空魚たちがIKEAに閉じ込められる話   作:わいばん

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後編

7

 腕時計を、宙にぶら下がる電球の光にかざして、時間を確かめた。

 薄暗さの中で、かろうじて見える短針と長針が、親の顔より見慣れた裏世界文字を指し示している。午前九時、少し前だ。

 ここが普通の場所であるなら、二、三時間前には、眩しい朝日が差し込んでいてもいい頃だ。

 けれど店内は相変わらず闇に沈んだままで、明るくなる気配は一向にない。

「時間ですか?」

 私の動きに気づいたらしい茜理が、首を傾げて訊いてきた。

 私は頷いた。

「ここってさ。何時頃に明るくなるか、知ってる?」

「十一時ですね」

「え、遅っ」

 思わず、声が漏れた。

 茜理はそれを予想していたかのように、にこにこと笑いながら、深く頷いた。

「そうなんですよ。ここ、結構こういう設定の違いが多いんですよね。中と外に時間差があるとか、フロアマップの印とか……細かいディテールが違うというか」

「……そうなんだ」

 茜理の言葉を軽く受け流しながら、私は思考を続ける。

 朝が十一時?

 ……遅い。

 いくら何でも、遅すぎないか。

 ふいに、昨夜の光景が脳裏に浮かんだ。

 ソファに座って、鳥子を膝枕していたとき。何気なく時間を確認した、あの瞬間。

 確か──十九時前だったはずだ。

「もしかしてさ。ここって、十一時に明るくなって、十九時に暗くなったりする?」

「はい。そのくらいですね」

「……なるほど」

 簡単に納得してしまった自分が、少しだけ怖い。

「たぶん、ここのIKEAと──」

 茜理は足元を指差して続ける。

「IKEA立川店の営業時間が一致してるんじゃないかと思ってます。少なくとも、この三日間、私となっつんがいる間は、そんな感じでした」

「そうなんだ……」

 顎に手を当て、頭の中で時間を組み替える。

 つまり、私たちが比較的安全に動ける「明るい時間」は、十一時から十九時まで。

 たったの、八時間だ。

「短いなぁ……」

 思わず零したその言葉に、

「なにがー?」

 背後から、聞き慣れた声が被さった。

 振り向くと、拠点の奥から、軽く伸びをしながら鳥子が現れた。

「みんな、おはよー」

「仁科センパイ、おはようございます」

「おざまっす」

「あれ? なんでみんなで起きてるの? 何かしてたの?」

「うん、ちょっとね……」

 鳥子の疑問に私が応えると、鳥子は口元を押さえて大きくあくびをする。

 そのまま近くの椅子を引き寄せると、私と茜理の間に体を滑り込ませて、腰を下ろした。

「おはよう空魚」

 ──ちゅ。

 ……ごく自然な動作で、頬にキスをされた。

 しかも、茜理たちの目の前で。

 反射的に視線を走らせる。

 茜理は口を少し開け、目を丸くして──驚いているというより、観察しているような顔をしていた。

 夏妃の方も、真剣な表情で、私と鳥子を交互に見比べている。

 ……昨夜、夏妃の前でされてはいたけど、それでも気不味いものは気不味い。

 やっぱりTPOは重要でしょうが……!!

 内心で吠えつつ、何事もなかったふりをして思考を戻そうとする。

 だが、数秒後。

 鳥子に肩を掴まれ、軽く揺さぶられた。

「ねえねえ、空魚? 大丈夫?」

「大丈夫だけど……」

 不思議そうな顔で覗き込まれる。

「何か考え事してるの?」

「えっと、うん。いまちょっと……ここのことについて、茜理たちと」

「ふうん? そっか」

 鳥子はカタン、と椅子に深く腰を下ろし、足をぶらぶらさせる。

「じゃあ、後でキスしてね」

 投げ出した自分の足先を見つめたまま、何でもないことのように言う。

「……わかったよ」

 短く答えると、鳥子は何も言わず、ただ退屈そうな表情を浮かべていた。

 ひとまず、私と鳥子の間に一区切りの空気が落ちる。

 この話は、いったん終わりだ。

 私と茜理と夏妃の三人は、さっき、かなり重要な話をしていた。

 表と裏、中と外の時間のズレ──。

 深刻で、取り扱いを間違えれば、簡単に人を追い詰めかねない情報だ。

 ないとは思うけれど……。

 鳥子が、これでパニックを起こさないようにだけは、細心の注意を払わなければならない。

 私はスッと息を吸い、言葉を吐こうとした、その瞬間。

「あのー」

 言葉を遮られた。茜理だ。右手を挙げて、行儀よく挙手の姿勢をとっている。

 出鼻をくじかれたかのような感覚に襲われるが、私は話を振る。

「なに?」

「紙越センパイと仁科センパイって……付き合ってるんですか?」

 予想の外から放たれた質問に、私は文字どおり、ピタリと動きを止めた。

「あれ、言ってなかったっけ?」

 固まる私に代わり、鳥子が答えた。茜理は「わー……」と感嘆の声を漏らす。

「いつ頃から付き合い始めたんですか?」

「そうねー。もう二年くらい前かな?」

「えー! すごい! ごめんなさい、全然気付かなかったです! おめでとうございます!」

「ふふっ、ありがとう。茜理」

「すっごくお似合いですよ! いいなあ!」

「んふふふ」

 朗らかに笑う茜理。その笑顔につられるように、鳥子も口角を上げ、満面の笑みを浮かべる。

 この雰囲気を、IKEA迷宮の話で断ち切るのは正直心苦しいが……それでも、情報の共有は必要だ。

 私が再び言葉を紡ごうと息を吸うと、先に鳥子がスッと浅く息を吸い、茜理に向き直って口を開いた。

 私は開きかけた口を閉じた。

 どうにも、タイミングが合わない。

「茜理は、好きな人とかいるの? 恋愛にはあんまり興味ない?」

「私ですか? うーん?」

 茜理は腕を組み、小さく唸る。視線を移せば、肩をソワソワ揺らしながら、茜理の言葉に耳をそばだてる夏妃が目に入る。露骨すぎるほど、挙動が怪しい。

 一方の茜理は、眉根を寄せてうんうん唸り続ける。

 鳥子は、申し訳なさそうに言った。

「……もしかして、聞かない方が良かった?」

「ああっ、いえいえ! あんまり考えたことのないことだったので……。よくわからないだけです! すみません!」

 茜理が両手を合わせて頭を下げる。鳥子は「いま茜理が謝るところあったっけ?」と、ぼんやりした表情のまま、茜理の頭を撫でる。まだ寝ぼけているのかもしれない。

 そのとき、茜理の肩越しに、夏妃がほっと息を吐いたのが見えた。

 なにに対しての安堵なのかは、深く考えないことにした。

 その後、全員に入れ替わりの休憩をどうするか尋ねたが、茜理と夏妃は「もう眠くないから」と、ほとんど同時に首を振った。

 少し引っかかるものを覚え、私は夏妃に目を向ける。

「市川さんは? いいの? 寝不足そうだけど」

「大丈夫っす。一周回って、今めっちゃ頭冴えてるんで」

「そっか……」

 短く返すと、すぐさま横から声が重なる。

「無理しちゃダメだよ? 夏妃、クマすごいからね?」

「うっす」

「私もそう思うよ、なっつん。本当に。ちゃんと寝ないとダメだからね?──わかった?」

 鳥子に続いて、茜理が念を押す。

 その口調が思ったより強かったのか、さっきまで頑なだった夏妃が、目に見えてたじろいだ。

「お、おう……わかった、わかったよ……」

 ……せっかく夏妃のお悩み相談に乗ったんだ。

 これで、少しは眠れるようになればいいけれど。

「あのさ、ちょっといいかなあ」

 成り行きを見守っていた鳥子が、口元を手で押さえ、大きくあくびをひとつ噛み殺す。

「みんなが寝ないなら、私、もう少し寝てきてもいいかな? まだ寝足りないみたいで」

 言い終えると、もう一度、小さくあくびをした。

 一瞬、沈黙が落ちる。

 ──このタイミングなら。

 ここに長期間閉じ込められる可能性について、伝えられる。

 私はそっと茜理に視線を送る。

 茜理も、ほんの一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。

「あー……やっぱりダメかなあ? 起きたら、たくさん働くからぁ……」

 ほとんど閉じた目で、左右にゆらゆら揺れる鳥子。

 その肩に、私はそっと手を添えた。

「ちょっと待ってね、鳥子」

「ん……?」

 薄く開いた目が、私を捉える。

 肩に置いた手に、鳥子が頬をすり、と擦りつけてきた。

「少しだけ、話があるんだ」

「うーん……わかった。深刻な話でしょ」

「うん。それなりにね」

 鳥子は小さく息を吐き、背筋を伸ばす。

 眠たげな緩さが引き、いつもの──状況を読むときの顔に戻った。

「そっかぁ。じゃあ聞かなきゃね……どうしたの?」

 私は、ゆっくりと口を開く。

 話す内容は、当然──表世界と、このIKEA迷宮。

 その時間の流れに生じている、決定的なズレについてだ。

 

 

「小桜が助けに来てくれるから大丈夫だよ」

 ………………。

 一通り、現状について説明を終えると、鳥子は淡々とそう言った。

 私は思わず閉口した。茜理と夏妃も、何か言いたそうに口元を押さえている。

 仕方なく、私は口を開く。

「鳥子さ」

「なに?」

「寝ぼけてる?」

「寝ぼけてないよ?」

 じゃあ、どうしてそんなにもあっけらかんとしていられるのか。

 私には、理解できなかった。

「大丈夫だよ」

 鳥子は、言い聞かせるようにもう一度言った。

 でも、私は納得できない。

「……小桜さんが、どれだけ私たちの状態を想像してくれるか、わからないよ」

「それでも大丈夫だよ。小桜なら。……それに──」

 鳥子は息を整え、微笑みながら私の両肩に手を置いた。

「今までだって危ないことがあっても、全部何とかなってたじゃない。今回だけダメなんて、そっちの方がおかしいでしょ? だから! 大丈夫!」

 鳥子の笑みを見つめても、なお私は大丈夫だとは思えなかった。

 こんな運任せ、他人任せの状態で、どうして楽観的でいられるのか。

 鳥子の思考が、わからなくなった。いや、わかっている時の方が少なかったのかもしれない。

「鳥子……大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ。まだ……ちょっと眠いだけぇ」

 鳥子は目を見開いたり、瞬きを繰り返したりするが、すぐに眠たげな目に戻ってしまう。

「そっか……じゃあ寝ておいで。……いいかな? 茜理?」

「はい。もちろんっ……あっ、仁科センパイはご飯いりませんか?」

 茜理が頷くと、鳥子はそちらに向き直る。

「うーん……今はいいかな。お腹空きすぎて、いまお腹空いてない感じがする。ところで茜理、ごめん。トイレに行きたいんだけど、どうしたらいいのかな?」

「あ、トイレならコッチです。って言っても蓋の付いたただのバケツなんですけどね」

「へー? そうなんだ。中身はどこに捨てるの?」

「拠点から少し離れたところにですね……明るくなったら詳しい場所を教えます」

「そっかぁ、何から何までありがとうね」

「いえいえ」

 鳥子が椅子から立ち上がると、茜理もそばに立った。

 鳥子が私に近づく。

「じゃあ、ちょっと寝てくるね。おやすみ、空魚。愛してるよ」

 鳥子の唇が、頬と額に触れる。

 いつも通りの動き、いつも通りの場所。

 さっき、キスを返せなかった罪悪感もあって、私は鳥子の頬と額にそっとキスを返す。

「おやすみ。私も愛してる。……ちゃんと寝て、目覚ましてきてね?」

「はぁい」

 返事を聞くと、鳥子は茜理を伴って拠点の奥へと消えていった。

 私は深く息を吐く。

 わずかな緊張が、ふっと消えた。あとは──。

「ラブラブっすね」

 少し離れた場所から、硬い声が聞こえた。夏妃だ。

「まあ……恋人、みたいな関係だからね」

「……みたい?」

「いろいろあるんだ。あんまり気にしないで」

「そすか……よくわかんないけど、まあ羨ましいっすね」

 何と返すべきかわからず、口が動かない。

 話題がそこで途切れたと考えたのか、夏妃はひと息つき、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

「仁科センパイは……いつもあんな感じなんすか?」

 あんな感じ──先ほどの鳥子とのやり取りで見せた、空魚の緊張感のなさを指すのだろう。

「いや、特にそんなことはないんだけどね……今回は鳥子的に何か違うか、本当に眠くて頭が回っていないか……だと思う」

「……そっすか」

 それだけ言うと、夏妃はバリケード越しに暗闇を見つめる仕事に戻った。

 私は腕時計をチラリと確認して、バリケード越しに闇の中を覗く。

 午前九時五十七分。

 あと一時間で、一日が始まる。

 

 

 

「それじゃあ出発しますね。荷物は全部持ちましたか?」

 茜理が振り返り、声をかける。

 私は肩にかけたトートバッグの上から、そっと手を触れた。中に収まったマカロフの輪郭を確かめる。残弾は五発──いざというときの頼みの綱としては心もとない数字のはずなのに、不思議と胸の奥が少しだけ落ち着いた。

「私は大丈夫」

 鳥子が短く手を挙げ、淡々と答える。

「私も平気」

 私がそう返すと、茜理は一瞬こちらを見てから、自分の後ろに立つ夏妃へ視線を移した。

「なっつん、本当に平気? ダメそうなら絶対に言ってね。すぐ引き返すから……」

「へーきだって。大丈夫。アカリは心配しすぎ」

「でも……」

「ほらっ」

 夏妃はその場でトントンと跳ねてみせる。動き自体は軽やかで、ぱっと見ただけなら、昨夜足を引きずっていた割には問題なさそうだ。ただ、よく観察すれば、着地の瞬間にほんのわずかな躊躇が混じる。その程度の違和感だった。

 それを見て取ったのか、茜理は納得できないらしく、険しい表情を崩そうとしない。

「テーピングもアイシングもまともにできてない状態じゃ不安だよ……お願いだから、あんまり激しい動きはしないでよ、なっつん」

「わかってるって。約束する」

 昨日まで戦力外通告を叩きつけられていた夏妃は、必死の説得の末、今回の遠征への参加を許された。茜理は、今この瞬間も酸っぱい顔をしているが、それ以上強く反対するつもりはなさそうだった。

 茜理から視線を横にずらすと、私の目の前には、店内照明を受けてきらきらと光るロングの金髪が揺れていた。その背中には、組み立てられた見慣れたAKがしっかりと背負われている。

 あのあと鳥子は二度寝を決め込み、店内の照明がきっちり点灯するのと同時に起きてきた。さっきまでのふにゃふにゃした様子は嘘のように、今はてきぱきと動き回っている。時折こちらをちらっと見ては、にへらと笑ったり、軽くウィンクをしたり──やたらと元気で溌剌としている。

「じゃあ、始めます。予定通り、バリケードを出たら、まずは死骸の片付けから!」

 茜理は声を張り、カラカラと音を立ててカートを二台押し始める。片方は空で、もう片方には蓋付きの大きなバケツが二つ、重ねて載せられていた。フードコートで水を補給するためのものだ。ほかにもタオルや細かい荷物が入っているようだが、ここからでは詳細まではうかがい知れない。

 茜理は二台のカートを器用に操り、バリケードの門を開けて外へ出ていく。夏妃と鳥子がそれぞれカートを押して続き、最後に私が門をくぐる。

 バリケードを抜け、再び明るくなった店内に目を向けると、一瞬だけ光に目が痛む。拠点の奥に比べて、店内は明るく、まるで光すらも攻撃的に迫ってくるかのように感じられた。

 慣らそうと目を細めながら、振り返って門を閉めた。

 私の手にも、カートの持ち手がしっかりと握られている。

 昨日、茜理と話し合って決めた通り、私たちはこれからスタッフの死骸をカートに載せ、少し離れた場所へ捨てに行く。放っておけば、蛆虫の代わりにスタッフたちがゾロゾロと湧いてきてしまうからだ。

「止まりまーす!」

 バリケード沿いに右へ進んでいた茜理が、ある地点で足を止めた。視界に入ったのは、バリケードにもたれかかるように倒れている、私たちが串刺しにしたスタッフたちの死骸だった。

「まずはこの死骸を折り畳みます。カートに詰め込む必要があるので、なるべく平たくなるようにしてください。あ、それと──素手でコイツの肌に触ると、かなり気持ち悪いです。できるだけ制服越しに触るのをおすすめします」

 言いながら茜理は、足元に転がる死骸を手早く拾い上げ、丁寧に折り畳んでいく。

 三日間、ひとりでこうした作業を繰り返してきたのだろう。その手際は驚くほど良く、ぱたぱたと畳まれたスタッフは、元の大きさが思い出せないほどコンパクトになった。

「茜理、すごーい!」

「えへへ……元の世界に戻っても、たぶん役に立たない技ですけどね」

 鳥子の率直な賞賛に、茜理は照れくさそうに笑いながら謙遜する。

「それでもすごいよ。ね、空魚」

「うん。すごく手際いいと思うよ、茜理」

 私が続けると、茜理は両手で顔を覆い、ばたばたとその場で足踏みをした。

「もうっ、なんですか急にー!」

 指の隙間から覗く耳が、ほんのり赤い。ふわりと空気が甘く揺れる瞬間を、私は見逃さなかった。

 私と鳥子は顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。あまりふざけていい状況じゃないのは分かっているけれど、こうして茜理をからかうのは、正直ちょっと楽しい。

 ──と、しばらくそんな様子を眺めていたところで、私は小さな違和感に気づいた。

 視線を鳥子よりも先へ、茜理よりも手前へと動かす。夏妃はすぐに見つかった。長い赤髪に、根元だけ黒い特徴的なプリン頭。バリケードに寄りかかり、腕を組んで茜理を見つめるその表情が、たぶんこう語っている。

 ──すげえだろ、ウチの茜理。

 初めて見た、後方腕組み彼氏面。……実在するんだ。

「もういいですから! 早く畳んじゃいましょう! なっつんもちゃんとやって!」

 茜理は背を向け、スタッフ畳みに集中する。さすがに、いつまでもからかってはいられない。

 私は一番近くでくたりと倒れていたスタッフの胸元に手を伸ばす。茜理の言葉を思い出し、制服越しに触れた──その瞬間、後悔した。

「うぇっ!?」

 思わず、喉から声が漏れる。

 制服が、びしょびしょに濡れている。

 一拍遅れて、何が原因なのかを理解した。

 ……汗だ。

「うわぁ……」

 背中、脇、胸元。制服の内側からじわりと生ぬるい湿気が滲み出している。

「きめぇ……」

「これは……ちょっと、ね……」

 夏妃と鳥子が、それぞれ耐えきれないといった調子で呻いた。

 よく見ると、制服から露出しているスタッフの肌には体毛や薄い産毛が生え、毛穴には脂汗が溜まり、照明を受けててらてらと光っている。

 ここでようやく理解する。これは厚手のゴム手袋のような無生物ではない。何かの生き物の──まぎれもない「死骸」だ。

 視線を上げると、茜理の背中が見えた。迷いもブレもなく、スタッフのサンドイッチを量産し続けている。

 改めて考えさせられた。

 三日間、ひとりで、これだけの量を……。

「やっぱり、茜理はすごいよ」

 心から、そう思って言った。

「もーっ! もういいんですってばーっ!」

 振り返らずに返す茜理。

「いや、お世辞じゃなくて。本当にね」

「………………」

 返事はない。怒っているのではなく、照れているだけだ。両耳がさっきより真っ赤になっている。

 しかし、スタッフを畳む速度は、さらに上がった。

 そんなに速くなるのか。

 ぼんやり感心している場合じゃない。このままでは、ここに転がる死骸の大半を、茜理がひとりで片付けてしまう。

 私は覚悟を決め、スタッフの制服をしっかりと掴んだ。ぎこちなく、しかし丁寧に、ぱたぱたと畳み始めた。

 

 

 

 

 一時間後。

 ドス……と、重みのある音を立てて、スタッフの死骸をカートに積み上げる。

 私たちのカート──合計四台──は、どれも死骸でぎっしり埋まっていた。

「これで全部かな?」

「はい。お疲れ様でした、センパイ!」

 立ち上がり、周囲を見回して見落としがないか確認していた私に、茜理が明るい声で労いの言葉をかけてくれる。

「うん。茜理もお疲れ様。今までひとりでこれやってたんでしょ? 大変だったね」

「そうですね……でも、慣れれば大したことないですよ。気持ち悪ければ、手は後で洗えばいいだけですし!」

「あー……そうだね」

 頷きながら返事をしつつ、私は今すぐにでも手に残ったスタッフの脂汗を洗い流したい衝動に駆られた。

「どうぞ」

「え?」

 突然、背後から声をかけられ、ひやりと冷たいものを手に押し付けられる。驚きつつ反射的に受け取ると、声の主はすぐに離れていった。

 夏妃だ。

 夏妃はそのまま茜理の方へ歩み寄る。

「アカリ、お疲れ。これ使って」

「あっ! 忘れてた! ありがとー、なっつん!」

 茜理に手渡されたのは、私に渡されたものと同じ濡れタオル。拠点に来たときに茜理が用意してくれたものと、多分同じだ。

「あ、ありがとう……市川さん」

 遅れて、私は夏妃に礼を言う。

「いえ。紙越センパイも、お疲れっした」

 それだけ言うと、夏妃は鳥子のところへ向かい、同じように濡れタオルを差し出す。鳥子は嬉しそうに受け取った。

 その光景を、ぼんやりと眺めていると、隣に人の気配を感じた。

「なっつん、良い子ですよねっ」

「うぉっ……え? あ、ああ、うん」

 いくら茜理とはいえ、不意に真横に立たれると心臓に悪い。乱れた鼓動を整えていると、茜理は夏妃と鳥子のやり取りを、どこか遠くの景色を見るような目で見つめていた。

「ちょっと人見知りなところはありますけど……なっつんみたいな良い子と一緒になれる人がいたら、その人はきっと幸せ者ですよ」

「茜理……」

 それ、本人に直接言ってあげろや──。

 そう念を送ってみたけれど、茜理は夏妃を目で追うのに夢中で、私の視線に気づく様子はなかった。

 なんだか馬鹿馬鹿しくなり、私は濡れタオルで汗ばんだ顔と首筋を丁寧に拭く。

 最後に、スタッフの体から滲み出ていた、あの脂っぽくてぬるぬるした汗を手から念入りに拭き取った。

 ひと息ついた頃、茜理もまたタオルで手のひらをゴシゴシと拭っているところだった。

 私の視線に気づいた茜理は、ニコリと笑いながら手を差し出す。

 ……なんだろう、この手。握手を求めているようには見えない。

「使い終わったタオル、片付けてきますね」

 茜理は自分の手に持っているタオルを指差した。

 ようやく意図を理解した私は、少し考えてから首を振る。

「いや、自分で片付けるよ。ていうか、私がやるから、茜理のちょうだい」

「え? だめですよ、センパイ。私、後輩なんですから。そういうわけにはいかないです!」

 私は首を振り返す。

「後輩だから」って……。

「いやいや、ここに来てから茜理には世話になりっぱなしだし、市川さんはさっきタオル持ってきてくれたし。そろそろ私も何かしないとさ。なんていうか……居心地、悪いっていうか」

「え? 居心地、悪かったんですか……?」

 茜理は目を見開き、呆然と私を見つめてくる。

 そんなに驚くところだったのか。

「ごめん、言い方が悪かったね。今のはちょっと大袈裟だった。居心地が悪かったのは、ほんの少しだけ、ね」

「ほんの少しだけ……」

「私にも、何かやらせてほしいだけなのよ。ダメかな?」

「うーん……」

 茜理は首を傾げ、腕を組んでしばらく唸っていた。

 やがて顔を上げ、まっすぐこちらを見る。

「わかりました。センパイにお願いできそうなこと、何か考えておきます。ただ、タオルに関しては洗い方とか、干す場所とか、新しいタオルの収納場所とか……口で説明しにくくて。なので、また今度でもいいですか?」

 困ったように笑う茜理の顔が、少しだけ寂しそうに見えた。

 ……そんな顔をさせるつもりは、なかったのに。

「う、うん。わかった……」

「はい。すみません。お願いします」

 私は胸の奥に引っかかったものを無理やり無視して、その提案を受け入れた。

 茜理は深く頭を下げ、どこか寂しそうに、とぼとぼとそのまま自分のカートの方へ歩き出す。

 ──あ、これ。

 後ろ姿を見た瞬間、ぼんやりとわかった。

 これ、今すぐフォローしないと駄目なやつかもしれない。

「茜理!」

 考えるより先に、声が出ていた。

 驚いた様子で、茜理が振り返る。

「センパイ? どうしましたか?」

「………………えーと」

 勢いだけで呼び止めてしまったせいで、言葉が完全に詰まる。

 言いたい気持ちばかりが先行して、何を言うかを全く考えていなかった。

「ちょ、ちょっと待ってもらえる?」

「へ? は、はい、わかりました」

 やや戸惑いながらも立ち止まる茜理の前で、私は必死に頭を回転させる。

 そんなに待たせるつもりはない。

 ……というか、あと数秒でいいから考える時間がほしかった。

 一体、私は何が言いたかったんだろう。

「あの……センパイ? 大丈夫ですか?」

 心配そうな声に引っ張られて、顔を上げる。

 優しい目。

 本気でこちらを気遣っている表情。

 自分で言うのは恥ずかしいが、真剣に私を慕ってくれているのが伝わってくる。

 それを感じた瞬間、言葉は自然に出てきた。

「……さっきの言い方、変だった、ごめん」

「へ? さっきの……?」

「居心地が悪い、とか言ってさ。気分悪いでしょ、そんなの。茜理の気持ち、ちゃんと考えてなかった」

 茜理は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと表情を緩めた。

「ああ、なるほど!」

 満面の笑顔で、茜理は続ける。

「大丈夫ですよ! 全然、気にしてないです!」

「そう言ってもらえるのは助かるけどさ。なんか、申し訳なくて……」

 そこまで言うと、茜理の顔がさらに明るくなった。

「そうなんですね! それなら、なおさら気にしないでください!」

「え?」

「センパイ、だいたいいつもそんな感じでしたし。今さらですよ!」

「え゛?」

「むしろ、ちゃんと気にしてくれてるなんて……すごく嬉しいです!」

 ……ええ?

 茜理の中の私、そんな認識だったの……???

 そう思った瞬間、頭の中に「瀬戸茜理」と書かれた記憶の箱が浮かぶ。

 それをひっくり返したみたいに、思い出が次々と溢れ出す。

 ……出逢って間もない頃、猫の忍者に襲われていた茜理を助けたときのこと。

 裏でのカラテカ呼び。

 雑なコミュニケーション。

 メッセージの無視。

 適当な塩対応。

 ──エトセトラ。

 うーん。私…………よく嫌われなかったな。

「さあ、それじゃあ死骸の処理に行きましょう!」

 自己嫌悪にじんわりと染み入っている間に、茜理が腕を上げて次の行動を宣言していた。

 この子、本当に強いな。

 フィジカルはもちろん、メンタルも黒帯だ。

 とても真似できそうにない。

 私は茜理の背中を追いながら、カートを押し出す。

 スタッフ十数体分の重みがずっしりと手に伝わり、思わず息を整える。

 それでも、茜理の後ろ姿を見失わないように、必死で足を動かした。

 

 

 

 死骸は拠点から五百メートルほど離れた場所まで運んだ。

 子供用のベッドルーム用品が並ぶコーナーだ。

 私たちは、一人を除いてその前で立ち尽くしていた。

 なぜ立ち尽くすのか──その一帯には、生きているスタッフたちが、ぞろぞろとたむろしていたからだ。

 ざっと見て百体以上。

 異形の怪物じみた姿で、ハロウィンパーティでもないのに集団で突っ立っている光景は、正直、心臓にずしりと来る。

 店内が明るい間は、刺激を与えなければスタッフたちは無害──そう聞いていたが、実際に目の前で見ると理屈と感情は別物だ。

 万が一、何かの拍子で襲いかかられたら──想像するだけで、背中に冷たいものが走る。

 そんな私や、固まったままの鳥子と夏妃をよそに、茜理だけが器用に軌道を選びながら、死骸をフリスビーのように投げていく。

「よっ!」

「やっ!」

「よいしょーっ!」

 場違いにも思える掛け声が響く。

 ……この子、楽しんでない?

