呪術高専の医務室には、特有の消毒液と薄っすらとした線香の混ざり合ったような香りが充満している。
午後三時。窓から差し込む斜陽が、白いベッドのシートを橙色に染めていた。
そのベッドの上で、十二歳にして百七十八センチという、大人顔負けの大躯を横たえている少年がいた。土師菅公(はじすがきみ)。呪術の祖たる菅原道真、そのさらに源流に位置する土師家の血を引く少年である。
彼の指先からは、チチ、と蚊の鳴くような微細な放電音が漏れていた。
菅公の細い指先は、細い充電ケーブルの端子部分に寸分の狂いもなく触れている。その先で光っているのは、彼自身のスマートフォンだ。画面の右上に表示されたバッテリーアイコンは、徐々に緑色の領域を広げ、いまや「九十九%」を示していた。
「……ふぅ。九十八、九十九……よし、百%」
菅公は小さく息を吐き出し、呪力の供給をぴたりと止めた。
自身が帯びる生体呪力を、精密に電気エネルギーへと変換し、精密機械であるスマートフォンに流し込む。一見すれば地味な作業だが、これは極めて高度で狂気的な呪力操作の訓練であった。
スマートフォンという機器は、機種やバッテリー規格によって受け入れられる電圧や電流の上限が厳密に定められている。過剰な電流を流せば基板は一瞬で焼け落ち、ショートして爆発する。逆に少なすぎれば充電は起動しない。
菅公は自身の体内に巡る高出力の呪力を、マイクロアンペア、ミリボルト単位で厳密に制御し、常に最適な電力を生成し続けていたのだ。
「終わったかい、菅公」
パイプ椅子に深々と腰掛け、灰皿に煙草の灰を落としながら、家入硝子がだるそうに声をかけてきた。
「はい、硝子さん。今日も無事にオシャカにせず充電できました。僕の呪力変換の精度も、少しずつですが繊細さが増している気がします」
「まったく、夜蛾学長もよくこんな訓練許可したもんだよ。一歩間違えれば医務室でボカンだぞ。まあ、今の君の呪力コントロールなら、そこらの一級術師よりよっぽど器用だろうけどね」
「許可をいただいた以上、失敗するわけにはいきませんから。それに……今の僕は、こうしてベッドの上で指先を動かすことくらいしかできませんし」
菅公は苦笑いを浮かべ、自分の胸元を見つめた。
一週間前の前代未聞の死闘。
現代最強の呪術師、五条悟との果たし合い。
当時十二歳にして一級術師に迫る実力を持ち、異端と称された菅公は、自らの意思で五条悟に挑んだ。結果は、一週間の昏睡状態に陥るほどの惨敗。目覚めてから四日経った今もなお、全身の筋肉と呪力経路が悲鳴を上げており、自力で起き上がることすらままならない。
「五条の奴も手加減ってものを知らないからねぇ……相手が十二歳の子供だってのに、あんなボロボロにして。まあ、死ななかっただけ御の字だよ。君の術式反転の自衛がなけりゃ、今頃は骨壺の中だった」
硝子は呆れたように煙を吐き出したが、その瞳には菅公に対する底知れない驚嘆が宿っていた。
あの五条悟の「無下限呪術」に対し、この少年は自らの命を掠め取るような激戦を演じたのだ。高専の歴史においても、これほどまでに無茶で、かつ生きて戻ってきた術師は存在しない。
「手加減なんてされたら、僕が五条さんに失礼です」
菅公の瞳に、静かな熱が宿る。
彼が術師としての道を本格的に歩み始めたのは、幼い頃に五条家の屋敷で見た、高専時代の五条悟の姿が焼き付いていたからだ。天を突くような圧倒的な存在感、全てを見下ろす蒼い瞳。あそこに届きたい、あの高みに立ちたいという狂おしいほどの憧憬。
そのため、菅公は父である土師宗矩(むねのり)の紹介を経て、自らの意思で一級術師・冥冥に弟子入りした。
