京都の静寂を切り裂くように、北野天満宮の境内には冷たい風が吹き抜けていた。
わずか十二歳にして、大人の男を見下ろす百七十八センチの体躯。土師菅公(はじすがきみ)は、黒髪を風になびかせながら、ゆっくりと歩みを進めていた。その瞳には、先ほどまで彼を呑み込んでいた異世界の残り香——かつて雷神と恐れられ、三大怨霊の一角に数えられた己の先祖・菅原道真の生得領域の残滓が、ほのかに揺らめいている。
「……僕を弟子に、か」
菅公は低く呟き、白皙の顔容に冷ややかな嘲笑を浮かべた。道真が去り際に残した『お前は必ず私の教えを求めにやってくる』という不気味な予言。だが、菅公の心は微塵も揺らいでいなかった。彼が目指す頂、彼が求める強さの道標は、最初からただ一人なのだから。
菅公が辿り着いたのは、北野天満宮から少し離れた高級料亭の一室だった。重厚な木造の扉を押し開けると、畳の上に優雅に腰を下ろし、豪勢な和菓子に舌鼓を打つ一人の女性の姿があった。
銀髪を前で編み込み、薄暗い室内でも一際目を引く妖艶な美貌。菅公の師であり、金の匂いに誰よりも過敏な一級呪術師——冥冥(めいめい)である。
「戻ったかい、菅公。随分と長居していたようだが……ほう、その顔。ただの参拝ではなかったようだね」
冥冥は烏の羽を思わせる扇子で口元を覆い、細められた瞳で菅公を観察する。彼女の観察眼からは、菅公の呪力の波形が微かに乱れていることなど容易に見て取れた。
「……冥さん。大変なことが起きました」
菅公は淡々とした口調で、しかし内容は極めて深刻に、北野天満宮の境内で起きた出来事を事細かに説明した。
突然巻き込まれた生得領域、現代に蘇ろうとする菅原道真の存在、そして「今のままではこれ以上の境地には辿り着けない」と冥冥を切り捨てて自分の弟子になれと迫られた誘惑の言葉まで。
言葉を終えた菅公は、深々と冥冥を見つめた。
「菅原道真は、遠からずこの世に完全な形で現世に害をなす……間違いなく、五条悟さんに匹敵するか、あるいはそれ以上の超大型の脅威になります。だから……冥さん、僕にもっと教えを授けてください。今の僕の力じゃ、奴を絶対に殺しきれない」
部屋の中に静寂が落ちる。
冥冥は手にしていた扇子をパチンと音を立てて閉じると、ふっと艶やかな笑みを唇に浮かべた。その瞳には、脅威に対する恐れなど微塵もなく、ただ冷徹で計算高い、しかしどこか満足気な光が宿っている。
「なるほどね……日本三大怨霊の筆頭、雷神・菅原道真かい。仮に奴を祓う仕事が舞い込むとすれば、国一つが傾くほどの莫大な指名料が発生するだろうね。……そして菅公、君は素晴らしい」
冥冥は立ち上がり、すっと菅公の目の前まで歩み寄ると、十二歳とは思えぬ高い視線を見上げてその頬に優しく手を添えた。
「歴史に名を残す大怨霊からの魅力的な誘惑……それを蹴り飛ばし、私という『投資先』を選び続けてくれた。君のその選択は、私の価値を高めてくれる。実に素晴らしい判断力だ」
「当然です。僕の師匠は、あなただけだ」
まっすぐな瞳で言い放つ菅公。その無駄のない決意に、冥冥はくすりと胸を鳴らして笑った。
「可愛い弟子からの全幅の信頼……嬉しいねぇ。なら、頑張った君に最高の『報酬』を用意してあげないとね」
「報酬……ですか?」
「そう。モチベーションというのは労働効率を跳ね上げる最大の触媒だ。菅公、君がこの先、更なる鍛錬を重ね……あの五条悟、そして菅原道真の二人を完全に打ち倒した暁には——」
冥冥は菅公の耳元に顔を寄せ、吐息が触れるほどの至近距離で、甘く、それでいて絶対的な重みを持つ言葉を囁いた。