 ああ……いや、いいんだ。楽しんでいるかどうかは問題じゃない。私には、任された分の仕事がある。

 私は自分のカートから折り畳まれたスタッフを一体引き抜き、隣の鳥子と夏妃を見る。二人も覚悟を決めたように、スタッフフリスビーを構えている。

 三人で小さく頷きあい、呼吸を合わせる。

 生きたスタッフにぶつからないよう気を付けながら、私は折り畳まれたスタッフを投げる。

 四人のチームワークで、数十体分のスタッフの死骸は、無事に片付けられていった。

 

 

 

「ふーっ、スッキリしたー!」

 死骸処理を終えた茜理は、快活な笑顔を浮かべながらそう言った。やはり、これは茜理なりのストレス発散法の一つなのだろう。

 私たちは、再びスタッフの脂汗で汚れた手をタオルで丁寧に拭う。冷たく湿った布を握り、手のひらや指先を擦りながら、少しずつ気分が落ち着いていくのを感じた。

「お疲れ様でした! これで拠点を襲撃される可能性も、かなり減りましたね!」

 キラキラと光る笑顔で茜理が言う。その明るさに、自然と私の心身も軽くなる。

 少しだけ疲労した右腕を摩りながら、私は口を開いた。

「次は、このまま拠点に戻らずフードコートに向かうってことでいいんだよね?」

「はい! それで合ってます!」

 返事を聞いて、鳥子が嬉しそうに声を上げる。

「やった! お腹空いてたんだあ」

 茜理は鳥子に笑顔を向けると、そのまま私に視線を戻す。

「フードコートまでは、だいたいここからも拠点からも二、三キロ程度です。もし疲れているなら拠点に戻って休憩することもできます。──どうしますか? 仁科センパイがお腹空いてるなら、このまま進んだ方が良いかもしれませんが」

 問いかけられた鳥子は、微妙な表情を浮かべながら顎先を指でつついた。

「お腹は空いたからフードコートには行きたいけど……誰か疲れてる人がいるなら、拠点に戻って一休みしてからの方がいいよねえ……空魚はどう思う?」

 私は茜理と夏妃に視線を向け、軽く頷きながら問いかける。

「茜理と市川さんは、疲れてない? 大丈夫なら、私はなるべく早くフードコートに行った方がいいと思う。突発的に何が起きるかわからないし、時間があるうちに色々済ませた方がいいかなって思ってる」

 私の言葉に頷いた後、茜理はすぐに夏妃の方へ視線を向けた。

「なっつん、どう? 疲れてない? 足は……」

 夏妃は軽く肩を回して、首を傾げる。

「まだ疲れてないし、足も大丈夫。紙越センパイの言う通りで良いと思う」

 茜理はそれを聞くと、ぱっと顔を輝かせ、手を軽く握って頷いた。

「うん、わかったっ」

 そしてすぐに手を上げる。

「それじゃあ、予定通りフードコートに向かいますね!」

 反対意見があるかどうか、全員の顔色をちらりと伺うように、数秒の沈黙が生まれた。だが、全員の頷きを確認すると、茜理は笑みを浮かべてカートを押し始める。

 私たちはその背中を追い、フードコートへと向かった。

 店内の広さと明るさに、微かに光が跳ね返る。静かな沈黙の中で、少しだけ安堵の気持ちが胸に広がった。

 

 

 

 カートを四人でカラカラと鳴らしながら、私たちは店内を進んでいく。

 目の前の通路が家具や棚で遮られるたび、先頭の茜理は迷いなく右へ、左へと進路を変える。その足取りには、一切のためらいがない。

 三日のあいだに何度フードコートへ足を運んだのかはわからない。だが、茜理はすっかりこの迷宮のような店内の道順を頭に入れてしまったようだった。

 一方の私はというと、正直なところ、もう自分がどこを歩いているのかさっぱり分からない。

 このまま茜理とはぐれたら、即座に遭難だ。どうやら鳥子も夏妃も、それは同じらしい。二人とも首を巡らせ、きょろきょろと不安げに店内を見回している。

 時折、茜理は立ち止まり、こちらを振り返る。

 雛たちを確認する母鳥のように。

 私と目が合うと、茜理はほっとしたように目を細め、すぐに前を向いて歩き出す。何度目になるかわからない、無言のアイコンタクトだった。

 私は歩きながら、周囲に注意深く視線を走らせる。

 探しているのはフロアマップだ。この数十分の間に、いくつかのマップを見つけては立ち止まり、表面をなぞるように確認してきたが──どれにも、小桜の印は現れていなかった。赤い点は私たちを示すものが一つ。それだけだった。

 さらに進むと、大量の枕が積まれた鉄製の大きな棚が行く手を阻む。棚に沿って大きく右へ迂回すると、視界が一気に開けた。

 その瞬間、茜理が弾んだ声を上げる。

「あともう少しです! ここからは、ほぼ一直線になりますよー!」

 私たちは顔を上げた。視線の先には、これまでの家具のショールームや雑貨棚とは明らかに異なる、広い空間が広がっている。

 ──フードコートだ。

 認識した途端、美味しそうな匂いが鼻を突いた。

 同時に、ぐう、と腹の奥が正直に鳴る。

 胃の中に穴が開いたような、スカスカした感覚。さっき食べたご飯も確かに美味しかったけれど、どうしても冷めていたのだ。

 フードコートの食事は、きっと出来立てで温かい。何を食べようかと考えかけ、私はIKEAのメニューをほとんど知らないことに気づいた。

 ……まあ、いいか。

 それも含めて、楽しみにすればいい。

 フードコートまではあと数百メートル。

 全員の歩調が、わずかに早くなる。四台のカートのタイヤが軽やかな音を立て、店内にリズムを刻んだ。

 

 

 

 フードコートに足を踏み入れた瞬間、香ばしい匂いが鼻腔で爆発した。

 がらんとした無人の広場。清潔感のあるテーブルと椅子が、規則正しく並んでいる。

 最初に訪れたフードコートとは、どう見ても別の場所のようだった。店内の形も、椅子やテーブルの配置も、空気の質感も違う。あの不気味な喧騒はここにはなく、代わりに穏やかで、しかしどこか人の気配の残る静寂が広がっていた。

 人はいないのに、生活の痕跡だけははっきりと残っている。──その中の一つのテーブルの上に、何かが置いてある。

「ねえ、あれ……ご飯じゃないっ?」

 鳥子が、やや興奮気味に声を上げる。

 近付いて確かめると、すぐに正体が分かった。テーブルの上には、大皿から小皿に取り分けられた料理が、整然と並べられている。

 マリネされたサーモンに添えられたマスタード。

 少し大きめのミートボールと、山盛りのフライドポテト。

 昨日、食べずに置いてきたホットドッグまで、湯気を立てて皿の上に置いてある。

「すごーい……お腹すいたぁ〜」

 鳥子はカートを横に寄せると、トトっとテーブルに駆け寄った。

 私たちも、その後に続く。

 先に席についた鳥子は、手早く髪をヘアゴムでまとめ、椅子に腰を下ろす。両手にはすでにナイフとフォーク。

 その視線は、まるで「待て」を命じられた犬のように、早く、早く、と私に訴えかける。思わず小さく息を漏らした。

 私が鳥子の隣に座ると、正面に茜理、その隣に夏妃が腰を下ろす。

 念のため、私は口を開いた。

「もしかしたら、ご飯より先にやることがあるのかもしれないけど……食べてからでもいいかな?」

 茜理は少しも迷わず朗らかに微笑む。

「はい、全然大丈夫ですよ。先にご飯にしましょうか。なっつんも、それでいい?」

「うん。ウチも全然構わない。ウチもお腹すいてきた気ぃする」

 その返事を聞いた途端、鳥子の顔がぱっと明るくなる。

「二人ともありがとう! ごめんね、忙しいのに。空魚も、ありがと!」

 そのハイテンションぶりに、私は思わず苦笑する。

「いいよ。私も少しお腹空いてるし」

「やった!」

 鳥子は身を乗り出し、自分の小皿のミートボールをナイフで一口大に切る。

 そして、ふと思い出したように首を傾げる。

「それにしても、なんでちょうど四人分ご飯と食器が用意されてるんだろうね? 不気味っ。でもおいしそう! いただきます!」

 弾むような声でそう言って、鳥子がフォークを動かし、ミートボールを口に運ぶ。

 嬉しそうな顔を見ていると、まるでピクニックにでも来たような錯覚を覚えた。無人のフードコートにいるという現実が、ほんの一瞬、遠くへ押しやられる。

 私も遅れて、自分の空腹を思い出す。手が自然とサーモンマリネに伸びた。

 口に入れる。

 ……おいしい。

 誰が用意したのかも分からない食事を、無人のフードコートで口にしている。

 考えれば考えるほど、やっぱりおかしい。

 でも、出来立ての食事が胃に落ちる感触に、肩の力が少しずつ抜けていった。

「空魚、これおいしいよ」

 鳥子がそう言って、私の皿にフライドポテトを山盛りにする。

 一本を口に運び、「いけるね」とだけ答えた。

 鳥子は満足そうに微笑み、次の瞬間にはホットドッグに齧り付く。

 その様子を眺めていると、異常な状況下にいることなど、ふっと頭から消えてしまいそうになる。

 終始ご機嫌な鳥子には、無言の安心感が広がる。

 異常を理解しつつも、食事を前に素直に楽しめるような──その無邪気さこそが、鳥子の強さなのだと私は思った。

 そうして私たちは、奇妙な安心感に包まれながら、黙々と、しかし確かな幸福感とともに、食事を続けていった。

 

 

 

 8

 私はフードコートの店舗内にあるスイングドアを押し開けた。

 隣には、蓋付きの大きなバケツを抱えた茜理が立っている。私たちはカウンターの中、二人きりだった。

「センパイ、どうぞ」

 茜理はバケツの中から、大判のバスタオルとフェイスタオルを取り出す。

「ありがとう、茜理。助かるよ」

 受け取ったタオルは、どちらも柔らかく、手触りが心地いい。まるで新品みたいだ。

 ふかふかと感触を確かめていると、視界の隅で何かがきらりと光った。

 摘み上げてみると、価格タグと防犯タグだった。バスタオルにもフェイスタオルにも、きっちり付いたままだ。

 なるほど、新品だ。

 当たり前か。茜理は、常に新品のバスタオルとフェイスタオルを持ち歩く変人ではない。ここのIKEAで拝借したのだろう。

「これ……」

 私が指し示すと、茜理は「あっ」と小さく声を上げ、素早く懐から大きな裁ち鋏を取り出した。

 ──昨日、スタッフを刺し殺していたあの鋏だ。

 ギラリと鈍く光る刃が視界に入った瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなり、鼓動がほんの一瞬早まる。

 しかし、茜理の手元は落ち着いていて、刃先がタオルに向かうと、タグはすぐに切り取られた。

 それでも、私は胸の奥にわずかな緊張を残したまま、視線を茜理から離せなかった。

 けれど茜理自身は、そんな私の内心に気付く様子もなく、タグをチョキン、チョキンと軽快な音を立てて切り落とす。

「すみません! 付きっぱなしなの、忘れてました」

「……うん。ありがとう、茜理」

 柔らかく笑うその顔に、私は少しだけ肩の力を抜いた。茜理は微笑んだまま、カウンターの奥を手で示す。

「ここの奥です」

「なるべく早く済ませるから、少しだけ待ってて」

「いえ、時間はありますから。ゆっくりしてきてください!」

 そう言われ、茜理の笑顔に見送られながら、私は小さく頷いた。

 その直後、ふと茜理が腕時計に目を落とすのが視界の端に入る。

 さっきも見た仕草だ。

 閉店まで、あと六時間──。

 十分に余裕のある時間のはずなのに、数字は妙に重く、胸の奥に沈み込むように感じられた。

 私は茜理の背中を見送り、ゆっくりとキッチンへ歩みを進める。

 食器返却口の奥には、業務用の大きなシンクが設置されていた。

 風呂として使うには完全ではないが、髪を洗い、体を拭くくらいなら十分すぎる広さだ。

 どうやら、ここ一箇所だけが「体を洗える場所」のようだった。

 そのため、四人で交代して使うことになった。

 なぜか、私が一番風呂になる前提で順番が決められていたので、「どうして?」と訊いてみたが、三人は顔を見合わせてから、口を揃えて言った。

「なんとなく」

 ……なんだろう。

 もしかして私は……臭かったのだろうか?

 汗もかいたし、そのまま寝たし、否定はできないけど……もしそうなら、少し……いや、結構ショックだ。

 そんなことを考えながら、私はシンクの前に立った。

 それにしても……飲食店のシンクで入浴するなんて、思いもよらなかった。

 これを撮影してSNSに上げたら、間違いなく炎上案件だろうなあ、と冗談半分に思う。

 取り留めのないことを考えつつ、上半身だけ服を脱ぐ。

 まずは頭を洗おう。指で頭皮を掻くと、たった一日洗わなかっただけなのに、やけに痒い。

 中高の頃は、二、三日風呂に入れないのも当たり前だったのに。

 この程度で痒いと根を上げるなんて……私の頭皮は、ずいぶんひ弱になってしまったらしい。

 蛇口を捻ると、問題なくお湯が出てきた。

 相変わらず都合がいい。

 どこから水道を引いているのかは謎だが、今はこの少し不思議さがありがたい。

 熱湯に水を混ぜて温度を調整し、身を屈めて頭からお湯を被る。

 シャンプーもない以上、湯洗いだけで皮脂を落とすしかない。

 外には鳥子たち三人がいる。

 茜理は「ゆっくり」と言ってくれたけれど、本当にのんびりできるほど、私の神経は図太くない。

 手早く三度、髪に湯を通し、バスタオルで軽く水気を切る。

 続いて顔を洗い、フェイスタオルをお湯に浸して体を拭く。

 腋の下、腰回り、背中、首筋から胸元──これくらいで十分だろう。

 傍に置いていた腕時計を見る。

 入浴を始めてから、まだ十分も経っていない。

 最後に髪、顔、上半身を拭き、脱いでいた服を手に取る。

 シャツは少し汗で湿っているようだが、支障はなさそうだ。

 ただ、臭いは……自分で嗅いでもわからない。

 あとで茜理に、IKEAで服が売っていないか相談してみようかな……。

 ──そう考えた、そのときだった。

「空魚ーっ!!」

 店の外から、鳥子の声が響く。

 反射的に、マカロフの入ったトートバッグを掴む。

 咄嗟のことに、全身の神経がぴりりと張る。

 私は外へ飛び出そうとしたが、目の前でスイングドアが開き、慌ててブレーキをかけた。

「どうしたの?」

 短く問いかけると、鳥子は息を弾ませながら答えた。

「小桜と霞が来てるっ、たぶんっ!」

「えっ!?」

 頭の中が一度、真っ白になった。

 脳内に警報音が鳴り響くようで、言葉も考えも止まる。

 けれど次の瞬間には、思考が全力で動き出す。

 条件反射のように、問いが次々に浮かんだ。

「今どんな状態? マップに出てたの? どれくらい近い!?」

 矢継ぎ早に問いかけながら、私はシンクから駆け足で茜理たちの元へと走り出す。

 背中に、鳥子の悲鳴が飛んできた。

「空魚っ、服着て!!」

 

 

 

 服を着終え、私と鳥子がフードコートに戻ると、茜理と夏妃はA看板の前で、マップを食い入るように見つめていた。

 さっきまで、あそこに看板なんてなかったはずだ。たぶん、鳥子か茜理がどこかから引っ張ってきたのだろう。私は深く追及せず、ただ首を横に振った。

「ごめん。お待たせ」

「お待たせ!」

 私と鳥子が声をかけると、茜理は真剣な表情のまま、一歩だけ後ろに下がった。

「センパイ、これです。赤い点が、急に出てきて……それで、少しずつ動いてます」

 私は茜理のいた位置に立ち、前屈みになってマップを覗き込む。

 確かに、そこには見覚えのない赤い点があった。迷うように、ふらふらと、わずかに移動を続けている。

 ──それが小桜かもしれない。

 思っただけで、空気がほんの少し張り詰めた。

 不確かさに、背筋の奥がぞわりと震える。

 マップは相変わらず酷い文字化けを起こしていたが、ピクトグラムだけはかろうじて生きている。

 少なくとも、私たちがフードコートにいることは確認できた。

 ただし、そこから新しい赤い点までの距離は、判然としない。

「茜理。拠点は、このマップのどの辺か分かる?」

「はい。ここです」

 即座に茜理が指差したのは、椅子のコーナーだった。

 今やバリケードに囲まれた巨大な拠点になっているという情報は反映されていないが、今は問題ない。

「了解。フードコートから拠点までが二、三キロくらい。……なら、この赤い印までは直線距離でも七、八キロ近くありそうだね。往復で十五キロは見ておいたほうがいい」

「移動にかかる時間は……」

 鳥子が真剣な顔で会話に割り込んできた。

「すごく無理すれば、片道一時間半時間くらい。往復だと三時間超えると思う。でも、このIKEA、かなり入り組んでるし……蛇行したら、正確な計算はできないかな」

 言いながら、鳥子は私の顔をじっと見た。

「ギリギリになると思う。かなり」

「……分かった」

 小さく頷き、私は目を閉じて言った。

「正直、迎えに行かない選択肢はないと思う。この印が小桜さんだった場合、今回を逃したら、脱出できる現実的な手段を失う可能性がある」

 三人の頷きが、静かに伝わってきた。

「じゃあ、誰が迎えに行くか、だけど……」

 言葉を切り、息を整える。

 この間にも、小桜が何かしらの理由で表世界に戻ってしまう可能性は否定できない。

「迎えは、私と鳥子で行く。できれば、茜理にも来てほしい。ただその前に、茜理は市川さんを拠点まで送ってあげて、それが終わり次第、合流してもらえたら心強い。どうかな?」

「それは……」

 茜理は目を閉じ、短く息を吐いた。

「なっつんは、拠点待機だけ、ですよね?」

 確認するような口調だった。

「そのつもり」

 私は即答する。

「調子が良くなったとはいえ、怪我が完治したわけじゃない。何キロも走らせられない。それに──」

 一拍置き、言葉を続ける。

「拠点の場所が分からなくなるのが、一番怖い。誰かが拠点に残ってくれれば、それが目印になる。私たちも戻ってこられる。市川さんは、それでいい?」

「……っすね。今のウチじゃ、長距離走るのは無理っす。拠点で待機します」

「ありがとう」

 そして、私は茜理を見る。

「だから、茜理には来てほしい。合流してくれたら、すごく頼もしい」

 茜理はしばらく俯いたままだったが、やがて顔を上げ、首を横に振った。

「……すみません。今回は、拠点にいます」

「そっか」

 責めるつもりはなかった。

 そのせいか、茜理は一瞬、目を見開いて私を見た。

 何か言いかけて、結局、言葉にはならなかった。

 正直に言えば、私はこうなることを予想していた。

 でも、鳥子は違ったらしい。

「茜理……どうして今回は、一緒に行かないの……?」

 責めないよう、慎重に言葉を選んでいるのが伝わる。

 けれど、理由はわかりきっている。

 夏妃が心配だからだ。

 前回、夏妃を置いて茜理が助けに来てくれたのは、拠点からでも私たちの銃声や発砲時のマズルフラッシュが分かる、即死級の危機的状況だったからだろう。

 でも、今回は違う。

 夜の危険性は共有されているし、六時間以内に戻る前提もある。今回は、襲われる前提の行動じゃない。

 安全に戻ってくることが、最初から計算に入っている。同じ轍を踏まないという確信がある状況なら、優先順位が変わるのは当然だった。

「ごめんなさい、仁科センパイ……」

 茜理は苦しそうに頭を下げる。

 私が茜理を擁護しようと口を開こうとした、その瞬間、夏妃と目が合った。

 夏妃は小さく頷き、落ち着いた声で言った。

「すみません。仁科センパイ。ウチ一人だと、心細くて……アカリには、そばにいてほしいすね」

 茜理が少し驚いた顔で夏妃を見る。

「いいの? なっつん……」

「おう。センパイたちには悪いけど、ウチ一人だと何かあった時、何もできずに終わると思うんだ……だから、アカリが必要」

 夏妃の声は落ち着いている。その口ぶりでわかる。

 夏妃は、茜理とここで「行く、行かない」の論争に時間を割かず、行動優先で状況を整理しているのだ。

「……そっか」

 鳥子にもそれが伝わったのか、息を吐いて納得したようだった。

「残念だけど、仕方ないよね。夏妃が一人なのも不安だし、夏妃の言う通り、もし拠点が襲われたら、全部終わっちゃうもんね」

「ウチのわがままで、迷惑かけて申し訳ないです」

「ううん。いいよ。気にしないで」

 短い沈黙が落ちた。

 話は、これで終わり──そんな空気。

 今は、一分一秒を争う状況だった。

 赤い点が小桜だとして、なぜ今、再び姿を現したのかは分からない。

 考える材料はあったが、答えは出ない。

 それでも、役割分担が決まった以上、立ち止まってはいられなかった。

 そんな理由を探している暇のほうが、怖かった。

 私はトートバッグの中から取り出したレッグホルスターを腿に巻き付け、マカロフを収めた。

 ベルトを引き締める感触で、気持ちも少しだけ切り替わる。

 茜理は腕時計を見やり、低めの声で告げる。

「『閉店』までは、あと六時間……正確には、五時間四十二分あります。時間が半分過ぎても小桜さんと合流できなかったら、その場で引き返してください。必ず、夜までには戻ってきてくださいね、センパイ」

 私は茜理の真剣な視線に、一瞬背筋がぴんと張るのを感じた。

 鳥子と目を合わせ、短く頷き合う。

「オーケー。夜までには戻る」

「オーケイ。任せて」

 言葉のやり取りが終わると同時に、私たちはフードコートの床を蹴った。

 背後の茜理と夏妃の視線が、私たちを見送っているのを感じながら──私たちは走り出した。

 

 

 

「鳥子……大丈夫?」

 隣を走る鳥子に、私は訊ねた。鳥子は苦しそうな表情で脇腹を抑えている。

「平気じゃないけど……大丈夫。……空魚は?」

「私も平気じゃない」

 私も横っ腹を押さえながら走っていた。フードコートで食事をとってから、まだ三十分程度しか経っていない。その状態で走り出したせいで、二人してお腹を押さえつつ走る羽目になっていた。

 長距離移動のため、私たちは早歩きに毛の生えた程度の、緩やかなペースで進む。

 鳥子はAKを担ぎ直し、足を速めるたびに銃床が背中に当たらないよう、無意識に身体を捻っていた。

 途中、何度もA看板の前で足を止め、現在位置と進行方向を確認する。

 立ち止まるたびに、誤魔化していた疲労が一気に押し寄せた。

 首筋から汗が流れ落ち、シャツが肌に張り付くのがはっきりわかる。

 そのたびに、わずかな時間が削られていく。

 どうすれば効率よく進めるか、私たちは黙って考え続けた。

 しばらく走ると、新しいA看板が置かれていた。私たちはその前で立ち止まる。

「鳥子、ちょっとごめん」

「いいよ。どうしたの?」

 ただの思いつきだった。

「この看板、マップだけ持っていけないかな?」

 立ち止まった私に合わせ、鳥子もその場で足踏みしている。

「それいい! 空魚、天才!」

 鳥子の声が弾む。

 私は素早く膝をつき、看板のホルダーを開ける。中から一枚のマップが滑り落ちた。拾い上げ、表面を見て……私は眉をひそめる。

 マップは、空気に触れた途端、意味を失った。

 文字もアイコンも、現在地を示す赤い印さえ、掠れて滲み、急速に判別できなくなる。

「……なんでよ」

 呟くと、いつのまにか私の肩越しにマップを覗き込んでいた鳥子が、軽く肩を叩いた。

「うーん……大丈夫だよ。他のマップも試してみよう?」

「……そうね」

 一度失敗したからといって、試す価値がなくなるわけではない。

 再び走り出す。私はすでに息が切れ、横腹の痛みも治らない。だが鳥子はほとんど汗をかいていない。普段の運動習慣の差を、嫌でも思い知らされる。

 その後も、次々とA看板のホルダーを外していく。

「私も何か手伝えること、ある?」

 鳥子が、緩めのペースで並走しながら声をかけてくる。

「ううん、大丈夫。二人でやるような作業じゃないよ」

 私は手に入れた複数のマップを走りながら比較する。

 どうやら、マップは一様に同じ具合に消えているわけではないらしい。

 赤い印は残るが、道やピクトグラムが掠れてほとんど判別できなくなったもの。

 中央だけ丸く消え、欠損してしまったもの。

 上半分だけがきれいに抜け落ちたもの。

 数枚のマップを比較し、より情報の残る一枚を選びながら、私は言った。

「次で最後にする。ダメなら諦めるよ」

「わかった」

 鳥子は頷き、正面を向いた。

 次にA看板を見つけたのは、食器保存用容器のコーナーだった。

 大小揃った蓋付きのガラス瓶、用途不明の木製グリーンラック、麻袋のような素朴な色のバッグ──。

 雑然とした棚や展示品に紛れるように、A看板が立っていた。私は立ち止まり、手早くホルダーを外す。滑り落ちたマップを手に取ると、やはり表面はすぐに劣化し始め、文字やアイコンは輪郭を失っていく。

 けれど、赤い現在地の印だけは、はっきりと残っていた。

 そこには、小桜を示す赤い点がある。

 同時に、フードコートから離れていく茜理たちの印も確認できた。どちらも、少しずつではあるが、確実に移動を続けている。拠点も、茜理の指差した位置とずれていない——当たりだ。

「空魚!」

 鳥子が私を呼び、手を高く上げる。

 私たちは勢いよくハイタッチした。

 パチン、と乾いた音がやけに大きく響く。

 これだけ読めれば、進む方向を見失うことはない。

 私たちはそのまま、走り続けた。

 

 

 

 正確なマップを手に入れたことで、進行の迷いは消えた。しかし、想定以上に多い棚や展示品の障害が、私たちの足を何度も止めさせる。

 障害を見つけるたび、右へ、左へと進路を変える。そのたび、距離が少しずつ削られていく。蛇行する走りに、貴重な時間が容赦なく消えていく感覚。

 そんな中、茜理と交わした約束の時間が目前に迫っていた。

 小桜と思われる印まで、残りおよそ三分の一。直線距離にして二、三キロメートル。

 ——間に合うかは……微妙だ。

 時間だけが、こちらの都合を無視して進んでいく。

 私は茜理と約束した。必ず夜までに拠点に戻ることを。

 しかし、頭のどこかで冷静な声がささやく。

 ——そんなことより、小桜と霞に接触する方が優先だ。状況次第で柔軟に行動を決めるべきだ、と。

 正論だ。理解している。

 それでも、心だけがその通りに動いてくれない自分がいる。

「空魚!」

 考え事をして走っていたらしい。鳥子の呼びかけで、私はハッと意識を引き戻された。

「え、なに?」

「大丈夫?」

 唐突に訊かれ、言葉が出ない。なにが? と訊く前に、鳥子は続けた。

「空魚、すごく悩んでる顔してるよ」

 そんなことない、と返そうとする前に、鳥子が被せるように言う。

「一人で悩まないで。迷ってるなら、私にも教えて! 二人で考えよう!」

 呼吸を乱さないように走りながら、鳥子は言葉を投げてくる。

 さらに力強く、鳥子は言い切った。

「私たち、『鵼』なんだから!」

 鳥子は口を閉じ、正面を見据えたまま走る。迷いは一切感じられない。

 横目で鳥子を見ながら、私は自分の迷いがいかに無意味だったかを悟る。ただ一つわかるのは、私と鳥子の間に、共有されない思考なんてあり得ないということだった。

 私は口を開く。

「たぶん……このままじゃ間に合わない!」

 一言。

 鳥子は黙って頷き、続きを待っている。

「障害物の迂回に予想以上に時間を食ってる。制限時間の二時間五十一分までに、小桜さんのところに辿り着くのは、かなり微妙──いや、たぶん不可能!」

「そうだねっ!」

 鳥子は真面目な顔で私をまっすぐ見つめる。

 それから私たちは、示し合わせたわけでもないのに、同時に減速し、立ち止まった。途端に呼吸が乱れ、遅れて汗が噴き出してくる。

 私と鳥子は、その汗を拭うこともせず、肩で息をしながら会話を続けた。

「そこまでは私もわかってるよ。じゃあ、この後どうする?」

「ごめん……答えが、うまく出ない」

「答えは二つしかないよ。ここで引き返して、もう二度とないかもしれない小桜と霞に合流するチャンスを失うか。このまま進んで合流するか——どっちかになる」

「……うん、そうね」

 私は言葉を絞り出す。

「鳥子は……どうした方がいいと思う?」

「小桜と霞に合流した方がいいと思う」

 私の質問を読んでいたのだろう。鳥子は迷いなく答えた。

「空魚は?」

「私は……」

 言葉が詰まる。頭の中では答えが決まっているのに、体が声にするのを拒んでいた。

「さっき茜理と約束したから?」

 鳥子の声は低く、落ち着いていた。

 図星だ。

 私は息を吸う。

「空魚、その約束は、破るべきだよ。今回は」

「………………」

「私も約束を破るのは嫌い。でも、みんなの命がかかってるなら、臨機応変に対応しなきゃ全部終わる」

「……うん」

「それに考えてみて。このくらいのことで、あの茜理が怒ると思う?」

「……わからない」

 そう言って、私は過去の記憶を思い返していた。

 Tさんに記憶を消された茜理との会話。あのときの茜理は、私のことを完全に忘れていて、馴れ馴れしく接してくる私に、怒りをぶつけてきた。

 今までだったら絶対に目にしなかった、茜理からの怒気。正直、めちゃくちゃ怖かった。

 そしてその恐怖は、未だに完全には消えていないらしい。

 もしも今、茜理との約束を破ったら、どうなるのだろう……?

「怒らないよ」

 鳥子の声が、私の思考の渦に重なる。

「茜理がこの程度のことで怒るわけない。絶対に。こんなことで怒ると思うなんて、そっちの方が茜理に失礼だよ、空魚」

「……そう、だよね」

 理屈としては、そんなこととっくに納得している。でも、感情がまだ追いついてこない。胸の奥の緊張が、微かに震える。

「じゃあ、空魚。選んで」

 鳥子が両手を肩口の高さに揃えた。

 右手——進む。

 左手——戻る。

 どちらかの手を掴む必要がある。迷う私を、鳥子は静かに見守っている。時間はないのに、どうしても迷ってしまう。

 それでも、鳥子と目を合わせる。綺麗な藍色の瞳に、迷う自分が映っているような気がした。

 迷いはあった。それでも、私は決めた。

「進もう」

 私は鳥子の右手をしっかり握った。

 お互い、言葉は交わさず、ただ走り出す。

 最悪のケースは、「進んだのに、小桜と霞に合流できなかった」という場合だ。

 それでも、立ち止まっているよりは、前に出るほうがまだましだと思った。私は鳥子と共に、休んだ分を取り戻す勢いで再び走り出した。

 

 

 

 一時間と数十分ほど、走り続けただろうか。

 ほとんど変わらない景色の中、私たちはひたすら進んでいた。

 マップを見ると、小桜の印と私たちの印はかなり近付いている。

 もう接触していてもおかしくない距離なのに、小桜と霞の姿はどこにも見当たらなかった。

 周囲を見渡しても、視界に入るのは相変わらず家具と商品棚ばかりだ。

「叫んだら、見つかるかな?」

 鳥子が小さな声で言った。

「うん……試してみてもいいかも」

「もしくは、銃を撃ってみるとか」

「小桜さん、怖がって隠れちゃうよ」

 鳥子の言葉に、私は思わず笑いつつ、口元に手を当てた。

「小桜さーん!!」

「小桜ー!!」

 耳を澄ます。広大なIKEA迷宮に声が吸い込まれていく。

 数秒、返事を待ったが……何も返ってこなかった。

「いないのかな」

「それはないと思うんだけど……」

「だよねぇ……」

 私たちは、また歩き出した。

 棚を迂回すると、ベッドのコーナーに出た。

 様々な種類のベッドが並び、そのすぐそばには、一回り大きな棚が立っている。枕やベッドシーツが整然と並んでいた。

「ベッドだあ〜……いいなあ〜」

 鳥子が、思わず情けない声を漏らす。

「寝転がっちゃダメだよ。あっという間に寝落ちするから」

「う〜……」

 鳥子は未練がましそうに、ベッドの端を手のひらで押した。

「ここで寝てれば、スタッフにもバレないんじゃない?」

「そんなバカな話、あるわけないでしょ?」

 私が先に進もうとすると、鳥子が慌てて駆け寄ってきた。

 私たちは大きな棚を右回りに迂回する。

 そして、棚の向こうの光景に、二人同時に言葉を失った。

 そこは──異様なほど広い吹き抜けだった。

 落下防止用の、木材と鉄材で組まれた柵が、広大な空間に張り巡らされている。

 左右を見渡すと、端と端が霞んで見えないほどだった。

 恐る恐る柵に近づき、下を覗き込む。

「うそ……!」

「そんな……」

 吹き抜けの下にも──果ての見えないIKEA迷宮が広がっていた。

 一階と二階を貫く空間は、見下ろすと吸い込まれるような錯覚を起こすほど高い。

 私は二階の手すりにしがみつき、下を覗き込んだ。

 しばらく呆然としていた私たちは、ほぼ同時に同じ考えに行き着く。

「空魚、もしかして……」

「うん……たぶん、一階にいる」

 私は大きく息を吸い込み、手を口元にかざして叫んだ。

「小桜さーんっ!!!!」

「小桜ーっ!!!!」

 少し遅れて、鳥子も叫ぶ。

 高低差のせいか、声が容赦なく減衰していくのがわかった。

 それでも諦めず、呼びかけを繰り返す。

 ふと、手にしていたマップに目を落とすと、小桜の印がじわじわと私たちの印に近づいてきていた。

 私と鳥子は叫ぶのをやめ、下の階を注視する。

 マップを握る手に、思わず力が入った。

 一秒、二秒、三秒……。

 時間を数えていると、背中に、触れられてはいないのに触れられたような感覚が走った。

 振り向くと、私の胸の高さほどの小柄なスタッフが、ほぼゼロ距離で立っていた。

「うわぁっ!!??」

「え、なに!? きゃああ!?」

 私と鳥子の悲鳴が重なる。

 しかし、スタッフは意に介さず、ただ黙って私を見上げていた。

 あまりにも近い距離に、一歩引きたくなるのに、体が言うことをきかない。

 反射的に視線を逸らせず、そのまま無言で見返してしまった。

 ……相変わらず、スタッフたちの体のバランスはおかしい。

 視線は確かに低いはずなのに、肩の位置がやけに高く、腕が不自然に長い。

 胴だけが引き伸ばされ、脚が置き去りにされたかのような、奇妙な体の比率。

 鳥子が、息を呑んだままスタッフを見下ろしている。

 その視線が、顔ではなく、胸元のネームプレートのあたりに吸い寄せられていることに気づいた。

「え? え……?」

 鳥子が、手を口元に当てて、そのまま後ずさった。

 その視線が、顔ではなく、なぜか全体のシルエットをなぞっていた。

「空魚……なんか……」

「な、なに、どうしたの?」

「もしかして……これ、小桜……?」

「はあ!?」

 今度は私の呼吸が詰まった。

 いやいやいや、落ち着け。どう考えても違う。そんなわけがないだろ??

