陰惨な雰囲気が漂う禪院家の屋敷内に、どっしりとした静寂が満ちていた。
畳の上に胡坐をかき、瓢箪から酒を煽る当主・禪院直毘人。その傍らには、幼い頃から不遇の扱いを受け、怯えたように肩を寄せ合う十二歳の真希と真依の姉妹が控えていた。そして、直毘人のすぐ前に、十二歳とは思えぬ一七八センチという圧倒的な体躯を誇る少年——土師菅公が直立していた。
五条家の先祖とされる菅原道真、そのさらに源流に位置する古代の呪術一族・土師家の末裔。菅公はこの日、直毘人から命じられた直営の護衛任務を完遂したところだった。
「——以上で、護衛任務は終了となります。直毘人様」
菅公は微塵の隙もない美しい礼を見せ、静かな声で告げた。任務中の彼は常に礼儀正しく、丁寧な敬語を崩さない。しかし、顔を上げた菅公の瞳には、一切の揺らぎがない冷徹な光が宿っていた。
「うむ。苦労だったな、菅公。土師の術式も相変わらず見事なものだ」
直毘人が酒臭い息を吐きながら言った。だが、菅公はその場を立ち去ろうとはしなかった。彼は一歩踏み出し、部屋の隅で身を縮めている真希と真依へ視線を注ぐと、直毘人の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「直毘人様。一つ、前もって宣言させていただきます。……いずれ、真希と真依は僕がこの家から奪い去ります」
静寂が静まり返った部屋を支配した。直毘人の眉がぴくりと動く。
「……何だと?」
「言葉通りの意味です。それと、もう一点。もし今後、この屋敷の人間が不用意に彼女たちを傷つけるようなことがあれば……僕は禪院家を店仕舞いにします」
「店仕舞い……だと? ガキが調子に乗るなよ。この禪院家を滅ぼすと言いたいのか」
直毘人の眼光が眼窩の奥で鋭く光り、圧迫感のある呪力が膨れ上がる。しかし、菅公の表情は凪いだ海の如く変わらない。
「冗談ではありません。僕にはその力があり、権利があります。絶対に彼女たちに不当な手出しをさせないでいただきたい。では、失礼いたします」
そう言い残すと、菅公は一度も振り返ることなく部屋を後にした。残された真希と真依は、呆然と菅公が消えた廊下を見つめていた。菅公と二人は、五歳の頃にこの屋敷で出会って以来の親しい幼馴染だった。同い年でありながら、圧倒的な強さと気高さを併せ持つ菅公は、二人にとって唯一無二の光であり、救いだったのだ。
真希の胸の奥で、カッと熱いものが込み上げる。
(菅公……お前、本気でそんなことを……)
「菅公君……」
真依は小さな胸を焦がすような想いで、彼の背中が消えた空間を愛おしそうに見つめていた。
だが、この宣言を面白く思わない者がいた。
菅公が去った数日後、当主の部屋での出来事を聞きつけた真希たちの父・禪院扇と、従兄弟にあたる禪院直哉が、真希と真依の居室へと足を踏み入れた。
「落ちこぼれ共が……調子に乗りおって。あの土師のガキに何を吹聴した」
扇が冷徹な眼光で真希を睨みつけ、刀の柄に手をかける。直哉もまた、底意地の悪い笑みを浮かべながら煽るように言った。
「ほんま、身の程知らずもええとこやで。呪力も満足にない『ゴミ』の分せいで、他家のガキに庇ってもろて満足か? ああ?」
直哉がニヤつきながら手を伸ばし、真希の髪を強引に掴み上げようとした。真希は歯を食いしばり、恐怖に震える真依を背後に庇いながら、直哉を鋭く睨みつける。
「やめろ……! 私たちに触るな!」
「ハッ、口だけは達者やな! 痛い目見んと分からんようやな——」
直哉の指先が真希の髪に触れようとした、まさにその瞬間だった。
ドォン!!!!
