土師菅公(はじすがきみ)の朝は早い。
早朝5時。まだ夜の残滓が街を深く覆う刻限に、菅公の網膜は鮮明に覚醒する。ベッドから立ち上がると同時にギアを最頂点まで引き上げ、そのまま屋外へと飛び出す。日課である10キロメートルのランニング。しかしそれは、世間一般の人間が想像するような足取りを整えたジョギングなどでは断じてない。最初の一歩から足裏でアスファルトを爆砕せんばかりの踏み込みを見せる、10キロメートル全行程を通した「全力疾走」だ。
風を切り裂き、呼気は大気を白く染め、心臓は狂おしいドラムを打ち鳴らす。走り終えた直後、息を整える間もなく間髪入れずに叩き込むのは、高重量の負荷をかけた緻密な筋力トレーニングである。巨大な鉄塊を幾度となく持ち上げ、筋繊維を極限まで破壊し尽くす。
すべてのメニューを完遂した頃、東の空がゆっくりと茜色に染まり始める。シャワー室へ飛び込み、溢れ出る汗と熱気を冷水と温水で一気に洗い流した菅公を待っているのは、テーブルを埋め尽くすほどの朝飯だ。
目の前には、数十センチの厚みを誇る特大のステーキが何枚も重なり、山盛りの白米が湯気を立てている。それを菅公は、猛獣のような勢いでたらふくかき込んでいく。
菅公が継承した相伝の術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』は、天地を穿つほどの凄まじい破壊力を誇る。だがその代償として、体内エネルギーの消費速度は狂気的だ。朝からスタミナを極限まで重視した大容量の食事を摂取しなければ、瞬く間にガス欠を引き起こしてしまう。菅公の師である一級術師・冥冥が、普段の戦闘で彼に術式の解放を極限まで減らすよう厳命している理由の一つも、まさにこの破滅的な「燃費の悪さ」にあった。
「まったく、君の食費を見ていると私の口座に残高があることすら奇跡に思えてくるよ、菅公」
以前、大量の肉を平らげる菅公を見て冥冥がそう吐き捨てたのを思い出し、菅公は苦笑いを浮かべる。元々は五条悟という規格外の存在への強い憧憬から、父である土師宗矩の紹介を経て自ら希望して冥冥に師事したのだ。金銭にシビアだが術師として徹底して合理的な彼女の指導は、菅公の精神と肉体を極限まで鍛え上げていた。
そんな菅公の生活に、ここ最近新たな日課が加わっていた。それは数週間前、任務先であった和歌山の古代古墳内部で起きた呪力の異常発生を調査した際、その奥底で回収した二つの古代遺物の研究である。
ひとつは特級呪具『緋蝕刃(ひしょくじん)』。
呪力を流し込むことで高純度のプラズマエネルギーによる刃を生成する、恐るべき兵器である。極めればあらゆる物質や呪力、術式のみならず「概念」すらも切り捨てるポテンシャルを秘めた逸品だが、回収当時のそれは柄がボロボロの屑鉄同然であった。菅公は自宅謹慎を命じられていた期間の静寂の中、深い瞑想によって自身の呪力を同化させ、柄の再構築に成功。己の理想とする完璧な形状へと完成させていた。
しかし、深刻な問題が存在した。菅公の従来の戦闘スタイルは完全なる「徒手空拳」であったことだ。それまで剣など一切振るったことがない男が、どれほど凄まじい特級呪具を手にしたところで宝の持ち腐れである。土師家に代々伝わる膨大な古文書を片っ端から読み漁ってみたものの、剣の型や技術に関する記述はどこにも見当たらず、研究は完璧に暗礁に乗り上げていた。
そこで菅公は一旦『緋蝕刃』の研究を脇に置き、もうひとつの特級呪具の解析へと着手した。
手のひらサイズのピラミッド型をした特級呪具『光盤文書』。
表面には精巧な金の細工が施され、内部では赤い水晶が鈍い光を放っている。だがこちらの解析はさらに難関を極めた。押そうが、引っ張ろうが、撫で回そうが、叩こうが、何一つとして反応を示さない。
「どうしろって言うんだよ、こんなの……!」
頭をガシガシと掻きむしり、イライラが限界に達した菅公は、ヤケクソになって全呪力を込めた右拳を『光盤文書』へ容赦なく叩きつけた。
ズドン!と響いた衝撃の直後、光盤文書の赤水晶が爆発的な光を放ち始めた。空中へと投影されたのは、鮮明な朱色の立体映像(ホログラム)であった。浮き出た人影が語りかけてくる言葉は古代の漢語であり、聞き取るのには相当な難儀を強いられたが、解読を進めるうちに菅公の目は歓喜に見開かれた。
