言葉を選び抜き、美しい筆跡で墨を落とすその手の動きには、十二歳という年齢にそぐわない冷徹な格調が宿っていた。
「――『土師菅公(はじすがきみ)』。立派な名だろ、菅公」
幼い頃、父である土師宗矩(はじのむねのり)は、自らの膝の上に僕を抱き上げながらそう語ってくれたものだった。
菅原道真公――かつて日本史上最強の怨霊にして、平安の天変地異を統べた雷神。その道真公のさらに起源に位置する古の血脈、それが『土師家(はじけ)』である。五条家の先祖でもある菅原の、さらに根源たる土師の血潮。
十二歳にして、身長は一七八センチメートル。
大人をも見下ろすほどの恵まれた体躯と、その体内に渦巻くのは、血脈の先祖たちが残した呪力の奔流だった。漆黒の髪を短く切り揃え、鋭い眼光を秘めた僕は、静かに一筆一筆、和紙の上に墨を滑らせていく。
『果たし状』
宛先は、現代呪術界の頂点。東京都立呪術高等専門学校教師、特級術師――五条悟。
筆を置き、乾ききらない墨文字を見つめながら、僕は小さく息を吐き出した。胸の奥で燻り続けているあの日の光景が、鮮明な熱を帯びて蘇ってくる。
あれは、僕がまだ七歳の頃のことだ。
父の伴として訪れた五条家の広大な屋敷。静寂の立ち込める回廊の向こうから、不意に現れた一人の青年。
白銀の髪を揺らし、青い瞳――あらゆる呪力を看破する『六眼』を輝かせた高専時代の五条悟。
当時の彼は、ただそこに立っているだけで周囲の空間そのものを歪ませているかのような、絶対的な異物感を放っていた。
「へえ……土師の坊んか。いい呪力持ってんじゃん」
フワリと軽い調子で僕の頭に手を置いた、あの男の圧倒的な存在感。
全身の毛穴が収縮し、心臓が爆ぜるような恐怖。そして同時に湧き上がったのは、狂おしいほどの憧憬だった。
――強い。あまりにも、圧倒的に。
あの背中に追いつきたい。あの絶対的な高みに、僕自身の腕で手を伸ばしたい。
その想いが、僕の生きる指針となった。
五条悟に会う二年前――僕が五歳の時には、父に連れられて御三家の一つである禪院家にも足を踏み入れ、同い年の真希と真依に会ったことがある。
落ちこぼれとして蔑まれ、暗い部屋の隅で肩を寄せ合っていた二人。けれど、僕は彼女たちの瞳の中に消え残る強い光を知っていた。
「菅公くん、また遊んでくれる……?」と裾を掴んできた真依の手の温もりや、「アタシは強くなる」と唇を噛みしめていた真希の決意。あの二人とは今でも親しい仲であり、僕にとって数少ない『殺す価値のない、守るべき友人』だった。
だが、あの二人への親愛とは全く異なるベクトルの激情が、五条悟という存在にはあった。
「……菅公。本当に、後悔はないな?」
静かな声が、部屋の空気を揺らした。
振り返ると、父・土師宗矩が重々しい表情で畳の上に座していた。その隣には、黒のスーツに身を包み、銀髪の三つ編みを垂らした美しい女性――僕の師である冥冥(めいめい)が、優雅に髪を弄びながら脚を組んでいる。
「後悔なんて、あるわけがないよ、父様」
僕は一人称を「僕」と呟き、冷ややかな笑みを浮かべた。
五条悟というあまりにも巨大な目標に追いつくため、僕は自らの意思で父に頼み込み、冥冥に師事した。
冥冥を選んだ理由は明確だ。彼女は徹底した合理主義者であり、金以外の概念に惑わされない。そして何より、術式に頼らない純粋な「体術」と「呪力操作」の極致を知る術師だったからだ。
「僕の術式――『落落雷雷(らくらくらいらい)』は強力すぎる。だからこそ、普段の鍛錬や通常の戦闘では意図的に術式を封印してきた。冥冥師匠の元で叩き込まれた体術と素手だけで、大抵の敵は殺せるようになったからね」
そう、僕の戦闘の基本理念は単純だ。
『敵対する相手は、皆殺しにする』。
容赦も、情けも掛けない。戦場に立った時点で、相手はただの肉塊へと変わる運命にある。
「ふふ、実に素晴らしい仕上がりだよ、菅公」
冥冥が妖艶な笑みを深め、胸元の札束(報酬)の感触を思い出すかのように目を細めた。
「君の肉体性能と呪力出力は、すでに並の特級を凌駕している。私が仕込んだ体術に、君自身の天賦の才が融合した。だが……相手はあの五条悟だ。いくら君が『雷化舜動』や『死苦発苦』、あるいはあの凶悪な領域『桑原桑原』を隠し持っていようと、無下限呪術を突破できなければ死に行くだけだよ?」
