夜の静寂が満ちる群馬の山中、廃墟と化した旧トンネルの前に二人の少年が立っていた。
湿り気を帯びた夜風が、草木を揺らす音だけを運んでくる。月光に照らし出された一人は、まだ十二歳でありながら、すでに一八〇センチ近くに達しようとする長身を誇っていた。土師菅公(はじすがきみ)。無駄な肉など一切削ぎ落とされた、しなやかで長い手足。一見すると華奢にも見える体躯には、精巧なバネのような凄絶な呪力と筋肉が凝縮されている。
「……ここだな」
菅公は低めの声で呟き、隣の少年を見下ろした。
同じ十二歳の加茂憲紀。加茂家の正妻ではない母から生まれながら、相伝の術式『赤血操術』を継承したことで本家に引き取られた少年だ。着慣れぬ和服の裾を僅かに揺らし、憲紀はきつく結ばれた唇をさらに固く噛み締めていた。その瞳には、初陣特有の緊張と、それを必死に覆い隠そうとする武士のような気迫が宿っている。
菅公は内心で微かに首をかしげていた。
(加茂家なんて、ドロドロした権力闘争と腹黒いジジイどもの巣窟だと思ってたんだが……なんだこのクソ真面目で凛としたガキは。加茂家にこんなマトモなやつがいたのかよ)
菅公の頭には、かつて禪院家の屋敷で目にした光景が不意に思い浮かんでいた。五歳の頃、冥冥師匠の付き添いで訪れた禪院家。そこで出会った同い年の双子――真希と真依の姿だ。虐げられながらも牙を研ぐような眼光を見せていた真希と、怯えながらも姉の背中にすがりついていた真依。あの二人も強烈だったが、目の前にいる加茂憲紀という少年もまた、歪んだ御三家の環境にありながら、一本の芯が通った歪みのない佇まいをしていた。
(まあ、あの双子は将来いい女になりそうだったな。冥冥師匠もそうだが、やっぱり女は胸が大きく、腰から太腿にかけてが黄金比を描くラインを描いていてこそ美しい。真希も真依も、成長したら絶対僕の好みにドストライクになる。……脱線したな)
菅公は軽い吐息とともに思考を切り替えた。今回の任務は、この加茂憲紀の「初めての呪詛師討伐」のサポート。御三家の跡取り候補としての初陣を影で支えるため、依頼を受けた冥冥経由で菅公に白羽の矢が立ったのだ。
「憲紀。言っておくが、僕は基本的に手を貸さない。お前が死にかけたら助けるが、基本はお前ひとりで殺してこい」
「……分かっている、菅公殿。私の初陣だ。加茂の誇りにかけて、遅参も後退もせぬ」
礼儀正しい言葉遣い。十二歳とは思えぬ毅然とした態度。菅公は「へいへい」と手をひらひらさせながら、トンネルの闇へと踏み出した。
「ただし、敵対する奴は全員殺す。これが僕のルールだ。命乞いを聞く気も、生かして捕らえる気もない。そこだけは邪魔するなよ」
菅公の言葉に含まれた冷徹な殺気に、憲紀の背筋が冷たく凍りついた。まだ呪術高専に所属すらしていない同世代の少年から放たれたとは信じがたい、圧倒的な死の匂い。憲紀は一瞬息を飲んだが、すぐに小さく頷いた。
トンネル内部は、生臭い呪力と腐臭で満ちていた。
奥へと進むにつれ、壁面には不気味な黒い粘液がへばりつき、天井からは人間の骨格を模したような呪具の破片が吊り下げられている。
「……いるぞ」
