白を基調とした病院の廊下には、特有の消毒液の匂いと、静寂だけが重く漂っていた。
窓から差し込む夕刻のオレンジ色の光が、床に長い影を落としている。つい先刻まで繰り広げられていた惨劇――行方不明となった児童の捜索、そして小学校を巣窟としていた呪霊の討伐任務は無事に完了していた。しかし、払った代償は決して小さくはない。戦闘の最中、禪院真希は呪霊が放った毒に当てられ、緊急搬送される事態となった。命に別状はないと診断されたものの、いまだ病室のベッドの上である。
さらには、彼女を救うため、そして群がる呪霊を破砕するために解き放たれた祈本里香の「422秒の完全顕現」。その強大な呪力の余波により、小学校の校舎は半壊という凄絶な爪痕を残していた。
その病室の重い扉の前で、乙骨憂太は深く下を向き、佇んでいた。その傍らには、白い目隠しを巻いた高専の教師、五条悟が壁に背を預けて立っている。
「問題無いってさ。真希も、子供も」
静かな、だが確かな安堵を含んだ五条の現状報告が廊下に響く。
「……よかった」
乙骨の口から、心からの安堵が吐露された。肩の荷が少しだけ下りたような吐息。しかし、その顔には晴れやかな色は一切なかった。眉間には深い皺が寄り、視線は力無く己の爪先を彷徨っている。
「何かスッキリしない顔だね」
言葉とは裏腹に、どこか憂鬱な陰を帯び続ける乙骨の表情を見逃さず、五条が問いかける。乙骨は自分の両手を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……初めて、自分から里香ちゃんを呼びました」
「そう。一歩前進だね」
五条の声は柔らかく、生徒の小さな変化を肯定するように響いた。
だが、乙骨の胸中に去来していたのは、前進という言葉とは程遠い、甘やかで苦い過去の記憶だった。
(あの時も……こんな病院だったな)
脳裏に鮮烈に蘇るのは、幼少期の記憶。肺が弱く、小さな身体で入退院を繰り返していたあの頃。白いベッドの上で、自分に対して優しく、どこか儚げな笑みを浮かべていた少女――祈本里香の姿。
あの病室を出た後、二人で駆け回った公園の風景が、昨日のことのように思い出される。ジャングルジムやブランコで共に遊び、夏の暑さの中で水風船を投げ合ってはしゃぎ合った、光に満ちた眩しい時間。
そして、あの決定的な日。公園の木漏れ日の中で交わされた、無垢で、けれど恐ろしい約束。
『約束だよ。大人になったら、里香と憂太は結婚するの』
幼い里香の真っ直ぐな告白。何の疑いも持たない純粋無垢な少年だった乙骨憂太は、躊躇いなど微塵もなく笑って答えたのだ。
『良いよ!』
その答えに、頬を赤らめて嬉しそうに歯に噛んだ里香の顔。そして、あまりにも純粋すぎた乙骨は、屈託もなくその鎖を強固にする言葉を重ねてしまった。
『じゃあ……僕らはず〜っと、ず〜っと一緒だね』
――あの瞬間、二人の間に交わされた不可逆の「縛り」。
「どうかした?」
五条の低い声が弾け、乙骨は引き裂かれるようにして一気に現実に引き戻された。はっと息を呑み、五条を見上げる。自分の左手薬指には、あの日からずっと自分を縛り続けている婚約指輪が鈍く光っていた。
乙骨は指輪をそっとなぞり、自省を込めて絞り出すように言葉を紡いだ。
「いえ……少し、思い出したんです。……里香ちゃんが僕に呪いを掛けたんじゃなくて、僕が、里香ちゃんに呪いを掛けたのかもしれません」
その言葉を聞いた五条の表情が、目隠しの下でわずかに引き締まる。数々の修羅場をくぐり抜け、呪いというものの本質を見続けてきた最強の呪術師は、静かに、そして重みのある声で返した。
