※タイトル変更しました
東京都立呪術高等専門学校のグラウンドには、初夏の青々とした風が吹き抜けていた。
入学してから丁度一ヶ月。都心の喧騒から遠く離れたこの山あいの校舎で、十五歳の土師菅公(はじすがきみ)は、己の拳を真っ直ぐに突き出していた。
百八十三センチの恵まれた体躯から繰り出される拳は、空気を烈しく切り裂き、重密な風圧となって前方の樹木を激しく揺らす。額から一筋の汗が流れる。呪力は一切纏っていない。純粋な肉体運動と筋力、骨格の連動のみによって生み出される打撃の冴えだった。
「相変わらずいい音させるねぇ、菅公。呪力なしでそれだけの風圧出されたら、普通の呪師なら近寄るだけで吹っ飛んじゃうよ」
少し離れたベンチの影から、太い声が響いた。大きな白黒の巨躯——パンダだ。彼は笹の葉を模した駄菓子を口にくわえながら、呆れたように手をひらひらと振った。
「そうかな。まだ軸のぶれが残っているよ、パンダ。冥冥さんとの訓練なら、この程度の隙があれば一瞬で首を飛ばされている」
菅公は息を一つ吐き出すと、息を整えて立ち上がった。漆黒の呪術高専の制服の袖を軽く捲り上げ、パンダの方へ歩み寄る。その佇まいには、十五歳という年齢には不釣り合いなほどの静けさと、絶対的な強者の威厳が漂っていた。
「お前さ、冥冥を基準にするのはやめろって。あの一級術師は金になるとなると鬼より怖いんだからさ。というか、悟も言ってたぞ。『菅公の肉弾戦のセンスはもう完成してるから、体術だけで大抵の特級は潰せるよ』ってさ」
「五条さんなら、そう言うだろうね」
菅公の口元に、ほんの少しだけ柔らかい笑みが浮かんだ。
五条悟。現代最強の呪術師であり、五条家の当主。そして菅公にとっては、かつて五条家の屋敷で対面した時から変わらぬ憧れの対象であった。
菅公の生家である土師家は、五条家の先祖である菅原道真よりも、さらに古く遡る先祖の血脈である。歴史の表舞台からは消え去っていたものの、その呪術的血統の重みは計り知れない。幼い頃、父親である土師宗矩に連れられて訪れた五条家の大広間で、白髪を揺らしながら自分を見下ろした五条悟の圧倒的な存在感を、菅公は今でも鮮明に覚えている。あの強さへの憧憬があったからこそ、菅公は父の紹介を経て、自らの意思で金に目がないが実力は本物である一級術師・冥冥に弟子入りし、血を吐くような戦闘技術を叩き込んだのだった。
「よお、何やってんだお前ら」
グラウンドの入口から、短い髪をポニーテールに結い上げた少女が歩いてきた。真希だ。肩には呪具を収めた布袋を担ぎ、不機嫌そうな、しかし親しみのある表情で二人を見下ろす。
「真希か。自主練か?」
「ああ。悟の奴がまた適当な任務押し付けてきそうだからな。身体動かしとかねえと錆びつく。……相変わらずでかいツラしてんな、菅公」
「真希こそ、高専に入ってくる直前にポニーテールにしてから、だいぶ様になってきたんじゃないか?」
「うるせえよ。茶化すな」
真希はそっぽを向いたが、どこか嬉しそうに鼻を鳴らした。
二人の間には、幼少期からの確かな絆があった。当時五歳だった菅公が、父親に伴われて禪院家の屋敷を訪れた際、冷遇されていた真希と真依の双子姉妹に出会った。不条理な環境の中で懸命に生きていた二人と菅公はすぐに意気投合し、それ以来の親しい友人だった。いまや真依は京都校にいるが、真希と菅公はこうして東京高専の同期として肩を並べている。
「そういえば真希、真依から連絡はあったか?」
「ふん、相変わらず文句ばっかり書いて寄越してくるよ。『京都は退屈だ』とか『菅公に会いたい』とかな。アイツも相変わらず甘ったれてやがる」
