高知の山あいは、足元から立ち上る生温かい湿気と、今にも降り出しそうな低い雨雲に包まれていた。
かつて林業で栄え、いまや地図から半分抹消されたような廃村の入口で、鳥居の残骸が朽ち果てた木肌を晒している。
「——はじめまして、土師菅公くんで間違いないかしら。今回の任務で組むことになった准一級術師の庵歌姫です。よろしくね」
そう声をかけてきた女性を、土師菅公は静かに見上げた。いや、見下ろしたという方が正確かもしれない。
12歳という年齢でありながら、菅公の身長はすでに178センチに達している。すらりと伸びた手足と鍛え上げられた体躯は、到底小学生のそれではない。しかし、その顔立ちには幼さと、五条家の先祖であり菅原道真の系譜たる『土師家』の血筋を感じさせる、浮世離れした気品が同居していた。
菅公の視線の先には、白い上着に緋色の袴という巫女装束を思わせる姿の歌姫が立っていた。頬に一筋走る薄い傷跡すらも、彼女の凛とした佇まいを際立たせている。
(綺麗で……すごく可愛くて、真面目そうな人だな)
それが、菅公が庵歌姫に抱いた第一印象だった。
自分より年上の術師でありながら、初対面の年下に変な威圧感を与えることもなく、任務に対する緊張感をその瞳に宿している。その真摯な姿勢が、菅公の胸にどこか心地よく響いた。
「初めまして、歌姫さん。土師菅公です。僕の方こそ、よろしくお願いします」
丁寧にお辞儀を返した菅公に、歌姫は「ええ」と頷き、手元の資料に視線を落とした。
「それじゃあ、早速だけど状況の確認をしましょう。今回、私たちが救出に向かうのは、この地域を担当していた『窓』の男性よ。彼は怪しい呪気の反応を捉えた後、本部の指示を待たずに単身で調査を進めてしまったの。使命感が先走ってしまったみたいね……結果、この廃村の奥にある洞窟の敷居を跨いだきり、連絡が絶たれたわ」
「使命感、ですか。お気持ちは分かりますが、自分の能力を弁えない行動は周りに迷惑をかけるだけですね」
菅公は淡々と言い放つ。その声には、12歳らしからぬ冷徹な合理性が含まれていた。
師である冥冥から叩き込まれたのは、「仕事は早く、確実に、そして利益に見合う行動を」という鉄則だ。情に流されて無謀な行動に出て囚われた『窓』に対して、菅公の評価は冷ややかだった。
「……菅公くん。言い方は少し厳しいけど、確かにその通りね。でも、助けられる命なら助けないと。洞窟内には二級から準一級相当の呪霊が潜伏している可能性が高いわ。慎重に行きましょう」
「はい。歌姫さんの指示に従います」
菅公は柔らかな笑みを浮かべた。その眉目の清らかさに歌姫は一瞬毒気を抜かれたようだったが、すぐに表情を引き締め、二人で湿った草むらを押し分けて洞窟の入口へと向かった。
◇
洞窟の内部は、外の光が一切届かない漆黒の闇に包まれていた。
壁面からはひたひたと水滴が落ちる音が響き、不快な生臭さと鬱散とした呪気が立ち込めている。
「気をつけて。呪気の密度が増しているわ」
歌姫が警戒を強め、懐から符を取り出す。
その時、暗闇の奥からヌチャリ、と肉が蠢くような不気味な音が響いた。
「ギシ……ギシ……イケナイ……ココハ……ハイッチャ……」
壁や天井の亀裂から、次々と呪霊が這い出てくる。数にして二十超。姿形は巨大なムカデのようでもあり、人間の腐乱した手足が乱雑に生えた異形の塊のようでもある。等級としては二級から三級の群れ。
「歌姫さん、下がっていてください」
菅公は静かに一歩前に出た。
「えっ、でも数が——」
「大丈夫です。僕が処理します」
菅公は腰を落とし、呼吸を整えた。
彼は通常の戦闘において、自身の術式『落落雷雷』を意図的に使わない。師である冥冥から「術式に頼りすぎる術師は長生きしない。まずは圧倒的な体術と、効率的な呪力操作を極めなさい」と徹底的に叩き込まれているからだ。
呪霊の群れが、一斉に菅公目掛けて躍りかかってきた。
菅公の動体視力が、浅黒い闇の中で呪霊の軌道を正確に捉える。
一番手に迫った巨大なムカデ型の呪霊に対し、菅公は右足を踏み込んだ。衝撃で洞窟の岩盤が小さく爆ぜる。
「——ふッ!」
放たれた右のストレート。178センチの体躯から生み出される圧倒的な質量に、極限まで圧縮された呪力が乗る。
ズドン! と凄まじい打撃音が洞窟内に轟いた。
拳が直撃した呪霊の頭部は、一瞬で形を失って飛散し、後ろに控えていた二体の呪霊をも巻き込んで壁へと激突した。
「な……!?」
歌姫が思わず息を呑む。術式の発動動作は一切ない。純粋な肉体性能と、完璧に制御された呪力のみによる一撃破壊。
菅公の動きは止まらない。
左から襲い来る手足の生えた呪霊の攻撃を、最小限の頭部の動きでかわすと、そのまま軸足を回して流麗なハイトルクの回し蹴りを叩き込む。
ガシャアン!
