実話怪談を書くスレッドに。

 完全にスレ違いだ……!!

 私の憤りとは無関係に、夏妃の恋バナ(?)は容赦なく進んでいく。

「アカリが、いつまでもセンパイの背中追ってるみたいなのが嫌で……だからウチも、アカリの気、引きたくて」

 夏妃は少しだけ声を落とした。

「それで、たまたまYouTubeで流れてきてたSCP系の動画が流行ってたんで、それを漁って、面白そうなのを茜理に見せてたんす。それで、うまくいくと思ってて……」

 そこで、夏妃はぴたりと口を閉ざした。

「……まあ、その結果がこれなんすけど」

 深く息を吐く。

 肩がわずかに落ちた。

 暗さの中に沈んでいくような静寂が訪れる。

 まただ。

 気まずいというより、触れたら崩れそうな沈黙だった。

 どう返せばいいのかわからず、私は自分の膝の上で、無意識に指を揃えたり開いたりしていた。

 夏妃の横顔は怒っているというより、自分自身に刃を向けているように見えた。

 そっと噛みしめるように動いた唇を、私は見逃さなかった。

「ウチ、アカリのこと守るつもりで一緒にいたんす……」

 夏妃は目を伏せ、膝の上の拳を小さく握りしめた。

「なのに結局、このIKEAの……あのクソッタレのスタッフに追いかけられて……ウチ、バカみたいにビビって、焦って……すっ転んで」

 声が、少しずつ震えていく。

「アカリの役に立てるどころか、ウチのせいで、アカリの顔を……背中にまで怪我させて……っ」

 声が途中でひび割れた。

 自分を責める言葉をどうにか堰き止めようとするみたいに、夏妃は深く息を吸い、喉の奥でぐぅっと唸らせてから吐き出した。

 私は、なんとなくそうではないかと思っていた。

 怪我について訊ねたときの、茜理の反応。

 本人は誤魔化していたが、顔と背中の傷は──夏妃を庇ったときについたものだろうと思っていた。

「ウチ……もう、どうしたらいいか……わからないんすよ……」

 震える声が続く。

「あんな酷い怪我、一生跡が残るかもしれないのに……」

 その言葉を聞きながら、私は無意識に想像してしまう。

 特別な感情を抱いている相手に、自分のせいで跡の残りそうな怪我を負わせてしまった。

 しかも、顔面と背中に。

 私と鳥子に置き換えるなら……。

 私のミスのせいで、鳥子の顔と背中に傷が残るかもしれない、というような話だ。

 ……無理だ。

 想像しかけて、すぐにやめた。

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 前腕の皮膚が粟立つのがわかった。

 これは、たしかに……簡単に割り切れる話じゃない。

 私はようやく、夏妃がここまで沈んでいた理由を、少しだけ実感を持って理解した。

 正直、この件について私にできることなんて、ほとんどない。

 それでも──少なくとも、話を聞くくらいならしてあげられる。

「たしかに市川さんの気持ちは……よくわかった……つもり」

 言葉を選びながら口にすると、胸の奥に重たいものが沈んでいく。

 夏妃の中で、まだ形になりきらない何かが、ぐるぐると渦を巻いている。

 後悔か、自己嫌悪か。

 たぶん、その両方だ。

「あー……でもさ」

 私は少しだけ息を吸った。

「市川さんがいたから、私たち助かったんじゃん」

 我ながら、ずいぶん唐突な切り出しだったと思う。

 夏妃はのろりと顔を上げ、怪訝そうにこちらを見る。

「……急になんの話っすか?」

 だよね。

 私は内心で小さく苦笑する。

 こんな言い方じゃ伝わらないかもしれない。

 でも、夏妃の中で「起きた悪いことは全部、自分がSCPを見せたせい」という結論が固まりきってしまう前に、どうしても別の線を引いておきたかった。

「茜理が言ってたんだけどさ。私たちがスタッフに襲われてた時、茜理を送り出してくれてたんでしょ」

「………………」

「だから、そのおかげで私たち助かったよ……って話」

 夏妃は数秒、私の顔をじっと見つめていた。

 やがて視線を落とし、首を少し傾ける。

「……茜理が気ぃ遣って、なんかウチに都合のいい話にすり替わってる気がするんすけど」