「はは、今度京都に行く機会があったら顔を出してみるよ」
ニ人で交わす他愛のない会話。パンダが「はいはい、仲良し幼馴染み同士で盛り上がってるところ悪いけどさ」と割り込んできた。
「悟から連絡だ。高専のすぐ近くの廃工場群に、一級相当の呪霊の群れが発生したらしい。『菅公とパンダで行ってきて〜、二人の仲を深める絶好のチャンスだよ〜』だってさ」
パンダがスマートフォンの画面を見せながら、五条の軽薄な口調を真似て言った。真希が心底鬱陶しそうに眉をひそめる。
「ちっ、相変わらず適当な目隠し野郎だ。パンダ、菅公、気をつけて行けよ。一級相当ってことは、数が多けりゃ少しは骨が折れる」
「心配いらないよ、真希。すぐに終わらせてくる」
菅公は静かに首を振り、立ち上がった。その目はすでに、戦闘者としての冷徹な光を宿していた。
高専内における実力の格付けにおいて、土師菅公は五条悟と同等の領域に位置していた。真希、パンダ、そして狗巻棘の三人が一級ないし準一級レベルのポテンシャルで横並びであるのに対し、菅公の力は群を抜いて規格外だったのだ。
制服のポケットの中で、菅公の指先が硬い金属質の物体に触れる。
和歌山の古代古墳での任務の際、彼が手に入れた『光盤文書』だ。手のひらサイズのピラミッド型をしたその遺物は、繊細な金細工が施され、内部で妖しい赤い水晶が輝いている。土師家の正統な血筋のみに反応し、失われた古代の呪術情報と、特級呪具『緋蝕刃(ひしょくじん)』を使いこなすための七つの型の極意が封印されていた。
そして腰の後ろには、持ち手だけの筒状の呪具——『緋蝕刃』が控えている。起動すれば真っ赤なプラズマのような刃を展開し、あらゆる物体、呪力、果ては概念すらも切り裂く絶対の刀剣。覚醒した菅公の術式『落落雷雷』と合わされば、数億の赤雷とツァーリ・ボンバ級の破壊力を撒き散らす神の如き威力を発揮する。
だが——菅公はそれを普段の戦闘では一切使わない。
「さて、行こうか、パンダ」
「おう。手早く片付けて、帰りにアイスでも買おうぜ」
二人は新緑の境内を抜け、帳が降ろされつつある現場へと向かった。
◇
郊外に位置する広大な廃製鉄工場。すでに上空には黒い「帳」が下り、薄暗い闇が空間を支配していた。湿り気のある空気には、不快な腐肉と呪力の臭気が満ち満ちている。
「うへぇ……嫌な匂いだな。呪霊の巣窟になってるぞ」
パンダが巨大な鼻をひくつかせながら、警戒態勢に入る。
工場の内部、広大な吹き抜けの作業場に踏み入ると、暗闇の奥から無数の赤い眼光が浮かび上がった。
ギチギチギチ……ガタガタガタ……!
不気味な関節音とともに現れたのは、巨大な百足(ムカデ)のような胴体に無数の人間の腕が生えた、悪夢のような姿の二級・一級呪霊の群れだった。その数は数十、いや百を超えている。それらが合体し、うごめきながら巨大な異形の塊となって二人を包囲していた。
「菅公、どうする? 俺がゴリラモードで暴れて道を拓くか?」
パンダが拳を叩き合わせ、肉体を強化しようとした。しかし、菅公は静かに手で制した。
「必要ないよ、パンダ。君は後ろで見守っていてくれ。——すぐに掃除を終わらせる」
「一人でか? 相手はかなりの数だぞ」
「僕にとって、数が幾ら増えようとゼロを掛け合わせているのと変わらない」
菅公は一歩、前に踏み出した。
183センチの身体から、一切の呪力が消える。いや、消えたのではない。極限まで洗練された呪力制御により、全呪力が体内にとどまり、完璧な静寂を作り出しているのだ。
相手は言葉を通じない呪霊。そして、菅公と「敵対するもの」。
土師菅公の戦闘における掟は一つ。敵対する相手は、例外なく皆殺しだ。
ガアアアアアッ!
