東京都立呪術高等専門学校の青々と茂るグラウンド。初夏の強い日差しが差し込む中、狗巻棘と乙骨憂太の二人が任務へと赴く背中を、土師菅公(はじ すがきみ)は見送っていた。
十五歳にして身長百八十三センチという、恵まれた巨躯と引き締まった体躯を持つ菅公は、日本三大怨霊と称される菅原道真のさらに先祖にあたる古代の名門「土師家」の正統な末裔である。かつて幼少期に父・土師宗矩の紹介により、五条家本邸で出会った五条悟への強い憧憬から呪術の道を深く志し、自らの意思で一級術師の冥冥に弟子入りを果たした異才であった。
「さて……二人が出かけたことだし、僕達も始めようか」
菅公が振り返ると、大薙刀を構えた禪院真希と、巨大な拳を握りしめるパンダが立っていた。真希のポニーテールが風に揺れる。五歳の頃、禪院家の屋敷で初めて出会って以来、同い年の真希やその妹の真依とは深い親交があったが、鍛錬の場において菅公に容赦という文字はない。
「フン、言われなくても分かってんだよ……! いくぞ菅公!」
真希が地面を強く踏み込み、無駄のない鋭い踏み込みから大薙刀の刃先を菅公の喉元へ突出す。同時に、反対側からパンダが巨体を活かした重厚な踏み込みで死角へと回り込み、必殺の右ストレートを叩き込んできた。
菅公の手には、木刀が一本あるのみ。
菅公の内に眠る術式『落落雷雷(らくらくらいらい)』は、自らの覚醒を経て発生する雷が禍々しい「赤」へと変化し、その破壊力は旧来の数十倍へと跳ね上がっている。指先から広範囲・長距離へ電撃を放つ術式順転『飛雷遠雷(ひらいえんらい)』、自身を光速の雷と化す術式反転『雷化舜動(らいかしゅんどう)』、強烈な電磁波で物質や呪力を破壊する拡張術式『死苦発苦(しくはっく)』、さらにはツァーリ・ボンバ級の破壊力を誇る極ノ番『雷帝(らいてい)』や、数億の赤雷が降り注ぐ領域展開『桑原桑原(くわばらくわばら)』に至るまで、人類や呪霊の領域を遥かに超越した力を持っていた。
しかし、菅公にはひとつの揺るぎない流儀がある。
「通常戦闘において、術式は意図的に使わない」——そして「敵対する相手は皆殺しにする」という冷徹な美学だ。
ゆえに、この高専のグラウンドで行われているのは、術式に頼らない純粋な体術と剣技による鍛錬……否、パンダや真希から見れば一方的な「シゴキ」であった。
菅公は、かつて和歌山の古代古墳で手に入れたピラミッド型の遺物『光盤文書』から解読した知識を、身体動作へと昇華させていた。その金細工と赤水晶が輝く古代の遺物には、土師家の血筋のみが閲覧を許される秘術と、あらゆる物体・呪力・術式、果ては概念さえも切り捨てる特級呪具『緋蝕刃(ひしょくじん)』を自在に操るための「七つの型」の奥義が刻まれている。
(一の型——最も基本となる構え。無駄を極限まで削ぎ落とす)
菅公は最小限の身体捌きで真希の薙刀の平を木刀の柄で叩き、軌道を僅かに逸らした。直後、パンダの巨拳が菅公の頬を掠めるが、そこにはすでに誰もいない。
(四の型——機動力と体術に重きを置いた体捌き)
風を切る音とともに菅公の影が消える。次の瞬間、パンダの背後に滑り込んでいた菅公は、一撃の重さに重点を置いた(五の型)の重心移動を木刀に乗せ、パンダの背中を強打した。ドォンと重厚な衝撃音とともにパンダの巨体がグラウンドを転がる。
「くそっ、速すぎる……! 呪力も殆どねぇアタシに、体術でここまで完璧に上を行かれたら形無しだろ!」
真希が悔し気に歯を食いしばり、薙刀を旋風のごとく振り回す。攻防のバランスに重きを置いた(六の型)の連撃で真希の攻撃をすべて木刀で打ち払い、二の型(テクニック重視)の鋭い翻しで真希の腕の支点を制して薙刀を弾き飛ばした。さらに、三の型(防御とカウンター)を応用し、飛び込んできたパンダの第二波を完璧にいなして地面に叩き伏せる。