 低い声で、ぽつりと続けた。

「あん時、ウチが考えてたのは……茜理に危ない目にあってほしくなかったのと」

 ほんのわずかな間。

「自分が……一人になりたくなかった。ただそれだけっす」

 言い切るようでいて、どこか投げやりだった。

「……ウチ、性格終わってるんで」

 自嘲気味に鼻で息を吐く。

「たぶん、センパイたちのこと……見捨てる気だったんじゃないっすかね」

 私はすぐには否定できなかった。

 けれど、その言葉をそのまま受け入れることもできない。

 夏妃は左の口角だけを吊り上げる。

 犬歯を覗かせるような笑い方だった。

 けれど、その表情は歪んでいて、漏れ出す罪悪感をとても隠しきれていない。

 やっぱり。

 茜理から話を聞いた時点で、なんとなく察してはいた。

 そして同時に、ここでの話題の振り方を、私はたぶん間違えたのだとも思う。

 すでに口にしてしまった以上、取り消しはきかない。

 このままだと、夏妃の自己肯定感をさらに削るだけだ。

「でもさ、最後は折れてくれたんでしょ?」

 私はできるだけ軽く、断定しないように言った。

「それだけでも、十分。上等だよ」

 ──つもりだった。

 けれど夏妃は、ほとんど反射みたいに首を振った。

「いや……いやいや、そうはならないっすよね」

 否定は早く、迷いがなかった。

「単純に、ウチみたいなお荷物が、最初からいなければよかっただけの話なんで……」

 言葉が、ぽつり、ぽつりと落ちる。

「……そうすれば、茜理はもっとスムーズに、センパイたちを助けに行けてたっすよ」

 自分に向けた刃を、わざわざ深く差し込むみたいな言い方だった。

 そう言って視線を落とした夏妃の表情は、何度も見てきた沈んだ色をしている。

 暗い店内に、沈黙がゆっくり広がる。

 夏妃は俯いたまま、爪で膝の布地をかすかに引っかいていた。

 悔しさと、どうしようもない寂しさ。

 その二つが絡み合った感情が、小さな仕草の端々に滲んでいる気がした。

 ──そんなときだった。

「あのー、なっつんとセンパイ、どうかしました?」

 背後から、不意に女の高い声が闇の奥を裂いた。

 私は思わず息を詰める。

 心臓がびくりと跳ね上がった。

 声の主が茜理だと理解してからも、そのバクつきはすぐには収まらなかった。

 不意打ちは、心臓に悪い。

 ……銃をバッグに入れていて、本当によかった。

 手に持っていたら、危うくぶっ放すところだった。

 夏妃は、文字どおり飛び上がっていた。

 比喩じゃない。本当に垂直に跳ねていた。

 拠点の奥から、少し不思議そうな表情で茜理が姿を現す。

 私も──たぶん夏妃も──内心では相当慌てていたが、互いの引きつった顔を無言の合図にして、表情だけはすっと何事もなかったふうを装った。

 ……よく考えれば、私がそこまで動揺する理由はなかったはずだ。

 それでも、さっきまでの空気に引きずられたまま、気持ちだけが取り残されている。

「……茜理、どうしたの? まだ交代の時間じゃないと思うんだけど」

 できるだけ平静を装って声をかける。

 茜理は朗らかに笑った。

「なんだか目が冴えちゃって。三日ぶりに、安心してぐっすり寝られたからですかね?」

 それから、悪戯っぽく目を細める。

「それに──さっき、なっつんが大きな声で喋ってるのが聞こえてきたんです。なっつんがあんなふうに盛り上がるなんて珍しいなーって思って、つい起きてきちゃいました」

 ワクワクした様子で、茜理がこちらへ近付いてくる。

「二人で、何の話してたんですか? 面白い話?」

 無邪気な声だった。

 その一言で、さっきまで張り詰めていた空気が、音を立てて崩れる。

「い、いや……べ、別にぃ? なんもぉ……」

 夏妃は視線を落ち着きなく泳がせながら、しどろもどろに誤魔化そうとする。

 その挙動不審さで、何かを隠せているつもりなのだろうか。

 助け舟を出すべきか、一瞬だけ迷った。

 ここで話を逸らせば、夏妃を守れるのか。

 それとも、逃がしてしまうのか。

 判断がつかなかった。

 けれど、いまの夏妃にとって何が「助け」になるのか分からなくて、私は結局、口を閉ざしたままでいた。