守銭奴として名高い冥冥だが、術師としての手腕と鍛錬の合理性は本物だった。菅公は彼女の元で、徹底的な体術の叩き込みと、効率的な呪力運用の極意を学んだ。
『菅公、術式というのはカードだよ。見せびらかして使うものじゃない』
師である冥冥の教えを守り、菅公は通常の戦闘において意図的に自身の術式『落落雷雷』を使わない。肉体言語と基礎呪力の強化のみで敵を粉砕する。そして、彼の根底にあるもう一つの残酷な流儀。
――僕と敵対する者は、全員殺す。
そこに妥協も交渉もない。立ち塞がる害虫は、呪霊であろうと人間であろうと、跡形もなく消し去る。その冷酷な徹底ぶりこそが、彼を「呪術界の異端児」とまで言わしめる所以であった。
「……それにしても、退屈ですね」
菅公はスマホをサイドテーブルに置き、天井を仰いだ。
「暇かい? 暇なら禪院の双子に連絡でもしてみたらどうだ。そうとう心配してたみたいだぞ」
「……真希と真依ですか。そうですね、あとでメッセージを送ってみます。二人を心配させっぱなしにするのは、僕の本意ではありませんから」
菅公の表情が、わずかに柔らかくなった。
五歳の頃、菅公は父に連れられて禪院家の屋敷を訪れたことがある。その際、落ちこぼれとして不当に扱われていた同い年の少女たち――真希と真依に出会った。
血肉を争うような呪術界の泥のなかで、虐げられながらも牙を研ぐ真希と、怯えながらも姉にしがみつく真依。菅公は二人の気高さを気に入り、それ以来、親しい友人として交流を続けていた。
「君は彼女たちには甘いよねぇ。他の奴らには『死ねばいい』みたいな顔してる癖に」
「当然です。僕にとって真希と真依は大切な友達ですが、それ以外の邪魔者はただのゴミですから」
さらりと恐ろしいことを言う菅公に、硝子は「はいはい」と苦笑した。
その時だった。
カツン、カツンと、静かな廊下に規則正しい靴音が響いた。
医務室の扉が滑らかに開き、一人の男が足を踏み入れてくる。
きっちりとしたスーツに、特徴的な丸サングラス。七三分けの髪型と、どこか疲れを滲ませた隙のない佇まい。呪術界において、誰もがその実力と良識を認める一級術師――七海建人であった。
だが、その完璧な着こなしの左肩から腕にかけて、赤黒い血がべったりと染み付いている。
「……家入さん。急ですみませんが、治療をお願いできますか」
七海の低く落ち着いた声が医務室に響いた。
「おや、七海。珍しいじゃないか、君がそんな怪我をして帰ってくるなんて」
硝子は煙草を灰皿に押し付け、すぐに立ち上がった。七海は淡々とスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を破く。そこには、何かに強く削り取られたような生々しい肉腫と滑落した皮膚が露出していた。
「一級相当の変異種です。建造物の構造を利用した不可視の罠を張るタイプでした。……私の見誤りです。労働時間を無駄に引き延ばされた挙句、このざまです」
「はいはい、愚痴はいいから見せな」
硝子は七海の腕に手を当て、反転術式を発動させる。温かな呪力が傷口を包み込み、破壊された細胞が一瞬で再構築されていく。
その光景を、ベッドの上の菅公はじっと見つめていた。
七海建人の戦い。それは数時間前、ある廃工場で行われたものだった。
――回想。
暗雲が垂れ込める廃工場の中、七海は短刀状の呪具を手にしていた。相手は、巨大な蜘蛛のような脚と、工場の鉄骨を自在に歪めて刃に変える特級一歩手前の呪霊。
『キシャァアアア!』
無数の鉄骨が、弾丸のような速度で七海へ向かって飛来する。
