天を突き刺す幾千の黄金鳥居と、視界を覆い尽くす無限の雲海。その神域の如き空間から降り注ぐ数億の雷霆——土師菅公が展開した領域『桑原桑原』の凄絶なる雷光。
それに対し、空間そのものを無限の情報で塗りつぶす五条悟の領域『無量空処』。
現代呪術界の絶頂に君臨する「最強」と、千年の歴史を遡る菅原道真のさらに先祖、土師家の末裔たる十二歳の異才。二つの絶対的な結界が重なり合い、押し合い、互いの理を激しく削り削り合っていた。
空間が悲鳴を上げる。大気がガラスのように軋み、歪み、限界を迎える。
直後、目も眩むような閃光と衝撃波が世界を破裂させた。
パリィン——!
世界が割れる澄んだ音と共に、互いの領域が崩壊する。舞い散る黒い呪力の破片。晴れ渡る視界の中に残されたのは、圧倒的な静寂だった。
立っていたのは、五条悟。
その足元には、全身から煙を上げ、ピクリとも動かず泥の中に倒れ伏す一人の少年——土師菅公の姿があった。
十二歳にして身長百七十八センチという、大人顔負けの恵まれた体躯。しかし、その巨躯は今や『無量空処』が与えた無限の知覚・伝達の奔流に呑まれ、脳の機能を完全に停止させているように見えた。
六眼を隠す目隠しの下で、五条は小さく息を吐き出す。領域の押し合いによる術式の焼き切れ。脳に圧迫感はあるものの、五条の立ち姿には微かな揺らぎすらない。
「……惜しかったね。十二歳でここまで僕の領域と押し合えるなんて、歴史上君くらいのものだ。だけど、終わりだよ。菅公」
勝敗は決した。五条は吐き捨てるようにそう宣言すると、背を向け、一歩を踏み出した。
敵対する者は、例え誰であれ皆殺しにする——そんな凶烈な殺気を放っていた少年は、いまや沈黙している。
そう、誰もが信じて疑わなかった。
だが。
ドクン、と。
倒れ伏していた菅公の身体が、人間を超越したバネのように跳ね起きた。
一切の予兆も、呪力の立ち上がりすら感じさせない無音の跳躍。背を向けた五条悟の死角へと、菅公は牙を剥いて肉薄する。
(——なっ!?)
五条の六眼が、背後の異変を捉える。しかし、領域を展開した直後の五条には、今『無下限呪術』の防壁が存在しない。術式が焼き切れ、自動ガードが機能しない一瞬の空白。
菅公の瞳には、感情の欠片もなかった。ただ死光のような冷徹さだけを宿し、彼は己の全体重と呪力を一点に集約させた拳を振り抜く。
五条が振り向くよりも早く。ガードの体勢を取るよりも早く。
躊躇なき拳が、五条の側頭部へ直撃する瞬間。
歪んだ空間から、黒い稲妻が爆ぜた。
空間が歪む。空間の歪みに呪力が合致した時にのみ生じる、空間のひずみ——
『黒閃』。
ドガァァァァンッ!!
「ぐっ……!!」
あの五条悟の口から、苦悶の呻きが漏れた。通常の打撃の二点五乗という絶大な威力を誇る黒閃の衝撃が、無防備な五条の脳を直撃し、その巨体を横合いへと吹き飛ばす。
しかし、菅公は止まらない。
地面を蹴り裂き、光速に近い踏み込みで五条の着地を許さず追撃する。
なぜだ。なぜ、無量空処を直撃した人間が動ける?
莫大な情報量が脳に流し込まれ、廃人となるはずの絶対不可避のハメ技を喰らって、なぜ即座に死角からの黒閃を叩き込めるのか?