先頭の一頭、家一軒ほどもある巨大な甲殻を持つ呪霊が、無数の腕を振りかざしながら菅公へ襲いかかった。猛烈な質量と爪の嵐が菅公を押し潰そうと迫る。
菅公の動く速度は、常人の目を遥かに超越していた。
バァンッ!
一歩の踏み込みでコンクリート床が丸く陥没し、爆音とともに菅公の姿が消えた。
次の瞬間、彼は巨大呪霊の懐、死角となる顎の下に滑り込んでいた。術式も、緋蝕刃も使わない。純粋な体術。
「一」
菅公の右拳が、呪霊の顎下へ下から垂直に突き上げられた。寸勁(すんけい)。密着した状態からの最小限の予備動作で放たれる、極限の衝撃波。
ドゴォォォォンッ!
肉体内部の呪力と骨格の質量が完璧に乗った一撃は、巨大呪霊の硬質化していた頭部甲殻を内側から破砕した。まるで爆弾が弾けたかのように、呪霊の頭部が紫色の体液とともに吹き飛ぶ。
「ガァ……!?」
悲鳴すら上げる間もなく、一頭目が霧となって消散し始める。だが、菅公の攻撃は止まらない。
「二、三、四——」
群がる呪霊の真っ只中へ、菅公は単身飛び込んだ。
左から迫る鋸状の腕。菅公は頭部をミリ単位で傾けて回避すると同時に、相手の肘関節の隙間に滑らかな手刀を打ち込む。パキンと甲高い音が響き、硬質な腕がへし折れた。そのまま流れるような旋回運動で右の足刀蹴りを叩き込む。
ガシャアンッ!
二頭目の胴体が真っ二つにへし折れ、背後にひかえていた三頭の呪霊を巻き込んで壁面に激突、粉砕した。
冥冥から叩き込まれた実戦体術。それは無駄な動きを極限まで削ぎ落とし、相手の運動エネルギーを流しながら自らの破壊力へと変換する殺人技術だった。
「すっげぇ……」
後方で見守るパンダが、思わず感嘆の声を漏らした。
「五条悟と同等」という評価はダテではない。悟が「無下限呪術」という圧倒的な理不尽で敵を叩き潰すなら、菅公は超絶的な肉体制御と無比の体術センスで、敵を物理的に解体していく。
「ギシャアアアッ!」
頭上から、一級相当の巨大な蜘蛛型呪霊が、粘着性の糸と巨大な毒針を繰り出しながら奇襲を仕掛けてきた。全方位からの糸の網。回避不可能に見える密室の罠。
菅公は冷ややかな瞳で上空を見上げた。一瞬、彼の漆黒の瞳の奥で、恐ろしいほどの殺意が渦巻いた。
(相手は皆殺し——根絶やしだ)
菅公の脚部筋肉が跳ね上がる。
地面を蹴った衝撃で周囲のコンクリートが粉々に弾け飛び、彼は空へと跳躍した。迫り来る粘着性の糸の隙間を、体を捻るようにしてすり抜ける。四の型——機動力と体術に重きを置いた『緋蝕刃』の歩法を、素身の体術に応用した超人的な身体捌き。
空中で蜘蛛型呪霊と交差する一瞬。
菅公は空中でありながら軸をブレさせず、右脚を鞭のようにしならせた。
「ハッ!」
空を切り裂く足払い——空中上段回し蹴り。
ドカァンッ!!
けたたましい肉体破壊音が響き、蜘蛛型呪霊の胴体中央がくの字に折れ曲がった。衝撃波が空間を伝播し、周囲の「帳」の境界すら微かに揺れる。
空中から落下しながら、菅公はさらに追撃の拳を叩き込んだ。
上空から地上へ向かって打ち下ろされる直拳。メテオの如き勢いで呪霊を地面へと叩き落とし、その直後に菅公の踵が呪霊の脳天へと突き刺さる。
ズドドドドドンッ!!
