静寂が支配する部屋の中で、彼女は長い白銀の髪をゆったりと揺らし、漆黒のチャイナドレス越しに艶やかな脚を組み替えた。
「五条悟、そして怨霊と化した菅原道真。その双方を屠り、名実ともに最強の存在となった時――私は君のものになろう。女としてね」
冥冥のその言葉は、十二歳の少年の魂に永久の烙印を刻みつけるのに十分すぎるものだった。
土師菅公(はじすがきみ)。まだ十二歳という幼齢でありながら、身長はすでに百七十八センチメートルに達し、鍛え上げられたしなやかな肉体は並の大人を遥かに凌駕していた。彼は五条家の先祖であり、世に三大怨霊として恐れられる菅原道真――そのさらに起源たる「土師家」の末裔である。
幼い頃、圧倒的な強者として君臨する五条悟の存在を知り、激しい憧憬を抱いた。強くなりたい、あの高みへ至りたい。その一心で、父である土師宗矩の紹介を通じて自らの意思で冥冥に弟子入りした。そして与えられたのが、あのあまりにも甘美で、あまりにも過酷な「約束」だった。
それ以来、菅公の日常は狂気と殺戮の嵐へと変貌した。
「僕の障害になるなら、呪霊だろうと何だろうと……全員残らず殺す」
菅公の瞳には、冷酷で澄み切った決意だけが宿っていた。
連日のように持ち込まれる祓除任務。菅公は持ち前の規格外の肉体と、精密極まる呪力操作のみで敵対者を解体し続けた。本来、彼には『落落雷雷(らくらくらいらい)』という凄絶な術式が刻まれていたが、日常の戦闘でそれを解放することは一切ない。己の基礎能力を極限まで高めるため、そして術式に頼らずともすべてを粉砕できる肉体を磨き上げるためだ。
ある夜の廃ビル。二級呪霊の群れと、それを束ねる準一級呪霊が菅公を囲んでいた。
菅公は術式を一切発動させず、ただ脚の筋力を爆発させて床を削り取った。
「退屈だな」
影が跳ねる。一瞬で距離を詰めた菅公の右拳が、呪霊の顔面に深々と突き刺さった。強化された呪力が呪霊の頭部を内側から破裂させ、紫色の濁流となって壁を濡らす。すかさず背後から襲いかかる無数の触手。菅公は振り返りもせず、左脚を一閃させた。背足蹴りが空気を切り裂き、鋭利な衝撃波となって触手の群れを根元から叩き潰す。
悲鳴すら許さない。敵対する者は、ただの「肉塊」へと変えられて消滅する。
どれほど特級呪霊の気配を帯びた怪異を殴り殺そうとも、どれほどの数を屠ろうとも、彼の求める「真の覚醒」の兆しは見えなかった。五条悟というあまりにも巨大な壁。菅原道真という伝説の呪い。それらを超えるための決定的な何かが足りない。焦燥が、焦げ付くような苛立ちとなって胸の奥で渦巻いていた。
そんなある日、珍しいルートから直接の調査依頼が届いた。
差出人は、父である土師宗矩。
普段、彼の任務はすべて師である冥冥を経由して割り振られる。彼女が得た報酬から厳密に「彼の取り分」が差し引かれるシステムだ。冥冥を通さずに直接自分へ依頼が下りてきたことに、菅公は僅かな引っかかりを覚えた。
(僕に直接……? 冥冥さんが噛んでいない仕事なんて、珍しいな)
しかし、提示された依頼内容を聞いた瞬間、菅公の眉が跳ね上がった。
『和歌山県東部にて、土師家が代々密かに管理してきた古代の古墳がある。現在、その古墳から夥しい量の異常な呪力が漏洩・溢出しており、周辺空間を侵食しつつある。原因の調査、および発生源の祓除を命ず』
我が一族の因縁。そして、聞いただけで肌が泡立つような危険な呪力の奔流。
(これだ……。ここにある。僕が化けるための、何か大きなきっかけが)
菅公は直感的にそれを悟った。すぐさま冥冥のもとを訪れ、現地への赴く許可を求めた。
冥冥は高級なグラスを傾けながら、妖しく微笑んだ。
「ふうん、土師家の本家からの指名かい? 私としては仲介料が取れないのは少々不満だがね……いいよ、行ってくるといい。私の可愛い弟子が、こんなところで野垂れ死にされては困るからね。もっと大きくなって、私に莫大な価値をもたらしておくれ」
「すぐ戻るよ、冥冥さん。あなたを僕のものにするための手土産を携えてね」
菅公は低く応えると、黒の詰襟に身を包み、和歌山県東部へと急行した。
――現地。
車を降りた菅公の視界に飛び込んできたのは、言葉を失うような『異様』な光景だった。
和歌山の鬱蒼とした山林の奥深く、本来なら緑に包まれているはずの空間が、巨大な円を描くようにして「灰色」に塗りつぶされていた。現地の樹木、草木、土壌に至るまで、すべての色彩が奪われ、死んだような灰の領域と化している。古墳を中心として溢れ出た呪力が、強制的に一種の生得領域を形成し、周囲の物質世界を削り取っているのだ。
