気付くと、広すぎる屋内に一人で立っている。
天井は見えず、壁の輪郭も曖昧で、どこまでが空間なのか判断できなかった。
空調の音も、遠くの生活音もない。
世界から「音」という要素だけが、きれいに抜け落ちてしまったみたいだった。
その静けさを踏み荒らすように、背後で足音がした。
一つではない。
重なったり、途切れたり、妙に間が空いたかと思えば、急に詰め寄ってくる。
速さも間隔も揃っていないのに、不思議と「近付いてきている」ことだけは、はっきりわかった。
近付いてくる。近付いてくる。
確実に、逃げ場がない距離まで。
振り返れば、何かが壊れてしまう気がして──。
私は、呼吸の仕方すら忘れたまま、ただ立ち尽くしていた。
1
スマホのアラームが枕元で震えるように鳴った。無理やり朝を快活に見せかけようとする音。どこか別の現実から届いたノイズのようだったが、触れてみれば、確かに現実だった。
指先で画面を叩き、音を止める。
九時半。
早いわけではないが、余裕を感じるには少し足りない。
真夏の朝の光が、カーテン越しに部屋に差し込む。壁に落ちた明るい橙色は、眠気の残る視界にはどこか抽象画のようだった。
ここは日暮里。四階建てのマンションの一室。駅まで徒歩十分、築二十年。そこそこ広く、風通しのいい間取り。高すぎず安すぎず、金のある中流家庭が手を伸ばすような立地だった。私と鳥子は今、その部屋で暮らしている。裏世界から拾ってきた「価値あるもの」を売る探索の仕事と、ゲート周辺の「牧場」の管理。その収入が、今のところ家賃を支えていた。
天井が視界にぼんやり浮かんでいる。
輪郭がはっきりするまで、数秒かかった。
もう一度、深く息をつく。
その隣で、鳥子が身じろぎした。ゆっくりと身を起こし、眠そうに目を細めながら私に向かって言った。
「おはよう空魚ぉ」
言葉の直後。
頬に、額に、立て続けに何かが触れる。柔らかく、あたたかい感触。鳥子の唇だった。
「愛してるよぉ」
くぐもった声。まだ完全には覚醒していないその音には、夢の余韻が残っている。
「おはよ……私も、愛してる」
鳥子は目を閉じたまま、こちらに顔を向けている。わかっている。これはキスを待っている合図だ。
私は自然に上体を起こし、鳥子の頬と額に唇を寄せる。なにも考えずに、ただその感触を受け入れる。
これが日常になっていることが、いまだに少し不思議だった。
大学を卒業して、私たちは同棲を始めた。以前の家は大学に近いという理由で住み着いていたのだが、卒業後も特に引っ越す理由はなく、ズルズルと暮らしていた。
そんな私に、鳥子は、熱を帯びた声で言った。
──空魚と一緒に、住みたい。
異論はなかった。私はうなずいただけ。それだけのことだった。
しばらく無言の時間が流れる。枕元のスマホが放つ小さな光と、冷房の稼働音、カーテン越しの朝日だけが、部屋の空気をほんのり染めている。静かで、穏やかで、少し心許ない。
何も考えず鳥子と同じ天井を眺めていると、ふいに、部屋の静けさが妙に広く感じられた。床には最低限の家具と、本棚が並ぶ。整ってはいるが……どこか穴が空いている。
「この部屋、空魚の物少ないよね」
思考を読まれたかのようなタイミングで、鳥子は眉間に浅く皺を寄せて言った。私は枕を抱えたまま、横目で鳥子を見る。
「……そうかな?」
「そうだよ。前の家から持ってきたの、本と、その本を入れる本棚と、ちょっとした消耗品くらいでしょ? どう考えても少ないよ」
「服も持ってきたけど?」
「それ、ぜんぶ私のクローゼットに収まる程度じゃん」
「でも……私が持ってる物持ってきてもダブるだけじゃん。家具買っても、入れるものがないし」
「家具がないから物が増えないんだってば」
「そう? そうかな……?」
「近いうちに買いに行こうね」
鳥子の言葉を反芻する。荷物の少なさを自覚してはいたけど、そんなに気になるものなのだろうか。
鳥子が布団を抜けて立ち上がり、振り返りながら言った。
「なんだかね、ある日突然、空魚がいなくなりそうって不安に思うときあるんだ」
そのままリビングへ歩いていく背中だけが残される。
「人はそんな簡単に消えないよ」
鳥子に聞こえるかどうかの声で答えて、少し遅れて私も起き上がり、キッチンへ向かった。
冷房の効いた寝室から、温い部屋に移動するとき特有の温度差の膜を破る感覚がする。
鳥子はちょうどソファに腰を下ろすところだった。座面が沈む。
ギシギシ……。
普段聞き慣れない木のきしむ音に、鳥子は首を傾げて小さく肩をすくめる。
「空魚、今の聞こえた?」
「うん。聞こえた」
「やばくない?」
「やばい」
鳥子はクスクスと笑ったが、私は微笑まず聞き流すだけだった。
家具をどこで買うか──正直、どうでもよかった。通販で十分だし、色や形にこだわりもない。そもそもこの部屋において、家賃こそ半分は払っているものの、私は「住まわせてもらっている」側だ。家具を選ぶのは、たぶん「住まわせてくれている」鳥子の役目だろう。
洒落たケトルに水を入れ、火にかける。今朝はドリップする気力がない。頭の片隅に家具のことが引っかかっているからかもしれなかった。
インスタントコーヒーの瓶を手に取り、マグに粉を落とす。湯が沸くのを待ちながら、木製のトレイにマグとシュガーポット、牛乳の小ジャグを並べる。湯を注ぐと、立ち上る香りが鼻をくすぐった。私にとっての、ささやかな朝食の代わりだ。
カップを二つ並べ、トレイを手にリビングに戻る。
「何を買えばいいと思う?」
クッションを抱えた鳥子に声をかけると、鳥子は少し首を傾けて答えた。
「空魚専用のクローゼット、イスは……」
「クローゼットは置ける場所ないし、イスも四脚ちゃんと揃ってるのに、一脚だけ違うデザインで浮くのは変じゃない?」
「うん、いま言いながらそう思ってた」
鳥子は前のめりになり、視線だけで私の反応を探る。
期待と少しの不安が、同時に混じった視線だった。
「じゃあ、小物とかインテリア、たくさん買おうよ。それなら置く場所あるでしょ?」
「んー……」
「だめ?」
「だめじゃないけど……」
正直に言えば、選ぶという行為そのものが億劫だった。
それをたくさん選ぶとなると、私の中の怠け者スイッチが完全に入ってしまう。
私はコーヒーにミルクと砂糖を入れながら答えた。
「見てみないと、なんとも言えないかな」
「じゃあ家具屋さん行こう。空魚が選んでいいよ。猫の置物とか、猫のスリッパとか、猫のランチョンマットとか」
「猫……」
「どう?」
「うーん」
「行かないの?」
「……行こうかな」
押し切られたように私はうなずく。
「どこ行く? 希望ある?」
「全然ない」
「じゃあさ、IKEAにしようよ」
「IKEAねぇ。いいけどなんで?」
「だって前に話したじゃん。一緒に行こうって」
「……したっけ?」
「したよ。外館さんがいた頃。マヨイガで」
「そうだっけ? よく覚えてるね」
首を傾ける。外館という懐かしい名前だけが、脳の一部を刺激するが、胸の奥を軽く叩くような感触だけが残って、詳細はまるで思い出せなかった。
私はトレイからカップを取って鳥子に渡し、もう一つを手にソファに腰を下ろす。
ミシッ──尻の下で、嫌な予感を伴って重心が沈む。さっきよりもはっきりしていた。
そっと体を浮かせ、もう一度ゆっくり座り直す。鳥子も気づいたようでこちらを見る。座面にはわずかな傾きが出ていた。一瞬、どちらも何も言わなかった。
「まただ……今の──」
パキッ。
木材が割れる音が、一拍遅れて部屋に落ちた。
尻の下が一段沈み、やばい、と頭より先に身体が反応して腰を浮かせる。私が座っていた部分の底が斜めに傾いていた。
「あ、これ……」
割れ目ではなく、私のほうを一瞬だけ見てから鳥子が下から覗き込み、顔をしかめる。
「あー、割れてる……やっぱり限界だったんだ」
「……ごめん」
「ううん。空魚のせいじゃないから気にしないで。私が子供の頃から使ってたし、ジャンプして遊んでたんだもん」
鳥子はポンポンと壊れた座面を叩く。その仕草は軽いのに、目だけが、時間の奥を見るみたいに遠くを向いていた。
「そういえばね、このソファもIKEAで買ったやつだったなぁ」
「そうなんだ」
私は鳥子の座るソファを見る。低い背もたれ、三人は並んで座れそうな横幅。
鳥子のお母さんとママさん、そして小さかった鳥子──そんな並びが自然に想像できた。写真で見たこともないのに、不思議と違和感はなかった。
「……実はね、子供の頃IKEAに行ってね、展示されてたソファの上で飛び跳ねちゃったことがあってさ」
「……ヤバくない?」
「そう。ヤバい。運が悪かったのかパキッと割っちゃって、泣きそうになった……ううん、泣いた覚えがある。結局、その場ではママが払ってくれたんだけど、私のお小遣いで後から全額弁償したの。十ヶ月以上かけてね」
「怒られた?」
「めっちゃ怒られたよ! ママにもお母さんにも」
「店員さんにも?」
「店員さんは笑ってた」
「笑いながら賠償請求?」
「うん!」
鳥子は少し照れくさそうに笑う。
その笑顔が、今の静かな朝の空気と、幼い頃の失敗をふわりと結びつけているようだった。
壊れたソファを挟んで向かい合いながら、私もつられて息を吐く。
──たぶん、このソファの寿命は、ずっと前から決まっていたのだ。
鳥子が子供の頃に跳ねて壊したソファと、こうして壊れたソファが一本の線でつながるみたいに思えた。
「じゃあ次もIKEAで決まりでいい? ソファも買い替えなきゃね」
「いいけど、IKEAって配達サービスなかったよね?」
私が言うと、鳥子は顎に手を添え、記憶を探るみたいに視線を泳がせた。
「車で行って、家具は自分で積んで持って帰る。あとはご自由に。家で組み立ててね、ってスタイルだったはず」
「私たち、車も免許もないよ」
「うーん……」
鳥子は目を閉じ、数秒だけ静止した。思考のエンジンをかけ直すみたいに、ぱちりと目を開く。
「あ、じゃあ、明日小桜に頼もうよ。小桜に運転してもらうの。レンタカー借りて行こう」
「『いいよ』って、言ってもらえると思う?」
「もらえるよ。小桜、やさしいし」
「やだよ、めんどくせえ」
翌日。七月二十四日。午前十一時前。
小桜屋敷の応接間で、冷房の冷風にあたりながら、私たちはテーブルを囲んでいた。
話題は裏世界探索の次のルートから、飯能の牧場に置くソーラーパネル、自家発電計画まで、節操なく行き来している。
最初から小桜は輪に入る気ゼロで、口は出さないし、出す気もない、という顔だった。私たちの議論を片肘つきながら眺めているだけだったが、そもそも今日ここに来た理由──車を出してほしい──という打診を持ち出したところ、この返答である。
「なんで? 小桜、暇でしょ。霞もあんまり手がかからなくなってきたみたいだし」
鳥子がストレートに刺す。小桜は気だるげに横目を向けた。
「暇なわけねえだろ。仮に時間が空いたとしても、このクソ暑い中で外に出るくらいなら、あたしは寝る。しっかり、ぐっすり」
指を折って数え始める。
「母子家庭、支援学級の子ども、自宅仕事。この三点セットだけで分刻みの綱渡りだよ」
「へえ、今日は休みの日?」
「そう。貴重な一日を、お前らが潰しに来た」
「自営業で在宅なら、逆に時間ありそうなのに」
鳥子の無邪気な言葉に、小桜の眉がぴくりと動く。
「……学校の連絡は平日の昼間だ。授業短縮だの急な面談だの、個別支援計画の更新だの、ぜんぶ『なるはやで』って飛んでくる。『はい。わかりました』って言うしかないんだよ。『来られない親』になった瞬間、一番最初に不利益を食うのは子どもだから」
一呼吸置き、息を吐き捨てるように続けた。
「で、そのたびにこっちは仕事中断して、Zoom切って、クライアントに謝ってさぁ……。そんな生活してるあたしが、おまえらの家具選びに付き合ってる暇があると思うか? あるなら今すぐベッドに倒れて夢のひとつでも見たいね」
「……大変なんですね」
口に出してから、あまりにも無難すぎたと自分で思った。しかし私の言葉に、小桜は「そうなんだよ」と深く頷く。
その頷きとともに少し肩の力が抜けたのか、革張りのソファへ背中を預け、腕を組んだまま天井をぼんやり見上げた。
会話が途切れ、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。
そして、小桜は虚空に向かってぽつりと呟いた。
「……でも霞の家具が足りてないな」
ぼやきというより、独り言に近い声だった。
「何が足りないの?」
「勉強机とか、ベッドとか……」
「そうなんだ。霞、どれくらい勉強できるようになったの?」
「小一相当のワークを、解けるまで椅子に座ってられるようになったな。外では『シフトは絶対に使うな』って言い付けだけは守ってるから助かってるけど……まあ、それでも悩みどころに変わりはない」
「……そうですね」
形だけの相槌だった。内心、軽く歯を食いしばっている。
困った。話の流れが、じりじりと脇道へそれていく。このままだとIKEAの話題がフェードアウトしてしまう。どうにか元の線路に戻さないといけない。
「それでも……何かしら買ってあげたら喜ぶんじゃないでしょうか」
言いながら、自分でも頼りないと感じていた。
「親が自分のために買ってくれたものって、案外、記憶に残るものだと思うんです……よね?」
語尾がしぼんだ。
その瞬間、私は気付いた。親に何か買ってもらった記憶なんて、ほとんど残っていない。
思い返そうとしても、場面が浮かばなかった。なかったわけでは、ないはずなのに……。
常識として聞いたことのある言葉を並べただけ。その薄っぺらさを自分でも意識してしまう。
案の定、小桜の視線がこちらに向いた。
怒っているわけでも呆れているわけでもない。逆に、妙に優しい眼差しで。
「空魚ちゃん」
「はい?」
「露骨すぎ。失格」
「なんでですか!」
ふふん、と鼻で笑ってから、小桜はマグを口に運び、炭酸の抜けたアイスコーラをひと口だけ含んだ。
その仕草があまりに自然で、妙に生活感があった。
「でもさ、冗談抜きで霞を連れて行くの、アリなんじゃないかな。今回のIKEAに限らずね」
鳥子が一拍置いて言った。
さっきまでの軽さが、すっと消えていた。
「子どもの頃に家族と出かけた場所って、ずっと記憶に残るでしょう? そこで買ってもらった物も」
「…………そうかもな」
小桜が神妙に頷く。
私のさっきの発言と大差ないはずなのに、この反応の差はなんだ。なにか補正が掛かっているのだろうか。
「だけど、行き先がIKEAで本当に楽しめるのか? あたしは行ったことがないんだが」
「大丈夫。広いし、いい匂いもするし、大人も子どもも楽しめるよ。家具屋というより小さなテーマパーク……って言ったら言い過ぎかな。でも私は楽しかったなぁ」
「なるほどねえ──どうだ、霞。興味あるか?」
小桜が隣に座る少女──霞へ視線を向ける。
二年前に保護されてから、霞は随分と変わった。幼く丸かった顔は引き締まり、背丈は小桜と並ぶほどになった。それでも、食欲に忠実で、覚えた言葉をワードサラダみたいに混ぜる癖は相変わらずだ。
はっきり変わった点があるとすれば──私たちに通じる形で言葉を発する頻度が、明らかに増えたことだ。
その霞が、私たち三人の視線が自分に集まっていることに気付いたらしい。
手土産のフィナンシェを齧る手が止まった。
「どうしたの? 霞ちゃん」
霞が、自分に向けられた質問を真似て口にした。
これも、誰かから言われたフレーズの再利用なのだろう。
話の流れをまったく追っていなかったらしく、小首を傾げている。
鳥子が優しい口調で霞に語りかける。
「私たちと小桜で、すっごく大きくて広いお店に行くの。そこでご飯食べたり、霞の欲しい物、小桜が買ってくれるよ。みんなで一緒に行ってみない? どお?」
「それじゃあ、行こうね」
どこで覚えたのか分からない言葉だった。霞はコクコクと頷き、小桜を一瞥してから口を閉じた。
──はい、おしまい。
みたいな空気を出すと、そのまま「自分の仕事は完了」と判断したのか、またフィナンシェを前歯でちまちま齧る作業に戻っていく。
その霞の頭を、小桜がやわらかく一撫でしていた。
気のせいか、さっきまでの刺々しさがすっかり抜けている。
「そういえば」
霞の頭を撫でたまま、小桜がぽつりと言った。
「霞のベッド、まだ買ってなかったな」
「え? じゃあ今までどこで寝てたの? 床?」
「んなわけねえだろ。ベッドだよ。あたしの」
「そうなんだ。じゃあ今まで同じベッドだったの?」
「ああ。放っておくと床で寝るから、髪も服も埃だらけになる。だから仕方なく一緒」
そう言ってから、少し間を置いて続けた。
「でももう中学年に片足突っ込むわけだし、そろそろ自分のベッドを用意してやりたい」
「いいね。霞に合うのが見つかるといいなあ」
「そうだなぁ……」
小桜は相変わらず霞の頭を撫で続けている。
その様子を鳥子がやわらかい目で見つめて、部屋の空気が一瞬、感傷めいた温度に傾いた。
──ダメだ、このままじゃ、また脱線してしまう。
私は軽く咳払いして、話題をIKEAへと引き戻そうと試みた。
「小桜さん。霞のベッドを買うにも車が必要です。レンタル代もガソリン代も人件費も、全部私たちが持ちますから……IKEAまで運転をお願いできませんか?」
「ん……なら、まあいいか」
「やった!」
鳥子が無邪気にガッツポーズする。ついでに私へウインク。かわいい。ずるい。
「だが、そうなると……」
小桜は首をめぐらせて、私たち二人を順に見た。
「人間四人が乗って、でかい荷物も積める車、ってなると……ワンボックスか軽トラ級のデカい車種になるんだよな」
「えーと……そうなんですかね? 何か問題でも?」
小桜は腕を組み、うーむと喉の奥でうなる。
「デカい車はな……怖えんだよ。運転したことねえけど。慣れてないから車幅トチって側面ガリッとやりそうだし。事故ったりとか考えると同乗者がいるのも怖え。いや、事故は車種関係ないけど……」
そこで、小桜はふと自分の身体を見下ろした。
「……ていうか、そもそも、あたしの身長じゃ運転制限かかるんじゃないか?」
「へえ〜……?」
「ふぅ〜ん……?」
鳥子と私が間の抜けた声を出す。
そんなことがあるのか──車にまったく興味のない私は、思わず気のない返事をしてしまった。だがそれでは色々と困ってしまう。そもそも「車を出してほしいから」と小桜を訪ねてきているのに、小桜が運転できないとなると、ただIKEAに行く人数が増えただけになるではないか。
「ねえねえ。汀さんに運転頼んでみるのはどう?」
「汀? なんでだよ。無理だろ」
「え、ダメかな?」
小桜は片眉を上げ、鳥子を見る。そのまま考え込むように目を閉じた。
「……まあ、汀なら、トラックでもなんでも運転はできるだろうが……さすがにIKEAに連れて行ってほしいから車回せ、なんて言えないな」
「でも必要だよ。一回汀さんに訊いてみない?」
「そうは言ってもな……うーん」
小桜の悩む様子に、私は心の中でそっと同意した。私だって汀を足代わりに使うことには少し気が引けていた。しかし、もう一押しすれば小桜が電話してくれそうな雰囲気でもある。ここは波に乗っておきたい。
「小桜さん!」
「うおっ、なんだよ。びっくりした」
「すみません。お願いです。汀さんに電話してくれませんか?」
「ああ? でもなあ……」
「汀さんと友達みたいにお喋りできるの、小桜さんだけなんですよ」
「……まあ、『みたい』じゃなくて普通に友達のつもりだが」
よし、あと一押し。
「小桜さん、お願いです。私たちの距離感だと、ちょっと頼みづらいんです」
「ああ、うん。はいはい、わかったわかった」
意外なほどあっさり、小桜は頷いた。
鳥子が驚いたように目を丸くする。
「え? 今ので良いの?」
「おまえたちがあたしを都合よく使おうとしてるのと同じで、あたしは汀を都合よく使えばいいんだろ。まったく」
そう言いながら小桜は席を立ち、デスク上の充電器につながったスマホを取って戻ってきた。
「言っとくが、頼むだけ頼んではやるけど、細かい段取りはそっちでやれよ」
彼女がスマホを操作し、耳に当てる。
室内が一気に静まり返る。誰も、言葉を挟まなかった。
コール音がやけに響く。
鳴り続ける。
……長い。
飯能の牧場の管理について、汀とは何度か電話しているが、こんなに出ないのは初めてだ。そろそろ切ったほうが良いのでは?──そんな空気が私たちの間に漂いはじめた頃、ようやくコール音が途切れた。
スマホの向こうから、低く落ち着いた男の声が聞こえた。
「あ〜、もしもし? あたしあたし。いや、いきなり悪いね。いま大丈夫かな」
小桜の口調が、いつもより少し砕けている。こちらに向けるのとは、明らかに違う声色だった。
汀が何か返す。その声はスピーカー越しでも存在感があった。
「いやあ、それがねえ。だいぶあたし達にとって都合のいい話で悪いんだけど……」
前置きだけで、すでに小桜の後ろめたさが滲んでいた。
それから、小桜は要点を選んで、これまでの経緯を淡々と説明し始めた。
《今日、ですか……》
私たちも会話に加わったほうが礼儀として正しいだろう──小桜がそう言ってスマホをスピーカーモードにしたので、私と鳥子は思わず姿勢を正した。初対面の頃よりは格段に関係がよくなったとはいえ、相手は汀だ。人見知り女二人としては、やっぱり緊張する。
空気が一段、硬くなった気がした。
「なんか忙しそうだね。何かあったの?」
小桜が、私たち相手にはなかなか見せない柔らかい声で尋ねた。
《ええ、実は──今朝、患者様が一名、亡くなられました》
一瞬、時間が止まったように感じた。
「そりゃあ……大変だね」
一拍置いてから、小桜は焦ったように続ける。
「え、なに? もしかして責任問われてるとか?」
《そう、ですね……これはオフレコでお願いしたいのですが、ご遺族の方々がやや荒れてしまっておりまして》
「それって大丈夫なの? 汀さんたち」
隣の鳥子が、声を落として問う。
《正直に申し上げるなら、少々まずいですね。特に、DS研に多額の資金提供を頂いていた方々だったので》
「それは……大変ですね」
《まだなんとも言えませんが、最悪、職員の減給やリストラを考える必要もあるかもしれません》
「ええっ、マジか」
小桜が驚いて口を挟んだ。
《あくまで一案。未確定な件ですが、残念ながら、マジです》
汀の淡々とした声色に、重苦しい現実が混じっている。
《現在もご遺族の方達とは話し合いを──というより我々が宥めている状態です。なので、申し訳ありませんが、本日はIKEAへの送迎は難しい状況です》
「そうですか……」
短い返事で、沈黙が落ちた。
誰もすぐには次の言葉を見つけられない。
《申し訳ございません》
「あ、いえ。全然大丈夫なんで」
……ただ車を出してほしいだけの私が、いま、いちばん大変な人に気を遣わせてしまっている。気不味さが増していくところを、小桜が引き取った。
「忙しいところに電話しちゃってごめんね」
《いえ、ご遺族の対応に、自分でもわかるほど気を張っていたので、お電話頂けてむしろ助かりました。場を離れられたので》
その返事に、ほんの少しだけ空気が緩んだように聞こえた。
「そっか……なら良かったんだけどさ」
小桜がまだ心配を拭い切れない声で言う。続けて鳥子が優しく言葉を重ねた。
「汀さん、頑張ってね。こっちのことはこっちでなんとかするから気にしないで。空魚もそれで良いでしょ?」
「うん。もちろん」
返しながら、胸の奥に罪悪感のようなものがよぎった。こんなときに頼みごとをした後ろめたさかもしれない。
《トーチライトに依頼をするという方法もあるにはありますが、いかがでしょうか》
「トーチライト、ですか?」
名前を聞いた瞬間、笹塚や、厳つい外国人たちの顔がぼんやり浮かんだ。確かに、人手としては充分だろうが……ためらいが先に立った。
《運転手を一人レンタルするだけなら、それほど費用もかかりません》
「えと、それは、いくらくらいですか?」
《費用は……ああ》
汀が少し間を置いた。
《UBL絡みではないので、DS研からは費用の捻出できないか……。いや、そもそも普通に運転代行を頼んだほうが安いかもしれないですね。ははは……》
冗談めかす口調だったが、そこに笑いの体力が残っていないのが、はっきりと伝わってきた。
私たちは自然と視線を上げた。
三人で無言のアイコンタクトを交わす。
──これは、無理だ。
会話の端々から滲む疲労感。普段は余裕のある汀が、今日は明らかに擦り切れている。さすがにこれ以上はIKEAの話題を振れない。
「ええと、トーチライトさんに頼むかどうかは……ちょっと考えさせてもらいたいです」
《そうですね。その方が良いかと》
鳥子が続けて声をかける。
「汀さん、大丈夫? いつ終わるかわからないけど、終わったらしっかり休んでね?」
《ありがとうございます、仁科さん。ご心配をおかけして申し訳ありません》
小桜がスマホに目を落としながら言った。
「じゃあ電話切るけど、マジで身体に気をつけてな」
《ええ、もちろん。それでは失礼します》
小桜がスマホの通話を切ると、部屋に静けさが戻った。湿度が一段階上がったみたいな、肌にまとわりつく静けさだった。
「汀さん、大変だよね」
鳥子が、呟くみたいに言った。
「そうだね」
私も頷くしかなかった。
「地位が上がると責任が増えるっていう典型だな」
小桜はそう言いながら、テーブルの上のマグを持ち上げる。
「なにか他に良い案、ないかな?」
鳥子が私と小桜を交互に見る。けれど、私の返事は最初から変わらない。
「思い浮かばないね」
腕を組んで首を振る。こういうときこそ切れ味のいい代替案でもひねれればいいのに、私の脳は残念ながら沈黙モードを選んでいた。
「おまえら、車回せる友達いねえのかよ」
小桜が、若干あきれた声で言った。
「うぅ〜……」
「ぐぅ……」
鳥子が肩をすくめる。私も同じように声を漏らした。反論できなかった。痛いところを突かれた、というより、事実だった。事実ハラスメントで訴えたい。
「どうせいませんよ。こんな真夏に、私たちのために大きな車回してくれる友達なんて」
「すねんなよ」
小桜が半笑いで宥めるように言う。
その瞬間。
顎に手を当てていた鳥子の目が、なにかを思い出したみたいに大きく開いた。
「あっ!」
勢いよく声を上げ、ほとんど立ち上がりかけながら言う。
「いるじゃん!」
ほとんど叫ぶみたいに言ってから、続ける。
「私たちのために、大きな車を出してくれそうな友達!」
《はい……市川っす》
電話を鳴らしてから、数コール。
通話が繋がるまでの時間が、やけに長く感じられた。
「あ、市川さん。私、紙越だけど……」
《………………ああ、はい。ご無沙汰っす》
「あ、うん。ご無沙汰。……えーと、元気だった?」
《……まあ、はい。おかげさまっす》
「あー、そっかあ〜……」
沈黙が、数秒分だけ落ちる。
《…………》
「えーと…………」
視線が宙を泳ぐ。言葉がどこにも見つからない。
《……仁科センパイたちは、元気すか》
「あ、うん。元気だよ。たまに連絡してあげて。喜ぶと思うから」
《そっすか》
「うん。うん……」
再び会話が途切れる。受話器越しの空白が、耳の奥で膨らんでいく。
《…………》
「…………」
どうしよう。会話、終わっちゃったよ。
「空魚ちゃん、どんだけコミュ障なんだよ」
小桜が笑った。
その声色は、刺すというよりも、呆れと諦観でできている。
鳥子がのぞき込むように顔を近付けてくる。
「ねえねえ空魚、スピーカーにして。私も夏妃と話したい」
小桜の失笑と、妙に嬉しそうな鳥子の視線に促されて、私はしぶしぶ画面を操作しスピーカーに切り替えた。
《ん?……他に誰かいるんすか?》
「うん。鳥子と小桜さんがいるよ」
《え、マジっすか》
なにがマジなのかは知らない。けど、声の硬さが一気にとれて柔らかい余白が混じった。
……分かりやすいことで。
「やっほー。夏妃、元気にしてた? 鳥子だよ」
「おっすー」
軽く手を上げながら小桜。
《おおー、マジでお久しぶりっす。一年振りくらいっすかね。どうしたんすか? ウチに何か用ですか?》
「うん、あのね──」
鳥子が話し始める横で、私は黙っていた。別に夏妃に何かした覚えはない。けれど、さっきまでのよそよそしさが胸に引っかかっていた。
鳥子、小桜、夏妃の会話は滑らかに進んでいく。輪ができ、その中心に三人の声が入っていく。
その輪の外側で、私はひとり取り残されていた。
……あれ? 私、夏妃に嫌われてる……?
