東京都立呪術高等専門学校の一年教室には、まだどこか落ち着かない、刺々しくも妙に奇妙な空気が漂っていた。
原因は明白だった。特級被呪者・乙骨憂太。巨大な呪い――折本里香を身に宿した白服の少年が、この呪術高専の一年組に編入してきたからだ。
ぎこちない自己紹介が無事に終わり、黒板の前に立った担任教師・五条悟が、パチンと派手に指を鳴らす。目隠しの奥の瞳が戯れるように細められているのが、その口元の笑みだけで窺えた。
「はいはーい、それじゃあ自己紹介も済んだところで、いよいよ本格的な呪霊討伐の実習に入りまーす! 午後からの実習はね、ニ、二のペアでやるよ〜」
五条は手元に持った出席簿のようなファイルを見ながら、ポンポンと軽快に指名していく。
「まずは、棘・パンダペア!」
「しゃけ」
「頑張ろ!」
指名されたパンダが、相方となった呪言師・狗巻棘に向かって力強くガッツポーズを作ってみせた。狗巻もまた、口元を隠すハイネックの襟を少し引き上げ、小さく頷く。この二人の息はすでにぴったりだった。
問題は次である。五条はニヤニヤとした笑みを深めながら、残りのメンバーへと視線を向けた。
「次は、真希・憂太ペア!」
「……げっ⁉︎」
その瞬間、教室内に響き渡ったのは、あからさまな不快感を隠そうともしない禪院真希の拒絶の声だった。
メガネの奥の鋭い瞳が限界まで見開かれ、苦虫を潰したような顔になる。自分が新しく入ってきた頼りない新人のケツを持たされる羽目になったと判明し、思わず体が拒絶反応を示したのだ。
(げっ⁉︎ て言われた……)
一方、指名された乙骨憂太は、あからさまに肩を落とし、内心で激しく落ち込んでいた。自分の存在が周りに迷惑をかけているということは痛いほど分かっていたが、面と向かってそこまで嫌がられると、ただでさえ底値の自己肯定感がさらに地面へとめり込んでいく気がする。
だが、ここで一人、ペア名を呼ばれなかった人物がいた。
一年組の中でひときわ目を引く長身――15歳にして183センチという恵まれた体躯を持ち、端正な顔立ちに静謐な雰囲気を纏わせた少年、土師菅公(はじすがきみ)である。
菅公はすっと右手を高く挙げ、五条に向かって声を張り上げた。
「はい! 五条先生!」
「ん、どうしたの菅公?」
「僕だけハブられてます! コレは新手のイジメでしょうか!」
真面目な顔をして突拍子もない主張を叫ぶ菅公。しかし、五条は間髪入れずにビシッと人差し指を突き立て、大袈裟に首を振った。
「そんな事は有りません! 僕のクラスにイジメなどあろうはずがない!!」
「じゃあ、どうしてですか。担任教師として説明責任を果たしてください」
菅公は感情の起伏を感じさせない淡々とした口調で、ピシャリと言い返す。その凛とした佇まいと、言っている内容のどこかコミカルなギャップに、乙骨は思わず呆気にとられていた。
五条はわざとらしく咳払いをして、両手を広げた。
「今回、菅公をボッチにした理由は!!」
「「「「「理由は?」」」」」
乙骨も含めた教室の全員の声が奇麗に重なった。ゴクリと唾を呑み込む乙骨を余所に、五条はあっけらかんとした軽い調子で種明かしをした。
「冥さんから指名で任務依頼が入ってるからでした〜」
その返答に対する教室内の反応は、実に見事なまでにマチマチだった。
「先に行ってくださいそう言う大事な事は!」
当事者である菅公は、自分の恩師である一流の呪術師・冥冥からの指名だと知るや否や、慌てて荷物をまとめ、出動の準備に取り掛かり始めた。普段の冷静さからは少し意外なほどの素早さだ。
一方、転校してきたばかりの乙骨は、完全に蚊帳の外だった。
(冥さんって誰……?)