甲高い音とともに呪霊の外殻が破砕され、紫色の体液が壁に飛び散った。
群がる呪霊の隙間を滑るように泳ぎ、あるいは踏み込み、菅公はただの拳と蹴りだけで呪霊を粉砕していく。
踏み込みの美しさ。無駄のない呪力の流動。敵の攻撃の軌道を完全に読み切った見切り。
それはまるで、熟練の武術家が舞を納めているかのような洗練された戦闘風景だった。
(なんなの、この子……!? 本当に12歳なの? 術式を一切使わずに、二級の群れを素手で……!)
歌姫は驚愕のあまり言葉を失っていた。菅公の戦闘スタイルには、冥冥の指導を感じさせる冷徹な効率性と、土師家という至高の血脈がもたらす天性の才能が融合していた。
「——これで最後です」
菅公が最後の一体の頭部を踏みつぶすと、洞窟内に再び静寂が戻った。
彼の衣服には一切の汚れもなく、息一つ乱れていない。菅公は歌姫振り返ると、照れくさそうに微笑んだ。
「お待たせしました、歌姫さん。奥へ進みましょう」
「あ、ええ……すごいわね、菅公くん。本当に見事な体術だったわ」
素直に称賛を送る歌姫。その言葉に、菅公の心がかすかに跳ねた。
(やっぱり、すごく素直で可愛い人だ。褒められると、悪くない気分だな)
菅公は胸の中でそう思いながら、先へと足を進めた。
◇
洞窟の最奥部は、広大な地下空洞となっていた。
中央には古い石造りの祭壇のようなものがあり、そこに一人の男性が太い呪力の糸で縛り上げられている。衣服の胸元には『窓』の紋章。意識を失っているが、かすかに呼吸はある。生きている。
「よかった、生きているわ!」
歌姫が駆け寄ろうとした瞬間、空洞の天井から禍々しいほどの呪気が一気に吹き出した。
「グガアアアアアッ!」
天井の闇から崩れ落ちるように降り立ってきたのは、これまでの呪霊とは格の違う異形だった。
巨大な人間の胴体に、百本の蜘蛛の脚が生えたような姿。その顔面には目も鼻もなく、縦に大きく裂けた口から不快な蒸気を吐き出している。
一級——いや、特級に片足を突っ込んでいるクラスの個体だ。
「ガァ……エサ……新シイ……エサ……殺ス……殺ス……!」
呪霊の口から明確な言葉が漏れる。それと同時に、洞窟全体を揺るがすほどの圧倒的な殺意と威圧感が、二人に向かって放たれた。
「くっ……この規模の呪霊が隠れていたなんて……!」
歌姫が身構える。
その横で、菅公の雰囲気がガラリと変わった。
さきほどまでの柔らかく穏やかな12歳の少年の気配は完全に消え去っていた。
菅公の瞳から光が失われ、凍てつくような絶対的な冷血さがその表情を支配する。
菅公には、自分の中で定めている絶対のルールがあった。
『僕に、そして味方に明確な敵意と害意を向けた相手は——皆殺しにする』
情赦、手加減、交渉の余地はない。敵対する者は、その存在の根底から消し去らなければならない。それが土師の血を引く者の誇りであり、菅公の生き様だった。
「歌姫さん」
菅公の声は低く、平坦だった。
「救出対象の保護をお願いできますか。あいつは……僕が殺します」
「菅公くん!? でも相手は一級以上の危険度よ! 私も戦うわ。私の術式で支援する!」
歌姫は毅然とした表情で言い放つと、その場で印を結び、軽やかな足取りで舞い始めた。
「術式『単独禁区(そろそろきんく)』——!」
彼女の口から美しく響く歌声と祝詞。その舞とともに、周囲の空間に聖なる結界が張り巡らされる。
歌姫の術式は、特定領域内における自身および味方の呪力出力・効力を一時的に底上げする大技だ。本来なら一定時間の神事と構成を必要とするが、彼女の卓越した技術により、短時間で効果が発揮される。
(……すごい。僕の体内の呪力が、溢れ出てくる……!)