なんでだろう。以前の誤解──私は茜理を狙うイケイケのビアンじゃない──は解けたはずなのに。
……解せぬ。ほんと解せぬ。
「──だから夏妃に車出して欲しくって。お願いできない?」
《あー……》
途端に、夏妃の声が鈍くなる。
《その、車回すのは別に構わないんすけど……》
ため息まじりの声。
《今日じゃなきゃダメっすかね。今ちょっと用事があって……》
そのときだった。
電話の奥で、まったく別の声が割り込む。
高めで、芯のある声だ。
《あれ? なっつん、電話? 誰と?》
《お、おん……ちょっと、な》
《どうしたの? 顔色悪いけど、平気?》
「ああ、茜理と遊んでたんだねー」
鳥子が反応した。声が緩んでいる。
《まあ……そうっすね》
「デートの邪魔してごめんね」
《いや、デートとかでは、別に……》
《ねえねえ、誰と電話してるの?》
《いや、誰でもねえよ》
《えーっ、じゃあどうして隠すのー?》
電話の向こうのじゃれ合いに、鳥子がくすっと笑う。
「じゃあ、また今度、都合が合う日があったら車出してもらえるかな。ガソリン代とか向こうでのご飯代とか全部こっちで出すからさ」
《いや、そんなんいっすよ。普通に車出しますから》
「そういうわけにはいかないでしょー?」
《いやいや、大丈夫っすから。マジで気にしないでください》
押し返してくる夏妃に、鳥子も折れた。
「わかった! じゃあ、その話はまたね。後で都合の悪い日を教えて。私たちと合わせるから」
《うっす。わかりました……ん?》
一拍置いて。
《そういえば、他にも誰かいるんすか? 全部で何人?》
「四人だね。空魚、小桜、霞、それに私」
《四人……? あー……》
電話の向こうで、夏妃が何かに引っかかった気配がした。
「あれ? ダメだった?」
《荷物も人も、運転するウチ含めて五人乗せるってなると……車がないすね》
そこで、私はなんとなく、滑り込むように口が勝手に動いた。
「ねえ、それ、私たちが軽トラの荷台に乗るとかは──」
《無理っす。道交法違反っすよ。それ》
「あっ、そ、そうなんだぁ〜……はは」
軽い冗談のつもりが、予想以上にすげなくバッサリ斬られ、声が情けなく萎んだ。
もう黙っとこう……これ以上しゃべるとまた刺されそうだし。
「あ、閃いたわ。それならさ」
小桜が手を打つ。
「あたしたちは電車で移動して、荷物の運搬だけ市川さんに頼むのはどう?」
《おー、それいいすね。それならなんも問題ないす》
「でも、これだとほんと市川さんをこき使うみたいで悪いんだけど」
《いいっす、いいっす。ウチそういうの気にしないんで》
ひと巡りして、話がまとまりつつある空気になった。
「それじゃ、またメッセージ送るね。本当にありがとう。夏妃」
《うっす。じゃあ、またお願いします》
「ありがとう。茜理にもよろしくね」
《……うっす》
私が言うと、夏妃はわずかに間を置いて返事をした。
その瞬間、スピーカーの奥で、ガタン、と何かがぶつかる音が響く。
弾んだ声が、スピーカー越しに跳ねた。
《なっつん! いま紙越センパイの声しなかった!? 紙越センパイと電話してるの!?》
《お、おおん……まあ、紙越センパイとも話してたけど……》
《もおー! なんで教えてくれないのー!》
《いや別に、隠してたわけじゃねえんだけど……》
《紙越センパイ!? お久しぶりです!》
「うん、久しぶり。茜理は元気そうだね」
《はい! おかげさまで、元気です! それで、なっつんに何か用が?》
「まあ……そうだね。うん」
曖昧に返しつつ、私は部屋の空気を確認するように視線を巡らせた。
これ……茜理にも話していい内容なんだっけ? 何か夏妃の地雷を踏んだりしないよね? と、一瞬だけ迷う。
鳥子は困ったような笑みを浮かべて小首を傾げた。小桜は腕を組んだまま目を閉じ、完全にログアウトしている。ダメだ、我関せずを貫こうとしてる。
仕方なく私は電話へと向き直った。
「あー……近いうちにね、家具とかいろいろ買いに行こうって話になってて。そのために市川さんに車、出してもらえないかなーって相談してたの」
《あーっ、そうだったんですね。……ちなみにどこに行く予定だったんですか?》
「IKEAだよ。家具だけじゃなくて、なんかいろいろ楽しいらしいからさ。みんなで行こう、って流れになってたの」
《え……IKEA?》
茜理が、ひとりごとみたいな声で呟いた。
「あ、もしかしてIKEA知らない? 大きな家具屋さんなんだけど」
《あ、いえいえ! 知ってはいます。行ったことはないですけど。ただ──》
「なら、茜理も一緒に来る? 大学の予定とかが合うな──」
《行きます!》
割り込むような即答だった。
「──合うなら、って言おうとしたのに。早いよ」
呆れるより先に、ちょっと笑ってしまう。
スピーカーの向こうで、茜理も笑っている気がした。
《大丈夫です、私すごく暇なんで! 予定とか全然合わせられますから!》
「そうなんだ」
《ちなみに今日とかはどうですか?》
「今日? 今日は市川さんの都合が悪いって話だったよ」
《あれ?》
茜理が疑問をそのまま声に出した。
通話越しなのに、頭の上にクエスチョンマークが浮かんで見える。
《ねー、なっつん! 今日なんか予定あったっけ?》
《いや……まあ、別に……ねえけどさ》
《んんー? なっつん、大丈夫みたいですよ?》
今の夏妃の顔は、間違いなく「現実から目を逸らしたい時」の顔になっている。
つまり、全然大丈夫じゃない。
「えーと……そっか。ありがとね、茜理」
《はい!》
さっきよりさらに、嬉しそうで、明るい声が返ってくる。
止められない勢いで続く。
《私はもちろん暇ですし、紙越センパイたちも時間があるんですよねっ? なら、もう今日行くのが最善じゃないですか!?》
「あー、ちょっと待ってね」
私は、もう一度部屋を見回した。
鳥子は「まあ、そうなるよね」という顔で苦笑。
小桜は、腕を組んだまま、面白がっている気配すらある。
霞は……相変わらず無表情。逆に安心する。
……じゃあ、もう悪いけど、夏妃には犠牲になってもらおう。本人も気にするなって言ってたし。
その代わり、IKEAでは美味しいものを食べさせてあげよう。私は、そう心のメモ帳に書き加えた。
「じゃあ、それでお願いしてもいい?」
《わっかりました!》
「細かいことは、これからメッセージで送るから……私たちは、準備でき次第出発しても大丈夫そう?」
《はいっ、なっつんに聞いてみますね!……ねえねえ、なっつ……あれ、どうしたの? なっつん。平気?》
《いや……なんもない》
夏妃の声が、悟りを開いた後みたいなトーンになっていた。
諦めて受け入れた人間の音色だ。
そのまま細かい確認をして、茜理との通話を切る。
「夏妃、大変そうだね」
鳥子がぽそりと言った。
「ね。なんか……ちょっと悪いことした気分」
私と鳥子が、ため息混じりにやりとりしていると、小桜が「よしっ」と膝を叩いて立ち上がった。
「それじゃ、あたしと霞は外出る準備してくるわ──行くぞ、霞」
小桜はそう言って、隣の霞の手を取る。
霞は、一瞬だけ、フィナンシェと小桜の手を見比べた。
それから何も言わずにフィナンシェをテーブルに置き、私の顔をちらりと一瞥してから、小桜の手を取り、その後について部屋を出ていった。
2
石神井公園駅から西武新宿線に乗り、高田馬場で山手線へ。新宿で中央線快速に乗り換えて、立川を目指す。
いくつもの路線を乗り継ぎながら、私は窓の外に流れていく街を眺めていた。
夏の光がアスファルトに跳ね、視界の端でちらつく。
疲れているわけでもないのに、どこか現実感が薄かった。
遠くの景色を、無理やり拡大して見ているような感覚。
──気のせいだ。
そう思うことにした。理由のない違和感を真面目に扱うと、ろくなことにならない。
目的地は〈IKEA立川店〉。
小桜屋敷から見れば最寄りではないが、都心から外れている分、最寄りの渋谷店よりは混まない。移動の手間を差し引いても、落ち着いて買い物ができるなら、それが一番だ。
というか、小桜が「この暑い中、人混みに揉まれるのは嫌だ」と一言呟いた時点で、行き先は半ば決まったようなものだった。
茜理と夏妃も、休日の都心に車を出すのは気が進まなかったらしく、このルートは案外すんなり通った。
私たち四人は、電車内のロングシートに横並びで座っている。
流れていく窓外の景色は、どれも似たような熱気をまとって見えた。
冷房は過剰だった。
真夏日を見越して薄着で出てきた肌が、キンと冷えた空気に晒される。空調ダクトから直に落ちてくる冷気が、汗ばんだ皮膚に刺さるみたいに当たる。
シャツの薄い布が、湿った腕に張り付いた。
その感触がやけに不快なのに、いまはどうすることもできない。
不意に、身体が小さく震えた。
「空魚、寒い? これ使って」
鳥子の上着が、肩にふわりと掛けられる。
冷房の冷気が皮膚から剥がれ落ちるみたいに和らいで、そこでようやく、自分が強張っていたことに気付いた。
……ただの冷えだ。
「茜理と夏妃には?」
「さっきメッセージ送ったよ」
「なんて言ったの?」
来るだろうと思っていた質問に、私は少しだけ背筋を伸ばす。
「『IKEAのフードコートに集合』って。夏妃は軽トラ出してくれたってさ。お礼も言っておいたよ」
「うんうん」
鳥子は満足げに、私の頭を撫ではじめた。撫でるというより、ごしごし雑に揉むような手つきだ。
「ちゃんと伝えられたんだ。よしよし、えらいぞ」
そう言いながら、今度は頬にキスしてくる。チュ、チュ、と軽い音。
私は視線をそらしつつ、反射的に車内の乗客の気配を探った。けれど、誰もこちらを見てはいなかった。……たぶん。
「……何様よ」
「空魚からはしてくれないの?」
「しない」
「してよー」
「しないって」
「えー、なんでー?」
「おまえらさあ。少しは慎みを覚えろよ」
霞を挟んだ向こうから、小桜が小声で割って入る。
「大丈夫だよ。誰も見てないもん」
「そう思ってても、見られてるし、気付かれてるもんなんだよ。そういうのは」
小桜は鳥子を一瞥し、深く息を吐いた。
「公共の場で、好き勝手しないよう霞に教育してる身としてはな、公序良俗に反する行為は控えてもらえると助かるんだが?」
「え〜? そこまでかなあ」
二人の言い合いをよそに、私はスマホを確認する。
通知が一件。茜理からだった。
「茜理たち、もうIKEA着いたって。先に中に入ってるらしい」
「そっか。じゃあ、急がなきゃね」
鳥子がそう言った、ちょうどそのとき。
電車がホームに滑り込む。
立川駅。
ホームの柱に取り付けられた駅名標が、窓の外をゆっくり流れていった。
駅に着いた瞬間、空気がわずかに重くなった気がした。
正午前の熱気とは別の、どこか乾いた気配。
私は手早く茜理に返事を打つ。
《いま立川駅についた。待たせてごめん》
──改札を抜けて外へ出た瞬間、白い舗装の巨大な陸橋が視界いっぱいに広がった。
ペデストリアンデッキ。ただの陸橋というには規模が狂っている。
真夏の日差しがそれを鏡みたいに照り返し、視界がチカチカした。網膜に直接、陽光を流し込まれたみたいだ。
「歩きは……きついかも」
思わず漏れた声に、小桜がこちらを見る。
「IKEAってそんな遠いの?」
「確認しますね」
スマホを取り出してマップアプリを開く。
太陽の反射で画面はほとんど見えず、空中に黒い板をかざしているみたいだった。それでも、十数秒で結果は出る。
「……一キロ。徒歩十五分くらいですね」
「あー無理無理。焼け死ぬわ」
小桜は即答し、視線をぐるりと巡らせ、最後に太陽へ向かって目をすがめた。
「日差し、やばいですよね」
「湿度もな。サウナみたいだ」
「私、湿気で溺れそう……」
鳥子が手で顔をあおぐ。その手首から、ほんのりと日焼け止めの匂いがした。
わざわざ嗅ぐ距離でもないのに、私の鼻は勝手に拾ってしまう。
「鳥子、ちゃんと日焼け止め塗ってきた?」
「うん、家出る前に。空魚にも塗ってあげればよかったね」
「私はいいよ」
「よくないよ。焦げちゃうよ?」
そのやりとりを続けようとしたところで、小桜がずいと割り込んできた。
「たわむれてるとこ悪いが、タクシーで行くぞ。ロータリー、どこから降りるんだ?」
「あっちかな? あれ、階段だよね」
鳥子の指差す先には、陽光をぎらぎら反射するコンクリートの階段。
金属製の手すりは、触れたら一瞬で皮膚を焼きそうな温度を孕んでいそうだった。
私たちは口数が減り、できるだけ影を拾うようにして階段を下りていく。
この日差しをまともに浴び続けたら、本気でカリカリのベーコンみたいに仕上がってしまいそうだ。
階段を下り切ったところで、狙ったみたいなタイミングで、タクシーが一台滑り込んできた。
誰も口を開かないまま、短い目配せだけで全員の意志が揃った。
鳥子がすっと手を挙げると、ドアが静かに開いた。
すると、鳥子は真っ先に後部座席の右端へと滑り込む。
逃げ足が速いな、と思った。知らない人と喋りたくないのだろう。私も人のことは言えないけれど。
続いて小桜と霞が並び、そのあとで私は後部座席に座るスペースがないことに気付き、少しだけ迷ってから助手席に収まった。
開いたドアから、タクシー内部の冷房が外へ押し出されるように流れ出し、むわっとした熱気とぶつかり合った。
「すみません。IKEAまでお願いします」
「はい、IKEAですねー。シートベルトだけお願いします」
運転手は穏やかに答え、私がシートベルトを着けると、車はゆっくりと走り出した。
短距離利用は嫌がられる、という話を聞いたことがあったけれど、この様子を見る限り、そんなことはなかったのかもしれない。
後部座席には左から小桜、霞、鳥子。
誰も話さず、空調の風の音だけが、静かに耳を撫でてくる。窓の外の景色がじわじわ入れ替わっていくだけで、会話が生まれる気配はなかった。
暑さのせいか。
目的地が近いからか。
それとも、この密閉された空間に沈んだ沈黙の重さそのものか。
理由はよくわからない。ただ、とにかく静かだった。
「あ、昭和記念公園」
小桜がぽつりと言い、私は外へ視線を移す。
見えたのは、背の高い木々と暗色のフェンスだけだった。
「昭和記念公園?」
「空魚ちゃん、知らないの?」
小桜がこちらを向く。
「名前だけは、なんとなく……」
「前に行ったことあるけど、結構いいところだぞ。子供向けのアスレチックとかもあってさ」
「へえ……」
私の気のない返事を受け、小桜は今度は霞に話題を振った。
「霞はどうだ? 今度行ってみるか?」
小桜が訊くと、霞はちらりと横目で小桜を見る。
「明日の給食はなにかなー?」
一瞬、小桜が言葉を探すように間を置いた。
「売店があったと思う。とりあえず食べるものはあるぞ」
「じゃあ、みんなと行きましょうね。霞ちゃん」
「よし、じゃあ今度行くか」
そう言いながら、小桜は霞の頭を撫でた。
霞は目を細め、人に懐いた野良猫みたいに、グリグリとされるがままになっている。
……今のやりとり、成立してるのか?
霞の返事の意図は、私にはいつも全体の三割くらいしか拾えない。
でも小桜は、霞の発している「何か」を自然に受け取り、会話として成立させてしまう。
慣れなのか。才能か。また別の何かか。
私は二人から視線をそらし、進行方向へ顔を向けた。
そのとき、前方の景色の奥に、青い巨体がぬっと現れた。
──IKEA。
黄色と青の爽やかで派手なロゴが、夏の雲のない空を背景に、くっきりと浮かび上がっている。
建物そのものが巨大な看板みたいで、遠目に見ても圧があった。
すごい……大きい。
こんなスケールの商業施設を見るのは、初めてかもしれない。
新宿や渋谷にも高層ビルはあるけれど、それとはまるで雰囲気が違う。
まっさらな巨大物体が、ぽんと無造作に置かれている感じ。
見慣れない迫力に、胸の奥でじわじわと新鮮な感動が広がっていく。
「お待たせしました。八百円になります」
運転手の声で、私は現実に引き戻された。
「え? あっ、はい──」
ぼんやりと外観に見とれていた私は、慌ててバッグを探る。
その前に、小桜がクレジットカードを差し出していた。
「カード使えます?」
そんなの、いいのに──そう言いかけて、言葉を飲み込む。
車内で余計なやり取りをすれば、運転手の迷惑になるだろう。私は小さく頭を下げた。
タクシーを降りると、目の前には「入口」と大きく書かれた看板。
照り返すアスファルトの熱で、足元が少しふらつく。
「小桜さん、ありがとうございます。でも、よかったのに」
「いいんだよ。気分よく奢られてろ」
「ありがとうね、小桜」
「うーい」
小桜はそう言って、日差しを手で遮りながら霞を連れて入口へ向かう。
私と鳥子も、そのあとに続いた。
トートバッグからスマホを取り出し、茜理に到着の連絡をしようとした、その瞬間。
違和感が、喉元に引っかかった。
思わず歩く速度を落とす。
「どうしたの、空魚? 歩きスマホ、危ないよ」
「うん……じゃあ、危なくないようにして」
「うーん?……いいよ。こっち来て」
鳥子が腰に手を回し、私とぴったり並ぶ。
視界の端で感じる、軽い温もりと、少しの重み。
たしかに、これなら安心だ。
スマホに目を戻し、さっきの違和感の正体を探る。
すぐにわかった。胸の奥の、ほんの小さな引っかかり。
「ああ、なるほど」
「何がなるほどだったの?」
鳥子が横から覗き込む。
「茜理に送ったメッセージ、既読がついてない」
「ん? それだけ?」
「うん。それだけ」
「ふうん? そっかあ」
鳥子はあっさり顔を戻し、私の歩幅に合わせて歩きだす。
軽い会話のはずなのに、胸の内側に、ざらついた違和感だけが残った。
数分前。
立川駅で送ったメッセージが、まだ未読のまま。
たったそれだけのこと。
でも、妙に引っかかる。
茜理が返事を遅らせることは……なくはない。
けれど「未読のまま」というのは、なんとなく珍しい気がした。
いや、本当に「気がした」程度の話で、深く考えるほどの理由なんてないのだけれど。
……まあ、そうだよね。
求めすぎだ。
読まれない瞬間くらい、誰にだってある。
あるいは、単純にIKEAの中は電波が悪いだけかもしれない。
私は自分にそう言い聞かせながら、もう一通メッセージを送る。
《着いたよ。待たせてごめん。今からフードコート行くね》
反射的に時計を見る。
茜理からIKEA到着のメッセージを見てから、おおよそ二十五分。だいたい三十分だ。
「空魚? どうかしたの?」
「ううん。なんでもない。到着報告しただけ」
口ではそう言いながら、胸の奥に残っていた小さなざわつきを、ひとまず押し流す。
スマホをスリープにしてバッグへしまい、鳥子の手を軽くつかむ。
入口の前で待っている小桜と霞の方へ、私たちはトトッと駆けだした。
自動ドアと防犯ゲートをくぐり、店内へ足を踏み入れる。
ひんやりとした空気が肌を撫でてきた。電車の冷房とは違う、客が長居しても嫌にならないように調節された涼しさ。外の熱に焦がされた体が、ほっと息をつく。
「さっきの電車の中みたいな寒さだったらさ、ゆっくり品物も見てられないよね」
そう言うと、鳥子が笑いながら頷いた。
「うん。クーラーって、快適と苦痛の境目が紙一重って感じする」
店内はやたら広くて、天井が高い。レストランとカフェの案内板がぶら下がり、奥の通路には売り出し中の家具がきっちりと並んでいる。カラフルなポスターやPOPが視界を横切り、商品の配置図が数ヶ所に掲げられていた。ここが屋内であることを一瞬忘れさせるスケール感がある。
私は階段の前にある、ポスターホルダーに収まったフロアマップを見た。
……フードコートは二階にあるようだ。
「空魚、カート引かない?」
「そんなに買うの?」
「一応ね。一応」
ワクワク顔で鳥子はそう言っなので、私はカート置き場から一台引き出した。ゴムの車輪が床を擦る音を、穏やかな店内BGMが包み込んでいく。
そのとき、鳥子がふと立ち止まった。
「あ、これ……懐かしい香り」
反射的に私も鼻を鳴らす。
──甘い。どこか、記憶の底をなぞるような匂い。
けれど、次の瞬間にはもう消えていた。
「今のわかった?」
鳥子が訊く。
「一瞬だけ……」
私が応えると、鳥子はもう一度、深く息を吸い込んでから首を振る。
「カナダのIKEAでもね、同じ匂いがしてたんだ。だから……ちょっと懐かしくって」
少し遠い目をして鳥子は言った。家族と過ごした記憶に触れているのだろうか。
私の想像をよそに、鳥子は再び胸いっぱいに空気を吸い込む。しかし、数秒の間を置き、眉をひそめた。
「あれ? 匂い、どこか行っちゃった……」
肩を落とす横顔が、妙にしょんぼりして見えた。
「……どこから来てたんだろ?」
「どこからだろうね」
「この匂いのする商品、買いたいな」
「そんなに良い匂いだった?」
「うん……」
鳥子が深く頷く。それだけのことなのに、言葉には真剣な響きがあった。……可能なら、後で店員さんに訊いてみよう。売り物なら教えてくれるだろうし、非売品なら、ワンチャンどこで取り扱っているのか教えてくれるかもしれない。
「おーい」
小桜の声が背中に飛んできた。振り返ると、小桜は手をひらひらさせながら近付いてくる。
「悪いんだけどさ、おまえら先にフードコート行っててくれないか?」
「え? どうして? 一緒に行こうよ」
鳥子が私から離れ、小桜の腕に駆け寄る。ぴたりと横につくその不自然な距離感が、なんだかちょっとだけ微笑ましい。
「ただのトイレだよ。ガキじゃねえんだから、揃って行かなくてもいいだろ」
小桜はそう言いながら、隣の霞に視線を向けた。
ところが肝心の霞は、店内の景色を落ち着かない目つきで追いかけている。棚の影から影へ、視線の居場所を探すみたいに。
──初めての場所に迷ってる、という感じでもない。
もっとこう、麻薬のにおいを嗅ぎとっている時の麻薬犬、みたいな。
「霞ー? できるときに行っとかないと、あとで悲しいことになるぞ?」
小桜が手を握って気を引いた瞬間、霞はすっと口を開いた。
「みなさん、下校時間になりました。教室に残っている人も、早く帰りましょう」
あまりにも唐突で、私は思わず瞬きをした。
「……もう出たい。ってこと?」
私の口から勝手に出た。小桜が困ったように笑う。
「だけどな、霞。今帰ったら、霞専用の机もベッドも買えないんだぞ? それでもいいのか?」
その問いに、霞はまっすぐ小桜を見つめ、ゆっくり深く頷いた。
「あー……」
小桜は頭をがしがし掻いた。諦め半分、といった顔だ。
「わかった。じゃあ、フードコートでみんなで飯食って、それでも帰りたかったら、先に帰ろう。それでいいか?」
霞は相変わらず渋い顔になり、もう一度だけ頷く。
「じゃあ……あたしと霞はトイレ寄ってから行くからさ、先に行っててくれる?」
「わかりました」
小桜と霞がてくてく歩き出す。二人の背中が売り場の中に溶けていくのを見送り、私はカートの持ち手に手をかけた。
目的地は二階のフードコートだ。
エスカレーターを上がると、いかにも「これがIKEAか……」と言いたくなる広々とした空間が現れた。
白いビストロテーブルが一定の間隔で並び、色とりどりのテーブルウェアが視界を横切る。棚に並ぶのは淡い北欧色をまとったマグやグラス、やたら機能的そうなキッチンツール。どれも「日常を一段よく見せよう」という演出がしっかり効いている。
木製の椅子にはシートクッションが乗せられ、子ども向けに低くつくられたであろう背もたれが妙にかわいらしい。果実の香りが残る紙パッケージや、レモンイエローのシリコン素材の小物が、歩いているだけで視界の端にぽんぽん飛び込んでくる。
丸いカートのゴムタイヤが、木質の床をコロコロと転がる。天井のスポットライトが床に反射し、私たちの足元を薄く照らしていた。売り場は「ショールーム」と「マーケットホール」に区分されているらしく、今いるのは前者。ショールームというだけあって、雑多に並ぶ生活用品のはずなのに、どこを見ても「ほど良い暮らし」が計算された角度で配置されている。
私が黙ったまま棚と棚の間を進んでいると、後ろから鳥子の声が落ちてきた。
「空魚、カート引こうか?」
振り返らずに答える。
「ううん、平気。大丈夫」
カートを押して歩いていると、床に映った光が揺れた。照明の反射が、つるりとした床の上で水面みたいに歪む。
通路の片隅に、ぬいぐるみが山のように積まれたワゴンがあった。その横で、黒猫たちだけが整然と並び、ひときわ目を引いていた。金色のボタンで象られた目が、こちらの動きを追ってくるように思えて、私はつい足を止める。
「鳥子、ここちょっと見ていい?」
「いいよー」
ワゴンから一つ、黒猫を手に取った。
短い漆黒の毛並みは、すべすべと手のひらに吸いつくようだ。サイズは手のひらにすっぽり収まる程度。三角の耳がぴんと立ち、やけに大きな金色の目が光を受けてチラチラ揺れる。その不自然なまでのきらめきが、ときどき本当に視線を交わしたような気がする。
首もとはわずかに細く、背中を丸め、前足を揃えて座っている。その姿勢には、商品特有の無機質さよりも、むしろ「誰かを待っている」ような気配を感じさせた。
こういうの……あんまり凝視するのはよくないかもしれないな。
なんとなく、そんな考えがふと脳裏をかすめた。
どの個体にも、足もとに白いタグが二つ付いていた。「価格タグ」と「防犯タグ」。無言でぶら下がる紙切れ。整った棚の中でそれだけが妙に生活臭を放っている。
鳥子がカートの前に回り込み、私の顔をのぞき込んできた。
「空魚、楽しそうだね」
「え?」
唐突すぎて、一瞬返事が遅れた。
「そうかな?」
「うん。楽しそうに見えるよ」
「家具屋が楽しいって……正直あんまりピンと来ないんだよね。だって、ただの家具屋なんだよ?」
「そう? でも楽しいじゃん」
鳥子は肩越しに振り返って、軽く笑った。
私は少し考え込み、視線を落としてから言った。
「……そう。楽しいのよね。でも、それがちょっと不思議でさ。納得いかないんだ」
顔を上げると、カラフルなクッションが棚に整列していた。値札が風に触れるたび、紙の端だけが静かに揺れる。空調の流れが売り場の境界をなでていくのが、肌でわかる。
「たくさん欲しいものに囲まれて、それが自分の家や生活の一部になる未来を想像するのが楽しいんじゃない?」
鳥子の言葉に、私は顔を上げた。
曖昧に漂っていた感情の輪郭を、ぴたりと掴まれたような感覚がした。
「あ……うん。たしかに。そんな感じかも」
「でしょ? だから私、こういうお店けっこう好きなんだよね。今も考えてるよ」
鳥子は売り場全体を見回しながら言った。
「空魚との生活に、どんな家具があったら、もっと幸せになれるかなって」
「……なんかそれ、恥ずかしいからやめて」
「えーやだー」
自分で口にしておきながら、頬をほんのり赤くして鳥子がコロコロ笑っている。
その照れ方が反則みたいに可愛くて、見ているこっちまで頬が熱くなった。
そして鳥子は、誤魔化すように鼻の下をかきながら続けた。
「ちなみに、空魚がこの辺で一番気に入った物ってなに?」
「なんでもいいの?」
「うん。大きさも値段も気にしなくていいよ」
「ん……なら」
私は猫のぬいぐるみを棚に戻し、近くに展示されていたベッドの端へ腰を下ろした。
マットレスが静かに沈み、背中を受け止める。柔らかすぎず、固すぎず、その沈み方が「心地よい」の正解みたいな具合だった。
「ベッドかな」
「ベッドか〜いいねえ」
「いまのベッドに不満はないんだけどね」
鳥子は嬉しそうに頷き、マットレスの端に手を添えて軽く押し込む。指先の力の入れ具合から、反発の具合を確かめているらしい。
それから私の隣まで歩いてきて、ためらいゼロの勢いでベッドに倒れ込んだ。