頭の上にぽかんと大きなクエスチョンマークを浮かべている乙骨に、隣のパンダが「あー」と察したような顔で声をかける。
「あぁ〜何時ものやつね」
「ツナマヨ」
狗巻も慣れた様子で頷いた。菅公の卓越した戦闘センスと、彼の所持する凶悪な術式『落落雷雷』の有用性は、あの金にシビアな冥冥にとっても極めて利用価値が高い。彼女が菅公を個人的な依頼に引きずり回すのは、高専内ではもはや日常茶飯事の光景だった。
しかし――ただ一人、真希だけはまったく違う反応を見せていた。
『冥冥』
その名前を聞いた瞬間、真希の心はチクチクと不快にささくれ立っていた。
真希は、自分でも素直に認められない小さな、しかし確固たる感情を菅公に対して抱いている。少なからず想いを寄せている菅公にとって、冥冥という大人の色香を漂わせた金に目がない女性呪術師は、無垢な菅公を言葉巧みに誑かす『毒婦』に思えてならないのだ。(そしてその認識は、あながち間違っていなかった)
「ちっ……あの銭ゲバ女が……」
小声で吐き捨てた真希の機嫌の悪さは、誰の目から見ても明らかだった。
菅公が「それでは、お先に失礼します」と一礼して教室を去っていき、残された4人も午後からの実習に向けて教室から退室することになった。
だが、不機嫌のピークに達していた真希の一言が、廊下に躍り出た直後の空気をさらに悪化させることになる。
「……お前、虐められてただろう」
何とか真希との溝を埋めようと、恐る恐る距離を詰めてコミュニケーションを取ろうとしていた乙骨に向かって、真希は氷のように冷たい言葉を投げつけた。
「え……?」
あまりに唐突で刃のような問いかけに、乙骨はもちろん、後ろを歩いていたパンダと狗巻までもが思わず足を止め、カチリと固まった。
しかし、真希の追撃は止まらない。ささくれ立った感情をコントロールできなくなっている彼女は、乙骨の青ざめた顔を見下しながら、さらに言葉を重ねた。
「図星か? 分かるわ〜私でも虐める」
ただでさえ悪くなっていた周囲の空気が、一瞬で氷点下にまで叩き落される。乙骨の体に刻まれた傷痕を、素足で踏みにじるような猛毒を含んだ言葉。
「呪いのせいか? 善人ですーてセルフプロデュースが顔に出てるぞ、気持ち悪い」
真希は止まる事なく追い打ちをかける。言葉を発するたびに、己の内に溜まったイライラを乙骨という格好の的にぶつけて散らしているかのようだった。
「何で守られてる側なのに被害者面してんだよ。ずっと受け身で生きて来たんだろ。何の目的も無くやって行ける程、呪術高専は甘くねえぞ」
そう突き放す様に言い放つ真希。乙骨は唇を噛み締め、何も言い返せずに俯くことしかできない。その姿は痛々しく、見ている側すら息が詰まるほどだった。
「おい、真希……流石にそれは言い過ぎだぞ」
「しゃけ……」
パンダと狗巻がたまらず顔を顰め、真希の暴走を嗜めようと一歩踏み出した、その時だった。
廊下の曲がり角の向こうから、一つの声が響いた。
『真希……』
――ッ⁉︎
その場にいた全員の皮膚が、同時に引きつった。
ドス黒く、重く、底知れない圧迫感。それは乙骨に憑いている特級過呪怨霊・折本里香の異質で禍々しい気配とはまた異なる次元の呪力だった。まるで巨大な積乱雲が頭上に垂れ込め、高圧電流が空気を焼き尽くす直前のような、天変地異の前触れを思わせる重圧。
それが、真希の全身を容赦なく押し包む。
「ぐっ……⁉︎」
真希の足が縫い付けられたように動かなくなった。喉が絞め上げられたように締め付けられ、声が出ない。全身の産毛が逆立ち、肌を刺すような微細な痛みが走る。
視線の先、曲がり角から姿を現したのは、忘れ物を取って戻ってきたはずの土師菅公だった。
183センチの影が、廊下に長く伸びている。その瞳にはいつもの穏やかさは欠片もなく、どこか冷徹で、感情を削ぎ落とした無機質な光が宿っていた。
菅公はゆっくりと真希に近づいてくる。その声は、人間のそれというよりも、まるで精巧な機械の合成音のように低く、静かに廊下に響き渡った。
『随分と心が乱れているな、友よ』
「ア、アタシは……別に……」
声帯を震わせるのが精一杯の真希に対し、菅公は静かな眼差しで見下ろしたまま、淡々と、しかし決定的な言葉を叩きつけた。