「は、土師さん……! お待ちしておりました……!」
冷や汗を全身から噴き出させながら駆け寄ってきたのは、補助監督の伊地知潔高だった。伊地知の顔色は蒼白であり、膝は微かに震えている。
「伊地知さん。状況を短く」
「は、はい! この古墳から発生している灰色の生得領域ですが……非常に危険です! これまでに調査のために近づいた一級呪術師を含む数名が、結界に足を踏み入れた瞬間に死亡しました。生存者はゼロです……!」
「死因は?」
「それが……遺体を遠広から確認したところ、まるで『高熱の刃で全身を焼き切られた』かのような切断面が残されていました。呪霊による熱攻撃か、それとも未知の術式か……解明できていません。上層部は高専の本隊、五条さんの出動も検討していますが――」
「五条悟の出動? 冗談じゃない」
菅公の瞳に、鋭利な殺気が宿った。
「ここは僕の獲物だ。僕の一族の領域だ。あの男の手を借りてたまるか」
「で、ですが土師さん! この密度の呪力は異常です! 生身で突入すれば、領域の圧力だけで呪術師でも正気を保てません! どうか再考を――」
「退いてろ、伊地知さん」
菅公は伊地知の制止を不遜に遮り、灰色の領域へと視線を向けた。
(この過酷な密度の呪力……。僕以外の半端者が入れば一瞬で肉体が崩壊する。入れるのは、僕だけだ)
自身の体内に眠る『落落雷雷』の芽生えが、全身の血を激しく奔流させていた。菅公は一切の躊躇なく、灰色の結界の境目を踏み越えた。
――チリ、と皮膚が焼けるような音がした。
領域内に入った瞬間、世界から音が消えた。息を吸い込むと、肺の奥が灼熱の鉄を流し込まれたかのように熱い。空間全体に充満する高濃度の呪力が、菅公の肉体を全方位から押し潰そうと圧力をかけてくる。
だが、菅公は不敵に口元を歪めた。鍛え上げられた呪力で全身を包み込み、領域の侵食を物理的な力で撥ね返す。
(いいぞ……最高だ。このプレッシャー、この強度の呪力……!)
踏みしめる足元は灰のちりとなり、風もないのに舞い上がっている。菅公が古墳の参道と思われる灰色の石段を踏み締め、歩みを進めたその時――。
空間が、歪んだ。
石段の頂上、古墳の入り口付近に、いつの間にか「それ」は立っていた。
全身を覆うのは、光を一切反射しない漆黒のローブ。フードの奥、顔に当たる部分には、ただ空虚に白く浮かび上がる髑髏を模した仮面が収められている。生命感は一切ない。呪霊のドロドロとした不快な気配とも、人間の生気とも異なる、異質なまでの「虚無」の存在。
そして、その右手に握られている「それ」に、菅公の視線が固定された。
「……なんだ、それは」
仮面の人物の右手から伸びているのは、一尺ほどの柄。そこから出力されているのは、刃ではない。真っ赤に輝く、収束された光の棒。
じじじ……と空間を焦がす低い重低音が響く。菅公の研ぎ澄まされた直感が、一瞬でそれを理解した。
(ただの火炎じゃない。電気を極限まで収束させ、物質を蒸発させるほどの熱量を持たせた……プラズマエネルギーの刃……!)
伊地知が言っていた「焼き切られた遺体」の正体は、これだ。
菅公は全身の警戒度を最大に引き上げた。右脚をわずかに引き、いつでも腰のひねりを叩き込める体勢を作る。十代前半の少年とは思えぬ、隙のない完璧な格闘の構え。
「お前がこの領域を作ったのか? それとも、ここで僕を待っていたのか?」
菅公が問いかけるが、髑髏の仮面は何も答えない。ただ、赤く光るプラズマの刃が、静かに空を切る音だけが響く。
次の瞬間、仮面の人物の姿が消えた。
(速い――!)
視界から消えたのではない。圧倒的な踏み込みによる超高速度の接近。
直後、菅公の首筋をめがけて、赤熱した光芒が横一文字に走り抜けた。
ジュッ、と菅公の前髪の毛先が数本、熱波だけで焼き切れて散る。
菅公はコンマ一秒の差で上体を限界まで後ろへ反らし、その一閃を回避していた。首の皮一枚下を、絶望的な熱量が通り過ぎていく。地表の灰色の石畳が、刃が通過した軌跡に沿って溶け落ち、溶岩のようにドロドロと赤く光っていた。
「ハッ……!」
菅公は回避の姿勢のまま、軸足を固定して右拳を振り抜いた。
術式を使わない、純粋な呪力強化による渾身のストレート。音速を超えた拳が空気を切り裂き、仮面の男の胴体へと向かって一直線に突き穿つ。
ドガァン!!
