初夏の風が、東京都立呪術高等専門学校の広大な敷地を吹き抜けていく。山懐に抱かれた校舎は木々の深い緑に包まれ、けたたましく鳴く蝉の声が、間もなく訪れる本格的な夏の気配を告げていた。
高専に入学してから二ヶ月。
訓練用のグラウンドには、二つの影が激しく交錯していた。
「――甘ぇぞ、菅公ッ!」
鋭い声とともに、長尺の木刀が疾風のごとき勢いで空を割る。振るったのは、黒髪を後頭部で一つに束ねた少女――禪院真希だ。しなやかでありながら鍛え上げられた跳躍から繰り出される一撃は、呪力による補強が一切ないとは思えぬほど苛烈で、風切り音すら重い。高専に入学する少し前に、それまでの短髪から切り替えたポニーテールが、彼女の激しい動きに合わせて躍動的に揺れていた。
対する少年、土師菅公(はじ すがきみ)は、その巨躯を感じさせないしなやかな足さばきで、わずか数センチメートルだけ間合いを外した。
15歳にして183センチメートルという恵まれた体躯。整った目鼻立ちには、日本史上屈指の大怨霊にして天神と崇められた菅原道真――そのさらに先祖にあたる古代呪術師の一族「土師家」の矜持と、静謐な知性が宿っている。
菅公は手にした一本の木刀で、真希の渾身の打ち込みをかすかに受け流した。甲高い打撃音がグラウンドに響き渡る。
「相変わらず、容赦のない踏み込みだね、真希」
菅公は穏やかな声をかけながら、身を翻して真希の側前へと滑り込んだ。真希の『天与呪縛』による超人的な身体能力から繰り出される攻撃は、一瞬の隙を見せれば一撃で叩き伏せられるほどの威力を誇る。しかし、菅公の体術は完璧に洗練されていた。無駄な呪力の浪費は一切なく、重心の移動と相手の軸を削る体捌きだけで、真希の猛攻をことごとく捌ききっていく。
「当たり前だろ! 稽古で手ぇ抜いてどうすんだよ! ほら、打ってこいッ!」
真希は不敵に唇を歪め、反転させた木刀の柄で菅公の腹部を突き上げる。菅公は木刀の腹でそれを優しく押し返し、そのまま滑らかな動きで真希の首元へ木刀の先を突き突きつけた。ぴたりと、寸止めの位置で止まる。
「……僕の勝ちだ」
「ちッ……! 相変わらず嫌な受け流し方しやがる」
真希は舌を打ち、木刀を肩に担ぎ直した。汗ばんだ額の前髪を乱暴に払い上げ、溜息をつく。
「お前、今日も呪力も術式も一切使ってねぇだろ。体術だけで私と対等以上に渡り合うなんざ、相変わらず可愛げのない奴だ」
「ふふ、そんなことないよ。真希の体術は本当に凄いんだから、僕だって本気で集中しないと一息で持っていかれる。それに……僕の術式や武器は、日常の稽古で使うような代物じゃないからね」
菅公はそう言って苦笑し、手にした木刀を脇に抱えた。
二人は息を整えながら、グラウンドの脇にある大きな木陰へと向かった。木漏れ日が揺れるベンチに腰を下ろすと、菅公はスポーツドリンクのボトルを真希に差し出す。真希は「サンキュ」と短く応え、受け取って勢いよく煽った。
菅公が腰を下ろすと、その腰元に携えられた長方形の漆黒の鞘、そして彼の鞄の隙間から覗く怪しげな金色の物体に真希の視線が向けられた。
「……それ、相変わらず変な気配を放ってんな」
真希が顎でしゃくったのは、菅公の鞄の中に収められている古代の遺物――『光盤文書(こうばんぶんしょ)』だった。
菅公は微笑み、鞄からそれを取り出してみせた。
それは、手のひらに収まるほどの小ぶりなピラミッドの形状をした立体物だった。表面には息を呑むほど緻密な金の幾何学模様が施されており、その隙間からは、内部で静かに明滅する深紅の水晶が不気味かつ神秘的な光を放っている。
「和歌山の古い古墳で見つけた、僕の先祖……土師家の秘密が隠された遺物だよ。内部を見るには、土師家の正統な血筋を引く者の呪力と生体認証が必要なんだ。この中には古代の呪術技術や、僕が扱っている特級呪具『緋蝕刃(ひしょくじん)』の使い方が封印されていたんだよ」
菅公は腰の漆黒の柄――『緋蝕刃』へと視線を落とした。
一見するとただの柄に過ぎないが、菅公がこれを解放すれば、あらゆる物体、呪力、呪具、そして敵の術式すらも泥のように切り裂き、極めれば空間や概念そのものすら切り捨てると言われる絶大なる特級呪具へと変貌する。まるで古の物語に出てくる光の剣のような代物だ。