掛け布団の上で右手をゆっくり滑らせる。その触り方が、まるで安全を確かめる動物みたいで、なんだか妙に愛らしい。
鳥子は仰向けになって両腕を伸ばし、肩から深いため息を吐く。
「あ〜、だめ。動けなくなる〜」
思わず笑ってしまった。
こういう鳥子を見るのはこの一年で何十回目だろう。見慣れてきたはずなのに、やっぱり少しだけおかしい。
「ダメだよ。茜理と夏妃を待たせてるんだから」
鳥子は返事の代わりに顔だけこちらへ向けてきた。
「空魚〜代わりに行ってきて〜」
ふざけた声だけど、目は半分閉じている。もう眠気の縁を歩いてる顔だった。このまま放っておいたら数分で寝落ち確定だろう。
私は肩に軽く手を置く。
「ほら、起きて。そんなだらしない格好、人に見られたらどうするの」
「えー、別にいいよー」
鳥子はごろりと横を向く。背中にかかった金髪が布団の上でもすっと流れていく。
少しだけ間を置いて、私は言った。
「でも、私、だらしない鳥子より、ちゃんとしてる鳥子のほうが好きかも」
言葉が落ち着くのを待つような静かな間があって、鳥子の肩がぴくりと動いた。
反応が正直すぎて、ちょっと笑いそうになる。
「……いまそれ言うの〜?」
顔だけがこっちを向いている。頬がわかりやすく緩んでいる。
文句を口にしつつも、鳥子は渋々と上体を起こした。拍子抜けするくらいの素直さだ。
私は黙ったまま、それを了承と受け取る。
鳥子はベッドから立ち上がると、私の手をそっと握って歩き出す。
私はその手に引かれながら、一度だけフロア全体を見渡した。
そのとき、胸の奥に、説明のつかない引っかかりが生まれる。
空気の温度が一段だけ下がったような、そんな感覚。
私は足を止めた。
「空魚?」
立ち止まった私に手を引かれた鳥子の声が、一歩先から響く。
普段から聞き慣れているはずの鳥子の声が、明るさの皮が一枚だけ剥がれ落ちたように、わずかに心許ない音色に聞こえた。
「ねえ、鳥子。なんとなくなんだけどさ……」
「うん?」
「人……いなくない? さっきまでは、たくさんいた気がするんだけど」
「え?」
鳥子はすぐに振り返り、鋭く周囲を見回した。
数秒の沈黙。ショールームに並ぶ家具たちが急に模型に変わったような、そんな空洞感が漂う。
鳥子が私の方を見る。その顔には、はっきりとした「理解」と、わずかな「警戒」があった。
「いないね」
ぽつりと落ちたその声の重みが、逆に静けさを際立たせる。
「だよね」
私も頷きながら、店内を見回す。
「偶然だと思う?」
問いながら耳を澄ます。人の気配を探る──。
……なにも聞こえない。
客たちの話し声。近くの足音。キャスターの転がる乾いた音。子どもの泣き声。優しい印象のBGM。
この店のどこかで必ず鳴っているはずの生活音が、まるで最初から存在しなかったみたいに跡形もない。
鳥子が眉を寄せ、再び周囲を見渡す。
私は無意識に左手首の腕時計へ視線を落とした。
……数字が、一部だけ変わっている。
アラビア数字のはずの文字盤に、見慣れない──いや、見覚えがあるようで絶対に読み取れない、「ここ」特有の奇妙な記号が混ざっていた。
視界の端がざわつくほど異質で、脳が解読を拒むような意味不明な記号。目を離せば、別の形になってしまいそうな気がして、瞬きすら躊躇った。
「……もしかして、裏世界になってる?」
鳥子は小さく呟いた。
「そうだね……どっちかっていうと、中間領域だけど」
ここが裏世界なら、もっと明確な崩壊が見えるだろう。例えば骨組みビルのように──壁の劣化、天井の剥落、構造のガタつき。老朽化していたりしないとおかしい。
──いや、必ずしもそうではないのかもしれないが、経験上そうでないとどこか違和感がある。
でも、ここは「まだ」それが来ていない。しかしその「まだ」が逆に不気味だった。
「なら、早く出ないと。茜理と夏妃だけじゃなくて、小桜と霞まで待たせちゃう」
「そうだね……」
私が頷くと、鳥子は少しだけ考え込むような顔をした。
「小桜たちまで入り込んじゃってる可能性とかないかな?」
「……なくもないかな」
私は頷き、右目のカラコンに指を伸ばす。
外すと、視界が一段クリアになる。空気の粒子の並びがわずかに変わった気がした。
光の輪郭が、微妙に揺れて見える。
改めて辺りを見る。棚、ソファ、テーブル──綺麗に並んでいるはずなのに、それがどこかで何度もコピー&ペーストを繰り返された画像の境界が浮いているような歪みを感じさせる。
私は見落としがないか確かめるように、売り場を一通り見渡した。
──でも、その場では、出口らしき青白い燐光は見つからなかった。
「鳥子、ごめん。何にも見つからない──」
そう言って振り向いた瞬間、私の胸にひやりとした僅かな違和感が走った。
私から少し離れた場所。鳥子が、何かに引き寄せられたみたいにフロアマップの前で立ち尽くしていたからだ。
視線だけがポスターに吸い込まれて、そのまま動かない。
一瞬、声をかけるより先に足が前に出そうになる。けれど、鳥子はこちらを見ずに手だけをひょいと上げてチョイチョイと手招きした。
「空魚ー。これ、見て」
その声があまりに普段通りで、緊張していた肩の力が少しだけ抜けた。
私はカートをカラコロと押して、黙って鳥子の隣に並び、額縁に収まった店内案内図を覗き込む。
「──なにこれ」
口から勝手に零れた。目に入った図が、異常を通り越して意味不明に見えたのだ。
地図の文字はほとんどが奇妙にねじれ、まるで印刷の途中で誰かが紙をひっぱったみたいに引き延ばされている。
区画も配置も、視線を落とした瞬間は理解できそうなのに、次の瞬間には何を示していたのか忘れてしまう。目が拒否反応を起こすみたいだ。
「……どこを見るの?」
「ここ。あと、ここ、それからここ」
鳥子が指した三か所に、赤い丸。
よく知っている「現在地」マーク──の「崩れたコピー」が三つ。
それぞれに寄り添う言葉は、読めそうで……完全には読めない。
活字の形をしているのに、読み取れない。知っているはずの言語なのに、意味がもやに吸われていく。
その中でも、わずかに残った判読できそうな字面を頼りに、私はどうにか解読を試みる。
──『現〇〇 Y〇〇 A〇〇 〇〇〇〇』
「……『現在地』『YOU ARE HERE』。合ってると思う?」
問いかけると、鳥子はこくりと頷いた。
「うん。合ってると思う」
「でもさ、現在地が三つって変じゃない? どれが本当の『ここ』なの?」
「うーん……どれでもなかったりして」
鳥子はポスターの表面に手を置き、指先で四隅をそっとなぞった。
その動作は、まるで本当に二次元なのか確かめているみたいだった。
「……これ、マップがフレームの外にまで続いてる」
「え?」
私は思わず顔を近づける。
地図の端は、ポスターの境界で終わっていなかった。
紙の外に伸びている──というより、ここで無理矢理切り取られているように見える。
本来はもっと広がっている図面を、強引に狭い額縁に押し込めた結果、隅が溢れて歪んでいる、そんな異常さ。
この店舗の実寸と合っているはずがない。
縮尺という概念そのものがどこかへ失踪している。
地図としての役割を放棄しているようにしか見えなかった。
さらに見つめるうち、マップ全体にじっとりとした不快な歪みが見えてきた。
通路は細かく枝分かれし、無数の区画が蜘蛛の巣のように絡み合い、ねじれ、交わり、途切れ、またどこかへ続いていく。
これは、商業施設の案内図とは思えなかった。
もっと深いところ──地上にあるはずのない巨大構造物の断面図。
いや、迷路の成長過程をそのまま描いたような、理不尽な広がりだった。
「……広いにも程があるよ」
つぶやいた声は、自分でも驚くほど小さく、息の狭間に消えていった。
その音が飲み込まれる静けさが、やけに耳に残った。
「あれ? これ……」
不意に響いた鳥子の声で、私の意識がその視線の先へ引き戻される。私が引いていたカートだ。
本来なら空のはずの買い物カート。まだ何も入れていなかったはずだ。
なのに、そこには黒い猫のぬいぐるみが一体、ぽつんと置かれていた。
起毛した黒い生地。丸い金色のボタンの目。小さな三角耳。細い尻尾だけが、底に沿うように伸びている。
──さっき私が手に持っていた、あの黒猫だ。
「あれ……カートに入れたっけ? 私……」
言いながら自分で首をひねる。記憶の手触りが曖昧すぎる。
「ううん。見てたけど、空魚なにも入れてなかったよ」
カートの中の黒猫のぬいぐるみ。その首元で、小さなタグが揺れていた。
価格タグでも、防犯タグでもない。紙片の質感が、そこだけ違っている。
そこにはこう書かれていた。
《Bring me back》
太字の筆記体で、その文だけが印刷されている。余白が広すぎて、逆に目に焼きつく。
意味は単純なのに、やけに胸の奥に刺さる。
針で突かれたみたいに、呼吸の途中で引っかかった。
誰が置いたのかも、どうしてここにあるのかもわからない。
ぬいぐるみはなにも言わない。ただ、そこにあるだけなのに、見られている気がした。
私はタグを見つめたまま、小さく息を吸った。
持ち上げると、鳥子が手を伸ばして覗き込む。
「空魚が入れるなら、ちゃんと『これ買っていい?』って訊いてくるもんね。……欲しい?」
「ううん。いらない。全然」
私と鳥子が小さく笑う。けれど、笑ったあとに残る空気はどこか冷たい。
鳥子がタグをつまみ、軽く持ち上げた。
「『Bring me back』って、なに? 返品希望ってこと、にゃん?」
猫に語尾を合わせる鳥子を、私はあえて無視する。
「タグにそんなこと書く商品、普通ある?」
「まあ、ないよね」
鳥子は首を傾げながら、ぬいぐるみを受け取って、近くの棚にそっと置いた。
──その瞬間、ぬいぐるみの金色の目と、ほんの一拍だけ視線が合った気がした。
造りとしては可愛いはずなのに、もう正直、不気味さのほうが勝っている。
「…………」
「…………」
私と鳥子のあいだに、沈黙が落ちた。
さっきまでとは違う種類の静けさだ。
この猫のせいだろうか。
このまま考え続けるのが嫌で、私は話題をねじ曲げた。
「……IKEAに入った時の、あの香りさ? 空調から流れてきたって可能性、あるかな?」
気を紛らわせたかったのかもしれない。自覚も曖昧なまま、私は鳥子に顔を向けた。
「ああ、別のエリアから香ってきてた、とか?」
鳥子はすぐ答えてくれた。私の意図を汲んだのか、ただの反射なのかは判断がつかない。
「そうそう。だったら、ダクトを辿って行けば良いのかも」
「でも、空調のダクトって、普通は壁の中とか、天井に埋まってない?」
「あ……確かに」
反射的に私は顔を上げた。
天井に空調の吹き出し口を探すつもりで──無意識に。
そして気付く。
そこには、天井がなかった。
あるはずの高さを、視線が空振りした。
梁も、照明も、吊り下げられた非常口のサインも。
当然あるはずの物が、まとめて削除されたみたいに消えていた。
濁った灰色の広がり。
「空間」という言葉を当てはめることにすら、抵抗がある。距離感が溶け、奥行きが潰れ、視線だけがどこまでも吸い込まれていく。
曇りガラスの向こう側を無限に見せられているような、そんな不気味な色調だった。
「……え」
自分でも驚くほど、か細い声が漏れた。
「空魚?」
鳥子も私の視線を追って、同じように顔を上げる。
「わあ……天井、なくなっちゃった」
鳥子が唖然として言う。私は返事をしなかった。できなかった。
胸の奥のひっかかりは、本当はもっと前から、ずっとあったはずなのに。
私はそれを見ないようにしていただけだ。日常のほうに重心を預けて、異常の感触を避けていた。
だから今、驚いている自分がどこか滑稽ですらあった。
「これは、すごいね」
ようやく出た声は、妙に軽く響いた。
「……まずは一驚き、ってとこかな」
私が言うと、鳥子が続ける。
「だね……次の驚きは、もっと楽しいのだといいんだけど」
しばらく、私たちは無言で、天井だった場所を見上げていた。
音がなかった。空調の駆動音も、客の足音も、店内BGMも。
いや──消えた、というより、空間そのものが音を拒んでいるような静けさだった。
背中の奥が、じわりと冷える。
空間が切り替わった。たぶん、もう簡単には戻れない。
鳥子が小さく息を吐き、私もそれに続いた。
意識を抜けば、呼吸すら忘れてしまいそうな沈黙だった。
3
「とりあえず、フードコートを目指して行こうか」
私はそう言って、カートの持ち手を握り直した。言葉に反して落ち着いているつもりだったが、手のひらだけがじんわりと汗ばんでいた。
改めて周囲を見渡す。
遥か上空──本来なら天井が収まっているはずの位置には、照明の影すらない。なのに、店内は一面がオレンジ色の光に照らされている。光源のない明るさに、感覚のほうが追いつき始めていて、いっそ違和感が薄れていく。
「行けるかな? フードコート」
鳥子の声は、空気の膜を押し分けるように静かだった。
「行けるだけ行ってみる。途中で出口が見つかるかもしれないし」
「行ってみて、誰もいなかったら?」
「その時は……出口探しに集中しよう」
「うん、そうだね」
短いやり取りのあと、喉の奥がかすかに乾いた。私は小さく息を飲んで、一歩踏み出す。
カートの車輪がコロコロ床の上をすべる音だけが、どこか不釣り合いなほど鮮明に耳に残った。
いくつかのブースを抜けたところで、視界がぱっと色づいた。
子ども用のプレイマットが山のように積み上がり、青や赤、蛍光色の布が棚の影から溢れ出している。吊られたラベルに目を向けたが、そこに並んだ線は、どれも文字の形をしていなかった。
読めない、というより、判断しようとした瞬間に意味がほどけていく感じだった。
中間領域が深まるとき、文字から意味が離れるのはよくある。けれどここまで徹底していると、逆に笑えてきてしまう。
その時、耳の奥で、ざらりと雑踏が弾けた。
壁の向こうで、誰かがコソコソと話しているような気配がして──ほんの刹那で消えた。
私は反射的に足を止め、鳥子と目が合う。
けれど、とくに話すこともなかった。ほんの一瞬で「まあ、そうだよね」と互いに納得し、また歩き出す。
もう、この程度のノイズでは大して驚かなくなっている。
どういう世界に足を突っ込んでいるのかは、とっくに体が理解していた。
入店の際に見た、正しい店内マップどおりなら、フードコートはこの店舗の端の方にあったはずだ。通路に描かれた矢印を追っていくうちに、通路がじわりと広がり始める。
最初は商品の棚や展示品なんかで圧迫感のある通路だったのが、次第に空間そのものが開けていく。
その先に、不自然なほど整然と並んだテーブルと椅子が、視界に飛び込んだ。
──フードコートだ。
私の視界にその全体が収まった瞬間、それまで死んだように静かだった通路に、突然ざわめきが混じり始めた。遠くで誰かが笑い、別の誰かが叫び、ざかざかと靴音が走る。トレイがカウンターに置かれる、あの乾いた衝撃音まで聞こえる。
あまりにも日常的すぎて、だからこそ不自然だった。
「人……」
鳥子が、小さく声を漏らした。
「いるわけないよね?」
「いないはず、なんだけど」
自分でも声が少し固いと分かった。音だけを聞けば、フードコートは昼時みたいに賑わっている。でも違う。なにかがかみ合っていない。
私は足をそろそろと前に出した。背後で、鳥子の足音が静かに付いてくる。
近付くほどに、フードコートの内部が見えてきた。
家族連れ、学生の集団──テーブルを囲んで、楽しげに食事をしている。
一見すれば、それは「よくある光景」以外の何ものでもない。
けれど、ここは中間領域だ。賑わっているほうがあり得ない。
私は呼吸を整え、右目に意識を寄せる。
その瞬間、ざわめきがふっと遠のいた。
まるで、人々も音も、この空間の向こう側に薄く貼り付いているだけみたいに。
そこにあるのに、触れられない。実体がひどく薄い。
ほんのわずかな空間の「ズレ」。
──これは現実じゃない。
私は、静かに確信した。
「入ってみる?」
鳥子が眉を寄せつつ訊く。
「入ろうか……鳥子は大丈夫そう?」
「うん。大丈夫」
鳥子はバッグの中にそっと手を入れる。
私もカートの持ち手から右手を離し、バッグの上に添えた。マカロフの位置を確かめる。
フードコートの入り口手前で、私と鳥子は小さく頷き合った。
そして境界を一歩またいだ、その瞬間。
すべての音と人影が消えた。
ざわめきも、笑い声も、食器の触れ合う音も。
ほんの一秒前まで確かに聞こえていた気配が、跡形もなく挟み取られるように、ぱたりと途絶えた。
火を吹き消したみたいに。余韻すら残さず。
静寂だけが落ちてきた。
私は反射的に歩みを止める。
目の前には長テーブルと椅子が整然と並んだフードコートが広がっている。
整いすぎていて、逆に寒々しい。
「空魚」
鳥子が、そっと名前を呼ぶ。背中を軽く指で払われて、張り詰めていたものが少しゆるんだ。
「やっぱり……誰もいないね」
私が周囲を見回しながら言うと、鳥子は静かに頷いた。
「うん。茜理と夏妃も、ここにはいなさそうだね」
「たぶん、そうだね」
私の言葉に鳥子がぽつりと返す。
「そっかぁ……」
私は息をひとつつき、静まり返った空間をゆっくりと見渡した。
言葉がそこで一度途切れた。
私たちは足を止めたまま、整然としたフードコートを眺めていた。人のいないフードコートは、本来ただの広い空間のはずなのに、どこか妙に落ち着かない。音がなさすぎる。
「空魚、念のためフードコートの中、一回りしておく?」
「……うん。そうしよっか」
私たちは並んで歩き出した。
人の気配はまるでないのに、椅子やテーブルはきちんと整えられていて、生活の跡だけが残っているみたいだった。
誰も座っていないテーブルばかりなのに、ついさっきまで誰かがいたような──そんな温度の残り方。
私は気を張りつつ、鳥子の肩越しに周囲を警戒する。鳥子も黙ったまま歩いていたが、途中でぴたりと足を止めた。
「……あ」
「どうしたの?」
「良い匂いがする」
またあのアロマの香りかと思い、私は鼻をすんと鳴らした。けれど違う。
──食べ物の匂いだ。
言われてみれば確かに、なにか香ばしい匂いが漂っている。
鳥子に指摘されるまで気付かなかった自分のほうが、むしろ不思議だった。
「この匂いも、なんだか懐かしいなぁ」
「カナダでも同じだった?」
「うん。同じだったと思う」
「なら、早く脱出しようか。そしたらゆっくりご飯食べられるよ」
「うん」
私たちはそのまま無言でフードコートの奥へ進む。
あたりは静まり返っていて、私たちの足音だけが、タイルの床に淡々と吸い込まれていった。
それでも、匂いだけははっきりしていた。
空気の流れに乗って、途切れず鼻をくすぐってくる。
「匂い、あっちからするんじゃない?」
鳥子が指差した先は、フードコート奥のビュッフェラインだった。
私たちは頷きあって近づく。
無人のレジカウンター。その奥には調理スペースがのぞく。
当然、誰もいない──はずなのに。
そこには、食べ物が置かれていた。
二つのトレイに整然と並ぶホットドッグとフライドポテト。紙コップに入ったコーラ。
まるで、誰かが注文して受け取る直前の状態のまま。
しかも、それらは出来たてみたいに湯気を立てていた。
ポテトには塩がきらきら。ホットドッグのパンはふっくらと柔らかそう。
現実にある食べ物の質感を、完璧に再現している。
「……なにこれ」
私は声をひそめた。鳥子は黙ったまま、ただそのトレイを凝視している。
匂いは本物の食べ物と同じだった。
今すぐ手を伸ばしたくなるほど、普通で、美味しそうで……だからこそ危うい。
「……やめとこ」
鳥子がぽつりと言う。
「うん」
私は頷いた。
少しだけお腹は減っていたけれど、どうにも食べる気にはなれなかった。
フードコートを一周して、私と鳥子は足を止めた。
無言のまま、ゆっくり顔を見合わせる。
やはり茜理と夏妃の姿はなかった。
ここに来ていた形跡すらない。
もしかしたら、もうどこかへ移動したのかもしれないし、最初からここを通らなかったのかもしれない。
──どちらなのか、判断できない。
その曖昧さが、じわりと不安を底に沈めていく。
私と鳥子は並んで、フードコートの出口へ向かった。
フードコートの境界から足を踏み出した、その瞬間──。
ざわ……と、耳の内側を指でこすられたみたいな感触が走った。
囁き声。笑い声。椅子を引く金属音。紙コップが倒れて転がる軽い音。
それらの音が、まるで流し込まれるように、背後から押し寄せてくる。
反射的に振り返った。
そこには──。
さっきまで死んだみたいに静かだったフードコートが、何事もなかったかのように、「音」だけを取り戻していた。
けれど、見える景色は完全に無人のまま。
整然と並んだテーブル。
少しも乱れていない椅子。
食器の影も、食べ残しも、匂いすらない。
まるで「ここでは人間が騒がしく活動する」という概念だけをなぞって、肝心の中身を置き忘れたみたいな光景だった。
それでも喧騒だけが、鼓膜をじりじりと焼くように強まっていく。
見えない客たちが、こちらの存在に気づいたかのように。
私は唇を結び、右目に力を込めた。
膜の向こう──重なり合った空間の奥を、透かすように見る。
この喧騒が「表」に近いものなら、どこかにゲートが開いている可能性がある。
そう思わずにはいられなかった。
椅子の影。
調理カウンターの奥の暗がり。
非常扉の先の通路──。
私は右目で、それらを一つずつ、舐めるように確認していく。
鳥子も、いつの間にか私と同じ場所を追いかけるように視線を動かしていた。
その横顔に、いつもの余裕はない。
けれど──何もなかった。
異常な歪みも、潜んでいる気配も。
ただ、「ここにいない誰か」の声だけが、膜越しに響き続けている。
「……だめっぽい」
私が搾り出すように言うと、鳥子はゆっくりと頷いた。
「うん。ここじゃないね」
そう言って、鳥子は私の肩をそっと抱き、頭にひとつキスを落とす。
その仕草が、不思議と胸の奥の緊張をほどいてくれた。
私は諦めきれず、最後にもう一度だけ右目で周囲を撫でる。
それから鳥子と並んで、フードコートの外へと足を向けた。
背後では、いまだに誰かが笑っていた。
けれど、その声が私たちに届くことは、もうなかった。
フードコートを出ると、道の脇にフロアマップの描かれたA看板が立っていた。私はなんとなく視線を向ける。
本来なら「現在地」「YOU ARE HERE」と書かれているはずの場所は、
印刷不良とも違う歪み方をしていて、もう文字として読めなかった。
ただ、その上に──赤い点が三つ、ぽつんと灯っている。
一つはフードコートのピクトグラムの上。たぶん今の私たちの位置だ。
もう一つは、少し離れた売り場と思しきエリアに。
そして最後の一点は──地図の端に近い、やけに遠い場所にあった。
「これ、現在地がいくつもあるのってさ……何か意味あると思う?」
鳥子が不思議そうに言う。私はマップから目を離さずに答えた。
「全然わからないけど……あるとしたら、誰か他の──」
私がそう口を開いた瞬間だった。
私たちから一番離れた赤い点。マップに描かれたソレが──、ツツッ……と、静かに横へずれた。
「…………」
「…………」
私と鳥子の間に、短い沈黙が落ちる。
五秒くらい経ってから、私は鳥子の方を見る。
「ねえ、鳥子。いまの──」
「うん、見てた」
「動いたよね?」
「うん。動いてた」
鳥子の声は落ち着いているけれど、軽さはなかった。静かな驚きがその奥に沈んでいる。
「これ、ただの地図じゃないんだ。現在進行形で『誰か』の位置を示してるんじゃないかな。ただの思いつきだけど……私の思考、飛躍しすぎ?」
私が訊くと、鳥子はゆっくり首を横に振った。
「ううん。私もそう思う」
鳥子は、私たちを示す赤い点を指先で軽くなぞる。
「じゃあ、他の点は……」
「茜理たちとか。小桜さんたちとか。それか、まったく知らない誰かかも」
そう言った瞬間、自分でも気づかないうちに深く息を吐いていた。
「……茜理と小桜たち、どこにいるんだろう」
鳥子の声には、かすかに迷いと不安が混ざっていた。
「さっきまではフードコートにいるかもって思ってたけど……ここまで来て会えないなら違うよね」
「茜理たちはこっちかな」
鳥子が私たちから一番近くにある赤い点を指差した。
「どうだろう」
「小桜と霞はこっち?」
鳥子が、さっき動いた赤い点を指さす。
私は確信を持てないまま頷いた。
「……そうなのかもね」
地図の上で遠く離れた二つの赤点。それが示すのが誰なのか──あるいは何なのか。
はっきりとはわからないけれど、他に手掛かりもない。
待ち合わせたはずのフードコートには茜理も夏妃もいなかったし……まあ、小桜と霞がいないのは予想通りとしても、空振りが続くと胸がざわつく。
「行ってみようか」
顔を見合わせて、小さく頷き合う。
赤い点が示す先が誰であれ……今は、そこへ向かうしかなかった。
……歩き出そうとしたとき、不意に胸の奥を何かが撫でていった。
右目の端に引っかかった違和感に、私は無意識に足を止める。
売り物のテーブル脇──そこに、ぽつんとカートが一台だけ置かれていた。
周囲の空気が薄ぼんやりしている中で、その一角だけが妙に輪郭を濃くして、場違いに浮いて見える。
胸の奥で、ひどく小さなざわめきが立った。
引き寄せられるみたいに、私はカートへ近づいて覗き込む。
──黒い猫のぬいぐるみが、こちらを見上げていた。
拾い上げた瞬間、手触りの柔らかさより先に、ひどく冷たい印象だけが指先に残る。
首元にはタグが二つ。「価格」「防犯」……そして、その横に貼られていた小さな白い札。
『Bring me back』
それだけ。
シンプルな筆記体なのに、何度読んでも妙に温度のない字面だった。
思わず息を飲む。
嫌な予感というほど大げさじゃないのに、どこかで「私に関わるな」と言いたくなった。
私は猫をひょいと放り投げ、無人のカートに戻した。
金色のボタンの目が、転がる途中で一瞬こちらを向いた気がした。
それを無視して、胸ポケットからスマホを取り出した。
無性に茜理と小桜に連絡を取りたかった。
でも、電波は……圏外。
スマホのアンテナは沈黙したまま、Wi-Fiのリストも真っ白だった。
本来なら、広い店内にはフリーWi-Fiのアクセスポイントがいくつも飛んでいるはずだ。
なのに、それらは跡形もなく消えている。
ここは立川の屋内型の大型商業施設。
地下でもないのに、繋がらない。
──いや、繋がらないことが当たり前になってしまっている。
まあ……仕方ない。ここ、中間領域だもん。
「鳥子はどう?」
「圏外だね。残念だけど」
鳥子は自分のスマホの画面を私に傾けて見せた。
電波のマークは、見事に沈黙したまま。
「だよねぇ」
私はスマホを伏せ、カートの持ち手に軽く押し当てる。深いため息が漏れた。
どうにもならない。
もう進むしかない。
「よし、いっちょ行ったるかっ」
「うん、行こう行こう!」
ちょっと気合いが空回りしたまま、私たちはカートを押して歩き出した。
──が、数歩でぴたりと足が止まる。
視界の端を、何かがかすめた気がした。
反射的にそちらを向くと、さっきとは別のカートが置いてあった。近付いて中を覗き込む。
──いた。
黒猫のぬいぐるみ。さっきと同じやつが、ぽんと無造作に放り込まれていた。
「また?」
私は小さくつぶやく。
首もとのタグが目に入った。
筆記体の、あの文字。
──『Bring me back』
「しつこいなあ。どこに戻してほしいのよ」
「さすがに飽きるね」
鳥子と私の間に、ほんの一拍、空白が落ちる。
……ふと思いつく。