「な、なんでそうなるの!?」

 思わず声が出た。

 出た、はずだった。

 なのに、鳥子の必死な視線を見ていると、ほんの一瞬だけ、考えてしまう。

 ──いや、待て。そんなはず、あるか?

「だ、だって……小桜の印のところにいるしっ、背の高さもこれくらいだしっ。ネームプレート……は読めないけど、漢字二文字っぽいしっ……」

 鳥子は言いながら、だんだん確信めいた目になっていく。

「それに、なんとなく……雰囲気と親しみやすいフォルムが……」

 並べ立てる鳥子の言葉に、理性が揺さぶられる。

 もしも、このスタッフが小桜だとしたら。

 ──いや、そんな馬鹿な、とは思う。

 思うのに、裏世界では「そんな馬鹿な」が、わりと平然と起きる。

 そ、そんなこと……あるのか……?

「小桜!」

 鳥子が叫ぶ。

 一拍、何も起こらない。

 それから、ほんのわずかに──。

 スタッフが、鳥子の方を向いた……ように感じた。

「ほら! 私の方、見てる……! 本当に小桜なの!? なんで、どうして……」

 鳥子がショックでふらつくのを、私はとっさに支える。

 一緒に倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまった。

 それでも、思考だけは止まらなかった。

 もしも、いや、そんなはずはないけれど、この存在が小桜だとしたら……なぜこんなことになったのか?

 一つだけ、原因に心当たりがあった。

 あるとすれば、原因は一つしかない。

 裏世界において、人間の体を不可逆的に損壊させ得るもの──グリッチ。

 DS研の治療施設に幽閉された第四種たちの姿が、脳裏に浮かぶ。

 考えてみれば、私は完全に油断していた。

 グリッチは裏世界にあるもの。中間領域には存在しない。そう勝手に決めつけていた。

 それじゃあ……この小柄な体躯のスタッフは、本当に小桜なのか?

 私たちを助けに来て、その途中でグリッチを踏んだ……?

 あらぬ想像が脳内で膨らんでいく。

 私は慌てて、バッと口元を押さえた。

 そうしなければ、思考の全てを口から吐き出してしまいそうだった。

 私と鳥子が固まって、小柄なスタッフの前で立ち尽くしていると、遠くから人の声が聞こえた。

「オォ……ィ! オォ……ィ!!」

 鳥子と顔を見合わせる。

 確かに聞こえる。空耳ではない。

「オォ……ィ! オォ……ィ!!」

 私たちはゆっくりと手すりにつかまり、階下を見下ろした。

 そこには、両手を振って声を張り上げる淡い色の髪の小柄な人物と、同じぐらいの背丈の黒髪の人物がいた。

 ──小桜と霞だ。

「オォ……ィ! ォァォチャァ!! ォリォー!!」

 呼ばれている、確かに呼ばれている気がした。

 私と鳥子は、そっと顔を見合わせる。

 小柄なスタッフは、変わらず無言で、私たちを見上げたままだった。

 いや、なら何だよ、お前。

 

 

 

「小桜! 小桜ー!! 良かった!! 霞もー!!」

 鳥子が大はしゃぎで階下の二人に手を振る。私も混ざりたいところだが、背後の小柄なスタッフの存在がそれを許さなかった。

 不気味だ。私たちからまったく離れようとしない。

 前を向いた瞬間、その長い腕で鳥子と私を後ろから突き落とすのではないか──そんな想像が頭をよぎる。体が固まる。

「ちょっと待っててー! すぐにそっちにいくからー! 階段とか、どこにあるか知ってるー!?」

 鳥子が矢継ぎ早に呼びかける。私は警戒を解かず、一瞬だけ階下に視線を落とした。

 案の定、小桜は困惑しているようだった。鳥子の声は届いているが、意味のわかる言葉としては届いていない──そんな印象だ。

 何往復か声をかけてみるが、会話の端々から内容を想像で補うしかなく、対話として成立しているとは言い難い。

 どうするか……。思考を巡らせていると、ふと思いついた単語が口をついて出た。

「スマホ……」

「え?」

 鳥子が私の曖昧な呟きを聞き返す。

 私は一呼吸置き、思考を整理してから提案する。

「スマホで電話してみたらどうかな」

 鳥子は首を傾げた。もちろん、当然の反応だ。

「中間領域とか裏世界では、電話してもうまく伝わらないんじゃないかな……って思うんだけど?」

「うん、そうなんだけど……」

 私は過去の経験を思い返す。

「きさらぎ駅とか、昨日の偽茜理との電話ってさ、相手が見えない状態でのやり取りだったじゃない? だから途中で会話が途切れたり、偽物が電話に出たりして変なことになった」

 鳥子は真剣な表情で、私の言葉を聞いている。

「でも、今は小桜さんの姿が見えてるでしょ?」

「あ、そっか」

 鳥子が手をパンと叩いた。

「それならうまくいくかも……試す価値あるね! 失敗しても失うものはないし、やってみよう!」

 鳥子は懐からスマホを取り出すと、素早く画面を操作し、私にも見えるように構えた。

 表示されたアンテナは、しっかり立っている。

 発信音が鳴り、すぐにスピーカーモード特有の軽い反響が空間に広がった。

 私は階下を見下ろす。

 小桜が、慌てた様子で右往左往している。

 突然の着信音に対応できていないのだと、すぐに察しがついた。

「うまくいきそう!」

「やった!」

 鳥子が言い終えた、その直後だった。

 スマホから、わずかなノイズと荒い息遣いが聞こえてくる。

《おいおいっ、これ大丈夫なのか!?》

 唐突すぎる第一声に、私は思わず面食らった。

 再会の挨拶としては、完全に予想外だ。

「小桜! 鳥子だよ! 聞こえる!?」

 一瞬の沈黙。

 電話の向こうで、戸惑う気配が滲む。

《聞こえてるが……本当に大丈夫なのか? 裏世界で電話すると、おかしくなるんだろ? 確か》

「大丈夫! お互いが見えてる状態なら、変になったらすぐ切ればいいし。それに――」

 鳥子は少し得意げに続ける。

「よく考えたらさ、私と空魚、中間領域越しに長電話してたこと、あったよね!」

「え? あったっけ?」

 何だろう、それ。

 本気で記憶にない。

 記憶を必死に漁る私を見て、鳥子は顔を上げ、少し拗ねたように唇を尖らせた。

「あったよ! 私もいま思い出したんだけど、私の行ってた大学で、空魚だけ中間領域に飛ばされちゃったやつ! 忘れちゃったの?」

 その言葉で、記憶が一気に繋がった。

 連絡の取れなくなった鳥子を探して、私が鳥子の通う大学に突撃した事件のことだ。

 もう一年以上前の話だ。

「思い出した……鳥子に叩かれた時のやつね」

「ちがーう! 叩いてない! 振り向いた時に手が当たっただけでしょー!」

 鳥子が不満そうに声を張り上げる。

 私としては「手が当たった」でも「振り向きざまに引っ叩かれた」でも、正直どちらでもいい。

《おまえら……この状況で、あたしを置き去りにして昔話すんなよな》

 呆れ切った声色で、小桜が言った。

「すみません。電話が繋がったのが嬉しくて……」

《わかってる。それはもういい》

 小桜は短く言い切る。

《問題は、これからどうやって合流するかだろ?》

 もっともな指摘に、私は小さく頷いた。

「普通に考えれば、上下階を繋ぐ階段かエスカレーターがあるはずなんですけど……」

 私は周囲を見渡しながら続ける。

「ここから見える範囲には、無さそうに見えます。小桜さんの方はどうですか?」

《あたしも全部を見て回ったわけじゃないが……少なくとも、階段もエスカレーターも見てないな》

 その返答に、鳥子は宙を見上げた。その場にしゃがみ込みそうな雰囲気だ。

「じゃあ……どうすればいいの……?」

 それは、ほとんど独り言だった。

 私にしか届かないほど小さな声。

 その姿を見て、私ははっきりと思い出す。

 ──私たちには、「小桜たちと合流しない」という選択肢はない。

 ここまで来るのに、想定よりもずっと時間を使ってしまった。

 今から全力で拠点に引き返したとしても、半分も行かないうちに閉店時間が来る。

 それは、さっき地図を見た時点で、もうわかっていた。

 いまさら拠点には戻れない。

 だから──。

 今ここで、なんとかするしかない。

《もう、いっそ飛び降りられればいいんだがなぁ》

 冗談混じりの軽口のような言葉が聞こえた。

 私は思わずスマホを見下ろした。

 鳥子の、さっきの深刻な声が聞こえなかったのだろうか。

 ……いや、あれは本当に小さな声だった。聞こえなくても不思議はない。

 それでも。

 今の軽口を、どう受け取ればいいのか、少しだけ迷った。

 この状況で出てくる言葉としては、どこか温度がずれている気がした。

 私は口を閉じる。

 余計なことを言わないように、言葉を飲み込む。

 電話口の向こうで、小桜は私の無言に気が付かないまま話を続けていた。

《こっちの方で、クッションとかマットレスとか、いくらか重ねておくからさ。そっちはなんとかロープになるもの探して──》

「それーっ!!!」

 言葉を遮る鋭い叫び声。

 鳥子だった。

 叫ぶのと同時に、鳥子は勢いよく立ち上がっていた。

「空魚! 持ってて!」

 私は驚いたまま動けずにいると、鳥子は私の胸元にスマホを押し付けるようにして渡した。

 そして、振り返るや否や、家具や棚が並ぶ展示ブースへと駆け出していく。

 一瞬の出来事だった。

 私はその背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。

《……え? 大丈夫か?》

 手の中から聞こえた小桜の声に、ようやく我に返る。

 状況がまだ飲み込めないまま、私は曖昧に答えた。

「ええと……たぶん?」

 

 

 

「スマホの充電が気になるので、一旦切ります。後でかけ直します」

《おう。何かあったら連絡くれ。ここで待ってるから》

 私は小桜との通話を切ると、すぐに鳥子の後を追った。

 向かった先は、ついさっきまで私たちが通ってきた場所──ベッド売り場だった。

 さっきまで整然と並んでいたはずの売り場は、見る影もない。

 床一面に、包装を破られた大量のベッドシーツがぶちまけられている。

 その中心で、鳥子はあぐらをかいて座り込み、黙々と手を動かしていた。

「鳥子……なにやってるの?」

 意図が読めず、私は思わず訝しんで訊いた。

「あ、空魚! そのシーツの包装、破いて中身出しておいてくれない? 次に使いたいから!」

 説明はない。

 私は黙って、鳥子の指示通りベッドシーツの包装を破り、中身を引きずり出す。

 何をしているのかを改めて訊くのは、やめた。

 鳥子の手元を見て、だいたい察しがついたからだ。

「シーツとシーツを結んで、ロープにしてるの?」

「その通り!!」

 鳥子は顔も上げずに、即答した。

「ママから教わったことがあるの! 高いところから降りる時の、ロープの結び方!」

「すごいね……鳥子、万能じゃん」

 私は、今しがた開けたばかりのベッドシーツを手渡す。

 それを受け取って、鳥子はようやく顔を上げ、私と目を合わせた。

「でしょ〜??」

 ……うーん。

 これは完全に調子に乗っている顔だ。

 ここまでのドヤ顔は、なかなか拝めないレベルである。

「小桜の言葉でピンと来たんだ〜! 私、きっと今日ここでベッドシーツ結ぶために、この技術をママから教わったんだと思う!」

 私は鳥子のそばに腰を下ろした。

「鳥子、何か手伝えることある?」

 そう訊くと、鳥子は一瞬だけ手を止めて「うーん」と唸った。

 けれどすぐに視線をシーツへ戻し、結びの作業を再開する。

「ごめん空魚。これは命に関わる作業だから、頼めないや……」

「そっか」

 私は短く返して立ち上がり、近くの棚からベッドシーツを一枚抜き取った。

「じゃあ、あと何枚くらい必要?」

「あ、必要な枚数はさっき貰ったので十分だから! 空魚は休んでて!」

「……わかった。何かあったら言ってね」

「うんっ」

 シーツ結びに没頭する鳥子に背を向け、私は歩き出そうとした。

 小桜に、対処法が見つかったことを伝えるためだ。

 ──その直後。

 私の真後ろに、気配があった。

「うわぁっ!!??」

「え、なに!?」

 私の悲鳴に、鳥子の声が重なる。

 心の中で「びっくりして大声が出るのは、生理現象だから仕方ない」と言い訳しながら、私は深く息を吐いた。

「ご、ごめん、鳥子……振り向いたら、またこいつがいて……」

 すぐ背後に、小柄なスタッフが立っていた。

「え? ああ……それね。しょうがないよ──あっ、ムカついたからって撃っちゃだめだよ? 何が起きるか分からないから」

「撃たないよ、それくらいで……」

 私は半眼で鳥子を見る。

「鳥子の中で、私のイメージどうなってるの?」

「鵼の引き金が軽い方」

「納得いかない……」

 私は視線を落とし、目の前で私を見上げているストーカースタッフに、低い声で言った。

「あのさ。人の真後ろに、気配消して立つのやめてくれない? 次に同じことしたら撃つから。……わかった?」

 鳥子が、くすっと笑った。

「そ、空魚。いま撃たないって言ったばっかりじゃん。それに、もはや脅し方がワイルドとかアウトロー超えて、ただのギャングだよ。ふふふ」

「それでいいよ、もう」

 私はスタッフの横をすり抜け、鉄柵の方へ向かった。

 ……振り向く。

 ストーカースタッフは、私のすぐ背後にぴったりと張り付いたまま、離れなかった。

「………………」

 それを見ていた鳥子が、堪えきれずにケラケラ笑い出す。

「空魚、完全に狙われてるじゃん! ナンパだよ、ナンパ!」

「気持ち悪いだけだよ!」

 

 

 

 小桜に電話をかけ、鳥子がママさん印のシーツ結びでロープを作っていることを伝えた。

 通話を切ってから二十分もしないうちに、鳥子がこちらへ駆けてくる。

 抱えきれていないロープが、ずるずると地面を擦っていた。

 私は鳥子を出迎え、引きずられていた分をなるべくコンパクトに丸めて抱え上げた。

「お待たせー! 久しぶりにやったから、ちょっと時間かかっちゃった!」

「全然、待ってないよ。お疲れ様、鳥子」

「えへへへ。うん」

 少し照れたように笑う鳥子を見てから、私はロープに視線を落とす。

「強度とかの確認はしなくて平気? 両端から引っ張るとか」

「あ、それ、今頼もうと思ってたとこ。そっちの端っこ、持っててくれる?」

 私は指示通りシーツの端を掴み、鳥子から距離を取るように後ずさった。鳥子も同じように離れていく。

 弛んでいたロープが持ち上がり、ぶらぶらと頼りなく揺れたあと、テンションがかかった瞬間に、ぴんと一直線に張った。

 互いに力を込める。

 布がきしむ音が、やけに大きく耳に残った。

 鳥子はそれを確かめるように一度だけ引き、十分だと判断したのか、小さく頷いた。

 これで終わりかと思ったが、鳥子は今度は鉄柵の手すりへ向かい、ベッドシーツを結びつけ始める。

「ここも結ぶんだ?」

「うん。むしろ、ここが一番大事。ここを手抜きすると、ロープが外れて、真っ逆さまになるから」

 淡々とした口調が、逆に現実味を帯びていた。

 鳥子は迷いなく、シーツを複数箇所に結びつけていく。素人目にも、負荷を分散させるための処置だということは分かった。結び目ひとつひとつに無駄がない。

 職人芸みたいだ、と思う。

 私がやっても、たぶんこうはならない。

 私は、鳥子がシーツを結び終えるまで、黙ってその手元を見つめていた。

 いつのまにか、私の背後から鳥子の背後へと回り込んでいたストーカースタッフも、同じようにそれをじっと観察しているように見えた。結び目に興味があるのか、それとも私たちに興味があるのかは、分からない。

「──よし、できたっ!」

 鳥子が声を上げ、ふぅ、と短く息を吐く。額の汗を拭うような仕草をしてから、手すりに巻きつけたロープをもう一度だけ確かめた。

 手すりに固定されたロープと、最初に作った長いロープが組み合わさっている。

 見た目だけなら、かなり頑丈そうだ。

「降ろします。念のため、気をつけて」

《はいよ》

 電話越しの小桜の返事を合図に、鳥子はロープを下の階へ向けて、ゆっくりと降ろしていった。

 私は鉄柵からほんの少しだけ身を乗り出し、階下を覗く。

 小桜が、どこからか運んできたマットレスを、ロープの真下に引きずってきているところだった。用意がいい。

「じゃあ、降りる前に簡単なレクチャーするね」

 鳥子がこちらを振り返る。

「知ってるのと知らないのとでは、怪我のリスク──どころか、命に関わることもあるから。ちゃんと聞くこと。いいね?」

 声の調子が、いままでとは明らかに違った。

「う、うん。わかった」

 私は反射的に頷く。

 鳥子の態度が、急に切り替わったように感じた。

 思わず「イエスマム!」と返事をしそうになる。

 そんな雰囲気だった。

「じゃあ、大切なこと」

 鳥子が、人差し指を立てる。

「一つ。腕に力を入れすぎないこと」

 続いて、中指。

「二つ。結び目は、踏まないこと」

 私は意外に思って言った。

「結び目って、踏んじゃダメなんだ? 足引っ掛けるのに使えそうなのに──」

「そう思っても、絶対に踏まないでね」

「あ、うん」

「よし」

 そう言うと、鳥子は手すりに腰を預け、そのまま、ためらいもなく体を外へ出した。

「え、もうやるの!?」

《ええ……おいおい。いくらなんでも説明が雑すぎないか?》

 講習が始まるのかと思ったら、一瞬で実践が始まった。

 私は思わず声を上げ、電話越しに小桜も異議を唱える。

 一方で鳥子は、驚くほど落ち着いた表情だった。

 足にシーツを二度回し、ゆっくりと体重を預ける。腕には、ほとんど力が入っていないように見える。

「ロープは一人ずつ降りる。理由は、負荷が集中して危険だから」

 淡々とした口調で言いながら、鳥子は体勢を整える。

「私が先に降りるから。空魚は、よく見てて」

「わ、わかった……」

「腕で支えないで。足ね」

 それだけ言って、鳥子は下を見なかった。

 視線はずっと、布と、その先の結び目に向いている。

 一段。

 また一段。

 結び目の手前で体を止め、足の位置を慎重にずらす。

 布が擦れ、低い音を立てた。

「……怖くないの?」

 どうしても我慢できずに聞くと、鳥子は一瞬だけ顔を上げた。

「怖いよ。でも、やり方は知ってるから」

 それだけ言って、また視線を元に戻す。

「空魚も、降りる時は下を見ないでね」

 それ以上は語らず、鳥子は再び降下を続けた。

 一つ一つ。

 単純で、正確な動作を繰り返しながら、ゆっくりと、確実に。

 そうして、数分もしないうちに、鳥子は一階に着地した。

 マットレスの上に降り立ち、軽く体勢を整える。

 そして両手を振り、こちらへ向かって合図を送ってきた。

《これから先、何があるのかはあたしにもわからんがな。これを、あたしにもやれ、とだけは絶対に言うんじゃねえぞ》

《大丈夫。しないよ。たぶん》

 電話口から、小桜が鳥子に向かって牽制しているのが聞こえてきた。

 私はスマホを胸ポケットに入れる。

 電話は、繋いだままだ。

 心臓のバクバクが、止まらない。

 今までの人生で、死にそうな目に遭ったことは何度もある。

 カルトも、裏世界も、だいぶ経験してきた。

 けれど、これはまた……別種の恐怖だった。

 震える手を、揉み手することで誤魔化す。

 意味はないとわかっているが、何もしないよりは気が紛れた。

 深呼吸して、私も鳥子にならって手すりに体を預けようとした、その瞬間。

 お尻のポケットの中で、厚手の紙が擦れる「クシャ」という音がした。

 何だろう、と一瞬だけ意識が逸れる。

 取り出してみると、そこにあったのは、さっきまで使っていたフロアマップだった。

 反射的に、私はそれをトートバッグの中へ放り込む。

 今は中身を確認する余裕がないし、必要もない。

 フロアマップの存在そのものを、私は意識の外へ追いやった。

 改めて、柵に腰をかける。

 鳥子に言われた通り。

 鳥子が、やっていた通りに。

 腕に力を入れすぎない。

 足に、シーツを回す。

 結び目に体重をかけない。

 そして──絶対に。

 死んでも。

 地面は、見ない。

「行きます!」

《がんばれ、空魚ちゃん!》

《がんばって! 空魚!》

 小桜の応援と、さっきまでの険が抜けた鳥子の声が、胸ポケットから聞こえてくる。

 私は、ずりずりと。

 ナメクジ並みの速度で、ロープを降りていった。

 頭の中のイメージほど、スルスルとはいかない。

 少し体重を預けるだけで、ロープが頼りなく揺れる。

 いま、どれくらい降りたんだろう。

 聞けば教えてくれるはずだ。

 でも──「まだ一メートルくらいだね」

 なんて言われたら、その瞬間、一切動けなくなりそうだった。

 ああ、骨組みビルの、錆びついたハシゴが恋しい。

 あれも大概ではあるけれど、このロープの、フラフラとした浮遊感とは安定がまるで違う。

 今度、骨組みビルに行ったら、ハシゴを磨いてやろう。

 本気で、そう思った。

《空魚、大丈夫だよっ。順調だからね!》

《いける、いけるぞ! 空魚ちゃん!》

 胸ポケットから、二人の声が聞こえる。

 嬉しかったが、正直なところ、少し気が散った。

 それでも私は、ひたすら恐怖と戦いながら、ロープを降り続ける。

 ──と、その時だった。

 胸ポケットの中が、ふっと静かになった。

 一瞬、違和感を覚える。

 だが、ある意味では助かったのかもしれない。

 これで、集中できる。

 そう思った、まさにその瞬間。

 胸ポケットから、不穏な言葉が聞こえてきた。

《──なあ、アイツ、なんだ? なにやってんだ……!?》

 声の主は小桜だった。

 険しい声で、何かに強い疑問を投げかけている。

 ──アイツ? 誰のことだろう?

 疑問符を浮かべた、その直後。

《空魚っ! 急いでっ! あのスタッフ、ロープに何かしてる!!!》

 鳥子の声は、ほとんど悲鳴だった。

 私は反射的に顔を上げる。

 鉄柵を越えて、あの小柄なスタッフが身を乗り出している。

 長い腕が、もぞもぞとロープに触れていた。

 ──何を……?

 その瞬間、ついさっきの光景が脳裏に蘇る。

 鳥子がロープを結んでいた時、すぐ背後で、あれを食い入るように見つめていたスタッフの姿。

 ──ロープを、解こうとしてる……!!

 私は一気に背筋が冷えた。

 大急ぎで降りようとする。

 だが、焦りのせいで足が言うことをきかない。

 ロープを足に絡めようとして、失敗。

 もう一度、やり直して、また失敗。

 何度も続けてミスをして、思考がぐちゃぐちゃになりかける。

「鳥子! アイツ撃って!!」

《……できないっ! 弾丸がロープに当たる!……柵に当たったら、破片が空魚に当たる!!》

「──クソッ!!」

 思わず怒鳴る。

 だが私は、そこで一度、無理やり動きを止めた。

 肺いっぱいに空気を吸い込み、深く息を吐く。

 今すぐロープを登って、あのスタッフを殴り飛ばしたい。

 衝動が全身を駆け巡る。

 ──でも、今は違う。

 今いちばん大事なのは、落ちないことだ。

 私は目を閉じ、右足に神経を集中させる。

 ロープを、二回転分。確実に。

 一回目。

 失敗。左足に絡まった。

 二回目。

 失敗。一回転分しか巻けない。

 三回目。

 右足に、二回転分、しっかり巻き付いた。

 ──成功。

 その瞬間、体勢が一気に安定した。

 私は焦るのをやめた。焦ったところでどうにもならない。

 ただひたすら、いま生きるために。鳥子の動きを思い出し、真似ることに集中する。

 少しずつ。

 本当に、少しずつ。

 確実に、着実に、下へ降りていく。

 体感で、三分くらいが経った。

 もう、自分がどの高さにいるのか分からない。

「鳥子。私、いま、どれくらい?」

《あと……まだ八メートルくらい》

 その返答に、すぐ小桜の声が被さる。

《空魚ちゃん、飛び降りようとか考えんなよ? その高さは普通に死ぬラインだからな!?》

「はい、大丈夫です……ところで」

 私はロープを降り続けながら、鳥子に問いかける。

「上の奴、まだ何かしてるみたいだけど……鳥子が作った結び目って、ああいうのが触ったくらいで解けるものなの?」

《………………》

 電話の向こうで、鳥子が息を呑む音がした。

 数秒の沈黙のあと、はっきりとした声が返ってくる。

《できない。刃物でも使わない限り、ボーラインは外れないっ!》

「そっか……なら、安心して降りれるね。ママさんに感謝だ」

 ボーライン、という言葉の意味は分からなかった。

 でも、ロープの結び方の名前だということは察しがつく。

 鳥子が信じている。

 なら、私も信じよう。

 私はロープを、先ほどよりもスムーズに降りていった。

 ここにきて、ようやくコツを掴んだ気がした。

 薄く目を開き、体を流れに任せていると、鳥子の声が聞こえた。

 真下からと、胸ポケットの中から──ほぼ同時に。

「《空魚! もう二メートル切ったよ。もう平気!!》」

「そっか……よかった」

 私はロープを掴んでいた右手を放し、胸ポケットからスマホを取り出して通話を切った。

 もう会話するのにスマホはいらない。

 それに、充電がもったいない。

 左足が、ふわりと柔らかい感触を捉える。

 マットレスだ。

 右足に巻き付けていたロープを外し、そのまま体重を預けると、私は完全に地面へ降り立った。

「空魚!」

 すぐそばで待機していた鳥子が、勢いよく抱きついてくる。

 私も、反射的に抱き返した。

「よかったぁ……何が起きるのかと思ったよ」

「私も。……鳥子がちゃんとしたロープで結んでくれたから、なんとかなった。ありがとう」

 胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ抜けていく感じがした。

 私は顔を上げて、反射的に鉄柵から伸びていた腕を探す。

 さっきまで、確かにそこにいたはずの──小柄なスタッフの姿は、どこにもなかった。

 ……消えた?

