仙台市内で発生した特級過呪怨霊『折本里香』の顕現、および被呪者である少年・乙骨憂太の回収劇から、わずか三時間後のことである。
東京都内某所、時代から取り残されたように佇む古びた屋敷の一室。外界の光を拒絶するように閉ざされた重厚な障子の向こう側には、呪術界の頂点に君臨する総監部の老人たちが、影のように不気味なシルエットを並べていた。部屋を満たすのは、線香の匂いと腐朽した権力の臭気、そして静かな殺気だ。
その中央、薄暗い大広間の畳の上に、二人の男が立っていた。
一人は、白い髪に目隠しをつけ、型破りな雰囲気を全身から漂わせている現代最強の呪術師・五条悟。
そしてもう一人は、黒い高専の制服を寸分の狂いもなく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばして佇む少年――土師菅公(はじすがきみ)であった。
菅公は十五歳にして一八三センチという、大人をも見下ろすほどの恵まれた体躯を誇る。その立ち姿には、菅原道真の系譜たる土師の血脈がもたらす高貴さと、静かな威圧感が同居していた。彼が纏う空気はどこか冷ややかで、一度敵対した者には一切の容赦なく『落落雷雷』の気焔をもって灰燼に帰す冷酷さを秘めている。
「――土師菅公、何故、被呪者を即座に処分しなかった」
不気味な静寂を切り裂いて、しわがれた老人の声が響いた。威圧と詰問の意を存分に込めたその問いに対し、菅公は眉一つ動かさない。ただ、その透き通った瞳で正面の陰影を見つめるだけだ。
「妙な事をおっしゃいますね、私が貴方方から受けた任務は“特級過呪怨霊に取り憑かれた少年の確保”です。ですからその通りにしました」
抑揚を抑えた、しかし力強い声で菅公は平然と言ってのけた。十五歳の若者が総監部という絶対的な権威の前で見せる態度としては、あまりにも不遜で、あまりにも堂々としている。
「“生死は問わぬ”、そう付け加えた筈だ!」
障子の奥から、怒気に満ちた叫びが飛ぶ。威厳を傷つけられた老人の顔が見えずとも、激昂で顔を真っ赤に染めている様が容易に想像できた。だが、菅公はその怒声をあしらうように、淡々と言葉を返す。
「えぇ、ですから生かしておいたんです、“生死は問わず”ですから」
「貴様! 我々を愚弄する気か‼︎」
叩きつけるような更なる怒号が部屋中に響き渡り、空気がピリピリと張り詰めた。だが、菅公は怖気づくどころか、わざとらしいほど盛大な溜息をひとつ吐いてみせた。
「あのねぇ、私は命令通りに任務を遂行しただけです。その事について後からゴチャゴチャ言われる筋合いはありません」
呆れたように首を振る菅公の態度に、老人たちの殺気が増す。しかし、菅公は止まらない。そもそも、と前置きを置いてから、彼はその鋭い思考を言葉にして畳みかけた。
「貴方方は人の活かし方を知らない、すぐに殺せ、殺せと馬鹿の一つ覚えの様に喚きたてる。確かに乙骨憂太に取り憑いた『折本里香』は暴走させれば脅威だ、しかし制御の方法さえ覚えてしまえば乙骨憂太共々、呪術界にとって貴重な戦力になる。ただでさえ万年人手不足のこの業界、貴重な人材は無闇に殺すものではない使える者は生かして使わなければ」
一切の揺らぎがない、あまりにも合理的で圧倒的な正論。
呪力を浪費し、保身のために有能な芽を摘もうとする上層部に対する、明確な批判であった。菅公にとって、敵対するものは容赦なく皆殺しにするのが絶対の鉄則だが、味方となり得る存在、利用価値のある人材を無駄に捨てるなど理にかなわない愚行でしかないのだ。
「貴様ッ!」
老人たちは歯を食い縛り、悔しさに震えた。15歳の若造にここまで言われて返す言葉が見つからない彼らは、八つ当たり気味に隣に立っていた男へ怒声を浴びせる。
「五条悟! お前は教え子にどう言う教育をしておるのだ‼︎」
矛先を向けられた五条悟は、煽りを受けるどころか、待ってましたと言わんばかりにニッと口角を上げた。飄々とした態度を微塵も崩さず、むしろノリノリで動き出す。
「どうもこうもちゃんと丹精込めて教えてますよ、その証拠にホラ、こんなに立派に育ってるでしょう!」
五条は、まるで深夜の通販番組の販売員のように大袈裟な身振り手振りを交え、両手で菅公を誇らしげに指し示してみせた。
(五条さんって基本的に任務で飛び回ってるからあんまり教わった記憶がないんだよなぁ)
横目でその大袈裟なパフォーマンスを見ながら、菅公は内心で冷ややかなツッコミを入れていた。確かに指導を受けることはあるが、その大半は野放しに近く、自力でここまで育ったという自負がある。だが、ここで五条の言葉を否定して老人どもを喜ばせる必要もないため、菅公は無表情を貫いた。
「まぁ」と、軽く前置きを置いた五条は、それまでのふざけた雰囲気を一瞬で消し去り、底知れぬ圧力をその声に込めて言い放った。
「乙骨憂太は東京高専で預かります」
部屋の空気が一変する。
現代最強の呪術師である五条悟と、次世代の異端であり圧倒的な実力を秘めた土師菅公。この二人から発せられる“保護します”という強烈な意思と圧力は、総監部の老害たちが束になっても到底抗いきれるものではなかった。もしここで不服を申し立て、二人を敵に回せばどうなるか――その恐怖が老人たちの首筋を冷たく撫でる。