屋敷全体を揺るがす、天地を裂くような轟音が響き渡った。
晴れ渡っていた空が一瞬にして漆黒の暗雲に覆われ、屋敷の天井を突き破って「それ」が落とされた。
降臨したのは、通常の雷ではなかった。血のように昏く、おどろおどろしい意思を持った「赤き稲妻」。
菅公の術式『落落雷雷』。彼がさらなる覚醒を果たしたことで生み出されたその真紅の雷は、従来の威力を数十倍にまで跳ね上げ、神の天罰そのものの破壊力を秘めていた。
「なっ——!?」
扇と直哉が反応する間すら与えられなかった。閃光が走ると同時に、圧倒的な熱量と衝撃波が二人を飲み込む。
ぐしゃり、と肉が焼ける嫌な音が響き、電磁波の暴風が部屋の障子や柱を木っ端微塵に砕いた。真希と真依の周囲だけは、まるで不可視の結界に守られているかのように完璧な真空地帯となり、粉じん一つ届かない。
「ぎぁああああああっ!!」
「ぐ、あぁっ……!?」
直哉と扇の悲鳴が屋敷中に木霊した。赤雷の直撃を受けた二人の体からは激しい煙が立ち上り、皮膚は焼き焦げ、全身の骨と筋肉が強烈な感電によって破壊された。床に転がり、ピクピクと痙攣する二人。命こそ留めたものの、それは全治一年におよぶ絶望的な重傷だった。
どこからか、菅公の声が耳元で聞こえたかのような錯覚を二人は覚えたはずだ。
『不用意に傷つけたら、滅ぼすと言ったはずですよ』
事態を聞きつけて駆けつけた直毘人は、惨状と化した部屋と、倒れ伏す扇と直哉を見下ろし、苦々しく舌打ちをした。
「……あのガキ、遠隔からこれほどの呪力を正確に落としたというのか。……全人に告ぐ。今後、真希と真依には一切の手出しを禁ずる。あいつの逆鱗に触れれば、本当にこの家が消えるぞ」
その日を境に、禪院家における真希と真依の位置づけは一変した。
落ちこぼれという蔑視は消えなかったものの、誰一人として二人に暴力を振るうことも、あからさまな嫌がらせをすることもできなくなった。二人が歩けば、かつて二人をあざ笑っていた男たちすらも、怯えたように道を譲る。
菅公が放った一筋の赤雷と、彼が残した「呪い」のような絶対的な守護。それが三年間、真希と真依の平穏を保障したのだ。
◇
それからの日常は、奇妙な静けさに包まれていた。
迫害から逃れた二人は、屋敷の奥にある静寂な庭で二人きりの時間を過ごすことが増えた。
真希は薙刀を持ち、汗を流しながら来る日も来る日も鍛錬に励んだ。菅公の守りはありがたかった。彼がどれほど自分たちを大切にしてくれているかも痛いほど分かっていた。だが、真希の誇りが、ただ守られるだけの存在でいることを許さなかった。
(菅公はあんなに強ぇ。私を守るために、禪院家全体を敵に回すような真似までしてくれた……。だったら、私が強くならなきゃ意味がねぇだろ!)
木刀を振り抜く真希の瞳には、強い意志の炎が宿っていた。
一方、真依は庭の縁側に腰掛け、真希の鍛錬を静かに見つめていた。真依の胸中にあったのは、安らぎと、かすかな切なさだった。
(菅公君が守ってくれる……。暴力を振るわれることもなくなって、お姉ちゃんと菅公君と、ずっとこうやって平和に暮らせたらいいのに……)
菅公は任務の合間を縫って、度々二人のもとを訪れた。
菅公は、二人の前で見せる表情だけは穏やかだった。
「真希、少し筋使いが硬いよ。力を抜いて、踏み込みと同時に受け流すイメージだ」
「うるせぇな、分かってるよ! 菅公、お前が規格外すぎるんだよ!」
真希は悪態をつきながらも、菅公の手ほどきを真剣に受け入れた。菅公は通常の戦闘において意図的に術式を使わず、体術のみで戦う。しかし、その圧倒的な肉体操作と間合いの取り方は、呪力を持たない真希にとっても至高の手本だった。
真依は、二人が組み手をする姿を眺めながら、運ばれてきたお茶をすする。
「はい、菅公君。お茶淹れたよ」
「ありがとう、真依。真依の淹れてくれるお茶はいつも美味しいね」
菅公が柔らかく微笑むと、真依の頬がポッと赤く染まる。
「もう……菅公君ったら、お姉ちゃんにばっかり構ってないで、私ともお話ししてよ」
「悪かったね。真依、最近術式の調子はどうだい?」
「うーん……相変わらず『構築術式』で弾丸を一個作るのが限界かな。私、やっぱり向いてないよ……」
不安そうに俯く真依の頭に、菅公は大きな手をそっと乗せた。
「焦らなくていい。君が戦う必要なんて本当はないんだから。僕が全部打ち払う」
「……菅公君」