『自分のささくれ立つ感情を他人にぶつける。それがどれだけ幼稚な事か、お前が過去に身をもって味わわされて来たはずだ』
「ッ――!」
真希の身体が激しく跳ねた。胸の奥の最も柔らかい場所を、冷たい刃で突かれたような衝撃。
『今のお前は、かつて気ままにお前と妹を迫害して来た連中(禪院家)と、まるで同じだ』
その一言は、真希にとって何よりも受け入れがたく、そして何よりも絶望的な事実を突きつけるものだった。
落ちこぼれだと蔑まれ、理不尽に虐げられてきた自分。理由のない害意を向けられる痛みを誰よりも知っているはずの自分が、いま目の前の気弱な転校生に対して、全く同じ理由なき悪意と暴論をぶつけていた。
呪術師としての覚悟もないまま、ただ己の機嫌の悪さを言い訳にして。
「ち、違う……‼︎」
真希の目から必死の否定が漏れる。絞り出すような声は震えていた。
『違うと言うなら、感情のままに言葉を吐くな』
菅公の声には一分の揺らぎもない。敵対するものには一切の情を挟まず「皆殺し」を遂行する男の、規律と冷徹さがそこに垣間見えていた。
『そして己の非を認め、心無い言葉をかけた相手にしっかり謝罪しろ』
静かな命令。だが、そこには逃げを許さない絶対的な理が存在していた。
真希はきつく拳を握り締め、溢れそうになる屈辱と恥じらいの涙を必死に堪えた。己の小ささ、愚かさを思い知らされ、胸が押し潰されそうになる。しかし、菅公の言っていることは何一つとして間違っていなかった。
真希はゆっくりと顔を上げ、俯いている乙骨の方へと向き直った。
「……転校生」
「え……?」
「その……悪かったよ。色々と言い過ぎた」
言葉は小さく、消え入りそうだったが、そこには確かな真摯さが込められていた。
真希がそう頭を下げて謝罪した瞬間。
ズウン、と全身を押し潰していた圧倒的な呪力と重圧が、まるで初夏の薄霧が晴れるようにスッと霧散した。
廊下に立ち込めていた不穏な気配は消え去り、そこにはいつもの柔らかな雰囲気を纏った菅公が立っていた。
「ちゃんと謝れたな。偉いぞ、真希」
菅公はそう言うと、真希の元へ歩み寄り、その頭の上に大きな手をぽんと乗せた。そして、幼子を慈しむかのように、優しく撫でた。
「っ……あ……」
さっきまでの冷酷な圧迫感とのギャップに、真希の頭が真っ白になる。
親に叱られ、そして正しく行えたことを褒められた子供のように、真希は目元を少し涙目で潤ませながら、一瞬で顔を耳の先端まで真っ赤に染め上げた。
「な、撫でるな! バカ……!」
口ではそう強がりながらも、振り払うような真似は決して出来ず、真希は顔を背けて俯くことしかできない。先ほどまでのトゲトゲしさは完全に影を潜め、そこには照れと申し訳なさで身を小さくする少女の姿があるだけだった。
その光景を見ていた他の三人――乙骨、パンダ、狗巻は、胸を撫で下ろしてホッと深く息を吐き出した。一時はどうなることかと思ったが、菅公の介入によって事態は最悪の決裂を免れたのだ。
菅公は「では、今度こそ冥さんの元へ行ってきます。実習、頑張ってくださいね」と皆に一礼し、今度こそ嵐のように去っていった。
静かになった廊下で、パンダが困ったような笑いを浮かべながら、乙骨の隣に歩み寄る。
「すまんなぁ、乙骨。アイツは少々、他人を理解した気になる所があるんだ」
真希の不器用で不躾な側面をフォローするように、パンダはそっと乙骨の肩を叩いた。
乙骨は、菅公に撫でられてまだ顔を赤くしている真希の背中と、菅公が去っていった廊下の奥を交互に見つめ、それから少し俯きながら小さく呟いた。
「……いや。本当の事だから」
真希に言われた『ずっと受け身で生きてきた』という言葉。それは毒を含んでいたが、同時に紛れもない事実でもあった。
(でも……)
乙骨は自分の胸の上にそっと手を当てた。
自分を拒絶した真希。その真希の過ちを正し、同時に乙骨の尊厳をも守るように場を収めた土師菅公という存在。
圧倒的な強さと、揺るぎない芯を持った同世代の呪術師たちの姿を目の当たりにして、乙骨の心の中に、今までになかった小さな火が灯り始めていた。
呪術高専での日々は、甘くはない。だが、ここには自分を変えるための『何か』が確かにあるのだと、乙骨憂太は強く実感していた。
ようやく次回で小学校実習まで行けそうです。皆様気長に待っててください。