都内から大きく離れた東京都立呪術高等専門学校の木造校舎。その静謐な廊下に、異彩を放つ一の影があった。
土師菅公(はじすがきみ)。十五歳にして百八十三センチという並外れた高身長と、五条家の遠祖たる菅原道真、そのさらに源流に位置する古代の名門・土師家の血を引く少年である。その端正な顔立ちにはどこか浮世離れした神聖さが漂っていたが、今の彼は手帳とペンを手に、眉間に深い皺を寄せて唸っていた。
「……つまり、さっきの『おかか』は否定で、その前の『しゃけ』が肯定……。では、さっき僕が差し出した缶コーヒーに対する『ツナマヨ』は、一体どういう意味なんだろう……?」
菅公の前で、ハイネックの襟元を深く引き上げた小柄な少年――狗巻棘が、少し困ったように紫の瞳を細めていた。
「ツナマヨ」
棘はもう一度、念を押すように指を一本立てて見せる。菅公は真剣そのものの表情で手帳に『ツナマヨ=疑問? あるいは提案?』と書き付けた。
「おいおい菅公、またそんなくだらねぇことで頭抱えてんのか?」
廊下の曲がり角から、青い髪を高い位置でポニーテールに結い上げた少女――禪院真希が呆れ顔で歩いてきた。
「あ、真希。くだらないとは心外だな。僕は棘君との円滑な意思疎通を目指しているんだ。任務における連携は命に関わるからね」
「相変わらずクソ真面目だな。言っとくけどな、『ツナマヨ』は主張とか提案だ。さっきのは『コーヒーじゃなくて緑茶が良い』って言いたかったんだろ」
「しゃけ!」
棘が手をぽんと叩いて頷く。菅公は目から鱗が落ちたような顔をして、素早く手帳にメモを走り書きした。
「なるほど……! 提案の意味か。教えてくれてありがとう、真希。さすがだね」
「別に教えるほどの事じゃねぇよ。お前、体術や呪力の扱いは恐ろしいくらい飲み込みが早い癖に、こういう事になると途端に頭が固くなるよな」
真希はため息をつきながらも、どこか楽しそうに笑った。菅公と真希、そして京都校にいる真依とは同じ十五歳の同い年だ。かつて五歳の頃、禪院家の屋敷で出逢って以来の親しい間柄である。
「僕にとって言葉は重要な要素だからね。僕の師である冥冥さんも『言葉と情報は契約であり、価値そのものだ』と仰っていた。言葉の真意を見誤るわけにはいかないよ」
「あの銭ゲバの受け売りかよ。お前ホント、五条のバカに憧れて銭ゲバに弟子入りしたって割には、しっかり金銭と合理主義の影響受けてんな」
「五条さんは別格だよ」と菅公は遠い目をした。少年時代、五条家の屋敷で初めて目にした高専時代の五条悟。あの圧倒的な存在感と無下限呪術の煌めきは、今も菅公の胸に強烈な憧憬として焼き付いている。父親である土師宗矩に頼み込み、冥冥に自ら弟子入りしたのも、いつか五条悟という至高の存在に肩を並べる力を得るためだった。
「まあいいや。菅公、棘。今日の出張任務、気をつけて行けよ。東北の奥地だろ?」
「ああ。東北の廃村で呪霊の群生と、不審な呪力の反応が確認されたらしい。僕と棘君で払って来るよ」
「おかか、明太子!」
棘がキュッと目元を引き締め、力強く拳を握りしめた。菅公は微笑み、手帳を懐に収めた。
「『油断は禁物、気合を入れていこう』……だね、棘君?」
「……! しゃけ!」
棘が嬉しそうに目を丸くした。菅公はおにぎり語の解読に小さな手応えを感じながら、深く頷いた。
東北地方の山深くに位置する、半世紀前に廃村となった小集落。
湿った霧が立ち込め、錆びついたトタン屋根と朽ち果てた木造家屋が立ち並ぶその場所は、異質な粘着質を帯びた呪力で満ち満ちていた。
新幹線とレンタカーを乗り継ぎ、現地に到着した菅公と棘は、荒れ果てた集落の入口に立っていた。
「……ひどい気配だ。単なる自然発生の呪霊だけじゃない。人間の悪意が混ざり合っている」
菅公は冷徹な眼差しで村の奥を見据えた。百八十三センチの長身から発せられる威圧感は、15歳のものとは思えないほど重厚だ。
「高菜」
棘が喉のスプレーを握りしめ、菅公の横顔を心配そうに見上げる。
「大丈夫だよ、棘君。僕は平気だ。……さて、今回の戦闘だけど、僕は普段通り『術式』も『緋蝕刃』も使わないで行くよ」
菅公は腰に差した古い巻物――和歌山の古代古墳で見つけた『光盤文書』から解読し、三年かけて七つの型を修得した極限の特級呪具『緋蝕刃(ひしょくじん)』の柄にそっと手を触れ、すぐに離した。
