深夜、雨がしとしとと東京の街角を濡らしていた。
古い雑居ビルの屋上。コンクリートの縁に腰をかけ、十歳の少年——土師菅公(はじすがきみ)は、冷たい雨に打たれながら黒い革手袋を嵌め直していた。
小柄な体に仕立ての良い黒の詰襟。額に落ちる湿った黒髪の間から覗く瞳は、十歳とは思えないほどに鋭く、冷徹な光を宿している。
「……遅い」
菅公は小さく呟き、溜息を吐いた。白い息が夜の闇に溶けて消える。
彼のスマートフォンがブツブツと微振動を始めた。画面には「冥冥」の二文字。
「……もしもし」
『やあ、菅公。夜遅くにすまないね。現場には着いているかい?』
受話器の奥から聞こえるのは、艶やかでどこか計算高さを感じさせる女性の声。彼の師であり、一級術師である冥冥(めいめい)だ。
「ええ、ビル前です。等級は?」
『二級相当と踏んでいるけれど、街の怪談が尾ひれをつけて膨らんだタイプだ。……安心しておくれ、報酬はいつもの特別歩合で通してある。君の取り分は八割でどうだい?』
「問題ありません。すぐに終わらせます」
『頼もしいね。君のような優秀な弟子を持つと、師匠としては楽で助かるよ』
通話を切り、菅公はスマートフォンの画面を暗転させた。
土師菅公。
古代、天皇の葬送や埴輪の製作を司った「土師(はじ)氏」の末裔。かの学問の神であり、日本三大怨霊の一人とも称される菅原道真——そのさらに祖先にあたる血筋の生き残りである。
そして菅原道真といえば、現現代最強の呪術師・五条悟を戴く「五条家」の祖でもある。つまり菅公の土師家と五条家は、気の遠くなるような太古において根を同じくする遠い遠い親戚筋にあたった。
(二級呪霊……また、これか)
菅公の胸の奥で、小さく黒い感情が渦を巻く。焦燥感。そして重苦しい不満だ。
半年前、当時九歳だった菅公は、単独で一級呪霊を祓撃した。
本来なら数人の術師で当たるべき脅威を、十歳にも満たない少年が一人で完封してみせたのだ。呪術界の上層部は色めき立ち、彼は一躍「神童」「第二の五条悟か」と時の人となった。
だが、当の本人の心は一向に満たされていなかった。
むしろ、一級呪霊を容易く葬れる実力を身につけたことで、明確に見えてしまったのだ。
——自分と、あの“最強”との間に横たわる、絶望的なまでの天と地の差が。
菅公が覚えているのは、六歳の頃の光景だ。
父・土師宗矩(むねのり)に連れられて訪れた五条家の本邸。そこで目撃した、高専生時代の五条悟の姿。
白髪を揺らし、六眼の蒼い瞳で自分を軽蔑すら含まず「ただの背景」として見下ろしたあの男。圧倒的な存在感。世界そのものを支配しているかのような存在の質量。
『強くなりたくば、金に汚いがあの女の懐に入れ。冥冥は呪力操作の精密さにおいて右に出る者はいない』
父の言葉を受け、自らの意思で冥冥に弟子入りを志願した。強くなるためなら、あの守銭奴の師匠にどれだけ利用されようと構わなかった。
同時に思い出すのは、五歳の頃、親の付き合いで訪れた禪院家の暗い屋敷。
そこで出会った同い年の双子——禪院真希と真依。
呪力を持たず落胤として虐げられていた真希の目には、虐げられながらも折れない強固な意志の光があった。あの二人は今どうしているだろうか。落ちこぼれと蔑まれながらも、必死に足掻いているのだろうか。
それに比べて、自分はどうだ。
世間から「天才」と持て囃され、一級呪霊を祓い、冥冥から回される雑用同然の格下祓除をこなす毎日。
確かに強い。同年代では群を抜いている。だが——
(足りない。全然、足りない……! あの男の背中に、指先すら届いていない……!)
