東京都立呪術高等専門学校の木漏れ日が挿し込む廊下に、張り詰めた沈黙が流れていた。
転入してきたばかりの少年、乙骨憂太は、自らの身に宿る異常な呪いに怯え、肩をすぼめて立ち尽くしている。その視線の先には、薙刀を片手に持った二年生——禪院真希が立っていた。
「何しに来たんだよ、テメェは」
真希の言葉は、容赦なく鋭かった。
「呪われてる奴が、ヘラヘラと呪術高専に居座るんじゃねぇよ。自分が被害者面してりゃあ、誰かが優しく守ってくれるとでも思ってんのか? 胸くそ悪い」
攻撃的な暴言が狭い廊下に突き刺さる。乙骨は言葉を失い、顔を蒼白にして身をすくませた。周囲にいたパンダと狗巻棘も、真希の棘のある言い様に息をのむ。その瞬間、空間の温度が急激に跳ね上がったかのように錯覚させた直後、真芯から凍てつくような圧迫感が一同を襲った。
高専内の空気が、一気に氷点下まで下がりきる。
「——そこまでにしなよ、真希」
静かだが、逆らう者を一瞬で圧殺するかのような絶対的な威厳を孕んだ声が響いた。
廊下の奥から足音もなく現れたのは、土師菅公(はじすがきみ)だった。
15歳にして183センチという恵まれた体躯。整った容姿とは裏腹に、その身から漏れ出る呪力は荒々しくも緻密で、敵対する者には一切の慈悲を与えず『皆殺し』にする冷徹な絶対者としての凄みが、全身から立ち昇っていた。
菅公の冷徹な眼光が真希を射抜く。
「菅公……」
「転校初日の仲間に対して投げる言葉じゃない。自分の境遇や苛立ちを新入りにぶつけて誤魔化すのは、あまりにも見苦しいよ。……引け目を抱えているのは君だけじゃない。謝りなさい」
菅公の静かな怒りを前にして、流石の真希も唾を呑み込んだ。額に冷や汗を滑らせながら、薙刀の柄を握る手に力を込める。菅公の言う通りだったという自覚が、真希のプライドを揺さぶる。
「……チッ。……すまねぇな、転校生。言い過ぎた」
真希はそっぽを向きながらも、絞り出すように謝罪の言葉を口にした。
「あ、いえ……僕の方こそ、すみません……!」
乙骨はおろおろと頭を下げ、冷え切っていた場は何とか事なきを得た。
直後、パンダと棘は補助監督に促され、別件の緊急任務へと向かって行った。残されたのは、五条悟と真希、そして乙骨の三人だった。
◇
「——で、ここは?」
関東の郊外。静まり返った小学校の正門前に到着した乙骨が、隣を歩く五条悟に尋ねた。
五条は白い目隠しの奥で軽く首を傾げ、あっけらかんとした声で返す。
「ただの小学校だよ」
あまりに軽薄な返事に、乙骨は思わず間抜けた声を漏らした。
「え?」
「ただの“校内で児童が失踪する”小学校」
五条がさらりと付け加えた言葉に、乙骨の顔色が劇的に変わる。
「失踪⁉︎」
「場所が場所だからね。おそらく自然発生した呪いによるモノだろう」
五条の説明に、乙骨は喉を鳴らしながら問い返した。
「こ、子供が呪いに攫われたって事ですか?」
「そう。今の所、二人」
五条の言葉を受けて、乙骨の隣に立っていた真希が不機嫌そうに補足説明を始めた。
「大勢の思い出になる場所にはな、呪いが吹き溜まるんだよ。学校、病院……何度も思い出され、その度に人々の負の感情の受け皿になる。それが積み重なると、今回みたいに大きな呪いが発生するんだ」
真希の解説を聞き、乙骨は自分の置かれた状況の異常さに背筋を寒くする。そんな乙骨の心境など配慮することもなく、五条はパチンと指を鳴らした。
「まあそういうわけだ。呪いを祓い子供を救出、死んでたら回収だ」
まるで買い出しでも頼むかのような軽い口調で任務を告げる五条に、乙骨は戸惑いを隠せない。これから自分たちが足を踏み入れようとしている場所が、死と隣り合わせの現場であることを突きつけられ、足が竦みそうになる。
五条は二人の頭上へ向けて手を掲げ、呪力を練り上げた。
「闇より出て闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
ぬるりとした黒い液体のカーテンのような結界——『帳』が、青空を遮るように静かに降りていく。日光が遮られ、不気味な薄闇が小学校全体を包み込んでいった。
帳が完成する直前、五条は振り返り、悪戯っぽく笑いながら二人に言葉を投げかけた。
「それじゃあ、くれぐれも死なない様に」
その言葉は、不気味な残響となって乙骨の耳の奥にまとわりついた。
◇