菅公の言葉は温かく、真依の心を優しく包み込んだ。だが同時に、真依は感じていた。真希と菅公、二人の背中が自分よりもずっと遠くへ行こうとしていることを。
◇
三年の月日が流れ、二人は十五歳になった。
そして、運命の岐路が訪れる。
真希が、ついに決断を下したのだ。
「私はこの家を出る。東京都立呪術高等専門学校に入る」
ある夜、真希は真依と菅公にそう告げた。
「な……なんで!? お姉ちゃん! ここにいれば、菅公君も守ってくれるし、安全じゃない! なんで自分から危ないところに行くの!?」
真依は声を荒らげ、真希の袖を掴んだ。真希は真依の手を優しく、しかし振り払うように解いた。
「真依。私はこのまま菅公の庇護のもとで生きていく気はない。アイツに甘えて、アイツの背中に隠れたままじゃ、私は私を許せないんだ。私は……禪院家の当主になる。あのクソみたいな連中を全員見返して、私がこの家を潰してやるんだよ」
真希の言葉には、不退転の覚悟が籠もっていた。
真依の目から涙が溢れ出る。
「そんなの……そんなの勝手だよ! 私を置いていく気!?」
真希は唇を噛み締め、背を向けた。
「ついてくるな、真依。お前はここで静かに暮らせ」
真希が去ろうとした時、ずっと静観していた菅公がゆっくりと立ち上がった。
「真希」
「……何だ、菅公。お前も私を止める気か?」
菅公は首を振った。その瞳には、真希の覚悟をすべて受け止めた深い慈愛があった。
「止めないよ。君が自分の足で立ちたいと言うなら、僕はそれを誇りに思う。……ただ、これだけは覚えておいてくれ。どこへ行こうと、僕の雷は君を守り続ける」
「ハッ……カッコつけやがって。世話ばかりかけさせて悪かったな、菅公」
真希は柄にもなく少し照れくさそうに笑うと、背を向けて部屋を出て行った。東京校への進学——それは真希が自身を証明するための第一歩だった。
残された部屋で、真依はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「お姉ちゃんの分からず屋……バカ……」
菅公は真依の隣に座り、そっと肩を抱き寄せた。
「真依。君はどうしたい?」
「私……私は……お姉ちゃんと一緒にいたかった。でも、お姉ちゃんがあんな覚悟をして行っちゃうなら……私だけここに残るなんて、もっと嫌……!」
真依は涙を拭い、菅公の服を強く握りしめた。
「私も行く。お姉ちゃんを一人にはさせない。……京都校に行くわ。京都の呪術高専に入って、絶対にお姉ちゃんに追いついてやる……!」
真依の決意を聞き、菅公は優しく微笑んだ。
「そうか。真依も強くなったね」
「菅公君……私、怖いの。お姉ちゃんと離れるのも、呪術師になるのも……」
「大丈夫だ。君たちが離れ離れになっても、東京と京都に別れても、僕の術式は常に二人と共にある。僕の存在そのものが、二人を守る絶対の呪いだ」
菅公の『落落雷雷』。その真の力は、離れた対象に自動で発動する防衛回路すら形成できる域に達していた。かつて扇と直哉を叩き潰した赤き雷は、今や二人の魂に刻み込まれているのだ。
「真希は東京校へ、真依は京都校へ。二人がそれぞれの道を進むなら、僕はそれを陰から支える。そして……約束通り、いつか二人をこの呪われた連鎖から完全に解き放ってみせるよ」
「……うん。菅公君、私……待ってるから。ずっと」
真依は菅公の胸に顔をうずめた。
数日後、真希は東京へ、真依は京都へと旅立っていった。
二人が去った禪院家の屋敷の庭に、菅公は一人佇んでいた。183cmの体躯をすっと伸ばし、天を仰ぐ。その指先に、かすかに赤い稲妻がチリチリと弾けた。
術式順転『飛雷遠雷』、術式反転『雷化舜動』、拡張術式『死苦発苦』——そして、神域を具現化させる領域展開『桑原桑原』。
土師家の末裔として覚醒した己の圧倒的な力を、菅公は静かに滾らせる。
「真希、真依。行ってらっしゃい」
呟いた声は、風に乗って遠く空へと消えていった。
二人が離れた空の下でどれほど傷つき、試練に立ち向かおうとも、二人の頭上には常に「赤き雷神」が見守っている。かつて小さな部屋で誓った奪還の宣言は、今も何一つ変わっていない。
菅公の絶対的な強さと愛は、これから始まる二人の激動の日常を、静かに、そして確実に照らし続けていくのだった。
と言う訳で真希と真依2人がメインのお話でした。すいません前話の後書きで真希の機嫌が悪い理由が分かると書いてたんですけど大幅に内容を修正する事になりました。本当スンマセン!