菅公はぎりっと奥歯を噛み締め、ビルの屋上から立ち上がった。雨粒が頬を打つ。
彼は自身の「真の力」……術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』を滅多に使わない。
この術式は、己の呪力を指向性の極小雷電へと変換し、超高圧・超高速で対象を穿つ無慈悲な破壊の力だ。だが、格下相手にそれを使えば、単なる作業になり、己の呪力操作や体術の研鑽にならない。
何より、術式という「才能の恩恵」に頼り切る己が許せなかった。
あの五条悟すら、無下限呪術という絶対の才能を持ちながら、体術も呪力操作も極限まで磨き上げている。ならば自分は、素の状態でどこまで登り詰められるか試さなければならないのだ。
「……行くか」
菅公は雨の中に身を躍らせ、雑居ビルの吹き抜けへと飛び降りた。
ビルの地階、廃墟と化した地下駐車場。
湿気とカビ、そして腐臭が立ち込める薄暗い空間に、菅公は着地した。無音。膝のクッションを完璧に効かせた見事な着地だ。
『ジュル……ジュル……来タ……人間……食ウ……』
闇の奥から、ずるりと巨体が這い出てくる。
身の丈三メートルはあろうかという醜悪な異形。複数の人間の腕が蜘蛛のように胴体から生え、顔面には目の代わりにいくつもの巨大な口が蠢いている。
確かに冥冥の言う通り、二級の中では上の部類。準一級に届くかどうかという呪霊だ。
呪霊は菅公を認めるや否や、咆哮とともに十本以上の腕を一斉に振り下ろしてきた。
空気すら押し潰す重圧。
だが、菅公の表情はピクリとも動かない。
(遅い)
菅公の足元から、微かな呪力の脈動が波紋のように広がる。
術式は使わない。使うのは、冥冥の地獄のような修行で叩き込まれた、徹底的な「呪力による身体強化」と「効率的な呪力操作」のみ。
ドカァンッ!
呪霊の拳がコンクリートの床を砕き、粉塵が舞い散る。
しかし、そこに菅公の姿はない。
残像。
菅公は既に呪霊の懐深く、影のように滑り込んでいた。
「——『一』」
菅公は小さく息を吐き出し、右拳に最小限の呪力を集約させる。
無駄な放出は一切ない。針の穴に糸を通すような精密さで、密度だけを極限まで高めた黒い呪力の輝き。
ドスッ!
菅公の正拳突きが、呪霊の巨大な溝おちに突き刺さる。
呪術師の打撃において重要なのは、単なる筋力ではない。「呪力の発出の瞬間の同調」。打撃が届くコンマ一秒の狂いもなく呪力をぶつけることで、質量以上の衝撃を生み出す。
『ガッ……ハ……!?』
呪霊の巨体が、少年のたった一拳によってくの字に折れ曲がり、空中に浮き上がる。
内臓を模した呪力の核が破砕される嫌な音が、地下駐車場に響いた。
だが、二級上位の耐久力は伊達ではない。
浮き上がった呪霊は激痛に狂乱し、背中から無数の触手状の腕を伸ばして、全方位から菅公を押し潰そうと襲い掛かってきた。
(逃げ場を塞ぐ判断……悪くはない。だが)
菅公の瞳が冷たく光る。
地面を蹴り、反転。
襲い来る腕の隙間を、まるで縫い針のようにすり抜ける。体幹が一切ブレない。冥冥に課された「走撃・跳躍の最中の呪力不変トレーニング」の成果だ。動作のすべてに無駄がない。
空中。右足のつま先に集中させた呪力が、青白い燐光を放つ。
「『二』」
空中で体を一回転させ、遠心力を乗せたかかと落としが、呪霊の頭頂部を叩き割った。
ズガァン!