「鳥子、これさ」
「うん?」
「持って帰ったらDS研に売れそうじゃない?」
「これが?」
「うん。『どこまでも追いかけてくる猫のぬいぐるみ』……どう?」
「それだと……売っても、DS研から返ってくるんじゃない?」
「そしたらまた売ろう。仕入れ値ゼロで利益率は最高だよ。錬金術じゃん」
「悪どいなあ、もう」
私はぬいぐるみを手に取り、鳥子の返事を半分聞き流したまま、そのままバッグに突っ込んだ。
「あーあ。『Bring me back』って書いてあるのに、連れ去られちゃった」
「ついてくるのが悪い」
「だねぇ」
「最近、裏世界の開発ばっかりで探索サボってたし、ちょうどいい収入だよ」
「ふふっ」
「なに?」
「いや……多分これ、私たちを怖がらせるために置かれてたんだろうなって」
「まあ、そうだね」
「全然怖がられてないの、ちょっとかわいそう」
「もう一味足りなかった。最初はちょっと薄気味悪かったんだけどね」
「うん、そうだね」
私と鳥子は顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。
くだらないやりとりの余韻が、胸の奥に温かく残る。
そして、笑いが自然に落ち着くころには、どちらともなく足が前へ動いていた。
さっきまで漂っていた微かな緊張は、すでに背中のほうへ遠ざかっていた。
「じゃあ、近い方の赤点に行ってみようか」
しばらく歩いた後、壁にかけられたフロアマップを指差し、私が最寄りの赤点を示すと、鳥子も素直に頷いた。
顔を見合わせ、言葉は交わさずそのまま歩き出す。
売り場をいくつか抜け、間仕切りと通路が作る迷路みたいな構造を、無言のままくぐり続ける。慣れてきたはずのIKEAの静寂が、妙に落ち着かない。
やがて、さっきと同じ形のA看板が視界に入った。ほとんど同じ構図で、さっきと同じ場所に戻ってきたように見える。
私たちは足を止めて顔を見合わせ、同時にマップを見る。
「……あれ?」
鳥子が眉を寄せる。私も覗き込んだ。
三つあったはずの赤い点が──二つになっていた。
いまいる「現在地」の赤い印と、いま目指している近くの印。
その二つから離れた場所にあった、三つ目の赤い印だけが、跡形もなく消えていた。
「ひとつ消えてる……」
私が呟くと、鳥子は唇を噛み、短く息を吸ってから言った。
「あの点、誰だったんだろう」
「もし小桜さんだったら……霞の力で、一緒に脱出できたのかもしれないね」
「でも、茜理や夏妃だったら? それか、まったく別の迷い込んだお客さんとか」
鳥子の言葉で、思考の回転が少しだけ早くなる。
もし、消えた赤点が茜理と夏妃の現在地だったとしたら──。
「……うん。そこも考えてる」
誰かに何かが起きて、その結果として「現在地」が消えた……そんな可能性が頭をよぎる。
私はスマホを取り出した。圏外。Wi-Fiもなし。見慣れた表示に軽くため息をつき、画面を伏せてカートの持ち手に押し当てた。
「無事だといいんだけど」
「うん……」
小さな沈黙が落ちる。
そのときだった。手の中で、スマホが短く震えた。
通知のリズムとメロディを覚えている。これは電話だ。
私はスマホの画面を見たが、文字化けしていて読めなかった。
一瞬だけ迷って、それでも通話ボタンを押した。
「誰から!?」
「わからないっ」
鳥子が一歩近付く。私は即答し、スマホを耳に押し当てた。
「……もしもし、誰?」
《あ、センパイ! いま、どこにいますか?》
電話の相手は、茜理だった。私は安堵のため息を吐いた。受話口から聞こえる茜理の声は、少しかすれていて、息が上がっている。
焦り……とは少し違う。切迫感よりも疲労に近い響きだった。
私は鳥子と短く視線を交わし、スピーカーに切り替えながら周囲を見回した。
「こっちは……たぶんキッチンコーナーの奥。展示のキッチンがたくさん並んでて……って、これじゃ説明になってないか」
《うーん……ちょっとわからないですねぇ……》
電話の向こうで茜理が苦笑した。まあ、そりゃそうだ。
《なんだか、私となっつん、裏世界に入っちゃったみたいで……》
「やっぱそうだよね。私たちもいるから、すぐに迎えに行くよ」
そう言った瞬間、茜理の声が跳ね上がった。
《本当ですか!? よかったぁ〜!》
受話口が一気に明るくなる。どこかホッとさせられる。
「フロアマップ、ある? 見てみて。そこに私たちと茜理の現在地が出てるはずだから。でもあんまり動かないで。何がどう作用するか、全然わかんないから」
《はい! でも、いまなっつんが怪我してるので、あんまり動き回れな──》
そこで、唐突に声が途切れた。
「茜理?」
呼んでも返事がない。
代わりに、徐々にノイズが入りはじめる。電子音がゆがんだような、湿度のない音。
ジャリ……ジャリ……。
その隙間から、音声が割り込んだ。
《……いらっしゃいませ》
「……は?」
茜理の声が言った。だけど……違う。
茜理の声なのに、私に向けられていない。棚や壁に向かって言われているみたいだった。
……こんなの、茜理じゃない。
問い返す暇もなく、同じ一言が繰り返される。
《いらっしゃいませ……》
今度は少しだけ遅く、少しだけ低く、変な粘り気を帯びて。
《いらっしゃいませ……いらっしゃいませ……いらっしゃいませ……》
繰り返されるたび、頭のどこかが薄く冷えていく。
鳥子が肩を強張らせ、何か言いかけて黙る。
私は一呼吸置き、スピーカーを切ってからゆっくりと耳に戻した。
「ああ、はい……お邪魔してます」
その瞬間、受話口の向こうで、ほんのわずかに間が空いた。
《……ありがとうございました》
応答されて、反射的に私は通話を切った。
せっかく上がりかけた気持ちが、気味の悪さで一瞬でしぼむ。理不尽に裏切られたような気分だ。
「茜理……大丈夫かな」
「……わかんない。はぁ……」
茜理や小桜に電話する、という選択肢がなかったわけではない。むしろ、それは最初に頭に浮かんでいた。だが、すぐに却下していた。
理由は簡単。今のように相手か私がおかしくなってしまうからだ。
そんなことを、進んでやりたいとはどうしても思えなかった。
だから電話は最後の手段。だったのに……。
「はぁ……」
「空魚。ほら、よしよし」
こぼしたため息と連動するように鳥子に髪をぐしゃぐしゃにされる。普段だったら怒るところだが、今はそんな気分にはならなかった。
そのまま私たちは目を合わせ、再び歩き始めた。
いくつもの売り場を抜けていく。見慣れない什器が並んでいる一方で、間取りはどこか微妙に歪んでいた。見たことのない構造──なのに、どこかで見た気がする。変な既視感がつきまとう。
私たちは、フロアマップで一番近くにあった「現在地」の赤い点を目指して、言葉を交わさず、歩き続けていた。
けれど、進んでいるはずなのに、距離感だけが曖昧になっていく。近付いているのか遠ざかっているのか、把握できなくなってくる。それでも、あの印の先に誰かがいると信じて進むしかなかった。
──そのときだった。
前方に、影が立ちはだかった。
──いや違う。最初からそこにあって、ずっと私たちの視界に収まっていた。
最初は構造物か何かだと思った。あまりに巨大で、色も形も売り場に溶け込みすぎていたからだ。柱か、什器のひとつか──その程度の違和感でしかなかった。
でも、違った。
長すぎる腕。短すぎる脚。
大木をそのまま削り出して無理に四肢にしたような、がっしりした体つきは、かろうじて「人型」と言える程度のアウトラインを保っている。そして、それが身にまとっているのは ──IKEAスタッフの、黄色と青の制服。
天を突きそうな巨体。
ソレは、異様なまでに背が高かった。
歪んだ頭部には、目らしきものも口らしきものも見当たらない。だが、確かに「見られている」感覚だけが、肌の上をなぞるように、じわじわと刺さってくる。
ただこちらを向き、微塵も動かず、空気ごと固まったみたいに立っている。
私は思わず息を飲んで足を止めた。隣の鳥子も、同じタイミングで立ち止まる。
まるで──ビルの柱に関節をつけて、雑に人型にしたみたいな体格だった。広すぎる肩幅のせいで、ただでさえ巨大な制服が、それでも引きつれ、布地が不自然に歪んでいる。
「……なにこれ。大きすぎる」
鳥子が、吐息混じりに言った。
一瞬迷ってから、私はバッグを開き、マカロフを取り出す。銃口を向けたまま、ソレを睨む。
怪物は動かない。
ただ、一直線にこちらへ向けた「注意」だけが、変わらず肌に貼り付いてくる。
胸元にはスタッフ用バッジが光っていた。だが、反射で名前も部署も判別できない。
「動かないね」
鳥子もマカロフを構え、私の横に並ぶ。
ソレはまるで巨大な陳列用オブジェだ。作り物にしか見えないのに、質量と存在感だけが桁違いだ。
「撃ってみる? 試しに」
「……ううん。動いたら撃つ。弾丸は節約したい」
呼吸を整え、じりじりと距離を詰める。
数歩。
反応、なし。
呼吸音も気配もない。ただの岩、か、木偶の坊みたいに立っている。
一歩。
また一歩。
足音だけがやけに響き、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく跳ねていた。
それでもソレは微動だにしない。ただ、注意だけがこちらに吸い寄せられたまま、ぴたりと貼り付いている。
「……無視して通してくれると思う?」
鳥子が低く訊く。
視線を逸らさぬまま、私は小さく頷いた。
「やってみる……」
私たちは慎重に、息を殺して歩を進める。
一歩。
また一歩。
──動かない。
あと数歩で通り抜けられる。そう思いかけたとき。
空気を押し潰すみたいに、頭上から、低い声が落ちてきた。
『──いらっしゃいませ』
「うわっ!」
「きゃっ!」
空気そのものが揺れた。腹の底に響く低音。重たい音圧が、鼓膜どころか骨にまで染み込む。
私は悲鳴を上げ、鳥子と同時に駆け出した。展示通路を抜けるまで、一度も振り返れなかった。
十分距離をとってようやく振り返る。
怪物は──最初に見た時と同じ姿勢のまま、石像のように固まっていた。
こちらに視線を送ったままで。
「きゅっ、急に喋るのは反則でしょ……!?」
胸の奥でドコドコ暴れている心臓を押さえながら、情けない声が漏れる。
鳥子も肩で息をしながら、振り返りつつ言った。
「……なんだったんだろう、あれ」
「わかんない……。店員さんの制服着た、化け物? そんな感じ……」
私はまだ銃を下ろさないまま、歩みを再開する。視線だけが、まだ背中に貼り付いているようで、いつまでも気が抜けなかった。
目的の「現在地」は、まだ先だ。
私たちは、茜理と夏妃がいるのではないかと目をつけた「現在地」に向かって歩いていた。
フロアマップ上で私たちから一番近くにあった赤い点。私の見立てでは、フードコートで待機中に中間領域へ迷い込み、慌てた茜理と夏妃が私たちを探しに動き出した──その可能性が高いように、私には感じられた。
異常に広いフロアの中を進み続ける。商品の並びはどこまでも似通っていて、同じコーナーを何度も通り過ぎているような錯覚が、じわじわと襲ってくる。
そのたびに、私たちはフロアマップを確認し、現在地が目的地に近付いているかどうか確認した。
私たちを示す赤い点は、ちゃんと私たちの動きに追従している。目指している赤い点は、やや遠い位置で静止したまま。距離は体感で、フードコートから数えて残り四分の一ほどだった。じわじわ近付いてはいる。
ちなみに、最初にあった三つ目の赤点は、結局どこにも見つからなくなっていた。
それが、ずっと引っかかっている。
「……消えたままだね」
マップを睨みながら、鳥子が低く呟く。あの赤い点のことを、鳥子はずっと気にしているようだった。
「何があったのかな」
「小桜さんと霞は、自力で脱出できるだろうからいいとして……正直、知らない人のことまで気にしてる余裕は、あんまりないよね。私たちだって、どうなるかわからないんだし」
「……うん、そうなんだけど」
鳥子は少し口をつぐみ、それでも目をマップから離さずに続けた。
「でも、もしあの点が誰かを示してたんだとしたら、今はもういないってことになるよね」
その言葉に、私の口の中がかすかに苦くなった。
私は不安と焦燥をごまかすようにポケットからスマホを取り出し、歩数計アプリを開く。
記録された歩数は、どこか歪んで表示されていたが、五桁に届いていることだけはわかった。何万歩分歩いたのか、わからない。
私は思わず眉をひそめる。
柱グラフの伸び具合から推定すると、ここまでの移動距離は少なくとも十キロを超えている。もちろん、まっすぐ歩いてきたわけじゃないから直線距離ではない。
それでも、現実のIKEAならとっくに建物の端を突き抜けていたはずだった。
「……もう少ししたら、ちょっと休もうか」
私はスマホをしまいながら言った。
「うん……同じこと思ってた」
鳥子の声には、安堵と疲労の両方が、はっきり混じっていた。
休めそうな場所を探しながら歩いていると、柱にこれまでより大きめのフロアマップが掲げられているのが見えた。
私が立ち止まって眺めると、鳥子も私の肩越しに覗き込んでくる。私たちを示す赤い点と、目指している赤い点の距離は、思っていたほど遠くない。
「あと少しかな」
そう呟いた鳥子に、私は軽く頷いて返した。
「そうだね」
「夏妃が怪我してるって、茜理言ってたよね?」
「うん。でも、それも『ここ』での通話だから、鵜呑みにはできないけど」
むかし、私たちがきさらぎ駅に迷い込んだとき、裏世界から表世界にいる小桜に電話をかけたことがあった。
そのときの小桜は、奇妙な言葉を発する、不気味な機械のような応答をしていた。
ああいう前例がある以上、さっきの茜理の「夏妃が怪我をした」という話も、すべてを信じるわけにはいかない。
そもそも、本当に茜理だったのかすら怪しい。あれすら、この空間が作り出した現象のひとつだった、という可能性も否定できない。
「鳥子、平気?」
「うーん。あんまり平気じゃないかも。足の裏がぴきぴき痛い……」
「そっか……じゃあ良さそうな場所、早く見つけなきゃ」
鳥子が歩き疲れた足を引きずっていると、ちょうど目の前にソファ売り場が広がった。
整然と並べられた何十脚ものソファが、どれでもどうぞと言わんばかりに静かに並んでいる。座っているだけで歓迎されているような、不自然なほど整った静けさだった。
「ああ、ちょうどいいところに」
「つ、疲れたー……」
鳥子は息を吐きながら、まっすぐ一つのソファに倒れ込んだ。足元を引っ張ると足掛けが出てきてベッドになるタイプだ。鳥子はそこに体を沈め、だらしなく手足を投げ出す。
私も隣に腰を下ろしたが、横になることはしなかった。それに鳥子はすぐに気付いたらしい。
「空魚、どうしたの? 寝っ転がらないの?」
「んー……一応、ここも中間領域だしさ。さっき、変な化け物もいたし、最低限の警戒はしておいたほうがいいかなって」
「あ、そっか」
鳥子はそう言って体を起こしかけたが、すぐに首を振った。
「じゃあ、私が先にやるよ。空魚は休んでて」
私は首を横に振った。
「大丈夫。私、あんまり疲れてないから」
「え?」
鳥子が心配そうに私を見る。
「空魚、私と同じ距離歩いたよね。クタクタじゃないの?」
「中高のとき、頻繁に長距離歩いてたから慣れてるんだよ。鳥子は走る方が得意でしょ? たぶん使ってる筋肉が違うんだと思う。だから鳥子のほうが疲れてるんじゃないかな」
「うーん」
鳥子は不満そうに唇を尖らせたが、反論はしてこなかった。
「とにかく、安心して休んで。鳥子が休み終わったら交代で少し休ませてもらうから」
「……わかった。じゃあ、頼んだよ」
渋々と言いながら、鳥子はもう一度ソファに体を戻し、今度は私の膝の上に頭を乗せた。
私は鳥子の髪を、静かに、何度か撫でる。まもなく、鳥子は規則正しい寝息を立てはじめた。
「……寝ちゃったか」
呟いた声に応える者は誰もいない。
私はスマホを取り出し、タイマーを三十分──いや、一時間にセットした。
それから、軽く息を吐き、背もたれに体を預けた。
鳥子が、私の膝に頭を乗せて眠っている。
ここがIKEAを模した「中間領域」だということを忘れてしまいそうになるほど、穏やかで静かな時間だった。
背後には展示用の背の高い観葉植物。前には斜めに傾いた間接照明と、革張りのソファが整然と並んでいる。
どう見ても、ひとつのディスプレイとして完成された空間だ。しかも、中間領域にしては妙に居心地がよく、人がそのまま深く眠れてしまうくらいの快適さがあった。
仰向けになった鳥子の額にかかる髪を、私はそっと指先で払う。
鳥子の呼吸は深くて、規則的で、完全に警戒を解いてしまっている寝息だった。
腕時計を見ると、四時間以上が経っていた。
鳥子を起こしたくなくて、途中でアラームを止めてしまったのだ。
……まあ、いいか。
この空間で「正確な時間」に、どれほどの意味があるんだろう。
そう思って、もう一度腕時計に目を落とす。
時刻は──十八時五十八分。あと二分で十九時になる。……夕飯の時間だ。
いつの間にか、私と鳥子の間では十九時が「夕食の時間」として定着してしまっている。
時間を意識した途端、胃の奥のほうが静かに空腹を訴えはじめた。
おかしなほど忠実で、ちょっと憎たらしい。
昔の私なら、食事の時間なんて多少ズレてもどうということはなかったのに。
この一年で、身体はすっかり鳥子仕様に矯正されてしまった。規則正しい生活、バランスのいい食事、三度きっちりのご飯。
まさか、こんな場所でその習慣に足を引っぱられるとは思ってなかった。
……さっきのフードコートのご飯、やっぱり食べておけばよかったかな。
腹の虫が、ぐうと正直な返事をする。
込みあげる後悔を、私は脳の片隅へ押しやった。
今日は運の悪いことに、非常食も持ってきていない。
バッグの中は空っぽ。賞味期限が迫っていたから、全部食べきってしまっていた。
次の買い出しで補充するしかない。
ローリングストックって、タイミングを間違えると本当に意味がない。
呆れを通り越して、苦笑が漏れる。
鳥子が起きたら、少し分けてもらおうかな。
いやほんと、抜けてるなあ、私。
顔を手で覆いながら、私は天井のない虚空を、ぼんやりと仰いだ。
「………………」
──そのとき、ようやく気付いた。
胸の奥に刺さっていた違和感が、輪郭を持って浮かび上がる。
「……暗くなってる?」
口にした瞬間、背筋がひやりとした。
気のせいじゃない。ついさっきまで眩しいほどに照らしていた店内の照明が──ゆっくり、確実に、力を失っていく。
点滅でも停電でもない。
光そのものが、底に沈んでいくみたいな、じわじわとした失われ方。
夕暮れが落ちてくるときの空気……だけど、ここには空なんてない。
それでも、似たような日が落ちる気配だけが、妙にリアルだった。
暗さは、静かで、しつこくて、逃げ場がない。
目が慣れる暇もなく、店内全体が、一息に闇へ呑み込まれた。
自分の手すら見えない。
この距離にいたはずの鳥子の姿も……闇に溶けて、消えた。
「鳥子……」
声にならない呼びかけと同時に、私はそっと手を伸ばした。
闇の中では、その動作すら不安定で、触れる瞬間までどこに鳥子がいるのか分からない。
指先が肩に触れたとき、じん、と温もりが返ってきてようやく安堵する。
「鳥子、起きてっ」
小さく声をかける。返事はない。
もう一度、今度は肩を軽く揺する。
「……鳥子、起きて。暗くなった」
その言葉に反応したのか、鳥子の体がわずかに動いた。
目をこする気配がする。
「なあにぃ……?──えっ、何これ? 暗い!」
「照明が全部、落ちたみたい。完全に真っ暗」
「う、うそぉ……」
鳥子の声が、かすかに震えた。
私はすぐ鳥子の手を探り当て、しっかり握る。見えない分、手のひらの温度が妙に心強い。
「とにかく、まずは立とう。どこか安全な場所を探さなきゃ」
「うん……ありがと、空魚」
ソファから立ち上がると、微かな軋みが、闇の中でやけに大きく聞こえた。
照明は依然として戻らず、天井があるのかないのか分からない空間なのに、何かに蓋をされたような重たい圧迫感がのしかかってくる。
私たちは立ち上がったまま、しばらく動けなかった。
物音は何もない。
ただ、自分たちの呼吸だけが、変に響く。
この静けさが、誰かに聞かれている気すらして──落ち着かない。
鳥子が私の肩に手を置いた。指先が少し震えている。
……私も同じだ。大抵のものには慣れたとはいえ、闇そのものは別だ。
気づけば喉がからからに乾いていた。唾を飲み込んだ音が、まるで他人の音のように耳に響く。
どこかに出口はある──そう思い込まないと、立っていられなかった。
そのとき、突然ぱっと視界が明るくなった。
反射的に体が跳ね上がる。
光源を探ろうと振り向いた瞬間、鳥子が私の腕をトントンと軽く叩いた。白い光が拡散し、足元のソファやタイルを照らし出している。
鳥子がスマホのライトをつけたのだ。背面をこちらに向け、「どう? 安心したでしょ」と言いたげににっこり笑う。
「びっくりした……」
胸が跳ねたが、暗闇の圧に飲まれていた感覚が、ほんの一瞬だけ軽くなった。
鳥子は小さくうなずく。
「ありがとう、鳥子。助かった」
「どういたしまして」
短いやり取り。けれど、それだけで随分呼吸が楽になった。
私は前に向き直り、肩に力を入れる。
「よし、進もうか──」
言い終わる前に、鳥子の腕がすっと伸びてきた。
人差し指が、私の唇の前で静かに立てられる。
私は右手で口を覆う。鳥子の仕草だけで意味はおおよそだけれど伝わってきた。
──なにか、音がする。
闇の奥。とても遠くのはずなのに、不自然に響く。
靴底が床を擦るような、乾いた足音。
ひとつ……またひとつ。
増えていく。
前方、右手、左手、背後。方向が一つではない。
もっと広域に、店内全体のどこかから。
何かが徘徊している。
ゆっくり。だけど確実に。
こちらへ寄ってきている──そうとしか思えなかった。
息が詰まり、思わず力む。
喉の奥がごろりと鳴った気がして、慌てて開きかけていた口を閉じる。
鳥子がそっと手を握ってくる。
ぬるりとした汗の湿気が、互いの指の間でまとわりつく。
私は素早く鳥子の手元のスマホに触れ、画面を下向きに押し下げた。
鳥子は意図をすぐに察し、ライトをオフにする。
店内は、再び完全な闇に沈んだ。
暗闇で、ほかの感覚が鋭くなる。
……足音の数が増えている。
遠かったものが、複数のルートから少しずつ距離を詰めてくる。
「……目で見る、だけじゃない」
そんな嫌な確信だけが、背中に張りついて離れなかった。
この店内にいるのは、ただの人影でも迷い人でもない。
数十メートル級の巨体に、IKEAスタッフの制服をまとった化け物。
先ほど見たあれが、一体きりとは限らない。
むしろ、最初からずっと、あちこちに散らばっていたのかもしれない。
なのに、なぜ今、それらは一斉に動いている?
視覚以外の何かで、私たちを探知しているとしか思えなかった。
音、匂い──いや、それよりもっと得体の知れない方法で。
「……鳥子」
かすかな囁き。
鳥子が、小さく振り返った気配だけが分かる。
「なに?」
「もし、もっと近づいてきたら……ライトつけ直して、走って逃げよう。多分、あいつら、視覚以外の方法で私たちを探してる」
一瞬の沈黙。
鳥子の髪がさらりと揺れる。うなずいたのだ。
「……うん。わかった」
その直後、私たちの間に、粘ついた沈黙が落ちた。
息を潜め、耳を澄ませる。
神経の奥まで焼き付くような静けさの中で──。
ず……り。
ずり、ずり、ずり。
床をこする足音だけが、私たちの居場所をなぞるように近づいてくる。
一歩ずつ。
だけど、進むたびに、距離が縮む速度が速くなるように感じる。
遠いと思っていたのは、もう過去の話で。
今は、すぐ向こう側にいる。
──もう、限界だ。
これ以上ここにいたら、見つかる。
私は握っていた鳥子の手を、もう片方の指でトントンと叩いた。
いまだ。
声は出さず、手の合図だけで。
次の瞬間──。
光。
スマホのライトが、一気に点灯した。
強烈な白光が暗闇を裂き、棚と床、私たちの足元を暴力的なまでに照らし出す。
同時に、全身が跳ねる。
怖いというより、身体が勝手に逃げ出したがっている。
鳥子の手を引き、私はすぐ駆け出した。棚の隙間をすり抜け、広くて見通しのきく方向を直感で選んで進む。
足音が跳ね返ってきた。
私たちのものじゃない。
重く、低く、異常に間隔の長い足音。
まるで巨大な何かが、慎重に、しかし確実に歩み寄ってくるみたいな足音が──すぐ背後に現れた。
「来てる、来てる、来てる……!」
声が勝手に裏返る。呼吸が上ずる。
鳥子は何も言わない。ただ手汗で濡れた手を震わせながら、私と手を握り、私の斜め前を必死に走っている。前を照らすライトが揺れた。
背後で、
──ブオンッ!!
空気を裂く音。
振り返る余裕なんてない、けれど何かがすぐ後ろにいることだけは分かった。
視界の端に、巨大な影が一瞬映る。
IKEAの制服を着た──あれが。
信じられない速度で、距離を詰めてきている。
あれとの距離は、もう五メートルもない。
今振り返れば、もう触れられている距離。
喉の奥に悲鳴がせり上がり、私はそれを噛み殺した。
鳥子のライトが、前方の大きな看板を捉える。
右を示す、大きな矢印。「家庭用品・ストレージ」。
──逃げ道は、まだある。
「鳥子、右!」
叫びながら右へと身を翻す。
足がもつれそうになるのを無理やり踏ん張って、通路を右へ、さらに奥へと走る。
ガンッ──!
背後の気配が、角を曲がりきれず、壁に激突した音が響いた。
振動が床から伝わる。
棚が崩れ、鉄の軋む音と重いものが次々倒れる音が続く。
今だ。
「撃つ! 照らして!」
「わかった!」
私はバッグからマカロフを引き抜き安全装置を外す、鳥子が照らし出すソレに照準を合わせた。
明かりに浮き上がったその姿は──明らかに人間ではなかった。
三メートルはありそうな体躯。
肩だけが異様に張り出し、首がにゅうっと伸びている。
皮膚は不気味なほど滑らかでありながら、ところどころ剃り残した髭のようなざらつきがあった。生白い皮膚には青黒い静脈が蟻か蜘蛛の巣のように全身を覆っていて、異様な生気のなさが滲んでいる。
顔は、ぼやけていた。
光が当たっているのに、目も鼻も口もぼんやりと曖昧で、焦点を結ばない。
ただ、こちらを向いている気配だけは、確かにあった。
サイズの合っていないIKEAの制服は、布地が引きつれ、縫い目が裂けかけ、ところどころ皮膚が露出している。
着せられているのか、着ているのか分からない──そんな歪んだ格好だった。
怪物が、ぎくしゃくと頭を傾けた。
そして、ないはずの口が開いて……喋り始めた。
「本日は、IKEA立川店をご利用いただき誠にありがとうございます。当店は十九時をもちまして閉店となります。お買い忘れのないよう、お気をつけください──」
女の声。
だが、生身の人間の声ではない。
古いテープレコーダーみたいに、ノイズだらけで、微妙に音程が揺れている。
口も喉も、動いていない。
音がどこから出ているのか分からなかった。こんなにライトを当てているのに。
「……他には何かある?」
問いかけた声が、思ったよりも落ち着いていた。
「本日は、IKEA立川店をご利用いただき誠にありがとうござい──」
私は、構えたままのマカロフの引き金を引いた。
パンッ、と閃光が弾けた。
巨体が震え、のけぞり、そして──崩れた。
潰れたように。
くしゃり、と鈍い音を立てて床に沈む。
私たちの前に残ったのは、風船の皮のようにひらひらになった「外皮」だけだった。
「え……」
なにそれ?
