「では、参りましょうか。父様」
禪院家の重苦しい大広間をあとにし、菅公は隣を歩く父・宗矩へと視線を向けた。
直毘人をはじめとする禪院家の重鎮たちにどれだけ嫌味や侮蔑を投げかけられようと、菅公にとっては蚊の鳴く声ほどの価値もなかった。10歳にしてすでに呪詛師すら震え上がる呪力量と肉体操作、そして天与の才能を誇る菅公。その存在感の前に、相伝の術式を誇る老猾な呪術師たちも最後は言葉を失い、冷や汗を流して平伏するしかなかったのだ。
屋敷の長い廊下を歩きながら、菅公は少しだけ歩調を緩めた。
「父様。帰る前、少しだけ……庭園の方へ寄ってもよろしいでしょうか」
「……ふむ。あの姉妹に会っていくか?」
宗矩は息子の意図を察し、優しく目元を緩めた。
「ええ。せっかく禪院の屋敷に来たのです。あの子たちの顔を見ずに帰っては、来た甲斐がありません」
5年前——菅公と禪院姉妹がまだ5歳だった頃。父に連れられて初めてこの屋敷を訪れた際、二級呪術師以下の落ちこぼれ扱いをされていた幼い姉妹と出会った。相伝の術式を持たないことで虐げられていたふたりだったが、菅公はそこに漂う強い意思と凛とした瞳を見抜いていた。それ以来、機会があるたびに手紙や連絡を交わし、ひそかに親交を深めていたのだ。
「よかろう。わしは門前で車を回して待っておく。長居はするなよ」
「ありがとうございます、父上」
菅公は一礼すると、足取りも軽やかに本館から離れた離れの庭園へと向かった。
落ちこぼれとして扱われる真希と真依が押し込められている、古びた離れ。手入れの行き届いていない庭には、青々とした木々が生い茂り、木漏れ日が地面に斑模様を描いていた。
庭の開けた場所まで来ると、風を切るような鋭い音が菅公の耳に届いた。
「ハッ……! ぬりゃあッ!」
幼いながらも力強い掛け声と共に、木刀がしなる。
短く切り揃えた緑髪を揺らし、滝のような汗を流しながら木刀を振り下ろしていたのは、真希だった。その少し離れた縁側では、同じ顔立ちをした少女——真依が、ひざを抱えて姉の姿を不安そうに見つめている。
「真希、真依」
菅公が柔らかく声をかけると、ふたりの動作がぴたりと止まった。
「……ッ!? 菅公君……!?」
縁側から真依がパッと顔を上げ、驚きと歓喜の混ざった声をあげる。
真希も木刀を構えたまま振り向き、菅公の姿を視界に捉えると、その険しかった表情を劇的に和らげた。
「菅公! おいおい、マジかよ! 大広間の方でバカ高い呪力が跳ね上がってたから、てっきりどこかの誰かが潰されたのかと思ってたぜ」
「ふふ、まあ似たようなものかな。禪院の大人たちに、少しお行儀の勉強をさせてあげただけだよ」
菅公が微笑みながら歩み寄ると、真依が縁側から飛び降り、パタパタと駆け寄ってきた。
「菅公君! 本当……本当に久しぶり! 手紙は届いてたけど、直接会えるなんて思わなかった……!」
「久しぶりだね、真依。少し背が伸びたかな? 手紙、いつも嬉しく読んでいるよ」
「えへへ……本当? 私、菅公君が来るって知ってたら、もっとちゃんとした服着てたのに……」
真依は恥ずかしそうに自分の着物の袖を引っ張る。その頭を、菅公は愛おしそうに撫でた。真依は頬を少し赤くしながらも、嬉しそうに目を細める。
「おい真依、あんまり甘えるなよ。菅公だって忙しいんだからさ」
木刀を肩に担ぎ、汗を拭いながら真希が歩み寄ってきた。口調こそ乱暴だが、その目元には隠しきれない喜びが滲み出ている。
「構わないよ、真希。僕もふたりに会いたくて、父上に無理を言って時間を貰ったんだから」
「へっ、 相変わらず甘い奴。……で? さっきの呪力、菅公のだろ? あの威張り腐ったクソ親父どもの顔、拝んでやりたかったぜ」
「あまり良い見ものじゃないよ。汗と青ざめた顔で汚らしかったからね」
菅公はクスクスと笑いながら、真希の体躯を一瞥した。
「それにしても真希、良い鍛錬をしているね。軸がブレていない。木刀の振りに迷いがなくなってきた」
「わかるか? 毎日毎日、あいつらにバカにされながらも振り続けてんだ。アタシは絶対に認めさせてやる……呪術師として、あのクソみたいな禪院家をギャフンと言わせてやるんだ」
拳を強く握りしめる真希。呪力を帯びないその肉体には、天与呪怨による凄まじい身体能力の芽生えが感じられた。
一方で、真依はどこか寂しそうな影を落とす。
「私は……お姉ちゃんみたいに強くないし……呪術師なんて、ならなくてもいいのに……。お姉ちゃんとふたりで、フツーに暮らせたらそれでいいのに……」
「真依……」
真希が言葉を詰まらせる。禪院家という呪縛の中で、強くなろうとする姉と、平穏を望む妹。ふたりの切ないすれ違いを、菅公は優しく受け止めた。