「コレは自論だけどね――“愛程歪んだ呪いは無い”よ」
五条悟という男の経験から来たであろう、どこまでも重く、深い言葉。
乙骨はその言葉を噛み締めるように目を閉じ、指輪をはめた片手を、白くなるほど強く握り締めた。内に秘めた意志が、青い炎となって瞳の奥に宿る。
「先生……僕は、呪術高専で、里香ちゃんの呪いを解きます」
弱々しかった少年はもういない。自らの犯した罪と向き合い、愛する少女を救い出すという新たな決意が高専の廊下に静かに、しかし強く響き渡った。
同じ病院の別の階にある個室。そこでは、廊下の重苦しさとは一味違う、独特の空気が漂っていた。
ベッドの上には、ポニーテールを解き、病衣に身を包んだ真希が横たわっている。毒の症状はすでに収まっているものの、体調の経過観察のために安静を命じられていた。
そして、そのベッドのすぐ側には、一人の少年が片時も離れようとせず、つきっきりで座り込んでいた。
土師菅公(はじすがきみ)。15歳にして183センチという恵まれた体躯を持つ少年である。端正な顔立ちと凛とした佇まいを持つ彼は、五条家の先祖である菅原道真のさらに先祖にあたる「土師家」の正統な末裔であった。
「命に別状無くて、本当に良かった……」
菅公は消え入りそうな、けれど切実な声で呟くと、ベッドの上に置かれた真希の華奢な手を両手で優しく包み込んだ。
「だから何度も言っただろう、“大丈夫”だって……」
手から伝わる菅公の温もりに、真希は視線を明後日の方向に向けながら、少し気恥ずかしそうに答えた。しかし、菅公が握り締めるその手を、真希が振り解こうとすることは決してなかった。
「本当はね、このまま病院に泊まって、ずっと側に居ようと思ってたんだからね」
眉をひそめ、本気で切なそうな表情を浮かべる菅公。真希はその重すぎる愛の突風を受け止めきれず、思わず顔を真っ赤にして叫んだ。
「おまっ! アタシは子供かよ! そもそも、この後お前、任務なんだろう! 私に構ってないで早く行けよ!」
「分かってる! 分かってるけど……大切な人が入院してるんだよ!? 離れたくない僕の気持ちも分かってよ!」
菅公は握る手に力を込め、真剣そのものの瞳で真希を見つめた。
「もし真希や、真依や、冥冥さんに何かあったら、僕は耐えられないよ……自暴自棄になって、何もかも破壊し尽くす、文字通りの“破壊神”になっちゃうよ!?」
(……本気で言ってるよ、コイツは)
実は、その愛の重さや執着の深さは、あの特級過呪怨霊・祈本里香に負けず劣らずのレベルであった。幼馴染が向けつづける巨大すぎる感情の重さに若干引きつつも、真希の胸の奥には、くすぐったいような嬉しさがじんわりと広がっていた。
だが――真希の鋭い洞察力が、ある一つの違和感を逃さなかった。
「……おい。なんでそこであの銭ゲバ女の名前が出るんだよ」
一転して、ドスの効いた低い声で問い詰める真希。菅公は首を傾げ、至極当然といった表情で答えた。
「そりゃあ、冥冥さんは僕の師匠だし、呪術界で生きて行くノウハウを叩き込んでくれた大切な人だもの」
何の悪びれもなく、心底からそう言い切る菅公。その無防備な態度に、真希は額を押さえて深々とため息をついた。
「……昔から思ってたけど、お前って結構なタラシだよなぁ」
「? タラシ?」
真実に全く気づいていない様子の菅公は、ぽかんと口を開けて不思議そうに目を丸くしている。
(だめだコイツ、無自覚だ……。今度、真依とこの事について徹底的に話し合った方が良いな。あいつにも釘を刺しておかないと)