目の前で倒れているのは、私が撃った「何か」ではあったが──そこに「肉体」はなかった。
ぐしゃ、と潰れた厚手の皮のようなものが、床に広がっている。中身は……ない。
今はただ硬い床に、萎びた皮袋がだれているだけだ。
私は大きく息を吐いた。背中が汗でじっとりと濡れている。
不快感に顔を歪めながら私は鳥子に問いかけた。
「鳥子、これ……なんだと思う?」
「……わからないけど、今は考えてる暇、ないと思う」
たしかに。
足元に広がる空っぽの皮袋が何なのか──考えるだけで頭がこんがらがりそうになる。
だが立ち止まれば、すぐに他の足音たちが追いついてくるだろう。異常に長い間隔で鳴る、重いあの足音が。
スタッフたちが、このIKEAの中に何体いるのかはわからない。だが私が一発銃を撃ったことで、周辺に銃声が響き渡った。
──来る。間違いなく、集まって来る。
「とりあえずここから離れようか。鳥子」
「うーん……うん。わかった」
返事が、わずかに遅れた。
息遣いだけではない、言葉の温度がどこか変だ。
私は思わず鳥子の顔を覗き込む。
「……本当に大丈夫?」
「うん。ただ……なんていうかさ」
鳥子は表情にわずかな苦さを浮かべた。
「いつの間にか空魚って、私より引き金軽くなったよね」
その言い方が、冗談なのか本気なのか分からなくて、少しだけ胸がざわついた。
「え、そう?」
「そうだよ。なんでもかんでもパンパン撃って……」
「だって……これが一番早いんだもん」
「いつからこんな物騒な子になっちゃったのかなぁ……」
鳥子のぼやきに肩をすくめて、私は鳥子の背中を押した。
そして、また走り出す。走りながらさっきのアナウンスを思い返した。
──もし十九時の閉店が、奴らの「活動開始の合図」だったのだとしたら、その「終わり」はいったいいつになる……?
後どれだけこんな逃走劇を演じなければならない?
自分の思考に胸が冷えて、息がうまく入っていかない。
この夜は……とてもとても長くなりそうだった。
それからも、私たちは暗闇のIKEAをひたすら走り続けていた。
家具売り場のブースをかすめ、ベッドやソファが並ぶショールームへ滑り込む。迷路のような展示の通路は、どこもかしこも同じように見えて、逃げ場にはならなかった。
棚と棚の隙間に吊された間接照明が、暗闇の中で死んだ装飾のように揺れている。その下をくぐり抜け、踏み外せば転びそうな細い通路を、わざと選んで跳び越える。
わずかな障害物につまずいた「スタッフ」を、私は反射的に撃ち抜いた。
迷いも、ためらいも、なにも無い。
引き金を引く感覚だけが、手に残っていた。
もう、撃つべきかどうかを考える余裕すらなかった。
気付けば、私が撃ち倒したスタッフは十体を超えていた。
だが、この巨大なIKEAに潜む怪物たちは、
倒しても倒しても、数が減っているとは到底思えなかった。
倒すそばから、闇の奥からまた別のスタッフが現れる。まるで、店舗全体が息をするように。
迫る足音。棚が倒れる音。途切れ途切れに流れる雑音まみれの閉店アナウンス。
それらが背後と両脇から絶え間なく押し寄せて、呼吸のリズムまで狂わせてくる。
走って、撃って、走って、また撃って。
汗と硝煙と焦燥が入り混じり、喉の奥がひどく熱い。
「空魚! あとどれくらい弾丸、残ってる?」
前を走る鳥子が、振り返らずに訊いてきた。
私はマカロフをちらりと見下ろす。
最初の弾倉はとっくに空っぽ。
ついさっき空撃ちした瞬間、鳥子は無言で自分のマカロフを私に押し付けてきた。
いま私が握っているのは、その鳥子の銃だ。
「確認する!」
私は鳥子の手首をつかんで方向を変え、近くの棚の陰に滑り込んだ。
鳥子がスマホのライトを向ける。
その白い光の中で、私は素早くマガジンを抜き取った。
……六発。
チャンバー内に一発。
合計、七発。
多いとは、とても言えない。
下手したらあと何度かの遭遇で使い切ってもおかしくない量だ。
私は息を細く吐き、マガジンを押し込んだ。
顔を上げると、鳥子がしゃがんだ姿勢のまま、じっとこちらを見ていた。
表情に張りついた緊張と、不安と、少しの迷い。
肩が、ほんのわずかに上下していた。
「……七発。慎重に使うしかないね」
私が言うと、鳥子はうなずいたが、その動きは鈍かった。
「うん……」
短い返事。
息の揺らぎが、恐怖よりも別の何かを示していると感じた。
鳥子は一度視線を落とし、そしてためらいがちに口を開く。
「……役割、交代する?」
ほんの少しだけ、申し訳なさそうに。
だが、銃を見る目は真剣そのものだった。
私はその提案を一瞬で理解し、即座に頷いた。
深く考えず流れで私が撃っていたけれど、精密に撃てるのは鳥子だ。
この七発を、一発も無駄にできない。
「うん。そのほうがいい。お願い」
銃を渡そうとしたその瞬間──。
私と鳥子は、ほぼ同時に振り返った。
案の定──あの、地響きのような足音だ。
ドス、ドスと、重く鈍い振動が暗闇の奥から這い寄ってくる。
奴らは、まだ諦めていなかった。
私は目を細めて音の主を探ろうとした。けれどライトの光が届く範囲には、人影どころか動く気配すらない。ただ音だけが、確かに、こちらへ向かってくる。
「行こう、鳥子!」
「わかった!」
走りながら、頭のどこかが冷静に考えていた。
どうすれば、この状況をひっくり返せるのかを。
考えろ、思考を放棄するな。
考えろ、考えろ、考えろ…………あ。
喉が焼けつく。息が続かない。
「鳥子、AK持ってきてるよね!?」
私の質問に、暗闇の中で鳥子が頷いたのがわかった。
「持ってるっ! でも組み立てなきゃっ!」
「組み立て……!」
「暗くてもできるけど、組む時間がない!」
「──わかった! またタイミングがあったらお願い!」
私はそれだけ言って思考に集中する。
──閉店時間。そのワードが真っ先に浮かび上がってきた。
それがあいつらの「活動開始」の合図だとすれば……逆に、開店時間が来れば沈静化するのかもしれない。
だが、その推測が当たっているとしても──この終わりの見えない暗闇の中で、そこまで逃げ切れる気がしなかった。
開店時間は何時だ?
今の体力で、朝まで持つのか?
──間違いなく無理だ。考えるまでもない。
逃げ続けるだけじゃなく、どこかに隠れなければならない。
気付かれずに、「朝」を待てる場所。
この巨大店舗のどこかに、そんな穴場が残っているだろうか。
じわじわと体力が削られていく。汗で髪が頬に貼りつき、呼吸は浅く、足は鉛のように重い。
隣を走る鳥子も、いつものランニングの余裕などとうに失っていた。呼吸が荒く、足取りにも疲労がにじんでいる。
通路の先には、もう何も見えなかった。
光がない。暗すぎる。
スマホのライトは心許なさすぎて、ほんの足元を照らすだけだ。
その先の闇は、まるで光そのものを呑み込んでしまうように動かなかった。
一歩踏み出しただけで、触れてはいけない何かにぶつかりそうで足がすくむ。
でも、後ろからはあの足音が迫ってくる。
曲がり角を一つ越えたときだった。
──ガタン、と何かが倒れる音。
ライトが揺れ、黒い影が前方を横切った。
「まずいっ!」
叫んだ瞬間、通路の両側から黄色と青の制服が──「スタッフ」が現れた。
左右から。前方から。そして背後から。
四方、完全に塞がれた。
鳥子が振り向き、息を呑む。
「後ろ、大きいの来てるよ!」
確かに、地を揺らすような足音が近づいていた。もう逃げ場は──。
「空魚っ、こっち!」
鳥子が指さした先。床に転がる大きなキャビネットとキャスター付きワゴンの隙間。
狭い。でも、そこしかない。
私は迷わずしゃがみ込み、手をついて体を滑り込ませた。鳥子もすぐ後ろに続く。
直後、通路全体が揺れた。
そう錯覚するほどの衝撃が走った。複数の足音が床を踏み鳴らし、低い唸りのような空気の震えが伝わってくる。
「空魚、ライト消してっ」
鳥子の言葉で反射的に手が動き、スマホの光を落とす。
闇が一気に押し寄せ、視界が完全に潰れた。呼吸が喉で引っかかる。
息を殺し、私は耳をそばだてた。
──聞こえる。重く、ゆっくりとした足音。
何人──いや、何体いる?
スタッフたちが通路をふさぎ、私たちの隠れた商品の隙間すぐそばを、のそり、のそりと通り過ぎていく。
薄い板一枚隔てた向こうに、あの異形がいる──指を伸ばせば、触れてしまいそうな距離に。
──そう思うだけで、鼓動の音すらうるさかった。
物音ひとつ、呼吸ひとつすら許されない。
私たちは闇に紛れ、商品と商品の間で息を殺した。
「……だめ。見つかった」
鳥子の声は鋭く、しかし低かった。
棚の向こうから、のっそりと「何か」が現れた気配がした。
鼻先に生ぬるい湿気がまとわりつき、肺が誰かの掌で掴まれたような感覚に襲われた。
ぬるりと這うような、それでいて確かに歩いている足取り。
地面を踏む間合いが狂っている。
息は斜めに漏れ、首が不自然な角度で傾いている気配がする。
まっすぐこちらへ向かってくることだけは、わかった。
背骨の奥で、冷えたものがぞわりと逆立つ。
人間のふりをした「何か」が、足を引きずりながら近づいてくる。
その様が、皮膚の上を冷たい恐怖として這い回った。
逃げ場はない。通路は狭く、背後は壁。
私は意を決し、鋭く息を吸い込んだ。
「鳥子、撃って!」
叫ぶと同時に、スマホのライトを「それ」に向ける。
中肉中背の男──いや、「スタッフ」。
鳥子が即座にマカロフを構えた、その瞬間。
スタッフの身体が突然、宙に浮いた。
何が起きたのか理解する暇もない。
誰かの膝が、横からスタッフの顎を撃ち抜いていた。
硬い何かが砕ける「ボキッ」という嫌な音。
スタッフが床に叩きつけられる。
私は反射的にライトをそちらへ向けた。
倒れたスタッフの胸元に馬乗りになる影。……女だ。背中越しでもわかった。
理解より先に、体がそう判断していた。
彼女の手元がギラリと光る。
大きな裁ち鋏──。
持ち手には、握りやすいよう布切れが巻かれていた。
次の瞬間、彼女は両手でハサミを掲げ、一気に振り下ろす。
「はぁっ!!」
気合のこもった声とともに、ハサミはスタッフの顔面に吸い込まれるように突き刺さった。
その動きには、不思議な洗練さがあった。
プシュンッ、と間の抜けた音が響き、スタッフはしぼむように薄くなった。
事が済むと、彼女はこちらを振り向いた。
ライトが眩しいのか、目元を手で覆って顔をしかめる。
私は慌てて光を遮った。漏れた明かりが、彼女の顔をわずかに照らす。
「あの……紙越センパイと仁科センパイ、ですか?」
右手で逆手にハサミを持ち、薄明かりに目を細めながらこちらを見るその姿は──。
紛れもなく、瀬戸茜理だった。
4
「こっちに! 避難できる場所があります!」
茜理の声が夜のIKEAに鋭く響いた。
私たちの足音は三人分。でも背後から迫るそれは──三つどころじゃない。少し振り返っただけで、通路の奥に黒い影がいくつも揺れているのがわかった。
どこをどう走っているのか、もう把握できない。棚と展示スペースが入り交じる迷路を、息が切れるまま駆け抜ける。肩からずり落ちるバッグを掛け直すたび、焦りが胸の奥を鋭く突いた。
そして、合流直後のあれが、いまだに頭から離れなかった。
──あのとき。私たちを確認した瞬間、茜理は無言で加速し、二体のスタッフへそのまま飛び込んだ。
跳び膝で一体の顎めいた部分を弾き、よろけたところへ迷いなく斬り込む。もう一体には足払いからの喉元への刺突。ハサミが深く沈んだ。
私のスマホの光、鳥子のマカロフの発火──そのすぐそばで、茜理はためらいゼロで動いた。本能と鍛え込みだけで戦っている、そんな迫力があった。
空手ってすごい。
「空魚、こっち!」
鳥子の声が、揺れそうだった意識を繋ぎ止める。私は息を吸い直し、暗がりへ跳び込んだ。手の中のスマホが投げる光は心もとない。後ろから迫る足音は、ますます距離を詰めてくる。
三人でどうにかできる数じゃない。茜理の規格外っぷりをもってしても、押しつぶされるのは時間の問題だ。
突き当たりに差しかかった瞬間、背の高いスタッフがぬっと現れた。
骨が軋むような音を立て、ゆっくり腕を振り上げる──。
鳥子が前に出て、ためらいなく引き金を引いた。乾いた発砲音が響く。
それとほぼ同時に、横から茜理が飛び込み、スタッフの背に体重を乗せるように蹴りを叩き込む。ぐらついた胴へ、ハサミが素早く突き刺さった。
ぷしゅっと空気が抜けるような音。スタッフは前のめりに崩れた。
立ち止まる余裕はない。私たちはそのまま再び走り出した。
「もう少しです……この先に、バリケードがあります!」
茜理の息は荒いけれど、声は落ち着いていた。
曲がりくねった通路を抜けた先、家具が壁のように積まれた場所が現れた。机、段ボール、ベッドフレーム。その奥の隙間から淡い灯りが漏れている。
光が見えた途端、緊張がわずかに緩んだ──そのときだった。
「おい!!」
突然、怒鳴り声が落ちてきた。頭上から、叩きつけるような男の声。
「え?」
思わず顔を上げる。しかし、上には誰もいない。照明も、スプリンクラーも、声の主も。どこから聞こえたのかすらわからなかった。
胸がざわつき、思わず鳥子を振り返ろうとした瞬間──。
ざわざわ、と。
ざわざわざわ、と。
今度は、無数の声がいっせいに降り注いできた。
「こっちだ、こっち!」
「早く!」
「逃げて、逃げて──!」
「もうダメだ! 行くぞ!!」
怒る声。泣きそうな声。叫ぶ声。励ます声。
あらゆる種類の声が混じって、滝みたいに押し寄せてくる。
それらの声が、一斉にバリケードの奥から呼びかけてきた。
まるで、何十人もの人間が向こう側に隠れていて、私たちに向かって好き放題叫んでいるみたいだ──。
「え……?」
自分でも驚くほど呆けた声が漏れた。
横を見ると、鳥子も目を丸くしていた。驚きと戸惑いが顔にそのまま出ている。
これって……まさか、他にも人が?
「茜理、この中って──」
「あ、中にいるのは、私となっつんだけです。ここから入ります」
さらっと言って、茜理は家具の部品を組み合わせて作ったような、不恰好な門を開けて、隙間から体を滑り込ませた。
そのあいだも例の声は止まらない。怒鳴る声、急かす声、泣きつくような声まで混じっているのに、茜理は気にする様子もない。
私たちも後に続く。
身を縮めて、門の間をくぐり抜けた──その瞬間。
ぴたり、と声が止んだ。
静けさが戻ってくる、というより、音が急に消えたように感じた。音の寒暖差に耳がきゅうっとなる。
「今の声……何だったの?」
思わず尋ねると、茜理は軽く首を傾けて答えた。
「このバリケードに近づくと、いつも聞こえるんですよ。中に入ると聞こえなくなるんです。不思議ですけど、誰もいないので。無害なんで安心してください」
あまりに普通の調子で言われ、逆に返す言葉が詰まってしまう。
そして、茜理が何気なく振り返った瞬間──私は息を呑んだ。
「茜理……顔、どうしたの?」
代わりに鳥子の声が上がった。
スマホの灯りに照らされ、茜理の頬は青黒く腫れ上がり、皮膚の下で血の痕がうっすら滲んでいるのが見えた。
「あー……これはー……最初にあいつらに遭遇したとき、ちょっと油断してて。思いっきり、いい横拳もらっちゃいまして……大丈夫なんで、あんまり気にしないでください!」
茜理は照れくさそうに笑いながら頭をかいた。
本当に、軽く言うけれど、全然軽い傷に見えない。
でも、「大丈夫」と言われたら、それ以上言えなかった。
その笑顔があまりにいつも通りで、こちらの言葉のほうが無駄に重たくなりそうだった。
私たちは、茜理に続いてそのままバリケード奥へ進んだ。
中は、まるで要塞だった。
大量の机と何かの金属部品を組み合わせて作られた壁。ベッドフレームを梁にした屋根。床は合板で補強されていて、支柱にはいくつもの支えが固定されている。
あるものをすべてかき集めて作ったような、崩されることを拒む空気が漂っていた。
十五メートルほどの高さに電線が這い、そこから吊るされたLEDライトが内部を明るく照らしている。
配線が壁を蛇のように伸びていて……剥き出しのそれを見ているだけで、胸の奥がざわついた。
拠点の中心には大量の椅子。
そのそばに──ひとり、座り込む影があった。こちらに背を向けたまま、ぴくりとも動かない。
根元が黒くなった赤髪が、ライトの光を受けて少し揺れた。
夏妃だ。
「なっつん! ただいまー!」
茜理の声が響いた瞬間、夏妃の肩がびくっと跳ねた。
振り返る動作はゆっくりで、表情は強ばっている。
けれど茜理の姿を確認した途端、その緊張が溶けるようにやわらいだ。
──が。
私と鳥子が視界に入った瞬間、夏妃の動きが止まった。
目が見開かれ、口がわずかに動き、そして逸らされる。
ほんの小さな仕草なのに、やけに胸の奥がざわつく。
「お、おかえり……アカリ。紙越センパイと仁科センパイも……」
夏妃の声はかろうじて聞き取れるほどに小さく掠れていた。
この静かな拠点の空気に、そのまま沈んでいきそうなほど弱々しく。
──数秒の沈黙。
誰もが言葉を探して、でも見つけられなかった、そんな間。
それを破ったのは鳥子だった。
「夏妃、大丈夫? ケガの調子はどう?」
「え……」
鳥子の問いに、夏妃がきょとんと目を瞬かせた。
鳥子は迷いなく距離を詰め、夏妃の両肩にそっと手を置いた。
「どこケガしたの? やっぱり足? それとも他にも?」
まるで自分のことみたいな、切迫した声だった。
夏妃は戸惑ったように視線を泳がせ、しばらくしてようやく口を開く。
「えっと……あ、はい。足を……ちょい、ぐねっただけなんすけど」
そう言いながら、ちらりと茜理の方を見やった。
その視線に気づいた茜理が、首をかしげて鳥子に尋ねる。
「仁科センパイ、どうしてなっつんが足ケガしてるって分かったんですか?」
「え? だって……」
鳥子はぱちりと目を瞬かせ、それから助けを求めるみたいに私の方へ振り向いた。
私は軽く肩をすくめて、代わりに答える。
「昼頃に茜理から電話があったんだよ。そのとき、市川さんがケガしてる──って聞いたんだ。でも……実際はちょっと違ったみたいだね」
自分で言葉にしながら、私は茜理の顔色をうかがう。
たぶん否定される。分かっていても、実際にその瞬間が来ると、胸の奥がモヤっとする。
案の定、茜理は腕を組んだまま、小さく首を傾けた。
「私、センパイ達や小桜さんに電話しましたけど、一回も繋がらなかったですよ?」
ほとんど、思った通りの答えだった。
でも、特に驚きはなかった。本題はそこじゃない。
「うん、じゃあやっぱり。あれは茜理じゃなかったんだ」
「えっ? どういうことですか?」
茜理の眉がきゅっと寄り、興味深そうに私を見つめる。
私はできるだけ落ち着いた声で続けた。
「簡単に言うと──茜理そっくりの声で誰かが私に電話をかけてきたの。『自分たちも裏世界に入った』とか『市川さんが怪我した』とか……そんな内容だった」
脳裏に、あの壊れた機械みたいな偽茜理の声がよみがえる。
「いらっしゃいませ」を乾いた調子で繰り返していた、温度のない声。
ただ私と鳥子に不快と恐怖を与えるためだけに行われた、裏世界による悪質なイタズラ。
思い出すだけで、恐怖なんかよりも、ふつふつと胃の辺りが熱くなる気がした。
けれど、偽茜理の詳細を長々と説明する気にはなれなかった。ただ混乱を増やすだけだ。
「まあ、そんな感じ。変な出来事だったけど、もう終わった話だし。気にしないで」
そう軽く流したつもりだった。だが──。
「う、う〜ん……!」
茜理は腕を組んだまま、ぐっと力をこめて唸った。眉間に皺を寄せ、何かを必死に組み立てているような顔。
困惑と好奇心がせめぎ合って、その奥では……ほんの少し、目が楽しそうに光っていた。
「つまり……ここには私の偽物が居る、ってことなんですか?」
「あー……いや。『いる』っていうより、そういう『現象』が起きただけだと思う。たぶんね」
「え? そう、なんですか?」
茜理がより一層、興味を深めたように詰め寄ってきた。
「う、うん。昔、同じようなのがあったけど、やっぱりただの現象でしかなかったよ。だから……実体として『偽茜理』みたいな物が存在してるわけじゃないと思うよ。たぶんね」
「なるほど……!」
自分でも、どこまでが説明できるのか曖昧だった。
ただ、ひとつだけ確かなのは──あの声は茜理じゃなかったということ。
「へぇ〜〜。はぁ〜〜……」
茜理は目を閉じ、なぜか満足げに何度も頷いた。
「そんなこともあるんですねぇ。裏世界って……ほんと、不思議だなぁ」
その呟きが、どこか嬉しそうで、私は思わず息を飲む。
この子、やっぱり普通じゃない。
ずっとそう思っていたけれど、今はもう確信に近い。
でも、不思議と怖さはなかった。むしろ……少しだけ心強い。
異常な世界に、一人だけ涼しい顔で適応してしまった人間がそばにいる安心感──そんな、妙な頼もしさだった。
そのとき。
ガンッ!
拠点の外壁に、硬いものが叩きつけられるような鈍い音が響いた。
最初は一発だけ。だがすぐに、ガン、ガン……ガンガンガン! と間隔の狭い衝撃が続き、棚と資材で組んだ壁がわずかに震える。
次の瞬間、数人どころじゃない。
まるで波がぶつかってくるみたいに、数十の打撃音が一斉に襲いかかってきた。
スタッフだ……!
「──着いてきたっ!」
茜理が短く鋭い声を上げた。その瞬間にはもう、顔つきが変わっていた。
普段の柔らかい雰囲気がスッと消えて、研ぎ澄まされた気配だけが残る。切り替わったスイッチのように、瞬時に戦闘態勢に入った。
音のする方へ駆け寄った茜理は、しゃがみ込み、足元に転がっていた長細い物体をガチャガチャと手早く拾い上げた。
一メートル強の長さ。先端が斜めに削られた木の棒──即席の槍のような武器だった。
それを三本抱えたまま戻ってくると、茜理は迷いなく私と鳥子に向かってスティックを差し出した。
「すみません、センパイっ! あいつら倒す必要があるんで、助けてもらってもいいですかっ?」
「わかった!」
鳥子が、反射のように答える。私もすぐに首を縦に振る。
「わかった。どうすればいい?」
「ありがとうございます! こっちです!」
茜理が再び駆け出そうとした、そのとき。
「ア、アカリ!」
背後から夏妃の声が飛んだ。ほんの少し震えていた。
「今回は、ウチもやるから!」
夏妃の顔には焦りが滲んでいた。でも茜理は一拍も置かずに首を振った。
「なっつんはケガしてるからダメ! 危ないから、ここで待ってて!」
あまりにも一直線な戦力外通告。
夏妃は小さく口を開けたまま固まり、数秒後、ゆっくりとうつむいた。そして動かなくなった。
何か声をかけてやるべきなのかもと思ったが、今はそれどころじゃない。
バリケードの外側を殴る音が、ひたすら拠点の中に鳴り響いていた。
「行こう、鳥子!」
「……うん」
鳥子は心配そうに何度も夏妃を振り返った。
私が軽く腕を引くと、ようやく鳥子は息をつめ、覚悟を決めたように走り出した。
バリケードの壁にたどり着くと、茜理はもう動いていた。
隙間に身体を寄せ、棒を槍みたいに構える。
一拍。
タイミングを見計らって、ためらいなく突き込む。
バリケード越しに、一体のスタッフが穴の空いた風船みたいに萎んで、床へと崩れ落ちていく。
身体の中身だけが、抜き取られたみたいだった。
あの独特の、内部が空っぽみたいな潰れ方だ。
何度も見たけど、やっぱり慣れない。
私と鳥子は短く息を合わせ、同じように棒を握って隙間へセットした。
「……行くよ!」
外にいるスタッフは、ざっと数えて二十体はいる。
だが、真正面のそれだけじゃなかった。
薄暗い照明の向こう、さらに奥で影がうごめいていた。
ゆっくり、ゆっくり──横並びで近付いてくる追加のスタッフたちが、照明に照らされて輪郭を歪める。
どれだけいるんだ、これ。
バリケードは丈夫そうに見える。でも、この数を相手にすればいつまで保つかなんてわからない。
きっと長くはもたない。いや、もたない前提で動くしかない。
私は息を整え、隙間の向こうにいるスタッフの顔面めがけて棒を突いた。
ぶすり、と。内部のどこかが裂けて、空気が押し出されるような音がする。
スタッフの身体は糸が切れたみたいに崩れ落ちた。
その退屈そうなくらい軽い破裂音が、逆にこの状況の異常さを強調していた。
こんな調子でやっても追いつかないかもしれない。
とにかく早く数を減らさないと──次が押し寄せてくる。
焦りだけが、じわりと背中を冷たく濡らした。
「これで──最後!」
茜理が即席槍の先端を細身のスタッフの顔面へ突き刺した。
ぐしゃりと鈍い音がして、スタッフはその場でぺたんと崩れ落ちる。
──正確な時間感覚は、とうに失われていた。
それでも感覚的に言うなら、大量のスタッフがバリケードを叩き始めてから、もう数時間は経っている。
私たちはバリケードの壁にもたれるようにして座り込み、息を整えていた。喉はカラカラで、腕も足もだるい。
戦っているあいだは気が張っていたけれど、終わった途端に全部まとめて押し寄せてくる。
バリケード越しに外を覗くと、床には萎んだスタッフたちが折り重なって山になっていた。
ビニールプールを雑に畳んで積んだ、みたいな有様だった。
「これ、どうしたらいいと思う?」
私はうんざりした声で茜理に訊いた。
臭いがするような気がするが、実際にそうなのか、脳が勝手に嫌な連想をしているだけなのか、もう判断できない。
「あ、これはですね。ちょっと遠いんですけど、こいつら専用のゴミ置き場があって……そこにまとめて運ぶんです」
「これを? この量を……?」
鳥子が呆れたように言うと、茜理は真面目な顔でこくこく頷いた。
「なるべく小さく畳んで、カートに詰めるんです。これくらいなら……私ひとりなら三往復くらいでいけると思います」
「……そっかぁ」
鳥子は苦笑して、小さくため息をつく。
「じゃあ、その時は教えて。一緒に行くから」
「え、本当ですか!? 助かります!」
茜理の表情がぱっと明るくなる。
鳥子はにこっと笑って、さらに訊いた。
「で、いつ行く予定なの? 明るくなった後?」
「はい! 暗いと危険なので、明るくなってからですね!」
「なるほどね」
鳥子が私を見て訊く。
「空魚も行く?」
突然ふられて少し迷い……結局、私は頷いた。
「うん。じゃあ私も──」
「あ、すみません、紙越センパイ!」
私の言葉に、茜理が慌ててかぶせてきた。
あの茜理が「かぶせてまで言う」なんて、なかなか珍しい。
「どうしたの?」
「できれば、センパイにはここに残っててほしいんです」
「え?」
完全に予想外で、思ったままの疑問が口に出た。
「なんで?」
茜理は少し言いにくそうに視線を伏せ、それから続けた。
「なっつんのこと……できるだけ一人にしたくなくて。最近、ちょっと元気がないんです。今日もずっと沈んでて……」
「えーと……」
そりゃあ……。
茜理がはっきり戦力外通告したせいじゃないの? あのやりとりからして、今回が初めてじゃなさそうだったし……。
喉の奥まで出かかったが、とりあえず言葉は飲み込んだ。
「うーん……」
私は反射的に渋い返事をしてしまった。茜理はすぐに気づいたらしく、眉を下げて悲しそうな顔をする。
「ダメ……ですか?」
「いや、別にダメってわけじゃないけど……」
なんで、私?
今ここにいる面子で夏妃と距離が近そうなのは、茜理を除けば明らかに鳥子一択だ。
それなのに、わざわざ私を指名する理由が見当たらない。
そう思ったけれど、その言葉を口にするのはためらわれた。
なんとなく、口にした瞬間に、空気が変わってしまいそうな、そんな気がした。
「……わかった。市川さんと一緒に留守番しとくよ」
「本当ですか!?」
茜理の目がパッと輝いた。
その無邪気さに、私は少し圧される。
「ありがとうございます! なっつん、きっと喜びます!」
「ああ……うん。了解」
テンション高めな茜理とは対照的に、私は完全にローテンションだった。
なぜ私を選んだのか、その理由がさっぱりわからない。
だって夏妃は──どう考えても、私のことを苦手にしている。
いや、あれは「嫌っている」と言っても差し支えないレベルじゃないか?
そんな思考の中、茜理が突然おかしなことを言い出した。
「なっつん、紙越センパイのこと、すっごく尊敬してるみたいなんですよ!」
「はあ?」
思わず声が裏返る。尊敬? あの市川夏妃が?