「真依。君の思いは決して間違っていないよ。平穏を願うのは人間として当然のことだ。でもね、真希が強くなろうとしているのは、君を守るためでもあるんだ」
「菅公! 余計なこと言うなよ!」
真希が照れ隠しに顔を赤くして叫ぶ。
「ふふ、ごめんごめん。……でも真依、君も自分の術式と向き合おうとしているのは知っているよ。構築術式は体に大きな負担がかかる。焦らず、自分のペースで進めばいい」
「菅公君……うん。ありがとう……」
真依は菅公の言葉に救われたように、小さく頷いた。
「……なあ、菅公」
突然、真希が真剣な眼差しで菅公を見つめてきた。手に握られた木刀が、キュッと音を立てる。
「なんだい、真希?」
「アタシと……一回勝負しろ」
「お姉ちゃん!? ダメだよ、菅公君に怪我させたら……っていうか、菅公君相手に勝てるわけないじゃない!」
真依が慌てて制止するが、真希の目は本気だった。
「わかってんだよ! 菅公が化け物じみて強いことくらい! だけど……今のあいつらにナメられっぱなしのままじゃ、アタシは前に進めねぇ。菅公、お前の『本当の強さ』を、アタシに肌で感じさせてくれ!」
真希の瞳に宿る、燃え盛るような闘志。菅公はその意思を無下にするつもりは毛頭なかった。
「……いいよ、真希。君の覚悟、受け止めよう」
「菅公君……」
「心配いらないよ、真依。怪我はさせない」
菅公は着物の袖を軽くまくり上げ、庭の中央へと進み出た。武器は持たない。構えすら作らず、ただ自然体で立つ。
「術式は使わない。純粋な体術と、最低限の呪力操作だけで相手をしよう。それが今の君に対する、僕なりの誠意だ」
菅公の術式『落落雷雷』は、あまりにも圧倒的で破壊的だ。手加減をして放てるような代物ではないし、何より菅公は普段の戦闘において、己の肉体と精緻な呪力操作のみで敵をねじ伏せることを信条としていた。術式に頼らずとも、菅公の体術はすでに異次元の域に達している。
「ハッ! 術式なしだと? 舐められたもんだが……お前ならそれでもお釣りがくるか! 行くぞッ!」
真希が地面を蹴った。
ドッ、と激しい踏み込みの音が響く。10歳とは思えぬ跳躍力と加速。天与呪怨の肉体が生み出す初速は、一般的な二級呪術師の反応速度を遥かに凌駕していた。
一瞬で菅公の懐へと飛び込んだ真希は、上段から木刀を振り下ろす。空気を切り裂く鋭い音が風を切る。
(速い……! だが——)
菅公の視界の中では、その動きはまるでスローモーションのように見えていた。
菅公は最小限の動きで頭部をわずかに右へ滑らせる。木刀が菅公の髪かすかにかすめ、虚空を割った。
「くっ……!」
真希は即座に腕を返し、横薙ぎの払いを繰り出す。胴体を真っ二つにするような強烈な一撃。しかし菅公は、左足のかかとを軸にして滑らかに回転し、その斬撃の軌道の内側へと潜り込んだ。
「——甘いよ、真希」
「なっ!?」
菅公の右手首が、真希の木刀の柄を軽やかに弾く。パァンと甲高い音が響き、真希の体勢が大きく崩れた。
すかさず菅公は、真希の胸元へ向けて掌打を繰り出す。
(寸止め——ではない!?)
真希の目に驚愕が走る。菅公の掌は、手前で止まることなく、真希の胸板に優しく触れた。
次の瞬間。
ドォンッ!!
爆発的な衝撃波が真希の体を襲った。
打撃そのものの物理的な威力ではない。菅公の掌から放たれた、限界まで凝縮された『呪力の発出』だ。体内に直接叩き込まれた呪力の波動が、真希の巨躯(きょく)ならぬ華奢な体を軽々と吹き飛ばす。
「カハッ……!?」
真希の体が空を舞い、数メートル先の芝生の上に転がった。
「お姉ちゃん!」
真依が悲鳴を上げる。
しかし、真希は即座に受け身を取り、泥だらけになりながらもすぐに立ち上がった。ダメージはほとんどない。菅公が叩き込んだ呪力は、威力を極限まで拡散させ、単に吹き飛ばすためだけの衝撃に変換されていたからだ。
「……てめぇ……! 今の、打撃の中に呪力を波状に流し込んだな……!? どんだけ精密な操作してやがる……!」
真希の額に汗が滲む。荒い息を吐きながらも、その瞳の炎は消えるどころか、さらに激しく燃え上がっていた。
「体術だけでこれかよ……! さすがだぜ菅公! だが、まだまだッ!」
真希は再び走り出した。今度は直線的な動きではない。庭の樹木や飛び石を足場にし、縦横無尽に跳躍しながら菅公の死角を突くアクロバティックな立体機動。天与呪怨の肉体美が遺憾なく発揮される。
頭上から、背後から、左右から。怒涛の如く繰り出される木刀の連撃。
「フッ! ハッ! シャアッ!」
バパンッ! ガガギィンッ!