菅公は自分の体内で爆発的に高まる呪力を感じた。普段の120%以上の出力が、身体の隅々にまで行き渡る。
(美しくて、舞も完璧で……歌姫さんは本当に素晴らしい術師だ。なら、その援護に最高の結果で応えないと)
菅公は深く息を吐き、封印していた自身の術式を解き放った。
「呪霊」
菅公がぽつりと呟く。
「お前は、敵だ」
次の瞬間、菅公の全身からバチバチと激しい青白い火花が散った。
洞窟内の空気が一瞬で乾燥し、強烈なオゾン臭が漂う。菅公の術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』が、その真価を現そうとしていた。
「ギガアアアッ!」
危機感を察知した異形呪霊が、数百本に及ぶ鋭利な脚を一斉に繰り出し、津波のような質量で菅公へ襲いかかる。
菅公は逃げない。右手の食指と中指を立て、呪霊に向けて突き出した。
「術式順転——『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』」
バチィンッ!
菅公の指先から、眩いばかりの雷光が放出された。
それは単なる電気の放電ではない。超高密度の呪力を帯びた直撃雷だ。雷光は一瞬で空間を焼き裂き、押し寄せる呪霊の脚の群れを途中で蒸発させながら、その胴体へと突き刺さった。
ドッカアアアアン!
「ギャアアアアアッ!?」
爆風と雷鳴が洞窟内を吹き荒れる。呪霊の巨躯の一部が吹き飛び、狂乱した呪霊は激痛に身をよじらせながら、残った全呪力を集束させて菅公へと躍りかかった。空間全体を押し潰さんとする殺意の濁流。
だが、菅公の瞳には、それすらも鈍臭いスローモーションにしか映っていなかった。
「敵対するなら……塵一つ残さない」
菅公は体内の呪力の流れを逆転させた。
「術式反転——『雷化舜動(らいかしゅんどう)』」
次の瞬間、土師菅公という人間の存在が、一瞬にして『純粋な雷光』へと変換された。
光速。
それは物理法則の極限であり、この世で最も速い事象。
呪霊が腕を振り下ろすその数ミリの動作の間に、菅公はすでに光速の領域へと突入していた。
——シュンッ。
音すら置き去りにされた世界。
呪霊の視界から菅公の姿が消えたのではない。認識することすら不可能な速度で、菅公はすでに呪霊の真頭上に位置していた。
雷化状態での行動。それは、質量を持った光速の移動と同義である。
ただの拳、ただの蹴りが、運動エネルギーの法則を著しく逸脱した「常識外れの破壊力」へと変貌する。
「ツッ——!」
菅公が上空から振り下ろした右足の踵落とし。
それが呪霊の脳天に命中した。
ドドドドドカアアアアアアアンッ!!!!!
