暮れ泥む鞍馬の山林は、禍々しいほどの静寂に包まれていた。
鳥の嶀ずりも、虫の羽音すらない。秋の冷気が木々を揺らすたび、立ち込める紫黒の呪気が皮膚を刺すように揺らめく。夕陽が朱から黒へと沈みゆくその境界線で、十歳の少年・土師菅公(はじすがきみ)は、一人山道を登っていた。
小さな身の丈にそぐわぬ、漆黒の詰襟。その背中を見送る者はもういない。数時間前、この任務の斡旋人であり、己の師でもある女呪術師——冥冥(めいめい)から告げられた言葉が、菅公の脳裏に鋭く響いていた。
『菅公、今回は私の“前座”ではないよ。相手は間違いなく特級だ。君の素質には投資価値があるが、死んでしまえば全額損切りだ。……出し惜しみは死に直結するよ。君のすべてを使いなさい』
銀髪の美貌に笑みを浮かべ、黒斧を肩に担いで去っていった師の言葉。菅公は小さく息を吐き、自らの手のひらを見つめた。
特級。それは呪術界における一過性の規格外。呪霊であれば最高位の天災、術師であれば異端の極み。様々な生きとし生けるものが抱く恐れ、敬い、忌避といった感情が極限に達した時、理を歪めて顕現する“穢れの極地”。一度その牙が向けば、それを上回る圧倒的な“力”がなければ調伏すら叶わぬ脅威の権化。
(……僕が、ここで消えるわけにはいかない)
菅公の頭裏に浮かぶのは、五年前の記憶。
幼い頃、父に連れられて訪れた五条家の屋敷。そこで出会った白髪の青年——高専時代の五条悟の存在が、菅公の人生を決定づけた。
天を突くような圧倒的な存在感、世界をすべて見透かす六眼、そして理不尽なまでの強さ。息を吸うことすら忘れるほどの衝撃を受け、菅公は悟ったのだ。「あれが本物だ」と。
また、同じ頃に訪れた禪院家の屋敷で出会った同い年の双子、真希と真依の姿も焼き付いている。虐げられ、歪んだ家勢の中で抗う彼女たちの瞳。自分もまた、ただの没落貴族の生き残りとして終わるつもりは毛頭なかった。最強の背中に追いつき、己の運命を切り拓く。そのために菅公は、札束と利害で結ばれた冥冥の厳しい指導に身を投じたのだった。
通常の戦闘において、菅公は自らの生得術式を封印している。過剰な破壊力を持つ術式に頼れば、体術と体内の呪力操作という「根幹」が甘くなるという冥冥の教えを忠実に守ってきたからだ。
だが——今、目の前に立ち塞がる存在を前にして、そんな余裕は一微塵も残されていなかった。
山頂の開けた境内。そこに“それ”は佇んでいた。
「——カ、……カハッ……」
異様な圧迫感が大気を押し潰す。鎧武者の形形をした呪霊。しかし、その頭頂部からは黒い烏の羽が重なり合い、背中からは二対の巨大な黒翼が生えていた。手には、凄絶な呪力を纏った一対の太刀。
特級呪霊『源義経』。
武芸の天才、非業の死を遂げた悲劇の英雄、そして天狗の申し子として幾多の人々に語り継がれ、畏怖されてきた概念が集積・結実した災厄の化身。
「……ッ!」
菅公が身構えた瞬間、世界が弾けた。
ドォン!
視界から義経の姿が消える。瞬間的な超スピード。菅公は思考よりも早く、体内に充填した呪力を背後に集中させた。
ガァンッ!
背後から振り下ろされた太刀を、菅公は腕の防具と呪力強化で受け止める。だが、その質量と衝撃は十歳の少年の体を容赦なく吹き飛ばした。巨木を三本薙ぎ倒し、土煙を上げて地面を転がる。
「ガハッ……!」
肺の空気を吐き出しながら、菅公はすぐさま跳ね起きた。義経の追撃がすでに目と鼻の先に迫っていた。太刀が閃く。
特級呪霊『源義経』の術式——『遮那王(しゃなおう)』。
その効果は「自らの移動速度および攻撃の運動エネルギーを、落差(高低差)に応じて乗数的に増加させる」というもの。鞍馬山という高低差の激しい地形は、まさにこの呪霊にとって絶対的なホームグラウンドであった。
「ハァッ!」
菅公は鋭く息を吐き、体術で応戦する。冥冥にしごき抜かれた体術。小柄な体躯を活かした最小限の軸移動で義経の連続斬撃を紙一重でかわし、懐へと潜り込む。
(打撃を叩き込む……呪力集積、脈動!)