憲紀が足を止め、弓を構える体勢を取った。彼の手には、呪力を込めた特殊な矢。
暗闇の奥から、ねっとりとした足音が近づいてくる。姿を現したのは、異様に長い四肢を持つ背の曲がった男――呪詛師・泥津(どろつ)だった。男の全身からはドロドロとした黒い粘液が溢れ出し、地面を溶かしながら波打っている。
「ヒヒッ……ガキが二人? 御三家の血を引く坊ちゃんか? 術師のガキの肉は、呪具のいい素材になるんだよ……!」
泥津の術式は『粘鋼濁液(ねんこうだくえき)』。分泌する粘液の粘度と硬度を自在に変化させ、酸のように物体を溶かすこともできれば、鋼鉄以上の硬度を持つ刃に変形させることもできる厄介な術式だ。
「行くぞ……!」
憲紀が叫ぶと同時に、自身の指先を小刀で切り裂いた。滴る鮮血。
「『赤血操術』――『赤縛(せきばく)』!」
凝固させた血の糸が爆風のような速度で放たれ、泥津の身体を拘束せんと迫る。
「甘いんだよ坊主!」
泥津が叫ぶと、足元から黒い粘液が噴出し、壁のように立ちふさがった。憲紀の血の糸は粘液に触れた瞬間、ジジジ……と音を立てて酸で溶かされ、威力を殺される。
「くっ……!」
「ハハハ! 赤血操術か! 有名な術式だが、熟練度が足りねえなぁ!」
粘液の壁が触手のように伸び、憲紀へと襲いかかる。憲紀は間一髪でバックステップを踏み、弓を引き絞った。
「『百斂(びゃくれん)』――『苅祓(かりばらい)』!」
血を限界まで圧縮し、刃状にして放つ。粘液の触手を切り裂き、泥津の肩口を浅く削り取った。鮮血が舞う。初陣としては見事な判断力と精度だ。だが、泥津は不敵に笑った。
「引っかかったな、坊ちゃん」
削り取られた泥津の肩から噴き出したのは、血ではなく大量の粘液だった。それが空中ではじけ飛び、雨のように憲紀の全身へと降り注ぐ。
「しまっ――!」
回避は不可能。粘液が着弾すれば、憲紀の肉体は溶かされるか、固められて動けなくなる。憲紀が死を覚悟し、歯を食いしばったその瞬間。
視界がブレた。
ドオン! と、トンネル内に重苦しい衝撃音が響き渡る。
「……なっ!?」
泥津の目が驚愕に見開かれた。
降り注ぐはずだった粘液の雨が、憲紀に到達する直前で「不可視の衝撃波」によって吹き飛ばされていたのだ。
憲紀の目の前に立っていたのは、菅公だった。
菅公は術式を一切発動させていない。ただ、超絶的な呪力操作と、冥冥に徹底的に叩き込まれた身体能力のみによって、空気を拳の振り抜きだけで圧縮し、粘液の雨を力任せに打ち消したのだ。
「……菅公殿!?」
「動きが硬いぞ、憲紀。相手の傷口から何が出るかまで計算しろ。御三家の相伝術式が泣いているぞ」
菅公は振り返りもせず、淡々と言い放った。その立ち姿には微かな隙すらない。無駄な肉のない178センチの体が、まるで一本の研ぎ澄まされた槍のように暗闇にそびえ立っている。
「クソガキが……しゃしゃり出てんじゃねえぞ!」
泥津が怒号を上げ、地面一面を粘液の海へと変えた。逃げ場をなくし、足元から溶かそうという狙い。同時に、粘液から数十本の鋼鉄の針が生え揃い、菅公と憲紀を下から突き刺そうと襲いかかる。
「憲紀、下がってろ」
菅公は低く呟くと、踏み込んだ。
ドッ!!
