夏の日差しが容赦なく照りつける都立呪術高等専門学校のグラウンドには、絶叫にも似た荒い呼吸音が響き渡っていた。
小学校での呪霊討伐任務から一週間。トラックの上では、乙骨憂太が膝をガクガクと震わせ、今にも倒れ伏しそうな足取りで1500m走の周回を重ねていた。その遥か前方では、禪院真希と狗巻棘が汗ひとつ乱さずに軽快なテンポで走り終え、水分補給をしている。対する乙骨は、既に二人から二周以上の差をつけられていた。
「ハッ……ハッ……う、あ……!」
「足を止めるな、乙骨君! 腕を振って、呼吸を整えて!」
トラックの脇から声を飛ばすのは、183センチの長身を誇る一年生の土師菅公だった。菅公が乙骨の指導を引き受けるにあたって、真っ先に口にした言葉が「今の乙骨君は体力が無さすぎる!」というあまりにも身も蓋もない現実だった。
それもその筈である。乙骨憂太は、特級過呪怨霊・祈本里香に取り憑かれているという規格外の異常事態を除けば、少し前まで運動とは無縁の生活を送っていたごく普通の男子高校生に過ぎない。呪霊と対峙し、刃を交えるための基礎体力などあるはずがなかった。
そこで菅公が考案したのが、徹底的な基礎体力作りプログラム――命名『菅公Boot Camp』である。
かつて五条悟への強い憧憬から、自らの意思で父親である土師宗矩の紹介を受け、凄腕の呪術師・冥冥に弟子入りした菅公。彼がその冥冥から受けた地獄の如き地力育成訓練の「十分の一」の要素をてんこ盛りにしたという代物だ。見学していたパンダと棘をして「ただの鬼畜」「死人が出る」と言わしめたその過酷なメニューを重ねながら、乙骨は泥を舐めるようにして少しずつ成長の芽を覗かせていた。
――そんなある日の早朝。
高専の担任である五条悟と菅公の二人は、東京の地下深くに位置する呪術総監部へと呼び出されていた。
薄暗いお堂の中に並ぶ幾重もの障子。その奥に座す老頭児たちの存在理由は言わずもがな、先日起こった小学校での呪霊討伐における『祈本里香の422秒の完全顕現』に対する追及であった。
「この様な事態を防ぐために乙骨を君達に預けたのだ、申し開きの余地は無いぞ五条悟、土師菅公!」
重々しく、威圧感に満ちた老人の声が空間に響き渡る。だが、指名された当人たちの態度は惨椠たるものだった。菅公は退屈そうに欠伸を噛み殺しており、五条に至っては申し訳程度にボサボサの頭を掻いているだけだ。
「まあ、元々、言い訳なんてするつもり無いですし」
五条が軽薄そのものの口調で呑気に答えると、上座の障子の奥から怒気を含んだ声が跳ね返ってきた。
「何を巫山戯ている! 祈本里香があのまま暴走していれば街一つ消えていたかもしれんのだぞ‼︎」
「そうなりゃ命懸けで止めてましたよ」
変わらず肩をすくめてのける五条。彼はさらに煽るように言葉を重ねた。
「あのねぇ、私らがあの呪いについて言える事は一つだけ、“解らない”。呪術師の家系でも無い女児の呪いがどうしてあそこまで莫大なモノになったのか、理解出来ない物をコントロールする事は出来ません。まあ、『try & error』ってねぇ、暫く放って置いてくださいよ」
一方的にまくし立てると、五条はひらひらと手を振りながら背を向けた。菅公もまた、無言のままその後ろに続く。
「乙骨の秘匿死刑が保留だと言う事を忘れるな」
去りゆく二人の背中に、総監部のメンバーから冷ややかに刺されるクギ。しかし、その一言は、現代最強の術師と、菅原道真の先祖にあたる名門・土師家の血を引く若き規格外――二匹の龍の逆鱗に触れるには十分すぎるものだった。
五条と菅公は足を止め、振り返ることなく同時に低く言い放った。
「そうなれば私達が乙骨側につく事も忘れずに」
重苦しい沈黙を残し、二人は総監部の屋敷を後にした。
高専の敷居を跨いだところで、五条は黒いサングラスをずらし、心底ウザそうに愚痴をこぼした。
「たく、野暮な年寄り共め」
その隣を歩く菅公は、総監部を出てからずっと沈黙を貫いている。いつもなら上層部のジジイ共の理不尽に対して、真っ先に冷徹な皮肉を叩きつける菅公が静かすぎることに、五条はふと疑問を抱いて顔を覗き込んだ。
「今日はやけに大人しかったね菅公、何時もはジジイ共に真っ先に噛み付くのに」
すると、菅公はビクッと肩を揺らし、ぼやけた目で視線を泳がせた。
「ふぁ⁉︎ ゴメンなさい何か言ってましたっけ?」