 胸の奥に、じわりと嫌な感触が残る。

 あのスタッフ。

 次に会ったら、絶対に許さない。覚悟しておけ。

 そんなことを考えていると、小桜がこちらへ駆け寄ってきた。

 私たちは短く、ぎゅっと抱き合って、互いの無事を確かめる。

 私は最後に、腕時計へと視線を落とした。

 ──閉店時間まで、残りわずか。

 安堵の余韻は、もう終わりだった。

 

 

 

 9

 気を取り直した私と鳥子は、さっそく小桜に情報を共有した。

 小桜は私たちの話を遮らず、無言のまま指を一本ずつ折りながら聞いていく。その仕草が、やけに落ち着いて見えた。

「まず一つ。この場にはいないけど、瀬戸ちゃんと市川さんも閉じ込められてる」

 一本目。

「二つ。ここのIKEAは閉店時間になると真っ暗になる。閉店は十九時……あと十分ってところか」

 二本目。小桜は短く息を吐き、わずかに眉を寄せて次の指を折る。

「三つ。暗くなると、化け物が凶暴化して襲ってくる。……さっきの奴みたいなのだな」

 三本目。小桜の声に、わずかな緊張が混じったのがわかった。

「四つ。表世界と、このIKEA迷宮には時間差がある。正確にはわからんが、表の十分は、裏の一日相当」

 四本目を折ると、小桜の目つきが少し鋭くなる。

「五つ。出口は見つからず、今のところ脱出手段は霞のシフト能力だけ……」

 五本目を折り切ると、小桜はしばらく指先を見下ろし、それからゆっくりと視線を私たちに戻した。

「合ってるか?」

 私は反射的に頷いた。

 小桜は軽く腕を組み、こちらを値踏みするように一拍置いてから、深く一つ頷く。

「だいたい思ってた通りだな」

「え? 小桜、分かってたの?」

 鳥子が目を見開いて問いかける。

 小桜はもう一度頷き、声を少し落として話し始めた。

「最初にあたしと霞が、こっちのIKEAで数十分うろついてたのに、表に戻ったら逆浦島太郎みたいに、ほとんど時間が経ってねえ。表で空魚ちゃんや瀬戸ちゃんたちに電話かけても誰も出ねえ。閉店時間とかスタッフのことは知らなかったが……化け物がいるのは、まあ予想の範囲内だ」

 小桜は肩をすくめる。

「やっぱり、速攻で戻ってきて正解だったな。……しかし十分で一日とか──あたしが表で一日過ごしてたら、空魚ちゃんたち側は百四十四日ズレるってことだろ? ヤバすぎんだろ……」

 私はそのまま話を続けたかったが、胸の奥に引っ掛かっていた違和感を無視できず、言葉を切り替えた。

「小桜さん、怖く……なかったんですか? それに、私たち、普段は何かあっても自力で戻ってきますよね。どうして今回は助けに来てくれたんですか?」

 矢継ぎ早な質問に、小桜は半目になって返す。

「なに? 助けに来なかった方が良かった?」

「違います違います。単純な疑問です」

 そう言うと、鳥子も弾むような調子で口を挟んだ。

「ねっ、それ私も気になる!」

 小桜は面倒くさそうに目を細め、ちらりと霞へ目配せする。霞は相変わらず、退屈そうに指先をいじっているだけだった。

 小桜は一度息を整え、声を少し低くする。

「怖いかどうかなんて……怖えに決まってんだろ」

 一拍置いて、腹のあたりを指で軽く叩く。

「今も、ちょっと腹の底が震えてんだよ。……でもなあ」

 声量を抑えたまま、小桜は言葉を続けた。

「霞がいる前で、お前ら見捨てて帰るわけにもいかねえだろ? それ保護者失格だろ!?」

 吐き捨てるように言ってから、少しだけ視線を逸らす。

「あたしだって、帰れるもんなら帰りたかったわ!」

 ふぅ、と鼻を鳴らして息をつく。

「あとは、なんだっけ……お前らが自力で帰ってくるかどうかについては、あたしもそう思ってた。だから今回、合流できなかったら、なんか理由つけて先に帰るつもりだったんだよ」

 口の端を少しだけ歪める。

「運が良かったな、お前ら」

 私と鳥子は顔を見合わせ、ほとんど同時に安堵の息を吐いた。

 ……あの時、引き返さなくてよかったのだ。

「わかりました。助けに来てくれて、本当にありがとうございます……それで、今後の話なんですが」

 私は無意識に手のひらを擦り合わせ、言葉を探すように続ける。

「まずは一度、表世界に戻って、ここの夜をやり過ごします」

「そうだな」

「うん」

 小桜と鳥子が短く頷いた。

「表に戻ったら、なるべく正確に時間を測って、もう一度ここに入ります。そのあとは茜理……たちと合流して、霞の作ったゲートで脱出。……以上です」

 言い終えた瞬間、口の中にかすかな苦味が広がった。

 胸の奥で、言葉にならない違和感がじわりと立ち上がる。

 瞬間、理解してしまった。

 いまの茜理の気持ちを、無意識に想像してしまったのだ。

 胸が、ひやりと冷える。

 いつまで経っても帰ってこない私たちを待ちながら……いま頃、茜理たちは何を考えているのだろう。

 ……約束を破ったことを、後悔していないはずだった。

 結果論だが、そうしなければ小桜は帰ってしまい、取り返しのつかないことになっていた。

 私の判断は、正しかったはずだ──。

「空魚」

 鳥子が、私の手を軽く引いた。

 そのまま、私の目をまっすぐ見つめる。

「もし怒られるなら、一緒に怒られよう」

 その一言で、ようやく息が吸えた。

 ……それにしても、どうして鳥子は、私が頭の中で考えていることを、こんなにも簡単に読み取ってしまうのだろう。

「うん……ありがとう、鳥子。何度もごめん」

「ううん。私は、なんだか嬉しいよ? 空魚が人の心を理解できてるみたいで」

「私は怪物か何かなの?」

 くだらないやり取りに、思わず笑いがこぼれる。

 体の中に溜まっていた不快感が、少しずつほどけていく。

 頭で考えるより先に、体が反応している感覚だった。

 胸の奥にあった冷たいものが、ゆっくり晴れていく。

「……なに、なんかあったの? 空魚ちゃん、顔色やばかったけど」

 小桜の言葉に、思わず苦笑が漏れる。

「約束、してたんです。茜理と」

「瀬戸ちゃんと……なんて?」

「必ず、帰ってくる。って……」

 小桜は眉をひそめ、首を少し傾げた。

「……いま、そのための話をしてたんじゃなかったか?」

 私は小さく笑いながら答える。

「そうですね。ちょっと違うんですけど……おおよそ、そんな感じです」

 鳥子も笑って、首をこくこくと振った。

「生きて戻れば、約束は続きだからね」

 その言い方が不思議と鳥子らしくて、私は一度だけ深く息を吸う。

「そうだね」

 今は進むしかない。夜が来る前に。

 

 

 

 私たちはゾロゾロと連れ立って、身を隠せそうな場所を探して歩いていた。

 このまま霞のシフトで表世界に帰ってしまうと、下手をすれば公衆の面前で、私たちが突然出現する瞬間を目撃されてしまうかもしれない──そんな懸念があったからだ。

 もっとも、それは「懸念」であって、「対策」と呼べるものではなかった。

 どこに隠れたところで、これなら絶対に安心だと言い切れる場所など、そもそも見当たらない。

 だから半ば諦めかけていた、そのときだった。

 視界の端に、整然と並んだベッドの展示がちらりと映る。

 私は足を止め、振り返った。

「……大きなベッドに、全員で寝ませんか?」

 三人の視線が集まるのを感じながら、私は続ける。

「頭からシーツをかぶっていれば、私たちがいきなり現れても、見た人も『気のせいか』って思うんじゃないかなって……」

 小桜は腕を組み、少し難しい顔をした。

「そう、かぁ……?」

「私は良い案だと思うけど。小桜はどうしたの?」

 鳥子が首を傾げて訊くと、小桜は苦い顔のまま応えた。

「最初、あたしと霞がこの迷宮から帰ったときさ、スタッフの真後ろに出てきちまって……。めちゃくちゃ驚かれたんだよなぁ」

「そんなこと言っても、どこに隠れたって、表でどうなるかなんて誰にもわからないよ。それに、もう時間もないし」

「……まあ、そうだが……」

 私と鳥子がベッドのショールームの方へ歩き出すと、小桜は一瞬だけためらい、それから霞の手を引いて、渋々ついてきた。

 ショールームには、無数のベッドが規則正しく並んでいた。

 その中で、ひときわ異様な存在感を放っているものがある。

 私は、ほとんど反射的にその巨大なベッドを指差した。

「……なにあれ。大きい……」

「キングサイズかな?」

 私の感嘆に応えるように、鳥子がぽつりと言った。

「このベッドでいいよね? 少し待ってて。私、AK解体しちゃうから」

「あ、そっか」

 そう言うや否や、鳥子は迷いなくAKの解体を始めた。

 その手際につられるように、私も腿からマカロフとレッグホルダーを外し、まとめてトートバッグに移し替える。

 よし、と顔を上げたときには、鳥子はすでにAKをバラバラにして、自分のバッグへ部品を収めているところだった。

「速いね」

「そう? 昔はもっと速かったよー?」

 得意げなその様子に、私は思わず鳥子の頭をひと撫でした。

 そのままベッドに腰掛け──そこで、ようやく気づく。

「……なあ、これ。靴、どうするんだ?」

 私と同じところに目が行ったらしく、小桜もベッドに膝をつきながら口を開いた。

 私と鳥子は、揃って自分たちの足元を見る。

 確かに、靴を履いたままベッドに入るのは、かなり心理的な抵抗がある。

「靴のままベッドに、とか……霞に変なことさせたくねえんだが……」

 小桜はそう言って、助けを求めるような視線をこちらに向けてくる。

 ……どうする?

 履いたまま寝るのは論外だし、手に持つにしても汚れがベッドにつきそうで嫌だ。

 ……仕方ない。

「……靴、私のバッグに入れておきます。脱いじゃってください。鳥子の靴も、私のに入れていいよ」

 言いながら、私はまず自分の靴をバッグに押し込む。

 それを見て、鳥子が少し戸惑ったように訊いた。

「……いいの?」

「いいよ。もう自分の入れちゃったし。三足増えても問題ないでしょ」

「そっか……ありがとう」

 私はバッグの口を鳥子に向ける。

 鳥子は少しだけ躊躇してから、自分の靴を中に入れた。

「ごめんね?」

「いいよ。……はい。小桜さんと霞も」

「あー……悪いな、空魚ちゃん。ほら、霞。空魚ちゃんにお礼言いな」

「あー……悪いな、空魚ちゃん」

 霞はまったく悪びれた様子もなく言う。

 私は特に気にせず、二人分の靴もバッグに詰め込んだ。

 それから、ようやくベッドに潜り込む。

 ベッドメイクされたベッド特有の、ピシッと張ったシーツの硬さが背中に伝わった。

「私ここ!」

 鳥子が私の左隣に潜り込んでくる。

 私は少し右へ身をずらし、空間を空けた。

「ほら霞、ベッドに入って。空魚ちゃんの隣」

 小桜がベッドシーツを軽く持ち上げ、霞を促す。

 霞は四つん這いのまま枕元まで進むと、そのままシーツの中へ体を滑り込ませ、私の右隣でモゾモゾと動いた。どうやら、ちょうどいい位置を探しているらしい。

 続いて小桜もベッドに入る。

 一度だけ身じろぎすると、何かしっくり来たのか、ぴたりと動かなくなった。

 ──全員、準備完了。

 体を横たえると、四人の間に隙間はほとんどなく、まるでぎゅうぎゅうに押し込まれたパズルのようだった。

 私と鳥子は互いの肩や足を寄せ合いながら、どうにか体勢を整える。

「みんなー、隣の子と手を繋いで〜」

 唐突にそう言われて、霞が私の右手を握った。

 柔らかくて、ぽかぽかしていて、少しだけ手汗で湿っている。

 その感触と言葉で、私は思い出す。

 初めて霞と出会った日。赤い夕日に染まった世界で、八百尺様に追われながら、霞は私と鳥子の手を引いて、表世界へ連れ戻してくれた。

 私は左手をベッドの中で探り、鳥子の手を取る。

 目が合うと、鳥子は小さく一度、頷いた。

 どうやら、考えていることは同じらしい。

 ──小桜は。

「な〜べ〜な〜べ、そ〜こぬけ〜」

 小桜が、急に謎の呪文を唱え始めた。

「……小桜さん?」

 声をかけると、小桜ははっと我に返る。

「すまん、支援学級の癖が……」

「良かった……怖くて、おかしくなっちゃったのかと思った」

 鳥子が胸を撫で下ろす。

 私も、まったく同じ気持ちだった。

 気持ちを切り替え、私は腕時計を見る。

 こうしている間にも、時間は確実に迫っている。

「そろそろ閉店です。霞、準備できてる? 全員、手は握ってま──」

 握ってますよね?

 そう言い切る直前、強烈な違和感が喉を塞いだ。

 一秒遅れて、その理由に気づく。

 ──私の足元に、あの小柄なスタッフが立っていた。

「ひっ……」

 喉が締まり、掠れた音が漏れる。

 私は反射的に鳥子の手を握り叫んだ。

「霞っ! やって!!」

 突然の大声に、鳥子と小桜が跳ねる。

「え、どうしたの……? きゃあっ!?」

「うおおっ!? なんだこいつっ!?」

 私はスタッフから目を離さず、霞のシフトを待った。

 ──だが、数秒経っても、何も起きない。

 違和感を覚えて右を見る。

 宙に、青白い燐光がちらついていた。

 その向こうで、霞が天を仰ぎ、歯を食いしばって何かに抗っている。

「霞──痛っ」

 次の瞬間、右手に鋭い痛みと圧迫感が走った。

 霞が、小さく鋭い爪を立て、全力で私の手を握っている。

 理由を考えるより先に、答えが浮かぶ。

 ──シフトが、できない。

 妨害されている。

 ……なぜ?

 疑問が形になる前に、霞が獣のように唸った。

「うううっ……!」

 同時に、さっきよりもはるかに多くの燐光が枕元を舞う。

「頑張れ! 霞っ!」

 思わず、声が漏れた。

「な、なあ空魚ちゃんっ! 今どんな状態なんだ!?」

 半ばパニックになった小桜が、体を起こして叫ぶ。

「原因は分かりませんがっ、霞がシフトできないみたいです! でも……いま、必死にやってます!!」

 そう言い切った瞬間だった。

 太陽が厚い雲に覆われたときのように、店内が、じわりと暗く沈んでいく。

 ──夜が、始まった。

「空魚! マカロフ貸して! コイツ撃つ!」

 そう叫ぶと同時に、鳥子は私と繋いでいた手を離し、私のトートバッグに手を突っ込んだ。

 だが、中はさっき詰め込んだ靴でぎゅうぎゅうだ。合皮と靴紐が絡まり合って、銃の感触に指が届かないだろう。

「ちょっ……!」

 私が声を上げるより早く、

「うあああっ!──あああああっ!!!」

 霞の絶叫が空間を引き裂いた。

 次の瞬間、青白い燐光が爆発するように広がり、キングサイズのベッド全体を包み込む。

 ゲートが、開いた。

「ひゃあっ」

 小桜が間の抜けた悲鳴を上げ、そのまま開いたゲートに吸い込まれるように落ちていく。

 続いて霞の姿も、光の向こうへ呑み込まれた。

 ──まずい!

 反射的に、私は鳥子の腕を掴み直した。

 その瞬間、背面の感覚が消える。

 内臓がふわりと浮き上がり、体ごと落下に引きずり込まれた。

 ゲートの中へ落ちていく。

 すぐ目の前に、同じように引きずり込まれる鳥子の姿が見えて、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 閉じていくIKEA迷宮の向こう側は、すでにほとんど闇に沈んでいる。

 その暗がりの縁に──私たちを見下ろすような影が、確かに立っていた。

 あの、小柄なスタッフ。

 ……気味が悪い。

 ゲートが完全に閉じ、迷宮の風景が視界から消え去った瞬間、私は奇妙な感覚に包まれた。

 何か膜のようなものを、体ごと擦り抜けたような感触。

 右目でもはっきり捉えられない、青黒いモヤ。

 それが一瞬、体の周囲にまとわりついた気がした。

 あれが、霞のシフトを妨げていたものなのか?

 だとしたら、なぜ……。

 答えが浮かぶより先に、背中から柔らかく、弾む何かに叩きつけられた。

 

 

 

「ぎゃあっ!! え、なに!?」

 聞き慣れない女性の悲鳴が、すぐ近くで弾けた。

 眩しい。

 反射的に目元を手で覆おうとして、指先が途中で止まる。誰かと手を繋いだままだと思い出した。──霞だ。

「なんなの!? こんなところで土足で寝てんじゃないわよ、バカじゃないの!?……ったく」

 苛立った声とともに、気配が遠ざかる。

 私は薄く目を開け、その背中を追った。……本当に、知らない人だった。

 もう一度、目を細めたまま空を仰ぐ。

 オレンジ色の電球の光が、均一に降り注いでいる。

 ……電球がある。

 ……天井がある。

 ……人間がいる。

 ──帰ってきた。

 胸の奥で、張りつめていた何かがほどける。

 私はそっと顔を左に向けた。

 鳥子が、そこにいた。

 目を大きく見開いたまま天井を見つめていたが、私に気づくと、ふっと息を吐く。さっきまでの緊張が嘘みたいに、肩の力が抜けていた。

「よかった……」

 声は小さい。でも、震えてはいない。

 鳥子はもぞもぞと身を寄せ、私の左手を両手で包み込んだ。私より少し大きい掌の、柔らかくて、確かな温度。

 鳥子が、少し照れたように顔を近づけてくる。

 ──ああ、これ。

 キスしてほしいときの顔だ。

 朝の挨拶や寝る前のキスは平気でしてくるくせに、口と口のキスだけは、どうしてもこうなる。

 私は静かに顔を寄せ、鳥子の唇に触れた。

 唇が重なった瞬間、周囲の音が、ほんの少し遠のいた気がした。

 一拍おいて離れると、鳥子は満足そうに目を細める。

 それだけのことで、呼吸がわずかに速くなるのが伝わってきた。

 私は鳥子の額に軽くキスをしてから、そっと右を向いた。

 そこにいたのは、霞の背を撫でて労わりながら、こちらを睨みつける小桜だった。まっすぐで、逃げ場のない視線に貫かれる。

「おい」

「はい」

「霞の前でそういうことすんなって、言わなかったっけ? 言ったよな。いつだっけ? あ、行きの電車の中か。なに、一日経ったから忘れちゃった? 早くない? 鳥頭なの? 鳥だけに。でも空魚ちゃんは魚だろ。なんで忘れてんの? てか瀬戸ちゃんたち助けに行くんだろ? 時間、測ってんの? 十分で一日ズレるんだろ? ちょっとミスるだけで、瀬戸ちゃんたちメチャクチャ待ちぼうけ食らうんだけど? てか、あんだけ頑張った霞に『ありがとう』の一言もないわけ? お前らには人の心って物がねえのか???」

 言葉が、容赦なく畳みかけられる。

 私は反論する余裕もなく、条件反射で頭を下げた。

「すみません……危機を乗り越えて、その、気分が高揚していました」

「うるせえ。サカってんじゃねえぞ」

「はい……」

「鳥子も」

「うん。ごめんね、小桜」

 私と鳥子の謝罪に、フンッと鼻を鳴らす音が混ざった。

 小桜は視線を私に向け、そのまま無言で手を差し出す。

「靴、預かってくれてありがとう。あたしと霞の分、返してくれる? あと、いまからで構わないから時間測ってくれ」

「あ、はい」

 私はトートバッグを開き、二人分の靴を取り出して手渡した。

 小桜はそれを受け取りながら、間髪入れずに続ける。

「裏の方の危険な時間は十六時間。こっちに換算すると六分四十秒。理想では、おおよそ六分後、向こうの夜が明けた直後に、人通りのない場所でシフトし直したい」

 私はスマホで六分のタイマーを入れた。スマホの画面で数字が時間を刻み始める。

 早すぎても駄目。遅れれば、向こうでの行動に支障が出る可能性がある。もう四十秒は過ぎているだろう。

「あの……小桜さん、それについてなんですが……」

 言いかけた瞬間、視線が突き刺さった。

 小桜はまだ腹立たしそうに、じっとりと私を見据える。

「なに? 空魚ちゃん。なんか良い案あんの?」

 その語気に、喉が詰まる。

 ここで曖昧さを見せたら、即座に切り捨てられる。そう直感した。

「あ、はい。良い案かは……わかりませんが……」

 言い淀んだ瞬間、小桜の眉が、見るからに不機嫌そうに吊り上がった。

「そういう前フリはいいから、早く言え」

 短い一言が、背中を叩いた。

 私は一度、深く息を吸い、意識を一点に集中させる。

「……再シフトするのは、このベッドからでいいんじゃないですか?」

 小桜の表情を窺いながら、言葉を続ける。

「人通りが多いかどうかはともかく、シーツを被っていれば……私たちが消えたことに、誰も気付かない……と、思います……はい」

 言い終えたあと、数秒だけ沈黙が落ちた。

 小桜は何も言わず、私を見つめ返す。

 ──そして、さらにわずかな間を置いて。

 小桜は、ほんの少しだけ口角を上げた。

「確かにな。良いじゃん。それならギリギリにならなそうだ。やるじゃん、空魚ちゃ──」

「この人たち。ほら、ベッドに土足で寝てるでしょ?」

 その声を遮ったのは、通路から現れた女だった。

 ついさっき、文句を言いながら歩き去った女性客だ。今度は制服を着た女性スタッフを伴っている。

 スタッフは困ったように微笑み、柔らかい声で私たちに言った。

「恐れ入ります、お客様。こちらは展示品となっておりまして、長時間のご利用や専有はご遠慮いただいております。他のお客様のご迷惑となりますので……ご協力をお願いいたします」

「あ、はい。すみません……」

 反射的に謝罪が口をついた。

 専有というほど長く使ってはいないんだけどな、と思いつつも、私は黙って従う。

 フフン、と鼻を鳴らす音。

 顔を上げると、女性客が得意げに顎を突き出し、こちらを見下ろしていた。

 なんだ、この女。

 私たちが、あんたに何をした?

 勝手に驚いて逃げていったのは、そっちじゃないか。

 怒りが胸の奥で泡立つ。けれど、それはすぐに押し込めた。

 私たちには、茜理と夏妃を助けに戻るという、動かせない目的がある。

 ここで感情を爆発させて時間をドブに捨てても、誰も得をしない。

 私はシーツをめくり、足先をスタッフに見せながら、できるだけ落ち着いた声で言った。

「改めて、すみませんでした。それと……見ていただければわかると思いますが、土足ではありませんので、その点だけ訂正を」

 一拍置いて、視線をスタッフに戻す。

「……スタッフさんも大変ですね。貴重な時間を、こういう無駄な対応に使わされて」

 言いながら、バッグから靴を取り出し、鳥子に手渡す。

 そして、自分の靴を履き終えた、その瞬間だった。

「いや、普通に考えて、地面に靴も置いてないのに寝てたら、誰でも土足だと思うでしょ?」

 女性客がヘラヘラと笑う。

「バッグに靴入れるのとかも、常識的に考えて意味わかんないし汚いんだけど? きったない」

 一息に言い切り、女性客は肩で息をした。

 ……もう終わっただろうか。

 私は小さく息を吐いた。

 ──すごく、どうでもいい。

 全員の準備が整ったのを確認し、立ち上がろうとした、その時。

 女性客は息を吸い込み、最後の一言を加えた。

「意味わかんない……頭おかしいんじゃないの?」

「それはあなたのことですよね?」

 短く応じ、私は踵を返した。

 駆け足でその場を離れる。

 これ以上、関わってやる義理はない。

 表世界で使える猶予は、スマホを見ないと正確な時間はわからないが……もう五分もない。

 遅れれば遅れるほど、その分だけIKEA迷宮では時間が進み、茜理たちを長く待たせてしまう。

 私に並走する形で鳥子が声をかけた。

「ありがとう、空魚。言い返してくれて」

「……別に、何もしてないよ?」

 鳥子は軽く首を傾げて、疑問を浮かべる。

「ううん。私、口喧嘩って苦手だから、空魚みたいに上手に言い返せないんだよね」

「じょ、上手……かな?」

 思わず口元がほころんだ。走りながらも、鳥子の言葉に少しだけ胸が温かくなる。

「言うだけ言って、走って逃げてるように見えるんじゃないかな、今の私」

 小さな不安を口に出す私に、鳥子は首を横に振った。

「ううん、そんなことないよ。あの女の人、すごい悔しがってたもん」

「ちっくしょう、あの女……!」

 後ろから追い上げてきた小桜が、右手で霞の手を引きながら、息を荒くして言った。

「アイツのせいで時間までに人目につかない場所を見つけなけりゃならなくなった!──あのクソ女が意味わかんねえことやらなけりゃあ……!!」

 鳥子が眉を寄せ、そっと私を見る。私は小さく頷いた。

「そうなんですよね。どうしましょうか……」

 小桜は深く息を吸い込み、少し考え込むようにしてから口を開いた。

「だがまあ、実はそれ、どうでも良くなるかもしれないんだけどな。今さっき天井見てて思い付いたんだが……お前らと瀬戸ちゃんたちって、中間領域ではずっと二階にいたんだよな?」

「はい、そうですけど……それがどうしたんですか?」

 小桜は荒い息を吐きながら続ける。

「あたしは二回入って、二回とも一階だった。少なくとも、あたしが歩いてた範囲じゃ、ずっと天井があった」

 鳥子と霞が顔を見合わせる。

「あたしと霞は二回とも、表世界側のIKEAの一階からエントリーしてた……お前らと瀬戸ちゃんたちは?」

「……二階ですね。茜理たちも同じです。フードコートが二階なので」

 小桜の目がわずかに鋭くなる。

「そうなると、エントリー後の階層は、エントリー前の階層に依存している……確実ではないが、そう考えても筋は通る気がするな」

「一階から入った場合、二階に行くには、どうすればいいの?」

 鳥子の疑問に私が応える。

「階段かエスカレーターを探すか、よじ登るかだね」

「探すのは時間がかかる可能性が高い。よじ登るのは、あの高さは現実的じゃねえだろ……」

 小桜が首を振るのを見て、鳥子が要点をまとめる。

「じゃあ、最初から二階に行ってからエントリーすればいいんだよね」

「……そういう、ことだな。……フゥ」

 顔を赤くして荒い息を吐く小桜をよそに、鳥子の表情が引き締まる。

「なら急ごう。ここから出入口前のエスカレーターまで、少し距離がありそうだから」

 鳥子はギアを一段上げ、先を駆け抜ける。

「お、お前一人だけ早く着いてもっ、しょうがないだろっ! ゲホッ、オェ!」

 運動不足の小桜は、えずきながらも必死で追いかけた。

 私は鳥子と小桜、霞の三人の中間あたりに位置取り、乱れた呼吸を整えながら足を動かし続ける。

 出入口が近づくにつれ、視界の先に人の密度が増していくのがわかった。

 出入口手前では、必然的に人の壁が立ちはだかる。

 立ち止まり、身体を半分ひねって狭い隙間をすり抜け、ぶつかりそうになるたびに短く謝る。相手の顔を見る余裕はない。ただ流れに逆らい、押し流されないように前へ進む。

 その最中、心の奥で小さな苛立ちが芽生えた。

 人がいないことの快適さだけを取るなら、迷宮IKEAの方がはるかに優れている。

 時間が歪んでいることも、スタッフが徘徊していることもなければ──そんな前提条件を無理やり外した上で、私は一瞬だけそう考えてしまう。

 馬鹿げた比較だとわかっている。

 それでも、こうして人波にもみくちゃにされていると、あの静まり返った通路の感触が、なぜか懐かしく思えてしまった。

 だが、感傷に浸っている暇はない。

 私たちは正確な時間を把握できていない。IKEA迷宮に戻るタイミングを誤れば、まだ夜のIKEA迷宮に踏み込むか、あるいは新しい夜を迎える直前に迷い込むことになるかもしれない。

 どちらに転んでも、霞に無理をさせる。

 さっき、ゲートを開くために霞が上げた、あの苦しげな声が頭から離れなかった。

 様々な不安を押し殺しながら、私たちは足を前に運び続ける。

 一階の入り口付近に辿り着いた瞬間──胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 広く、天井まで抜けているはずの空間が、視界の端から歪んで迫ってくる。什器や壁が、じわじわと距離を詰めてくるような錯覚。

 人の声は反響し、床は踏み出すたびに、わずかに沈む。

 まるで、見えない檻に閉じ込められているみたいだった。

 ──ここは、迷宮だ。

 私は、まだ囚われているのだ。

 目の前にある出入口の扉から外に出ることは、きっと今はまだできない。私は、なにか決定的なルールを破っている。──自然と、そう考えるに至った。

 広いはずの空間は、狭く、逃げ場のない迷路に変わっていた。

 私は息を整え、鳥子、小桜、霞の足音を確かめながら、二階へと続くエスカレーターを駆け上がった。

 二階に到着した私たちは、必死に誰もいない場所を探した。しかし、店内は盛況で、人の気配が途切れる場所が見当たらない。

「空魚、どこかいい場所ないかな?」

 鳥子が、肩で息をしながら訊いてくる。

 小桜は何か言おうとして口をパクパクさせていたが、呼吸が荒すぎて、死にかけの鯉にしか見えなかった。

 そんな中で、鳥子の問いに応える声がひとつだけあった。

「トイレ」

「え?」

 霞だった。軽く息を乱しながら、短くそう言う。

 私は思わず訊き返していた。

 あまりにも簡潔で、しかも今この状況では、時間的にかなり厄介な提案だった。

「できるときに行っとかないと、あとで悲しいことになるぞ?」

 再び霞が言った。

 つい最近、どこかで聞いた覚えのあるフレーズだ。

 すると、ふらふらになっていた小桜が、パンッと勢いよく手を叩いた。

「トイレ、トイレだっ!」

 私は鳥子と視線を合わせ、同時に首を傾げる。

「あの、行きたいのはわかるんですけど……トイレは、IKEA迷宮に入ってからで良いですか? あそこなら、いくらでも──」

「違えよ、ばーか!!」

 小桜の罵声が飛んできて、私は即座に口を閉じた。

「トイレからシフトするんだよ! そうすりゃ、誰にも見られない!」

 私と鳥子は、再び顔を見合わせ、同時に手を叩いた。

 確かに、トイレなら人目を気にする必要はない。

「トイレ行くぞっ、トイレトイレトイレ!!」

 凄まじい便意か尿意に苛まれた人のような勢いで、小桜が霞の手を掴み、走り出す。

 私と鳥子は、二人から少し距離を置いて、その後を追った。

 案内板に従って進むと、トイレはすぐそこだった。

 幸い女性用トイレは列がなく、中も空いていた。誰かに見られる前に、個室に押し込むように全員で入る。狭い空間で体を寄せ合いながら、扉を閉め、鍵をかけた。

 私はスマホを取り出し、タイマーを確認する。残り十五秒。

「よし……良さそうだな。……霞、シフトはできそうか?」

 小桜の問いを聞いて、私は霞に視線を向けた。

 さっきのシフトは、原因は分からないが、明らかに無理をしていた。

 もし、また同じことが起きるようなら──もしかしたら、小桜からノーを突き付けられるかもしれない。

 そうなったら……かなり困る。

 だが、私の懸念など意に介さない様子で、霞はケロッとした顔のまま、こくりと頷いた。

 小桜も、霞の様子を気にするように一瞬だけ視線を走らせ、それから同意するように頷く。

 短い沈黙のあと、スマホのアラームが鳴った。時間だ。

「じゃあ、行きます。──霞、ゲートを開いて」

 霞は頷き、右手で隣の小桜の左手を握る。続いて、私の右手を掴んだ。

 私は空いた左手で、左隣の鳥子の右手を握る。

 私たちが息を潜めて見守る中、霞は個室の扉の中央を凝視し、そのまま微動だにしなくなった。

 やがて、私の右目に青白い燐光が映り、空間が静かに裂ける。

 ……あっけない。

 拍子抜けするほど、容易にゲートは開いた。

 しかし、そんな感想などどうでもいいと言わんばかりに、霞は私たちの手を引き、その裂け目の向こうへと歩き出した。

 

 

 

 10

 ゲートを抜けた先は、暗闇だった。

 隣にいるはずの鳥子や霞の顔も見えない。そんな中で、誰からともなく「あ……」という声が漏れる。

「──しくじりました。……すみません」

「ちょっと早かったみたいだね。でも大丈夫だよ。ほんの少し待てば、夜も明けるでしょ?」

 私が謝罪すると、左隣にいる鳥子が、すぐにフォローを入れてくれた。

「ま、まじかぁ……」

 正面左から、小桜の声が聞こえた。動揺を隠しきれず、わずかに震えている。

 無理もない。小桜にとっては、相当きつい状況だ。

「大丈夫だよ小桜。このまま少し待てば、朝一番に行動できるよ」

「………………」

 正面には、霞が立っているはずだった。

「ん……?」

 視線より先に、体が反応した。

 ──右隣に、何かいる。

 スマホを引き抜き、右隣を照らす。

 そこにいたのは──。

 何度も私たちに追いすがってきた、あの小柄なスタッフだった。

 まずい。

 反射的にバッグへ右手を突っ込み、マカロフを取り出そうとする。しかし、間に合わない。

 私がろくに反応もできないうちに、スタッフは無言のまま、左手を拳にして腕を振り上げる。

「危ないっ!!」

 鳥子の悲鳴のような叫びと同時に、体を後ろへ強く引き寄せられた。

 スタッフの拳が、私のいた空間を殴りつけ、空を切る。

 止まらなかった拳は──そのまま、私の正面にいた霞の顔面に叩き込まれた。

 揺れるスマホのライトの中で、霞が床に倒れるのが見えた。

「霞っ!!」

 小桜の絶叫が響く。

 私はバッグからマカロフを引き抜き、セーフティを外してスタッフの胴体を狙って構え、そのまま引き金を引いた。

 弾丸は吸い込まれるように胴体へ命中し、スタッフは地面に崩れ落ちて萎んだ。

 残弾を数える余裕もなく、私は霞の倒れている位置をライトで照らす。

「霞っ、霞っ!! 起きろ、霞っ!!」

 小桜が霞を抱き起こし、何度も名前を呼ぶ。

 外傷らしい外傷は見当たらないが、霞は目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。

 どうしていいかわからず、私はただ呆然と、二人を照らす街灯のように突っ立っていた。

 本当なら、殴られていたのは私のはずだった。

 鳥子が霞に駆け寄り、脈を取り、呼吸を確かめる。

「小桜、大丈夫。落ち着いて。脈も呼吸もある……生きてるよ」

「でも、でも脳に……脳に何かあったら……」

 その言葉に、私は何も言えなかった。

「大丈夫だ」と言えるほどの根拠を、何ひとつ持っていなかったからだ。

 小桜は泣き出しそうな声で、鳥子に縋りつく。

 ……これ、もしかして。

 私のせいじゃないか。

 そう考えた瞬間、視界が遠のいだ。

 自分を、少し離れた場所から見ているような感覚。

 私が、ちゃんと時間を見ていなかったからだ。

 ──小桜が振り返り、今まで見たことのない、憎しみのこもった形相で私を睨みつけた。ひっ、と息が詰まる。

 ……いや、違う。

 小桜は霞しか見ていない。睨まれてなんていない……ただの錯覚だ。

 鳥子が、ずいっと寄ってきて、目の前にいる「私」に何かを訴えかけている。

 けれど、音が遠い。何も聞こえない……。

 何を言っているんだろう──?