ありとあらゆる物体、呪力、術式、さらには概念すら切り裂く絶対の刃。そして更なる覚醒によって赤い稲妻と化し、数十倍の威力を誇るようになった自らの術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』。
圧倒的すぎる力は、己の肉体と体術を極める邪魔になる。冥冥から叩き込まれた「無駄を削ぎ落とした合理的な戦闘」を遂行するため、菅公は自らに強い制約を課していた。
「僕が前衛で肉弾戦を仕掛ける。棘君は後方でサポートをお願いできるかな?」
「しゃけ」
二人は息を合わせ、静かに廃村へと踏み込んだ。
次の瞬間、朽ちた民家の影から、蜘蛛のような無数の脚を持った二級呪霊の群れが一斉に跳ね出してきた。粘液を撒き散らしながら襲い来る醜悪な異形。
「――フッ!」
菅公の動体視力が、あらゆる軌道を完璧に捉える。
呪力を最小限に足裏へ集中させ、地面を爆破するように踏み込むと、菅公の体躯は残像を残して消えた。
ドスッ!
最前列の呪霊の頭部が、菅公の正確無比な鋭い前蹴りによって跡形もなく粉砕される。間髪入れずに身を翻し、冥冥直伝の無駄のない体術で、二体目の呪霊の首を強靭な手刀で刈り取った。
「動くな」
背後から棘の低く澄んだ声が響く。呪言の波動が空間を圧迫し、残りの呪霊群の動きが完全に停止した。
「感謝する、棘君!」
菅公は軸足をブレさせることなく、一瞬で距離を詰めた。旋風のような回し蹴りが空気の壁を破り、硬化した呪霊の胴体をまとめて叩き潰す。黒い汁を撒き散らし、呪霊たちが塵となって消えていく。
鮮やかで無駄のない連携。だが、村の最奥にある朽ちかけた神社へ辿り着いたとき、空気の異様さはピークに達した。
拝殿の扉が蹴破られ、中から現れたのは呪霊だけではなかった。
人間の死体を切り貼りした気味の悪い肉塊を侍らせ、歪んだ笑みを浮かべる三人の男たち――呪詛師である。
「ケケッ……高専のガキが二人か。なんだ、一人はデカイだけで術式も使わねぇ木偶の坊か?」
中央に立つ傷だらけの呪詛師が、邪悪な呪力を臓物のように撒き散らしながら嘲笑った。拝殿の奧には、拉致されたと思われる一般人の無残な遺体が転がっている。
菅公の目が、氷のように冷たく澄み渡った。
彼の胸中に宿る絶対の鉄則――『敵対する相手は皆殺し』。
「……棘君。耳を塞いで、少し下がっていてくれ」
「ツナマヨ!?」
棘は菅公の雰囲気が一変したことに気づき、目を見開いた。
「大丈夫。こいつらは人間じゃない。……害虫だ」
菅公は一歩を踏み出した。呪具も術式も発動しない。ただ、全身の筋肉が超精密な機械のように連動し、全身から放たれる殺気が周囲の空気を凍りつかせた。
「ガキがナメやがって! 殺せ!」
左右の呪詛師が怪異な呪具を構え、飛びかかってくる。
菅公の四肢が、疾風となって動いた。
左の呪詛師が振り下ろした鎖鎌を、菅公はわずか数ミリの紙一重でかわす。滑り込むような体捌きで相手の懐へ潜り込むと、右掌を相手の顎下へと叩き込んだ。
「ガハッ!?」
頭蓋骨を破砕する鈍い音が響き、脳を揺らされた呪詛師が即死して崩れ落ちる。
右から迫る二体目の呪術攻撃に対し、菅公は反転して相手の腕を掴み、関節をあり得ない方向へと折り曲げた。凄絶な悲鳴が上がる間もなく、喉輪絞めの要領で喉頭蓋を潰し、命の灯火を奪い取る。
わずか数秒。二人の呪詛師が沈黙した。
術式も使わず、ただ極限まで高められた肉体と呪力強化のみで人を殺戮する菅公の姿に、残された首魁の呪詛師が恐怖に顔を歪めた。
「ひッ……怪物め! 壊れろォッ!」
首魁は懐から不気味な黒い壺を取り出し、自らの血を注ぎ込んだ。壺から溢れ出たのは、特級に匹敵する凶悪な呪いの塊。巨大な黒い影が形成され、菅公へ向かって咆哮を上げる。
「吹っ飛べ!!」
菅公の前に躍り出た棘が、首元のジッパーを全開にして叫んだ。
強烈な呪言の衝撃波が黒い影を強打し、その動きを大きく減衰させる。だが、特級相当の呪いの反動は凄まじく、棘の喉から血が噴き出し、彼はその場に膝をついた。
「ガハッ……ツナ……マヨ……!」
血を吐きながらも、自分を守ろうとしてくれた棘の姿。
それを見た瞬間、菅公の中で静かに何かが弾けた。
「……僕の……大切な友人に、何をさせているんだ」
静かすぎる声。
菅公の全身から、凄まじい威圧感が溢れ出した。
バチバチバチッ……!