「この中に記されていた剣術の『型』を完全に僕の体へ叩き込むのに、丸三年かかった。
基本となる一の型。
剣尖や体捌き等のテクニックに特化した二の型。
防御とカウンターに全振りした三の型。
機動力と体術に重きを置いた四の型。
一撃の重さに重点を置いた五の型。
攻撃と防御のバランスに重きを置いた六の型。
そして……一切の防御を捨て去り、攻撃のみを行う七の型」
指先で光盤文書の金の細工を愛おしそうに撫でながら、菅公は言葉を続けた。
「光盤文書の解析とこの七つの型の習得があったからこそ、僕は自分の力を制御できるようになった。……それに、僕の固有術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』も、最近の更なる覚醒によって質が完全に変わったしね」
「あぁ……あの気味の悪い『赤い雷』か」
真希はどこか遠い目をして呟いた。
かつて菅公が放っていた雷は、眩い青白色だった。しかし、血の覚醒を経て至った現在の『落落雷雷』が発生させる雷は、禍々しくも神聖な漆黒を帯びた深紅。その威力は覚醒前の数十倍に跳ね上がっている。
指先からワイドレンジにもロングレンジにも稲妻を放つ術式順転『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』。
自身を雷化させ光速で移動し、その超絶的な速度エネルギーをそのまま打撃に乗せる術式反転『雷化舜動(らいかしゅんどう)』。
電磁波によって強力な磁力を発生させ、人体や物体、さらには呪力そのものを分子レベルで破壊する拡張術式『死苦発苦(しくはっく)』。
ツァーリ・ボンバ(原爆)に匹敵する破壊力の雷槍を投擲する極ノ番『雷帝(らいてい)』。
そして、無限の雲海と幾千の黄金の鳥居が立ち並ぶ神域を構築し、数億の赤雷で対象を跡形もなく消滅させる領域展開『桑原桑原(くわばらくわばら)』。
「そんなもん、稽古で使われたら溜まったもんじゃねぇよ。一瞬で消し炭にされるっつーの」
呆れたように吐き捨てる真希に、菅公は穏やかな笑みを返した。
「だから使わないよ。それに、僕の本来の戦い方は『敵対する相手は一人残らず皆殺しにする』のが基本だからね。呪詛師や呪霊なら容赦なく灰に変えるけれど、真希を一瞬で消し炭にでもしたら、京都の真依に僕が殺されちゃうよ」
「……けッ。あいつの名前を出すんじゃねぇよ。相変わらずあいつには甘いんだからな、菅公は」
真希は少しだけ口元を歪めたが、その瞳に嫌悪の色はなかった。
「甘いわけじゃないさ。ただ、大切な幼馴染だからね」
二人が初めて出会ったのは、今から十年前――お互いに五歳だった頃だ。
土師家の跡取りとして、父親である土師宗矩(はじ むねのり)に伴われて禪院家の屋敷を訪れた菅公。そこで出会ったのが、落ちこぼれとして扱われ、冷ややかな視線に晒されていた幼き日の真希と真依の姉妹だった。
呪力を持たない真希と、呪力が極めて薄い真依。当時の禪院家の中で孤独を深めていた二人に対し、菅公は何の偏見もなく接した。権力や呪力の有無などどうでもいいと言わんばかりに、二人の手を取って屋敷の庭を駆け回った日のことを、真希は今でも鮮明に覚えている。
「あの頃の真依は、今よりずっと素直で可愛かったんだけどね。『菅公、菅公』って後ろをついてきてさ」
「今じゃすっかり皮肉屋のすれ違いお嬢様だけどな。……まあ、京都校でそれなりにやってるみたいだけどよ」
真希はフンと鼻を鳴らし、自分のポニーテールを揺らした。
「そういえば真希、髪型……本当に似合ってるよ。高専に入る少し前にポニーテールにしたろ? 昔のショートヘアもボーイッシュで良かったけど、今のポニーテールはすごく凛としていて格好いい」
「っ……! いきなり何言ってんだよ、アホ!」
真希は一瞬だけ言葉を詰まらせ、顔を背けて強がるように叫んだ。
「髪が邪魔だから束ねてるだけだ! 照れ隠しにもならねぇお世辞言ってんじゃねぇよ!」
「お世辞じゃないんだけどな。本当のことだよ」
菅公がクスリと笑うと、真希は誤魔化すように「水、もう一口よこせ!」とボトルを奪い取った。その横顔がほんのりと朱に染まっているのを、菅公は黙って見守った。