帳が完全に降り切り、結界の外へと出た五条悟の前に、一台の黒塗りハイタクが停まっていた。
その車のボンネットに雑に腰掛け、腕を組んでいる人物がいる。土師菅公だ。
菅公の表情は、一見してわかるほど途轍もなく不機嫌だった。額にはしっかりと青筋が浮かび上がり、その周囲の空気が重低音のような呪力振動で震えている。
「で? 冥冥さんの名前まで出して僕をペアから外したのは、やはりこの為だったんですね……五条・先・生・」
若干キレ気味に、語尾を強調して吐き捨てる菅公。その瞳には、五条に対する明確な怒りと呆れが含まれていた。五条は両手を上げて、おどけたように肩をすくめる。
「いや〜ごめん、ごめん。どうしても“折本里香”のポテンシャルを知っておきたくてね」
「その為に戦う術を持たない乙骨を真希と組ませて最前線に放り込むとか、どうかしてる! キチガイ染みてる! もし二人に何かあったら如何するんですか!」
菅公は冷たく、そして激昂を押し殺した声で言い放った。
五条の狙いは明確だった。
今のところ戦闘員としては完全に員数外である乙骨憂太を、逃げ場のない呪霊の巣窟へ放り込む。死の危機的状況に追い込むことで、乙骨自身の意思によって特級過呪怨霊『折本里香』を完全顕現させ、その底知れぬポテンシャルを計測する。同時に、乙骨と里香との間に直接的な呪力のパイプラインを通し、今後乙骨がより明確に里香を制御できるようにするための強硬手段であった。
しかし、呪術を学んで日も浅い乙骨を単身で行かせるわけにはいかないため、フィジカルに長けた真希をボディーガードとして同伴させた。そして、もし菅公がこの場にいれば必ず「効率が悪すぎる」「危険すぎる」と介入して乙骨を無傷で救出してしまうため、冥冥からの緊急任務依頼という嘘の口実を使ってペアから外し、帳の外で監視・バックアップさせる要員として縛り付けたのだ。
「マジでゴ〜メ〜ンって。でも菅公も分かってるでしょう? “真の力の覚醒は命懸けのやりとりの中でしかありえない”って。僕や菅公自身がそれを証明して来たんだからね」
五条の言葉に、菅公は言葉を詰まらせ、不快そうに視線を逸らした。
五条の言うことには、悔しいが確かな一理があった。
五条悟自身、かつて学生時代に完全なるフィジカルギフテッドである伏黒甚爾によって瀕死の重傷を負わされ、死の淵で反転術式を修得したことで“最強”としての第一歩を踏み出した。
そして菅公自身もまた、そうだった。
幼少期、敵対する呪詛師や呪霊を一切容赦なく『皆殺し』にしていく冷酷な生き様の中で、わずか10歳の時に特級呪霊『源義経』との血煙打つ死闘を経験した。死線の中で領域展開と反転術式を極限状態で体得し、壊滅的な勝利を収めた。さらに12歳の時には五条悟との本気の果し合いを行い、和歌山の古代古墳内での死闘を経て、自らの血脈に眠る真の術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』の本質と向き合い、絶大な威力を誇る『赤雷』を覚醒させた。その力は、現代最強とされる五条悟にすら肉薄する領域に達していた。
己の命を削り、死線を潜り抜けた者だけが到達できる高み。それを身をもって知っているからこそ、菅公は余計に歯痒かった。
「菅公の気持ちは痛い程分かるよ。でも、憂太がコレからこの過酷な呪術界を生き残って行こうとしたら、決して避けては通れない道だ。……それにもう一つ、真希の事だけど……菅公も気づいてるでしょう。彼女の“ある特性”を」
五条の静かなトーンに、菅公は胸の奥を突かれたような衝撃を受け、重い溜息をついた。
真希が抱える“ある特性”——天与呪縛。
呪力を完全に削ぎ落とすことで圧倒的な肉体性能を得るはずの身体でありながら、双子の妹である真依が存在することにより、呪術的な繋がりが災いして中途半端な呪力を残してしまっている。それが、真希の身体能力の完全な覚醒を拒み、成長の頭打ちを引き起こしているのだ。
幼い頃から禪院家の呪縛の中で彼女たちを見てきた菅公は、その残酷な真実を痛いほど理解していた。いずれ真希自身に、そして真依にも、その事実を告げなければならない時が来る。
「………分かりました。今回の乙骨君の件に関しては目を瞑ります。彼に覚醒する切欠が必要な事は事実ですしね」
胸中で葛藤を飲み込んだ菅公が折り合いをつけると、五条は目隠しの下で顔をほころばせた。