「分かっているよ、師匠。だからこそ『死合い』なんだ」
僕は自筆の果たし状を丁寧に折り畳み、五条家の家紋が押された封筒へと収めた。
「僕の力が、現代最強の術師にどこまで通用するのか。僕の『落落雷雷』が、彼の『無下限』を穿つことができるのか。それを確かめるためには、互いに命を懸けた殺し合いでなければ意味がない」
土師宗矩は深く息を吐き、息子の顔を見つめた。十二歳にして、一七八センチの体躯に宿るその覚悟。血脈の重圧をその背に負い、最強へ挑もうとする我が子の瞳に、もはや翻意の余地がないことを悟っていた。
「果たし合いの場所は……高専地下、『薨星宮(こうせいきゅう)』とする」
父・宗矩が言った。
「天元様の結界内部であれば、どれほどの呪力が狂い咲こうとも地上への被害は最小限に抑えられる。高専側、そして五条悟本人へはこの果たし状と共に、私と冥冥の名で正式に申し入れる」
「結構だね」
冥冥が立ち上がり、黒い革手袋をはめ直した。
「五条悟との死合い……観戦料としては破格の価値がある。最高の特等席で見届けさせてもらうよ、菅公」
「ありがとう、師匠。父上」
僕は果たし状を胸に抱き、静かに目を閉じた。
胸の中で、雷鳴が轟いていた。指先が、肌が、全身の細胞が、間もなく訪れる歓喜の殺戮と死闘を予感して震えていた。
果たし状が五条家に届けられた翌日、五条悟からの返答は拍子抜けするほどあっさりと戻ってきた。
『面白そうじゃん。いいよ、お遊びに付き合ってあげる』
一枚のメモ用紙に殴り書きされたその言葉。だが、そこに込められた圧倒的な絶対者の余裕こそが、僕の血を何よりも熱く滾らせた。
――約束の日。
東京府立呪術高等専門学校。その地下深くに存在する、結界の基盤――薨星宮。
千年の時を重ねた古代の参道のような本殿の前、静寂が支配する巨大な空間に、足音が響き渡る。
コツン、コツン。
「やあ、待たせたね」
白い髪を逆立て、黒の目隠しを付けた高丈の男――五条悟が、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、軽やかな足取りで歩み出てきた。
その背後、少し離れた柱の影には、腕を組んで佇む父・土師宗矩と、巨大な斧を肩に立て掛けた冥冥が見守っている。
「……久しぶりだね、五条さん。五条家の屋敷で会って以来かな」
僕は静かに前に踏み出した。十二歳の僕の視線は、身長一九〇センチを超える五条悟の顔とほぼ水平に近い位置にある。
一七八センチの体躯に充填された、極限まで練り上げられた呪力。僕の全身から発せられるプレッシャーに、空間が微かに軋む音を立てた。
「へぇ……」
五条悟が目隠しの下で、ニヤリと口角を上げた。
「あの時のチビっこが、随分でかくなったな。それに……うん、いい面構えだ。土師の血、そして冥さんの仕込みか。気合入ってんじゃん」
「お遊びのつもりなら、一瞬で死にますよ」
僕は冷ややかに言い放ち、構えを取った。
通常の戦闘スタイル。術式はまだ使わない。
まずは冥冥師匠から受け継いだ体術と、限界まで高めた呪力操作のみで、この『最強』の領域に踏み込む。
「ハッ、言ったねぇ!」
五条悟が目隠しに手をかけ、ゆっくりとそれを引き下げた。
露わになる、蒼穹の如き『六眼』。
世界そのものを俯瞰する神の瞳が、僕の存在を捉える。
「いいよ、菅公。君がどれだけ僕に届くのか――試してごらん」
互いの距離、およそ十メートル。
薨星宮の空気が、固形物のように重く緊張した。
僕の足元で、青白い火花がバチバチと弾けた。
術式『落落雷雷』の発動ではない。ただ、僕の昂ぶる呪力が大気を放電させているのだ。
(いくぞ、五条悟――)
僕は前傾姿勢になり、地面を蹴る寸前、全身の筋肉を極限まで収縮させた。
最強の術師と、雷神の血を引く少年。
二人の『死合い』の火蓋が、いま落とされようとしていた。
(次話へ続く)
呪術師に果たし合いなんてあるのか?とも考えたんですがやはり五条悟との死合いなら果たし合い形式の方がカッコイイだろうと思いこういう流れにしました。次回いよいよ本格的な死闘が始まります。お楽しみに。