「えー! じゃあ二人だけで内緒話ー!? ずるーい!」

 眉をきゅっと寄せて怒ったように言ったかと思うと、次の瞬間にはキャッキャと楽しげに声を弾ませる。

 その変わり身の早さに、私は少しだけ気持ちを持て余した。

 つられて笑う夏妃の横顔が、ほんの一瞬、引きつったように見えた。

 気のせい、ではないと思う。

 茜理はスツールを一脚引き寄せると、私と夏妃のあいだに腰を下ろした。

 口角を上げたまま上半身を揺らし、私たちの顔をふりふりと交互に覗き込んでくる。

 何か面白い話を期待しているのだろう。

 だが、聞いていたのは夏妃の懺悔だけだ。

 それを本人の目の前で披露するほど、私は無神経ではない。

 ……はずだ。

 私は、やや強引だと自覚しつつ話題を切り替えた。

「茜理」

「はい?」

 太陽みたいに爛々とした表情を向けられる。

「鳥子はどう? ちゃんと寝られてた?」

「え? あ、仁科センパイですか……そうですねえ」

 茜理は顎に指を添え、少しだけ考え込む。

「ぐっすり寝てたと思います」

「ん、そっか。ならいいんだ」

 私が小さく「ありがとう」と目礼すると、茜理は心底うれしそうに表情を綻ばせた。

 大学を卒業してから、茜理と顔を合わせる機会はほとんどなかった。

 それでも、これだけ裏表なく懐かれると──少なくとも嫌な気持ちにはならない。

 むしろ、会わなかった時間を少し後悔する。

 もっと、こうして普通に話す機会を作っておけばよかった。

 ニコニコと上機嫌に微笑む茜理を見て、私も思わず顔の筋肉が緩む。

 ──と、その瞬間だった。

 茜理の肩越しに、じっと私を射抜く視線が突き刺さる。

 夏妃の眼光だ。

 じりじりと皮膚を焦がすような圧に、私は反射的に視線を逸らした。

 逸らしたところで、その熱が消えるわけでもない。

 ……なるほど。

 夏妃は、さっきみたいな私と茜理のやり取りが、やっぱり気に入らないらしい。

 普段の私なら気にしないところだ。

 けれど、ついさっき夏妃の胸の内を聞いてしまった手前、何事もなかった顔で振る舞うのは、少しだけ後味が悪かった。

 ……とりあえず、しばらくは夏妃の前で、茜理と親しげに話すのは控えめにしておこう。

 ないとは思うが、嫉妬に駆られた夏妃に工具かなにかで頭を割られる未来は、さすがに遠慮したい。

 私は軽く息を吐いて、話題を切り替えた。

「茜理。明日の動きについてなんだけど、今ちょっと相談してもいい?」

 呼びかけると、茜理は小首を傾げ、ぱちぱちと二度瞬きをする。

 それから一度だけ背後を振り返り、改めてこちらを見た。

「もちろん私は構わないんですけど……仁科センパイが起きてきてからじゃなくていいんですか?」

「ああ、もちろん。鳥子が起きてきたら全部共有するよ。意見も聞く必要あるし」

 私は肩をすくめる。

「ただ、今はちょっと暇つぶしがてら、軽くでも予定を立てておきたくてさ」

「ああ、そういうことでしたか! わかりました!」

「茜理は明日、どんなふうに動こうとか、何か考えてた?」

「考え……そうですねぇ」

 茜理は人差し指を立てて顎に当て、思考を手繰るみたいに黙り込む。

 シン、と。

 音の消えた店内に、無音がじわじわと広がった。

 少しの沈黙のあと──。

「いま、飲む用のお水が少なくなってきてるので、補給のためにフードコートへ行きたいなって思ってました。それと、念のために食料も調達しておいた方がいいかなって」

 一拍置いて、茜理は続ける。

「あと、お湯が出るので、ちゃんと頭と体を洗いたいです」

 その言葉に、私は思わず自分の服を見る。

 生乾きのシャツ。

 ……たしかに、そろそろ限界かもしれない。

「なので、できれば紙越センパイと仁科センパイで交互に、手を貸していただけると助かります」

 私は素直に頷いた。

 ──お風呂。

 なんとも魅力的な響きだった。

 ただ、それ以上に引っかかるものがある。

「私はもちろん、鳥子もたぶんオーケーだと思うし、別に構わないんだけどさ」

 少しだけ言葉を選ぶ。

