東京都立呪術高等専門学校。その一角にある学長室には、割れんばかりの怒声と、腹を抱えて笑い転げる軽薄な笑い声が同時に響き渡っていた。
板張りの床の中央。そこに、一人の少年が正座していた。
ただの正座ではない。背筋は隙なく垂直に伸び、腰の位置は微動だにせず、両手は膝の上に自然と添えられている。父親である土師宗矩(はじ むねのり)によって幼少から叩き込まれた、洗練された美しい正座であった。その所作には一片の迷いもなく、寧ろ己の行いに一切の恥じるところがないと言わんばかりに、誇り高く胸を振るっていた。
名前は、土師菅公(はじ すがきみ)。
十五歳にして、身長百八十三センチメートルという恵まれた体躯を持つ少年である。
そんな菅公の目の前には、額に幾筋もの青筋を浮かべ、今にも噴火しそうな顔で仁王立ちする男——呪術高専東京校学長、夜蛾正道が立っていた。
そして夜蛾のすぐ傍らでは、目隠しをした白髪の男——現代最強の呪術師、五条悟が「ギャハハハハ!」と膝を叩いて大笑いしている。
「入学早々に窓ガラスを割るとはどう言う事だ‼︎」
憤怒の形相を浮かべた夜蛾が、雷鳴のような怒声を発した。学長室の重厚な空気が震える。
しかし、菅公は表情ひとつ変えず、至極真面目な……いや、クソ真面目と評するほかない真摯な口調でと言い切った。
「父に“挨拶する時は大きな声でハキハキと言いなさい”と厳しく言われておりますので」
「だからと言って窓ガラスが破れる程の声量で挨拶する奴があるか! そもそも挨拶が“頼もー!”では道場破りだろうが‼︎」
夜蛾の怒声が再び学長室に響き渡った。五条はさらに「ッハハハハ!『頼もー!』だってよ! 最高じゃん菅公!」と息も絶え絶えに笑い転げている。
土師家は、五条家の先祖である菅原道真……そのさらに先祖にあたる古き家系『土師(はじ)』の末裔である。名門ゆえの厳格すぎるしつけと、菅公自身の生真面目さが最悪の形で噛み合った結果が、校舎の窓ガラス数十枚の激砕であった。
それから一頻り、夜蛾による愛の詰まった(そして容赦のない)説教と雷が落とされた。
正座の姿勢を最後まで崩さなかった菅公に対し、ようやく説教を終えた夜蛾は頭を押さえながら深々とため息をついた。
「……悟、この馬鹿者を教室へ案内しろ。これ以上私の胃を痛ませるな」
「はーい、学長! ほら菅公、立って立って〜。僕らの愛しい一年生たちのところへ案内してあげるからさ」
五条はひらひらと手を振りながら、菅公を促した。菅公は「失礼いたしました」と夜蛾に深々と一礼し、完璧な動作で立ち上がると、五条の後に続いて学長室を後にした。
◇
木造の長い廊下に、二人の足音が響く。
百八十三センチの菅公も背が高い方だが、百九十センチを超える五条悟の隣を歩くと、少し見上げる形になる。
「やー、一時はどうなるかと思ったけど、相変わらずだねぇ菅公は。五条の屋敷で会った時から、君のそういう頭の固いところ、僕キライじゃないよ」
「お褒めいただき光栄です、五条さん」
「褒めてないけどね?」
五条悟は楽しそうに笑いながら言った。
菅公が五条悟と初めて会ったのは、数年前——五条が高専生だった頃、五条家の本邸でのことだった。
当時、幼少でありながら五条悟という『規格外の存在』を目の当たりにした菅公は、体に電撃が走るほどの衝撃と、圧倒的な憧憬を抱いた。
「この人の領域に、少しでも近づきたい」
そう願った菅公に対し、父親の土師宗矩は一つの提案をした。
『五条悟のような強さを求めるならば、型にはまった土師の教育だけでは足りん。金に目がないが、術式の運用と合理的戦闘において右に出る者のいないあの女に弟子入りするがいい』