光速の蹴りが生み出した衝撃波は、音速を超えて空間を歪ませた。
呪霊の巨大な頭部から胴体にかけて、まるで薄いガラス細工のように一瞬で粉砕されていく。肉が引きちぎられ、骨が砕け、細胞レベルで崩壊が始まる。
しかし、菅公の手緩めはない。「皆殺し」の哲学は、完全に滅ぼすまで終わらない。
空中から着地した菅公は、崩れ落ちる呪霊の残骸に向かって両手をかざした。
「逃がさないよ。拡張術式——『死苦発苦(しくはっく)』」
菅公の手のひらから、不可視の強力な超高周波電磁波が放射される。
空気を引き裂く異様な磁界が発生し、洞窟内のあらゆる物質、そして呪霊を構成する呪力そのものが強烈な磁力によって狂暴に引き合い、反発し合った。
「……ッ!?」
逃げ出そうとしていた呪霊の微細な肉片、そして漂う残存呪力が、強力な磁界の渦に巻き込まれる。
分子レベルで引き裂かれ、破砕される絶望的な破壊。呪霊の叫び声すら、磁場と電磁波のノイズによってかき消された。
メキメキ、ミシミシと空間そのものが軋み、磁力に反応した呪霊の存在そのものが、文字通り無へと帰されていく。
数秒後。
菅公が手を下ろすと、そこには呪霊の残骸どころか、紫色の体液一滴すら残っていなかった。
存在した痕跡そのものが、電磁と雷光によって消滅させられたのだ。
洞窟内に訪れたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
◇
「……嘘、でしょ……」
術式『単独禁区』の舞を終えた歌姫は、その場に呆然と立ち尽くしていた。
準特級相当の呪霊。それが、術式を解放した途端に一分もたたずに消滅した。
指先からの稲妻、目にも留まらぬ(どころか認識すら不可能な)超絶的な速度での一撃、そして空間の呪力ごと敵を磨き潰した電磁の嵐。
(なんなのこの子……『雷化舜動』……? 今、光の速度で動いたの……!? 12歳で、こんな規格外の術式と戦闘力を持っているの……!?)
五条家の先祖とされる『土師家』の血。そして冥冥の弟子。
その肩書が伊達ではないことを、歌姫は身をもって思い知らされていた。
「歌姫さん」
ふと声をかけられ、歌姫はハッと我に返った。
そこには、全身の雷光を消し、穏やかな笑顔を浮かべた菅公が立っていた。178センチの長身を折り曲げるようにして、歌姫の顔を覗き込んでいる。
「『窓』の方の保護、ありがとうございます。怪我は……なさそうですね」
「あ、ええ! うん、命に別条はないわ。意識を失っているだけだから、すぐに連れ出せば大丈夫……」
歌姫は少し動揺しながらも、必死に先輩としての意地を保とうと答えた。
そんな歌姫の姿を見て、菅公の目元が緩む。
(やっぱり、すごく可愛い人だ。一生懸命で、真面目で、自分の役目をちゃんと果たそうとしてる)
菅公はそっと『窓』の男性を背負い上げると、歌姫に向かって爽やかに微笑んだ。
「さあ、帰りましょう歌姫さん。外は雨が降っているかもしれないから、早く降りないと」
「ええ……そうね。行きましょうか」
二人は崩れかけた洞窟を後にし、高知の深い山道を歩き始めた。
雲の切れ間から、かすかに刺し込む陽の光が、二人の足元を照らしている。
「あのね、菅公くん」
「はい?」
「今回の件……本当に助かったわ。あなたの力は凄まじいけれど、どうかその力を過信しないで、これからも気を引き締めてね」
真面目な顔でそうアドバイスを送ってくる歌姫。
菅公は胸の中で温かいものが広がるのを感じながら、心からの笑みを返した。
「はい、歌姫さん。また……あなたと一緒に任務に行けたら嬉しいです」
「ふふ、私でよければいつでも。でも、今度はもう少し手加減してちょうだいね。心臓が持たないわ」
歌姫の軽やかな笑い声が、高知の山々に響く。
菅公は彼女の綺麗な横顔を盗み見ながら、また一つ、術師としての戦いに身を投じる理由を見つけたような気がしていた。
いや〜、良いですね歌姫先生 流石は呪術廻戦、唯一の癒しキャラ。
評価してくださった前島亜美さん、無音1385さん、馬超さんそして感想を送ってくれた日本万歳さん本当にありがとうございます。コレからも皆様の感想と評価をお待ちしております☆