なんの冗談だ、それ。
「いやいや、ないないない」
頭をぶんぶん振りながら否定すると、茜理はぽかんと目を丸くして首をかしげた。
「えっ? 本当ですよ? 紙越センパイの話になると、なっつんいつも言ってますよ。『紙越センパイはウチと違ってすごい。ウチができなかったこと、その日のうちに速攻でやってて羨ましい』って」
……固まった。
一瞬、呼吸の仕方すらわからなくなる。
言葉が出てこない。
口を開くのも忘れて、私はただその場に立ち尽くす。
あの塩対応の権化みたいな夏妃が、そんなことを?
私を、羨ましいと? すごいと?
……嘘でしょ。
「……市川さんが、そんなこと言うとは思えないんだけど?」
「恥ずかしがってるんですよ、きっと。なっつん、そういうところありますから」
茜理はにこにこと屈託なく笑う。
でも私はどうしても、その笑顔を素直に受け止められなかった。
尊敬される覚えなんて一ミリもない。それに──ああ、もう。
「……まあ、いいや」
言いたいことは色々あるけれど、わがままを言っても仕方がない。
諦め混じりに息を吐き、ようやく返事をした。
「わかった……市川さんのこと、見ててあげればいいのね」
「あっ、見てていただけるのももちろんありがたいんですけどぉ……できれば少し、お話もしてあげてくれませんか?」
「話……」
言葉の意味を反芻する。
私が、夏妃と二人きりで話す──何を?
「なっつん、さっき言ったみたいに、ここに来てからずっと落ち込んじゃってるんです……。私の方でも色々話してみたんですけど、あんまり効果なくて」
茜理の声には、心底心配している色がにじんでいた。
たぶん、茜理なりに何度も夏妃に手を差し伸べてきたのだろう。
けれど、届かなかった。
「……あの、さ」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
言いかけて、言葉を飲み込む。
……私はカウンセラーじゃないんだけど?
そもそも、人の心を救えるほど器用でも、優しくもない。カウンセラーがやるという、いわゆる傾聴とかいうのもできそうにない。
それでも、茜理の期待を込めた瞳に見つめられると、どうしても断れそうにない。
私は首を斜めに倒し、茜理の頼みを受ける。
「わかった……でも、あんまり期待しないでね。私、そういうの苦手だから」
そう言うと、茜理の顔がぱっと明るくなる。
目を見開き、嬉しさを隠しきれない子どものように笑う。
「ありがとうございます! なっつんも、きっと大喜びすると思います!!」
「大喜びはない」
茜理との会話を終えた私たちは、拠点の中心部へ戻った。
並んだ椅子の隙間から、赤毛がゆらりと揺れる。
「ただいま、なっつん。大丈夫だった?」
「ああ……うん、大丈夫……。アカリたちは……」
「平気!」
顔を上げた夏妃の表情は、言葉とは裏腹にやつれて見えた。約一年ぶりに顔を合わせるが、頬は少しこけ、目の下にはくっきりと濃いクマ。肌の色もどこか灰色がかっているようにさえ感じる。
数時間、いや、それ以上かもしれない。こんな得体の知れない場所に監禁されていれば、誰だって心が摩耗する。
そう思えば、納得できる変化ではある……あったのだが、私の中には引っかかるものが残った。
視線を向けると、夏妃と目が合った。
数秒だけ視線が絡む。半分閉じた瞼の奥に、乾いた光がぼんやり灯っている。
その目は、気不味そうに──というより、意識的に──すっと逸らされた。
睨まれるでもなく、文句を言われるでもなく。ただ、何も起こらない。
いや、正確には「何もない」という反応そのものが、何かの兆候のように思えた。
本来なら表に出るはずの感情を、夏妃は意識して押し殺している──そう感じた。
私の視線は自然と夏妃の足元へ落ちる。ジャージに隠れてわかりにくいが、右足首に白いタオルがぐるぐると巻かれていた。あまり詳しくはないが、テーピング的な処置なのだろうか。
ケガで動けない。そのせいで役に立つ機会がない。確かに辛くはなるだろう。だが……それだけで、ここまで気持ちは沈むものなのだろうか。
「紙越センパイ! 仁科センパイ!」
思考の底に沈みかけていた私を、茜理の声が引き戻した。少し離れた場所から、弾むような調子で呼んでいる。
「なにー?」
私が振り向くより先に、鳥子が返事をした。
「こっちに濡れタオルとお水があるので、好きに使っちゃってください!」
鳥子と視線が合う。言われて初めて、自分の状態に気づいた。
私も鳥子も、汗でシャツが肌に張りつくほどびっしょりだ。息はまだ浅く、火照った頬を冷たい空気が撫でていく。
そりゃそうだ。あの距離を全力で駆け抜け、同時に襲いかかってきたスタッフを相手にしたのだから。
「行こっか」
「うん」
鳥子の一言に頷き、足を踏み出す。
拠点からほど近いキャビネットの上に、一抱えもありそうな大きなガラス瓶が置かれていた。瓶の側面には蛇口が付いていて、中には水が半分より少し少なめに入っている。ドリンクサーバーだった。
隣にはコップが六つ、さらにその隣には手拭いサイズのタオルがくるくると綺麗に巻かれて積み重なっている。
キャビネットの横にはバケツが置かれ、中には少しだけ水がたまっていた。
「このドリンクサーバーは飲める水なので、好きなだけ使ってください。飲み残しはバケツに捨てちゃってください。濡れタオルはこっちです」
茜理が指先で一つずつ示しながら、簡潔に説明する。
思わず、私と鳥子は「おお」と声をあげた。
「茜理たち、なんか……すごいね。この拠点もそうだけど、水とかタオルとか……完全に適応してるよね。空魚もそう思わない?」
「思う。すごいよね」
「ええっ、そんなことないですよ〜!」
鳥子の称賛に、私も素直に同意する。茜理は照れ笑いを浮かべるが、この状況で生活の基盤を整えるという発想と行動力自体が、異常なほどすごい。比べて、今日の私たちは──ただ歩き回って、走って、戦って。そして汗まみれになっただけだ。
「こういうの、よく揃えられたね」
「えへへ、時間はありましたから」
私が言うと、茜理は赤くなった顔を隠すように、私と鳥子の手に濡れタオルを押し込んだ。
冷たい感触が指先から腕へと染み渡り、火照った肌がじんわりと落ち着いていく。
ああ……これだけで、少し生き返る。
私は濡れタオルを手に取ると、まず顔を拭った。布地のひんやりとした感触が、火照った頬とこめかみをなぞる。額の汗を拭い、首筋をなぞると、そこから両腕へ──湿った肌をタオルがするすると滑っていく。
腹部と胸元も軽く押さえたところで、ふと手が止まった。……背中はどうしよう。服を着たままじゃ、拭きにくい。
「空魚、タオル貸して。背中拭くよ」
後ろから鳥子の声がした。差し出された手に、私は素直にタオルを渡す。
「ありがと。後で鳥子の背中も拭くね」
「そうしてくれると嬉しい」
鳥子は軽く笑い、次に茜理へ視線を送った。
「茜理もこっち来ない? 空魚に背中、拭いてもらったら?」
「きょっ!? い、いいんですか……?」
茜理が、普段なら聞かないような高い声を上げる。その表情は、少し照れたようで、でも嬉しさを隠しきれないような、落ち着かない笑顔だ。
「たしかに、今日は茜理に助けられっぱなしだったね。貸して。拭くよ」
「あ、ありがとうございます……!」
タオルを受け取り、茜理が背を向ける。──その瞬間、私は「あれ?」と声をもらした。
白いシャツの背中側、布がざっくり裂けていて、乾きかけの赤黒い染みが広がっている。その下から、細く赤い筋が裾へと延びていた。
「どうしたの?」
鳥子が不思議そうに訊いてくる。私は茜理に問う。
「茜理、背中も怪我してるの?」
茜理は「あ……」と一瞬だけ言葉に詰まり、気まずそうに後頭部をかいた。
「あー、顔をケガしたときに一緒にやられたやつですね。一発もらったときに、よろけてガラスのテーブルに突っ込んだんです」
茜理は淡々と続ける。また、なんでもないことのように。
「もう、すっかり痛みも引いてたんで忘れてました」
──ん?
胸の奥で、小さな棘のような違和感が引っかかる。
見落としてはいけないものを、今まで見過ごしていた気がした。
理由はまだ……形にならない。
けれど先程、この拠点に足を踏み入れてから、ずっと何かがちぐはぐな気がする。
「大丈夫なの、それ? 空魚、めくって見せてみて」
「……うん」
「いや、全然大丈夫ですよ〜。深くもないし、痛くもないですから」
背中越しに手を振って「平気」をアピールする茜理。その言葉を無視して、私はシャツの裾をそっと持ち上げた。
現れたのは、赤い一本の傷跡。
──すでにかさぶたになっているが、その一部が割れ、淡い血がにじんでいた。あれだけ全身を使って戦ったのだから、無理もない。けれど……。
眉間が自然と寄る。点在していた違和感が、線になってつながる感覚があった。
「ねえ茜理、血が出てるよ。私のバッグに消毒液と絆創膏があるから、それ使おう」
「いや〜、大丈夫ですよ? 空手やってれば、これくらいのケガなんて日常ですから!」
「空手って、こんなケガするの……?」
鳥子の率直な疑問を横耳で聞き流し、私は茜理の肩をぐっとつかむ。喉の奥が、妙に渇いている。
「ねえ、茜理……」
「あ、紙越センパイもっ、これくらいのケガなんて気にしないで──」
「ごめん、その話じゃないんだ」
首を振り、掴んだ肩に力を込める。やや驚いた表情で茜理が振り返るのと同時に、私は一歩詰めて顔を近づけた。
──私の想像を否定して欲しい。私は、そう考えていた。
「茜理。このケガしたの、いつ?」
「え?」
私の質問に一瞬、不思議そうな表情をした茜理だったが、すぐに指を折って数えながら口を動かす。
「ここに来た日にやられた傷なんで──今日で三日前、ですね」
5
「お疲れ、夏妃。ちゃんと眠れた?」
「……うす」
すすっ、すすっ──と小さく足を引きずる音が近付いてくる。
拠点の奥から現れた夏妃は、薄暗い照明に照らされて、目の下のクマが不自然なほど濃く浮かび上がっていた。
どう見ても、「寝てきた人」の顔ではない。
鳥子も同じ印象を受けたらしく、眉をひそめて夏妃の顔をのぞき込んでいる。
私は、バリケード脇に置いた頑丈な椅子から立ち上がり、歩いてくる夏妃の横へ回った。
「肩、貸すよ。市川さん」
「……いや。もう大して痛くないんで」
「いいから。気になるんだって」
有無を言わせない調子で、夏妃の腕をそっと自分の肩へ回す。
夏妃はわずかに私を見たが、反論はしなかった。代わりに視線を床へ落とし、呼吸をひとつ押し殺す。
「私も貸した方がいい? 肩」
「ううん。大丈夫そう」
「そっかぁ」
鳥子が座っていた木製の椅子を引き、私はそこへ夏妃をそっと座らせる。
そのまま向かいの椅子に腰を下ろすと、ひやりとした空気が首筋を撫でていった。
バリケードの向こうには、黒い海のような暗闇が広がっている。
動きもしない。音すら立てない。
なのに、こちらにじわりと寄り添ってくるような、妙な圧がある。
見られているわけでも、追われているわけでもないのに、どうにも落ち着かなかった。
茜理の提案で、夜間はスタッフの襲撃に備えて見張りを立てることになった。二人一組のローテーション制。
今は私と鳥子の番で、夏妃は鳥子の交代要員として起きてきたところだ。
拠点の奥には、シングルベッドが二つ、肩を寄せ合うように並んでいる。夜の間は交代でそこへ潜り込み、ほんのわずかな眠りを拾う。
けれど、この闇の中で完全に気を緩めるなんて、どう考えても無理だ。
「じゃあ、私、寝てくるね。おやすみ夏妃」
「はい……お疲れっした」
鳥子が夏妃の肩にそっと手を添える。
その一瞬の接触に、夏妃はわずかに身を揺らし、小さく会釈した。
「お疲れ、鳥子。おやすみ」
「うん。おやすみ、空魚──愛してるよ」
鳥子が私の頬に、軽く唇を触れさせた。
チュッ、と小さな音が耳の奥に刺さる。
反射的に、頭の中が真っ白になった。
隣には──夏妃が座っている。
心臓が跳ね、肺の奥がきゅっと縮んだ。
──いや、さすがにTPOというものがあるのでは!?!?
「あ、あお、おやすみ……鳥子。あ……愛してる」
ひどく情けない声が自分の口から漏れた。
その瞬間を、夏妃は確かに目撃していた。
淡い表情のまま、こちらを一瞥する。
何か言いかけたようにも見えたが……結局、何も言わず、ゆっくりと視線をバリケードの外へ逸らした。
「それじゃあね。また後で」
「あ……うん。また後で」
鳥子が軽く手を振り、奥の暗がりへ消えていく。
その途端、周囲の空気がひんやりと冷たくなる。
耳が痛くなるほどの静寂。
私と夏妃の間には、会話の欠片すら落ちてこない。
まあ、そこまで親しいわけでもないのだ。無言が続くのも自然なはずなのに……居心地はまるでよくなかった。
私は努めて夏妃を視界の端に追いやり、バリケードの隙間から見える暗闇に目を向ける。
変化のない時間が、どろりとした粘度を持って流れていく。
退屈を持て余した脳が、勝手に数時間前の記憶を引きずり上げる。
思い出したいとも思ってないのに、ふいに浮かんできた場面だった。
「ここに来た日にやられた傷なんで──今日で、三日前ですね」
あっけらかんとした茜理の声に、私も鳥子も、同じタイミングで言葉を失った。
沈黙が、じわりと茜理の方へ滲んでいく。
その空気に気づいたのか、茜理は両手を慌てて振りながら半歩後ろへ下がった。
「えっ……あの? 私、変なこと言いました……?」
鳥子と顔を見合わせる。鳥子が小さく頷く──話してしまおう、という合図だった。
「茜理。よく聞いてほしいんだけど……私と鳥子は、今日の午後にここへ来たの。茜理たちの時間で言えば……『迷い込んだ日の午後』になる」
言い終わってから、自分の声がやけに乾いていたことに気付く。
喉の奥がひりついて、唾を飲み込む音だけがやけに大きく響いた。
鳥子も横で小さく頷く。
ポカンとしていた茜理が、顎に手を添え、眉を八の字にひそめて考え込む。
「ええと……それは、どんなふうに解釈すれば……?」
「たぶん、ここの中と外とで時間がズレてるんだよ」
鳥子が静かに言った。
その言葉に、茜理は徐々に真剣な表情になり、私と鳥子の顔を交互に見つめる。
「……私となっつんは、外で行方不明になっていて……三日経ってからセンパイたちに助けに来てもらえた、みたいな話だと思ってたんですが……そういうのではなく?」
「違う。私たちの中で、茜理たちと連絡が取れなくなってから、まだ一日……どころか二十分も経ってないんだ」
「時間がズレてるって……映画とか漫画とかでよくありそうな、そう言うのですか?」
「よくありそうかは知らないけど、うん。そういうやつだと思う」
「……なるほど。──わかりました」
茜理は深く一度頷いた。
その顔は、まごうことなく真面目だった。
納得してくれたようだった。
………………。
「え、それだけ?」
思わず顔を寄せる。
茜理は、真剣な表情のまま、きっぱりと言った。
「紙越センパイと仁科センパイが、こんな状況で、変な嘘をつくわけないじゃないですか。信じる以外に、ないですよ」
そう言い切る声に、迷いはなかった。
「お、おお……そっか」
背筋に冷たいものがすっと走った。
もし今の会話で私がおふざけをしようものなら──茜理はその冗談すら信じてしまって、後で全て裏切られたように感じたのではないだろうか。
そう考えると、喉がきゅっと狭まる。
後輩からの信頼が重い。
「あー、そっか……茜理たち、三日もここにいたから、この拠点、いろいろ整ってたんだね」
鳥子が場の緊張感を和らげるように、柔らかく言った。
「ちなみに、この拠点も茜理と夏妃が作ったの?」
「あ、いえ。拠点自体はもともとあったのを初日に見つけて、なっつんと勝手に使ってるだけです」
「ああ、やっぱり。二人でここまで大きいのは作れないもんね。誰が作ったんだろう?」
「えーと、わからないですね……。すみません」
私は顎に手を添えたまま、別の疑問を口にする。
「それにしても、どうしてこんなに時間の食い違いが起きたのか、少し気になる」
「たぶんですけど、IKEAに入った順番に関係があるんじゃないかな……って思いました。確信はないですけど」
茜理の仮説に、私と鳥子は小さく頷いた。私の中でも、おおよそ同じ答えに辿り着いていたからだ。
「私となっつんは、センパイたちより到着が早かったですよね。それで、先に中へ入ってたんです」
茜理の説明に、私は静かに頷く。
「迷い込んだのがいつ頃かはわかる?」
「たぶんフードコートに着いたあたりです。でも、IKEAに入った瞬間から、何となく変だな……とは感じてました。『猫の忍者』に襲われた時みたいな、あの感覚に近かったんです。……あの時、自分の勘を信じてお店に入ってなければ、センパイたちもなっつんも、こんな結果にはなってなかったですよね……」
眉を寄せ、肩をすくめる茜理の表情が、一瞬だけ曇る。わずかな間そうしてから、ふと思い出したように顔を上げた。
「あの……話変わるし、今更過ぎてすごく失礼なんですけど……小桜さんと霞ちゃんは、大丈夫なんでしょうか?」
もっともな質問に、私は短く答えた。
「正直、分からない」
そして少し間を置き、続ける。
「入店は一緒にしたんだけど、すぐに二人とは別行動してたからさ。でも──」
「でも、きっと無事だよ」
鳥子が私に目を向ける。
「そうだよね、空魚?」
「うん、まあ……」
私と鳥子のやり取りに、茜理は興味深そうに目を見開いた。
「もしかして……小桜さんたちの安否を確かめる方法、あるんですか?」
「安否というより……位置情報かな」
「位置情報……?」
茜理が腕を組み、眉をひそめる。
「GPS……?」
「まあ似たようなもんかな」
「それじゃわからないよ。ほらあの……」
私の横で鳥子が両手を組み、四角を作って見せる。
「IKEAのフロアマップ、わかる? あれ、人の位置が赤い点でリアルタイムに表示されるんだ。私たちが見たときは三箇所に点があった」
「えっ? あのマップ、そんな機能あったんですか?」
「うん。でも、小桜たちの点は途中で消えちゃった。たぶんだけど、小桜は霞の能力で先に脱出したんだと思う」
私は口を挟む。
「正確には『小桜さんと霞と思われる誰か』の赤点だけどね。確信はない」
「そうですか……」
茜理は驚きと納得が入り混じった顔で頷いた。
「でも、それなら少しは安心です。小桜さん、格闘技とかやってなさそうで、身を守る方法なんてないですし……それに私、マップをただの案内板だと思ってて、あんまりまともに見てませんでした。この拠点を出入りする時に見るくらいで。その時は印も一箇所だけでした……」
「まあ、茜理たちからすれば仕方ないよね。私たちが来るまでの三日間、マップには何の変化もなかったはずだし」
「そうだね」
私が頷くと、鳥子がハッとしたように疑問を呈した。
「あれ? じゃあ、どうやって私たちが襲われてるときに現場に駆けつけられたの? マップ見てないなら、私たちの居場所わからないでしょ?」
そう尋ねられると、茜理は少し困ったような笑みを浮かべた。
「あ、はい。何度も遠くから銃の音が聴こえたので、その音に向かって行ったんです。チラチラ光も見えてたので」
「あ、そっか」
私は納得する。バンバン撃ちまくっていたのだった。そりゃ気付くか。
しかし、フレンドリーファイアは怖くなかったのだろうか……なんとなく茜理なら「誤射されても大丈夫」とか言い出しそうで、ちょっと訊ねるのが怖い。
いやいやと、私は頭を振って雑念を横に置いた。
「でも、本当に危ないところだったからさ、助かったよ」
「茜理、すごいタイミングで助けに来てくれたよね。かっこよかった」
「あはは……」
私たちの感謝に、茜理は決まりが悪そうに笑う。
「実は……あれでも、遅れた方なんですよね」
指先をもてあそびながら、視線を少し落とす。
「……私、なっつんから、あんまり離れたくなかったんです」
言葉はそこで詰まり、短く息を吐く。
「こんな所……何があるかわからないし。銃声だって、ほぼ間違いなくセンパイたちのだってわかってたんですけど……もしかしたら罠かもしれない、って思うと……」
眉を寄せ、声がほんの少し揺れる。
「そのまま、スタッフに囲まれたりするんじゃないか、とか……考えちゃって。空手にも一応、限界はあるので……」
言葉の端がかすれる。
「そうじゃなくても──」
茜理は一瞬、拠点の中心部を振り返る。什器が邪魔で見えないが、その先にはきっと夏妃がいる。
「なっつんと一回離れたら……こんな場所だし、もう会えなくなるんじゃないかって……毎回……」
一度言葉を切り、茜理は小さく息を吸った。
「それが、すごく怖かったんです」
私は頷いた。
「それはそうだよね」
「でも、結局は『センパイたちが助けに来てくれていて、スタッフに襲われてるんじゃないか? 何かあったんじゃないか? このまま放っておいたらまずいんじゃないか?』って話になって。なっつんと相談して、私が迎えに行くことになったんです」
「市川さん、茜理が危ないのに反対しなかったんだ?」
意外そうに言う私を見て、茜理の様子が変わった。
「ぁうー……」
茜理は気まずそうに視線を泳がせる。
「危ないから、行かない方がいいかも……って話は出ましたよね……当然?……あ! でも最後は、センパイたちが危ないから迎えに行った方が良いって、賛成してくれましたよ。なっつんは!」
「……そっか」
なるほど。
茜理の言動から汲み取るに……だいぶ強硬に反対したんだろうな、夏妃は。
まあ、当然と言えば当然か。逆の立場でも、私だったら反対意見の一つや二つくらい出すだろう。
しかし、夏妃が折れるのがあと少し遅かったら、私たちはどうなっていたかわからない。ぶっちゃけ、マカロフは弾切れ、AKは組み立てが間に合わずで死んでいただろう。そういう意味では、夏妃が反対の意思を折れてくれていたことで、私たちは命を紡いだわけだ。
……本人には皮肉か嫌味に聞こえるかもしれないが、ここは感謝の一つくらいしておくべきだろうか。
「市川さんには……一応ちゃんとお礼言わなきゃかな」
「ね。夏妃も、茜理を危ないところに送り出すのも、足を怪我した状態で自分一人で取り残されるのも、きっとすごく怖かっただろうから。ちゃんと『ありがとう』って伝えなきゃね。でも──」
鳥子が不意に茜理に近付き、正面から柔らかく抱きしめた。
「一番すごかったのは茜理だよね。ありがとう。空魚と私を助けに来てくれて」
「えっ!? わっ、わあ〜……えへへ」
茜理は嬉しそうに鳥子のハグを受け入れ、背中に手を回す。
数秒、無言で抱きしめていた鳥子が、首を巡らせて私に向かって言った。
「ほら、空魚も」
「え?」
急に話を振られ、私は思わず身を引いた。
カナダでの習慣は知らないが、日本育ちの、しかもバリバリな陰キャの私にとって、ハグはそんなに簡単な行為ではない。
そんな私の逡巡を見透かしたように、鳥子がクイクイと手招きする。
「茜理は命の恩人だよ? ハグくらいはしないと」
その理屈は正直よくわからない。
でも、鳥子の腕から解放された茜理がこちらを見ているのを前にすると、断る言葉は出てこなかった。
私はぎこちなく、一歩踏み出す。
茜理は私の動きに合わせるように振り返り、そっと腕を広げた。
もともと血色の良い頬が、さらにほんのり朱に染まっているのが、明らかにわかる。
……身長が、私よりも高い。
こんな状況で、こんなことに気づくのもおかしいけれど──なんとなく、それが意外だった。
「えっと……じゃあ、するよ?」
「はいっ、お願いします!」
やけに張り切った声に、私は観念してその体に腕を回した。
……柔らかくて、弾力がある。
思っていたよりもしっかりした温もりが返ってきて、少しだけ体がやわらいだ。茜理の体温がじんわり伝わり、胸の奥がくすぐったい。
「ありがとうね、茜理」
「はいっ!」
「うん……あったかいね」
口に出すと少し照れくさいけれど、本心だった。
──色々な偶然と判断が重なって、私と鳥子は生き延びてきた。
一つでも違っていたら、ここにはいない。
そのことを思うと、茜理の温かさが深く深く胸に沁みた。
私たちは夏妃へ感謝を伝え、現状を整理、共有するために、拠点の中央へ足を向けた。
什器の隙間から見えたのは、こちらを窺うように座る夏妃の姿だった。
目が合うと、夏妃はびくりと肩をすくめ、小さく身を縮める。まるで、これから叱られるとわかっている子どもみたいに、慌てて視線を逸らした。
……やっぱり、何かを抱え込んでいる
私たちの救出を渋ったことを気にしているのか。あるいは、別の理由か。
どちらにせよ、その重苦しい横顔は、さっきまで茜理が浮かべていた無邪気な笑顔とは正反対だった。
私たち三人は椅子を引いて、輪になって座った。
私は夏妃の正面に、鳥子は私の隣に。茜理は夏妃の隣に腰を下ろし、水の入ったカップをそっと差し出す。
各々が口に運ぶ水。……けれど、夏妃だけは俯いたまま、コップの中を覗き込み、指先だけが僅かに揺れていた。
──見ているだけで、胸の奥が詰まる。
責める理由なんて、何一つないのに。今のところは。
夏妃はなぜ、こんなにも気分を落としたままなのだろう。
この先、一緒に行動していくのに、ずっとこの調子でいられてはたまらない。
私がどう口を開くか思案していると、静寂を破ったのは、夏妃自身の動作だった。
ゆっくりと顔を上げる。瞳には、訴えたい気持ちと、それを押し殺そうとする迷いが入り混じる。
その次に向けた視線は、鳥子へ。助けを求めるようで、怯えたようで、どこか複雑だ。
「どうしたの? 夏妃。ずっと元気ないよね」
鳥子の声は柔らかく響く。しかし、夏妃はまた視線を落とす。正面で小さく丸まった肩が、微かに震えていた。
沈黙が長く、重く、部屋の空気を押し潰す。
そして、夏妃は茜理に向き直る。その動作を、私と鳥子は無言で見守った。
茜理は首を大きく横に振り、夏妃の袖をきゅっと掴んだ。目で制するように、夏妃に「何もしなくていい」と伝えている。その必死さが、かえって事態の深刻さを際立たせるようだった。夏妃と茜理はヒソヒソと小声で話し始めた。
……そんなに、まずい話なのだろうか。
私と鳥子は、言葉を挟まず、ただ夏妃の次の行動を待つ。
息をひそめ、空気が張り詰める中、時間だけがじわじわと流れていく。
「やっぱウチは、ちゃんと言った方がいいと思う……」
「いいよ、まだ言わなくていいよっ」
声を潜めながらも、二人の応酬は次第に熱を帯びていく。時計を見れば大して時間は経っていないはずなのに、妙に長く、重苦しく感じられた。
……もう、直接訊いてしまってもいいのではないか。
口を半分開きかけた私より先に、鳥子が淡々と核心を突いた。
「夏妃が言いたいことって、このIKEAのことだよね? 茜理が止めるってことは……夏妃が何かのトリガーを気付かずに引いちゃって、まずいことになったのかもしれない。どうしよう。……そういう話でしょ?」
ぴたり、と二人の動きが止まる。夏妃も茜理も、驚いたように目を見開き、鳥子を凝視した。
一応、私もそこまでは読めていた。
多分、夏妃が何かやらかした。
その結果、ここに至る何かが起こった。
夏妃はともかく、茜理はそれを私たちに隠そうとしている。理由は……まだわからない。単に怒られたくないだけかもしれない。
「大丈夫。どんな話でも私たちは怒らないから。ね、空魚?」
「え?……う、うん」
──それは、モノによるぞぉ……?