「…………」
数秒の静寂。五条の目が点になる。
「え? もしかして……寝てた?」
その問いに、菅公は悪びれもせず流れるような口調で言いのけた。
「いや〜、総監部の連中が僕と五条さんを呼び出す理由なんて乙骨君の事だろうと思って途中から寝てました」
「プッ、あははははは、マジで寝てたの? アノ雰囲気の中で? て言うか目開けてたよね?」
五条腹を抱えて大爆笑した。菅公は真顔のまま、真剣な面持ちでうなずく。
「最近、会得したんですよ。忙しい中で睡眠時間を確保する方法を」
「ぶはははは、目開けたまま、立って寝てたの! あははは、僕も覚えたいその技!」
多忙を極める二級以上の術師にとって、睡眠は喉から手が出るほど欲しいリソースだ。五条は大いにウケながら、菅公の器用さに感心しきりであった。
話は巻き戻る。
地獄の1500m走をなんとか完走し、息も絶え絶えの乙骨は、五条と菅公の二人に案内されて高専の敷地奥深くにある呪具庫へと足を運んでいた。
「ささっ! どうぞ」
五条に促され、乙骨は緊張に肩をすくませながら重厚な扉の先へ踏み込んだ。内部には、おどろおどろしい呪力を纏った夥しい数の呪具が整然と並べられていた。日本刀、槍、鎖鎌、果ては海外製の特殊な銃器まで存在する。
「祈本里香程の大きな呪いを祓うのはほぼ不可能。だが、解くとなると話は別だ。何千、何万もの呪力の結び目を読み、一つずつ解いて行く。呪われている君本人にしか出来ないやり方だ」
五条が棚を物色しながら淡々と説明する。
「具体的にどうすれば……」
不安げに尋ねる乙骨に向かって、菅公が棚から一本の長物を手に取り、そのまま投げ渡した。
「っとっと!」
咄嗟に受け取った乙骨の手に収まったのは、一振りの日本刀だった。
「呪いは物に憑いている時が一番安定するからね」
菅公は183センチの身体を柱に預け、静かな声で言葉を継ぐ。
「乙骨君はあの時、指輪を通して祈本里香と繋がった。パイプは出来てるんだ。里香の呪いを貰い受け、刀に込めて支配する。繰り返し量を増やし、何れは全てを手中に収める。後は晴れて自由の身さ、君も彼女もね」
「刀に呪いを込める……」
初めて手にする本物の刀の重みに戸惑いながら、乙骨は呟いた。すると五条が乙骨の肩をぽんと叩き、爽やかに親指を立ててみせた。
「と、同時に刃物の使い方も覚えなきゃだし、何より君超〜貧弱だからまずは菅公に徹底的にしごいてもらいなさい」
「えっ……サムズアップされても……!」
こうして、乙骨のさらなる地獄の日々が幕を開けたのである。
――それから三ヶ月の月日が流れた。
蝉の声がうるさいほどに鳴き散らす夏のグラウンド。日差しがアスファルトを焼き付ける中、竹刀を構えた乙骨は、額から汗を流しながら相対する菅公に向かって鋭く打ち込んでいた。
「ハッ……!」
踏み込みと共に繰り出された上段からの振り下ろし。だが、菅公からしてみれば軸が定まっていない半人前以下の軌道だ。普段の戦闘では術式を使わず、自ら和歌山の古墳で発掘した古代遺物『光盤文書』から解読し、 3 年かけて習得した『緋蝕刃』の剣術七つの型の理合いを体術に落とし込んでいる菅公である。片腕で握った竹刀を軽く合わせ、ぬるりと受け流す。菅公の身体は汗ひとつかいていない。
防御に徹していた菅公が、すっと間合いを詰めて攻撃に転じた。
鋭い突き、踏み込みざまの横撃。基本に忠実でありながら、寸分の隙もない斬撃の連打が乙骨を容赦なく攻め立てる。もちろん菅公としては加減に加減を重ねた『超・軽め』の手加減だが、乙骨にとっては怒涛の嵐に等しい。
「腰が引けてる! 踏み込みと同時に呪力を刃先へ集中させて!」
指示を飛ばしながら、菅公は少しだけ重めの一撃を振り下ろした。
一月前の乙骨ならば、受けることもできずに竹刀ごと吹き飛ばされていたであろうその重圧。しかし今の乙骨は、歯を喰いしばり、両手で握り締め直した竹刀でがっちりとその衝撃を受け止めてみせた。
(へぇ……ちゃんと骨組みができてきたな)
内心で乙骨の成長速度に感心する菅公。互いに一歩引いて間合いを取り直した、その刹那だった。
「やあ、やあ、皆んな〜調子はどうだい?」
グラウンドの入口から、五条が呑気な声をかけながら歩いてきた。その軽いノリの挨拶に、乙骨の集中が一瞬途切れ、思わず振り向いてしまう。
だが、戦場においてその一瞬の隙は致命的だ。
パシッ!