「茜理たちは、その……アレ、食べたの? 大丈夫だった?」

「アレ?」

 一瞬きょとんとしたあと、茜理はすぐに察したらしく、ぽん、と手を打った。

「ああ、はいっ。なるほど!」

 フードコート。

 昨日、鳥子と一緒に立ち寄った場所。

 鉄板で焼ける肉の匂い。

 こんがりとしたパンの香り。

 胃袋を直接揺さぶってくる、あまりにも「まとも」な匂いだった。

 実に食欲をそそられる。

 けれど、「まとも」すぎて、逆に手が出せなかった。

 私も鳥子も、結局あそこで何も口にしていない。

 あの場所で、あの匂いで、あの食べ物。

 本当に「食べていいもの」なのか、確信が持てなかったからだ。

「確かに最初は、ちょっと不気味でしたけど……他に食べられるものもなかったので」

「まあ……そうだよね」

 思わず曖昧な返事になる。

 茜理は私の反応を敏感に感じ取ったのか、慌てて付け加えた。

「あっ、でも! 原作のSCPでも、IKEAに迷い込んだ人たちは、フードコートの食べ物を食べて生き延びてたみたいですよ!」

「そうなんだ。確かに、飢えて死ぬよりはずっとマシだもんね」

「はい! それに、いつ行っても出来立てが出てくるんで、すごくおいしいんですよ!」

「そうなんだ」

 返事をしながらも、私は心の奥でまだ拭いきれない違和感を転がしていた。

 そのとき、茜理の言葉に引きずられるように、頭の奥で別の記憶が浮かび上がった。

 マヨイガから持ち帰った鹿肉の味。

 外館が作った、あのよもぎ餅。

 どちらも、疑いようもなく美味しかった。

 身体に異変が出たわけでもない。

 ……なんだ。

 私も鳥子も、とっくに「裏世界のもの」を口にしていたじゃないか。

 いまさら、何を警戒しているんだろう。

 そう考えた途端、肩の力がふっと抜けた。

 自分の慎重さが、ほんの少しだけ滑稽に思えてくる。

「なら……楽しみにしとこうかな」

「はいっ、良かったですっ。……って、あ!」

 茜理が何かを思い出したように声を上げた。

「どうしたの?」

「紙越センパイと仁科センパイ、今日ご飯……食べてないですよね?」

 言われた瞬間、さっきまで意識の外に追いやっていた空腹が、一気に存在感を主張し始めた。

 お腹の奥で、いつでも「ぐう」と鳴りそうな気配が、はっきりとわかる。

「あー……食べてないね」

「すみません! 気が付かなくて!」

「いやいや、フードコートで食べてこなかった私たちのミスだよ」

 そう口では言ったものの、今さら後悔してもどうにもならない。

「そんなことないですよ! ちょっと待っててください。今晩食べる予定だったご飯があるんです!」

 茜理は勢いよく立ち上がった。

「センパイ、いま食べちゃいますか? 仁科センパイの分もちゃんとありますし、よければ食べちゃってください!」

「え……その、ありがたいんだけどさ。それ、茜理と市川さんの分だったんじゃないの?」

 問いかけると、茜理は迷う素振りすら見せず、首を横に振った。

「大丈夫です! 明日のお昼一食分を差し上げるだけですから! それにフードコートに、いくらでもあります!」

 そう言って、茜理は夏妃を見る。

「ね、いいよね、なっつん?」

 しゃがみ込み、夏妃と目線の高さを合わせる。

 夏妃は一瞬だけ戸惑った表情を浮かべた。

 それから、まぶしいものを見るみたいに目を細めて、ふっと笑った。

「うん……いいよ。ウチらの分は、まだある?」

「一応まだあるんだけど、明日の朝の分までしかないんだよね……それでもいい?」

「いいよ。アカリの好きにして」

「うん……」

 一拍置いて、

「よしっ」

 茜理は力強く頷いた。

「じゃあ、やっぱり明日は──お水だけじゃなくて、ご飯もちゃんと補充する日にしよっか!」

 そう言ってから、茜理は改めてこちらを振り向いた。

「さっきの話ですけど、明日の予定についてですが」

 茜理は、きちんと話をまとめるみたいに背筋を伸ばした。

「食料とお水に関しては、この拠点の近くに、センパイたちが行ったのとは、たぶん違うフードコートがあるので、そこで補給してきます。距離も近いですし、それほど心配はいらないと思います」