「いや〜、菅公は理解が早くて助かるよ〜」
「但し!」
五条の気楽な返事を遮るように、菅公は強い口調で言葉を繋いだ。
「次回、何かする時は僕に必ず一言相談してからやってください。別に五条さん一人で何もかも背負い込む必要はないんですから。それと真希と真依の特性については、僕から直接、彼女達に話します。いいですね」
183センチの体躯から放たれる威圧感とともに念を押す菅公。その真摯で身内思いな姿勢に、五条は微笑を浮かべると、ポンポンと菅公の頭を優しく撫でた。
「菅公は優しいね」
「な……っ、子ども扱いしないでください!」と菅公が五条の手を振り払おうとした、その時だった。
菅公の眉間が凄まじい勢いで寄った。
彼の優れた呪力知覚が、帳の内部で激しい異変が起きていることを捉えたのだ。校内にいる真希の気が、著しく弱まっていく。呪霊の毒に侵され、生命の灯火が消えかかっているのが肌で分かった。
「真希……!」
菅公の脚が反射的に地を蹴り、帳の中へ飛び込みかけた。車のボンネットが彼の足力で大きく歪む。だが、菅公は強靭な理性で踏み止まり、歯を食いしばって耐えた。ここで僕が助ければ、乙骨の覚醒も、真希の覚醒の機会も潰れる。血が滲むほど唇を噛み締め、耐え抜いた。
直後——校内から、異次元の暴力的な呪力の塊が立ち上った。
大気を歪め、空間そのものを圧迫する圧倒的な禍々しさ。
特級過呪怨霊『折本里香』の完全顕現である。
ドオォォォンッ!と、帳の外にまで激しい衝撃波が伝わってくる。ほんの僅かの間とはいえ、完全顕現した里香の圧倒的かつ理不尽な力の前には、小学校に巣食っていた大物の呪霊など赤子も同然だった。一瞬の打擲と呪力の奔流によって、呪霊は叫びをあげる暇すら与えられず、影も形もなく粉砕された。
その爆発的な呪力の残響を感じ取り、五条は感嘆の声を漏らした。
「凄まじいねえ。コレが特級過呪怨霊“折本里香”の全容か。フフフ、怖い怖い」
一方、隣でその暴威を冷や汗交じりに感知していた菅公は、引いた顔でボソリと呟いた。
(……女の情念は恐ろしいな……)
普段は冷酷非道に敵を討ち果たす菅公ですら、里香の執念深さと狂気的な愛の重さには圧倒され、若干の女性恐怖症になりそうな感覚を覚えていた。
◇
荒れ果てた校舎の玄関から、一人の少年が一歩、また一歩と重い足取りで歩み出てきた。
乙骨憂太だ。
彼の全身は血と汗に塗れ、服はボロボロに破れていた。しかしその背中と腕には、三人の人間がしっかりと抱えられていた。呪霊の毒に当てられて意識を失っている真希と、館内で捕らえられていた幼い小学生の二人だ。
乙骨の足取りはフラフラで、いつ倒れてもおかしくなかった。
だが、その目には確かな光が宿っていた。
自分自身を変えるため。
呪われた自分を否定せず、受け入れてくれた高専の人々の恩に報いるため。
そして、絶体絶命の危機の中で、死んだ折本里香から掛けられた『頑張れ憂太』という愛の言葉。
それに『頑張る!!』と心の中で強く誓った彼は、限界を超えた身体に鞭を打ち、三人の命を背負って帳の外を目指したのだった。
「ハぁ……ハぁ……っ」
一歩、また一歩。
泥臭く、けれど決して諦めない足音が、暗闇の結界を切り裂いていく。
乙骨は三人を抱えたまま、ついに帳の外へと足を踏み出した。日光が彼の傷ついた身体を照らし出す。三人をそっと柔らかい芝生の上へと下ろし、無事を確かめると、乙骨はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「運び……きった……ぞ……」
息を荒らげる乙骨を見下ろしながら、五条悟は満足そうに口元を緩めた。
そして菅公もまた、車のボンネットから降りると、傷だらけになりながら仲間を守り抜いた少年の元へ歩み寄った。
菅公の掌に、彼の持つ術式『落落雷雷』の派生である微細な反転術式の温かな光が灯る。菅公はその手を乙骨の背中に当て、静かに呪力を流し込んだ。
「よく頑張ったね、乙骨君。君の勇気が、真希たちを救ったんだ」
菅公の穏やかな声と、身体を包む温かな癒しの感覚に、乙骨は涙を溢ませながら小さく頷いた。過酷な呪術師としての第一歩を刻んだ少年を、静かな夏の風がやさしく包み込んでいた。
矢張り主役級の乙骨君の話を書くとなると相当、時間がかかりますね。疲れた 皆様の感想をお待ちしております。