「つ、強い……相変わらず容赦ねえな菅公……!」
荒い息を吐きながら地面に倒れ込むパンダと、膝に手を突いて悔しそうに菅公を睨みつける真希。そんな二人を相手に、菅公は息ひとつ乱さずに木刀を引いた。
シゴキと化していた鍛錬が始まり、ちょうど三時間が経過した頃だった。
静寂を取り戻したグラウンドに、電子音が鳴り響く。菅公のポケットに入っていたスマートフォンが揺れていた。
画面を見ることもなく、ツーコールで素早く通話ボタンを押す。
『やあ、可愛い弟子よ』
耳に届いたのは、妖艶で甘やかな、しかしどこか冷徹な計算を感じさせる女性の声——菅公の師である冥冥であった。
「冥冥さん。お電話ありがとうございます」
『至急、相談したい事があってね』
そう切り出した冥冥は、都内のとある高級和食料理店の名前と場所を指定した。
「すぐ行きます」
菅公は迷いなく即答すると、携帯を収め、素早い手つきで散らばった訓練道具を片付け始めた。敬愛する師からの呼び出しに、一切の無駄な動作はない。
「何だ? 呼び出しか菅公?」
地面から体を起こしたパンダが尋ねる。
「うん、冥冥さんからの呼び出し。急いで行って来る」
慌てた様子も見せず、洗練された動作で準備を整える菅公。その完璧な立ち振る舞いと、「冥冥」という名前を聞いた瞬間、真希の表情が露骨に曇った。
(チッ、またかよ)
真希は内心で激しく舌打ちをした。
真希と妹の真依、そして一級術師の冥冥は、菅公を巡って因縁浅からぬ関係にあった。幼少期から菅公を知り、彼に密かな感情を抱く真希たち姉妹にとって、菅公を「私の最高傑作」と呼び、何かと可愛がる冥冥の存在は面白くないことこの上ないのだ。
しかし、そんな真希の複雑な乙女心などつゆ知らず、菅公は超スピードで汗を流し、身なりを完璧に整えると、疾風のように冥冥との合流場所へ向かって高専を後にした。
都内の一等地に佇む、静謐な高級和食料理店。
個室の重厚な引き戸を開けると、そこには洗練された洋服を身に纏い、優雅に河豚の刺身を箸で運ぶ冥冥の姿があった。
「討伐先の任務地に呪霊がいなかった?」
席に着くやいなや、冥冥から切り出された言葉に菅公は思わず鸚鵡返しをしてしまった。
「そう、私がここ数ヶ月間に派遣された任務地の呪霊が悉く何者かに横取りされていた」
冥冥は極上の河豚を味わいながら、淡々と事情を説明する。その美しい師の姿を見つめながら、菅公は顎に手を置き、これから自分に言い渡されるであろう指示の内容を冷静に推察した。
「確かに不思議ですけれど、それだけで僕を呼び出したりしませんよね」
菅公が鋭く指摘すると、冥冥は満足そうに和やかに頬を緩めた。
「流石は私の最高傑作だ。菅公に依頼したいのは二つ。私に回って来た任務に極秘で代打として加わり調査を行う事、そしてその調査の過程で私の仕事を妨害する不心得者を見つけ出す事だ」
冥冥からの指令は実に単純明快であった。しかし、それだけに任務の難易度が極限まで跳ね上がるのを菅公は肌で感じていた。
そもそも、一級術師の中でも指折りの実力者であり、『黒鳥操術』という鳥類の視界を共有する索敵において他の追随を許さない術式を持つ冥冥なら、大抵の異変は容易に看破できるはずだ。ほんの僅かでも残穢が残っていれば、自らの莫大な収入を奪う不届きな同業他社など、それこそ赤子の手を捻るように探し当てて仕留めてしまうだろう。
その冥冥が自力で見つけ出せないとなると、相手は相当に腕が立つ者か、あるいは相当に老獪で場慣れしている呪詛師ということになる。(菅公自身は、相手が「相当に腕の立つ者」であると踏んでいた)。
「了解しました。期限は?」
「半月」