「がはっ⁉︎」
乙骨の顔面に、菅公の容赦ない突き(軽め)が叩き込まれた。鼻を押さえてうずくまる乙骨に、菅公は冷ややかな、しかし諭すような視線を向ける。
「戦いの最中に構えを解くな」
「はい〜……」
鼻を押さえながら気まずそうに返事をする乙骨。すると菅公の雰囲気がガラリと変わった。いつもの物腰柔らかで一人称が「僕」の少年ではなく、実戦の場で敵対する者を容赦なく皆殺しにする際に覗かせる、冷徹で厳格な「私」という一人称の指導者へと切り替わる。
「そんな事じゃ私から一本取るなんて絶対、出来ないよ」
立ち上る菅公の威圧感に、乙骨は背筋を正した。
「はい!」
覇気のある返事とともに構え直す乙骨。彼は迷いを捨て、再び菅公に向かって踏み込んだ。渾身の袈裟懸け。鋭い風切り音が鳴る。
対する菅公は、わずか数ミリだけ体を横にズラしてそれを躱した。乙骨の視点から見れば、まるで菅公の身体を竹刀がすり抜けたかのような錯覚を覚える動きだ。
動揺した乙骨の隙を逃さず、菅公は合気の要領で乙骨の腕に己の腕を絡め、軸足を払ってその身体を崩した。そのまま鮮やかに横転させられる乙骨。
「はい、私の勝ち」
地面に転がった乙骨のおデコに向け、菅公は竹刀の先をちょんと突きつけた。
「……最後の、要りました?」
ひっくり返った姿勢のまま、乙骨は少し恨みがましそうに尋ねる。菅公は竹刀を引き、静かに見下ろした。
「甘えは無しだ乙骨君、学びは痛みの中でしか得られない。それに呪霊や呪詛師は君に対する手段など選んでくれないぞ」
静かながらも重みのある警告。その言葉は乙骨の胸に深く刺さった。
(そうだ……! 僕は……!)