重厚な打撃音が響き渡り、衝撃波が灰色の空間を同心円状に吹き飛ばした。
だが――感触が狂っていた。
菅公の拳は確実に仮面の男の腹部を捉えたはずだった。しかし、手応えはまるで古代の巨岩を叩いたかのように硬質で、かつ打撃のエネルギーが不可解な形で拡散されていた。
(固い……! いや、呪力による防御とも違う。なんだこの体躯は!?)
攻撃を受け止められた菅公は、すぐさまバックステップで跳躍し、五メートルほど距離を取った。足が地面に着地すると同時に、再び低い姿勢で追撃の身構えをとる。
仮面の男は、菅公の威力を極めた打撃を正面から受けながらも、微動だにしていないように見えた。黒いローブが風になびくこともなく、ただそこに「存在」している。
一瞬の静寂が、二人の間に流れた。
息を呑むほどの緊張感。菅公の全身の細胞が、歓喜と恐怖の混ざり合った叫びを上げていた。
(強い。呪霊の強さじゃない。技量、間合いの測り方、そしてあの謎の兵器……! こいつを倒せば、僕は確実に変われる……!)
菅公は己の内に流れる呪力を限界まで引き上げた。右手に青白いバチバチという不気味な放電現象が混ざり始める。封印してきた術式『落落雷雷』の奔流が、ついに解放の瞬間を求めて暴れ狂っていた。
「来いよ……! お前を八つ裂きにして、僕の糧にしてやる!」
菅公が殺気を剥き出しにして踏み込もうとした、その時だった。
仮面の人物は、構えていた赤いプラズマの刃をふっと消した。柄だけになった筒をローブの奥へと収める。
そして、ゆっくりと左腕を上げた。
黒い手袋に包まれた指先が向けられたのは――菅公ではなく、彼の背後にある古代の古墳、その暗く深い洞窟の入り口だった。
(……? 古墳の中に行け、と……?)
菅公が眉をひそめた瞬間。
シュン、という幻聴のような音を残し、髑髏の仮面をつけた人物の身体が、まるで霧が風に浚われるかのように、その場からサラサラと消えてなくなった。呪力の痕跡すら残さず、完璧な霧散。
「消えた……!? 残像……いや、空間転移か!?」
菅公は瞬時に周囲を探知したが、先ほどまでの圧倒的な威圧感は綺麗に消失していた。あとに残されたのは、変わらず灰色に侵食された空間と、赤く溶けた石畳の痕跡だけだった。
風が吹き抜け、灰の粒子が菅公の頬を撫でる。
菅公はゆっくりと拳を握り直した。手のひらには、熱い汗が滲んでいた。
(僕と本気で戦うつもりはなかった……? ただ、僕の力を試し、あそこへ誘うためだけに現れたというのか)
菅公の視線が、仮面の男が指し示した古墳の深部――暗黒の口を開ぐ洞窟へと向けられた。
そこからは、先ほどまでの比ではない、極大の呪力のうねりが、地鳴りのような重低音とともに溢れ出していた。五条悟の「無下限」にも似た、あるいはそれ以上に不吉で神聖な、太古の呪い。
「ふ……」
菅公の唇から、低い笑みがこぼれた。最初は小さな笑い声だったが、それはやがて、灰色の領域全体に響き渡る激しい高笑いへと変わった。
「ははははッ! 面白い……! 最高じゃないか!!」
恐怖など、端から存在しない。あるのは、冥冥を手に入れるための圧倒的な力への飢餓感。そして、五条悟と菅原道真という絶対的頂点を引きずり下ろすための、狂気的なまでの渇望だけだ。
菅公は詰襟の襟元を正すと、迷いなく足を踏み出した。
「待っていろよ、冥冥さん。そして……五条悟。僕はこの中で、僕の全てを完成させる」
バチバチと、彼の指先から黄金の稲妻が零れ落ち、灰色の世界を瞬時に照らし出した。
術式『落落雷雷』が、その真の覚醒を求めて咆哮を上げている。
十二歳の少年は、自らの血脈が眠る暗闇の深淵へと、堂々と姿を消していった。
はい、と言うわけで今回はここ迄です。菅公君の新たな強化フラグが立ちました。因みに作中に出てくる全身黒いローブに髑髏の仮面として登場した人物のモデルはスターウォーズに出てくるシスの暗黒卿ダースナイアリスがモデルで彼が持っている武器とのモデルは言わずもがなライトセーバーです。