そこに刻まれていたのは、土師家の正統な血脈を引く者のみが閲覧を許される隠された歴史、相伝術式『落落雷雷』の未知なる発展技や応用技、そして――菅公が喉から手が出るほど欲していた、『緋蝕刃』を完全に使いこなすための「七つの剣術の型」であった。
「凄いものを……手に入れた……!」
武者震いとともに歓喜した菅公は、それ以来の三年間、すべての余暇と情熱を『落落雷雷』のさらなる研究と「七つの型」の鍛錬に注ぎ込んだ。時には寝食すら完全に忘れ、泥のように没頭した。
基本の術理と空間把握を叩き込む「一の型」。
体捌きと剣捌きを同調させ滑らかな流動を生む「二の型」。
鉄壁の防御から超速のカウンターへと繋ぐ「三の型」。
体術の踏み込みと機動力を極限まで高めた「四の型」。
一撃の絶対的な破壊力と重量に全振した「五の型」。
攻防の完璧なバランスを保ち隙を消す「六の型」。
そして、一切の防御を捨て去り、全存在を攻撃へ昇華させる「七の型」。
これらすべてを完全に己の肉体へ叩き込むのに、丸三年の歳月を要した。修行を経た菅公の肉体はさらに苛烈に逞しく磨き上げられ、十二歳時点で178センチメートルだった身長は、十五歳を迎える頃には183センチメートルへと達していた。
ちなみに菅公は、冥冥が同行しない単独任務の際、修練の成果を密かに試していた。突如として立ち塞がる呪霊、悪質な呪詛師、危険な呪具の数々――。相手が敵であるならば、菅公の流儀に躊躇はない。立ち塞がる敵対者はことごとく惨殺し、灰も残さず皆殺しにした。緋蝕刃から放たれるプラズマエネルギーと七つの型の相乗効果は抜群であり、立ち塞がるあらゆる脅威を瞬く間に切り刻んだ。
だが、菅公の飢えは満たされなかった。
「……これじゃ駄目だ。格下が相手じゃ、僕の剣がどこまで届くのか分からない」
真に己の実力を測るためには、その分野の極致に立つ存在と刃を交えなければ意味がない。自らが振るう剣の力が呪術界の頂にどこまで通用するのか。菅公の思考が至った先は唯一人――呪術界における剣術の最高峰、シン・陰流師範代にして一級術師、日下部篤也(くさかべあつや)であった。
◇
ある爽やかな春の朝。東京都立呪術高等専門学校の職員室。
出勤してきた日下部は、自分のデスクの上にポツンと置かれた異様な存在感を発する封筒に目をとめた。
デカデカと太文字で『果し状』と書かれたその手紙の送り主は、言わずもがな土師菅公。
中身を開けばそこには、「剣の腕を試したいからいざ尋常に!」という直球すぎる宣戦布告が叩きつけられていた。
「……ハァ? なんだこれ……見なかったことにしよう」
日下部は深くため息をつき、果し状をゴミ箱へ捨てようとした。超絶面倒くさがりな彼が、わざわざ自分から厄介事に首を突っ張るわけがない。しかし、菅公はそこまで織り込み済みであった。あらかじめ五条悟から日下部の筋金入りの面倒くさがり体質を聞き出していた菅公は、事前に冥冥へ相談を持ちかけていたのだ。
『ほう……シン・陰流対土師家の興行試合かい? それは素晴らしい発想だね、菅公。大きな金の匂いがする』
金の匂いを敏鋭に嗅ぎつけた冥冥と、「えっ何それ面白そうじゃん! やろうやろう!」と悪ノリした最強の術師・五条悟によって、この個人的な果し状はあっという間に「呪術界全体を巻き込む大興行試合」へと仕立て上げられてしまったのである。全方向に手を回され、逃げ場を完全に塞がれた日下部は、頭を抱えて吐血しそうな顔で承諾せざるを得なかった。
◇
決闘の日。
舞台となったのは、春風が爽やかに吹き抜ける京都府立呪術高等専門学校の広大な演習場であった。観客席には、異様な熱気と困惑が入り混じった大勢の観客が詰めかけている。
「はーいみなさんこんにちはー! 本日執り行われますビッグイベント、『シン・陰流対土師家・頂上剣技決戦』! 実況解説を務めますのは、みんなのヒーロー五条悟ちゃんでーす!」
パイプ椅子に深々と腰掛け、特注のマイクを握った五条悟がハイテンションで声を張り上げる。その隣には、優雅に高級な紅茶を嗜む冥冥が並んでいた。
「解説の冥冥だ。ちなみに現在のオッズだが、菅公の勝利に七、日下部氏の勝利に三といったところだね。賭け金の受付は試合開始のその瞬間に締め切るから、早めの投資を勧めよう」
「ちょっと五条! 冥さん! なんなのよこのバカげた見世物は! 日下部さんも日下部さんよ、なんでこんなバカな挑戦を受けてるのよ!」