粘液の海を、ただの「脚力」で蹴破る。靴底に極限まで集中させた呪力の膜が、酸の粘液を完全に弾く。物理法則を無視したような急加速。泥津の視界から菅公の姿が消えた。
「な、消え――!?」
「遅い」
耳元で聞こえた冷ややかな声。
泥津が振り向くより早く、菅公の右拳が泥津の脇腹へと突き刺さった。
ガコンッ! と、骨が粉々に砕ける不快な音がトンネル内に響く。
「ガハッ……!?」
術式ではない。ただの拳だ。だが、冥冥のもとで徹底的に効率化された身体運動と、緻密に練り上げられた呪力の奔流。それらが乗った一撃は、大型トラックに衝突されたのと同等の破壊力を生み出していた。
泥津の巨体が壁へと吹き飛び、岩盤を叩き割って埋まる。
「カハッ、ガアッ……! なんだ、こいつ……術式も使わずに、この威力……!?」
泥津は血を吐きながら、恐怖に引きつった目で菅公を見上げた。
菅公は静かに歩み寄る。その足取りには一切の力みがなく、まるで散歩でもしているかのようだ。
通常、呪術師は戦闘において自身の術式を最大限に活用する。しかし、菅公は「通常の戦闘」において意図的に術式を使わない。なぜなら、彼の術式『落落雷雷』はあまりにも破壊的であり、生半可な相手に使えば周囲ごと過剰に消滅させてしまうからだ。そして何より、冥冥から学んだ「呪力と肉体の合理的な運用」だけで、大半の呪詛師など屠れるという自負があった。
「菅公殿……見事な体術だ。だが、トドメは私が――」
憲紀が息を整えながら歩み寄ろうとした。加茂家の跡取りとして、己の手で呪詛師を討ち取ることが今回の任務の至上命令だからだ。
しかし、泥津の目が凶悪な光を宿した。
「舐めるなよ……ガキどもがぁぁぁ!!」
泥津が叫ぶと、彼の全身の皮膚が破れ、内部から圧縮された膨大な粘液が津波となって広がった。トンネル全体を崩落させ、道連れにしようという捨て身の暴走。粘液は壁や天井を急速に溶かし、大量の土砂が崩れ落ちてくる。
「憲紀、下がりな」
菅公の声が、崩落の轟音を切り裂いて響いた。
「しかし……!」
「言ったろ。僕のルールは『敵対する奴は皆殺し』だ。ここからは僕の仕事だ」
菅公の雰囲気が一変した。
それまでの静かな圧迫感が消え去り、代わりにトンネル内の空気が一瞬にして「重密度の電荷」で満たされる。バチバチと、空間そのものが悲鳴を上げるような高周波の放電音が鳴り響いた。
(術式を使うのか……!?)
憲紀は息を呑み、圧巻の呪力密度に一歩後退した。
菅公の瞳が、黄金色の燐光を帯びる。
術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』。
本来ならば領域展開『桑原桑原』をもって無数の雷で神域を埋め尽くす天災の如き術式だが、こんな狭いトンネルで領域を展開すれば憲紀ごと山を吹き飛ばしてしまう。
菅公は右手の指先を、迫り来る粘液の津波と泥津に向けて軽く向けた。
「術式順転――『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』」
バチィンッ!!