脳内で双子の妹との緊急会議を策定しながら、真希はベッドの上で居住まいを正し、菅公の額をぽんと軽く突いた。
「兎に角! 硝子さんからも“問題無し”のお墨付き貰ってんだ。菅公も、早く任務に行ってこい!」
自分はもう大丈夫だと言い聞かせるように、安心させる笑みを浮かべて背中を押す真希。その力強い言葉と表情に、菅公は「うぅ……」と唸りながら、渋々と重い腰を上げた。
「わかったよ……。任務、早く終わらせてまた来るからね。大人しく寝てなきゃダメだよ、真希」
「分かってるよ! ほら、行った行った!」
名残惜しそうに何度も振り返りながら病室を出ていく菅公の背中を見送り、真希はポニーテールを揺らすように首を振ると、赤くなった顔を布団に埋めた。
病室を出た土師菅公の雰囲気は、一瞬にして一変した。
先ほどまでの甘えていたような柔らかさは完全に消え去り、その瞳には凍てつくような冷徹さと、圧倒的な強者の圧迫感が宿っていた。高専の制服の袖を軽く捲り上げ、彼は単身、千葉県の山中に位置する廃寺院へと足を運んでいた。
今回の任務は、この地に巣食う複数体の一級および準一級呪霊の無差別討伐。
鬱蒼と茂る木々に囲まれた廃寺院の敷地に踏み込むと、腐臭と吐き気を催すほどの濃密な呪力が菅公を包み込んだ。闇の奥から、歪んだ形をした異形の群れが無数に這い出てくる。無数の目が菅公を捉え、邪悪な殺気が放たれた。
「敵対するものは、すべて殺す」
菅公は静かに呟いた。その言葉に感情の揺らぎはない。ただの決定事項としての事実。
通常の戦闘において、菅公は己の術式『落落雷雷』をみだりに使うことはしない。先祖より受け継ぎ、自らの覚醒によって真っ赤な神雷へと進化を遂げたその術式は、広範囲を無慈悲に壊滅させる圧倒的な破壊力を秘めている。だが、今の彼の目的は、真希の元へ一刻も早く戻るために、眼前の障壁を最も確実かつ迅速に排除することだった。
(術式は使わない。体術と……これで十分だ)
菅公は腰の鞘から、一本の特級呪具を引き抜いた。
『緋蝕刃(ひしょくじん)』。
和歌山の古代古墳に眠っていた光盤文書を読み解き、土師家の正統な血脈である彼だけが手に入れることを許された古の絶技。刀身を形成するのは、実体を持たない緋色の光輪――まるで灼熱のプラズマのように激しく脈動する光の刃であった。
ありとあらゆる物体、呪力、呪具、そして術式そのものすらも容易く断ち切り、極めれば概念すら切り捨てると言われる絶大なる切断能力を持つ極の呪具。菅公はこの三年間、血を吐くような修練の末に、光盤文書に記されていた「七つの型」を完璧に修得していた。
「――ガアアアアッ!」
体長三メートルを超える巨躯の呪霊が、無数の腕を振りかざして上空から襲いかかってきた。大気を破る圧迫感。
菅公は一歩も引かない。183センチの長身をしなやかに沈めると、緋蝕刃を一直線に構えた。
「一の型」
最も基本であり、故に一切の無駄を削ぎ落とした純粋なる一閃。
踏み込みと同時に放たれた緋色の光線が、空間を横一文字に切り裂いた。音すら遅れて届く一撃。襲いかかった大呪霊は、自身の攻撃が届く前に胴体を上下真っ二つに切断され、切断面から朱色の光を吹き出しながら瞬時に消滅した。
間髪入れず、左右の死角から二体の準一級呪霊が鋭い爪を突き立てて肉薄する。
菅公の視線が冷たく冴え渡る。剣尖を微細に振動させ、体捌きだけで敵の攻撃を紙一重でかわす。
「二の型」
テクニックに極振りされた繊細極まりない流撃。緋色の刃が空中で美しい円を描き、相手の攻撃軌道を滑らかに受け流すと同時に、関節と頸椎を正確無比に刻んだ。肉を断つ手応えすらなく、二体の呪霊は千切り絵のように細かく刻まれ、黒い霧となって霧散する。
