「土師菅公、特級呪霊を祓除す」
その一報が禪院家の本邸に届いた時、屋敷を支配したのは一種のパニックであった。
わずか数ヶ月前、10歳という若さで一級呪霊を単独で退治したと聞かされた時でさえ、名門たる禪院の者たちは「運が良かっただけだ」「土師の血など過去の遺物」と切り捨てていた。しかし、今度は格上の特級である。現代の呪術界において、特級呪霊の単独祓除など五条悟を筆頭としたごく一握りの化物にしか許されない業であった。
「……10歳で、特級やと?」
広間でその報告を聞いた禪院直哉は、盃を握りしめたまま額に青筋を浮かべていた。その顔には明確な不快感と、苛立ちが濃く滲んでいる。
「ハッ、笑わせんといてくれへんか。五条の金魚フンみたいな小僧が、特級を倒したぁ? どうせ悟君が陰で手を貸したんやろ。10歳のクソガキが一人で特級祓えるわけないやろが」
口では吐き捨てるように嘲笑う直哉だったが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥が揺れていた。直哉が心酔する「強者」の領域に、またしても五条家の息がかかった若造が足を踏み入れたという事実が、彼の自尊心を酷く苛んでいたのだ。
その傍らで、直哉の父親であり禪院家当主である禪院直毘人は、瓢箪から酒を口に流し込みながら、細められた目で天井を見上げていた。
(土師……か。菅原道真のさらに先祖、出雲の野見宿禰を起源とする古き血脈。五条の影に隠れて息を潜めておったかと思えば、なんとも恐ろしい種を育てていたものよ)
直毘人は豪快に酒を飲み干すと、「くはぁ」と息を吐き捨てた。表向きは悠然と構えているが、その頭脳は高速で回転していた。五条悟という規格外の存在だけで呪術界の均衡は崩壊しているというのに、そこに並び立つ可能性を秘めた神童まで現れたとなれば、禪院家の立場は危うい。
直毘人の弟である禪院扇は、握りこぶしを強く握りしめ、眉間に深い皺を刻んでいた。その瞳には、隠しきれない殺意と憎悪が渦巻いている。
(落ちこぼれどもと同世代の小僧が、そこまでの力を手に入れているだと……? 許しがたい。我が娘どもが面汚しであるばかりか、分家の余流のごとき土師の小僧にまで遅れをとるとは)
そして、直哉の従兄弟にあたる禪院甚壱は、腕を組みながら重苦しい沈黙を守っていた。言葉こそ発しないものの、その巨躯からは威圧的な呪力が漏れ出し、部屋の空気を重く湿らせていた。
直哉の嫉妬と苛立ち、直毘人の冷徹な政治的計算、扇の劣等感に満ちた憎悪、甚壱の危機感。
抱く思惑こそ違えど、彼らの結論はただ一つに収束していた。
——これ以上、五条家陣営の勢力を拡大させてはならない。
一方で、禪院家の広間から遠く離れた中庭の影では、同い年の二人の少女がひっそりと会話を交わしていた。禪院真希と真依である。
「ねえ、真希……あの話、本当なのかな。菅公くんが、特級を……」
不安そうに振るえる真依の声を、真希は短く切って捨てた。
「本当だろ。あのガキなら……菅公なら、それくらいやってのけるさ」
真希は遠くの空を見つめながら、拳を強く握りしめた。5歳の頃、この殺伐とした禪院家の屋敷でほんの少しだけ言葉を交わした少年の姿が頭に浮かぶ。呪力を持たず、家中で蔑まれていた自分に対して、一切の偏見なく対等な視線を向けてくれた唯一の同世代。
心の中に湧き上がるのは、置いていかれるような猛烈な嫉妬。そしてそれ以上に、禪院という呪われた家柄の圧迫を跳ね返して見せた彼に対する、誇らしげな賞賛であった。
(あいつは先に行ってる……なら、アタシだって止まってられるかよ)
◇
「——というわけでね。明日、禪院家本邸への呼び出しがかかった」
土師家の屋敷の一室で、10歳の土師菅公(はじすがきみ)静かに呟いた。
彼の目の前に腰掛けているのは、銀髪をなびかせ、優雅に高級な紅茶を口に運ぶ女性——呪術界屈指の金主義者にして一級呪術師、冥冥であった。