答えは、菅公の狂気的なまでの死線への計算にあった。
領域の押し合いにおいて、己の『桑原桑原』が五条の『無量空処』に押し負けると悟ったそのコンマ数秒前。
菅公は自らの呪力操作を用い、意図的に己の脳の一部(思考や知覚を司る領域)を微小に破壊していたのだ。
情報を受け取る器そのものをあらかじめ自ら壊すことで、無量空処によって流し込まれる不可逆な情報洪水の「受信」を物理的に回避する。
そして、領域が崩壊し空間が解ける完璧なタイミングを算出し、壊した脳組織へ『反転術式』が遅延発動するように、脳の別部位へ事前にプログラムを施していた。
領域が解けた瞬間に反転術式が作動し、脳が再生。即座に身体の自由を取り戻す。
己の脳を自ら爆破し、秒単位で再生させる——死と隣り合わせの超絶技巧。五条悟という頂を穿つためだけに菅公が仕掛けた、命懸けのトラップ。
「……あァァぁぁっ!!」
菅公の口から、獣のような叫びが漏れる。
二発目——『黒閃』!
三発目——『黒閃』!
赤黒い閃光が連続して夜気を引き裂く。
領域使用後の術式不全を起こしている五条悟に、防ぐ術はない。菅公の拳が五条の顔面、胸骨、腹部を叩き割り、黒閃の嵐が最強の男の身体を苛む。
冥冥の下で死ぬ気で鍛え上げた体術。
菅公は父である土師宗矩の紹介により、自らの意思で冥冥に弟子入りしていた。理由はただ一つ。「五条悟を超えるための力」を得るためだ。金にがめつく、しかし合理性と肉体の極限を熟知する冥冥のシビアな指導のもと、菅公は「術式に頼らない素の体術と呪力操作」を極限まで研ぎ澄ましてきた。
普段の戦闘では、菅公は意図的に術式を使わない。術式順転『飛雷遠雷』も、反転『雷化舜動』も、拡張術式『死苦発苦』も、領域展開『桑原桑原』すらも封印し、ただ鍛え上げられた肉体と拳だけで敵を屠る。敵対者は一切の情け容赦なく皆殺しにするのが菅公の流儀だった。
その徹底された体術の切れ味が、今、五条悟を追い詰めている。
高専時代、五条家の屋敷で初めて出会ったあの日の五条悟。
白髪を揺らし、天の上の存在として自分を見下ろしていたあの圧倒的な男。
そして、五条家と同格の古老たる禪院家の屋敷で、五歳の時に出会った同い年の真希と真依。落ちこぼれと蔑まれながらも肩を寄せ合っていた姉妹と過ごした温かい時間。あの二人を守り、そしてあの男をを引きずり下ろすために、自分は強くなければならなかった。
(届け……! 届いてくれ、僕の拳……!!)
一気に畳み掛けようと、菅公は四発目の黒閃を五条の首頸めがけて振り下ろす。
しかし。
勝負の神様は、あまりにも酷だった。
寸で。本当に、髪の毛一筋の寸でのところで。
五条悟の脳内で、焼き切れていた術式回路が回帰する。超高度な反転術式による脳の自己修復。
菅公の渾身の拳が、五条の首筋に触れる直前——
ピタッ、と。
絶対的な「距離」が、二人の間に介入した。
無限だ。
「……見事だよ、菅公。まさか僕の脳を揺らすところまでやるとはね」
五条の声が、冷たく響く。
五条の周囲に展開された『無下限呪術』。菅公の拳は、どれほど呪力を込めようと、どれほど腕を伸ばそうと、永遠に五条悟へと届かない。
「でも、届かない。これが僕と君の、絶対的な差だ」
ドッ……!!
無下限の斥力が開放され、菅公の肉体は弾き飛ばされた。
数百メートル先まで大地を削りながら滑落し、岩盤へと激しく激突する。
「ガハッ……! ぐ、あ……ッ!!」
肋骨が砕け、肺が潰れる。口から大量の血を吐き出しながら、菅公は岩壁に埋もれた。
全身の筋肉が断裂し、反転術式を回す呪力すら底をつきかけている。
絶望的な敗北。
十二歳の少年が、現代最強に挑んだ結末。
五条はゆっくりと歩み寄ってくる。その姿はあまりにも遠く、どこまでも高い。
(負ける……? 僕が……? こんなところで……!?)