七海は即座に間合いを見極めた。
『十種呪法』――対象を「7:3」の比率に強制的に切り分け、その点に弱点を創出する術式。
七海は飛び交う鉄骨の隙間を最小限の動きで縫いぬけ、呪霊の巨躯へと肉迫した。呪霊が繰り出した太い足の「7:3」の地点へ、黒い布で巻かれた鉈状の呪具を正確に叩き込む。
パァン! と空間が弾けるような打撃音が響き、硬質な呪霊の足が一瞬で粉砕された。
『ガァアア!?』
「効率的に終わらせます」
七海は冷徹に呟き、崩れ落ちる呪霊の首元――その「7:3」の黄金比へ向かって踏み込んだ。
しかし、呪霊の死角となっていた天井から、事前に仕掛けられていた磁力のような粘着質の呪力網が急降下してきた。七海は瞬時に察知して体を捻ったが、左腕の肉を大きく持っていかれた。
「チッ……!」
七海は眉一つ動かさず、そのまま空中で体勢を立て直すと、無傷の右腕で呪具を振り抜き、呪霊の頭部を完璧な「7:3」で一刀両断した。
ドサリと倒れ、散っていく呪霊を背に、七海は時計を見た。
「……残業確定ですね。不愉快だ」
――回想終了。
「よし、これで骨も肉も元通りだ」
硝子の治療が終わり、七海は腕を動かして感覚を確かめた。傷口は完全に塞がり、新しい皮膚が再生している。
「助かりました、硝子さん」
「お礼なら五条に言いな。あいつのワガママで私がここに拘束されてるようなもんだからね」
硝子が溜息をつくのと同時に、七海の視線が部屋の奥――ベッドの上に置かれている巨躯の少年に向かった。
十二歳とは思えぬ体格。だが、その顔立ちには幼さと、それを遥かに凌駕する異様な「鋭利さ」が同居している。
そして何より、七海の直感が告げていた。
この少年の体内に眠る呪力は、異次元の荒々しさと繊細さを兼ね備えている、と。
「……はじめまして、七海建人です」
七海は大人として、礼儀正しく頭を下げた。
「土師菅公です。……七海さんですね。冥冥師匠からお噂は伺っています。非常に優秀で、まともな思考を持った数少ない一級術師だと」
菅公はベッドの上で、丁寧に頭を下げ返した。言葉遣いは極めて礼儀正しい。しかし、その瞳の奥には、生半可な術師を一瞥で射殺すような冷ややかな光が宿っていた。
「……あなたが、土師家の。五条さんと果たし合いをしたという噂は本当でしたか」
「はい。結果はこの通り、大敗です。一週間も昏睡して、今も動けません」
菅公はあっけらかんと言い放った。
七海は深く溜息をついた。
「五条さんも五条さんですが、あなたも相当ですね。十二歳という年齢で五条悟に挑むなど、正気の沙汰ではありません。呪術界はただでさえイカれた人間が多いですが……あなたもそちら側の人間ですか」
「イカれている、ですか。失礼ですね。僕は何よりも理知的で、合理的ですよ」
菅公は微笑んだ。その笑みには、幼子のような無邪気さと、絶対的な捕食者の冷徹さが同居していた。
「僕はただ、強くなりたいだけです。最強の頂に立つ五条さんという目標があって、そこに至るための道を歩んでいる。その途中に立ち塞がる障害や、僕に牙を向ける敵をすべて殺して排除しているだけです。至極シンプルな計算式ではありませんか?」
――全員殺す。
その言葉の裏にある凄惨な意思を察知し、七海の眉根がピクリと動いた。
七海はこれまで、多くの呪術師を見てきた。正義感に潰された者、狂気に呑まれた者、保身に走る醜い老人たち。だが、目の前の少年が放つ気配は、そのどれとも違っていた。
純粋ゆえの狂気。絶対的な力への渇望と、それ以外の全てを「無価値」と言い切る酷薄さ。
「……呪術師はクソです」
七海は静かに、しかし断固とした口調で言った。