製鉄工場のコンクリート床が直径十メートルに渡ってクレーター状に陥没した。一級呪霊の頭部は完跡もなく砕け散り、残された胴体が激しく痙攣したのち、黒い煙となって消えていく。
「これで終わりか?」
菅公は静かに立ち上がり、首の骨を軽く鳴らした。息一つ乱れていない。183センチの影が、煙る埃の中にすっと立つ。
だが、奥の闇から、この製鉄工場の呪いを束ねていた「真のボス」というべき特級に近い変異呪霊が姿を現した。いくつもの人間の顔が融合した巨大な肉塊。それは菅公の尋常ざる強さを察知し、命乞いをするかのように醜い声を上げた。
「タ、タスケ……マテ……」
「命乞いか」
菅公の瞳に宿るのは、徹底した冷血だった。
「僕に敵対した時点で、君たちの選択肢は消えている。一人残らず、皆殺しだ」
呪霊が恐怖のあまり全身の呪力を暴走させ、全方位へ呪力の針を放出させようとした瞬間——菅公の体が掻き消えた。
速い。光速とまではいかずとも、音速を遥かに置き去りにする肉体運動。
次の瞬間に菅公が立っていたのは、肉塊呪霊の真っ只中だった。
菅公の両手が、流れるような動作で肉塊の核となる部分に突きたてられる。手刀が肉を切り裂き、呪力の核をダイレクトに掴み取る。
「無に帰れ」
菅公が両手に力を込めると同時に、全身の筋肉を連動させた螺旋の衝撃を内部へと叩き込んだ。
グシャアッッッ!!
内側から炸裂する肉と呪力。
残った数十体の雑魚呪霊も含め、空間に存在していた全ての呪霊が一瞬にして圧壊し、爆ぜ、黒い塵となって空気中に霧散していった。
静寂が戻ってきた。
工場内に漂っていた不快な気配は完全に消え去り、あとには陥没した床と、静かに立つ土師菅公の姿だけが残されていた。
◇
「いやー……毎回見ても引くレベルだな、それ」
パンダが後方からのんびりと歩み寄ってきて、肩をすくめた。
「術式も使わず、あの赤く光る刀(緋蝕刃)も抜かずに、素手だけで一級の群れを全滅させちゃうんだもんなぁ。悟が『菅公は一人で戦争できるよ』って言ってたの、マジで納得だわ」
「使わないのは、鍛錬のためだよ」
菅公は制服のホコリを軽く払いながら、穏やかな口調に戻っていた。先ほどまでの死神のような冷徹さは消え去り、いつもの15歳の少年の顔つきになっている。
「術式『落落雷雷』や覚醒した赤雷、『緋蝕刃』の威力は確かに絶大だ。極ノ番の『雷帝』や領域展開『桑原桑原』を使えば、この一帯ごと消滅させられる。でもね、パンダ。力に頼りすぎると、いざという時の体術のキレが鈍る。冥冥さんにも『最終的に頼れるのは洗練された己の肉体と観察眼だ』と口酸っぱく言われているからね」
「まあ、冥冥の言うことはもっともだけどさ。お前の場合、その基本性能が高すぎるんだよ」
パンダは苦笑しながら、菅公の肩をぽんと叩いた。
「よし、ミッション完了だ! 帳も上がるし、高専に戻る前に悟に報告して、アイス買おうぜ」
「いいね。どうせ買うなら、一番高いやつにしようか」
「賛成! 真希の分も買っていったら、アイツ素直じゃないから『別に頼んでねえよ』とか言いながら喜ぶぞ」
ふたりは顔を見合わせて笑い合った。
二人で廃工場をあとにし、夕暮れ時の街並みを歩く。
菅公はポケットの中で、もう一度『光盤文書』に触れた。古代の土師家の智恵が詰まったこの遺物。そして和歌山の古墳で手にした『緋蝕刃』。三年間かけて叩き込んだ七つの型。それらを解き放つべき真の戦いは、いずれ訪れるのだろう。
だが、今はまだ——高専に入学して一ヶ月の、この賑やかで温かい日常の中にいたいと思う。
「パンダ、今日の夕飯は何かな?」
「今日の当番は棘だぞ。きっとおにぎりの具について熱く語られるな」
「ふふ、シャケとツナマヨなら、ツナマヨを応援することにするよ」
二人並んで歩く影が、夕日の中に長く伸びていく。
最強の血脈を継ぎ、五条悟と同等の絶大な力を秘めながらも、土師菅公は友人たちと共に、穏やかな高専の日常を歩み続けていた。
次回は真希回です。