私は心の中で呟いた。
黙って考えを巡らせていると、茜理がこちらを向くように座り直した。口を開く。
「あ……あのっ!」
「うん。なあに?」
鳥子の声は優しく、緊張を和らげるように響く。茜理は少し肩の力を抜き、私と鳥子に懇願するような視線を向けた。
グイっと茜理が身を乗り出す。声は震えているが、必死に言葉を繋ぐ。
「あ、あのっ、なっつんは、全然悪気なんてなかったんです! 私のために、してくれたことなんです。だから……怒るなら、私を──」
「はあ!? なんでだよ!」
それまで小声だった夏妃が、慌てた様子で立ち上がる。
「ウチがひとりで勝手にやっただけ! アカリ、なんも悪くねえじゃん!」
「でもっ、私が……!」
茜理の声も勢いを増す。二人の間で言葉が交錯し、空気が一気に張り詰める。
私は思わず息を呑み、次の展開を待った。
……夏妃が折れるのか、茜理が押し切るのか。どちらにせよ、この瞬間、緊張の糸は極限まで張り詰めている。
声のボリュームは、互いに押し合うみたいにじわじわ上がっていた。空気が緊張の匂いを帯び始め、私は一度息を吸い、うんざりした気持ちを飲み込んでから、割って入った。
「結局どうしたの? 市川さんが何かやらかしたとしても……さっき鳥子が言ってたように──もちろん限度はあるけど──私たちは大抵のことは許すよ。私だって今まで散々やらかしてきたし。それに裏世界はこっちの想像を平気で踏み越えてくる。ここは、そういう場所なの。だから、気に病まずに話してみてよ」
「うん。ほんとだよ。話してみようよ、夏妃」
鳥子が静かに背中を押すと、二人の肩からほんの少しだけ強張りが抜けた。茜理が夏妃を見つめ、夏妃も茜理の視線を受け止める。
数秒の沈黙。
夏妃はコップを掴み、一気に水を飲み干した。喉の奥に溜めていた何かを押し込むように息を吐き、その勢いのまま、私たちをまっすぐ見据えた。
「あの、いいっすか。……違う。いいですか」
一瞬だけ言葉を探し、夏妃は小さく息を吸った。
「……話します」
さっきまでの砕けた口調を急に正して、夏妃は座り直す。声は喉の奥で震えていた。つっかえるたびに、聞いているこっちの胸まで締め付けられる。
「うん。どうぞ」
「紙越センパイなら……知ってるかもしれないんですけど……」
夏妃は身を乗り出し、ぎゅっと唇を噛んだ。
そして、覚悟を決めたように息をひとつ吸い、口を開く。
「……『SCP』って、知ってますか?」
「え?」
──SCP。
その単語が空気を割って出た瞬間、私の思考が一拍遅れた。……まさかここで、しかも夏妃の口からその単語を聞くことになるなんて、想像もしていなかった。答え方を迷っていると、何を誤解したのか、夏妃の顔色がみるみる蒼く曇っていく。
すると突然、夏妃が自分の前髪を乱暴に掴んだ。ぐいと引き寄せ、次の瞬間には両手で顔を覆う。自分自身を押し潰して、消そうとでもするような、見ていてヒヤリとする動きだった。
私は反射的に腰を浮かせながら、思わず鳥子に視線を送った。
鳥子が息を飲み、前に手を伸ばした。止めようとしたのだろう。
しかし、それより一瞬早く、茜理が夏妃の両手をそっと包み込む。抵抗させないように優しく、膝の上へ下ろしていった。
その声は、ひどく繊細なものを扱うみたいに柔らかかった。
「大丈夫だよ、なっつん。なっつんのせいじゃないって、何回も話したでしょ? センパイたちも言ってくれたじゃん。誰も怒ってないよ。……話したくないなら、いまは無理に話さなくていいの。あとでゆっくり……ね?」
「う、うぅ……」
夏妃の喉から、押し殺したような低い唸りが漏れる。歯を噛み砕いて、血を吐くんじゃないか──そんな想像が、頭をよぎった。
「アカリはそう言うけどさぁっ……どう考えても、ウチのせいじゃん、それに──」
「それでも違うよ。ね?」
茜理が顔を上げ、まっすぐな眼差しを私に向ける。
その視線を受け止めきれず、私は思わず息を飲んだ。
「センパイ。SCPって、知ってますか?」
「……知ってはいる、けど」
「やっぱり。さすがですね、センパイ」
茜理は落ち着いた声で言ったが、隣の夏妃はまだ手元を震わせていた。
指先が落ち着きなく重なってはほどけるのを、私はちらりと目に留める。
鳥子が私の肩に軽く触れ、首をかしげた。
「ねえねえ。SCPってなに? そんなに怖いやつなの?」
「どうだろ。……あんまり詳しくないんだよね。興味がなかったっていうか」
「あれ? そうなんだ」
鳥子の目が丸くなる。
拍子抜けしたみたいなその表情が、妙に無防備で、逆に場の緊張を際立たせた。
「じゃあSCPって、どういうモノなのかも知らないの?」
「SCPは……そうねぇ」
私は顎に手をあてる。
頭の中で言葉を並べ替えながら、どこまで噛み砕くべきか考えた。
前提知識ゼロの鳥子にも伝わるように、言葉を慎重に選ぶ必要があった。
「一言で言うと……ネットでユーザー同士が書いた『創作怪談』を共有するサイト。そういう認識で合ってるはず」
確認するように茜理に視線を送ると、茜理は小さくコクリと頷いた。
「ああ、空魚は『実話怪談』派だもんね。作り話だから興味なかったんだ」
「ん。まあ、そういうこと」
軽く頷きつつ続ける。
自分でも、どこか言い訳めいて聞こえるのが少し気になった。
「でもSCPにも面白い話はあったよ。読み物として完全に刺さらないわけじゃなかった。ただ難解なのが多いんだよね。文章も凝ってるし、取っつきにくいっていうか」
「ふーん……なるほどね?」
鳥子はまだ霧の中を歩いているみたいな顔をして、曖昧に頷いた。
「だから『SCPを知ってる』って程度で、私はほんの触りしか読んでない。最後までちゃんと読んだ話のほうが少ないと思う」
私は鳥子から視線を外し、茜理と夏妃を見る。
「それで……SCPの話が出てくるってことは、このIKEA迷宮が、SCPにそっくり──そういうこと?」
二人は、一瞬、表情の奥を隠すように視線を交わした。
言葉を探すというより、答えを出す覚悟を確かめ合うみたいに。
わずかな沈黙。
空気が張りつめ、時間だけが引き延ばされたように感じる。
その数秒が、やけに長く感じられた。
──悪い予感が、背骨を這い上がってくる。
「……はい」
「そうっす……そうです」
ふたりは深く、ゆっくりと頷いた。
否定の余地を残さない、その動きだけで十分だった。
胸の奥がひりつく。
息を飲み、喉の奥が乾く。
じわじわと心臓が熱を帯びていくのがわかった。
脳裏に浮かびかけた「不吉な答え」を押し込みながら、私は茜理が言った単語を、もう一度ゆっくり噛みしめた。
──SCP。
知っている。けれど、ほとんど何も知らない。
名前と断片的なイメージだけが、重なっている。
ただ一つ、うっすら理解していることがある。
それは、投稿されている話のほとんどは、ろくでもない結末で終わる。ということだ。
そのイメージが、胸の奥に小さな棘みたいに刺さっていた。
抜こうとすると、もっと深く食い込みそうで、私はそのままにしていた。
だからこそ、私は無意識に訊き返していた。
「……今回のSCPって、具体的にどんな話なの?」
すぐには返答が返ってこない。
代わりに、夏妃の指先が落ち着きなく揺れ、やがて自分の膝をぎゅっと掴んだ。
爪が食い込むほどの力に、胸の奥がひやりとする。
その仕草に、場の空気がほんの少し沈下した。
それでも──夏妃は静かに口を開いた。
茜理と夏妃が断片的に語る内容を、私は頭の中でゆっくりつないでいった。
〈SCP-3008 完全に普通のIKEA〉
正式なタイトルは……長くて、二人とも覚えていないらしい。
──それは、一見どこにでもある、ただの古びたIKEA。
ただの家具屋で、ただの郊外型ショッピングモール。
なのに、一歩でも中に入ったら最後、建物そのものが別物になる。
本来なら外観から想像できる規模なんてたかが知れているのに、内部は果てしなく続く迷路と化し、売り場ごとの区画だけが永遠に連なっている。
キッチンコーナー、ソファ売り場、照明、雑貨。
見覚えのある配置が、少しずつ形を変えながら繰り返される。
どれも似ているくせに、同じ場所はひとつもない。
そして、なにより問題なのは……夜。
照明がすべて落ちた瞬間、「スタッフ」と呼ばれる怪物が動き出す。
その姿形は様々だが、背の丈二メートルを優に超える個体も少なくない。
やたらと長かったり短かったりする手足。
顔には目も鼻も口もないのに、確かに「見られている」感覚だけが残る。
そんなのが、夜になると獲物を探して歩き回る。
そして、声をあげて繰り返す。
まるで決まり文句のように、淡々と。
「営業時間外です。退店をお願いします」
笑えない冗談みたいだが、本気で言っているらしい。
言葉通りの意味で。
退店させる方法が「殺すこと」しかないだけで。
だから迷い込んだ「客」──私たちみたいな人間は、夜になる前に食料と寝床を確保して、物陰に隠れ、声ひとつ立てずに朝を待つしかない。
生き延びる。
それ以外の目的は、許されていない。
ただそれだけを目的に、何日も、何週間も、何年も、何十年も。
夏妃たちの話によれば、それが〈SCP-3008〉と呼ばれている場所の「物語」なのだという。
「物語」と呼ぶには、あまりにも物騒すぎるけれど。
──馬鹿げている、と切り捨てられたなら、どれだけ気楽だっただろう。
二人の話が途切れると、シン……と、耳鳴りのような音がした。
沈黙が、その場に降りてきて、じっと居座っている。
四人分の呼吸音だけが、やけに大きく感じられた。
その無音を壊したのは、鳥子だった。
「とにかく……今日はもう休んだほうがいいよね。もう深夜だし……あ、でも。スタッフがまた襲ってきたら、どうしよう……」
その一言で、場の空気がぴんと張り詰めた。
あの化け物たちの姿を思い出しただけで、喉の奥がひやりと冷える。
「あの……交代で見張りをするのは、どうでしょう。ベッドも二人分しかないですし、それなら、ちょうどいいかと」
茜理が、控えめに提案した。
異論を挟む者はいなかった。
互いの顔を見合わせて、自然と頷き合う。
決めた、というよりは、決めさせられたに近い。
誰もが心の奥底で、「眠るのは怖い」と思っているのだと、はっきりわかった。
そして──数時間後。
私は夏妃と並んで、バリケードの隙間に押し込むように置いた椅子に腰を下ろしていた。
暗がりに視線を向けながら、胸の奥で跳ねる自分の鼓動を数える。
耳だけが妙に冴えて、わずかな物音でさえ、刃物を研ぐ音みたいに、やけに鋭く聞こえた。
遠くで何かが軋むような音がした気がして、反射的に喉が鳴った。
少し冷えた空気が肺に入り込み、胸をきゅっと締めつけた。
……こうして、私と市川夏妃の見張りが始まった。
6
私は腕時計をちらりと確かめた。
夏妃との見張りが始まってから、これで何度目の確認だろう。針の動きが、やけに鈍く思えた。
私と夏妃の間には、ずっと会話がなかった。
沈黙が、ふたりのあいだにゆっくり積もっていく。触れたら粉になって崩れそうな、乾いた静けさだった。
バリケードの向こう、暗闇の底で、どこかの棚が軋むような音がした気がした。
そのたびに耳がそちらへ引き寄せられ、心臓が、意味もなく跳ねる。
視線の端で、夏妃の横顔を盗み見る。
夏妃は身をかがめ、肘を膝に乗せたまま、暗がりをぼんやり見つめていた。
その表情は……なんと言えばいいのか、表現が見つからない。
言葉になりかけたものを、何度も飲み込んでいるように見えた。
唇がかすかに動いては止まり、小さなため息だけが空気を震わせる。
やがて夏妃が顔を上げ、私と視線が正面からぶつかった。
そのまま、夏妃の唇が──何かを言おうとして、止まった。
暗がりの色を宿した瞳に触れた瞬間、胸の奥を、ざらりと逆撫でされた。
私は耐えきれず、そっと視線をそらした。
闇の方へ逃げるみたいに。
わずかな静けさでさえ、息苦しかった。飲み込んだ言葉の重さが胸に沈んでいく。
そのとき、夏妃が、ぽつりと言った。
「申し訳ないっす」
「え?」
唐突な謝罪に驚き、思わず首を巡らせた。
夏妃は背筋を少し起こし、暗がりの中で、まっすぐ私を見ていた。
その表情は、決意とも諦めともつかない影をまとっていた。
なにが?──と訊く前に、夏妃は小さく息を吐き、続けた。
「ウチ、ぜんぜん愛想とかなくって……だるいっすよね。ウチと一緒にいると」
「え、いや……」
うん、そうだね。
とは、さすがに言えなかった。
むしろ、夏妃が自分の態度に自覚を持っていたことに驚く。
──いや、自覚あるなら、なおさらダメだろ。
心の中だけでツッコむ。
夏妃は俯いたまま、ぽつぽつと、言葉を絞り出した。
「センパイに失礼なこと言ったり、態度悪かったり……自分でもわかってるんすよ。……いや、わかってんなら、やめろよって話なんすけど」
「……うん。まあ……」
反応に困り、曖昧な相槌だけが口から出た。
何を言おうとしているのか。どこまで話すつもりなのか。
少し期待して、黙ってみたが、夏妃は再び視線を膝へ落とし、そこに沈むように黙り込んでしまう。
……モヤモヤが募った。
これ、このまま放置したら、ぜったい後悔するやつだ。
私は汗ばみ始めた手のひらをズボンでぬぐってから、身体を少し捻って夏妃の方へ向き直る。
言わないなら、こっちから訊く。
待つのは、私の趣味じゃない。
「市川さん、ちょっといい?」
思ったより低くて、強い声が出た。
夏妃は、突然ビンタでも食らったみたいに、肩を跳ねさせ、ぱっとこちらを見る。
「え、あ、はい」
「まだ何か、話したいことがあるんじゃない?」
夏妃の返事に被せるように言う。
夏妃は完全に虚を突かれた顔で、目を白黒させていた。
よし。──押せる。
「まだ隠してることとか、後ろめたいこととか、……言いたいことがあるんじゃない?」
「…………」
夏妃が口をつぐむ。その沈黙ごと押し流すように、私は続けた。
「だってさ、市川さんが茜理とSCPの動画を見て、それが原因でIKEAに閉じ込められたんじゃないか──って話は、もう出てるよね。もちろん、その罪悪感がすぐに割り切れる話じゃないのはわかる。周囲を巻き込んだっていうんだから、責任は感じると思う。でも……それにしたって、落ち込み方が少し違うんじゃない? 深く考え込み過ぎてるように見えるんだよ。どうなの?」
そこまで言われて、夏妃は小さく身をよじって、右手でうなじを押さえた。
視線が泳ぎ、暗闇の奥をさまよった。
「……どうって、言われても……」
言葉はそこで途切れた。
唇がわずかに動いたまま固まり、眉間に小さな皺が落ちる。胸の中で何かを整理しきれず、詰まらせているのが伝わってきた。
「完全にじゃなくても、このIKEAの話は一旦落ち着いてるじゃん? じゃあ、今そんなに沈む理由って何? そのままだと鳥子も茜理も心配するし……私だって、気になる。話してよ。少しくらいなら、解決の手伝いできるかもしれないし」
そう言うと、夏妃は眉間の皺を深くして、視線をまた逸らした。
膝の上で指先をいじり続ける。かすかに震えているのがわかった。まるで、チワワの子犬だ。
私は内心で首を捻った。本当に、夏妃の考えていることが読めない。
──というか、もしかしてだけど……これ、そんなにも話したくないことなのだろうか。
ふと、そんな思考が脳裏をよぎる。
だとしたら……やってしまったかもしれない。私の浅はかさが。
無遠慮に踏み込んで、地雷を踏み抜く。得意技みたいになっているのが本当に嫌だ。
私は内心で、自分の額をバシンと叩いた。
誰にだって、触れられたくないところのひとつやふたつある。
もしかすると私は今、その「触れてほしくない領域」を、こじ開けようとしているんじゃないか?
……この追及は、本当に正しいのか。
そう思った瞬間、胸の奥に澱が重く降りた。
私は唇をきゅっと引き結び、数秒だけ呼吸を整えた。
「市川さん」
呼びかけた自分の声が、思ったより静かで、かすかに震えていた。
呼ばれた夏妃は、ゆっくりと視線を戻して私を見た。
その目には、言葉の出口を探しあぐねている緊張が宿っていた。
「あのさ、本気で話したくないなら……やっぱりいいから。ごめん。無理に聞き出そうとして、悪かったね」
「あ……いや、そんなんじゃ……」
夏妃は慌てたように首を横に振ったが、その動きには力がなかった。
視線は私の肩口あたりをうろついて、落ち着く場所を見つけられないままだ。
吐き出したいけど怖い。そんな揺れが、そのまま顔に出ていた。
「市川さんが元気ないのも気になるけど……市川さん、あんまり私に塩すぎてさ。ほら、私が茜理を狙ってる……『イケイケのビアン』って誤解は、だいぶ前に解けてるよね?」
「それは……はい。そう、なんすけど」
夏妃はひとつ大きく息を吸い、そのまま吐くときに肩がかすかに震えた。
何かを決める寸前の、人がほんの少しだけ弱くなる瞬間だった。
「……ガチな話、していいすか」
その声は、今までとは違っていた。
言葉の重さがひとつ増えたみたいに、低く、真っ直ぐに。
私は黙って頷いた。
「ちょっと……正直に全部吐きます。ウザいことも言うかもしれないすけど……。でも、言います」
胸の奥のどこかを探りながら話しているような声音だった。
夏妃は唇をぎゅっと噛み、迷いの痕跡をそこに残したまま私を見つめる。
「……どうぞ」
私は手のひらを軽く向け、続きを促した。
暗がりのなか、空気がすっと細く張りつめた。
「──シット……っすね。センパイへの……シット。それっすよ、やっぱ」
「…………」
うん?
耳に入った音が、意味として頭に引っかかるまで妙に時間がかかった。
シット……嫉妬?
反射的に、胸の奥を指で突かれた気がした。
私に……?
「え、何の?」
脳が追いつかず、思わず素で聞き返してしまった。
さっき確認したように、私が茜理に気がないことは夏妃も理解している。
じゃあいったい、私のどこが嫉妬の材料になるのか。
夏妃は、じとりとした目つきでこちらを睨みつけてきた。
「センパイは……いいっすよね。やるときはちゃんとできる人で」
さっき茜理から聞いた話だった。
……本当に言ってたんだ。
私は少しだけ仰け反る。
「えっと……そうかな?」
「はい。マジでリスペクトっすわ」
その声は、褒めているようで、刺してくるようでもあり……どちらとも取れて、判断に困る。
リスペクトと言いながら、目はぜんぜん尊敬していない。むしろこれは完全に不満の色だ。
夏妃の声の端に滲む苛立ちが、胸に小さな棘のように引っかかった。
「ごめん。あのさ……今って、具体的に何の話してるの?」
「は? センパイ、とぼけてます?」
「いや、とぼけてはないけど」
夏妃は大きくため息を吐き、頭をがしがしと揺らすように振った。
「だから、センパイが羨ましいって話っすよ。単純に」
「……私、が?」
意図を測れず、私はじっと夏妃の表情を探った。
薄暗い照明の下、夏妃の眉間に寄った皺が、どこか苦しげに見えた。
「やっぱ……とぼけてます? センパイ」
「いや、本当にわからないんだってば」
夏妃はむくれたように唇を尖らせ、しばらく沈黙したあと──ぽつりと、露が落ちるみたいな音を立てるように言った。。
「ウチ、センパイのこと……ちょっとイラついてたんすよ」
その瞬間、背筋が伸びた。
来るかもしれないとは思っていた。でも、真正面から言われると、胸の奥がざわついた。
「それは、どうして?」
軽く問い返すと、夏妃はすぐには答えなかった。
視線を落とし、指先同士をいじり、喉の奥でかすかに音を鳴らす。
言いづらい、でも飲み込めない──仕草の端々にそれがにじむ。
数秒して、ようやく声が出た。
「……ウチは茜理との関係、全然進んでなくって。うまくいってないのに……」
かすれた声だった。
「センパイはウチからアドバイスもらっただけで……すぐ仁科センパイといい感じになって……いや別にウチのおかげで、とかいうつもりはないすけど」
夏妃の肩がわずかに震える。
責めている、というより、自分に刺さった棘を、そのまま掴んで見せているような顔だった。
「センパイはできたのに……なんでウチは……って。ずっと思ってたんすよ」
悔しさと情けなさが混ざって、言葉の端々にひっかかっていた。
私の胸の奥も、ひりついた。
「自分でもわかってます。ガキ臭えって……でもこんなん、不公平だって思わないっすか?」
「いや、別に……?」
「はあ!? なんでっすか! なんでそこで即答なんすか!?」
夏妃の体から、怒りというより「拗ね」が濃縮された何かが立ち上ってくる。握った拳に力がこもり、でも殴る気はないのが手つきでわかる。
私は思う。
そんなん知らんわ。
だって本当に「知らん」のだ。私だって当時、鳥子とうまくやろうと必死だった。成功したという自覚すらない。
夏妃は続けざまに言うでもなく、ただ悔しそうに地面をつま先でこする。
その仕草を見て、ようやく少しだけ理解する。
これは、うまくいかない恋の八つ当たりなのだ。
私に向けられているように見えて、本当は自分自身への苛立ちが混じっているやつ。
……そういう気持ちなら、なんとなくわかる。
私だって、もし鳥子の顔に、他の誰かに向けられた笑顔が映っていたら、絶対にまともに呼吸すらできなくなるだろう。
夏妃は感情の行き場を探して、ぐるぐると迷子になっているようだった。苛立ちの奥に、寂しさみたいなものが透けていた。
「三日前だってそうっすよっ……!」
三日前。
──茜理と夏妃が、IKEAに迷い込んだ日だ。
私は首を捻る。八つ当たりもほどほどにしてほしい。いったい、それに何の関係が──。
「ウチが! アカリと! 仕事の合間を縫って、久々に!! 二人きりで遊んでたのにっ……いきなり電話してきてっ!! 何かと思ったら、IKEA行きたいっ!? 行きたいなら勝手に行ってくださいよっ!! こっちは茜理とのデートプランだって立ててたのにっ!!」
めちゃめちゃ私のせいだった。
「……そ、それは、ごめん」
「それだけじゃないっすよ!」
怒声が通路に跳ね返る。
夏妃は視線を泳がせ、言葉を探し、唇を噛んだ。怒っているのに、迷子の子犬みたいな顔だ。
「茜理、いまだにセンパイに夢中で、センパイのことずっと追っかけてるんすよ!」
「え? またストーカー?」
私が首をかしげると、夏妃は一瞬「言葉を落とした」という顔になった。
そして次の瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込む。
「はああっ!? 茜理がそんなことするわけないじゃないすか! てか『また』ってなんすか『また』って! ふざけて適当なこと言わないでくださいよ!」
「ああ……うん」
ふざけてないんだけどなあ。
茜理の過去のストーカー的な行為の詳細を話したら、余計ややこしくなる未来が見えたので、私は口をつぐんだ。
興奮して声を荒げ、顔を真っ赤にしている夏妃に、私は両手を前に出して「ドウドウ」と制止のジェスチャーをする。
「ごめんごめん。それで? 茜理が私を追いかけてるって……どういうことなの?」
大学卒業後、茜理と会ったのなんて数えるほどだ。それ以外で接点らしい接点もない。
住んでいる場所が変わったことで偶然顔を合わせる、と言うこともなかった。
この程度で追いかけられていると言われても、ピンとこない。
夏妃は自分を落ち着かせるみたいに腕を組み、深く息を吸った。
吐く息がわずかに震れているのがわかる。口を開くまでの一拍が、妙に長く感じられた。
「アカリ……元々興味はあったみたいなんすけど、センパイの影響で、怖い話とか不気味系の話にめちゃくちゃハマったらしくて……ウチといる時も、目ぇ離すと、ずーっとスマホでそういうサイト見てるんすよ……」
「あー、それは……良くないね」
「そうなんすよ!」
夏妃はここぞとばかりに前のめりになってくる。
「しかも、センパイの名前、ちょいちょい出すんすよ! 『紙越センパイがね〜』とか、『紙越センパイこれ好きそう〜』とか! なんでだよ! ウチそこにいんのに! 聞こえてんのに! なんでウチじゃなくてセンパイ基準なんすか!」
「それは……知らんけど……」
「知らんけどじゃないっ! ウチは結構傷ついてるんすよ!?」
夏妃の声は怒りというより、拗ねた幼児みたいなトーンになってきている。
でもこれ、嫉妬とか恋とかそういう次元よりも、「推しを取られたオタクの怨嗟」に近いのでは……?
しかし、さすがにそれは言えない。
「で、極めつけが、あれっすよ」
嫌な予感しかしない。
「まだあるの……?」
「まだある!!」
夏妃は一度深呼吸し、まるで重大事件の証拠品でも提示するかのような重々しい声で続けた。
「アカリ、最近……ネットに自作の怪談、投稿し始めたんすよ」
………………は?