菅公は一歩もその場から動かない。
両腕を滑らかに動かし、あるときは掌で木刀の側面を流し、あるときは指先で攻撃の起点を突き、すべての打撃を完璧にさばいていく。その姿はまるで流れる水のようにしなやかであり、強固な城壁のように揺るぎなかった。
「くそっ……! 届かない……! 一撃すら……!」
真希の心に、焦りと同時に途方もない絶望感が押し寄せる。
目の前の同い年の少年は、雲の上の存在だ。禪院家の落ちこぼれとして蔑まれてきた自分と、天才として名を馳せる土師菅公。その差は歴然だった。
だが——菅公の瞳には、蔑みや憐れみなど微塵もなかった。
そこにあるのは、真希の努力を正当に評価し、正面から受け止める真摯な光だけ。
「真希、自分の足元を見てごらん」
「え……?」
菅公の声に、真希はハッと息を呑んだ。
木刀を振り回すのに必死で気づかなかったが、菅公の手首や足首の動きに合わせて、かすかな呪力の糸が地面を這い、真希の足回りを完全に包囲していたのだ。
「術式を使わずとも、呪力の配置一つで相手の行動を制限できる。君の動きは素晴らしいが、熱くなりすぎて周囲の呪力変化に疎くなっているよ」
菅公がすっと右手を掲げる。
その指先から発せられたかすかな呪力波動が、真希の足元に仕掛けられていた呪力糸を爆発させた。
ドォンッ!
足元の土煙が舞い上がり、真希の視界が完全に遮られる。
「しまっ——」
「勝負ありだ、真希」
土煙を切り裂いて現れた菅公の指先が、真希の眉間に優しく触れていた。
真希は木刀を力なく落とした。
「……はは……完敗だ。手も足も出ねぇ……」
地面にペタリと座り込む真希。菅公は微笑みながら手を差し伸べた。
「でも、5年前とは比べものにならないくらい強くなっているよ、真希。君の身体能力と攻撃のキレは、同世代の呪術師ならひとたまりもない。自信を持っていい」
真希は菅公の手を取り、立ち上がった。その顔には悔しさ half、爽やかさ half の笑みが浮かんでいた。
「フン……気休め言うなよ。……けど、サンキューな。お前と戦えてよかった。アタシが目指すべき『壁』が、はっきり見えたぜ」
「お姉ちゃん! 大丈夫!?」
駆け寄ってきた真依が、真希の服についた泥を慌てて払う。
「大丈夫だって真依、大げさだなあ。菅公が手加減してくれたんだよ」
「もう……菅公君も、あまりお姉ちゃんをいじめないでよ……心配したんだから」
膨れっ面をする真依に、菅公は「ごめんね」と苦笑した。
「さて……そろそろ行かないと、父上を待たせてしまうな」
菅公が空を見上げると、夕暮れ時の赤紫色の光が庭園を染め始めていた。
「もう行くの……?」
真依が寂しそうに菅公の着物の裾をギュッと掴む。
「ああ。でも、また必ず来るよ。それまでに真依も、構築術式の訓練、無理のない範囲で頑張ってね。次に会う時は、何か美味しいお菓子でも持ってこよう」
「本当……? 絶対だよ! 約束だからね、菅公君!」
真依の顔にパッと笑顔が咲く。
真希も腕を組みながら、ニッと不敵な笑みを浮かべた。
「次はもっとマシな勝負にしてやるからな。それまでくたばるんじゃねぇぞ、菅公」
「ふふ、約束するよ」
菅公はふたりに背を向け、一歩を踏み出した。
その背中は10歳とは思えないほど大きく、そして頼もしかった。
(……二人のためにも、僕自身が圧倒的であり続けなければならない)
菅公は心の中で静かに決意を新たにする。
彼の内なる奥底には、まだ見せぬ真の力が眠っている。
術式順転『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』——超遠距離からの不可避なる雷撃。
術式反転『雷化舜動(らいかしゅんどう)』——自らの肉体を雷光と化し、超光速で空間を駆け抜ける神速の体術。
そして、すべてを灰燼に帰す絶対の領域——領域展開『桑原桑原(くわばらくわばら)』。
それらの神威を解き放つまでもなく、菅公は己の存在そのもので、この狂った呪術界を書き換えていくつもりだった。
「菅公君、またねー!」
「またな、菅公!」
背後から届く姉妹の元気な声を背に受けながら、土師菅公は夕闇の迫る禪院家の屋敷をあとにした。
次に相まみえる時、世界がどのように変わっているか——それを楽しみにしながら。
はい、と言う事で今回は長らく出来ていなかった真希・真依回でした。この話にはやはりこの2人は欠かせません。次回のお話には出てきませんがこれからも定期的に登場させるのでお楽しみに(笑)
皆さんの感想・評価を楽しみにお待ちしております。