 瞬間、頬に衝撃が走った。

 鋭い痛みが神経を刺す。ビンタされたのだ。

「お願い、空魚! いまはしっかりして!」

 音が、急に近付いた。

 いつのまにか意識が、元の身体に戻っていた。

「鳥子……。私、どうしたらいいの……?」

 とっさに出てきた声は、幼い子供のようだった。

「落ち着いて聞いて。まず、私を照らして」

 鳥子は冷静に言い、しゃがみ込んでバッグからAKのパーツを引き出す。

「そのままでいいから、聞いて」

「うん」

「私たち、囲まれてる。少しずつ距離を詰められてる。表に逃げたいけど、霞がダウンしてるから無理。私と空魚で、なんとかするしかない」

「……」

「私はAKを組み立てる。空魚は、あと何分で開店時間になるか、教えて!」

 言われるまま、腕時計をライトで照らす。

「時間はっ?」

 鳥子の調子に押されて、スカスカだった言葉に、力が戻ってきた。

「──あと五分っ、五分で開店時間になるっ」

「わかった……。空魚、サポートお願い!」

「わかった!」

「よし!」

 ざわめく気配の奥から、ドスッ……ドスッと地を揺らす足音が近づいてくる。

 照らさなくてもわかる。二、三メートルどころじゃない。もっと大きなスタッフだ。

 鳥子は暗闇の中でAKを組み上げ、構えた。

「──準備完了。撃つよ!」

 宣言と同時に引き金を引く。

 AKが一発だけ弾丸を吐き出し、淡い光の中でスタッフの胸に黒い穴が空いた。

 巨体が、萎んで倒れる。

「次、来た! 正面に二体! 空魚、右を撃って!」

「わかった!」

 駆け寄ってきたスタッフ二体を、私たちは充分に引きつけてから、ほぼ同時に射殺した。

 前後左右をライトで照らす。

 光の届く範囲だけでも、三方向から迫ってきているのがわかった。

「鳥子、左から来てる! 右からも! 右は私が! 左は……ライト照らせるっ?」

「了解! なんとかする……!」

 鳥子はポケットからスマホを取り出し、小桜に投げた。

「小桜! お願い、ライトで照らして!」

「わ、わかった……」

 まもなく、光が二方向から闇を切り裂く。

 闇の奥からスタッフが駆け寄ってくるたびに撃ち倒す。しかし──。

「──ごめん、鳥子っ、弾切れ!」

「オーケイ。空魚も照らして!」

 私は鳥子から教わってきた通り、マカロフの弾倉を抜き、薬室内に弾丸がないか指先で確認、セーフティをかけてバッグへ戻す。

 そのまま、ライトで腕時計を照らす。

 ──あと二分。

 それだけ確認すると、私は小桜とは逆方向を照らした。

「鳥子! こっち、二体! それとあと二分で朝になる!」

「こ、こっちは四体だ!」

 私たちの無茶振りにも、鳥子は冷静に対応する。鳥子は叫んだ。

「棚か壁を背にして戦いたい! 空魚、探して! 小桜は照らして!」

 私たちの返事は、AKの銃声にかき消された。

 ライトで周囲を探す。

 だが、壁も棚も見つからない。ここはショールームだ。

 椅子、ベッド、テーブル。商品ばかりで、逃げ場がない。

「鳥子、ごめんっ。壁も棚もない!」

「………………」

 鳥子は一瞬だけ黙り、マガジンを強く叩き上げ、ボルトを引いた。

 ──何も起きない。

「ごめん……。こっちも弾切れ」

 引きつって諦めたような笑みで、鳥子は私を見た。

 ……鳥子のそんな顔は、見たくないし、させたくなかった。

「逃げよう!!」

 私は叫んだ。

 私はのびている霞に寄ると、全身の力で背中に担ぎ上げた。

 重い。

 体重以上に、力の抜けた身体がずしりとのしかかる。

 首がぐらりと傾き、慌てて引き寄せた。

「──走るよ! 小桜さん、前照らして!!」

「お、おう……!」

 駆け出すと、すぐ隣に鳥子が並走してきた。

「空魚、疲れたらすぐ交代してね!」

「わ、わかったっ……!」

 本当は、もう交代してほしかった。けれど、さすがにそんな情けないことは言えない。

 普段使わない筋肉が悲鳴を上げた。それでも全力で前へ前へと走り続けた。

 闇の中から現れるスタッフを、全力でかわしながら走る。さっきまで体があった場所を、重量のある拳が空を切る音が聞こえる。

 あと、何分? さっき時計を見た時は二分だった。ならもう、きっと一分を切っているはずだ。

 でも、もっと長く戦っているような気もする。私は自分の時間の感覚が信用できなくなっていた。

 それでも、絶対に諦めない。

 絶対に、諦めない──。

 そのとき、背後と前方から重なり合う「声」が響いた。

「『ご来店、誠にありがとうございました。当店は閉店となります。またのご来店をお待ちしております。ご来店、誠にありがとうございました。当店は閉店と──』」

 繰り返される声とともに、進行方向の暗闇から巨体が現れる。

 異様に太い胴と腕、短い脚。五メートルは優に超える背丈。

 ……ダメだ。ぶつかっただけで、ペシャンコにされてしまいそうだ。

「──二人とも、こっちに!」

 私が身を翻し、キッチンエリアへ逃げ込もうとした、その瞬間。

 店舗が、光に包まれた。

 一瞬、何が起きたのか分からず、私は天を仰いだ。

 私と鳥子と小桜は、慣性でゆるゆると走り続ける。

 そして、ようやく足が止まった。

 鳥子と無言で見つめ合う。

 鳥子は腕時計を見て、私にも見せた。

 十一時、ちょうど。

 ──IKEA迷宮に、朝が来た。

 それだけで、肺の奥に溜まっていた息を、ようやく吐き切ることができた。

 キッチンエリアから周囲を見渡すと、私たちの方へと集まってきていたスタッフたちの様子がはっきりと見えた。

 ……完全に囲まれている。数メートルも離れていない位置に、二メートルを超えるスタッフが三体。その少し外側に、まとまって十体近く。さらにその奥にも、まだ数え切れない影がある。

 もし、開店時間が間に合っていなかったら……。私たちは、確実に死んでいた。

 汗が滲み、まつ毛のあたりで溜まる。私は着ていた服の裾を持ち上げ、乱暴に顔を拭った。

 鳥子がその場にしゃがみ込む。鳥子の顔にも、今にも垂れ落ちそうなほど汗が浮かんでいた。

「ごめん、空魚。霞を床に下ろして。それから、念のため周囲の警戒をお願い」

「わ、わかった」

 ──ああ、そうだ。

 私は、まだ霞を背負ったままだった。

 その事実に今さら気付き、慌てて霞を肩からずり下ろす。後頭部を支えながら、できるだけ衝撃を与えないように床へ寝かせた。すぐに鳥子が身を寄せ、霞の様子を確認し始める。

 私は体を起こし、周囲へ視線を走らせた。

 ……スタッフたちは、意味もなくウロウロと歩き回っている。

 明確な意思を感じない、ぼんやりとした動き。

 ついさっきまで放っていた殺意が嘘だったかのようで、その変化が気持ち悪かった。

 足元から、鳥子の声が聞こえた。

「たぶん、脳震盪。……そのうち回復すると思うけど、帰ったらちゃんとお医者さんに診てもらった方がいい」

 その言葉に、小桜が涙声で返す。

「あたしだって、今すぐそうしたい……でも、ゲートを作れる霞がこの状態なんだよっ!」

 キッチンエリアに小桜の声が響いた。

 小桜は口を押さえ、すぐに鳥子へ頭を下げる。きっと、責めるつもりはなかった。ただ、感情が追いつかなかっただけだ。

「……悪い。お前のせいじゃないのに……。なあ、後遺症とか、残ったりしないよな……?」

 鳥子は、少し困ったように首を横に振る。

「わからない……。こういうことは、私より……格闘技やってる茜理の方が詳しいと思う。正直、脳震盪を起こした人を見るの、私も初めてだし……」

「うぅ〜……」

 小桜が、堪えきれないように頭を抱えた。

 ──そのとき。

「……う、ぃ……」

 小桜のものとは違う、かすれた呻き声が聞こえた。

 霞だった。

 霞は顔を押さえ、苦しそうに身をよじる。

「霞っ!!」

 すぐ横にいた小桜が、思わず霞を抱きしめる。

 その様子を見て、私は胸の奥に溜まっていた息を、ようやく吐き出した。

 ──よかった。死んでない。

「だめだよ、小桜。気持ちはわかるけど、怪我人は安静にしなきゃ」

 鳥子の冷静な声に、小桜はハッとして体を離す。

 小桜の影から、霞の顔が見えた。

 鼻血も出ていないし、目立った腫れもない。殴られてから、まだ時間が経っていないからだろうか。眉をひそめている以外、見た目に大きな異常はなかった。

「霞。これ、何本に見える?」

 鳥子が、指を四本立てて訊ねる。

 霞は少し意図を考えるような顔をしてから、答えた。

「……四本」

「うん、そうだね。自分の名前は?」

「……霞ちゃん」

「私の名前は?」

「鳥子のバカ野郎……」

「………………うん。駅からお店まで、どうやって来たか覚えてる?」

「……タクシー?」

 一つずつ、霞は答えていく。

 鳥子はその後、霞に手を握らせたり、左右の反応を確かめたりしてから、小桜の方を見た。

「……うん。たぶん大丈夫。やっぱり、軽い脳震盪だと思う。あのスタッフ、小柄だったから。不幸中の幸いってやつかも」

「そうか……。確かに、他と比べると、ずっと小さかったみたいだしな……」

 鳥子は頷き、少し言いづらそうに続ける。

「本当は、こういう状態の人は動かさない方がいいと思う。でも……今は、そうも言ってられないよね」

 そして、顔を上げて私を見る。

「空魚。一緒にカート探してくれる? それに霞を乗せよう」

「わかった。……小桜さんは、霞を見ててください」

「……ああ」

 小桜は顔を上げないまま、小さく頷いた。

 胸の奥に、言葉にできないモヤモヤが生まれた。なんとも形容し難いそれを抱えたまま、私は鳥子と並んで歩き出した。

 直後、二人して小さく声を漏らす。

「あ……」

 目の前に、まるで今さっき誰かが置いていったかのように、カートが一台、ぽつんと残されていたからだ。

 私と鳥子はお互いを見た。

 ──相変わらず、都合が良いことだ。

 だが、今はそれが助かる。

 私たちは慎重に霞をカートへ乗せる。

 ……かなりギリギリだったが、なんとか収まった。

「霞も、ほんとに大きくなったんだね」

 鳥子が、独り言のように言う。

 返事はなかった。

 私のほかに返せるのは小桜だけだったが、小桜はただ黙って霞を見つめている。

 だから、私が代わりに答えた。

「そうだね。前は小桜さんの胸くらいの高さだったのに……いつの間にか、同じくらいになりましたよね」

「…………」

 それでも、小桜は何も言わなかった。

 私と鳥子は視線を交わし、無言で頷き合う。

「空魚、マップは?」

「あ、そうだった」

 私はバッグを開き、折り畳んでいたフロアマップを広げた。

「……マップ、大丈夫そう?」

 鳥子が、不安を隠しきれない声で訊く。

「うん。平気」

 マップは、それ以上劣化することもなく、私たちの現在位置と──茜理たちの位置を示していた。

「よかった……。そんなに離れてないね」

「近づいてもいないけどね……」

「また七、八キロコースかな。体力、持つかなぁ」

「今度は休み休み行こう。時間は、ちゃんとあるから」

「そうね」

 鳥子の返事を聞いてから、私は霞を乗せたカートのハンドルを握った。

「……よし。行こう」

 

 

 

 霞を乗せたカートを押しながら、私たちは進む。

 タイヤが付いているとはいえ、人ひとり分の体重を乗せたカートは想像以上に重く、押していると腕と腰にじわじわ負担がかかる。私たちは三人で交代しながら、無言に近い状態でそれを押し続けた。

 普段なら「足が痛い」とか「怖い」とか、何かしら文句を言いそうな小桜が、今は霞から片時も目を離さず、黙ったまま歩いている。その横顔が、とても張りつめて見えて、私は一言……声をかけそびれた。

 蛇行しながら十キロほど進んだところで、カートを押していた小桜が足を止めた。

「すまん。やっぱり……少しだけ、休んでもいいか」

 答えたのは鳥子だった。

「いいよ。小桜、疲れたでしょ? まあまあ順調に進んでるし、少し休もうか……ね、空魚?」

 そう言われて、私は腕時計に視線を落とす。歩き始めてから、すでに二、三時間以上が経っていた。正直、何が起こるかわからない状況で足を止めるのは不安だ。でも、小桜の体力を考えれば、とっくに限界を越えているはずだった。

 一瞬、もう一台カートを探して、小桜も乗せてしまう案が頭をよぎる。けれど、それは本当に最後の手段だ。

「……いいよ。休もう」

「ありがとう」

 短く礼を言った小桜は、霞の乗ったカートを押して、近くに展示されていた黒いカウチソファの前まで運んだ。

 私と鳥子はそのソファに腰を下ろしたが、小桜は座ろうとせず、何かを探すように首を巡らせて周囲を見回している。

「あの……どうしました?」

「……カートの中にな、何か敷いてやりたくて。クッションみたいなの、ないかなって……」

 言われて、私は改めて霞の顔を見る。進行方向と後頭部しか見えていなかったが、正面から見ると、霞はかなり苦しそうな表情をしていた。文句ひとつ言わない代わりに、両手で荷台の縁を掴み、少しでも体重を分散しようとしている。

 これは、とてもじゃないけど、楽な姿勢じゃない。

 カートに座って運ばれるだけなら楽そうだ、なんて考えていたわけではないけれど、霞の苦痛をほんの少しでも想像してやれなかった自分が恥ずかしくなった。夏妃に改造してもらったAP-1に乗ったとき、こういうものがどれだけ骨身に染みるか、私は身をもって知っていたはずなのに。

「それなら、少し戻ったところにベッドのコーナーがあったよ。クッションもあるかも。取ってくるね!」

 鳥子はそう言うと、ソファから立ち上がり、来た道を軽い足取りで戻っていった。

 私と小桜は、その背中を見送る。

 しばらく黙って鳥子の姿を目で追っていると、小桜がぽつりと言った。

「空魚ちゃん、悪いんだけどさ。霞をカートから下ろすの、手伝ってくんない?」

「あ……はい」

 私は立ち上がり、霞の首の後ろと膝裏に手を回して持ち上げた。霞は目を閉じ、眉を寄せたまま、無言で私の首に腕を回す。そのままソファに寝かせると、さっきまでの険しさが少し和らいだ。

 それを見て、小桜が苦笑する。

「……一緒に持ってほしい、って意味だったんだがな」

「あ、そうだったんですね……」

 私は素直に頷いてから、ソファに腰を下ろした。

「でも小桜さんも、疲れてるなら座ってたほうがいいですよ。休憩、そんなに長く取れませんし」

「そうだな……じゃあ、お言葉に甘えるか……」

 小桜は霞の隣に腰を下ろし、前髪にそっと触れた。

「空魚ちゃんも疲れてるだろ。霞のためにカート押すの……それがちょっと悪くてな」

 一度だけこちらを見て、すぐに床へ視線を落とす。

 そんなふうに思わなくてもいいのに。私は、思いついたまま口にした。

「大丈夫です。私、歩くの得意なので」

 言ってから、つい最近、同じことを鳥子に話したのを思い出す。

「ああ、そうだったな」

 納得したような声で小桜が応えた。

 その反応に首を傾げる私を見ず、霞の髪を撫でながら小桜は続ける。

「その話、前にも聞いた気がするわ」

「言いましたっけ?」

「言ってた。たしか……空魚ちゃんと鳥子がケンカして、鳥子が一人で冴月を探しに行った時だ」

 ああ、と私は手を叩いた。もう三、四年は前の話だ。

「三人のおばさんに裏世界に拉致られて、歩いてる時に聞いたな」

「よく覚えてますね」

 小桜はフッと鼻で笑った。

「忘れられるかよ。空魚ちゃんたちから受けた、初めてのアビューズだったからな」

「アビューズって……」

「他にいい言葉あったら、それに変えてもいいぞ」

「じゃあ……『戯れ』で」

「死ね」

 小桜は軽くそう言って口を閉じた。

 会話はそこで終わったけれど、気まずさはなかった。小桜は変わらず霞の前髪を撫でていて、私はそれをぼんやり眺めている。不思議なくらい、落ち着く時間だった。

「……空魚ちゃんさ」

 小桜が、何でもない調子で言った。

「時間がうまく調節できないで夜のIKEAに入った事と、霞が殴られたこと、気にしてるだろ」

 私は一瞬、返事に詰まった。それでも応える。

「……はい」

 それだけ言うと、小桜は小さく息をついた。

「なら、それでいいよ。いまはそれでいい」

 ほんの少しだけ、小桜が微笑んだように見えた。

「ただいまー!」

 遠くから鳥子の声が響く。見ると、クッションとブランケットを腕いっぱいに抱え、落とさないよう顎で押さえながら走ってきていた。

 私と小桜は自然に立ち上がる。

「おかえり、鳥子」

「ただいま〜」

「そんなに持ってきたのか。悪いな」

「いいよいいよ」

 鳥子ははにかむように笑い、荷物をソファの上に下ろした。

「あ、霞下ろしたんだ。じゃあ、ちょうどいいね」

 ブランケットを厚く敷き、頭の位置にクッションを置く。

「おお……」

 小桜が手で弾力を確かめながら、感嘆の声を漏らす。鳥子は満足そうに頷き、私の隣にどさっと腰を下ろした。

「あー、いい仕事した。休憩、あと何分くらい?」

「いまから休憩にする。二十分くらいで良いかな?」

 閉店時間はまだまだ先だ。このペースなら、なにも問題ない。

「短いけど、大丈夫ですか? 小桜さん」

「ああ、こんな状況で文句は言わねえよ」

 私は頷いて鳥子にも訊く。

「鳥子は? 昨日みたいに足、ピキピキきてない?」

「きてる。でも平気だよ。我慢我慢」

 そう言うなり、鳥子は靴と靴下を脱ぎ、左足の裏を揉み始めた。

「あたたた……」

 私は残った右足を掴んで、同じようにマッサージする。

「ああ〜……」

「どう? 痛くない?」

「痛いよ? でも人にやってもらうと気持ちぃ……いたたたた! 痛ーい!」

 大袈裟に痛がる鳥子の反応が面白くて、私は休憩が終わるまで、鳥子の足裏を揉み続けた。

 

 

 

 鳥子の足の裏をいじり回してから、数十分が経っていた。

 休憩を終え、歩き続ける。

 茜理と夏妃の印に、私たちの印が地図上で近付くにつれて、胸の奥がじわじわと重くなっていくのを感じる。

「おい、平気かよ」

「空魚、大丈夫?」

 小桜と鳥子が、ほとんど同時に声を掛けてくる。

「……平気です。大丈夫」

 それだけ言って、視線を前に戻した。自分でも、かなり微妙な返事だと思う。

 小桜が眉をひそめる。

「だったら、もう少し普通に歩いたらどうだ。見てて心配になるだろ」

「すみません……」

 謝りながら、私は思い出していた。

 ──そうだ。私は、顔に出やすい人間だった。

 ということは、やっぱり私は今、何かに悩んでいるのだ。

 ただ、その「何か」が、自分でも分からない。

 冷や汗が出るわけでもない。手が震えるわけでもない。喉が渇くことも、息苦しさもない。

 症状と呼べるほど、はっきりしたものは何ひとつなかった。

 だから結局、「気のせいだ」と結論付けるしかない。

 それでも、胸の奥にある窮屈さと、言葉にできないわだかまりだけは、確かにそこにあった。

 私は「なんでもない」と自分に言い聞かせながら、マップを頼りに拠点への道を進み続けた。

 雑貨の棚が並ぶ通路を右に折れると、ひときわ背の高い構造物が、数百メートル先に見えてくる。

 ──拠点だ。

 足を止めず、そのまま歩みを進める。

 すると、拠点の入り口に、二つの人影が立っているのが見えた。

 片方は頭の輪郭が短くまとまり、もう片方は、長い影を揺らしている。

 赤黒い色が、距離越しにも目に残った。

 ──茜理と夏妃だ。

 私は知らず、短く息を吐いていた。

 何も起きていないはずだと思っていたのに、それでもどこかで、最悪の可能性を考えていたらしい。

 門番のように入り口に立つ二人に向かって、鳥子が両手を口元に当てて叫ぶ。

「茜理ーっ! 夏妃ーっ!」

 鳥子は大きく息を吸い、

「ただいまーっ! 帰ったよーっ!!」

 そう叫びながら、勢いよく手を振った。

 その声が届いたのか、それとも私たちの姿が見えたのか。

 人影のうち、赤黒くない方が、こちらに向かって走り出した。

 ──茜理だ。

 私の心臓が、大きく脈を打つ。

 米粒ほどにしか見えなかった茜理の姿が、みるみるうちに輪郭を持ち、表情が分かる距離へと変わっていく。

 私は、その場に立ったまま、ただ茜理が近付いてくるのを見つめていた。

「あ、茜理……」

 何かを言おうとした私に、茜理はぶつかるように抱きついてきた。

「センパイ! よかった! 大丈夫ですか! 怪我してませんか!?」

 背骨が折れるんじゃないかと思うほど強く抱きしめられて、私は目を白黒させた。

 そして、なぜ自分がここまで情緒を乱していたのかを、ようやく理解した。

 怒られるのが怖かったわけじゃない。

 私はただ、約束を破った自分が、茜理に嫌われてしまうんじゃないかと……それだけを恐れていたのだ。

 友達に粗相をして、嫌われてしまうかもしれないと怯える、子供みたいに。

 私は私の中で、茜理の存在が、想像よりもずっと大きくなっていたことに驚いた。

「だ、大丈夫。怪我とかはしてないから……一回、離して。茜理……」

 私が茜理の背中をぽんぽんと叩くと、数秒かけて名残惜しそうに茜理が離れたが、手だけは私の両手を離さなかった。

 私は茜理に言う。

「茜理、ごめん。約束……破った」

「約束?──ああ、はい。確かに」

 たまらず、私は茜理に訊ねる。

「──怒ってない?」

 私の質問に、茜理は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。

「怒りませんよ。だってセンパイの判断ですよね? 何か必要があって破ったんだってくらい、分かります。むしろ私となっつんは、約束を破らざるを得ない何かがあったんだって、そっちの方が心配でした」

 茜理はそこで言葉を区切ると、少し潤んだ瞳で、両手をやわらかく、それでいてしっかりと握り直し、続けた。

「無事みたいで、本当に良かったです……」

 私の体の強張りが、みるみるうちに溶けていく。

「うん……私はなんとか……。そっちは? 何もない?」

 そう訊ねると、茜理が少し苦い顔をした。

「こっちは……あ〜……一件ミスがありますが……それはあとでお話しします。それより、仁科センパイと小桜さんと霞ちゃんは──霞ちゃんっ!?」

 茜理はそこで初めて、私の背後で、小桜の押すカートの中に横になっている霞に気付いた。

 霞は眉をしかめて茜理を見返した。

「どうしたんですか、霞ちゃんは……? ぐったりしてますけど」

 私は少し言い淀んでから応えた。

「私がミスってね……スタッフに顔を殴られた」

 すかさず、鳥子が言葉を挟む。

「空魚だけの責任じゃないよ。私もオーケイ出したんだから」

 茜理は鳥子の言葉を聞くと、察したように一度だけ深く頷いた。

 そのまま視線を鳥子に向け、問いかける。

「脳震盪ですか?」

「たぶん……。ただ確かな事がわからなかったから、茜理にも見てほしい」

「……なるほど、わかりました」

 首を縦に振った茜理は、目を閉じて、そしてもう一度目を開けた。

「殴られたのはいつ頃ですか? どれくらい時間が経ってます? それから、ずっとこんな感じでしたか?」

「殴られたのは……三時間くらい前。最初は意識がなかったけど、何十秒かして戻った。ただ、あんまり調子がよくないみたいだから、歩かせずにカートで運んできたの」

 鳥子の言葉に、茜理は神妙な面持ちで頷くと、間を置かずにさらに質問を重ねた。

「調子が良くない、というのは……具体的には?」

「うーん……?」

 鳥子が困ったように私を見る。

 けれど、私にもはっきりした説明はできない。

 そのとき、後ろにいた小桜が、鳥子の代わりに口を開いた。

「会話が辿々しい。普段ならもう少しスピーディに話せるのに、返答が遅いな。あと、殴られたことを覚えてないみたいだ。頭痛と吐き気がありそうだったが、今は落ち着いてる」

「なるほど」

 小桜の説明に、茜理は顎に手を当て、一つひとつ確認するように耳を傾けている。

「実際に嘔吐はありましたか?」

「いや、してない」

「言葉がおかしい、と感じることは?」

「……それは元々だから判断できないな」

「あ、そうでしたね。すみません、今のは無しで……ええと、体に力が入りにくい、とかは?」

「たぶん平気だと思う。歩かせたりしてみた方がいいかな?」

「はい。できれば」

 そう言いながら、茜理は霞に視線を落とし、声の調子を柔らかくして語りかけた。

「霞ちゃん、久しぶり。いきなりで悪いんだけど、一度地面に立ってみてほしいの。ちゃんと支えるから、心配しないで」

 こくり。

 カートの中で膝を抱えたまま、霞が小さく頷く。

「ありがとう」

 茜理は霞の頭をそっと撫でると、首の後ろと膝の裏に腕を回し、ヒョイと軽い物でも持つみたいに霞を持ち上げた。

 お姫様抱っこだ。

 私たちが見守る中、茜理は霞をゆっくりと地面に立たせる。

 ほんの少しだけ距離を取ると、手招きした。

「ここまで来れる? できるだけ、まっすぐね」

 霞はもう一度頷き、慎重な足取りで歩き出す。

 数歩進み、無事に茜理の前まで辿り着いた。

 わずかなふらつきはあったが、それはきっと、二、三時間、狭いカートの中に体を押し込めたまま、自分の足で歩いていなかったせいだろう。

 私は、思わず茜理に訊ねた。

「……大丈夫そう?」

 茜理は数秒、間を取ってから、慎重に口を開いた。

「──おそらく、センパイたちの言う通り、軽度の脳震盪です。今出ている症状も、時間とともに回復していくと思います。重度の脳震盪で見られる兆候はないので、その点は安心していいかと。ただ、私は医者ではないので……ここを脱出したら、必ず専門のところで診てもらってください」

 その言葉が終わると同時に、場に張り詰めていた空気が、音もなく緩んだ。

 小桜が一歩近づき、茜理に言う。

「ありがとう、瀬戸ちゃん。かなり安心したわ」

「そうですか? 素人判断なので、自信はあんまりないですけど……そう言ってもらえるなら、よかったです」

「瀬戸ちゃん、詳しいよね。やっぱり空手やってるから?」

 その問いに、茜理は苦笑した。

「そうですね。組手とかもありますし……全員気をつけてはいるんですけど、それでも年に何回かは、脳震盪で倒れる人が出ますから。それで、少しだけ。……まあ、知らない人よりは知ってる、って程度ですけど」

「そっか……瀬戸ちゃんもアイツらに殴られたの? 顔、腫れてるけど」

「ええ、初日にちょっと……捌ききれませんでした。不覚です」

「そっか。まあでも、一年ぶりに会えてよかったよ。瀬戸ちゃんは無事じゃないし、場所は最悪だけど」

「ですね」

 二人が笑い合う。

 そこへ、拠点から歩いてきた夏妃が、小桜の前で足を止めた。

「小桜さん。ご無沙汰してます」

「市川さん、こちらこそご無沙汰です。足、怪我してるって聞いてたけど、大丈夫そう?」

「うっす。おかげさまで、だいぶマシになりました」

 夏妃の返事に、小桜は安心したように笑う。

「そっかそっか。とりあえず、無理だけはしないようにね」

「うっす、ありがとうございます」

 夏妃は軽く頭を下げる。

 小桜もうんうんと頷き、どこか気心の知れたような空気で受け止めていた。

 この二人は、反りが合うのか、相性がいいのか……会話がいつも、妙にスムーズだ。

 それを、私は少しだけ……羨ましく思う。

 そんな私の思考を遮るように、夏妃が言った。

「『ゲート』のこと、茜理から軽く聞きました。この子──霞ちゃんは、それを作る力があるんすよね? じゃあ、もうこれで、元の世界に帰れるって考えても……いいんすかね?」

