降りしきる冷雨が、廃墟となった紡績工場のトタン屋根を激しく叩いていた。
薄暗い敷地内に漂うのは、歪んだ呪力の残滓と、生臭い血の匂い。
「……土師殿。加茂家の初陣とはいえ、君にまで手数をかけさせるのは本意ではないのだ」
13歳になったばかりの加茂憲紀は、弓を固く握りしめながら、隣に立つ少年に向けて硬い声をかけた。凛とした立ち姿と武士を思わせる言葉遣いは、すでに御三家の一角・加茂家の次期当主としての重圧を背負っていることを物語っている。
その隣で、雨音に耳を澄ませていた少年――
「気にしないで、加茂くん。これは僕の個人的な趣味じゃなくて、冥冥師匠から請け負った『お仕事』だからね。加茂家から提示された報酬分の働きは、ちゃんとするよ」
菅公の口調は穏やかで、どこか年相応の幼さを残している。しかし、その体躯は到底12歳のものとは思えなかった。178センチという恵まれた身長、無駄のない筋肉で満たされたしなやかな骨格。雨に濡れた黒髪の下で光る瞳には、同年代の子供が持つはずのない冷徹なプロの光が宿っていた。
土師家。
かつて五条家の先祖である菅原道真の、さらに先祖にあたる古老の血脈。歴史の表舞台からは姿を消していたはずのその一族から生まれた菅公は、異例とも言える経緯で呪術界の表舞台へと足を踏み入れていた。
菅公の頭裏に、数年前の記憶が蘇る。
――父親である土師宗矩に連れられ、初めて訪れた五条家の屋敷。
そこで出会ったのは、当時高専生だった五条悟だった。
ただ立っているだけで周囲の空間を支配し、己以外の全てを等しく見下ろす絶対的な強者。「最強」の名を欲しいままにする男の背中を見た瞬間、5歳だった菅公の胸には恐れではなく、烈火のような憧憬が吹き荒れた。
(あの高みに届きたい。そのためには、生半可な環境で甘えている暇はない)
菅公は父の紹介を介し、自らの意思でフリーの1級呪術師・冥冥に弟子入りを志願した。「お金にならない感情は捨てなさい」「強さとは合理性そのものだよ」と微笑む師のもとで、菅公は徹頭徹尾、効率的な戦闘術と呪術師としての洗礼を受け続けてきたのだった。
そしてもう一つ、菅公の心を支える記憶がある。
同じく5歳の頃、挨拶のために赴いた禪院家の屋敷での出来事だ。
そこで出会った同い年の双子、真希と真依。
落ちこぼれとして一族から疎まれていた二人だったが、菅公は彼女たちとすぐに打ち解けた。
『おい菅公! なんでお前ばっかりそんなに背が伸びるんだよ! ずるいだろ!』
男勝りな口調で突っかかってきた真希の元気な声と、その陰で小さく笑っていた真依の顔。同い年の二人は、菅公にとって数少ない大切な友人だった。いつか彼女たちが理不尽な家に縛り付けられたとき、力ずくでも救い出せるだけの強さを得る――それもまた、菅公が強さを追求する動機の一つだった。
「来るぞ、土師殿!」
憲紀の鋭い声が、菅公の思考を現実に引き戻した。
工場の奥、暗がりから引きずり出されるように現れたのは、今回の討伐対象である呪詛師・
「ヒヒッ……御三家のガキ共か! 加茂の血も、その横のでかいガキの太い骨も、最高の素材になってくれそうだなぁ!」
荒骨が奇声を上げると同時に、その全身の皮膚が突き破られ、無数の白い骨針が露出した。
術式『骨針変生』。自らの骨を無制限に生成・変形させ、硬化させて解き放つ危険な術式だ。
「赤血操術――『苅祓』!」
憲紀が即座に反応する。自らの血を付着させた矢を放ち、空中で軌道を変化させながら荒骨の隙を突く。鮮やかな血の刃が空中を切り裂き、荒骨の肩口を浅く切り裂いた。初陣とは思えぬ見事な一撃。しかし、荒骨は下劣な笑みを崩さない。
「甘いんだよ、ボウズ!」
地面に散らばっていた骨の破片が一斉に膨張し、鋭利な槍となって憲紀の足元から跳ね上がった。予想外の死角からの奇襲。憲紀の回避がコンマ数秒遅れる。
「――チッ、しまった……!」
「下がってて、加茂くん」
静かな声が響いた瞬間、憲紀の視界を黒い影が覆った。
菅公だ。178センチの巨躯が、疾風のごとき速度で憲紀と骨の槍の間に割り込む。
菅公は刀も呪具も持っていない。完全なる「無手」。
(術式を使わない……!?)
憲紀が驚愕する暇もなく、菅公は右拳を引いた。
前腕の筋肉が脈打ち、高密度に練り上げられた呪力が全身を駆け巡る。冥冥の手ほどきによって極限まで無駄を削ぎ落とされた身体操作。
「フッ!」
短い息吐きとともに繰り出されたストレートが、迫り来る巨大な骨の槍の先端に激突した。
――ドゴォォォンッ!!