空気中の酸素が弾ける音が響く。菅公の全身から立ち昇ったのは、通常の黄金の雷ではない。
血のように深く、禍々しくも神々しい――『赤』の閃光。
更なる覚醒を果たした土師菅公の術式『落落雷雷』。その威力はかつての数十倍。発生する稲妻は全てを焼却する赤き裁きの雷である。
菅公はゆっくりと腰の特級呪具『緋蝕刃』の柄に手を伸ばした。
普段は封印している力を、今この瞬間に解放する。
「一の型」
カチリ、と柄を押し出す。
鞘から引き抜かれたのは、実体を持たない光の刃。赤い雷が刃に纏わりつき、概念すら切り裂く絶対殺戮の剣身が形成される。
「ひ、ヒイイッ!?」
首魁の呪詛師が死の恐怖に悲鳴を上げた。特級の呪いが菅公を呑み込もうと襲いかかる。
菅公はただ、静かに踏み込んだ。
『緋蝕刃』一の型――最も基本にして、最も完璧な一閃。
空間そのものが赤く裂けた。
術式、呪力、肉体、そして背景の拝殿に至るまで。菅公が放った赤き一閃は、特級の呪いもろとも、首魁の呪詛師を分子レベルで切断し、消滅させた。
ズザザザァンッ……!
拝殿が真っ二つに割れ、背後の山肌までが一直線に削れ飛ぶ。赤き雷の余波が周囲の邪気を完全に蒸発させ、静寂が訪れた。
敵対した呪詛師、そして呪霊は、文字通り『皆殺し』にされ、一人としてこの世に残らなかった。
静まり返った廃村。
菅公は『緋蝕刃』を静かに鞘へと収めた。赤き雷はスッと消え去り、元の静かな少年の姿に戻る。
彼はすぐに振り返り、倒れ込んでいる棘のもとへ駆け寄った。
「棘君! 大丈夫かい!?」
菅公は膝をつき、懐から丁寧に用意していた喉用の薬と、温かいお茶のペットボトルを取り出した。棘の背中を優しくさすりながら、薬を飲ませる。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
薬を飲み干した棘は、息を整えながら菅公を見上げた。その瞳には、恐怖ではなく、深い安堵と感謝の色が浮かんでいた。
「……おかか」
弱々しく首を振る棘。
菅公はその言葉の意味を、今度は手帳を見ることもなく、胸で理解した。
「『心配しないで、大したことないよ』……だね?」
「……! しゃけ!」
棘の顔に、ぱっと明るい笑みが咲いた。菅公もまた、心からの微笑みを返す。
「無理をさせてごめんね、棘君。君が命がけで隙を作ってくれたおかげで、一瞬で片付けることができた。君は本当に素晴らしい術師だ」
「ツナマヨ」
棘は誇らしげに胸を張り、菅公の手に自分の小さめの手を重ねた。
「『僕たちならどんな任務も平気だ』……かな?」
「しゃけ! 明太子!」
二人は顔を見合わせ、声を合わせて笑った。
帰りの新幹線の中、夕空が赤く染まる景色を眺めながら、菅公は手帳を開いた。そこにはびっしりと書かれたおにぎり語のメモ。
「棘君、次の停車駅で何か食べようか。……ツナマヨのおにぎり、買ってくるよ」
「しゃけ!」
お互いの言葉が、絆が、確かに通じ合った瞬間だった。
土師菅公は、五条悟という高みを目指しながらも、隣に立つかけがえのない仲間との日常を、大切に抱きしめて歩み続けるのだった。
と言う訳で今回は棘ピー回でした。ちょっとボリューム不足な感もしたんですが今回はこう言う形に落ち着きました。