 状況を確認するようなその問いに、私と鳥子、小桜は、揃って苦い顔になる。

「ごめんね、市川さん」

 最初に口を開いたのは、小桜だった。

「霞はいま、シフト──『ゲートを作って移動する能力』が使えない。理由は……たぶん、殴られたことが原因だと思う。うまくできないって、本人が言ってる。だから、回復するまでもう少し待ってほしい」

 小桜の言葉を、夏妃は真剣な表情で聞いていた。

 やがて一度目を閉じてから、短く答える。

「……わかりました」

 そして、頭を下げた。

「すんません。急かすようなこと言って」

「いいよいいよ。気持ちはよくわかるし」

 そう言って小桜と夏妃の会話が終わると、張り詰めていた空気がふっと緩み、その場が急に静かになった。

 ほんの一拍置いてから、小桜が私をチラリと見る。不意にバトンを渡されたような気分になった。だが、ちょうど気になっていた話題があったので、私は口を開いた。

「茜理、さっき『一件ミスがある』って言ってたけど、それって今ここで聞いても大丈夫な話かな?」

 私がそう訊くと、茜理はどこか観念したように少し肩を落として笑った。

「えーと……だ、大丈夫です。はい……命の危機があるとか、そういう話ではないんですけどぉ……」

 茜理はそこまで言うと、視線を落とし、口元をもにょもにょと動かしてから、意を決したように顔を上げた。

「昨日、センパイたちと取りに行った食糧……全部、フードコートに忘れました! ごめんなさい!!」

 茜理が声を張り上げ、勢いよく頭を下げる。その拍子に、ぐわん、と音が店内に反響し、遠くからも近くからも山彦のように返ってきた。

 私はしばらく言葉を失ったまま、間の抜けた調子で訊き返した。

「ん? それだけ?」

「それだけ、と言えば、それだけです!」

「そっかぁ……ああ、頭は上げてね。大丈夫だから」

 私は、茜理が頭を上げ、固い表情のまま私を見ているのを感じながら、腕を組んだ。

 大丈夫とは言ったけど……それって、具体的にどんな問題が起きるんだろう。

 正直、今日は例えではなくガチで死にそうになったり、悩みで頭の中が一杯になったり、逆にすっからかんになったりしていて、まともに思考が働いていない。

 はてさて、と頭を回そうとしたが、結局ろくな答えは出てこなかった。

 もう、回りくどいのはやめよう。直接聞こう。

「具体的には、どんな問題が起きそう?」

「はい! 具体的には、ご飯がもうありません」

「拠点にも、もうない感じ?」

「はい。何も残ってないです!」

「茜理たちが最後にご飯食べたのは、いつ?」

「昨日のお昼、センパイたちと食べたのが最後です!」

「なるほど。夕飯と朝食抜きになったのね……それはお腹が空いたでしょ」

「はい……なんだかテンパっちゃって、食糧の回収を忘れちゃいました。気付いた時にはもう暗くなってて……取りに行くこともできませんでした」

 茜理は私の目を見て言い切ると、申し訳なさそうにもう一度、頭を下げた。

「すみません。センパイたちも、きっとお腹が空いてるはずなのに……」

「うーん」

 私は無意識に自分のお腹を触った。

 まあ……減ってはいるけど、いますぐどうこうなるほど飢えてるわけじゃない。

「茜理たちは減っているとして、鳥子と小桜さんはどう?」

「私は、食べられたらいいな〜ってくらいかなあ」

「あたしは昼飯時だから、そこそこだな。もちろん我慢はできるが……霞はどうだ?」

 小桜に訊かれた霞は、ぼんやりとした表情のまま、幼児帰りした子供のように親指を咥えていた。小桜の言葉を頭の中で咀嚼するように数秒かけてから、目に星を散らしたように輝かせて叫んだ。

「お腹すいた人ー! ハーイ! 今日の給食は、わかめご飯だよー!」

 霞の、おそらく肯定の言葉を受け取って、小桜が言った。

「悪いんだけど、食べられる選択肢があるなら食べさせてやりたい。フードコートに行くことはできるのかな」

 小桜の言葉に、私と茜理は顔を見合わせた。

 茜理が小さく首を縦に振る。私も、それに首肯で返した。

 腕時計を見る。まだ、閉店までには時間がある。

 よし。

「じゃあ、どうせなので、いまから全員でフードコートに行って食事をしましょう。いいですか?」

 数瞬、全員が黙り込む。互いに顔を見合わせ、様子をうかがっていた。

 反対はゼロ。決を取る必要もない。

「じゃあ、準備が終わり次第、出発します。茜理、悪いけどまた道案内頼める?」

「はい!」

 茜理は元気よく返事をした。

 そして、私の目をまっすぐ見ながら、ハキハキと続けた。

「私は特に準備はないんですが、何か手伝えることはないですか?」

「手伝い? いや、特には……」

 再び回らない頭を無理に回そうとして、意識を集中させるが、どうにもエンジンがかからなかった。

 その時、小桜が軽く手を挙げた。

「瀬戸ちゃん、悪いんだけど、空魚ちゃんから頼み事がないようなら、あたしから一つ頼み事があるんだよね」

「あ、はい。どうしたんですか?」

「霞をもう一回カートに乗せたいんだ。あたし一人じゃできなくってさ」

「あ、なるほど」

 納得したように一つ頷いた茜理が、こちらを向いて、許可を取るように私を見る。

 結局、特にやってほしいことが何も思い浮かばなかった私は、首を縦に振って応えた。

「……うん。いいと思うよ?」

「はい、わかりました! ありがとうございます!」

「うん……」

 いったい、何が「ありがとう」なのだろう……?

 そもそも……私は茜理の雇い主でも何でもない。

 茜理の行動に許可を出したりすること自体、おかしな話なのだが……今は、このやりとりが一番スムーズに物事が運びそうではあった。

 違和感はあったが、私はそのまま放置することにした。いまはたぶん、まだその時ではない。

 ふと、背後から視線を感じた。

 振り向くと、夏妃が棚に寄りかかりながら、私の方を──正確には、私と茜理のやりとりを見ていた。

 複雑な表情だった。

 茜理が私と話すのをやめさせたい気持ちと、茜理の意思を尊重しようとする気持ち。

 その二つが、頭の中でせめぎ合っているように思えた。

 私はゆっくりと正面に向き直る。

 ……何か言いたそうではあったが、結局、何も言われなかった。

 いやまあ、言われても困るのだけれど。

「霞ちゃん、カートに乗せましたー!」

 私がそんなことを考えているうちに、茜理はさっさと仕事を終わらせたらしい。

 私は少し声を張って、全員に聞こえるように言った。

「それじゃあ、準備完了ということで、フードコートに向かいます。ここから直線距離でおおよそ一キロ。実際には二、三キロくらい歩くことになるはずです。疲れたり、異変を感じたりしたら、その都度、対応しましょう。……じゃあ茜理、先頭で道案内をお願い」

「はい!」

 小走りで先頭に立った茜理は、張り切った様子で歩き出す。

 すかさず、その横に夏妃が並んだ。二人は笑顔で、何やら言葉を交わしている。

 私の横を、霞の乗ったカートを押しながら、小桜が通り過ぎる。

「あ、小桜さん。カート、私が押しますよ」

「いや、いいよ。霞の保護者はあたしだし。それに、空魚ちゃんも疲れてるだろ」

「それはそうですけど、小桜さんほどは疲れてないと思いますよ」

「合わせて何十キロも走ったり歩いたりしてた奴より疲れてることなんてないだろ。あたしのことはいいから、鳥子とお喋りでもしてな」

 それだけ言って、小桜はカートの車輪をゴロゴロ鳴らしながら歩き去ってしまった。

 少し間が空いて、後ろから人の歩く足音が聞こえた。

 その足音は、私の隣まで来ると、すっと止まった。

「じゃあ、行こうか。空魚」

 そう言って鳥子が軽く頭を振り、自分の髪を払う。途端に、シャンプーか香水のような甘い香りが、ふわりと広がった。

 シャンプーも香水も、たぶん同じものを使っているはずなのに、どうしても鳥子のようにはならない。なんでだろう……。

 そんな、どうでもいい疑問を頭の片隅に浮かべながら、私と鳥子は並んで歩き出した。

 

 

 

 11

「なんで六人分の飯が、最初から用意されてんだよ……。気持ち悪ぃ……」

 フードコートに辿り着いた私たちを待っていたのは、前回と同じく、できたての料理が放つ、鼻の奥でぱちぱちと弾けるような香ばしい匂いの爆弾だった。

 真ん中に置かれた大皿には、ミートボールが山のように盛られている。温かい肉の匂いが、湯気と一緒に立ちのぼった。

 丸い塊がいくつも重なり、上からたっぷりとかけられた白いクリームソースが、照明を受けて柔らかく光っている。脇に添えられた鮮やかな赤いジャムは、リンゴンベリージャムというらしい。

 肉と甘酸っぱさを一緒に食べるという発想には少し抵抗があるが、口に入れてみると悪くなかった。もう一度食べてみたいと思っていた料理だったので、少しだけ嬉しい気持ちになる。

 隣にあるポテトは山のように盛られていた。紙皿の縁ぎりぎりまで積み上がっていて、今にも崩れそうだ。表面はかりっとしているが、中は柔らかい。誰かが黙って手を伸ばしても、咎められなさそうな雰囲気を持った料理だった。

 他にも、表面にこんがりと焼き色のついた分厚いサーモンフィレ、食欲をそそる香りを放つカレーとライス、透明なガラスの器に盛られたレタスの緑が、鮮やかに映えるグリーンサラダ、渦を巻く生地の上に白いアイシングがかかり、甘い香りがふわりと漂うシナモンロール──。

 そんなテーブルに並ぶ豪勢な料理を前に、小桜が放ったのが、さっきの一言だった。

「ちょっと気持ち悪いよね。でもすごくおいしかったよ?」

 小桜は嫌そうに顔をしかめ、鳥子を一瞥する。

「お前は頭がおかしい」

「ひどい!」

「でも小桜さん、さっきまで普通に食べる気、満々でしたよね?」

 鳥子をストレートな罵倒で殴る小桜に、私がそう言うと、小桜はジロリと私を見やった。

「……油断してたんだよ。色々ありすぎて頭が回ってなかった。普通に飯食いに行くみたいな流れに乗っちまったんだ……!」

 小桜は頭痛がするみたいに、両手で頭を覆った。

「だって、おまっ──! どう考えてもおかしいだろ!? こんな場所に置かれてる飯食うなんて!」

「まあ、おかしいと言えば、その点については、まったく同意なんですけど……」

 私がそこで言葉を止めると、小桜が私の正面に向き直った。

「なんだよ。まだなんかあんのか」

 挑むような雰囲気を放つ小桜に、私は言った。

「小桜さん、むかし、私たちが裏世界から持って帰ってきた鹿の肉、おいしいおいしいって、普通に食べてましたよね。それはいいんですか?」

 小桜の顔が歪む。怒りと呆れの混ざった表情だ。

「知らなかったんだよ! 変な土産持ってきたなと思ったら、裏世界で狩ってきたジビエ肉だったなんて、誰が想像できんだ!?」

「でも美味しかったんですよね?」

 私は椅子に座ると、小桜を見た。座ると、小桜を見上げる形になる。私はそのまま、覗き込むように小桜の顔を見つめた。

「それとも、不味かったんですかね?」

「………………そうは言ってないだろ」

 絞り出すように呟き、小桜はギロっと私を睨みつけた。悔しさをごまかすみたいに、顔をしかめる。

「……第二のアビューズだ!」

「いいえ。第二の戯れです」

「第二の死ね!」

 私はなんだか面白くなって、テーブルに肘をついた。

「小桜さん、さっきも私に死ねって言ってましたけど、霞に悪影響、与えたくないんですよね? いいんですか。そんな言葉使って」

「んぐ……」

 小桜は喉に異物が引っかかったみたいに黙り込むと、悔しそうに口を開いた。

「良くは……ない」

「ですよね。じゃあ、悪いことをしたらどうするのかも、霞に教えなきゃいけないんじゃないですか」

 私がそこまで言うと、小桜は一瞬、スッ……と無表情になり、すぐに満面の笑みを顔に貼り付けて言った。

「調子に乗るなよ紙越空魚」

「ごめんなさい」

 私が素直に小桜に頭を下げると、隣にいた鳥子がたしなめるように私の脇腹に肘を入れてきた。

「いだっ!」

「空魚はすぐに、そうやって調子に乗るんだから」

「鳥子はすぐ、そうやって暴力振るう……」

「愛の鞭だよ。空魚」

「DV加害者の理屈じゃん……」

 私は脇腹をさすりながら、立ち上がった。

 カートに近付いて、横になっている霞を抱え起こす。どうせ頼まれるのだから、先に自分でやってしまおう、という考えだった。

「霞、どこに座らせます?」

 私が小桜に訊くと、小桜はいつのまにか怒りの笑みを消していて、少し考えるように黙った。

「……空魚ちゃんの隣にあたしと霞が座るから、悪いけど空魚ちゃんと鳥子、もう少し左に寄ってくれない?……料理に手が届かないからな」

 料理にまだ抵抗があるのか、不満そうに小桜が言うと、鳥子が困ったように笑いながら二席分スペースを空けた。私は霞を抱き上げて、座席に座らせる。背もたれに、そっと霞の体を預けさせた。

「大丈夫そう?」

 私が訊くと、霞は瞳を私に向けて、コクリとひとつ頷いた。それを見届けて、私は小桜の方に視線を投げた。

「霞の席、ここで良いですか?」

「ああ、ありがとう。空魚ちゃん」

 私が自分の椅子に座ると、同時に私の右隣の椅子を引いて、小桜が腰掛けた。

「茜理、市川さん。お待たせしてごめん。じゃあ、冷めないうちに食べよっか」

 私は正面に座る二人を見やった。

 茜理と夏妃は料理から目を離さず、私の言葉に首肯していた。そのまま数瞬が過ぎてから、二人はハッと顔を上げた。

「あっ、はい! 全然、待ってません! 大丈夫です!」

「ウ、ウチも、なんもないっす……」

 二人の応えに、私は申し訳なく思ってしまった。思わず、笑いが漏れる。

 涎を垂らしそうなほどではないにしても、それなりにお腹を空かしているはずだ。私と小桜のくだらないおしゃべりで、少々時間を潰してしまった。

「……よし、じゃあ食べ──」

「それではみなさん、ご一緒に。いただきます」

 私の音頭に霞が被せる。霞の手には、既にナイフとフォークが握られていた。手を合わせる気はさらさらないらしかった。その視線は、ミートボールとフライドポテトの間を行ったり来たりしている。

「ええと、はい……じゃあもう、適当にいただきますっ」

「いただきまーす!」

 私の言葉に合わせて鳥子が言い、ミートボールを自分の小皿に移す。小桜は自分の分を後回しにして、霞の小皿にミートボールとフライドポテト、サラダを盛り付けていた。野菜の山を前に、霞の表情が露骨に曇る。それを、私は視界の端で捉えた。

 茜理がサーモンフィレを小皿に移すと、同じように夏妃がサーモンフィレを自分の小皿に取る。茜理がライスを盛ってカレーをかけると、夏妃もまた、寸分違わずカレーライスを作って自分の前に置いた。

 各々が、自分のやり方で食事を始めていく。

 この場に漂う空気は、驚くほど穏やかだった。

「空魚、食べないの?」

 左隣から鳥子の声が聞こえた。視線をやると、ミートボールをナイフで切り分け、口に運んでいるところだった。

「うん、食べるよ。大丈夫」

「そっか」

 鳥子はそれ以上何も言わず、ミートボールを噛み、飲み込む。

「何かあったら言ってね。それだけは守って」

「……ん。わかってる」

「うん。なら、いいよ。早く食べよう」

 食事の手を止めないまま、鳥子が一瞬だけ視線を寄越す。

 私は自分の小皿にサーモンフィレとミートボールを取り、その静かな時間に身を委ねることにした。

 

 

 

「小桜さん……大変なんすね」

「そうなんだよね。大変なんだわ。正直」

 女三人寄れば──という言葉どおり、食事を終えた私たちは、食休みも兼ねて顔を突き合わせ、とりとめのないおしゃべりを続けていた。

 茜理の大学のことや、私と鳥子の近況。話題は次々と移り変わっていたが、いまは小桜の育児奮闘記を、小桜本人が熱を込めて語っているところだった。

「支援学級ってさぁ……」

 小桜は、冷めきったフライドポテトを口元に運びながら言った。

「毎学期さ、『交流どうしますかー?』ってアンケートが来るんだよ」

「交流?」

 聞き慣れない言葉に、私は首を傾げた。

「普通クラスに行く日。週に何回にしますか、ってやつ」

 そう説明してから、小桜は肩をすくめる。

「多すぎると疲れる、少ないと経験不足。どっち選んでも、あとで『様子見ましょう』って言われるんだよ」

「あー、万能ワードだ」

 鳥子が他人事のように相槌を打った。

「ほんとそれな」

 小桜は笑ったが、その笑いは長く続かなかった。

「決めるのは親、責任も親。仕方ないのはわかってるけどさ、たまに『親の責任、重すぎないか?』って思うわ。選んだの自分だけど」

 何と返せばいいかわからず、私は苦笑で誤魔化す。小桜は気にした様子もなく、話を続けた。

「あと連絡帳ね。『切り替えに時間がかかりました』とか、毎回書かれてるんだよ」

「毎回ですか?」

「うん。毎回」

 私の問いに、小桜は即答した。

「別に責められてるわけじゃないってのは分かってるんだけどさ。読むたびに、あー、今日もそんな日だったかーって思うんだよね」

 小桜はコップを持ち上げ、水を一口飲んだ。

「……まあ、慣れるけどさ。でもこれ、慣れたとか言っていいのか、正直わからんわ。マジで」

 私もコップを手に取り、曖昧に頷く。子育ては、私の知識の範囲をはるかに超えていた。

「だから、愚痴るだけ」

 小桜は、軽く肩をすくめて笑う。

「誰かに愚痴れるうちは、まだ余裕ある証拠だからな」

 そう言って、小桜はコップの水を、酒でもあおるみたいに一気に飲み干した。

「あぁ……ふぅ」

 コップをテーブルに置き、ひとつ息を吐く。その瞳が宙をさまよい、やがて私の背後で止まった。

「……せっかく久々の休みに霞を連れて外に出たのに、何も学ばせてやれてないんだよなぁ」

「学ばせるって、具体的になにを?」

 満腹で満足そうに目を細めていた鳥子が、静かに問いを挟む。

 小桜は鳥子に視線を向け、少し考え込むように黙った。

「まあ、色々あるだろうし、支援学級でもそのうちやるんだけどさ……」

 そう言いながら、小桜はまた、私の背後にある何かを見つめた。

 私は振り返り、その視線の先を追う。鳥子たちも、つられるように首を巡らせた。

 そこにあったのは、簡素なカウンターだった。正確に言えば、ぽつんと設置された会計スペースだ。

「例えば、実地での会計訓練、とかだな……」

「えーと……もしかして、ここでお会計したいってことですか? ごっこじゃなくて、マジのやつ?」

「……そうだな」

 私の問いに、小桜はぽつぽつと呟くように答え、肯定する。

 ……小桜がやりたいといっているのが「お会計ごっこ」であるのなら、特に言うことはない。

 だけど、金銭のやり取りをしたいと言うなら一言言わせてほしい。

 ……こんな場所で、律儀に会計したところで、誰の得にもならない。

 払うだけ損だし、そもそも私たちは、理不尽にもこの空間に閉じ込められている。金を払う理由なんて、どこにもない。むしろ時給五万円くらい貰っても良いくらいだろう。

 そんな私の考えを見透かしたのか、小桜は私を見て、苦笑いした。

「空魚ちゃんの言いたいことはわかる。それが普通だと、あたしも思うよ」

 それから、少しだけ言葉を選ぶように間を置く。

「たださ……店で食べるだけ食べて、金払わないで出る、って体験を、霞にさせたくないんだよな。そこらへんの判断ができない子には、絶対になってほしくない」

 そう言うと、小桜は振り向いた。私たちも、つられてそちらを見る。

 その先には霞が座り、黙々と素手でポテトを口に運んでいた。

 視線が集まっていることに気づいた霞は、居心地が悪そうに体をもじもじと揺らす。小桜が、そっと顔を寄せた。

「霞、あとでお会計、やってみないか?」

 霞は無言で小桜を見返し、数秒遅れて、私たち一人ひとりにも視線を向けた。

 そして、不承不承といった様子で、首を縦に振る。

 霞が、場の空気を読んでいる。

 私にとっては、それが何より意外だった。

「よしよし。いい子だ」

 

 

 

 私たちは会計スペースに立っていた。小桜は霞の斜め右後ろに位置取り、肩にそっと手を置いて、安心させるようにゆっくりと撫でている。霞も普段の無表情とは違い、わずかに強張った、緊張を隠しきれない面持ちをしている。

 そんな霞と──それから私を、鳥子、茜理、夏妃の三人は、どこか面白がるようでいて、けれど茶化すほどでもない距離感を保ちながら、興味津々と見守っていた。

 一方の私は、霞たちの対面、カウンター越しにレジスターの前に立っている。

 理由を問われるまでもない。私がかつてコンビニでアルバイトとして働いていたことを、小桜が覚えていて──そして、それを今ここで引っ張り出してきたからだ。

 さっきまで、霞が場の空気を読んだことに大きな成長を覚えて感心していた私が、今度は当の自分が、霞と同じように空気を読んでレジに立たされている。

 我ながら、なんとも言えない巡り合わせだった。私は少々げんなりしていた。接客なら体が覚えていそうだが、肝心のレジスターの扱いはほぼほぼ忘れている。そもそも店が変われば、レジの仕様やボタン配置は変わるものだ。

 チラリとレジスター本体を見てみると──まあ、なんということでしょう。ボタンが文字化けしていて、表示されている文字が一文字たりとも読むことができなくなっているではありませんか。

 これ……下手をすると霞より、私のほうがワタワタしそうじゃないか?

 いや、落ち着け。馬鹿正直に機械通りの会計をする必要はない。ドロアーさえ開けば、あとは手計算で誤魔化してしまえば、いいか……?

 私はなんだか、さらにげんなりしたが、それを顔に出さないよう意識して表情筋を引き締めた。

 そんな私に向けて、小桜が困ったような笑顔を作る。

「そんなに嫌そうな顔すんなって。今度、なんかお礼するからさ」

 ……やっぱりバレるのか。心情を隠しきれない自分の顔面に、毎度のこと嫌気がさす。

「お礼はいいです。結局ここの代金とか、IKEAまでのタクシー代とか、小桜さんには出してもらってるんで」

「まあ、そう言うなよ。それはそれ、だからさ──ほら、霞。やろうか」

 そう言って小桜は、霞の背を柔らかく二度叩き、次の行動を促した。

 霞が控えめな声を出す。

「……おねがい、します」

 そう言って霞は、私のメモ帳から千切った紙を一枚、カウンターに置いた。

 そのメモ帳には、私と鳥子、茜理、夏妃、小桜、それから霞。全員が今日までに食べた物のおおよその数と、その金額が一覧になって書かれている。ただし、それぞれの料理の価格は誰にもわからず、個数も曖昧だったため、金額は想像に任せたものだった。カウンターに書かれているメニューには、読み取ることのできない歪んだ文字が並んでいたからだ。

 結果として、メモ帳に書かれた代金は、やや多めに見積もって計算されている。

 私は霞の置いた紙を取ると、一度だけ視線を落としてから、読み上げた。

「えー……。八十七点で、合計二万七百円になります」

 私は霞の目を見て応える。しかし霞は、フリーズしたように動かなくなっていた。それを見て、小桜が霞の後ろから、耳打ちするように身を寄せる。

「財布、出そうな」

 小桜の言葉に、霞が眉をピクリと動かす。右手に持っていた小桜の財布に視線を落とし、お金を取り出そうとジッパーを開いて、またフリーズした。

「お金、このお札三枚取って」

 小桜が財布から一万円札を三枚、霞が取りやすいように、ほんの少しだけつまみ出してみせる。

 霞は小桜や私の様子を伺いながら、おそるおそるといった調子で、財布から三万円を取り出し、カウンターの上に置いた。

 そこで、小桜から三度目となる、小さな声での指導が入る。

「お金は、ここに置こう」

 小桜がキャッシュトレイを指差す。霞は慎重に三万円を置き直し、おそるおそる確認するように私の方を見た。

 私はトレイから紙幣を受け取る。

「三万円、お預かりします」

 私はレジのボタンで、色の付いたものを適当にいくつか押してみる。カチャカチャとボタンを叩く音が、静まり返った店内で、やけに大きく響いた。

 やがて、ガラガラ、ガチャンという大きな音とともにドロアーが勢いよく音を立てて開く。中には、偉人の肖像が描かれた三種類の紙幣と、一円から五百円までの六種類の硬貨がきちんと収まっていた。半分だけ包装が破かれた棒金も混じっていて、妙に生々しい生活感を演出している。

 そんな取り留めのないことを考えながら、私はドロアーからお釣りを取り出した。

「九千三百円のお返しです」

 私がそう告げると、霞がそっと手を差し出してきた。私はその小さな掌の上に、お釣りを置く。霞は受け取ったお金を落とさないよう苦心しながら、紙幣と硬貨に分けて丁寧に整えると、ふう、と短く息を吐き、私と小桜の顔を交互に見た。

「おつかれ、霞。完璧だったぞ」

「おつかれさま、霞」

 小桜と私が同時に言うと、霞の瞳がキラリと光った。一瞬、何が起きたのかわからなかったが、すぐにその理由に気づく。涙が滲んでいたのだ。小桜が慌てて霞の前に立ち、袖でそっと涙を拭った。

「なんだよ。大丈夫だって。何も悪いことじゃないんだから」

 そう言ってから、小桜は一拍置いて大きく息を吸い込んだ。

「いいか? 食べた物、買った物、誰かがなにかしてくれた事には、ちゃんとお金を払わなきゃいけない。お金を払わないでご飯を食べるのはダメだ。そういうのは『無銭飲食』って言うんだ。無銭飲食は警察に捕まるからな……それと、万引きもダメだぞ? 万引きっていうのは、買ってない物を勝手に持って帰ることだ。『万引き、ダメ、絶対!』いいな?」

 一息でそこまで言い切った小桜に、霞はコクコクと頷く。それでも涙はなかなか止まらなかった。こんなふうに感情をあらわにする霞を見るのは初めてだ。声をかける以外にできることもなく、私はレジの前で地蔵のように立ち尽くしていた。

「おめでとう、霞。かっこよかったよ」

「とっても上手にできてたよ! 霞ちゃん、すごい! ほら、なっつんも!」

「ああ……すごいと思う」

 鳥子たちが三者三様に声をかけ、霞の頭を撫でる。そのたびに、霞の目が気持ちよさそうにキュッと細くなった。

 ……私も撫でたりした方がいいのかな。

 そんなことを考えながら、私はドロアーをレジに押し込み、カウンターから出ようとスウィングドアへ向けて足を踏み出した。

 ──その瞬間、背後から唐突に、機械音がした。

 何かが始まる音ではなく、すでに終わったことを告げるような音だった。閉じていたはずのドロアーがガシャンと音を立てて再び開く。同時に、やけに長いレシートが吐き出されてきた。

 その一連の光景に、全員の視線が一斉に吸い寄せられる。

 私はゆっくりとレジの前に戻り、レシートをもぎ取った。レシートの表面には、印字された解読不能な文字が踊っている。よく見ると、その一部が、絶え間なく書き換えられていた。配置的に見て、商品の点数と合計金額が表示されるはずの場所だ。

 私は、レシートの持ち主になるはずだった小桜に確認した。

「あの、いります?」

「い……いらない」

 案の定断られたので、私はその気味の悪いレシートを処分しようとした。だが、レシート専用のトレイも、ゴミ箱も見当たらない。

 だからといって、床に捨てる気にもなれなかった。困った末、私は仕方なくレシートを畳み、ポケットに押し込んだ。薄い紙切れのはずなのに、妙に存在感があった。

 そうして私は、何事もなかった、という顔をしてレジを離れた。

 

 

 

「──おい!!」

「ぎゃああああ!!!」

 空から突然降ってきたような男の大音声に負けないくらいの悲鳴を上げて、小桜が仰向けにひっくり返った。

 不気味なレジの一件から、逃げるようにフードコートを後にした私たちは、足早に拠点への道を進んでいた。

 最初は黙々と歩いていたけれど、道程の三分の一を過ぎたあたりからぽつぽつと誰かが話し始め、三分の二ほど進む頃には、それぞれが談笑を楽しむ空気になっていた。

 隊列は、先頭に茜理と夏妃、そのすぐ後ろに霞の乗ったカートを押す小桜。その後ろを、私と鳥子が並んで歩いている。

 茜理と夏妃と話し込んでいた小桜は、拠点に近付くと聞こえてくる、例の「謎の声」たちに、見事にノックアウトされた格好だった。

「あっ、小桜さん……」

 慌てて茜理が小桜を助け起こす。どこか気不味そうな表情をしているのは、おしゃべりに夢中になっていて、声のことを伝え忘れていたからだろう。

 声は、老若男女の叫び声が折り重なったような状態になっていた。

「ほんとにすみません……お伝えするのを忘れてました。ここの拠点、入ろうとすると、いつも変な声が聞こえるんです。あ、変なのは声だけで、中はなんともないですから!」

「そ、そっかあ……ははは……瀬戸ちゃん、ほかにはこういうの、もう……ないかな? 情けないし恥ずかしいんだけど、あたし怖いのマジで、マジで無理でさ……ほんとに……」