「ふうん。禪院家も、いよいよなりふり構っていられなくなったわけだ。五条悟という絶対的な大黒柱に加え、君という未来の特級戦力が芽吹いたのだからね。彼らにとっては夜も眠れないほどの恐怖だろうさ」
「先生。禪院家が僕を無事に帰すとは思えません。どのような挑発、あるいは脅しをかけてくるか……」
真面目な顔で尋ねる菅公に対し、冥冥は妖艶な笑みを浮かべた。
「簡単だよ、菅公。堂々していればいい」
「……堂々と、ですか?」
「そうさ。今の禪院家に、君に勝てる術師はいない。あそこの当主は目ざとい男だ。君という存在を消すリスクと、返り討ちに遭って禪院家の面目を完全に潰されるリスクを天秤にかければ、絶対に後者を避ける。相手がどんな泥仕合を仕掛けてこようと、君は泰然自若としていればいいのさ。君の強さこそが、最大の交渉力なんだからね」
「なるほど……」
「まあ、この極めて実践的かつ的確なアドバイスの代金として、君の父親の口座から通常の三倍の指導料を引き落とさせてもらうけれどね」
「……きっちり取りますね、相変わらず」
苦笑する菅公だったが、その瞳からは不安の影が消えていた。冥冥の言う通りだ。誇りも面目も、すべては絶対的な暴力の前にひれ伏す。ならば、自分はただ「強者」として振る舞えばいい。
◇
明くる日。禪院家本邸、広大な謁見の間。
重苦しい香の煙が立ち込める部屋には、当主・禪院直毘人を筆頭に、直哉、扇、甚壱、そして直属の精鋭たちが居並んでいた。その空気はまるで、踏み込んだ者を瞬時に噛み砕く獣の巣窟であった。
畳を踏みしめる足音が二つ。
土師家当主・土師宗矩と、その息子である土師菅公が足を踏み入れ、中央で足を止めた。
宗矩が深く頭を下げる中、10歳の菅公は背筋を真っ直ぐに伸ばし、正面の直毘人を堂々と見つめ返していた。小柄な体に纏うのは、凛とした黒の和装。
「——遠路はるばる、出向いてもらってかたじけない、土師殿」
直毘人が薄笑いを浮かべながら声をかけた。
「さて、単刀直入に話そうか。管公殿……10歳にして特級祓除の快挙、誠に見事。だがな、若気の至りという言葉もある。我ら呪術界の秩序は、老獪な経験と血統の調和によって保たれておるのだ。分家筋の若造が、独断で特級の手柄を独占するような真似は、全体の調和を乱すことにも繋がりかねん」
威圧的な呪力を滲ませながら、直毘人は言葉を紡ぐ。それは「これ以上目立つな、禪院の傘下に入れ」という婉曲的な脅迫であった。
その時、直毘人の脇に控えていた直哉が、我慢が限界に達したように吐き捨てた。
「へっ、ハッキリ言うたらどうなんですか親父。たまたま運が良かっただけのガキが、五条の虎の威を借りて粋がっとると、痛い目見ることになるで。……ホンマに一人で特級祓ったんか? 証拠でもあんのんか?」
直哉の挑発的な言葉と、周囲の禪院家の者たちから放たれる苛烈な圧迫感。宗矩の額から冷や汗が流れる。
しかし、菅公の表情はピクリとも動かない。
泰然自若。冥冥の言葉が胸に刻まれていた。
「証拠、ですか」
菅公は静かな声で応じた。その声には10歳とは思えぬ重みが宿っていた。
「ならば禪院直哉様。貴方ご自身で確かめられますか?」
「……あァ!?」
直哉の顔が激怒で歪む。
「ガキが……舐めた口ききやがって! 誰に向かって物言ってんのか分かってんのか!!」
直哉が立ち上がりかけたその瞬間、直毘人が手を挙げてそれを制した。直毘人の目が怪しく光る。
「……ほう。なら、威勢のいい土師の神童殿に、我が禪院の術師と少し『手合わせ』をしてもらおうか。言葉よりも、拳で語るのが呪術師の理というもの」
直毘人の合図とともに、謁見の間の側壁が開き、奥の広い稽古場へと繋がる道が現れた。そこに躍り出たのは、禪院家が誇る「柄」のなかでも屈指の実力を持つ巨漢の呪術師であった。一級に匹敵するパワーと堅牢な肉体を持つ男だ。