義経のみぞおちへ、全身の捻りを乗せた拳を叩き込む。
ズドォン!
重厚な呪力の打撃音が響き、義経の巨体がわずかに揺らぐ。しかし——
「——無駄だ」
声なき意思が頭腔に響く。義経の全身から放たれた黒い羽が、刃となって菅公の全身を切り刻んだ。血飛沫が舞う。菅公は即座に間合いを取るが、脚の肉を深く削られ、膝が折れかける。
(体術と基礎呪力だけじゃ……届かない! 師の言った通りだ……全部、出さなきゃ殺される!)
菅公は深く腰を落とし、印を結んだ。印は「雷」。体内の呪力が、禍々しい紫白色の帯電音を奏で始める。
土師家相伝、そして菅公の生得術式——『落落雷雷(らくらくらいらい)』。
天変地異の象徴である「雷」を統べる術式。
「術式順転——『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』!」
菅公の指先から、超高圧の雷撃が直線状に放たれた。空気を裂く激しい破裂音とともに、白銀の雷光が義経の胸腔を穿つ。
バリバリバリッ!
「グ、オオオオッ!」
初めて義経が苦悶の声を上げた。雷撃は呪霊の肉体を焼き焦がし、その運動を強力に阻害する。だが、相手は特級。焦過した肉体を強引に呪力で修復しながら、義経は空高くへと跳躍した。
鞍馬山の巨木をも遥かに見下ろす上空。術式『遮那王』の「高低差」による補正が極限まで高まっていく。義経の全身から溢れ出る呪気が、夕闇を完全に塗りつぶす黒色へと変貌した。
「……領域、展開」
空中で、義経が太刀を交差し、禍々しい手印を結ぶ。
『遮那八艘跳(しゃなはっそうとび)』
ドス黒い呪力が世界を包み込み、周囲の景観が塗り替えられていく。
そこは、荒れ狂う漆黒の海と、浮遊する八枚の巨大な軍船の甲板。空間全体が「高低差の概念」を無限に抱合した、必中必殺の領域。
(しまっ——)
菅公が悟った時には、既に遅かった。
領域内において、義経の攻撃は「絶対の必中」となる。高空からの落差を極限まで乗算された八方向からの同時斬撃が、逃げ場のない菅公を襲った。
「ガ、あぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
バリッ! ガキィン! ドスッ!
骨が砕ける音が響く。左腕はあらぬ方向に曲がり、腹部は深く裂け、大量の鮮血が漆黒の甲板(領域の内壁)を濡らした。あまりの激痛に視界が真っ赤に染まり、次いで急速に光を失っていく。
十歳の少年の身体は、あまりにも脆い。領域の必中効果により、菅公は地面に崩れ落ちた。
(……ここまで、か……)
血の海の中で、菅公の意識は途切れかけていた。
呼吸をするたびに肺が血で満たされ、体温が急速に奪われていく。
五条悟の背中。あの圧倒的な強さ。真希や真依の冷たい瞳。冥冥の「投資価値」という言葉。すべてが遠のいていく。死の冷気が、全身の細胞を一つずつ殺していく。
(……ごめん、父様。僕は……五条さんみたいには……なれなかった……)
闇が視界を完全に覆い尽くそうとした、その時。
意識の最底流、死と生の狭間の漆黒の深淵で、誰かの声が響いた。
『——死ぬには、まだ早い』
それは、重厚で、あまりにも静かな、しかし天を揺るがすような尊厳に満ちた声だった。
管公の身体の奥底、土師の血脈の中に眠る“何か”が、その声に反応して激しく脈動した。
(血……? 呪力……? ちがう。呪力は「負」の感情……殺すための力だ。でも、今僕に必要なのは……生み出す力……!)
極限の死の中で、菅公の脳細胞が爆発的な回転を始める。
「負」と「負」の呪力を掛け合わせる。マイナスにマイナスを乗じ、プラスのエネルギーを極小の点から生み出す。
瞬間。
全身の細胞が、歓喜の産声を上げた。
「——反転術式」
菅公の体内を、眩いばかりの白い光が駆け巡った。
壊れかけた内臓が急速に再構成され、折れた骨が噛み合い、割れた皮膚が引き締まっていく。激痛が引き、失われた血が瞬く間に満たされていく。死の淵からの完全なる生還。
領域の真ん中で崩れていた少年が、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの必死さは消え失せ、底知れぬ静寂と、静かなる怒りが宿っていた。
義経が異変を察知し、太刀を構え直す。だが、菅公はもう、以前の菅公ではなかった。
「……術式反転」
菅公の口から漏れた声は、周囲の空間を振動させた。
「『雷化舜動(らいかしゅんどう)』」
バチンッ!