そうして紹介されたのが、一級呪術師の冥冥であった。
菅公は自らの意思で冥冥に弟子入りを志願した。
『私に弟子入り? 良い心構えだね、菅公。だが、私の指導は安くないよ?』
金銭至上主義の冥冥であったが、菅公の並外れた筋の良さと、何事にも妥協しない愚直な姿勢を気に入り、徹底的に鍛え上げた。
『菅公。強さとは効率だよ。無駄な呪力消費は金銭の浪費と同じだ。そして、敵対する相手に情けは無用。叩き潰すときは一瞬で、確実に命を奪いなさい』
『はい、冥冥さん』
冥冥から叩き込まれた徹底的な戦闘技術と合理性。それが現在の土師菅公の骨組みとなっていた。
また、菅公には高専入学以前からの知り合いがもう二人いた。
禪院家の双子——禪院真希と禪院真依である。
今から十年ほど前、当時五歳だった菅公は父に連れられて禪院家の屋敷を訪れたことがあった。相伝の術式を持たないことで一族から冷遇されていた姉妹に対し、菅公は何の偏見もなく接した。
『菅公! 私と一緒に強くなろうぜ!』
そう笑っていた真希の姿を今でも覚えている。真希も真依も、菅公にとっては大切な友人であり、菅公は二人を『真希』『真依』と呼び、姉妹もまた彼を『菅公』と呼んで親しんでいた。
「さて」
五条が立ち止まり、菅公の肩をポンと叩いた。
「この先に教室がある。君の同期は真希も含めて既に三人入学してるからね。入ったら自己紹介をするように。あ、言っておくけど」
五条は目隠しの奥から意悪くニヤリと笑った。
「挨拶の音量は『普通』にする事。分かった?」
「……熟知しております。二度も同じ過ちは犯しません」
菅公はクソ真面目な顔で頷き、指定された教室の扉の前で大人しく待機した。
五条がガラガラと扉を開け、中に声をかける。
「おーい、みんな〜! 遅れてやってきた最後の同級生を連れてきたよ〜。入っておいで〜」
五条の言葉を受け、菅公はすっと背筋を伸ばし、教室の中に踏み込んだ。
「初めまして、土師菅公と申します。遅れての入学になりますが宜しくお願いします」
完璧な姿勢、そして『普通』の音量による礼儀正しい挨拶。
顔を上げると、教室の中には三人の生徒が座っていた。
一人目は、緑色の長い髪を後頭部で一つに結んだ少女。高専に入る直前にポニーテールにしたという真希であった。彼女は足を組み、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。
二人目は……どう見ても巨大な“パンダ”にしか見えない謎の生物。
三人目は、ウニのようにトゲトゲした髪型をし、制服のハイネックで口元を完全に隠した小柄な少年。
「私に関しては今更、挨拶するまでもねぇだろう。まぁ、宜しくな」
真希が男勝りな口調で、豪快に笑いながら手を振った。ポニーテールが揺れる。
当時五歳で会った頃からの絆は変わらない。相変わらず気風の良い真希の姿に、菅公の口元も少しだけ緩む。
続いて、パンダがどっかりと腰掛けたまま片手を挙げた。
「オレ、パンダ!今日から宜しくな!」
……流暢な日本語を話すパンダである。
そして最後、ハイネックの少年がこちらをじっと見つめ、目元を和ませた。
「しゃけ!」
口元は見えないが、笑いながら単語を口にした。
(……真希以外ツッコミどころが満載だなぁ)
菅公は顔には出さなかったものの、心の中で深い溜息をついた。
喋るパンダに、おにぎりの具材しか喋らないハイネックの少年。呪術界の奥深さというか、混沌っぷりを痛感せずにはいられない。
困惑を察したのか、五条が解説に入った。