 そこまで言ってから、茜理は腕を組み、少し困ったように視線を上へ向けた。

「ただ……それ以外となると、特に大きな予定はないかな……」

 少し考えてから、付け足す。

「あ、スタッフの死骸も捨てに行く必要がありますね。それくらい、でしょうか」

 一瞬だけ、空気がひんやりと冷えた気がした。

 ──死骸。

 IKEAの制服を着た化け物のものとはいえ、生々しく、好ましくない響きだ。

 あの、厚手のゴム手袋みたいな外皮。

 茜理の話では、あれには厄介な性質があるらしい。

 一片でも残っていると、ほかのスタッフを呼び寄せ、しかも凶暴化させる。

 それが原因で、原作SCPに登場した主人公のグループは壊滅した──そういう話だった。

 だから茜理は、ここから離れた別の場所に死骸を捨てに行く必要がある。

 ……あの量だ。

 私と鳥子も、手伝わないわけにはいかないだろう。

「あのー、センパイたちは何か、明日のことで考えてることとか、ありますか?」

「……そうねえ」

 私は、無意識に鼻先から顎先にかけて指先を滑らせていることに気づいた。

 意識を内側へ沈める。

 ──元になったSCPでは、この場所に迷い込んだ人間が、数日どころか、数十年単位で閉じ込められてしまった例すらあるらしい。

 ……はっきり言って、冗談じゃない。

 当たり前だけど、私はこのIKEAで老後を迎える気なんて、さらさらない。

 家具の配置を覚えて、補給ルートを最適化して、スタッフの巡回をやり過ごしながら一生を終える。

 そんな未来を想像しただけで、胃の奥がぐらりとひっくり返りそうになった。

 この拠点は、あくまで仮の避難場所だ。

 終の住まいなんかじゃ、断じてない。

 どうすれば、ここから出られるのか。

 あるいは──出るための「糸口」を、どう掴めばいいのか。

 考えろ。

 頭を止めるな。

 ここで暮らし方を覚えるためじゃない。

 ここから出る方法を見つけるために。

 そう自分に言い聞かせながら、私は沈黙の底で、次の一手を探していた。

「うぅん……」

「んー?」

 声に引き上げられて、はっと我に返る。

 視線を落とすと、茜理が少し不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

「なに?」

「あ、ごめんなさいっ。センパイ、なんだかすごく悩んでるみたいだったので。つい……」

「ああ……声、出てたか。ごめん」

「いえいえ、謝ることなんてなにもっ! ……ちなみに、どんなことを考えてたんですか?」

「ん……ええと」

 私は頭の中でぐちゃぐちゃに転がしていた思索を、ひとつずつ拾い集める。

「今のところ──ここから脱出する方法がね」

 一拍、置く。

「……三つくらいしか、案が浮かんでない」

「え?」

 茜理が声を上げた。

 もともとぱっちりとした大きな目が、さらに丸く見開かれる。

「三つも……あるんですか?」

「マジすか?」

 隣で背を丸めていた夏妃も、同じような顔で私を見る。

「まあ、一応はね……ただし、どれも確実じゃない。成功する保証も、ほとんどない」

 先に釘を刺す。

「だから、あんまり期待はしないでほしいんだけど……」

 それでも二人は、期待を隠しきれない目で身を乗り出してきた。

 その視線に気圧されつつ、私は両手を軽く振って、さらにハードルを下げる。

「ほんとに、思いついた順に並べただけだからね?」

 それでも、茜理と夏妃は小さく頷き、こちらを見つめたままだ。