「ギシャアアアッ!」
背後から迫る、呪力を高密度に凝縮させた光弾の雨。
「三の型」
防御とカウンターに全振りされた絶対の型。菅公は緋蝕刃を円形に旋回させた。放たれた緋色の光が完璧な光輪の盾を作り出し、飛来する呪力弾をすべて無効化して切り刻む。そしてその回転の勢いのまま、死角から迫っていた呪霊の喉元へ刃を突き立て、内部から呪力ごと爆発させた。
「ふぅ……」
息を乱すことすらなく、菅公は死の舞踏を続ける。彼の動きには一切の迷いがない。
「四の型!」
爆発的な機動力と体術を融合させた型。菅公の身体が残像を描いて消えた。超人的な脚力で地面を蹴り、壁から壁へと超高速で跳躍する。空中に逃れようとした飛行型の呪霊に対し、空中で目にも留まらぬ蹴りを叩き込んで地面へ叩き落とし、落下と同時に緋蝕刃で脳天から縦真っ二つに叩き斬った。
「五の型!」
地面から這い出てきた高密度の皮膚を持つ甲殻型呪霊に対し、菅公は上段から両手で緋蝕刃を振り下ろした。一撃の重さに全てを懸けた破砕の剣。ドスン、と地響きが起き、特級呪具の生み出す絶対の切断力が甲殻もろとも地表を数十メートルの深さまで切り裂いた。
さらに群がる無数の小型呪霊の群れに対し、
「六の型!」
攻防一体の流動。旋風の如く身を躍らせ、全方位からの群生攻撃を完璧にいなしながら、円状の斬撃で一網打尽にしていく。
肉体の躍動、緋色の光、そして絶え間ない切断の音。菅公の戦いは戦闘というよりも、圧倒的な力による一方的な「処刑」であった。
そして最後に残ったのは、人間の頭部を何十も結合させたような、極めて醜悪な姿をした一級呪霊の変種であった。それは危険を察知し、怨念の叫びを上げながら、寺院の本堂ごと菅公を押し潰そうと巨大な呪力の塊を形成した。
菅公はその巨躯を見上げ、緋蝕刃を静かに背後に構え直した。
その瞳から光が消え、完全なる無――ただ殺意だけが純粋に研ぎ澄まされる。
「七の型」
一切の防御を捨て去り、全神経、全身体能力、全呪力を「攻撃」というただ一点にのみ注ぐ、殺戮の極意。
瞬間、菅公の姿が掻き消えた。
ドオンッ!!
音速を超えた踏み込みによって本堂の床板が一瞬で粉砕される。緋色の刃が描いたのは、一本の線。
一級呪霊は、自分が何によって切り裂かれたのかすら理解していなかっただろう。菅公が呪霊の背後に着地し、静かに立ち上がった瞬間、呪霊の巨躯、そしてその背後にあった巨大な本堂の建物全体が、斜め一直線にズレ落ち、一気に崩壊した。
あらゆる物質も、集積された呪力も関係ない。緋蝕刃の七の型は、その軌道上に存在していたすべてを「無」へと還したのだった。
崩れ去る瓦礫の音と、塵粉が舞い散る静寂の中、菅公は緋蝕刃の光輪を消し、静かに鞘へと収めた。
「……これで、終わりだね」
敵対する者は、一匹残らず皆殺し。足元には呪霊の残骸すら残っていない。
菅公は懐からハンカチを取り出し、指先にわずかに付着したチリを優しく拭い取ると、空を見上げた。千葉の深い山々に、夜の闇が降りてこようとしている。
「急がないと……真希が心配してる」
先ほどまでの冷徹な死神の顔はどこへやら、彼は再び、大好きな幼馴染の元へ駆けつけたくてたまらない、愛の重い一人の少年の顔に戻っていた。
183センチの長身を躍らせ、菅公は夜の帳が下りる道を、真希の待つ病院に向かって一人、疾走していった。
と言うわけで乙骨君の新たな決意と主人公の激重な愛でした。次回からスクールライフを書いて行きますのでお楽しみに。