「殺しはせん。だが、手足の一本も折られれば、己の身の程というものが分かろう」
扇が冷酷な笑みを浮かべながら呟く。
菅公は静かに深呼吸をし、広場の中央へと歩み出た。腕を組んだまま佇む。
「……構えもとらん気か、小僧ッ!」
巨漢の術師が咆哮を上げ、大地を蹴った。踏み込まれた畳が弾け飛び、凄まじい風圧とともに、呪力を圧縮した拳が菅公の顔面へと迫る。
通常の戦闘において、菅公は自らの術式『落落雷雷』を封印する。
それは師である冥冥から叩き込まれた体術と、研ぎ澄まされた呪力操作のみで敵を粉砕するためだ。安易に切り札を晒すのは二流のすること。
迫る巨漢の拳。菅公の視界が極限まで加速する。
(遅い)
菅公は最小限の動きで頭部を滑らせ、拳の軌道をかわした。顔すれすれを通り抜ける空圧。巨漢が驚愕に目を剥く間もなく、菅公は沈み込み、相手の懐へと潜り込んだ。
「——甘い」
菅公の右拳に、高密度に凝縮された呪力が集約される。
瞬間、菅公は相手の鳩尾(みぞおち)に向けて、絶妙な角度で寸勁を叩き込んだ。
『ドォッ!!』
砲弾が破裂したかのような衝撃音が室内に響き渡る。
巨漢の術師の背中が大きく波打ち、彼の巨体が宙へと浮き上がった。吐血しながら目を見開く術師。だが、菅公の攻撃はそれだけでは終わらない。
宙に浮いた巨漢の顎下へ、菅公は間髪入れずに鋭い跳び膝蹴りを叩き込む。
『ガキィンッ!』
骨が砕ける重厚な音が鳴り響き、巨漢の体はそのまま後方の木柱へと激突。激しい煙と土塵を上げながら、壁にめり込んだまま動かなくなった。一瞬。わずか2秒の出来事であった。
「な……ッ!?」
直哉が目を見開き、息を呑む。
扇も、甚壱も、言葉を失っていた。
術式を一切使っていない。ただの呪力強化と体術。それだけで、一級相当の巨漢を文字通り一撃で沈めて見せたのだ。
煙の中から、土塵ひとつついていない姿で菅公が歩み出てくる。その静かな瞳が、禪院家の者たちを順番に見つめた。
「……検分、ご苦労様です。次は、直哉様が相手をしてくださるのですか?」
静かに投げかけられた問い。
直哉の喉がゴクリと鳴った。額から冷や汗が垂れる。立ち上がろうとした足が、微かに震えて動かない。目の前にいる10歳の少年が、一瞬だけ、あの「五条悟」と同じ絶対的な強者の影を纏ったように見えたからだ。
「……クソッ……」
直哉は歯を喰いしばり、悔しそうに視線を逸らすことしかできなかった。
直毘人は、ゆっくりと深々と思術を巡らせた後、ハハハと乾いた笑い声を上げた。
「……見事。見事なり、土師菅公。これほどの腕前、特級祓除も疑う余地なし。禪院家としても、お主という稀代の才能の誕生を心より祝福しよう」
直毘人は力関係を瞬時に理解し、引き下がる選択をした。これ以上の挑発は、かえって禪院家の底底を晒すだけに終わる。
「では、本日はこれで失礼いたします」
菅公は一礼すると、父・宗矩とともに堂々とした足取りで謁見の間を後にした。
去っていく少年の背中を、禪院家の者たちはただ黙って見送るしかなかった。恐怖、嫉妬、憎悪……あらゆる負の感情が交錯する中、彼らは理解させられたのだ。五条家に連なるもう一つの巨大な「雷」が、すでに自分たちの頭上に降り注ぎつつあるという事実を。
屋敷を出た菅公は、青空を見上げ、そっと己の体内に眠る術式の核に意識を向けた。
自らの血に宿る、菅原道真の真なる力。
術式順転『飛雷遠雷』。
術式反転『雷化舜動』。
そして、領域展開『桑原桑原』——。
(今日はこれを使わずに済んだ……。だけど、五条さんに追いつくためには、もっと強くならなきゃいけない)
10歳の神童は、己の内に秘めた圧倒的な天災の力を静かに静まり返らせながら、師の待つ場所へと歩みを進めるのであった。
しまった、今回禪院家を登場させたのに真希と真依の出番がほぼ皆無だ。どうやって登場させよう。どうにか登場させないとマジで出番が後になる