落雷のような衝撃音が地下空間を揺らす。呪霊の頭部が爆破されたように弾け飛び、巨体が床に激突して激しい紫煙を巻き上げた。
しかし、菅公は攻撃の手を緩めない。
(首を落としても、核が残っていれば再生する。一級呪霊との戦いで学んだ……トドメは過剰なまでに叩き込め)
着地と同時に、菅公は低く身構えた。
足裏から床へ呪力を均等に伝達し、摩擦係数を自在にコントロールする。滑るように加速し、煙の中から這い出ようとする呪霊の前に一瞬で肉薄した。
両手の手鏡を交差させるように構える。
掌に溜め込まれたのは、凝縮された純粋な呪力。
(術式は使わない。純粋な呪力放出のコンボで片付ける)
「『三』……『断(だん)』」
両手を叩きつけるように振り抜く。
掌から解き放たれた2条の凝縮呪力波が、X字の閃光となって呪霊の胴体を切断した。
ズバァンッ!!
衝撃波が地下駐車場の壁を打ち砕き、背後の柱に深い亀裂を入れる。
上下に真っ二つに裂かれた呪霊は、叫び声すら上げられず、紫色の煤となって空間に溶けて消えていった。
静寂が戻る。
雨の音だけが、地上からかすかに響いていた。
菅公はゆっくりと呼吸を整え、両手を下ろした。
手袋の表面に付着した呪霊の残渣を、不快そうに払う。
戦闘時間、およそ四十秒。
二級上位の呪霊を、術式を一切使わず、純粋な体術と呪力操作のみで完封した。一級術師でもこれほど鮮やかにこなせる者は限られるだろう。
だが——
菅公は己の右手をじっと見つめ、ぎゅっと握りしめた。
「……これじゃない」
ぽつりと漏れた言葉には、深い失望が滲んでいた。
「こんなものをどれだけ積み重ねても……あの男には届かない」
五条悟。
あの男なら、この程度の呪霊など視界に入れることすらなく、指先一つ振るだけで消滅させているだろう。あるいは、存在そのものを無視して通り過ぎているかもしれない。
一級呪霊を祓い、二級呪霊をゴミのように片付けられるようになった。
成長している。間違いなく強くなっている。
しかし、強くなればなるほど、五条悟という存在の「異常さ」が解像度高く理解できてしまうのだ。
無限を纏い、あらゆる攻撃を拒絶し、六眼によって世界のすべてを見通す男。
それに比べて自分はどうか。どれだけ呪力操作を極めても、どれだけ体術を磨いても、結局は「人間の領域」を出ていない。
(僕の『落落雷雷』を使えば、確かに瞬間的な破壊力は上がる。だが、それでは駄目だ……! 術式の出力に頼るだけの強さなど、本当の強さじゃない。僕は……僕はもっと根源的な『格』を上げなければならないんだ……!)