 希望に光るその瞳を見て、胸の奥が少しだけ重くなる。

 私は観念して、向かい合うように座り直した。

「……じゃあ、話すけど」

 二人が、ほとんど同時にコクリと頷く。

「まず一つ目。元のSCPみたいに、どこかにある『出口』を探す方法」

「……えーと、それは……」

 茜理の眉が、困惑そのものみたいな形に下がった。

 まあ、そうなるのも当たり前だ。

 これは二人も一度は考えた方法だろう。

「この案の問題は二つ」

 私は言葉で順を追った。

「──一つ目。このIKEAが、どこまで原作通りなのかわからない。最悪……出口そのものが存在しない可能性もある」

 息を継がずに続ける。

「もう一つ。仮に出口があったとしても、この拠点から探せる範囲にあるかどうか分からない」

 茜理がゆっくり頷いた。

「もし見つからなかったら、私たちはこの拠点を捨てて、IKEA迷宮をさまようことになる……そうなると、夜に身を隠す場所がなくなる」

 言いながら、自分の気分が沈んでいくのがわかる。

「次の拠点が、都合よく見つかる保証もないしね」

 沈黙が落ちた。

 二人の表情も、私と同じように固まっている。

「で、二つ目」

 私は少しだけ間を置いてから続けた。

「『ゲート』を探すこと。私が見つけて、鳥子が開く」

 一つ目の案と、根っこは同じだ。

「出口探しと、やること自体はあまり変わらない。……ただ、これは私と鳥子にしかできない」

「……ゲート?」

 夏妃が耳慣れない言葉に首を傾げた。

 ああ、そうか。

 夏妃には、まだきちんと説明していなかった。

 私は、その訝しげな視線をいったんやり過ごす。

 この話は、あとで腰を据えてするべきだ。

「で、最後。三つ目の案」

 私は一度、息を整えた。

「小桜さんに、霞を連れて来てもらう。……霞が作ったゲートで、ここから脱出する」

 正直に言えば──。

 現実的と呼べる選択肢は、今のところこれしかなかった。

「ただ……問題があってね」

 私は無意識に頭をかいた。

 爪の間に、乾ききらない汗と皮脂がじっとりと残る。

「小桜さんが、またこのIKEAの中に入ってきてくれるかどうか……そこに確信が持てない」

「ああ……」

 茜理は一瞬だけ言葉に詰まり、どこか察したように苦笑した。

「小桜さん、こういうところ苦手っぽいですもんね。前に行った、Tさんのお化け屋敷の時とかも……」

 私も同じように笑って頷いた。

 あのときの光景が、脳裏にふっと蘇る。

 後ろから私の背にぴったり張りつき、半ば肉の盾にするように歩いていた小桜の姿。

 今思い返すと、なかなかひどい扱いをされていた気がしなくもない。

「『ぽい』じゃなくて、めちゃくちゃ怖がるよ」

 断言すると、茜理は「ですよねぇ……」と肩をすくめた。

「えーと……それじゃあ……」

 茜理が言葉を選ぶように、少し間を置く。

「小桜さん……来てくれない可能性も、あるってことですか?」

「うーん……」

 私は即答できずに唸った。

 空中に張り巡らされたコードにぶら下がるLEDライトをぼんやり見上げる。

 茜理の言う通りだ。

 小桜がここに来てくれる保証なんて、どこにもない。

 しかし、ひとつだけ希望と呼べそうな材料はあった。

「私と鳥子が茜理たちを探して、IKEAの中を歩き回ってたときさ」

 私は思い出しながら言葉をつなぐ。

「小桜さん、けっこう長い時間、店内にいたみたいなんだよね」