指先から放たれたのは、細い一本の閃光。
だが、それはただの電流ではない。超高圧の呪力を帯びた「雷の穿孔」だ。
閃光が空間を走り抜けた瞬間、迫りくる粘液の津波が一瞬で蒸発した。熱線と衝撃波がトンネル内を吹き抜け、泥津の張った酸の粘液も、鋼鉄の針も、崩れ落ちる土砂すらも、全てがプラズマの渦へと呑み込まれていく。
「ア――――――ッ!?」
泥津の悲鳴すら、雷鳴の轟音にかき消された。
閃光は泥津の胸腔を正確に貫通し、そのまま後方のトンネルの壁を数メートルにわたって穿ち抜いた。貫通口の周囲は赤くドロドロに溶け落ち、ガラス化している。
泥津の体が、力なく膝から崩れ落ちた。胸には拳大の綺麗な円形の穴が開き、心臓もろとも焼き切られている。即死だった。
「……ふう」
菅公は指先から立ち上る微かな煙を息で吹き消した。
術式を使ったのはほんの一瞬。指先からの最小限の放電『飛雷遠雷』のみ。反転術式『雷化舜動』による光速移動も、拡張術式『死苦発苦』による磁力破壊も使うまでもなかった。ましてや領域展開など出すまでもない。
トンネル内には、焼き尽くされた焦げ臭い匂いと、圧倒的な破壊の痕跡だけが残されていた。
憲紀は立ち尽くしていた。
十二歳。自分と同じ年齢の少年が、ここまでの精度と圧倒的な破壊力を制御している。しかも、戦闘の大半を術式すら使わずに体術だけで制し、最後の最後で完璧な一撃を見舞った。
「……すごい」
憲紀の口から、漏れでるように言葉がこぼれた。
「加茂の術式も、私の練度も……まだまだ及ばぬ。菅公殿、見事な戦いだった」
菅公は振り向き、憲紀の生真面目な顔をじっと見た。
「お前、本当に加茂家の人間か? 普通なら『自分の手柄を横取りされた』とか『不躾な不意打ちだ』とか文句を言うだろ。御三家の連中はみんなプライドばかり高くて見栄っ張りだからな」
「私は……誇りは持っているが、愚尊ではありたくない」
憲紀は真っ直ぐに菅公の目を見返した。
「足りぬものは足りぬと認めねば、私は母上を……大切なものを守れる強さを手に入れられん。菅公殿の強さは本物だ。学びを得られたことに感謝する」
そう言って、憲紀は深々と頭を下げた。
菅公は呆れたように天を仰いだ。
(マジかよ……本当にマトモじゃねえか。加茂家みたいな腐った家柄で、どうやってこんな素直で志の高いガキが育つんだ? 逆に将来が心配になるレベルだぞ)
だが、菅公は憲紀のその姿勢を嫌いではなかった。ドロドロとした陰謀や見栄にまみれた大人たちばかりを見てきた菅公にとって、憲紀の愚直なまでの誠実さは、どこか清々しくすらあった。
「まあ……初陣にしちゃ上出来だろ、憲紀。お前の『百斂』の溜めと『苅祓』の精度は悪くなかった。ただ、実戦じゃ敵はお前の間合いに合わせてくれない。体術の基礎をもっと叩き込め。お前の動きはまだ甘い」
「……感謝する。持ち帰り、鍛錬に励もう」
憲紀が少しだけ表情を緩め、頷いた。
菅公は転がる泥津の遺体を一瞥した。息はない。敵対した以上、生かして返す選択肢は最初から無かった。死人に口なし。呪術界の暗部に生きる者としての、菅公なりの徹底した流儀だ。
「さて、帰るか。師匠に報告して、報酬をしっかり山分けしてもらわないと」
菅公は背伸びをしながら、トンネルの出口へと歩き出した。
(師匠のことだから、僕の取り分から『指導料』とか言って三割くらい跳ね飛ばしそうだな……。早く大人になって、自分でガッポリ稼げるようになりたいもんだ)
頭の中で、菅公は将来の計算を巡らせていた。
稼いだ金で美味しいものを食べ、贅沢をし、そして理想の女性と出会う。
(オッパイが大きくて、腰から太腿までのラインが完璧な黄金比を描く極上の女性……。冥冥師匠は理想的だが、金に厳しすぎるから付き合うと破産する。やっぱり真希と真依が大きくなるのを待つのが一番の投資かもしれんな。数年後が楽しみだ)
十二歳にして、178センチの長身としなやかな強靭さを備えた少年・土師菅公。
彼は自分の未来と、まだ見ぬ強敵(と理想の女性)に思いを馳せながら、夜の山道を飄々とした足取りで下っていった。
その背中を、加茂家の幼き相入者・加茂憲紀は、強い敬意と目標の眼差しで見つめ続けていた。
はい、と言うわけで今回のバディは加茂憲紀君でした。御三家キャラでまだ加茂憲紀君だけが出ていなかったので急遽、登場させました。………最近の悩みは話がマンネリ化して来た事ですね。変化が欲しいです変化が。