焦燥感が、胸の奥で黒い焔となって燃え上がる。
爪が皮膚に食い込み、手袋越しに血が滲むのを感じた。
「ふう……相変わらず、自分に厳しいねぇ、菅公」
不意に、暗闇の中から足音が近づいてきた。
ヒールを鳴らし、濡れた長い銀髪を揺らしながら姿を現したのは、冥冥だった。彼女は巨大な斧を肩に担ぎ、黒い傘を差し出しながら楽しそうに微笑んでいる。
「師匠……見ていたんですか」
「最初からね。いやはや、見事な呪力効率だ。無駄な放出が一切ない。私の指導をこれほど完璧に吸収してくれる弟子を持つと、鼻が高いよ」
冥冥は菅公の頭に傘を差し伸べ、彼の顔を覗き込んだ。
「でも……顔が暗いね。二級を四十秒で料理した少年の顔じゃない。また五条の坊ちゃんのことかい?」
「……僕の目標は、あそこです。こんなところで満足している暇はありません」
菅公が硬い声で答えると、冥冥はくすりと笑った。
「志が高いのは結構だがね、菅公。あいつは人間じゃない。怪獣だよ。怪獣と自分を比べて落ち込むのは、精神衛生上良くないと思うがね」
「術師の頂点に立つなら、あの怪獣を超えなければ意味がない」
「……やれやれ」
冥冥は肩をすくめ、胸ポケットから一通の封筒を取り出した。
「まあ、そのギラギラした目は嫌いじゃないよ。……ほら、今日の報酬だ。約束通り八割。口座に振り込んでも良かったが、君は現金の重みを感じるのが好きだろう?」
「……ありがとうございます」
菅公は封筒を受け取り、内ポケットに仕舞った。お金に執着はないが、自分の強さが「価値」として還元される感覚は嫌いではない。これも冥冥から叩き込まれた美学の一つだ。
「さて、菅公。君に朗報だ」
冥冥が紫色の瞳を怪しく光らせる。
「上層部から新しい依頼が来ている。……どうやら、ただの一級じゃない。過去に何人もの二級術師を返り討ちにしている、変異型の『特級疑い』の呪霊だ」
「特級……」
菅公の瞳に、一瞬で鋭い光が宿った。
「本来なら私か他の特級・一級が組んで行く案件だが……君、単独で行ってみるかい? もちろん、報酬は跳ね上がる。……そして何より、君の欲しがっている『死線』がそこにあるはずだ」
死線。
今の菅公に最も必要なもの。格下をいくら捻り潰しても得られない、極限の緊張感。己の限界をぶち破るための突破口。
「……引き受けます」
菅公は即答した。
「そう言うと思ったよ。……ただし、一つだけ条件だ」
冥冥は指を一本立て、笑みを消して菅公を射抜くように見つめた。
「次の一戦では、君の術式……『落落雷雷』を使いなさい」
「……え?」
「出し惜しみは死に直結するよ。君が五条悟に追いつきたいのなら、己の持つすべての札を使いこなした上で、その先へ行かねばならない。自分の術式を嫌うのは、単なる甘えだ」
冥冥の言葉が、菅公の胸に重く突き刺さった。
術式への拒絶。それは才能に甘えることへの恐怖であり、同時に「術式を使っても五条悟に届かなかったらどうしよう」という、無意識の恐怖の裏返しでもあったのだ。
菅公は唇を強く噛み締め、やがて深く息を吐き出した。
「……分かりました。解禁します」
「いいお返事だ」
冥冥は満足そうに微笑み、くるりと背を向けた。
「現場は明日、京都の山中だ。しっかり休んでおきなさい。……死んでもいいが、私への授業料の支払いを滞らせることだけは勘弁しておくれよ?」
「……死にません。僕は、あいつのところまで行かなきゃならないんだから」
菅公は雨の中に踏み出し、地下駐車場を後にした。
濡れたアスファルトに反射する街灯の光。
菅公は黒い革手袋を外し、己の掌を見つめた。
皮膚の奥で、静かに、しかし凶暴に狂い咲く青白い火花。
術式『落落雷雷』。
土師の血脈が紡ぎ出し、菅原道真の天雷の威光を引く、絶大なる破壊の種子。
(五条悟……真希……真依……)
遠い日の記憶が交錯する。
冷酷なまでの絶対者と、泥を舐めながらも前を向く落ちこぼれ。
自分はそのどちらでもない。中途半端な「天才」など、絶対に甘んじない。
「見ていろ……」
菅公の呟きとともに、彼の指先から一筋の青い雷撃が走り、夜の雨粒を蒸発させた。
十歳の少年の背中に宿る焦燥は、やがて世界を揺るがす真の雷鳴へと変わる。
その日の京都の空には、季節外れの暗雲が立ち込め始めていた。
より強力な力を求める彼に対する片道切符が冥冥姉様から差し出されました。躊躇なく受け取った彼に待ち受けるものとは。次回をお楽しみ下さい。よければ感想と評価をお願いします