「私をただの『師』としてではなく……一人の『女』として獲得する権利を、君にあげよう」
「——ッ!?」
菅公の体に、一瞬で電流が走ったような衝撃が駆け抜けた。
『落落雷雷』の呪術によるものではない。純粋な、一人の男としての魂の激震。
冥冥の指先が菅公の胸元を優しく滑り落ちる。その妖艶な微笑みは、どんな呪術の誘惑よりも深く、強力に菅公の心根を捉えて離さなかった。
五条悟を超え、菅原道真を滅ぼし、そしてこの絶対的な美と強さを誇る師を「自分の女」にする。
「……本当ですね。言葉を翻させたりはしませんよ」
「勿論。私は契約を反故にしない主義でね。……ただし、命を落としては元も子もない。明日からの修行は、死の際を何度も歩いてもらうことになるよ?」
「望むところです……! 僕の全てを懸けて、あんたを手に入れる!」
菅公の瞳に、これまでにない圧倒的な熱量と闘志が燃え上がった。十二歳の少年の枠を完全に踏み外したその覇気に、冥冥は心底満足そうに目を細めるのだった。
時を同じくして、京都——禪院家の広大な屋敷の縁側。
夕暮れ時の赤錆色に染まる庭園を眺めながら、二人の少女が並んで座っていた。
短髪で鋭い眼光を持つ少女・禪院真希と、少し長めの髪を揺らす繊細な雰囲気の少女・禪院真依。二人は菅公と同い年の十二歳である。
「……ハックション!」
真希が豪快なくしゃみをし、乱雑に鼻を擦った。
「汚いわね、真希。風邪でも引いたの?」
「ちげーよ。なんか知らんが……胸のあたりが妙にザワザワしやがるんだ。クソッ、胸騒ぎがすんぞ」
真希は木刀を膝の上に置き、苛立ったように舌を打った。
真依もまた、どこか気怠げに膝を抱え込みながら、遠くの空を見つめる。
「……菅公のこと、考えてたでしょ」
「あ!? な、なんでここでアイツの名前が出てくるんだよ!」
真希が赤くなって噛み付くが、真依はフンと鼻を鳴らした。
「別に誤魔化さなくてもいいじゃない。私だって……なんとなく解るもの。あのバカ、今頃またあの『金儲け女』と一緒にいるんでしょ」
二人が「菅公」と呼ぶ少年——土師菅公は、彼らが五歳の頃、禪院家の屋敷で初めて出会った存在だった。
落胤や落ちこぼれとして冷遇されていた真希と真依に対し、菅公は何の偏見もなく接し、その圧倒的な強さと規格外のスケールで二人を魅了した。姉妹にとって、菅公は幼馴染であり、数少ない理解者であり、そして……互いに口には出さないものの、特別な想いを寄せる対象だった。
「菅公のやつ……五歳で会った時からデカかったが、最近じゃもう見上げるくらい背が伸びてやがる。178センチだぞ? 同い年とは思えねぇ……」
「背だけじゃないわよ。……あの目の色。菅公、どんどん遠くに行っちゃうみたい。……ねえ真希、女の勘ってやつかしら。あの女……冥冥とかいう奴と菅公の間で、何か凄く嫌な、ただならぬ雰囲気を感じるのだけど」
真依の言葉に、真希はぐっと唇を噛み締めた。
真希とてバカではない。菅公が五条悟という強者への強烈な憧憬を胸に秘め、自らの意思で父親の紹介を介し、冥冥の弟子になった経緯を知っている。そして、菅公が冥冥に向けている視線が、単なる「師匠への敬意」にとどまらない変化を見せ始めていることも。
「チッ……あの金に汚いアマめ。菅公に何吹き込んでやがるんだ。アイツは……菅公は渡さねぇぞ。どんな手使ってでも、もっと強くなってアイツの隣に並んでやる」
木刀を強く握りしめる真希の横顔には、強い独占欲と闘志が宿っていた。
真依もまた、小さく溜め息をつきながらも、その瞳には嫉妬と決意の色が混ざり合っていた。