観客席の最前列で、庵歌姫が拳を握りしめてオロオロと腹を立てながら叫んでいる。そのさらに後方では、東京校学長の夜蛾正道と京都校学長の楽巖寺嘉伸が、揃って深いため息をつきながら痛む頭を押さえていた。
「……ったく、悟も冥冥も好き勝手やりおって……」
「夜蛾……終わったらあのバカどもをきつく叱責しておけ……」
そんな周囲の喧騒を余所に、演習場の中央には二つの影が静かに向かい合っていた。
ひとりは、焦茶色のフードと長いローブを身に纏った土師菅公。十五歳にして183センチメートルに達した肉体は、厚い生地の上からでも分かるほど強靭に引き締まっている。ローブの隙間から覗く琥珀色のその瞳には、純粋かつ冷徹なまでの闘志が宿っていた。
対するは、相変わらずダウナーな雰囲気を漂わせ、口にスティックキャンディを咥えた日下部篤也。トレンチコートのポケットに手を突っ込み、心底嫌そうに菅公を見上げている。
「勘弁してくれよ……なんで俺がガキの遊びに付き合わなきゃならねえんだ……」
「遊びじゃありませんよ、日下部さん」
菅公は低く澄んだ声で応じた。一人称を「僕」と言い表すその口調には丁寧さが残るが、全身から滲み出る威圧感は一級呪霊の比ではない。菅公は右手を伸ばし、腰に吊るした古代の柄――『緋蝕刃』を握りしめた。
「僕は、僕の剣がどこまで通じるのかを知りたい。……全力で来てください。でないと、死にますよ」
「……チッ、これだからクソガキは」
日下部は口の中の飴を噛み砕き、ペッと吐き捨てると、腰の刀の柄へ静かに手を伸ばした。一瞬で彼の雰囲気が激変する。面倒くさがりな態度の裏に隠された、呪術界最高峰の剣客としての冷徹な鋭気が解き放たれる。
菅公が『緋蝕刃』へ膨大な呪力を注ぎ込む。
――ッズボッ!!!
劇的な重低音とともに、柄の先から高純度のプラズマエネルギーで構成された光の刀身が伸長した。空間を赤く染め上げる緋色の光芒。空気が一瞬で焼き切られ、バリバリとプラズマの放電音が演習場全体に響きわたる。
「おいおい……冗談だろ……あんなもん刀で受けたら一発で鋼が溶けるぞ……」
日下部の額に冷や汗が流れる。だが、引き下がる選択肢はすでにない。
「行くぞ」
菅公の言葉と同時に、爆風が巻き起こった。
疾風のごとき踏み込み。菅公の選択は「四の型」――体術と爆発的な機動力を重視したフォーム。183センチの巨躯からは想像もつかない速度で距離を詰め、右斜め上から緋色のプラズマ刃を振り下ろす。
ガァンッ!!!
「シン・陰流――『簡易領域』!」
日下部の足元に円形の領域が展開される。範囲内に侵入した攻撃に対し、思考を介さず全自動で最速のカウンターを叩き込む必達の剣技。日下部の刀がプラズマの刃を極限の精度で「面」ではなく「線」の受け流しで弾き、そのまま菅公の首筋へと閃光の刺突を繰り出す。
(速い……! だが――)
菅公の体が即座に「三の型」へと切り替わる。防御とカウンターに全振りした体捌き。日下部の刺突を僅か数ミリの差で首を紙一重滑らせてかわし、そのまま肘関節を叩き込むような体術の突きを繰り出す。
「くっ……!」
日下部は咄嗟に間合いを崩し、バックステップで距離を取る。しかし菅公の追撃に淀みはない。間髪入れずに「一の型」で間合いを測り直し、「五の型」へと移行する。
絶対的な一撃の重さに特化した上段からの大斬撃。
「ハァッ!!」
振り下ろされた緋蝕刃の圧力が、まだ接触すらしていない演習場の地面をV字型に深く削り取る。
(なんなんだこのバカ力は! 術式を使ってねえのにこの威力かよ!)
日下部は正面からの防御を即座に破棄。『月影』による細やかな足さばきで直撃を回避する。ズバァァン!と凄まじい爆風が巻き起こり、プラズマの熱波が日下部のトレンチコートの裾を焦がした。
観客席から歓声と悲鳴が上がる。
「うわっ、すごーい! 菅公のあの呪具、振るだけで空間が加熱されてるじゃん! 日下部さん、ちょっとでも受けに回ったらそのまま溶かされるよ〜!」
「笑い事じゃないでしょ五条! 日下部さん、死んじゃうじゃないの!」
「大丈夫だよ歌姫。日下部さんはああ見えて死にたがりじゃないからね。自分の命がかかると一番強い」
五条と歌姫のやり取りの通り、日下部の目は完全に鋭利な刃物と化していた。
(プラズマの刀身には触れられない。なら、狙うのは『柄』か『本体』――!)