菅公の脳裏に、渦巻くような感情が噴出し始めた。
敗北への「恐怖」。
届かない己の不甲斐なさに対する「怒り」。
最強という理不尽に対する「憎しみ」。
砕けた肉体が訴える激痛という名の「苦痛」。
それらドロドロとした負の感情が、菅公の体内で爆発的に融合し、臨界点を超えて暴発する。
呪力回路が、軋みを上げて逆流する。
「あ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」
菅公の叫びと共に、彼の全身から湧き立つ呪力が変質を始めた。
それまで青白く、神聖にすら見えていた『落落雷雷』の稲妻。
それが、ドス黒く、禍々しい「赤」へと染まり上がっていく。
不完全なる狂気の覚醒。
「なに……!?」
五条悟の六眼が、目隠しの下で大きく見開かれた。
菅公の体内から溢れ出る呪力量が、底無しに跳ね上がっている。十二歳の肉体という器を完全に無視した、過剰すぎる呪力の暴走。
菅公は血走った両目で五条を睨みつけ、赤き雷を身に纏って突進した。
「飛雷……遠雷えぇぇぇッ!!」
術式順転。しかし放たれたのは、通常の青白く繊細な稲妻ではない。
全感情の暴発によって赤く変質した、凶暴極まりない血の色の雷光。
ドゴォォォォォォォォンッ!!
赤き雷撃が、五条の展開する『無下限』の防壁に激突する。
通常であれば、どんな術式であろうと無下限の無限空間を突破することはできない。
しかし——
ギギギギギギギギッ……!!
「つっ……!?」
五条の表情が変わる。
なんと、菅公の赤き雷は無下限の空間そのものを「侵食」し、その防壁をバリバリと削り取り始めたのだ。
無限を侵す、赤き落落雷雷。
呪力が、概念の壁を破壊しかけている。赤き稲妻が五条の鼻先数センチまで迫り、五条の白髪が雷圧によって焦げ落ちる。
「本当に……恐ろしい子だね、君は……!!」
五条悟の顔に、今日一番の、いや人生でも数少ない真剣な戦慄が走る。
この少年を今ここで止めなければ、いずれ自分の「最強」すらも粉々に噛み砕かれるのではないかという、本能的な危機感。
しかし。
奇跡の侵食は、そこまでだった。
バリッ……と、虚空を割るような音が響き、赤き雷が途絶える。
「……あ」
菅公の口から、弱々しい声が漏れた。
覚醒した力はあまりにも絶大であり、そしてあまりにも過剰だった。
十二歳の若すぎる精神と肉体は、その暴発した呪力の激流に耐えきれず、内部から焼き切れようとしていたのだ。
脳の限界。精神の崩壊。
赤く染まっていた雷光が、潮が引くように霧散していく。
「……五条さん……僕は……」
血に濡れた目で五条を見つめたまま、菅公の膝が折れた。
視界が真っ暗に染まっていく。半覚醒を果たした精神が、圧倒的な負荷に耐えかねて途絶える。
バタン、と。
土師菅公の体は、今度こそ完全に意識を失い、冷たい地面へと崩れ落ちた。
静寂が戻る。
残された五条悟は、焦げた前髪を触りながら、倒れた少年の姿を見下ろしていた。
無下限の防壁を破りかけた赤き雷の余韻が、今も大気に不気味に残っている。
「……生きててよかったよ、本当」
五条はぽつりと呟くと、目隠しを直した。
倒れた十二歳の天才の背中に、冷や汗が背筋を伝うのを感じながら。
コレにて土師菅公vs五条悟は終了です。やはり最強にはそう簡単に届きません。しかし、菅公の更なる覚醒の序章もまた始まりました。彼がどの様に更なる高みへ行くのか楽しみにお待ち下さい。皆様の感想と評価をお待ちしております。