「は……え? なに? と……投稿?」
「はい。なんかこう……『実体験ぽい体で書くのがコツらしい』とかいって。ウチの横でニヤニヤしながらスマホぺちぺちして……!」
私は嫌な予感がして、夏妃に訊ねた。
「……ねえ、もしかしてなんだけど、それ『洒落怖』とかに投稿したりしてないよね?」
「よくわかんないすけど、『洒落怖』が云々とは言ってましたね」
「それは良くない!!」
「良くないんすよ!!」
鼻息荒く夏妃と私は同調する。
私としては最初、あくまで人といる時にスマホばかり見ているのはいかがなものか、という考えから言おうとした言葉だったのだが、なんと言うことだろう。いつのまにか後輩が創作系怪談作家になっていた。しかも実話怪談を書くスレッドに。完全にスレ違いだ。
私の憤りとは無関係に、夏妃の恋バナ(?)は容赦なく進んでいく。
「アカリが、いつまでもセンパイの背中追ってるみたいなのが嫌で……。だからウチも、アカリの気、引きたくて。それで、たまたまYouTubeで流れてきてたSCP系の動画が流行ってたんで、それを漁って、面白そうなのを茜理に見せてたんす。それで、うまくいくと思ってて……まあ、その結果がこれなんすけど」
そこで夏妃はぴたりと口を閉ざした。
深く息を吐き、肩がわずかに落ちる。
暗さの中に沈んでいくような静寂が訪れる。
まただ。気まずい、というより、触れたら崩れそうな沈黙だった。
どう返せばいいのか分からず、私は自分の膝の上で、無意識に指を揃えたり開いたりしていた。
夏妃の横顔は怒っているというより、自分自身に刃を向けているように見えた。
そっと噛みしめるように動いた唇を、私は見逃さない。
「ウチ、アカリのこと守るつもりで一緒にいたんす。……なのに」
夏妃は目を伏せ、膝の上の拳を小さく握りしめた。
「でも結局、このIKEAの……あのクソッタレのスタッフに追いかけられて……ウチ、バカみたいにビビって、焦って……すっ転んで。アカリの役に立てるどころか、ウチのせいで、アカリの顔を……背中にまで怪我させて……っ」
声が、途中でひび割れた。
自分を責める言葉をどうにか堰き止めようとするみたいに、夏妃は深く息を吸い込み、喉の奥でぐぅっと唸らせてから吐き出した。
私は、なんとなく予想はしていた。
怪我について訊ねたときの、茜理の反応。本人は誤魔化していたが、顔と背中の傷は──おそらく、夏妃を庇ったときについたものだろう、と思っていた。
「ウチ……もう、どうしたらいいか……わからないんすよ……。あんな怪我、一生残ったりするかも……」
震える声には、茜理を想う気持ちと、自分自身への苛立ちがない交ぜになっていた。
それに呼応するように、私は無意識に想像してしまう。
特別な感情を抱いている相手に、自分のせいで跡の残りそうな怪我を負わせてしまった──しかも顔面と背中に。
私と鳥子に置き換えるなら。
私のミスのせいで、鳥子の顔と背中に傷が残るかもしれない、というような話だ。
……無理だ。
本能的に。
思案しかけて、すぐにやめた。
これは、想像以上に無理だ。生理的に受けつけない。
想像しただけで眉間に皺が寄り、思わず身じろぎする。前腕の皮膚が粟立つのが分かる。考えるだけで、ぞっとした。
これはたしかに……簡単に割り切れる話じゃない。
私はようやく、夏妃に対して、はっきりとした同情を覚えた。
正直、この件について私にできることなんて、ほとんどない。
それでも──少なくとも、話を聞くくらいなら、してあげられるだろう。
「たしかに、市川さんの気持ちは……よくわかった。……つもり」
言葉を選びながら口にすると、胸の奥に重たいものが沈んでいく感覚があった。
夏妃の中で、きっとまだ形になりきらない何かが、ぐるぐると渦を巻いている。後悔か、自己嫌悪か──たぶん、その両方だ。
「………………」
「あー……でもさ、市川さんがいたから、私たち助かったんじゃん」
我ながら、ずいぶん唐突な切り出しだったと思う。
夏妃はのろりと顔を上げ、怪訝そうにこちらを見た。
「……急になんの話っすか?」
だよね、と思いながら、内心で小さく苦笑する。
こんな言い方じゃ伝わらないかもしれない。でも、夏妃の中で「起きた悪いことは全部、自分がSCPを見せたせい」という結論が固まりきってしまう前に、どうしても別の線を引いておきたかった。
「いや……茜理が言ってたんだけどさ。私たちがスタッフに襲われてた時、茜理を送り出してくれてたんでしょ」
「………………」
「だから、そのおかげで私たち助かったよ……って話」
夏妃は数秒、私の顔をじっと見つめていた。
やがて視線を落とし、首を少し傾ける。
「……茜理が気ぃ遣って、なんかウチに都合のいい話にすり替わってる気がするんすけど」
低い声で、ぽつりと続ける。
「あん時、ウチが考えてたのは……茜理に危ない目にあってほしくなかったのと」
ほんのわずかな間を置いて、
「……自分が、一人になりたくなかった。ただそれだけっす」
言い切るようでいて、どこか投げやりだった。
「……ウチ、性格終わってるんで」
自嘲気味に鼻で息を吐く。
「たぶん、センパイたちのこと……見捨てる気だったんじゃないっすかね」
そう言って、夏妃は左の口角だけを吊り上げる。
犬歯を覗かせるような笑い方だったが、その表情は歪んでいて、漏れ出す罪悪感をとても隠しきれていなかった。
その言葉を聞きながら、私は心の中で小さく息を呑む。
ああ、やっぱり……。
茜理から話を聞いた時点で、なんとなく察してはいた。
そして同時に、ここでの話題の振り方を、私はたぶん間違えたのだとも思う。
すでに口にしてしまった以上、取り消しはきかない。
このままだと、夏妃の自己肯定感をさらに削るだけだ。
「でもさ、最後は折れてくれたんでしょ? それだけでいいじゃん。上等だよ」
できるだけ軽く、断定しないように言った。
──つもりだった。
けれど夏妃は、ほとんど反射みたいに首を振る。
「いや……いやいや、そうはならないっすよね」
否定は早く、迷いがなかった。
「単純に、ウチみたいなお荷物が、最初からいなければよかっただけの話なんで……」
言葉が、ぽつり、ぽつりと落ちる。
「……そうすれば、茜理はもっとスムーズに、センパイたちを助けに行けてたっすよ」
自分に向けた刃を、わざわざ深く差し込むみたいな言い方だった。
そう言って視線を落とした夏妃の表情は、何度も見てきた沈んだ色をしている。
暗い店内に、沈黙がゆっくりと広がる。
夏妃は俯いたまま、爪で膝の布地をかすかに引っかいていた。
悔しさと、どうしようもない寂しさ。
その二つが絡み合った感情が、その小さな仕草の端々に、はっきりとにじんでいる気がした。
「……傷」
「え?」
夏妃は、ためらいがちに言葉を継いだ。
「センパイ、アカリの傷……見て、どう思いました?」
「それは……痛そうだなぁ、と」
言ってから、表面的過ぎる答えだったかもしれない、と思った。
夏妃の視線は、私の反応のさらに奥を探ろうとするみたいに、真っすぐで、重い。
「……それだけっすか」
「跡が残らないといいな……とは、考えたけど」
私がそう応えると、夏妃は小さく唇を噛んだ。
──自分がドジを踏まなければ。
──あのとき、もっと上手くやれていれば。
そんな声が、夏妃の胸の奥で反響しているのが、はっきり見えた気がした。
「やっぱ……そうっすよね」
夏妃は小さく頷く。
それは納得というより、自分の胸の内を確認するための動きだった。
「……いま、ウチが一番気にしてるのは、そこなんすよ」
声は低く、重たい。
「まあ……そうだよね。あの傷は本当に──」
私が言いかけたところで、夏妃が小さく首を振った。
「ウチが、あんな目にあわせたんす。アカリを」
膝の上で、夏妃の指先が固く握られる。
爪が皮膚に沈み込み、白くなる。
「……ウチが、あの日、あんなモノ観ようなんて言わなきゃ。茜理は……」
──冗談や都市伝説で済ませてはいけない類のものに、触れてしまった。
声は震えていたが、泣き声にはならなかった。
夏妃はただ、吐き出すみたいに言葉をこぼす。
やがて、言葉が途切れる。
残ったのは、冷たい空気の、かすかな震えだけだった。
──ダメだ。
話が、堂々巡りになっている。
刺激を与えても、反応の細部が変わるだけで、結局は自己嫌悪の結論に戻ってしまう。
私は何も言えず、ただ夏妃の横顔を見ていた。
責めるでも、慰めるでもなく、
ただ、その沈黙の中に一緒にいる。
たぶん、夏妃も同じだった。
沈黙の先に、何かを探すように。
──そんなときだった。
「あのー、なっつんとセンパイ、どうかしました?」
背後から、不意に女の声が闇の奥を裂いた。
私は思わず息を詰める。
心臓がびくりと跳ね上がった。声の主が茜理だと理解してからも、そのバクつきはすぐには収まらなかった。
不意打ちは、よくない。
……バッグに銃を入れていて、本当によかった。
手に持っていたら、危うくぶっ放すところだった。
夏妃は、文字どおりに飛び上がっていた。
比喩じゃない。本当に、垂直に跳ねていた。
拠点の奥から、少し不思議そうな表情で茜理が姿を現した。
私も──たぶん夏妃も──内心では相当慌てていたが、互いの引きつった顔を無言の合図にして、表情だけはすっと何事もなかったふうを装う。
……よく考えれば、私がそこまで動揺する理由はなかったはずだ。
それでも、さっきまでの空気に引きずられたまま、気持ちだけが取り残されている。
「……茜理、どうしたの? まだ交代の時間じゃないと思うんだけど」
できるだけ平静を装って声をかけると、茜理は朗らかに笑った。
「なんだか目が冴えちゃって。三日ぶりに、安心してぐっすり寝られたからですかね? それに──」
茜理は悪戯っぽく目を細めて、続ける。
「さっき、なっつんが大きな声で喋ってるのが聞こえてきたんです。なっつんがあんなふうに盛り上がるなんて珍しいなーって思って、つい起きてきちゃいました」
ワクワクした様子で、茜理がこちらに近付いてくる。
「二人で、何の話してたんですか? 面白い話?」
無邪気な声だった。
その一言で、さっきまで張り詰めていた空気が、音を立てて崩れる。
「い、いや……べ、別にぃ? なんもぉ……」
夏妃は視線を落ち着きなく泳がせながら、しどろもどろに誤魔化そうとする。
その挙動不審さで、何かを隠せているつもりなのだろうか。
助け舟を出すべきか、一瞬だけ迷った。
けれど、いまの夏妃にとって何が「助け」になるのか分からなくて、私は結局、口を閉ざしたままでいた。
「えー! じゃあまた二人だけで内緒話ー!? ずるーい!」
眉をきゅっと寄せて怒ったように言ったかと思うと、次の瞬間にはキャッキャと楽しげに声を弾ませる。
その変わり身の早さに、私は少しだけ気持ちを持て余した。
つられて笑う夏妃の横顔が、ほんの一瞬、引きつったように見えた。気のせい、ではないと思う。
茜理はスツールを一脚引き寄せると、私と夏妃のあいだに腰を下ろした。
口角を上げたまま上半身を揺らし、私たちの顔をふりふりと交互に覗き込んでくる。
何か面白い話を期待しているのだろう。
だが、聞いていたのは夏妃の懺悔だけだ。それを本人の目の前で披露するほど、私は無神経ではない。……はずだ。
私は、やや強引だと自覚しつつ話題を切り替えた。
「茜理」
「はい?」
太陽みたいに爛々とした表情を向けられる。
そのまぶしさを正面から受け止めないように、私はなるべく平坦な声を保った。
「鳥子はどう? ちゃんと寝られてた?」
「え? あ、仁科センパイですか。……そうですねえ」
茜理は顎に指を添え、少しだけ考え込む。
視線がつつっと左上に流れ、記憶を辿る仕草になる。
数秒もしないうちに、その黒目が再び私を捉えた。
「ぐっすり寝てたと思います」
「ん、そっか。ならいいんだ」
私が小さく「ありがとう」と目礼すると、茜理は心底うれしそうに表情を綻ばせた。
大学を卒業してから、茜理と顔を合わせる機会はほとんどなかった。
それでも、これだけ裏表なく懐かれると──少なくとも嫌な気持ちにはならないし、会わなかった時間を後悔する。もっと会うようにしよう。
ニコニコと上機嫌に微笑む茜理を見て、私も思わず顔の筋肉が緩むのを自覚した。
──と、その瞬間だった。
茜理の肩越しに、じっと私を射抜く視線が突き刺さる。
夏妃の眼光だ。
じりじりと皮膚を焦がすみたいな圧に、私は反射的に視線を逸らした。
逸らしたところで、その熱が消えるわけでもないのが、なお悪い。
……なるほど。
夏妃は、さっきみたいな私と茜理のやり取りが、やっぱり気に入らないらしい。
普段の私なら、「知ったこっちゃない」で済ませる話だ。
誰が誰にどんな感情を抱いていようが、正直どうでもいい。
……けれど。
ついさっき、夏妃の胸の内を聞いてしまった手前、何事もなかった顔で振る舞うのは、やりづらかった。
共感、なんて綺麗な言葉で呼べるほどのものじゃない。
ただ、無意識のまま踏みにじるには、少しだけ後味が悪かった。
……とりあえず、しばらくは夏妃の前で、茜理と歓談するのは控えめにしておこう。
ないとは思うが、嫉妬が臨界点を越えた夏妃に、工具でぶん殴られる未来はごめん被りたい。
私は軽く息を吐いて、話題を切り替えた。
「茜理。明日の動きについてなんだけど、今ちょっと相談してもいい?」
呼びかけると、茜理は小首を傾げ、ぱちぱちと二度瞬きをする。
それから、なぜか一度だけ背後を振り返り、改めてこちらを見た。
「もちろん私は構わないんですけど……仁科センパイが起きてきてからじゃなくていいんですか?」
ああ、なるほど。
私は得心して、軽く頷く。
「もちろん、鳥子が起きてきたら全部共有するよ。意見も聞く必要あるし。ただ、今はちょっと暇つぶしがてら、軽くでも予定を立てておきたくてさ」
「ああ、そういうことでしたか! わかりました!」
「茜理は明日、どんなふうに動こうとか、何か考えてた?」
「考え……そうですねぇ」
茜理は人差し指を立てて顎に当て、思考を手繰るみたいに黙り込む。
シン、と。
音の消えた店内に、無音がじわじわと広がる。
耳鳴りに似た感覚が、静かに意識を満たした。
少しの沈黙のあと──。
「いま、飲む用のお水が少なくなってきてるので、補給のためにフードコートへ行きたいなって思ってました。それと、念のために食料も調達しておいた方がいいかなって。あと、お湯が出るので、ちゃんと頭と体を洗いたいです」
一拍置いて、茜理は控えめに言葉を足す。
「なので、できれば紙越センパイと仁科センパイで交互に、手を貸していただけると助かります」
私はその提案に、素直に頷いた。
──お風呂。
脳内に浮かんだその単語に、体に貼り付いたままの、生乾きのシャツの感触を思い出す。
正直、かなり魅力的な響きだった。
……が、それ以上に、引っかかるものがあった。
「私はもちろん、鳥子もたぶんオーケーだと思うし、別に構わないんだけどさ」
そう前置きしてから、少しだけ言葉を選ぶ。
「茜理たちは、その……アレ、食べたの? 大丈夫だった?」
「アレ?」
一瞬きょとんとしたあと、茜理はすぐに察したらしく、ぽん、と手を打つ。
「あ、はいっ。なるほど!」
フードコート。
昨日、鳥子と一緒に立ち寄った場所。
鉄板で焼ける肉の匂い。
こんがりとしたパンの香り。
胃袋を直接揺さぶってくる、あまりにも「まとも」な匂いだった。
実に食欲をそそられる。
そそられすぎて、逆に手が出せなかった。
私も鳥子も、結局あそこで何も口にしていない。
あの場所で、あの匂いで、あの食べ物。
本当に「食べていいもの」なのか、確信が持てなかったからだ。
「確かに最初は、ちょっと不気味でしたけど……他に食べられるものもなかったので」
「まあ、そうだよね」
思わず、曖昧な返事になる。
茜理は私の反応を敏感に感じ取ったのか、慌てて付け加えた。
「あっ、でも! 原作のSCPでも、IKEAに迷い込んだ人たちは、フードコートの食べ物を食べて生き延びてたみたいですよ!」
「そうなんだ。確かに、飢えて死ぬよりは、ずっとマシだもんね」
「はい! それに、いつ行っても出来立てが出てくるんで、すごくおいしいんですよ!」
「そうなんだ」
返事をしながら、私は心の奥で、まだ拭いきれない違和感を転がしていた。
その瞬間、茜理の言葉に引きずられるように、頭の奥で別の記憶が浮かび上がった。
マヨイガから持ち帰った鹿肉の味。
外館が作った、あのよもぎ餅。
どちらも、疑いようもなく美味しかった。
身体に異変が出たわけでもない。
……なんだ。
私も鳥子も、とっくに「裏世界のもの」を口にしていたじゃないか。
いまさら、何を警戒しているんだろう。
そう考えた途端、肩の力が、ふっと抜けた。
自分の慎重さが、ほんの少しだけ滑稽に思えてくる。
「なら……楽しみにしとこうかな」
「はいっ、良かったですっ。……って、あ!」
茜理が、何かを思い出したみたいに声を上げる。
「どうしたの?」
「紙越センパイと仁科センパイ、今日ご飯……食べてないですよね?」
言われた瞬間、さっきまで意識の外に追いやっていた空腹が、一気に存在感を主張し始めた。
お腹の奥で、いつでも「ぐう」と鳴ける準備が整っているのが、はっきりわかる。
「あー……食べてないね」
「すみません! 気が付かなくて!」
「いやいや、フードコートで食べてこなかった私たちのミスだよ」
そう口では言ったものの、今さら後悔してもどうにもならない。
「そんなことないですよ! ちょっと待っててください。今晩食べる予定だったご飯があるんです! センパイ、いま食べちゃいますか? 仁科センパイの分もちゃんとありますし、よければ食べちゃってください!」
茜理はスツールから勢いよく立ち上がった。
あまりにも即断即決で、私は一瞬、言葉を失う。
「え……その、ありがたいんだけどさ。それ、茜理と市川さんの分だったんじゃないの?」
問いかけると、茜理は迷う素振りすら見せず、首を横に振った。
「大丈夫です! 明日のお昼一食分を差し上げるだけですから! それにフードコートに、いくらでもあります! ね、いいよね、なっつん?」
そう言って茜理はしゃがみ込み、夏妃と目線の高さを合わせる。
夏妃は一瞬だけ戸惑った表情を浮かべたあと、まぶしいものを見るみたいに目を細めて、ふっと笑った。
「うん……いいよ。ウチらの分は、まだある?」
「うん。一応まだあるんだけど、明日の朝の分までしかないんだよね……それでもいい?」
「いいよ。茜理の好きにして」
「うん……」
一拍置いて、
「よしっ」
茜理は、力強くうなずいた。
「じゃあ、やっぱり明日は──お水だけじゃなくて、ご飯もちゃんと補充する日にしよっか!」
そう言ってから、茜理は改めて、こちらを振り向いた。
「さっきの話ですけど、明日の予定についてですが」
茜理は、きちんと話をまとめるみたいに、背筋を伸ばした。
「食料とお水に関しては、この拠点の近くに、センパイたちが行ったのとは、たぶん違うフードコートがあるので、そこで補給してきます。距離も近いですし、それほど心配はいらないと思います」
そこまで言ってから、茜理は腕を組み、少し困ったように視線を天井のない上方へ向けた。
「ただ……それ以外となると、特に大きな予定はないかな……あ、スタッフの死骸も捨てに行く必要がありますね。それくらい、でしょうか」
一瞬だけ、空気がひんやりと冷えた気がした。
──死骸。
スタッフのものとはいえ、あまりにも生々しく、好ましくない響きだ。
あの、厚手のゴム手袋みたいな外皮。
茜理の話では、あれには厄介な性質があるらしい。
一片でも残っていると、ほかのスタッフを呼び寄せ、しかも凶暴化させる。
それが原因で、原作SCPに登場した主人公のグループは、壊滅した──そういう話だった。
だから茜理は、ここから離れた別の場所に、死骸を捨てに行く必要がある。
……あの量だ。
私と鳥子も、手伝わないわけにはいかないだろう。
「あのー、センパイたちは何か、明日のことで考えてることとか、ありますか?」
「……そうねえ」
私は、無意識に鼻先から顎先にかけて指先を滑らせていることに気づきながら、意識を内側へ沈めた。
──元になったSCPでは、この場所に迷い込んだ人間が、数日どころか、数十年単位で閉じ込められてしまった例すらあるらしい。
……はっきり言って、冗談じゃない。
当たり前だけど、私はこのIKEAで老後を迎える気なんて、さらさらない。
家具の配置を覚えて、補給ルートを最適化して、スタッフの巡回をやり過ごしながら一生を終える。
そんな未来を想像しただけで、胃の奥がぐらりとひっくり返りそうになった。
この拠点は、あくまで仮の避難場所だ。
終の住まいなんかじゃ、断じてない。
私は考える。
どうすれば、ここから出られるのか。
あるいは──出るための「糸口」を、どう掴めばいいのか。
考えろ。
頭を止めるな。
そう自分に言い聞かせながら、私は沈黙の底で、次の一手を探していた。
「うぅん……」
「んー?」
声に引き上げられて、はっと我に返る。
視線を落とすと、茜理が少し不思議そうな顔で、こちらをのぞき込んでいた。
「なに?」
「あ、ごめんなさいっ。センパイ、なんだかすごく悩んでるみたいだったので。つい……」
「ああ……声、出てたか。ごめん」
「いえいえ、謝ることなんてなにもっ!……ちなみに、どんなことを考えてたんですか?」
「ん……ええと」
私は、頭の中でぐちゃぐちゃに転がしていた思索を、ひとつずつ拾い集める。
「今のところ──ここから脱出する方法がね」
一拍、置く。
「……三つくらいしか、思い浮かばないのよ」
「え?」
茜理が声を上げた。
もともとぱっちりとした大きな目が、さらに丸く見開かれる。
静寂と暗闇に包まれた巨大な店内に、その声が短く反響して消えた。
「三つも……あるんですか?」
「マジすか?」
隣で背を丸めていた夏妃も、同じような顔で私を見ている。
「まあ、一応はね……ただし、どれも確実じゃない。成功する保証も、ほとんどない」
先に、釘を刺す。
「だから、あんまり期待はしないでほしいんだけど……」
それでも二人は、期待を隠しきれない目で身を乗り出してきた。
その視線に気圧されつつ、私は両手を軽く振って、さらにハードルを下げる。
「ほんとに、思いついた順に並べただけだからね?」
それでも、茜理と夏妃は小さく頷き、こちらを見つめたままだ。
希望に光るその瞳を見て、胸の奥が少しだけ重くなる。
私は観念して、向かい合うように座り直した。
「……じゃあ、話すけど」
茜理と夏妃が、ほとんど同時にコクリと頷く。
私は渋々、口を開いた。
「まず一つ目。元のSCPみたいに、どこかにある『出口』を探す方法」
「……えーと、それは……」
茜理の眉が、困惑そのものみたいな形に下がった。
まあ、そうなるのも当然だ。
こんな案は真っ先に思いつくし、きっと二人も一度は考えている。
そして、実際のところ――この方法は、あまり現実的じゃない。
「この案の問題は二つ」
私は指を折る代わりに、言葉で順を追った。
「一つ。このIKEAが、どれくらい原作を忠実に再現してるか分からない。最悪……出口そのものが、存在しない可能性もある」
息を継がずに続ける。
「もう一つは、仮に出口があったとしても、この拠点から探せる範囲にあるかどうか分からない」
茜理が、ゆっくりと頷いた。
それを見てから、私は一拍置く。
「もし見つからなかったら、私たちはこの拠点を捨てて、IKEA迷宮をさまようことになる。……そうなると、夜に身を隠す場所がなくなる」
言いながら、自分の気分が沈んでいくのが分かった。
「次の拠点が、都合よく見つかる保証もないしね」
沈黙が落ちる。
二人の表情も、私と同じように固まっていた。
「で、二つ目」
私は少しだけ間を置いてから、続ける。
「『ゲート』を探すこと。私が見つけて、鳥子が開く」
一つ目の案と、根っこは同じだ。
「出口探しとほぼ変わらない。……ただ、これは私と鳥子にしかできない分、さらに不便でもある」
「……ゲート?」
夏妃が、耳慣れない言葉に首を傾げる。
ああ、そうか。
夏妃には、まだきちんと説明していなかった。
私は、その訝しげな視線をいったんやり過ごす。
この話は、あとで腰を据えてするべきだ。
「で、最後。三つ目」
私は一度、息を整えた。
「小桜さんに、霞を連れて来てもらう。……霞が作ったゲートで、ここから脱出する」
正直に言えば──。
現実的と呼べる選択肢は、今のところ、これしかなかった。
「ただ……問題があってね」
そう言いながら、私は無意識に頭をかいた。爪の間に、乾ききらない汗と皮脂がじっとりと残る感触がある。
「小桜さんが、またこのIKEAの中に入ってきてくれるかどうか……そこに確信が持てない」
「ああ……」
茜理は一瞬だけ言葉に詰まり、どこか察したように苦笑した。
「小桜さん、こういうところ苦手っぽいですもんね。前に行った、Tさんのお化け屋敷の時とかも……」
私も同じように笑って、首肯した。
あのときの光景が、脳裏にふっと蘇った。
後ろから私の背にぴったり張りつき、半ば肉の盾にするように歩いていた小桜の姿。今思い返すと、なかなかひどい扱いをされていた気がしなくもない。
「『ぽい』じゃなくて、めちゃくちゃ怖がるよ」
断言すると、茜理は「ですよねぇ……」と肩をすくめた。
「えーと……それじゃあ……」
茜理が言葉を選ぶように、少し間を置いてから続ける。
「小桜さん……来てくれない可能性も、あるってことですか?」
「うーん……」
私は即答できず、唸った。
空中に張り巡らされたコードにぶら下がるLEDライトをぼんやり見上げながら、頭の中でだけ腕を組んだ。
茜理の言う通りだ。
小桜がここに来てくれる保証なんて、どこにもない。
しかしひとつだけ、希望と呼べそうな材料はあった。
「私と鳥子が茜理たちを探して、IKEAの中を歩き回ってたときさ」
私は思い出しながら、言葉をつなぐ。
「小桜さん、けっこう長い時間、店内にいたみたいなんだよね。……まあ、どうしていいかわからなくてパニクってただけかもしれないけど。だけど、それでも何もしようとしなかったわけではないと思う」
説明を続けながら、私は無意識にフロアマップを探して周囲を見回した。
本来なら、どこかに掲示されているはずの赤い点──現在地を示す案内板。だが、このバリケードエリアには影も形もない。
視線をさまよわせていると、茜理が首をかしげた。
「どうかしました?」
「うん……マップ、ここにはないのかなって思ってさ」
「あ、すみません。ここには置いてないですね。今度、外に出るタイミングで拾ってきますよ」
「うん。そうしようか」
話が逸れかけていたので、私は軽く手を振り、意識的に話題を元へ戻した。
「──そんなわけで、小桜さんが助けに来てくれるかどうかは、正直わからない。今のところは、ね」
「そうですか〜……」
茜理は視線を落とし、空気が抜けたみたいに、しゅんと肩をすぼめた。
その変化を感じ取ったのか、夏妃がこちらに顔を向ける。
「小桜さん、怖がりだってのは知ってるっすけど……」
少し言いにくそうに、前置きしてから続けた。
「こういう言い方はアレですけど……そんな薄情な人なんすかね? 助けに来ないなんて、ダチが消えてんのに……」
「あ、うーん……そういうわけじゃなくて」
答えながら、私は迷った。
これを口に出した瞬間、余計に場の空気が重くなる気もしたからだ。
「なにか、あるんすか?」
夏妃が座ったまま、じわりと距離を詰めてくる。
茜理も横で、黙ってこちらを見ている。二人分の視線が集まると、背中に、じっとりと嫌な汗が浮いた。
「なんというか……」
私は、言葉を選びながら続ける。
「私と鳥子って、裏世界に行くときも、帰ってくるときも、小桜さんは基本ノータッチなんだよ。『行ってきます』『ただいま』──その程度でさ。」
「…………」
「つまりね」
少し間を置いて、私は言い切らずに続けた。
「……小桜さんにとって、私たちはきっと、そういう人たちなんだと思う」
そこまで言ったところで、夏妃が視線を落とし、肩ごと重たく沈んだ。
しばらく、沈黙。
十秒ほどしてから、夏妃はゆっくり顔を上げた。
「……つまり、小桜さんはセンパイ達のことを『自力で帰ってこれる人ら』だと思ってて……」
言葉を選ぶように、続ける。
「放置するかもしれない……ってことすか?」
「いやいや、あくまで最悪のパターンね?」
私は慌てて、手を振った。
「三日とか四日とか過ぎたら、さすがになにか動いてくれると思うよ。連絡も取れないんだから、なおさら……たぶん」
語尾が、どうしても弱くなる。
我ながら、ひどく説得力がない。
「あのー……」
茜理が眉を寄せる。
「三日や四日経っちゃうと……取り返しのつかないことになっちゃったり、しませんか……?
その、時間のズレで……」
茜理の次の疑問に、胸の奥で、ドキリと心臓が跳ねた。
「ああ、うん。そうだね……そう、だね」
外の世界と、このIKEA迷宮とでは、時間の流れが違う。
茜理たちが中間領域に入った時刻と、私たちがそこに入った時刻は、表世界ではおおよそ三十分しか違っていなかった。
でも、こっちでは三日分の時間が流れていた。
──となると。
もし、小桜が救出に動くのが、表世界で三日後だったら?
……考えるだけで怖い。
胸の奥が、ひくりと跳ねた。
でも、絶対に知っておくべきことだ。
私は頭の中で、必死に計算しようとする。
えーと、えーと……。
………………。
「えっと……だめだ。なんか、すごいぐちゃぐちゃしてきた。こんなに単純な計算なのに……」
途中で、自分が何を求めているのかわからなくなってきた。
思考が、そこで止まる。
額と背中に、じわっと汗が浮いてくる。
気づいてはいけない事実の縁に、足先だけが触れてしまった気がした。
いったん、深呼吸。
思考を、無理やり白紙に戻す。
バッグからスマホを取り出し、計算機アプリを立ち上げた。
……画面に表示された数字は、文字化けしていて読めない。
……落ち着け、私。
深呼吸をしながら、ゆっくりスマホをバッグに戻す。
代わりに、ペンと防水ノートを取り出した。
もう一度だけ。
今度は、落ち着いて。
三十分で三日。つまり、一時間で六日。
その六日に、二十四時間を掛ければ──表世界の一日が、こっちで何日に相当するのかが出る。
……はずだ。合ってるか? これ?
半信半疑のまま、紙面に数字を書き込む。
慎重に導き出された解を、私はそのまま、声に出して読んだ。
「………………ひゃく、よんじゅうよん?」
裏返って、力の抜けた声が、静かな店内に落ちた。
「セ、センパイ? 大丈夫ですか?」
固まった私を心配して、茜理が顔を覗き込んでくる。
近すぎる距離に、返事をするのが一拍、遅れた。
私は、自分の計算がどこかで間違っていることを祈りながら、確認するように茜理に訊ねる。
「三十分で三日間ならさ……一時間で六日、だよね」
「そうですね」
ためらいのない肯定に、心のどこかが、きゅっと縮んだ。
「じゃあ、二十四時間に六日を掛ければ……表世界の一日が、このIKEAで何日になるかってこと、わかるよね?」
「……はい」
「二十四に六を掛けたら、百四十四ってなるんだけど……これって、百四十四日……で、合ってる?」
「………………」
茜理が、言葉ごと固まる。
視線が宙で止まり、まばたきの回数だけが、やけに目についた。
その重たい沈黙を、横から夏妃が割り込む。
「百四十四日って、だいたい五ヶ月……半年近いってことっすよね」
「うん……」
それだけで、時間が急に現実の重さを持った。
春と夏、あるいは夏と秋が、丸ごと消える長さだ。
私の乱れる情緒を気にも留めず、夏妃が淡々と続ける。
「そこに、小桜さんが助けに来るまでの時間として、四日を……いや、三日を掛けると、どうなるんすか?」
私は答えず、言われるままに、ノートの上で指を動かした。
ペンを動かし、単純な計算の結果として、紙面に浮かび上がった数字を見た瞬間、喉がひとりでに鳴った。
「………………四百三十二日」
声に出した瞬間、胃の底に、冷えて重たい塊が落ちた。
四百三十二日──。
一年、三百六十五日を、はっきりと超えている。
絶望と焦りが、暗い天井から剥がれ落ちてくるみたいに、じわじわと背中に積もっていく。
「……あの、とりあえず……」
沈黙に耐えきれないみたいに、茜理が言った。
「お夕飯、食べますか?」
「………………」
返事の代わりに、お腹が、ぐう、と一際大きく鳴いた。