日下部は簡易領域の展開を維持したまま、超至近距離への踏み込みを見せる。菅公の攻撃の隙間、プラズマ刃が振り抜かれた瞬間のわずかな死角へと滑り込む。
「『抜刀』!!」
最速の居合いが菅公の懐を穿つ。
だが、菅公の口元が微かに吊り上がった。
菅公が繰り出したのは「六の型」――攻防のバランスを極限まで高めた連続剣。振り抜いた勢いを殺さず、そのまま円運動を描くように緋蝕刃を逆回転させ、日下部の刀の軌道をプラズマの熱圧で無理やり押し曲げる。
「なにッ!?」
「七の型――!」
菅公の全身から、これまでとは異次元の殺気が爆発した。
任務で敵対する呪詛師や呪霊を片っ端から殺戮してきた、本物の「皆殺しの殺意」。
一切の防御を破棄し、自らの全呪力、全存在を攻撃のみに収束させる絶対の極意。緋蝕刃のプラズマエネルギーが紅蓮の赤から漆黒を帯びた超高熱波へと変貌を遂げ、周囲の大気が歪む。
(こいつ……本気で俺を殺しにきてやがる……!)
日下部の背筋に激しい寒気が走る。生の執着が彼の集中力を極限を超えて跳ね上げた。
「甘く見んなよ……ガキがぁぁぁッ!!」
日下部が全呪力を刀身に込め、簡易領域を極限まで収縮・開放する。シン・陰流の奥義とも呼ぶべき超精密なカウンターの閃光が、菅公の圧倒的な灼熱の刃へと向かって放たれた。
空間が白光に包まれる。
ドッ―――――――――――ン!!!!
演習場の中央から爆発的な衝撃波が吹き荒れ、大量の土煙と熱風が観客席まで押し寄せた。歌姫が思わず腕で顔を覆い、楽巖寺と夜蛾が目を見開く。
静寂が訪れる。
舞い散る砂塵がゆっくりと晴れていく中、演習場の中央に立つ二人の姿が露わになった。
観客の誰もが息を呑む。
菅公の構える『緋蝕刃』の赤色のプラズマの刃は、日下部の喉元、皮膚の一枚手前でピタリと停止していた。熱気だけで日下部の首筋から薄っすらと血が滲んでいる。
しかし――。
日下部の刀の「鞘」の先が、菅公のみぞおちへと正確無比に突き立てられていた。もしこれが真剣であり、簡易領域による限界以上の威力が乗っていたならば、菅公の内臓は破壊されていたであろう。
お互いに、完全に一歩も引かぬ極致の交錯。
沈黙を破ったのは、日下部のため息だった。
「……へッ。首が繋がっててよかったぜ。……俺の負けでいいよ。真剣だったら、俺の刀はそっちのプラズマで切断されてただろうからな」
日下部は刀を収め、力なく肩を落とした。しかし菅公はゆっくりと『緋蝕刃』の呪力をオフにし、プラズマの刃を消すと、深く首を振った。
「いいえ……僕の負けです。五の型からの崩しで『七の型』に繋いだ際、日下部さんの簡易領域の合わせに対応しきれなかった。鞘で打たれた箇所……もし本気で撃ち抜かれていたら、僕の動きは止まって首を撥ねられていました」
菅公はフードを外し、183センチの身体を折り曲げて、日下部に向かって恭しく一礼した。
「素晴らしい剣術でした。勉強になりました、日下部さん」
「……たく、真面目かよ。命拾いしたのは俺の方だってのに……」
日下部は苦笑しながら、頭をガリガリと掻いた。
次の瞬間、観客席から割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
「いや〜見ごたえあったね! 素晴らしい勝負だったよ! 菅公も日下部さんも最高!」
五条悟がマイク越しに大はしゃぎで声を張り上げる。
「フフ、両者の健闘により観客も大満足だ。今日の興行収入は実に素晴らしい数値になりそうだね。菅公、帰ったら反省会と……今回の利益の分配について話そうか」
冥冥が満足そうに口元を緩め、計算機を弾く。
春風が再び演習場を優しく吹き抜ける。
己の剣の至らなさを痛感しつつも、さらなる強さへの渇望に瞳を輝かせる土師菅公。
それを見つめながら、「これだから天才のガキは嫌なんだ」とボヤく日下部篤也。
土師家の末裔が振るう至高の剣術は、この日、確かに呪術界の頂へとその第一歩を刻み込んだのであった。
ここ最近話がマンネリ化していたので少し主人公の年齢を進ませました。次回から本格的に高専生としての話を書きたいと思います。皆様の評価と感想をお待ちしております。