「あ、はい! それはもう、存じています! この声たちは中に入っちゃえば聞こえなくなりますので、早く入っちゃいましょう!」

「小桜さん、辛いと思うっすけど、あと少し頑張ってください」

「ああ、うん……少し我慢すればいいんだね。了解……」

 茜理と夏妃に引っ張り起こされながら、小桜は弱々しくそう返事をして、霞を乗せたカートを押しながら拠点へと入っていった。

 私と鳥子も続いて門を潜った。瞬間、騒々しい声はピタリと止まる。まるで、こちらの存在を確認し終えたかのように。

 この声は、なんなんだろう。防犯アラーム的なものだろうか。意味があるとは思えないが、意味がないとも言い切れない気がした。

 私は鳥子と顔を見合わせる。私が首を傾げると、鳥子も同じ角度で首を傾げてみせた。

「なんの意味があると思う? 空魚」

「特に意味なんてないのかも。鳥子」

 そう言葉を交わしながら、私たちは拠点の奥へ進んだ。

 中心部には、大量の椅子が並べられ、積み上げられていて、そこに辿り着いたとき小桜が周囲を興味深そうに見回しているところだった。

「すごいね、ここ……瀬戸ちゃんと市川さんが作った……わけではないよね。三日やそこらじゃ無理だろうし」

 茜理が応える。

「そうなんです。私が初日に運よく見つけて、そのまま居座ってる感じですね」

「運が云々とは、あんまり関係ないとは思うけどね。この世界を形作っている『なにか』が、都合よく瀬戸ちゃんたちの前に用意したんじゃないかな。わかんないけど」

「へー……なんか怖いですねぇ、そのお話。全部、なにかの手の平の上って感じで」

 茜理が小さく肩をすくめた。口ではそう言いながら、表情に怯えはない。

「ごめん。別に怖がらせるつもりはないんだけどさ」

 小桜は両手を上げてみせた。

「ただの考え方のひとつ。運とか偶然って言葉で片づけるには、出来すぎてることが多いんだよね。ここは」

「それって……この世界が私たちを見ている、みたいな話ですかね?」

「見てる、というか」

 茜理の質問に、小桜は少し考えてから言い直した。

「形を保とうとしてる、に近いかな。人が入り込んできたから、その前提で帳尻を合わせてる、みたいな」

 私はその言い回しに、妙な既視感を覚えた。

 裏世界では、こういう「都合の良さ」は少なくない。

「だったら、拠点を見つけられたのも『誰かが用意してくれてた』って感じ……なんですかね?」

 茜理が言った。

 対して小桜は顎に手を当て、片眉を上げて「んー……」と口をつぐんだ。

「用意された、って言い方は……あんまり好きじゃないな」

 私は思わず口を挟んだ。茜理と小桜が、同時に私のほうを見る。

「助かる場所があったのは事実だけど、それが『助けてあげよう』なんて親切心とは限らない……と思う」

「それはそうだな」

 小桜はあっさり頷いた。

「悪意も善意もない。ただ、壊れないように配置されてるだけ、なのかもしれないな」

 その言葉は、音もなく、拠点の静けさに沈んでいった。

「……あの」

 沈黙を破ったのは、夏妃だった。

「ウチ素人なんで、余計な口出しなのは重々承知なんすけど……たぶん、それって、いま考えても仕方ないこと……っすよね」

「……あー、まあ、うん。そうだね」

 夏妃のもっともな言葉に、私は少し言葉に詰まりながら、もごもごと返した。

「今は、帰れるかどうかの方が大事で……霞ちゃんも、さっきより元気になってるみたいっすし。小桜さんさえ良ければ、ゲートを開けてみてもらう……みたいなこと、ってできますか……?」

 話を向けられた小桜も気不味げに頷き、カートの上で三角座りをしている霞に声をかける。

「霞、お願いできるか?」

 霞は一度だけ深呼吸して、確かめるように、カートの上に座ったまま手のひらを前に出した。

 私は、コンタクトを外したままの右目で、それを観察していた。

 霞の右手の先、その空間に、わずかな亀裂のような模様が走る。一瞬、内心で喜んだが、どうにも様子がおかしい。

 その線は、ミチミチと音を立てるような錯覚を伴いながら伸びていき、しかし中途半端な大きさで止まってしまった。

 霞の方へ視線を移すと、顔を赤くして力んでいるのがわかる。

 ゲートの裂け目から、わずかな量の燐光がこぼれ落ちていた。まただ。また、何かに妨害されている。

 入ってくる時はあれほどすんなり通したくせに、出る時になると、こうして邪魔をされる。

 いったい、これはなんなのだろうか……。

「空魚ちゃん、いまどんな状況……? ダメそうなら、霞に無理させたくないんだけど……」

 私は霞に目を向けた。

「うぅぅ……」

 霞は、あの時──キングサイズのベッドから表世界へ戻った時と同じような、喉の奥を絞る唸り声をあげている。

「いまは……頭ひとつ分より、少し小さいくらいのゲートが開いているのが見えます」

 そう応えながら、私は迷っていた。

 あの時と比べれば、いまはまだ時間的に夜は遠い。おまけに、ここは拠点という安全地帯でもある。

「とにかく帰りたい」という切迫した感情を除いて考えれば、あの時のように霞に無理をさせてまで、ゲートをこじ開けさせる理由は少ないのかもしれない。しかし、この妨害がなぜ起きるのか、それがわからないことにはいつまで経っても出られないかもしれない……。

 とにかく霞に、いったんゲートを閉じさせるべきか。そう考えかけた、その時だった。

 目の前で、金髪が揺れた。

 鳥子だ。鳥子は私の方を振り向き、軽い調子で訊いてくる。

「空魚、ゲートはどこらへん?」

「そこだけど……」

 私は、言われるままにゲートの位置を指差した。

 鳥子は一度だけ頷く。

「じゃあ、私がこじ開けてみるね。いい?」

「え、ああ……うん。良い──」

「オーケイ! あった! ここね!」

 私が応えるより早く、鳥子は左手につけた手袋を外し、何もない空間を探るようにしてから、ゲートに左手をかけた。

 その上に右手を重ね、体重を預けるようにして、ゲートを押し広げようとする。

 私は邪魔にならないよう数歩下がりながら、右目でゲートを凝視した。

 鳥子の補助を受けたゲートは、ゆっくりと──だが確実に拡がっている。

「良い感じ。ゲート、大きくなってるよ!」

 私の声に、鳥子はニヤリと笑った。

 一方で霞を見ると、やはり厳しい表情のまま、唸り声をあげ続けている。

 その横では、小桜が心配そうに霞の肩を抱いていた。

 ついでに茜理と夏妃の方へも視線を向ける。

 二人は椅子に腰掛けたまま、ぼんやりと霞と鳥子の様子を眺めていた。

 ゲートが見えない二人からすれば、何もない宙に向かって苦しそうに手を伸ばす霞と、やはり何もない場所に体重をかけ、体を斜めにしている鳥子は、不思議な光景だろう。

 鳥子に至っては、端から見れば大道芸人のパントマイムにしか見えないはずだ。

 私は茜理と夏妃から視線を戻し、改めて右目でゲートを見た。

「……?」

 胸の奥に、小さな違和感が生まれる。

 なんとなく、ゲートがさっきより、ほんのわずかに小さくなっているように感じられた。

「空魚! いまこれ、どうなってる? なんだか押し戻されてる気がする……!」

 私はとっさに霞へ視線を走らせた。

 霞は息を荒くし、俯いている。

 右手はかろうじてゲートの方を向いているが、それがまだ意味を持っているのかどうか、私には判断がつかなかった。

「ああ! だめ、押し戻される!」

 鳥子が悲鳴じみた声を上げる。

 私は右目に意識を集中させ、ゲートを凝視した。

 縦長に裂けていたゲートが、みるみるうちに閉じていく。

 その縁が、鳥子の両手へと迫っていた。

「鳥子、手を抜いて!!」

 思わず叫んだ私の声に、鳥子は、すんでのところでゲートから手を引き抜いた。

 瞬間、ゲートは青白い燐光を残して、完全に消え去った。

 私は鳥子に駆け寄り、その両手に手を伸ばす。

 左手はまだ強く握られたまま、右手は開いている。

 それでも、確認はできた。……大丈夫だ。指は、ある。

 顔を上げると、鳥子は私と、さきほどまでゲートがあった場所を、交互に見比べていた。

そして、不思議そうに私を見る。

「空魚、なにがあったの?」

 私は鳥子の目を見て、正直に言った。

「ゲートが完全に閉まりそうになってた。あのままだと、鳥子の指が切り落とされると思って……だから、止めた」

「あっ、そっか……そういうことね」

 鳥子は納得したように何度も頷き、私に向かって、まっすぐな視線を向ける。

「ありがとうね、空魚」

 あまりにも真っ直ぐなその視線に、私は正面を向けなくなり、視線を下へ逃した。

「別に、これくらい当たり前だよ。……それより、そっちの指、怪我してない?」

 話の流れを強引に変えながら、私は鳥子の左手を指差した。

「ん?」

 鳥子は一瞬、きょとんとした顔をしたが、視線を下げて、初めて自分の左手が強く握られていることに気付いたらしい。

 鳥子は、ゆっくりと左手を開く。

「大丈夫だよ、空魚。どこも痛くないし──きゃああっ!?」

 反射的に振り払われた鳥子の左手から、何かが床に転がり落ちた。

 その悲鳴に、その場にいた全員の視線が、床に落ちた「それ」に吸い寄せられる。

 照明を受けて、てらりと鈍く光る、謎の物体。

 しばらく見つめてから、私はようやく、それが何なのかに気付いた。

 茜理が小走りで近付き、床に片膝をついて、それを指先でつまみ上げる。

 慎重に角度を変えながら、観察した。

「えーと……それって、なんなの?」

 小桜が、場に満ちる緊張感に当てられたように、声を震わせながら訊ねる。

 茜理は、短く息を吸ってから言った。

「こ……これ……スタッフの肉片、ですね──まずいかもしれません」

 その瞬間、茜理が言い終わるか終わらないかのタイミングで、何か重いものが金属にぶつかる音が、拠点の中に鳴り響いた。

 一度や二度じゃない。ガンッ、ガンッ、ガンガンッと、何度も音がする。

 ──スタッフだ。

 私と鳥子が初めてIKEA迷宮の夜を経験し、茜理に救い出された日のことが瞬時に脳裏に蘇る。私たちを追いかけてきていたスタッフたちが、バリケードの壁を何度も殴打していた。あの音と、いま耳に届いているこの音は、まったく同じだ。

 茜理が駆け出す。

 私も一歩遅れて走り出し、その後を鳥子と夏妃が続いた。三人でバリケード近くにまとめて置いてあった木製の槍を手に取る。

 瞬間、ひときわ大きな破砕音と衝撃が、私たちの腹の底を揺らした。

 なにか、明らかに尋常じゃないことが起きている。

 私は、バリケードへと続く通路を曲がろうとしたところで、何かに激しくぶつかり、身体ごと弾き飛ばされた。

 茜理だった。いままで見たことがないほどの焦りと危機感を顔いっぱいに滲ませて、茜理は大声で叫んだ。

「逃げてっ! バリケードが破られる!!」

 バリケードの壁を、ネジやボルトごとメリメリと剥がし、破壊する音が聞こえてきた。

 直後、壁が丸ごと吹き飛び、巨大な足と拳が現れた。視線が腕を辿る。仰ぎ見るほどの巨体。私と鳥子が、ここに迷い込んだ初日に、私たちを驚かせた、あの超巨大スタッフだと、私は瞬時に理解した。

 私たちは、示し合わせるでもなく走り出した。

「茜理! 出口が使えるように、群がってるスタッフがいたら殺しておいてほしい! できる!?」

「やります!」

 勇ましく一言で返して駆け出す茜理に、夏妃も走って着いていく。私と鳥子は二人の背中を見送って、拠点中心部で一人であわあわと立ち尽くしている小桜のもとへと向かった。

「そ、空魚ちゃん! なあこれ、何が起きてる? もうビックリイベントはないって瀬戸ちゃん言ってなかったか!?」

「バリケードが壊されました! 逃げなきゃ殺されます! 霞と一緒に動けるようにしてください!!」

 私は小桜の質問を無視して、現状の解説と指示だけを飛ばす。

 小桜は黙ると、霞の乗っているカートのハンドルを握りしめた。手が激しく震えている。私は小桜の手に自分の手を重ねて言った。

「霞は私が押します。小桜さんはなるべく、長く速く走れるペースを保つことだけ考えてください」

 言いながら、私はカートを押して、一気に走り出す。急加速したカートにしがみついた霞に、鳥子が声をかけた。

「ごめんね霞。ちょっと揺れると思うけど……大事なとこだから、しばらく我慢してね」

 そう言って鳥子は、私と霞を護衛するように槍を構えながら黙って走った。少し後ろから、小桜が必死にカートに並走してくる足音が聞こえる。いつもなら、途中で足を緩めているところだが、そんな余裕はなさそうだ。小桜には酷だが、とにかく頑張ってほしい。

 出口に辿り着くと、茜理と夏妃がバリケードの内側からスタッフを槍で突いているところだった。

 鳥子が前に出て、助太刀をした。

「いまどんな状況!?」

 鳥子の問いに、茜理は振り向かずに応えた。

「さっきまで完全に塞がってましたけど、かなり減りました! もう少ししたら、無理矢理にでも突破できます!」

「ごめん、もう少しってどれくらい!?」

 私が急かすように訊くと、茜理は近くまで来ていたスタッフを、迷いなく槍で突き刺し、槍をバリケードの隙間から引き抜いて、大声で叫んだ。

「──いまので終わりです! 行きます!!」

 茜理と夏妃が門を押し開けた。

 しかし、門の前には大量のスタッフの死骸が転がっていて、門が半端にしか開かない。

 邪魔だ。

 カートが通れない。

 私は前に出て死骸を無言で蹴り上げた。折り重なった死骸は思ったよりも重く、ほとんど動かない。

 仕方なく私は体を屈めて死骸を掴み、力任せに放り投げた。

 無言で動く私の意を汲んだ鳥子と小桜が、私と一緒にカートが通れるくらいの道を作っていく。

 私たちは、スタッフたちの汗で滑る手を使い、全力で道を開けた。

 わずかな時間ではあったが、茜理と夏妃は文句も言わずに、私たちの両脇で他のスタッフが近付いて来ないか警戒していてくれた。

 十数秒ほどかけて道を作った私たちは、霞の乗ったカートまで戻り、ハンドルを全力で押し込んだ。

「茜理! 市川さん! 終わった、行くよ!」

「はいっ!」

「っす!」

 全員が走り出し、拠点から転がり出た。

 瞬間、地面が持ち上がるような衝撃とともに、拠点が半壊した。壁がひしゃげ、バリケードは見る影もない。つい先程まで私たちがいた場所も、完全に押しつぶされていた。超巨大スタッフの仕業だと、考えるまでもなかった。

「──行くよ!」

 誰に言うでもなく、繰り返しそう言うと、私たちは駆け出した。

 逃げる先なんて、どこにもないのに。

 

 

 

 明るい店内のショールームを、私たちは駆けていた。閉店後の暗闇を知っている私にとって、視界が開けているというのはわずかな安心材料ではあったが、同時に背後から無数のスタッフが追いかけてくるのが、はっきりと見えてしまうという現実もあった。

 絶望が、距離を詰めてくる。

 嫌でもよくわかる。呆れるほどに最悪だった。

 カートを押しながら走るのは、かなり窮屈だ。足を伸ばして走りたいのに、カートが邪魔をして小股でしか走れない。だが、これ以上スピードを出せば、何かの拍子に転倒するリスクがある。

 もっと速く走りたい。

 でも、これ以上速く走れない。

 いや、そもそも──どこに向かえばいい……?

 そんな堂々巡りの思考の途中、左前を走る夏妃の様子が目に入った。一歩踏み出すごとに、ぐらり、ぐらりとバランスを崩しそうになっている。

 思わず、私は口を開いていた。

「市川さん、どうし──」

「すんませんっ……」

 夏妃が、苦しそうに謝罪を口にしながら、その場に膝をついた。

「なっつん!」

 全員が勢いを殺して立ち止まる。茜理が駆け寄って、夏妃の顔色を伺った。

「なっつん、もしかして、足……?」

「ごめん、アカリ……。もうこれ以上、無理っ……」

 脂汗を滴らせながら、夏妃は茜理の肩を押した。

「先に行ってて……!」

「………………」

 茜理は夏妃の言葉に何も反応せず、感情の抜け落ちたような表情で、夏妃の体に手を回した。

「茜理……もういいって──うおっ!?」

 夏妃よりも一回り背の小さい茜理が、夏妃を無理矢理立ち上がらせた。夏妃の脇から肩に向けて手を回し、逃がさないようにがっちりとホールドしている。

「茜理っ、茜理っ! おい、聞けって! ウチに構ってたら逃げらんなくなる!」

「そういうのいいから」

 二人の方から声が聞こえた。一瞬、誰の声かわからなかった。ただ、小桜も鳥子も、霞も喋っていないことはわかったので、この低い声が茜理のものだと、やっと理解した。

「そういうのいいからさ、なっつん。走れる方の足使って走ってよ。みんなに迷惑じゃん」

「う、え……?」

 夏妃が戸惑いの声をあげながら、茜理に促されて、ぎこちなく足を踏み出した。

「そう、そう。いいよ。いい感じ。少し私がペース下げて走るから、なっつんはちゃんとついてきて。いいね?」

「あ、うん……」

 戸惑いの抜けない声で夏妃が返事をすると、茜理が夏妃に視線を流した。

「それと、次同じこと言ったら、嫌いになるから。わかった?」

「わ、わかった……」

「うん。いいね。じゃあ行こう!──センパイ! すみませんでした。もう大丈夫です!」

 茜理は振り向くと、私に向けていつもの笑顔を向けた。

「あ……うん。そっか、よかった」

 私がそう言うと、茜理はいつも通りの明るい笑顔を咲かせて、再び走り出した。

 取り残された私たちは、呆然と走っていく二人の背中を見ていた。

「茜理、すごいね……」

「瀬戸ちゃんは、怒らせたらやべえタイプだな」

「………………行きましょう」

 私はカートを押して走り出した。

 そして今後一切、茜理を怒らせるようなことは絶対にやらないぞ、と心に誓った。

 

 

 

 私たちは、スタッフから逃げて走り続けた。

 正面からの接触は想定よりもずっと少ない。スタッフたちは、私たちを追いかけるというよりも、追い詰めることを選んだようだった。後方からの単純な追撃ではなく、棚や通路の影から飛び出すように現れる奇襲めいた出現が、明らかに増えてきていた。

 スタッフが出てくるたびに、鳥子が前に出て、腕を振りかぶるよりも速く、槍でみぞおちの辺りを正確に突き刺していた。

 私はカートからあまり離れられない。

 茜理は夏妃のサポートで手一杯だ。

 本来なら、ああいう攻撃は茜理の方が向いているはずなのに、背の高い夏妃を支えて走るのは鳥子でも難しい。

 役割として、夏妃を支えるのは、どうしても茜理しかいなかった。

 スタッフが現れるたび、茜理と夏妃は苦い顔で鳥子を見る。

 結局、数で押される場面以外は、鳥子が一人で前に出るしかなかった。

「ハア、ハア……」

 誰ともなく、呼吸の乱れる音が聞こえてくる。

 全員、体力が限界に近づいていた。

 破壊された拠点から、一キロは離れただろうか。それだけの距離しか移動できていないはずなのに、ずいぶん時間が経ったように感じていた。

 振り向くと、拠点だったものはすでに完全に崩壊していて、そこからドタドタと駆け付けたスタッフたちが、諦め悪く私たちに向けて群がってきているところだった。

 そのさらに後ろには、超巨大スタッフが、私たちの方へと足を踏み出している。一歩進むごとに、床を通して衝撃が伝わってくる錯覚すらあった。

 私は正面に向き直ると、そのまま走り続けた。

 開けていた道を走っていたはずなのに、右に左にと展示品や棚を迂回しているうちに、通路は次第に狭くなり、棚の間隔が詰まり、視界そのものが削られていく。

 その間もスタッフからの奇襲は続き──気づけば、進める方向は一つしかなくなっていた。

「……袋小路だ」

 ぽろりと零れた自分の言葉が、やけに現実味を持って耳に残る。

 背後では、スタッフたちの動きが変わっていた。

 走って追ってくるのではなく、回り込むような配置になっている。

 棚と棚の隙間から。

 通路の奥から。

 横列の向こうから。

 ……じわじわと、包囲網が閉じていく。

 逃げ道は「前」しかないはずなのに、その前方にも、すでにスタッフの走ってくる姿が見えていた。

 私は、スタッフのいない背後にあとずさった。すると、トン、とすぐに背中が硬い感触にぶつかる。振り向くと、黒い何かが無数に並ぶ商品棚だった。

 ──行き止まりだ。

「……囲まれてる」

 鳥子の声が低くなる。

 その瞬間だった。

 遠くの棚の向こう側──。

 大きな影が、ゆっくりと動いた。

 超巨大スタッフ……。

 その影が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。どこから来たのか、数える意味もわからなくなるほど増えていって……私は目を逸らした。

 建物そのものが近づいてくるような圧迫感。

 足を踏み出すたびに、カタカタと棚に並ぶ雑貨が揺れる音がする。

「……ふぅうう、ひぃ……」

 小桜が恐怖に顔をひきつらせながら、霞に抱きついていた。先ほどからずっとこうだ。得体の知れない攻撃的な化け物から狙われて、逃げ場がどこにもない、という事実を誰よりも早く察し、心が耐えきれなくなったのだろう。

 やはり距離の詰め方が、追跡のそれじゃない。囲い込みだった。その動きが、楽しげに獲物をなぶるタチの悪い狩人のように見えて、私は無性に腹が立った。

 後方は絶壁のように隙間なく立ちはだかる、背の高い棚。

 遠景には超巨大スタッフ。

 逃走経路はすべて、視界の中から消えていた。

 空間そのものが、私たちを圧縮していく。

 ああ、そうか。逃げ場がないんじゃない。

 最初から、この世界は。

 私たちを逃がす気がないんだ。

 私は、そう確信した。

 その場にいる全員が立ち止まっていた。

 ただ俯いて地面を見つめていたり、スタッフの襲撃に抗おうと槍を構えてあたりに気を配っていたり、半ば諦めたように震えながら娘に抱きついていたり、いつでも走って動けるように友人の肩を掴んで離さなかったり、友人から肩を離してもらえなかったりしている。

 そんな時だった。私はその場に説明のつかない違和感を覚えた──。

 これは……。

「アカリ……ひとつだけ、ウチの話聞いてくれないかな」

 夏妃が穏やかな表情で茜理を見つめている。その凪いだ水面のような様子に、茜理は不思議そうな表情を向けた。

「ウチ、茜理のこと……愛──」

「市川さん、ちょっと静かに!!」

「して──って、は!?」

 夏妃が何かを言っていたが、それよりも重要そうな違和感に、私の意識は完全にそちらへ引き寄せられていた。

「鳥子……! この匂い、わかる!?」

 私に問われた鳥子は、困惑したように首を傾げながら、不思議そうな様子を隠すことなく、目を閉じて鼻をスンスンと鳴らした。私ももう一度、慎重に香りを探る。勘違いじゃなければ、これは──。

 鳥子が目をカッと見開いた。

「表のIKEAの匂い……! どうして?」

 私は鳥子の答えに頷いた。自分の錯覚ではなかったことに、胸を撫で下ろす。

 IKEAの香り。

 到着した直後、店内に満ちていたアロマの匂いだ。

 この迷宮に入ってから、こんな匂いを嗅いだ記憶は一度もなかった。

 ──いったい、どうして? どこから?

 私は考えるよりも先に、右目に意識を集中した。視線の先は……霞だ。

 霞はカートの上に膝立ちになり、虚空に向かって右手を掲げていた。その手の先から、青白い燐光が舞っていて、ゲートとも呼べないほど微細な隙間が開いていた。

 香りは、ゲートの向こうから来ているようだ。

「か、霞……?」

 霞に縋り付いている小桜が、霞の動きに眉を上げて注視している。

「もしかして、またゲート開けようとしてんのか、空魚ちゃん!」

「そう、みたいです」

「大丈夫なのかよ!?」

 小桜が吠えた。

 霞の体への負担なのか、またスタッフの肉片が落ちてくることへの恐怖なのか──あるいは、その両方か。

 私にはわからなかった。

 けれど、私にはこう答えるしかなかった。

「──やってもらわなきゃ、私たちはここで終わります!!」

 私が応えている間にも、霞は表情を険しくさせ、掲げた右手に必死に意識を集中しようとしているように見えた。

 私はゲートを指差して、鳥子に向かって叫んだ。

「鳥子! ゲートがそこにある!」

「任せて!」

 鳥子が即席槍を足元に捨てて、急いで私の指差した場所を手で探る。

「もう少し左──そこ!!」

「オーケイ!」

 鳥子の左手がゲートの縁を捉えた。瞬く間に鳥子が全体重をかけてゲートをこじ開けようとする。私もその左手に自分の手を重ね、ゲートを少しでも広げようと背を逸らして力を込めた。

 同時に霞の唸り声が、低く、重く、ドンドン大きくなっていく。

「ううううう! ああああ!!」

 一際大きな叫び声を霞が上げると、ゲートがビリビリと縦に裂けるように広がり、香るアロマの匂いがさらに強くなった。

 霞が目を大きく見開く。歯を食いしばった必死の形相で、ゲートを開こうとしていた。

 そして霞と鳥子、二人の力でゲートが開いた。

 霞が普段使っているゲートとは比べ物にならないほど細く、不安定で、頼りない。

 それでも、人が一人ずつなら、なんとか通れる程度の隙間が開いている。

 しかし、ゲートは開いたそばから修復が始まっているようだった。燐光がゲートの端に集まり、縫い合わされるように、少しずつゲートが閉まっていってしまう。

 私は茜理に目配せをして叫んだ。

「茜理、行って!」

「え、でもっ……!!」

 躊躇するように茜理が反論しかけたが、私は有無を言わさず怒鳴りつけた。

「いいから速く! 後ろがつかえてる!!」

 私の勢いに驚いたのか、茜理は一瞬目を白黒させたが、すぐに表情を引き締めた。

「──先に行って待ってます!!」

 そう言って茜理は、夏妃を強くゲートに押し込んだ。

「え? えっ!? きゃあああ──!!」

 夏妃がゲートの向こうに落ちながら、甲高い悲鳴を上げてゲートの向こうに消えた。その背中を追うように、茜理が無言でゲートに飛び込んでいった。

 その様子を見届けると、私は振り返って小桜に言った。

「次、小桜さん! 行ってください! 行けますか!?」

「ちょ、ちょっと待て! 霞を置いていけね──」

 私は即座に小桜を抱え上げると、一切の躊躇なくゲートの向こうに放り投げた。

「ま、待て! 待てって! ひゃあああ──!!」

 気の抜けるような悲鳴と共に、小桜もゲートの先に消える。

 私は鳥子と霞に向かって言った。

「霞と鳥子が最後になる必要がある! ごめん! 殿、お願い!」

 私の言葉に、鳥子はゲートが閉まらないよう、ぷるぷる震える左手をゲートに掛けながら訊いた。

「シンガリってなに!?」

 私は一瞬息を止めて、鳥子の目を見て答える。

「最後まで残っててって意味!!」

 私の答えに、鳥子はやや呆れたような顔をした。

「そんなの最初からそのつもり! こんな時に難しい言葉使わないでよ!!」

「ご、ごめん……」

 殿って……殿って、難しいか?

 私は一瞬そう思ったが、言葉にはせず、飲み込んで静かにゲートへと近付いた。

「霞のこと、お願い!」

 私がそう言ってゲートを通ろうとした瞬間、「わわっ!?」と鳥子が悲鳴を上げた。

 同時にゲートが一気に収縮するように塞がり、通ることができなくなってしまった。

 驚いた私が二、三歩後ろに下がると、何事もなかったかのように、ゲートが再び開いた。

 戸惑いの渦中で、私と鳥子は数秒、無言のまま視線を交わした。

 ──ゲートが、私を拒絶している?

 その事実を把握した瞬間、私は叫んでいた。

「鳥子! 霞と一緒にゲートから逃げて!!」

「やだっ!!!」

 鳥子は即座に絶叫すると、ゲートから手を離し、カートから霞を抱え上げた。

「霞だけ逃げられればいい! それだけでいいんだから……!!」

 鳥子は掠れたような声を張り上げる。

「空魚だけ置いていくなんて、絶対にしないからっ!!」

 私は思わず言葉を失った。

 鳥子には生きていてほしい。こんなところで心中なんて、絶対に嫌だ。……なのに、その感情の奥で、かすかな喜びを感じてしまう。

 こんなの、絶対に正しくない。

 どうしたらいいのか、わからなくなった。

 呆然と立ち尽くす私たちを、スタッフの足音が確実に追い詰めてくる。

 霞も無理をしてゲートを開けている。次の瞬間、閉まってしまってもおかしくない。

 一秒たりとも、硬直している暇はない。

 どうにかして、鳥子と霞には逃げてもらわないといけない。

 私の思考は、そこ一点に縫い止められていた。

 私は視線の置き場所に迷い、宙を仰いだ。

 その時だった。

 数えきれないほどの金色の視線が降り注いでいることに、私は気付いた。

 棚一面に並ぶ、無数の金の瞳。

 目の前にいたのは、このIKEA迷宮に迷い込んだ初日に、ずっと私を追いかけてきた黒猫のぬいぐるみたちだった。

 ゲートから溢れる青白い燐光に照らされ、整然と並ぶぬいぐるみの中に、不自然にぽつんと空いた隙間があることが、一目でわかった。

 ──Bring me back.

 ──「私を戻して」

 白いタグに書かれた英語が、ふと脳裏に浮かぶ。

 私は無言でバッグから黒猫のぬいぐるみを取り出し、向きを揃えて棚の隙間にそっと置いた。

 鳥子も、黙ってその様子を見守っていた。

 ──瞬間、ゲートから青白い燐光が噴き出すように広がる。あまりの輝きに、私は思わず目を細めた。眩しすぎて、ゲートの様子は見えない。

 私が手で燐光を払うと、鳥子が左手を振り、光を散らしてくれた。青白い燐光が消え、ゲートの全貌が見える。

 ゲートは、さっきよりもずっと大きく開いていた。二、三人が横に並んで通っても余裕がありそうだ。

「……どうして?」

 背後から、スタッフが追いかけてくる足音が聞こえる。一段と早い。それでも、私は疑問を口にせずにはいられなかった。

 なぜ、猫のぬいぐるみを置いただけで……?

「う、うぅ……」

 鳥子の腕に抱き上げられた霞が、くたりと力を抜いて呻いた。しまった、また無理をさせてしまった。小桜に謝らないと……。

 私と鳥子がゲート前に立つと、霞が小さく呟く。

「ま、万引き、ダメ……絶対」

 霞はそれだけ言うと、脱力して全体重を預けてきた。気を失っているわけではなさそうだが、無理矢理立たせる気にはならなかった。

 私と鳥子は目を合わせる。

「まあ……万引きはダメだよね。たしかに」

 私が言うと、鳥子は涙目で鼻をすすりながら応えた。

「そうだね。……まったく、空魚の手癖が悪いからなんだから!」

「……申し開きもないです」

 そこまで言った瞬間、私たちのすぐ背後まで、スタッフたちの足音がザカザカと迫っていた。

 それでも私たちは恐れることなく、手を繋ぎ合い、同時にゲートへと飛び込んでいった──。

 

 

 

 12

 思考が、一拍遅れた。

 足裏の接地感が消え、お腹がヒュッと浮き上がる。

 空中に投げ出された私の体を支えるものは、何もなかった。

 名前をつけられないこの現象に、脳の理解が追いついていない。

 ゲートに入って一、二秒もすれば地面に着地できるだろうと、半ばそういうものだと楽観視していたのだが、もう十秒以上は落ち続けているように感じる。

 ──これは……もしかしたら、このまま落下して死ぬのでは?