自分が何のためにこの厳しい訓練に耐え抜いているのか。何のために高専に来たのか。初心を思い出した乙骨の瞳に、力強い光が戻る。彼はガバッと起き上がると、竹刀を強く握り直した。
「もう一本、お願いします‼︎」
(僕は、里香ちゃんの呪いを解くんだ‼︎)
再び気合いを入れ直して構える乙骨の姿を、グラウンドの端で見守っていた二年生たちが眺めていた。
「憂太が高専に来て三ヶ月か、かなり動ける様になったな〜」
木陰で腕を組むパンダがしみじみと呟く。
「すじこ」
隣に立つ狗巻棘も、首を縦に振って同意を示した。そこに五条がひょっこりと顔を出す。
「性格も前向きになったよね〜」
「ケッ、私から見りゃ、マダマダだよ」
ポニーテールを揺らし、長物を肩に担いだ真希が不機嫌そうに吐き捨てた。そんな真希の様子に、パンダがニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる。
「何だ真希、今日は随分とトゲトゲしいな、もしかしてあの日か?」
ピキッ。真希の額に分かりやすく青筋が浮かび上がる。
さらにパンダは『天啓‼︎』と言わんばかりの表情を作ると、真希の耳元にスッと顔を近づけ、ひそひそ声で囁いた。
「も・し・か・し・て焼き餅?」
「――何勘違いしてんだ、殺すぞ‼︎」
何かがブチ切れる音とともに、真希は手にした訓練用の長物をパンダの脳天目掛けてフルスイングで振り下ろした。ドガァンと激しい音が響く。
「照れんなや、小学生か」
頭から煙を出しながらも、スケベ親父のような顔で煽り続けるパンダ。
「お〜し、殺す! ワシントン条約なんて関係ねぇからな‼︎」
真希が完全にキレてパンダに飛びかかり、取っ組み合いの大喧嘩が始まった。見かねた菅公が「ちょっと真希、落ち着いて……!」と慌てて二人の間に割って入る。
その怒号と喧騒を見ながら、乙骨は汗を拭いつつ隣の狗巻に苦笑いを向けた。
「ははは 何の話かな」
「こんぶ」
短く返されるおにぎりの具材。そこに会話のドッジボールが発生し、微妙な空気感が漂う。
(狗巻君の事はまだよく分からなくて、ちょっとだけ怖かったり……)
高専に来て三ヶ月が経ったというのに、乙骨は未だに狗巻の放つ“おにぎり語”に馴染めずにいた。
そんな空気を破るように、五条がパンパンと手を叩いた。
「集合〜」
未だにパンダの首を絞めている真希たちを指差し、五条は指示を出す。
「そこの三人は引き続き鍛錬してもらって。棘、ご指名。君に適任の呪いだ、チャチャッと祓っておいで」
「しゃけ」
慣れた様子で頷く狗巻。一方、乙骨は目を丸くした。
「ご指名…」
暴れる真希を後ろから必死に羽交い締めにして抑え込んでいた菅公が、息を荒らしながら補足する。
「棘君は……っ、一年の中で唯一の二級呪術師! 単独での活動も許されてるんだよ……!」
「凄いな〜」
乙骨が素直に感心して狗巻を見つめる。その横で、菅公に抑え込まれた真希は(お前、特級じゃん)と心の中で乙骨の鈍さにツッコミを入れていた。
五条は満足そうに頷くと、乙骨を指さした。
「憂太も一緒に行っておいで、棘のサポートだ」
「え? サポート?」
「ていうよりは見学だね。呪術は多種多様、術師の数だけ祓い方があると思ってくれていい。棘の呪言はその良い例だ。しっかり勉強しておいで」
「“呪言”……」
イマイチピンと来ていない表情の乙骨に、五条は口元を緩める。
「文字通り“言葉”に呪いがこもるのさ。まっ、見た方が早いよ。呪いを解くならまずは呪いを知らなきゃね」
五条の言葉に背中を押され、乙骨と狗巻は現場へ向けて出発していった。
高専の門前で見送る面々。菅公は二人の背中が小さくなっていくのを眺めながら、ぽつりと不安をこぼした。
「大丈夫かな……」
「棘も付いてんだし大丈夫だろ」
パンダが巨体を揺らしながら答えるが、菅公は首を横に振った。
「いや、そうじゃなくて」
「他に不安でもあんのか?」
真希が不思議そうに首を傾げる。菅公は眉をひそめ、困ったように頭を掻いた。
「乙骨君、まだ棘君のおにぎり語に慣れてないからさ。ちゃんとコミュニケーション取れるのかなぁ〜と思って」
菅公の思いがけない懸念点に、真希とパンダは顔を見合わせた。
「「あ〜……」」
痛いところを突かれたという表情になる二人。しかしパンダはすぐに気を取り直したように、菅公の肩をポンと叩いた。
「まあ、習うより慣れろって言うしな。それに今回の任務で二人とも打ち解けられるかも知れないし、俺達は見守ってようぜ」
「……そうだね。杞憂ならいいんだけど」
菅公が笑みを戻すと、真希もフンと鼻を鳴らして同意した。
「さ、無駄話は終わりだ。菅公、さっきの続きやるぞ!」
「いいよ。真希、今度は『二の型』の足さばきを意識してみて」
蝉時雨が降り注ぐ夏空の下、再び竹刀の交わる乾いた音がグラウンドに響き渡り始めた。乙骨が成長し、そして自らの呪詛と向き合うための新たな一歩を踏み出したことを、誰もが静かに確信していた。
原作とは多少、違う流れになりましたが乙骨君の成長過程を目一杯描いてみました。