風が二人の間を通り抜け、木々の葉を揺らす。静かな時間が流れる中、真希がふと思い出したように尋ねてきた。
「そういえばさ、菅公。お前、なんで冥冥みたいな極度の銭ゲバ女に弟子入りしたんだ? お前くらいの血筋と才能がありゃ、五条家の伝承だって学び放題だったろ」
「冥冥さんへの弟子入りかい?」
菅公は空を見上げ、懐かしい記憶に目を細めた。
「父親の紹介だったよ。でもね、自らの意思で冥冥さんに弟子入りしたいって頼んだのは僕自身なんだ。理由は……五条悟(ごじょう さとる)さんへの憧れかな」
「……悟への?」
「そう。僕がまだ幼い頃、五条家の屋敷で高専時代の五条さんと会う機会があったんだ」
当時、菅公はまだ幼く、五条悟もまた若き日の高専生だった。だが、その時に目の当たりにした五条悟という存在の圧倒的な天賦、無限を操る圧倒的な立ち姿は、菅公の幼心に強烈な衝動を焼き付けた。
五条家の先祖である菅原道真。そのさらに先祖にあたる土師家の血を引く者として、自分もまた「最強」の背中を追わなければならない。そう強く感じたのだ。
「五条さんは天才で、感覚ですべてをこなしてしまう。だから、五条さんに追いつくためには、感覚ではなく徹底的に合理的で、無駄のない洗練された戦闘術を身につける必要があった。だからこそ、対価に見合わない努力を嫌い、効率と勝利だけを徹底的に追求する冥冥さんに弟子入りしたんだ」
『菅公、戦いにおいて感情はコストだよ。一銭の価値も生まない情けは捨てなさい』
そう微笑みながら語っていた冥冥の姿が浮かんでは消える。冥冥から仕込まれたのは、徹底したプロ意識と、合理的な殺陣。そして「敵対する者は容赦なく完全に息の根を止める」という冷酷なまでの完遂能力だった。
「冥冥さんの指導は本当に過酷だったよ。少しでも手を抜けば、本気で死にかけたからね。でも、あの方の元で学んだからこそ、僕は自分の持つ過剰な力を無駄なくコントロールできるようになった。冥冥さんには本当に感謝しているんだ」
「ふん……あの金に汚い女が、よくそんな指導やったもんだぜ」
「あはは、もちろん父親が相応の報酬(受講料)を支払っていたからだけどね」
菅公の軽やかな返しに、真希は「だろうな!」と爆笑した。
二人の会話は尽きない。
183センチの大きな体をベンチに預け、穏やかに微笑む菅公。
柄のある言葉を放ちながらも、その瞳に確かな野心と情熱を宿す真希。
「……高専に来て二ヶ月か。あっという間だったな」
真希が木漏れ日を見上げながら呟く。
「禪院家を飛び出して、ここに頼りになる仲間がいる。……悟は相変わらず適当でイカれてるが、ここにいると退屈はしねぇ」
「うん。僕も真希と同じ高専に来られて本当に良かったと思っているよ。僕たちの行く先には、きっと色んな困難や強い敵が立ちはだかるだろうけれど……」
菅公は立ち上がり、真希に向かって優しく手を差し伸べた。
「僕たちが負けるはずがない。真希が禪院家を見返すその日まで、僕が君の最高の相棒として隣に立ち続けるよ」
真希は一瞬、差し出された大きな手を見つめた。
そして、フッと不敵な笑みを口元に浮かべると、その手を力強く叩き払って自分自身の足で勢いよく立ち上がった。
「当たり前だ! 誰に物言ってんだ、菅公! 誰の助けも借りずに禪院家の連中の鼻を明かしてやるさ。……だがまあ、お前が隣にいるなら、退屈だけはしなさそうで助かるよ」
「ふふ、光栄だな」
真希の男勝りで強がりな言葉の裏にある確かな信頼を感じ取り、菅公は心からの笑みを浮かべた。
戦闘のない、穏やかな初夏の午後。
二人が歩む苛烈な呪術師の道において、この高専での日常風景こそが、何よりも代えがたい束の間の平穏であり、お互いを強く繋ぎ止める絆の証だった。
「よし! 休憩はおしまいだ! 菅公、もう一本付き合えッ! 今度こそお前のその鼻柱を叩き折ってやる!」
「いいよ、真希。でも、僕の体術を崩すのは、そう簡単じゃないよ?」
二人は再び木刀を手に取り、眩い太陽の光が降り注ぐグラウンドの中央へと歩き出した。風が吹き抜け、真希のポニーテールと、菅公の黒髪を心地よく揺らしていった。
と言うわけで真希回でした。実はR-15風に書こうとしたんですがあまりにも下手くそだったので普通の小説にしました。次回は棘回です。