結局、不満タラタラで渋々といった様子で、総監部は乙骨憂太の呪術高専への入学を認めることとなった。
総監部の重苦しい屋敷をあとにした二人は、静まり返った参道を並んで歩いていた。夜の冷気が火照った身体を心地よく冷やしていく。
「しかし、菅公も総監部相手に大きく出たねぇ」
隣を歩く五条が、面白がるように菅公をからかった。菅公は前を見つめたまま、淡々とした口調で答える。
「“一度、拾った命は最後まで面倒をみろ”昔、捨て犬を拾った時に父様に言われた事です」
「いやいや、彼の扱い犬猫と一緒じゃん!」
間髪入れずに突っ込む五条に対し、菅公は至極真面目な顔で言葉を続けた。
「種族は違っても同じ事です。乙骨と言う迷い犬は居場所を失い怯えながら過ごしている、そこに一度でも手を差し伸べた以上、彼が独り立ち出来るまでは面倒を見ます、勿論、甘やかす気はサラサラ無いですが、それが命を預かった者の責務ですから」
菅公の言葉には、15歳とは思えぬ重みと責任感が宿っていた。己の力に振り回され、絶望の淵にいた乙骨憂太という少年。彼を仙台の教室で回収した瞬間、菅公の中で「この命を背負う」という覚悟が決まっていたのだ。厳しく育てるが、決して見捨てない。それが土師菅公という人間の流儀であった。
「ふ〜ん。相変わらず堅苦しいけど、頼もしいこっちゃ」
五条は満足そうに笑い、ポケットに手を突っ込んで歩調を速めた。
東京都立呪術高等専門学校、その一角にある宿直室。
部屋の隅で膝を抱え、小さくなっていた乙骨憂太は、ドアが開く音にびくっと肩を跳ねさせた。入ってきたのは、先ほど自分を暗い教室から連れ出してくれた背の高い少年――菅公と、目隠しをした不思議な大人――五条であった。
乙骨は、自身の中に眠る『折本里香』という呪いがいつ暴走するか分からない恐怖に怯え、息を潜めていた。
そんな乙骨に対し、五条は部屋に入るや否や、かるーいノリで声をかける。
「と言うわけで明日から新しい学校だよ〜」
あまりにも軽すぎる報告に、乙骨が「え……?」と呆然とした瞬間。
ゴカッ!
「説明が雑すぎる!」
菅公の容赦ない肘鉄が、五条の脇腹(無限のバリア越しではあるが勢いそのままに)へと叩き込まれた。五条は「おっとっと」とわざとらしくお腹を押さえておどけてみせる。
菅公は小さく息を吐くと、怯える乙骨の前へと歩み寄った。一八三センチの大きな体躯が乙骨の視界を覆うが、そこに先ほど総監部で見せたような冷酷さはない。菅公は乙骨と同じ目線になるように少し腰を落とすと、その華奢な両肩をガッシリと力強く掴んだ。
「乙骨君」
低い、けれど温かみのある声が乙骨の耳に届く。
「君の中に宿る力は人を守る為の大きな盾にもなる、その術(すべ)を学ぶ為に明日から東京都立呪術専門学校に入るんだ、おそらく此れ迄とは違う意味での苦労が待っていると思う、それでも君が前へ進み続ける限り僕は君を全力でサポートする」
まっすぐで、一切の偽りがない眼差し。
これまで「生きていてはいけない」と自分を責め続けてきた乙骨の心に、菅公の言葉は大きな温もりとなって染み渡っていく。自分を受け入れ、未来を示してくれる存在がそこにいた。
乙骨が感極まりそうになったその時、横からひょっこりと顔を出した五条がいらん横槍を入れた。
「気をつけなよ〜、この子の指導が一番厳しいからね〜」
キッ!
菅公は即座に首を捻り、五条を親の仇かと言わんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。静電気のような微かな呪力が菅公の周囲で弾け、バチッと小さな音を立てる。
「はいはい、怖い怖い」と五条はヒラヒラと手を振った。
「まっ、何にせよ明日からのお楽しみだ!今日は高専の宿直室でゆっくり休みなよ!じゃあね〜」
言うだけ言って、五条は颯爽と部屋を去っていった。嵐のような男だった。
残された部屋の中、静寂が戻る。
菅公は掴んでいた乙骨の肩から手を離すと、すっと立ち上がった。
「五条さんの言う通り、今日はもう休むといい。明日の朝、また迎えに来るから」
「あ……あの!」
乙骨は慌てて声を絞り出した。不安と、感謝と、かすかな決意が入り混じった声だった。
「僕……本当に、ここにいていいのかな……」
菅公はドアノブに手をかけたまま足を止め、振り返らずに答えた。
「僕が『いい』と言ったんだ。文句がある奴は僕が全員叩き伏せる。君はただ、自分と向き合うことだけを考えろ」
そう言い残し、菅公は部屋をあとにした。
パタン、と静かにドアが閉まる。
一人取り残された乙骨憂太は、自分の肩に残る菅公の手の温もりと、ずっしりとした力強い感触を確かめるようにそっと触れた。
胸の奥で渦巻いていた暗い絶望の中に、小さく、けれど確かな希望の火が灯るのを感じていた。
ハラハラとドキドキ、そしてほんの少しのワクワクが入り混じった、乙骨憂太の新しいスクールライフが、今まさに始まろうとしていた。
乙骨君もいよいよ入学です!0がいよいよ始動するぞ!!