 そう疑念が浮かびかけた、その瞬間、両足がふわりと柔らかい何かに触れ、着地の感覚に包まれた。

 同時に、淡い青と濃い青が混ざり合ったゲートの内部で、バキッと何か硬いものが割れる鋭い音と、「ぎゃあっ!!」という甲高い悲鳴が、耳元で弾けた。

 

 

 

 無意識に閉じていた目を開けると……そこは、IKEAのショールームだった。

 見渡す限りの家具。

 キャッキャと騒がしい子連れの家族。

 カラコロとタイヤを転がして進むカートの音。

 視線を上げると、当然のように天井があり、天井に埋め込まれた空調機が、涼しい空気を店内へと送り出していた。

 そして香りがする。どこからともなく香る、鳥子の好きな、あの香り。

 ──ここは、「あのIKEA」じゃない。

 そう確信して、私は両脇に視線を巡らせた。

 右隣には、茜理と夏妃が、ボーッとした表情のまま抱き合って立っている。

 左隣には、左腕一本で霞を抱きかかえたままの鳥子が、ぎゅっと目を閉じたまま、私の左手を握りしめていた。

 そのさらに奥では、両手で頭を抱え、震えている小桜の姿が見えた。

 私は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 ──────帰ってきた。

 私はすぐに、隣に立っている鳥子の肩を揺すった。

「鳥子……鳥子、もう平気。大丈夫だよ」

 しばらく肩を揺すっていると、少しずつ鳥子の意識が戻ってくるのがわかった。

 鳥子は、ゆっくりと私の顔を見て、視線を落として体を見て、もう一度私の顔を見た瞬間、目を大きく見開き、空いている右腕で私を抱き寄せて……唇を重ねてきた。

 私が「やめろ」と言う前に、鳥子はすぐにキスを止めて言った。

「空魚、生きてる……生きてる!」

 鳥子は私の頬をむにむにと触りながら、大きくため息を吐いた。

「よかったぁ………………」

「そりゃあ、生きてるでしょ。同じタイミングで逃げたんだもん。覚えてないの?」

「覚えてるけど! あっちの世界なら、何があるかわからないでしょ! いくら心配しても足りないよ!」

 興奮する鳥子に対して、私は両手を前に出し、まあまあ、と落ち着かせた。

「とにかく、みんなを起こそう。後のことはそれから考える。鳥子は小桜さんをお願い。私は茜理と市川さんを起こすから」

「あっ!……えと、う、うん……。わかった……」

 私の言葉に、鳥子は何かを言いかけて、無理やり飲み込んだような、喉を詰まらせたような曖昧な返事をした。

 私は少し妙に思いながらも、隣でぼんやりしている茜理の肩を叩いた。

 瞬間、茜理の体がビクンと跳ね上がり、風を切るような音がした。

 何かが私に向かって打ち出され──寸前で止まった。

 見ると固く握り締められた拳だった。

「ん……あれ? センパイ?──あれっ!?」

 茜理は慌てて拳を引っ込めると、私の顔を覗き込んだ。

「センパイ! 大丈夫ですか!? 怪我はなかったですか!?」

「あー、うん。おかげさまでね……」

 たったいま、下顎だけがポーンとどこかに吹っ飛ばされかねない大怪我をするところだったけど、そこには触れないことにした。茜理は、申し訳なさそうに頭を下げ続ける。

「ごめんなさい! ごめんなさい! あの、つい反射で、スタッフが追いかけてきたんだって思っちゃってぇ……!」

「ああ、うん。それはいいよ。さすがは茜理だなと思うし」

「セ、センパイっ! 怒る時はちゃんと怒ってくださいっ! 何もないと不安になるんですってばぁ!!」

「えぇ……だって、特に悪いことしてないんだもん……」

 私は頭をかいて、一番先に思いついた用件を茜理に任せることにした。

「それじゃあ、頼み事なんだけどさ、私の代わりに市川さんを起こしてくれる? それでチャラってことで。市川さんも、私に起こされるより、茜理に起こしてもらえた方が喜ぶと思うから」

「う、うーん……!」

 茜理は納得いかない、という顔で眉尻を下げたが、結局は素直に頷き、夏妃の肩を揺すり起こした。

 それを見届けて、私はもう一度、左隣を確認した。

 ちょうど鳥子が小桜を起こしたところのようで、鳥子が抱えていた霞を、小桜が抱きしめていた。

「良かったっ、良かったっ! あぁ〜、ホントに良かったぁっ……!!」

 抱きしめられた霞は相変わらずの無表情だったが、両手を小桜の背に回すと、ゆるゆると撫でながら、小桜に抱擁を返していた。

 私は鳥子に視線を向けた。

「全員、無事そうだね」

「うん、それはいいんだけど……」

 鳥子にしては珍しく、言葉尻をすぼませるようにして、何かを言おうとした。そういえば、さっきも何か言いかけていたような気がする。

「どうしたの? さっきから、なにか心配ごと?」

 鳥子は眉をひそめて、口元を引き結ぶ。少し間を置いてから、私をまっすぐ見た。

「さっきさ、私たちが帰ってきたとき……誰かの悲鳴みたいなの、聞こえなかった? ぼんやりとだけど、ギャー、みたいな声がした気がするんだよね」

「………………」

 言われてみれば、そんなことがあった気が……しないでもない。

「ずっとそのことが気になってね? もしかしたら、私たちが表世界に突然現れた現場、見られたかもしれないな〜って……」

「なるほど……それじゃあ、面倒ごとにならないうちに、ここから離れよっか。そうすれば誰がなんて言っても、『突然人が現れるわけないじゃん』で切り抜けられるよ」

 その場しのぎな私の言葉に、鳥子は腕を組んで考え込んでいる。まだ何かあるのだろうか。

「あのね……その叫び声が、なんとなく聞き覚えがある気がして、嫌な予感が──」

「ほらっ、またあの人たちっ! どう考えても悪質じゃないっ!?」

 鳥子の言葉を遮って、甲高い声を上げる女が現れた。

 キングサイズのベッドにシフトした時に、私たちに絡んできた、あの女性客だ。ご丁寧なことに、その女性客が連れてきたIKEAスタッフも、その時に対応した女性スタッフだった。

 あまりの面倒くさそうな展開に、私は内心、辟易とした気持ちになった。

 今度はいったい、なんの言いがかりをつけられるのだろうか。

「私がソファに座ってたら、この人たちが一斉にソファに飛び乗ってきたの! 今度こそ本当に土足でしょ!? 警察呼んで!!」

 はあ? と考えるよりも早く、女の言葉につられて、私は自分の足元に視線を落とした。

 ……土足だった。

 右を見ても、土足。左を見ても、土足……。

 全員、まごうことなく土足だった。しかもその状態でソファの上に乗っていた。

 さらに最悪なことに、下を見て気が付いたが、座面を支える木板が六人分の重みに耐えきれずに折れたのか、ソファ全体が中心に向かって斜めに傾いている。

 ……なんてこった。

 女性客に一歩遅れて到着した女性スタッフは、困ったような微笑みを浮かべたまま私たちの姿を視認した。すると女性スタッフは、ふっと感情の火を吹き消したように無表情になった。

 ほんの一瞬、時間が止まったような静寂が落ちる。

 しばらくして、女性スタッフは無表情が嘘だったかのように、元の柔和な微笑みを取り戻した。

「お怪我はありませんか?」

 女性スタッフが私たちに言った。

 私はとっさに、「怪我人が三人ほど」と言いそうになったが、問いの趣旨が違うと気づいて、

「いえ……いません」

 とだけ応えた。

「恐れ入りますが、ソファにつきましては弁償をお願いする場合がございます」

「すみません。支払います……」

 女性スタッフの柔らかく、それでいて一切の余地を許さない声音に、私は素直に頭を下げるしかなかった。

 私の畏った態度が功を奏したのか、女性スタッフは先ほどよりもさらに柔らかな声色で言った。

「では、後ほどレジにてスタッフにお伝えください。他にもお買い物はございますか?」

「あ、えーと……その、検討中です……はい」

 キョドキョドと喋る私に、女性スタッフはコクリと頷いた。

「畏まりました。それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」

 そう言って深く頭を下げると、女性スタッフは踵を返して歩き去ろうとした。しかし、それを女性客が許すはずもなく……女性スタッフを追い、なおもしつこく食い下がるように絡んでいる。

 ……なんとなく、この話はまだ終わらなさそうだった。

 何を待つと言うわけでもなく、わずかな空白の時間が流れた。

 私たちはソファから足を滑らせないように、慎重に降りると、自分たちが壊してしまった展示用のソファを見下ろした。

 誰が悪いわけではないが、言葉にならない気不味さが、その場に漂っていた。

「あー……」

 私はその空気を少しでも和らげようとして、鳥子に言葉を投げた。

「ソファ……また壊しちゃったね、鳥子……なんちゃって」

 昨日、家で鳥子が話してくれた、子供の頃にIKEAでソファを破壊したというエピソードを引っ張った冗談のつもりだったが、めぼしい反応は返ってこなかった。

 代わりに鳥子は金髪を揺らして、無表情で私を見下ろした。

 ──これは、何度でも主張できることだけど……美人の無表情ほど怖いものはない。

「ご、ごめん……なさい」

 私は自分が失言をしたのだと悟り、頭を下げて、鳥子の反応を待った。

 許されるためなら、この場で土下座すら厭わない覚悟だった。

 しかし鳥子は一言も私を罵らず、暴言も吐かなかった。けれど、ひとすじの涙だけが頬を伝い、絞り出すようにこう言った。

「もうIKEAはこりごりだよぉ……」

 

 

 

 私たちがIKEA迷宮から帰ってきて、おおよそ三時間ほど時間が経った。

 私たちはIKEAの駐車場に、汗だくになって立っていた。 滴る汗を、人数分購入したタオルで拭う。

 空調の効いた店内で待つという選択肢はありはしたが、誰一人としてそうしようとは言い出さなかった。

 他にも、夏妃が出してくれた軽トラに乗って待っていればいいのでは、と私が提案したこともあった。

 だが夏妃からは、「軽トラなんで、二人しか乗れないっすね……」と返事が返ってきた。

 そんなやり取りもあって、結局、私たちは全員そろって立って待つことになった。

 汗で湿り気を帯びたタオルで、首から背中にかけてを拭う。 濡れたシャツが体に張り付く不快感に眉をしかめていると、黒塗りの、見るからに高級そうなバンが、坂を上って駐車場に現れた。

「お、来た来た」

 小桜が呟き、車に向かって手を振った。

 運転席で右手を挙げて返事をする男がいる。

 汀だ。

 ──私たちが、IKEAでの弁償などの様々な雑務を終わらせたのは、一時間半ほど前のことだった。茜理と夏妃、それに霞が負った怪我は、中間領域でスタッフたちにやられたものだ。そのため、小桜は汀に連絡を入れた。

「いいんですか? 汀さん、今日は忙しいって……」

「いいんだよ。これもDS研の仕事の一つなんだから。汀が忙しくても、誰かしら迎えには来れる」

 小桜はそう言って、遠慮なく汀に電話をかけた。

 すると汀本人が、わざわざ時間をかけてIKEAに現れたのだ。

 私たちが停車したバンに群がると、汀が車から降りてきた。

 妙にスッキリとした顔をしていて、私は不思議に思った。

「車、回してくれてありがとう。どうにも全員、体力の限界でさ」

 小桜のフランクな物言いに、汀が微笑んだ。

「それは大変でしたね。それでは、DS研まで、どうぞお寛ぎください」

 そう言って、汀が後方のスライドドアを音もなく開いた。

「あたしは助手席でもいいかな?」

「もちろんです。どうぞ」

 汀がフロントドアを開けると、小桜がステップに足をかけて、軽やかに助手席へ乗り込んだ。

「ありがとう。マジで助かるよ」

「そう思って頂けたなら、良かったです」

「……あのー」

 大人二人組の気の置けない会話に、私は首を突っ込んだ。どうにも気になってしまったからだ。

「こんにちは、汀さん」

「紙越さん、お疲れ様です。どうされましたか?」

「汀さん、来て大丈夫だったんですか? なんだか今朝は……大変そうでしたけど」

 私が控えめにそう言うと、汀は微笑みを深めて頷いた。

 少しかがみ、周囲を気にするようにして、声を潜めてささやいた。

「例の遺族の件ですが、あちら方はDS研への出資をやめると決めました。だから、私はもう拘束されていません」

「そう……なんですか」

「それって、最悪な状態なんじゃないの? 大丈夫?」

 私の疑問を、鳥子が引き継いだ。

 汀は私と鳥子の顔を、静かに見比べてから口を開く。

「あとは我々と上層部で、どうにかするしかありません。厳密には、まだ何も決まっていませんが……」

 そこで一度、言葉を切る。

「私や幹部を含めて、他にもあるであろう支出のたるみを洗い出し、削減していくつもりです。それと並行して、フロント企業の方にも、もう少し力を入れる」

 淡々とした口調のまま、汀は続けた。

「ギリギリではありますが……それで、スタッフの首を切らずに済むはずです」

 そこまで言うと、汀は深く息を吸い、少しだけ視線を宙に泳がせた。

「……DS研のビジネスモデル的に言えば、患者関係者からの出資だけに頼る形はいずれ立ち行かなくなるだろう、という話は、以前から出ていました。それが今日、表に噴き出しただけです」

 汀は淡々と続ける。

「そして我々も、多少なりとも事前に対策はしてきました。ですから……致命的な問題ではありません」

 一拍置いて、静かに言葉を選ぶように。

「そう腹を括った結果でしょうね。むしろ──気持ちの整理が、ついてしまいました」

「……そうですか」

「良かったって言っていいかわからないけど、良かったね、汀さん」

「ええ。おかげさまで」

  汀がそう言うと、ほんの一瞬、沈黙が落ちた。

 その沈黙を待っていたかのように、私たちの背後から、赤い長髪をポニーテールに結った影が近づいてくる。

 夏妃だ。

「あの……失礼します」

 夏妃は汀の顔と、シャツの隙間から覗く、両手に刻まれたマヤ文字の入れ墨にちらりと視線をやり、わずかに声を震わせた。

「あの、ウチらは、その……自分の車があるんで、それで帰ろうかなと……。怪我については、今度、普通の病院に──」

 言い終わるより先に、茜理が一歩踏み出し、汀にぐっと近づいた。

「あ、あのっ……ご無沙汰してます。私のこと、覚えてますか……?」

 訊かれて汀は、わずかに目を細めるようにして微笑み、応えた。

「ええ、もちろんです、瀬戸様。こちらもご無沙汰しております。ご挨拶が遅れ、失礼いたしました」

「あ、いえいえ、全然大丈夫です! むしろ覚えて頂いてて嬉しいって言うか、本当に光栄です!!」

 茜理がふんふんと鼻息を荒くしながら汀に詰め寄る。

「治療を受けられるってことは、私たちも、あのビルに入れるんですか? 今日!?」

「ア、アカリ……?」

 戸惑いと困惑の混じった声を夏妃が上げた。対して汀は、表情を崩すことなく、いつも通りの慇懃さを保っている。

「ええ、瀬戸様と市川様さえよろしければ、我々DS研の設備にて精密検査をさせていただければと思います。いかがでしょうか?」

「あー……その、ウチらは──」

「行きます!!」

「ア、アカリィ……」

 夏妃のか細い声は、茜理が車に乗り込む音にかき消された。

 一瞬ためらうように立ち止まってから、夏妃は、えいや、と茜理の隣へ飛び乗る。身をすくめるように背を丸め、そのまま黙り込んでしまった。

 無邪気に浮き立つ茜理の隣で、その小ささがやけに目についた。

「大丈夫だよ、なっつん。怖いところに行くわけじゃないもん。それに、怖いところだったらセンパイたちが止めてくれるでしょ?」

「……うぅ」

 そう呻いて、夏妃は下を向いた。

 哀れ、夏妃。ただ、茜理の言う通り、DS研は危ないところではないので、どうか安心して欲しい。そんな伝わらない無言のフォローを胸の内で送りながら、私たちは全員バンに乗り込んだ。

 スライドドアが音もなく閉まると、まもなく車体はほとんど揺れを感じさせないまま、スーッと動き出した。

 私は背もたれに体を預ける。後頭部を柔らかなクッションが包み込んだ。

 私の左手を、ぬくもりのある何かが包み込んだ。鳥子の右手だ。

 見ると、鳥子も座席にもたれかかって目を閉じていた。

 それを見届けて、私も目を閉じた。

 そうして息を静かに吐きながら、私は、自分たちが生きて帰ってきたのだと、ようやく実感した。

 

 

 

「それでは、IKEA迷宮脱出記念パーティ。よく生き残れました。生存おめでとさん。かんぱーい」

 小桜の気の抜けた音頭と共に、私たちは机の上に置いてある、さまざまな料理に手をつけた。ピザ、洋食、中華、出前寿司と、豪華な食事が並んでいた。

 IKEA迷宮を脱出して、数日後。

 私たち六人は小桜の家に集まり、ささやかなパーティを開いていた。

 ダイニングには白木の大きなテーブルが据えられていたが、椅子は四脚しかなかった。

 仕方なく小桜に許可をもらい、二階から使われていない椅子を二脚運んできた。

 見た目は控えめなのに、持ち上げた瞬間にずしりと重さが伝わってきて、それだけで「これは、いい値段のする椅子だ」とわかった。

「ごめんね、瀬戸ちゃん、市川さん。二人だけ椅子が違っちゃって」

「いえ、全然大丈夫っす。ありがとうございます」

「私も大丈夫です!」

「そう? それなら良かった」

 小桜は機嫌良く頷くと、二人に訊いた。

「瀬戸ちゃんたち、あれから体の調子はどうなの? 見た感じ、顔の怪我はだいぶ良くなったみたいだけど」

「あ、はい! おかげさまで背中の傷も顔の怪我も、跡形もなく治りました! なっつんの挫いた足も、すっかり良くなったみたいです!」

 そう言って、茜理は確かめるように夏妃の足を見る。夏妃は笑顔になって茜理を見返した。

「アカリの言う通り、完全に治ったみたいです。少なくとも、普通にしてる分にはなんも問題ないっすね」

「そっかー……やっぱり若いからかな。回復が早いねぇ」

「小桜さんだって若いじゃないですかっ! 三十超えてないですよね?」

「んー……まあ、そうだけど。片足は突っ込んでるな。ババアの幕開けだ」

 小桜の自虐に、茜理は明るく笑った。

「ところで、霞ちゃんの調子はどうですか?」

「見たまんまだよ。元気にしてる」

 私は小桜の言葉につられて、小桜の隣にちんまり座る霞を見た。……霞はタブレットを片手に、動画を見ながらピザを一切れつまんでいた。

 大人としては、「行儀が悪いよ」と注意するべきなのかもしれない。

 けれど私自身、自分の食事マナーに胸を張れるわけでもなかった。

 どう声をかけるべきか決めかねたまま、内心で次の一手を探っていると、小桜がわずかに眉をひそめて言った。

「霞……。ご飯を食べ終わってからタブレット見るか、いまご飯を食べるか。どっちにする?」

 私は少し驚いた。小桜の声は、ひと声聞いただけで怒っていることがわかる。それでも言い方も内容も、子どもに正しさを押しつけるものではなく、選択を委ねる形になっていた。

 それを聞きながら、私は「私や鳥子にも、同じようにしてくれればいいのになあ」と思う。

 私は大盛りのチャーハンから自分の器によそり、無言でぱくついた。

 うん、おいしい。

「それにしても……」

 小桜は霞の頭を撫でながら言った。霞はタブレットを脇に寄せ、サーモンの寿司をひとつ丸ごと口に詰め込む。頬袋をぱんぱんに膨らませた、ハムスターみたいな顔になっていた。

「結局、IKEAで何も買わないで帰ってきちゃったな。当たり前だが」

「買い物どころの話じゃなかったですもんね」

 私と小桜は、顔を見合わせて笑った。

 唯一「手に入れたもの」があるとすれば、私たちが壊したソファくらいのものだ。

 買取弁償はしたものの、ダメ元でIKEA側に処分を頼んでみたのだが──。

「申し訳ありませんが、買取扱いになりますので、処分はお客様の方でお願いいたします」と、きっぱり断られてしまった。

 DS研での全身ドックを終えた茜理と夏妃にお願いをする形で、二人には頭を下げてIKEAにとんぼ返りして貰った。

 ソファを軽トラに積んで持ってきて貰うところまでは良かったのだが、いかんせん置く場所が小桜の家しかなかった。しかも壊れている。座ることさえできない代物だ。

 結局、粗大ゴミとして業者に引き取ってもらうことになり、いまは小桜屋敷の玄関先で回収を待っている状態だった。

「今度、どこかに買いに行くか、それとも通販で済ませるかだな」

「私たちもそうなりますね。さすがに、しばらくはIKEAに行くの、怖いですし……鳥子もそれで良い?」

 私が鳥子の方を向いて訊くと、鳥子はスプーンでミネストローネをすくう手を止めた。

「うん……さすがに仕方ないよね。またあそこに閉じ込められたりしたら、今度こそ本当に洒落にならないもん」

 私は小さく息を吐いて頷く。同意しかできなかった。

 小桜は、茜理が土産に買ってきた茶葉を使った緑茶をすすりつつ、深く息を吐いて言った。

「今回はホント踏んだり蹴ったりだったなぁ……マジで」

 その言葉を聞いて、私はふと思い出す。反射的に鳥子を見ると、鳥子も同じことを思い出したらしく、にんまりとした笑顔になり、場の全員に向かって言った。

「実は、それがそうでもなさそうなんだよね〜」

「あん?」

 私と鳥子、それに霞を除いた三人が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。

 私は椅子に立てかけていたトートバッグの中からジップロックを取り出すと、食器や料理をそっと脇へ寄せてテーブルに空間を作った。

 そしてジップロックを二袋、その場に置いた。

 透明な袋の中身が、照明の下で静かに光った。

 三人の目が、吸い寄せられるようにそれらへ集まる。

「これ……『あっちのIKEA』のフロアマップと、フードコートのレシートですか?」

 茜理が指を差しながら私に訊いた。その表情は、「なぜいま、これを自分たちに見せたのか、皆目見当がつかない」と言いたげだった。

 夏妃も同じような顔で、私と鳥子を見ている。

 小桜だけが、驚いたように声を上げた。

「空魚ちゃんっ、あっちから遺物持って帰ってきてたのかよ!」

「はい。私も忘れてて、ポケットに入れたまま洗濯するところでした。これを今度、DS研に売ります」

「ちゃっかりしてんなあ」

「あのー……」

 茜理が私に向けて、軽く手を上げた。

「なに? 茜理」

「それって、何かに使えるんですか? 売るってことは……結構高価だったりしたり……?」

「ひとつ、だいたい百万だよ」

「えっ!?」

「はっ!?」

 小桜が、私に代わって答えた。

 茜理と夏妃が、同時に目を見開く。茜理は数秒硬直したあと、自分の膝をペシンッと叩いて言った。

「あー! 私も一枚、マップ持って帰ってくるんだったぁ! もったいない〜!」

 茜理にしては珍しく、本気で悔しがっている様子で、言葉の端々に感情が滲んでいる。

 一方、夏妃は茜理を見ながら、どこか複雑そうな表情を浮かべていた。

 一通り騒いだあと、茜理は力が抜けたように椅子の背にもたれかかり、ぽつりと呟く。

「私も、裏世界でトレジャーハンターでもやってみたいなあ──」

「アカリっ!!!」

「それはダメ!!!」

 私と夏妃が、ほとんど同時に声を張り上げた。

 驚いた茜理は目を見開き、私と夏妃を交互に見た。

「び、びっくりした……。お皿落としちゃうところでした」

「アカリが変なこと言うからだろ」

 夏妃は少し荒い声で言う。私は腕を組んで、黙ったまま何度か頷いた。

「え、でもぉ、そんなにダメなことかな……?」

「ダメに決まってんだろ! ウチら、あそこで死にかけたんだぞ!? そんな場所に行こうとするなんて、正気じゃない!!」

 夏妃の言葉は、地味に私と鳥子にも刺さっていたが、私はあえて口を挟まなかった。

「でもでも、紙越センパイと仁科センパイは行ってるし……」

「センパイたちはセンパイたち! ウチらはウチら! 金のために命かけんなよ!!」

「でもぉ……」

「でもじゃないっ!」

 茜理はなかなか折れず、小さく言い返しながらちまちまと抵抗を続けている。

 そんな茜理に業を煮やしたのか、夏妃はふっと表情を消して、茜理に向けて言った。

「次、変なこと言ったら、ウチ、アカリのこと嫌いになるから」

「うっ」

 その一言が決め手になったのか、茜理は息を詰めるような顔で項垂れた。

「ごめん……なっつん」

「うん。いいよ」

 茜理の謝罪に応えると、夏妃は今度は私に向かって鋭い視線を投げてきた。

「茜理に余計なことを教えるな」と、顔に書いてある。

 まあ、今の流れだと、多少は仕方ないのかもしれない。

 私にそんなつもりは、かけらもなかったが。

「それでー?」

 それまで黙っていた小桜が、面白そうに私へ視線を寄越しながら訊いてきた。

「空魚ちゃんは、それをあたしらに見せびらかすために、わざわざ持ってきたってわけか?」

「いやいや、そんなわけないじゃないですか。小桜さんの中の私、どんだけ性格悪いんですか」

「アビューズの機会を淡々と狙うろくでなし、とでも言ってやろうか?」

「そのネタ、もう飽きました」

「飽きんの早すぎんだろ、若者が。まあいいや」

 小桜は椅子の背もたれに体を預けた。

「それで、結局どうしたかったわけ?」

「はい。私と鳥子が言いたかったのは、この遺物が売れたら、それを六人で山分けしない?……っていう提案でした」

 その言葉に、茜理と夏妃の視線が私に集まる。

 茜理は目を輝かせ。

 夏妃は困惑した顔で。

「おー、いいじゃん。空魚ちゃん、太っ腹」

「まあ、ふたつとも売れるかどうかは、まだわからないですけど……いまのDS研の財政状況だと、買取を断られる可能性もありそうですから」

 私は、レシートの入ったジップロックを小桜の方へ、そっと寄せた。

 小桜と茜理、夏妃の視線が、一斉にそこへ吸い寄せられる。

 レシートには、日本語が書かれていた。

 中間領域や裏世界では読めなかった文字が、表世界では解読できる。

 そこには「スウェーデンミートボール」や「ホットドッグ」、さらには「シナモンロール」まで、提供された商品名と品数が、すべて記されていた。

 数は、膨大だった。

 どの商品も、六、七桁を軽く超える注文数が記録されている。

 それだけなら、ただ注文をとんでもないレベルで間違えた、意味不明なレシートに過ぎない。

 だが問題なのは、「その数字が増え続けている」という点だった。

 それぞれの商品名の横に並ぶ注文数が、見ているそばから、絶え間なく増殖している。

 同時に、レシート下部の会計金額も、止まることなく変動し続けていた。

 右目で見ても、燐光を放ったりはしていない。

 それでも、誰の目から見ても異常な逸品だった。

 このペラペラの紙には、タネも仕掛けも施しようがない。

「なるほどな。こりゃ売れそうだわ、気持ち悪りぃ」

 小桜は腕を組み、うんうんと頷いた。

「んで? フロアマップの方は?」

「こっちの方は……」

 私は小桜たちにも見えやすいよう、マップを上下逆にひっくり返して差し出す。

「ただの、『おかしな虫食いフロアマップ』でしかないんですよね……」

「……なるほどなぁ」

 私はフロアマップを指で示した。

 マップに踊っていた理解不能な文字は、レシート同様、すべて読めるようになっている。

「リビングルーム」「ダイニング」「収納」「キッチン」「照明」「ホームデコレーション」「ベッドルーム」──。

 施設内が異様に広く、日に晒されて白く焼けたように虫食いになっていること以外、

 特に変哲もない、ごく普通のマップだった。

 すでに祈るような気持ちで右目でも見ていたが、燐光は放っていない。

 残念ながら、このマップは売れない可能性が高そうだった。

「そんなわけで、こっちのマップの方は売り物にならなそうです。念の為、持ち込みはしますが、あまり期待はできませ──」

「あれ?────えっ!?」

 私の隣で、鳥子が声を張り上げた。

 勢いよく立ち上がり、マップをまじまじと睨みつけている。

 その尋常ではない雰囲気に押され、そこにいる全員が無言で鳥子を見つめた。

「そ、空魚……」

 鳥子が、私に向かって手招きする。

 私は、釣られるように立ち上がった。

「……どうしたの、鳥子?」

「こ、これ……」

 鳥子の指先を辿り、私は広大なIKEA迷宮のマップへと視線を移す。

「………………え?」

 マップの端に──「現在地」と書かれた赤い印が描かれていた。

 私と鳥子の異様な様子に興味を惹かれたのか、小桜たちも次々にマップへ視線を落とし、やがて口をつぐむ。

 痛いほどの沈黙の中、霞の食事音だけが、やけに大きく耳に残った。

 私たちは全員、じっと印の動きを目で追い続けた。

 印はフラフラとマップの端を行ったり来たりしていたが、やがて決心したように端へ向かって歩き去り、地図の外へと消えていった。

 しばらく、静寂が私たちを包み込む。

 誰も、何も言わず、何もしない。

 掛け時計のチクタクという音だけが、やけに耳にうるさかった。

 そんな中、最初に無音を破ったのは小桜だった。

 気まずそうにアイスコーラを一気にあおり、頭を掻きながら言う。

「これ………………どうする?」

 全員が、私の方を見る。

 霞までもが、こちらを見ていた。

「あー………………」

 私は、意味のない音を口からこぼす。

 いっそ「知らん。売ろう」とだけ言って、食事に戻りたい。

 けれど、この空気は、それを許してくれなかった。

 私は目を閉じて、イメージする。

 あの無限に広がる迷宮の中に、まだ閉じ込められている人がいる…………のかもしれない。

 けれど、その人は、間違いなく友人どころか知り合いでもないはずだ。

 いや、もしかしたら、そもそも人間ですらなく、「裏世界の彼ら」による罠である可能性すらある。

 それでも、なにかしらのアクションを起こす価値はあるのだろうか……?

 私は、数分かけて思考をまとめ上げた。

 深呼吸をして、大きく目を見開く。

 左から順番に、全員の目を見ていく。

 鳥子、霞、小桜、夏妃、茜理。

 私は全員に行き渡るように、ゆっくりと答えを口にした。

「私は──────」

 

 

《空魚たちがIKEAに閉じ込められる話》

おわり

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