「金に糸目はつけない。どうか、この愚息に『生き残る術』を叩き込んでやってほしい」
父・土師宗矩(はじむねのり)が提示した莫大な額面の小切手を前に、一級呪術師・冥冥(めいめい)は艶やかな唇を弧に歪めた。
「素晴らしい。私は金に誠実な人間だ。契約の対価分、キッチリと彼を『投資に値する優良物件』に育て上げてみせよう。……ただし、途中で壊れても返金はしないよ?」
その日を境に、当時まだ5歳だった土師菅公(はじすがきみ)の、文字通りの『地獄』が幕を開けた。
冥冥は自身の生得術式「黒鳥操術」の出力の弱さを補うため、己の肉体を極限まで鍛え上げることで一級にまで登り詰めた武闘派である。彼女の指導方針は極めてシンプル、かつ合理的で、そして――冷酷だった。
「呪力という『資本』があっても、それを運用する『器(カラダ)』が貧弱ではすぐ破産(死)する。まずは徹底的に器を叩き直すよ、小さなパトロン」
5歳の幼児に対する手加減など、冥冥の辞書には存在しなかった。
初日から菅公に課せられたのは、自重の数倍はある重りを背負わされての山中走破だった。足を踏み外せば滑落する獣道を、呪力による身体強化を常時維持したまま走る。少しでも呪力の練りが甘くなれば、重みに耐えかねて骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げた。
歩みが遅れれば、冥冥の操る烏たちが容赦なく菅公の頬や腕を掠めて飛び、鋭い嘴で流血を強いる。
「泣いても叫んでも時間は過ぎるだけだ。投資した時間が無駄になるのは嫌いでね。走れないなら、そこで烏の餌になりなさい」
木陰で優雅に洋書を読みながら放たれる冥冥の声に、菅公は涙と鼻水を泥だらけの顔に散らしながら、それでも短い脚を必死に動かし続けた。
父に頼み込んだのは自分だ。ここで折れれば、土師の家に自分の居場所はなくなる。5歳の小さな胸で燃えるその執念だけが、ギリギリで彼の意識を繋ぎ止めていた。
6歳になる頃には、地獄のカリキュラムは「実戦形式」へと移行した。
冥冥の大斧(ただし刃は潰した訓練用)による、直接の打ち込みである。
「さあ、避けてごらん。当たれば『減価償却』もできずに壊れるよ」
ぶんっ!という空気を裂く轟音とともに、大木の幹を容易くへし折る質量が菅公を襲う。
恐怖で足がすくめば死ぬ。菅公は全身の呪力を脚部に集中させ、泥を蹴って跳び退くが、冥冥の追撃は子供の反射速度を軽々と凌駕していた。
斧の柄が腹部にクリーンヒットし、菅公の小さな身体はボールのように吹き飛ばされ、地面を何度もバウンドした。肺から空気が強制的に絞り出され、胃液と血の混じったものを吐き出す。
「遅い。呪力の流れが単調すぎる。攻撃が来る場所にだけ呪力を集めて防御する……そんな泥縄式の運用では、特級呪霊の連撃には耐えられない。全身の呪力を血液のように循環させ、常に最高のパフォーマンスを引き出しなさい。もう一度」
意識が飛びかける中、菅公は震える手で地面を掴み、立ち上がる。
折れた肋骨を呪力で無理やり固定し、血を吐きながら構えをとる。その異常なまでのタフさと執着心に、冥冥は前髪の奥の瞳で僅かに感心したような光を瞬かせた。
(ほう……宗矩氏も、なかなか面白い原石を持ってきたものだ。投資のしがいがある)
明けても暮れても、血の味がした。
眠る時間すら惜しむように、就寝中も冥冥の烏が急襲してくるため、菅公は浅い眠りの中でも常に周囲の呪力残穢に気を配る「索敵」を無意識レベルで身につけざるを得なかった。
指の骨が砕け、足の皮がめくれ、全身が痣だらけになっても、冥冥は平然と「治癒(休息)のための時間は半日だけだ。それ以上は別途オプション料金をもらうよ」と言い放つ。菅公は自らの呪力操作の精度を限界まで高めることで、被ダメージを最小限に抑え、回復を早める術を身体で覚えていった。
そして、彼が7歳を迎えたある日のこと。
夕暮れの荒野。いつものように冥冥の斧が菅公の死角から迫る。
かつてなら吹き飛ばされていたその一撃。しかし、7歳の菅公は逃げなかった。
極限まで圧縮した呪力を両腕に纏い、身体を捻って斧の軌道に割り込むと、柄の部分を滑らせるようにして威力を「受け流した」のだ。
ギィン!と鈍い音が響き、菅公の足元が数メートル削られる。しかし、彼は倒れない。それどころか、受け流した勢いをそのまま利用し、冥冥の懐へと踏み込んだ。
「――シッ!」
小さな拳が、鋭い呪力の軌跡を描きながら冥冥の腹部へと放たれる。
冥冥は微かに目を見開き、分厚い呪力の壁でそれを易々と受け止めた。ドンッ、という衝撃音が響く。もちろん彼女にとっては蚊の鳴くような威力だが、それでも、確かな「反撃」だった。
冥冥はピタリと動きを止め、斧を肩に担ぎ直した。
「……合格だ」
荒い息を吐きながら膝をつく菅公を見下ろし、冥冥は妖艶に微笑む。
「呪力による肉体強化の最適化、危機察知、そして絶対的な死地でも反撃に転じる胆力。7歳の坊やにしては、上出来すぎるね。君の『現在価値(プレゼント・バリュー)』は、ここ2年で数倍に跳ね上がったよ」
「……はぁっ……はぁっ……あ、りがとう、ございます……」
血まみれの顔で、それでも菅公は不敵に笑った。
5歳から7歳。人間が最も無邪気であるはずのこの期間を、彼は血と泥と暴力の渦中で過ごした。しかし、その地獄が彼に与えたのは、決して折れない鋼の肉体と、一級呪術師の理不尽にすら食らいつく本物の『戦闘用思考』だった。
「さあ、本日の業務は終了だ。しっかり休んで、明日も私に豊かなリターンを見せておくれよ、菅公」
夕日を背に歩き出す冥冥の背中を、菅公は這いつくばりながらも、ギラついた獣のような瞳でしっかりと見据えていた。彼の中の呪力は、以前とは比べ物にならないほど濃密に、そして静かに脈打っていた。
五条悟と邂逅した時よりも格段に強くなった菅公。今後彼がどう言う成長を見せるのか楽しみにお待ちください
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