爆術でも弾けたかのような重圧音が響き渡り、硬化された呪詛師の骨が粉々に砕け散った。衝撃波が雨を吹き飛ばし、周囲の空間を真白く濡らす。
「なっ……何ィ!? 素手で俺の骨を折っただと!?」
荒骨が目を見開く。菅公は一切の表情を変えず、砕けた骨の破片を掻き分けて前進した。
ステップの足音が一切しない。まるで滑るように至近距離へと肉薄する。
(通常の戦闘で、僕の『落落雷雷』を使う必要はない。拳と呪力だけで十分だ)
菅公の左フックが荒骨のガードを易々とこじ開けた。ガラ空きになった横腹へ、間髪入れずに叩き込まれる右の膝蹴り。
ゴキッ、と嫌な音が工場内に響く。
「ガハッ……!?」
荒骨の口から大量の血が吐き出された。菅公の攻撃には一切の無駄がない。相手の重心を崩し、最小の運動量で最大のダメージを与える。冥冥から徹底的に叩き込まれた実戦的かつ合理的な打撃術。
「クソが……ナメるなよ、ガキがあああッ!」
絶叫した荒骨の体中から、うねるように数百本の骨針が噴出した。全方位への無差別死角なしの散弾攻撃。至近距離にいる菅公を肉塊に変えようとする悪あがきだ。
「土師殿! 離れろ!」
後ろから憲紀の叫びが飛ぶ。しかし、菅公は退かない。
瞳の奥で、静かな青い火花が爆ぜた。
(残業は嫌いなんだ。冥冥師匠にも『時間は資産だよ』って言われているからね)
菅公は初めて、右手を腰から解き、人差し指と中指を荒骨の胸元へと向けた。
「……術式順転」
菅公の指先から、空気を歪めるほどの圧倒的な高圧呪力が溢れ出す。五条家の先祖に連なる、天を統べる雷霆の血脈。
「『
シュバッ、という澄んだ音とともに、指先から極細の稲妻が放たれた。
それは一瞬で荒骨の胸腔を貫通し、直後に爆発的な拡大を見せた。ワイドレンジへの切り替え。菅公の意図に従い、指向性を持った青白く熱い雷光が広がり、荒骨から放たれた無数の骨針を、そして荒骨自身の肉体を根こそぎ蒸発させていく。
――バリバリバリバリッ!!!
眩い閃光が廃工場を真っ白に染め上げた。
雨粒が熱量で一瞬にして蒸気に変わり、雷鳴の残響が遅れて遅れて空を揺らす。
やがて光が収まったとき、そこに立っていたのは息一つ乱れていない菅公だけだった。
荒骨だったものは、炭化したわずかな残骸を残して跡形もなく消え去っていた。
「……は……?」
憲紀は呆然と立ち尽くしていた。
初陣の緊張も、加茂家の誇りも、目の前の12歳の少年が見せた圧倒的な暴力と術式の前には吹き飛んでいた。
「土師殿……今のは……。討伐は完了した……だが、拘束して高専で尋問するという選択肢もあったはずだ。なぜ、躊躇なく命を断った……?」
憲紀の問いに、菅公はゆっくりと振り返った。
その顔には、先ほどまでの穏やかな笑みはない。冷たく、どこまでも平然とした目が憲紀を見つめていた。
「どうして? 敵対する相手を生かしておく理由なんて、どこにもないよ」
菅公の言葉には、不必要な憎しみも、殺戮の悦びすらもなかった。ただ当然の事実を口にしているだけだった。
「僕や、僕の大切な人たちに害をなそうとする敵は、全員ここで終わらせる。生かしておいてもリスクが増えるだけだし、尋問なんて僕の仕事じゃない。……敵は皆殺し。それが僕のルールだから」
その言葉の裏にある揺るぎない覚悟と冷酷さに、憲紀は背筋が凍りつくのを覚えた。
12歳にして、この割り切り。この完結した精神性。
これが、あの五条悟と同じ血の源流を持つ者――そして、冥冥という徹底的なプロの手で育てられたモンスターの姿なのか、と。
菅公はポケットから濡れないように保護されたスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで発信ボタンを押した。耳元に当て、数秒。
『やあ、菅公。終わったかい?』
スピーカーから聞こえる冥冥の艶やかな声。
「はい、師匠。ターゲットの呪詛師は完全に処理しました。加茂くんの初陣のサポートも無事に完了です」
『素晴らしいよ。加茂家からの報酬はすでに指定口座に振り込まれている。君の分の取り分も、後で引いておいてあげるね』
「ありがとうございます。あ、あと師匠……今回の呪詛師、予定より広範囲に攻撃を展開してきたので、術式を使って急ぎで処理しました。追加の危険手当、申請してもいいですか?」
『ふふ、目ざとい子だね。いいよ、加茂家に請求書を上乗せしておこう。無駄な時間を使わずに済んだのは良い判断だ』
電話を切り、菅公はふうと小さく息を吐いた。そして、まだ固まっている憲紀に向かって、いつもの柔らかな微笑みを浮かべた。
「じゃあ行こうか、加茂くん。雨も強くなってきたし、早く帰らないと」
雨の中を歩き出す菅公の背中は、178センチの体躯以上に大きく、そして遠く見えた。
加茂憲紀は己の小ささを噛み締めながら、その恐るべき同年代の背中を追って、静かに歩みを進めるのだった。
はい、と言うわけで今回のバディは加茂憲紀君でした。御三家キャラでまだ加茂憲紀君だけが出ていなかったので急遽、登場させました。………最近の悩みは話がマンネリ化して来た事ですね。変化が欲しいです変化が。