菅公の姿が消失した。雷撃の「引き寄せる」「加速する」という正のエネルギーを自らの身体に付与し、菅公自身が“雷の粒子”と化して空間を跳躍する。
「なっ……!?」
必中領域であるはずの空間内で、義経の『六感』すら置き去りにする超神速。
義経が首を巡らせるよりも早く、菅公は義経の背後に立ち、その胸に手を当てていた。
「冥冥師匠は言っていた。『出し惜しみは死に直結する』と」
菅公の小さな手が、印を結ぶ。
反転術式を体得し、呪力の核心を掴んだ今なら、届く。己の領域、己の理の極致へ。
土師家の先祖、菅原道真が天神として祀られ、人々が落雷の恐怖から逃れるために唱え続けた絶対の祈祷。雷を統べ、災厄を打ち払う神聖なる結界。
「領域展開——」
菅公の言葉とともに、義経の『遮那八艘跳』の領域が、内側から激しくヒビ割れた。
「——『桑原桑原(くわばらくわばら)』」
ゴォオオオオオオオオオオオンッ!!
世界が塗り替わる。
黒い海は消失し、無限の雲海と、天を突く幾千の黄金の鳥居が立ち並ぶ神聖なる神域が広がった。空間全体を満たすのは、狂おしいほどの超高電圧の静電気。空気そのものが過熱し、プラズマと化して揺らめいている。
この領域『桑原桑原』の能力は「領域内におけるすべての敵対的呪力・術式の完全なる『無効化(避雷)』」と「逃げ場なき絶対必中の『天雷』」。
「ガ……ア……!?」
義経の術式『遮那王』が完全に鎮圧された。高低差の補正も、超スピードも、すべてが殺され、ただの巨躯となった呪霊が金縛りのように硬直する。
菅公は、雲海の上に静かに浮遊していた。その姿は、まるで天から降り立った幼き神のようであった。
「土師の血は、雷を恐れる血ではない。雷を従え、祀る血だ」
菅公が静かに右手を見天にかざす。
「祓う」
一言。
直後、領域の天頂から、天と地を繋ぐ巨大な白銀の雷柱が降り注いだ。
ズドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!!
鞍馬山の山頂を夜の如き光が照らし出す。轟音は京都中に響き渡り、空間そのものを震わせた。
必中の天雷は、義経の巨体を微粒子レベルまで粉砕し、その禍々しい存在を根こそぎ消滅させていく。叫び声すら残さず、特級呪霊『源義経』は完跡も残さず蒸発した。
静寂が戻ってきた。
領域が解け、夕闇の残光が差し込む本来の鞍馬山に戻る。倒れた木々、削られた地面。戦闘の凄惨な痕跡の中で、十歳の少年・土師菅公は一人立ち尽くしていた。
詰襟の服は血で汚れ、ボロボロだったが、その瞳には明確な「覚悟」の光が宿っていた。
「……ふう」
菅公が小さく息を吐くと、後ろの木の枝から軽やかな着地音が響いた。
「見事なものだね、菅公」
銀髪をなびかせ、黒斧を肩に担いだ冥冥が、くすくすと笑いながら歩み寄ってくる。その瞳には、一人の優秀な「投資先」を見つめる鋭い利害と、確かな満足感が浮かんでいた。
「反転術式の体得に、領域展開の獲得……まさか十歳でそこまで化けるとはね。私の目に狂いはなかった。今回の報酬、君の取り分は色をつけておこう」
「……師匠。僕は、まだ強くなれますか」
菅公が振り返り、冥冥を見つめる。
「なれるとも。君が資金と情熱を絶やさない限りね。あの五条悟の隣に立つことも、或いは超える事もあながち夢物語ではなくなった」
冥冥の言葉に、菅公は静かに拳を握りしめた。
己の体内に残る、あの「死の直前」に聞こえた声。そして、手に入れた新たな力。
まだ遠い、あの白髪の最強の背中。
だが、今日の死線を越えて、土師菅公は確かにその一歩を踏み出したのだった。
いや〜流石に難産でした。正直、敵を誰にするかかなり迷ったんです。自然呪霊ではなく仮想怨霊にしようとした時に思い浮かぶ名前が多すぎてなかなか決まりませんでした。候補としては長屋王、酒呑童子、茨城童子、織田信長等があったんですが今、ゲームの鬼武者をプレイしているのを思い出して急遽『源義経』に変えました。