「ほんと……罪作りな男よね、菅公は」
翌日。深い山中に位置する呪術高等専門学校の演習場。
重苦しい静寂を破り、巨大な地鳴りが響き渡った。
「ガアアアアアッ!!」
咆哮を上げたのは、体長十メートルを超える特級クラスの変異呪霊であった。無数の腕と異形の大口を持つその異形は、一級呪術師であっても複数人での討伐が推奨されるほどの圧倒的な呪力量を誇っている。
その巨大な影の前に、一人の少年が立っていた。
土師菅公。黒の稽古着に身を包んだ彼は、巨躯の呪霊を前にしても、ピクリとも眉を動かさない。
高台の上では、冥冥が黒い折りたたみ傘を肩にかけ、余裕の笑みを浮かべて見下ろしていた。
「さあ菅公、実践演習だ。あの特級呪霊を相手に、君の力を私に見せてごらん。……言っておくが、死んだら契約は白紙だよ?」
「ハッ……言われなくても!」
菅公の全身から、凄まじい圧迫感を持つ呪力が爆発的に吹き荒れた。
通常、菅公は術式を使わない。土師家に伝わる徹底した体術と、並外れた身体能力、そして精密な呪力操作のみで敵を打倒する。それが彼の基本スタンスだ。五条悟という「絶対的な高み」に届くためには、術式に頼らない基礎の完熟が不可欠だと理解しているからである。
「アアアアッ!」
特級呪霊の巨腕が、空気を切り裂き、音速を超えて菅公へ振り下ろされる。
直撃すれば肉塊と化す一撃。しかし菅公は視線すら切らない。
踏み込み一歩。最小限の動作で巨大な拳を紙一重でかわすと、呪霊の肘関節へと滑り込んだ。
「——甘い」
菅公の右拳に、高密度の呪力が極限まで圧縮される。
ボガァンッ!!
爆音とともに、特級呪霊の太い腕が肘から先、完全に吹き飛んだ。呪霊の悲鳴が山々にこだまする。
術式なしの純粋な打撃。それだけで特級の肉体を容易く破壊する圧倒的筋力と呪力伝導率。菅公の178センチの体躯は、伊達に鍛え上げられているわけではない。
しかし、特級呪霊もさるもの。即座に欠損した腕を再生させると、全身の口から高濃度の呪力砲を全方位へ撒き散らした。
「ほう……広範囲の無差別攻撃か。菅公、どうするかい?」
冥冥の呟き。
菅公の目が冷たく細められた。通常戦闘での術式封印——だが、相手は『特級』。
「……解禁だ」
菅公の気配が一変する。
彼が継承した術式は、五条家の先祖であり、菅原道真の先祖でもある土師家の至高の血脈——『落落雷雷(らくらくらいらい)』。
菅公は右手の指先を、群がる呪力砲と特級呪霊へ向けて軽く突き出した。
「術式順転——『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』」
バチチチチッ!!
指先から放たれたのは、一筋の閃光——ではない。
解き放たれた瞬間、稲妻は扇状に拡散し、網の目のように空間全体を覆い尽くした。ワイドレンジに調整された莫大な電流が、迫り来る呪力砲をすべて空中相殺し、そのまま特級呪霊の全身を焼き穿つ!
「ギャアアアアアッ!?」
超高電圧の雷撃に焼かれ、身悶えする呪霊。だが、菅公は攻撃の手を緩めない。彼にとって、敵対する存在は「滅ぼすべきゴミ」に過ぎないのだ。敵対者は皆殺し——それが土師菅公の絶対の掟。
「逃がさないよ。一瞬で終わらせる」
菅公の身体を取り巻く呪力が、青白い放電現象を起こし始める。空気中の酸素が焦げ、オゾン臭が漂う。
「術式反転——『雷化舜動(らいかしゅんどう)』」
次の瞬間、菅公の姿が消えた。
いや、消えたのではない。彼自身の肉体が「雷」そのものへと変換され、真の『光速』で移動したのだ。
ドカァァァァンッ!!!