「パンダはこう見えてただのパンダじゃなくてね、学長が作った突然変異呪骸なんだよ。で、こっちの棘……狗巻棘は『呪言師』の末裔だ。言霊に呪いが乗っちゃうから、普段は安全のために『おにぎりの具』だけで会話してるの。意味、分かった?」
「……なるほど。理にかなった自衛措置ですね。理解いたしました」
菅公は納得し、狗巻に向かって一つ頷いてみせた。狗巻も「おかか」と返し、親愛の意を示してくれた。
個性があまりにも強すぎる同期たちだが、悪い奴らではなさそうだ。菅公は静かに拳を握り締め、彼らと共に歩む高専生活に思いを馳せた。
◇
その後、授業のスケジュール等の説明を簡単に受けた後、菅公は五条に連れられて男子寮へと向かった。
古い木造建築ではあるが、掃除が行き届いており、一人で使うには十分すぎる広さの部屋であった。
「じゃ、荷解きが終わったらゆっくり休みみな〜。明日はさっそく外での実技訓練もあるからね」
「はい。案内ありがとうございました、五条さん」
五条が去り、静まり返った部屋。
菅公は持ち込んできた大きな木箱を開け、荷解きを開始した。
着替えや身の回り品を棚に収めながら、菅公は自分の腰元に触れた。そこには、何の変哲もない打刀が差されている。
土師家に伝わる固有の術式——『落落雷雷(らくらくらいらい)』。
菅原道真公の雷神たる系譜を引き継ぐその術式は、天から強力な紫電を放ち、周囲一帯を焦土と化す圧倒的な破壊力を秘めている。
しかし、菅公は普段の戦闘において、この術式を意図的に使わない。
(安易に術式に頼れば、呪力操作の精度が鈍る。体術のキレが鈍る。冥冥さんに叩き込まれた『効率的な戦闘』から遠ざかってしまう……)
術式を使わずとも、徹底的に鍛え上げられた一八三センチの肉体と、精密極まりない呪力強化、そして洗練された剣術があれば、大半の呪霊は容易に切り伏せることができるのだ。
そして何より——菅公には明確な戦闘美学、いや、冷徹な信条があった。
(……敵対する相手は、皆殺しだ)
菅公の内に眠る『土師』の血と、冥冥から学んだ合理性。それは、「一度敵とみなした対象には一切の慈悲を与えず、息根を止めるまで徹底的に滅ぼす」という苛烈な思想へと結実していた。
仲間や一般人に対しては礼義正しくクソ真面目な菅公であったが、ひとたび戦場に立ち、敵と対峙した時の冷酷さは、高専の指導者たちすら一目置くレベルにあった。
術式『落落雷雷』は、己の肉体と刀だけでは対処しきれない『真の死線』、あるいは絶対に逃がしてはならない強敵を確実に塵へと変えるための、最後の切り札なのだ。
荷解きを粗方終えた菅公は、部屋の窓辺に立ち、夕日に染まる高専の敷地を見渡した。
遠くのグラウンドでは、真希が薙刀を振り回し、パンダと棘がそれに付き合っている姿が見える。
窓から吹き込む心地よい秋風を感じながら、菅公は胸の中でつぶやいた。
(中々、退屈しなさそうですよ……師匠)
今頃、遠き異国の地か、あるいはどこかの汚い現場で、巨額の報酬と引き換えに冷徹に任務を遂行しているであろう師匠・冥冥の姿を思い浮かべる。
『菅公。お金と命は大事にしなさい。そして、投資に見合うだけの成果を出し続けなさい』
耳裏に残る師の声を思い出し、菅公は口元に微かな笑みを浮かべた。
「拝啓、冥冥さん。僕は今日、無事に高専での第一歩を踏み出しました。窓ガラスを少し割ってしまいましたが……これから、しっかりと成果を出してみせます」
誇り高く背筋を伸ばし、土師菅公は静かに明日への闘志を燃やすのであった。
ご愛読頂いている皆様、誠にありがとうございま。次回からは高専関係者との交流を書いていきたいと思います。