 私は少し考えてから続けた。

「……まあ、どうしていいかわからなくてパニクってただけかもしれないけど。だけど、それでも何もしようとしなかったわけではないと思う」

 説明を続けながら、私は無意識にフロアマップを探して周囲を見回した。

 本来なら、どこかに掲示されているはずの赤い点──現在地を示す案内板。

 だが、このバリケードエリアには影も形もない。

 視線をさまよわせていると、茜理が首をかしげた。

「どうかしました?」

「うん……マップ、ここにはないのかなって思ってさ」

「あ、すみません。ここには置いてないですね。今度、外に出るタイミングで拾ってきますよ」

「うん。そうしようか」

 話が逸れかけていたので、私は軽く手を振り、意識的に話題を元へ戻した。

「──そんなわけで、小桜さんが助けに来てくれるかどうかは、正直わからない。今のところは、ね」

「そうですか〜……」

 茜理は視線を落とし、空気が抜けたみたいに肩をすぼめた。

 その変化を感じ取ったのか、夏妃がこちらに顔を向ける。

「小桜さん、怖がりだってのは知ってるっすけど……」

 少し言いにくそうに前置きしてから、続けた。

「こういう言い方はアレですけど……そんな薄情な人なんすかね? 助けに来ないなんて、ダチが消えてんのに……」

「あ、うーん……そういうわけじゃなくて」

 答えながら、私は迷った。

 これを口に出した瞬間、余計に場の空気が重くなる気もしたからだ。

「なにか、あるんすか?」

 夏妃が座ったまま、じわりと距離を詰めてくる。

 茜理も横で黙ってこちらを見ている。

 二人分の視線が集まると、背中にじっとりと嫌な汗が浮いた。

「なんというか……」

 私は言葉を選びながら続ける。

「私と鳥子って、裏世界に行くときも、帰ってくるときも、小桜さんは基本ノータッチなんだよ。『行ってきます』『ただいま』──その程度でさ」

「…………」

「あー、つまり……」

 少し間を置いて、私は言った。

「……小桜さんにとって、私たちは『心配はするけど、最後は自分たちで帰ってくる人たち』なんだと思う」

 そこまで言ったところで、夏妃が視線を落とし、肩ごと重たく沈んだ。

 しばらく、沈黙。

 十秒ほどしてから、夏妃はゆっくり顔を上げた。

「……つまり、小桜さんはセンパイ達のことを『自力で帰ってこれる人ら』だと思ってて……」

 言葉を選ぶように、続ける。

「放置するかもしれない……ってことすか?」

「いやいや、あくまで最悪のパターンね?」

 私は慌てて手を振った。

「三日とか四日とか過ぎたら、さすがになにか動いてくれると思うよ。連絡も取れないんだから、なおさら……たぶん」

 語尾が、どうしても弱くなる。

 我ながら、ひどく説得力がない。

「あのー……」

 茜理が眉を寄せた。

「三日や四日経っちゃうと……取り返しのつかないことになっちゃったり、しませんか? その……時間のズレで」

 茜理の次の疑問に、胸の奥でドキリと心臓が跳ねた。

「ああ、うん。そうだったね……」

 私は一度、言葉を切った。

「そう……だね」

 外の世界と、このIKEA迷宮とでは、時間の流れが違うと考えられる。

 茜理たちが中間領域に入った時刻と、私たちがそこに入った時刻は、表世界ではおおよそ三十分しか違っていなかった。

 でも、こっちでは三日分の時間が流れていた。

 ──となると。

 もし、小桜が救出に動くのが、表世界で三日後だったら?