空間が歪むほどの衝撃波。
光速で移動する菅公が放ったのは、ただの「ストレートパンチ」であった。
しかし、アインシュタインの相対性理論を引くまでもなく、質量を持つ物体が光速(あるいはそれに限りなく近い速度)で衝突した際のエネルギーは荒唐無稽の一言に尽きる。
特級呪霊の上半身が、まるで豆腐のように跡形もなく蒸発した。
遅れてやってくる猛烈な爆風。木々はなぎ倒され、クレーターのように地面が陥没する。
光速の移動から実体へと戻った菅公は、残された呪霊の下半身の前に静かに着地した。
「……まだ生きてるな」
下半身だけになっても、驚異的な再生力で肉体を再構築しようとする特級呪霊。その執念深さに、菅公は冷酷な眼差しを向ける。
「拡張術式——『死苦発苦(しくはっく)』」
菅公が手を掲げると、周囲の空間に強烈な電磁波が組み上げられた。
目に見えぬ磁力が、呪霊の肉体、そして内に流れる呪力そのものを捉える。
「呪力すら引き裂く磁界だ。崩れろ」
ミシミシ……パキパキパキッ!
強烈な磁力線が交差し、呪霊の細胞と呪力構造を分子レベルで強引に引き剥がしていく。磁力に反応した呪力そのものが内部から爆発を起こし、再生しかけていた肉体は微塵切りを超えて粒子へと崩壊していった。
特級呪霊は、断末魔をあげることすら許されず、完全な消滅を迎えた。
息一つ乱さず、稽古着の埃を払う菅公。
その戦いぶりは、十二歳という年齢を完全に狂わせた絶対的な殺戮の美学であった。
「……素晴らしいよ、菅公」
パチ、パチ、とゆっくりとした手拍子が響く。
冥冥が高台からふわりと飛び降り、菅公の目の前に舞い降りた。
「順転の『飛雷遠雷』による制圧、反転の『雷化舜動』による光速の一撃、そして拡張術式『死苦発苦』による完全解体。無駄がない。完璧な戦闘組み立てだね」
「ありがとうございます、冥さん。でも……これじゃまだ足りない」
菅公は己の手のひらを握りしめた。
彼には分かっている。
自分の切り札である領域展開『桑原桑原(くわばらくわばら)』——無限の雲海と幾千の黄金の鳥居が並ぶ神域から、数億の雷を降らせて全てを消滅させる絶対不可避の絶対領域。それをもってしても、あの男……五条悟の持つ『無下限呪術』を完全に破れるかといえば、まだ不確定要素が多い。
そして、北野天満宮で出会ったあの怪物、菅原道真。奴の圧倒的な存在感には、まだ届いていない。
「五条悟さんに会った時のことを、今でも覚えてます」
菅公の脳裏に、かつて五条家の屋敷で出会った高専時代の五条悟の姿が浮かぶ。
サングラスの奥から覗く、吸い込まれそうな六眼。全てを見透かし、世界の頂点に君臨する男の絶対的な佇まい。あの時感じた恐怖と、それ以上に胸を焦がした圧倒的な憧憬。
「僕はあの人に追いつき、追い越し……そして菅原道真を殺す。そのためなら、どんな厳しい鍛錬でも耐えてみせます」
「ふふ、いい顔だねぇ」
冥冥は菅公の胸元にそっと手を置き、その体温を感じ取りながら、艶やかに目を細めた。
「君のその青く滾る欲望も、強さへの執着も、全て私が買い取ろう。……忘れるんじゃないよ、菅公。五条悟と菅原道真を討ち取った時、君が得られる最高の価値(報酬)をね」
「……忘れもしません。あんたを、僕のものにする」
十二歳の少年と、一級呪術師の美女。
危険で、歪で、しかし確固たる絆で結ばれた二人の間に、密やかな熱が生まれる。
「さあ、息を整えたら次の演習だ。次は私の烏たちを相手に、『雷化舜動』の精度を上げてもらうよ。休む暇はないよ、私の未来の男(ダーリン)?」
「望むところだ……!」
菅公は不敵に笑い、再びその全身に蒼藍の稲妻を滾らせた。
五条悟という頂へ至るため。
菅原道真という過去の遺物を打ち砕くため。
そして、目の前にいる美しき師を己の手で獲得するために。
土師菅公の修羅の道は、更なる加速を伴って、光速の領域へと突き進んでいくのだった。
やばい 色々こねくり回して書いてたら最終的に冥さんがヒロイン枠に入ってしまった。