「誰かのために命を張り、理不尽に磨り潰される。まともな人間が歩むべき道ではない。……ましてや、あなたのような子供が、誰かを殺すことを何とも思わないようなモンスターになるための場所であってはならない」
「七海さん」
菅公の指先から、バチッと小さく青白い火花が散った。
「僕を子供扱いしないでください。僕はこの血と、この術式をもって生まれた。なら、頂点を目指すのは僕の義務であり、本能です。……クソみたいな呪術界だからこそ、僕が全てを力で踏みつぶして、僕のルールで上書きすればいい」
二人の視線が交錯する。
呪術界の泥に嫌気がさしながらも、責任感から歩みを止めない「良心」七海建人。
絶対の強さを求め、敵対者を容赦なく屠る「異端児」土師菅公。
二人の生き方は、根本において相容れない。だが、七海はその少年の眼差しの中に、ある種の「嘘のなさ」を感じ取っていた。不快ではあるが、筋の通った狂気。
「……これ以上、私から言うことはありません」
七海は破れたワイシャツの袖を整え、上着を羽織った。
「ただ、一つだけ。あまり五条さんの真似をして無茶を重ねると、いつか取り返しのつかないことになりますよ。あの人は規格外の化物ですが、あなたにはまだ守るべき肉体がある」
「アドバイス、感謝します。ですが……僕の肉体も、いずれ規格外になりますよ」
菅公はそう言うと、右手の指先を立てた。
その指先に集うのは、単なる呪力ではない。高密度に圧縮され、激しく振動する圧倒的な「雷気」の奔流。
術式順転『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』。
もし彼が今、本気で放てば、この医務室どころか高専の校舎半分を消し飛ばすほどの威力が、その小さな指先に凝縮されていた。だが、菅公はそれを寸前のところで完全に制御し、一瞬で消し去ってみせた。
その脅威的な呪力精度の高さに、七海は密かに息をのんだ。
(……十二歳でここまでの領域に達しているとは。冥冥さんが目を付けるだけのことはある。……だが、危険すぎる)
「では、私はこれで。家入さん、ありがとうございました」
「おう、お疲れさん。また怪我したら来なよ、七海」
七海は最後にもう一度菅公を静かに見つめると、一礼して医務室を去っていった。
パタン、と扉が閉まる。
「……ふう。堅物な人ですね、七海さんは」
「あいつはあいつで、色々と抱え込んでるんだよ。君みたいな規格外のガキが増えると、あいつの胃に穴があく」
硝子が苦笑しながら新しい煙草に火をつけた。
「僕が規格外? まだまだですよ。僕は五条さんに負けたんですから」
菅公はベッドの上で、自分の手のひらをじっと見つめた。
自身の最強の術式。
光速の打撃を生み出す術式反転『雷化舜動』。
磁力を操り肉体すら破壊する拡張術式『死苦発苦』。
そして、数億の雷が降り注ぐ絶望の神域、領域展開『桑原桑原』。
それらすべてを以てしても、五条悟の「不可侵」を完全には破れなかった。
「……待っていてください、五条さん」
少年は、静かに瞳を閉じ、再び体内の呪力を微細な電気へと変換し始めた。
バチバチと、指先で静かに跳ねる小さな雷光。
呪術界の異端児・土師菅公の果てなき爪牙は、傷が癒えるその瞬間を待ちながら、暗闇の中で静かに、そして苛烈に研ぎ澄まされ続けていた。
菅公君は従前たる力の信奉者、力の無い者や中途半端な力の持ち主が自分の前に立ち塞がるのが何よりも嫌いなタイプです。逆に一度自分の懐に入った者は何が何でも守り抜きます。入院シリーズは次回で最後、菅公は再び苛烈な世界に戻って行きます。