 ……考えるだけで怖い。

 胸の奥が、ひくりと跳ねた。

 でも、絶対に知っておくべきことだ。

 私は頭の中で、必死に計算を始めた。

 三十分で三日。

 なら、一時間では?

 ……そこから先で、思考が絡まった。

「えっと……だめだ。なんか、すごいぐちゃぐちゃしてきた。こんなに単純な計算なのに……」

 途中で、自分が何を求めているのかわからなくなってきた。

 思考が止まる。

 額と背中に、じわっと汗が浮いてくる。

 気づいてはいけない事実の縁に、足先だけが触れてしまった気がした。

 いったん、深呼吸。

 思考を無理やり白紙に戻す。

 バッグからスマホを取り出し、計算機アプリを立ち上げた。

 計算するために画面をタップしようとして、気づく。

 ……画面に表示された数字は、文字化けしていて読めない。

 ここでは、当然のことなのに。

 ……落ち着け。

 なにやってるんだ、私。

 深呼吸しながら、ゆっくりスマホをバッグに戻す。

 代わりに、ペンと防水ノートを取り出した。

 もう一度だけ。

 今度は、落ち着いて。

 三十分で三日。

 つまり、一時間で六日。

 その六日に二十四時間を掛ければ──表世界の一日が、こっちで何日に相当するのかが出る。

 ……はずだ。たぶん。

 いや、合ってるか? これ?

 半信半疑のまま、紙面に数字を書き込む。

 慎重に導き出された解を、私はそのまま声に出して読んだ。

「………………ひゃく、よんじゅうよん?」

 裏返って、力の抜けた声が静かな店内に落ちた。

 声に出してから、意味が追いついてきた。

 百四十四。

 数字としては、ただの三桁だった。

 なのに、それが示す時間だけが……異様な重さを持っていた。

「セ、センパイ? 大丈夫ですか?」

 固まった私を心配して、茜理が顔を覗き込んでくる。

 近すぎる距離に、返事をするのが一拍遅れた。

 私は、自分の計算がどこかで間違っていることを祈りながら、確認するように茜理に訊ねる。

「三十分で三日ならさ……一時間で六日、だよね……?」

「そうですね」

 ためらいのない肯定に、心のどこかがきゅっと縮んだ。

「じゃあ、二十四時間に六日を掛ければ……表世界の一日が、このIKEAで何日になるかってこと、わかるよね?」

「……はい」

「二十四に六を掛けたら、百四十四ってなるんだけど……これって、百四十四日……で、合ってる?」

「………………」

 茜理が、言葉ごと固まった。

 視線が宙で止まり、まばたきの回数だけが、やけに目についた。

 その重たい沈黙を、横から夏妃が割り込む。

「百四十四日って、だいたい五ヶ月……半年近いってことっすよね」

「……うん」

 それだけで、時間が急に現実の重さを持った。

 夏と秋が丸ごと消える長さだ。

 私の乱れる情緒を気にも留めず、夏妃が淡々と続ける。

「そこに、小桜さんが助けに来るまでの時間として、四日を……いや、三日を掛けると、どうなるんすか?」

 私は答えなかった。

 言われるまま、ノートの上で指を動かす。

 ペンを走らせる。

 単純な計算の結果として紙面に浮かび上がった数字を見た瞬間、ヒュッと喉がひとりでに鳴った。

「………………四百三十二日」

 声に出した瞬間、胃の底に、冷えて重たい塊が落ちた。

 四百三十二日──。

 一年、三百六十五日を、はっきりと超えている。

 絶望と焦りが、暗い天井から剥がれ落ちてくるみたいに、じわじわと背中に積もっていく。

 誰も何も言わない。

 その重すぎる沈黙を、茜理が無理やり日常へ引き戻すように言った。

「あの、とりあえず……」

 茜理が続ける。

「お夕飯……食べますか?」

 誰も返事をしなかった。

 けれど次の瞬間。

 私のお腹が「ぐう」と、一際大きく鳴った。

 その音だけが。

 四百三十二日という数字の重さを、やけに現実的なものにした。

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