冥冥は端的に短く答えた。菅公は深く頷き、師の命令を完璧に遂行するため、早速席を立とうと腰を浮かせる。
「菅公」
不意に呼び止められ、菅公が振り返る。
そこには、極上の酒を口に含みながら、妖艶に舌舐めずりをする冥冥の姿があった。
「もし、依頼を完璧に熟したら……報酬とは別に、御褒美をあげるからね」
一級術師としての圧倒的な色香と危険な魅力に晒され、十五歳の菅公は思わずドギマギと胸を高鳴らせ、表情を固くしながらも深く一礼して料亭を辞した。
急ぎ高専へと戻った菅公を迎えたのは、焦走した様子のパンダであった。
「菅公! 任務に出掛けた棘と憂太が負傷して帰ってきた!」
「なに……!?」
驚愕した菅公は、着替えもそこそこに慌てて二人が収容されている医務室へと飛び込んだ。ドスンと土煙を上げるような勢いで入室した菅公の視界に入ったのは——ベッドの上で怪我の手当てを受けつつも、互いに笑い合いながら仲良さそうに談笑する狗巻棘と乙骨憂太の姿であった。
「……ハァ」
二人の命に別条がない無事な姿を確認し、菅公は胸を撫で下ろして深い息を吐き出した。
パイプ椅子を引き寄せて腰掛けた菅公に、二人は任務での出来事を語り始めた。
旧商店街に巣食う雑魚呪霊(魚群)の討伐へと向かったこと。雑魚呪霊を全て綺麗に祓ったにもかかわらず、なぜか外部と遮断する『帳』が上がらなかったこと。そしてその直後、本来の想定を遥かに超える等級外(実質的に準一級クラス)の禍々しい呪霊が現れたこと。不測の事態に対し、乙骨が狗巻を巧みにフォローし、命懸けで力を合わせて何とか呪霊を祓い除けたこと——。
「憂太、本当によく棘を支えてくれたね。頼もしいよ」
菅公は乙骨の目覚ましい成長を心から頼もしく思い、笑みをかけた。しかし、彼の思考の裏側では冷徹な演算が始まっていた。
二人が遭遇した等級外の呪霊の特徴——それは、先ほど冥冥から説明を受けた「横取りされた」任務地で目撃されていた呪霊の特徴と酷似していたからである。
(ただの偶然じゃない……一筋縄ではいかないぞ)
腕を組み、深く思考の海へと没入しながら、菅公はこれからの動きについて計画を練り上げるのだった。
翌日。
狗巻と乙骨が派遣されたあの旧商店街へと、菅公は五条悟と共に足を運んでいた。
錆びついたシャッターと薄暗い路地が続く現地では、補助監督の新田明(にった あきら)が待機していた。
「商店街をくまなく捜索した所、三種類の残穢が発見されましたっス。“これ以上は何も見付からないだろう”と伊地知さんからっス」
語尾に特徴のある独特な口調で説明する新田に対し、五条と菅公は「ありがとう」と礼を述べた。
新田を下がらせ、しんと静まり返った廃商店街の内部へと深く足を踏み入れる二人。菅公の研ぎ澄まされた感性は、空間の端々に残されたかすかな残穢の痕跡を過敏に感知していた。
(大したものだ。残穢を態と残しながら、それ以外の痕跡は一切辿れないように処理されている。これでは冥冥さんでも探しきれない訳だ……)
菅公は、姿なき敵の洗練された隠蔽工作に対し、半ば称賛ともとれる感想を抱いていた。
しかし——隣に立つ五条悟の頭の中は、菅公とは全く異なる感情と記憶に支配されていた。
(やっぱりお前か……傑)
かつて高専時代、自分や家入硝子と共に学び、共に笑い、共に青春を駆け抜けた旧友。いや、唯一無二の親友であった男——『夏油傑(げてう すぐる)』。
四人しか存在しない特級術師の一人でありながら、百人を超える一般人を呪殺し、最悪の呪詛師として呪術高専を追放された男。
長年を共に過ごした五条にしか判別できないかすかな「残り香」が、寂れた商店街の湿った空気の中に、確かに漂っていた。
五条の僅かな空気の変化を見逃さず、菅公は静かに、しかし鋭く尋ねた。
「顔見知りですか?」
五条は隠すことなく、遠い目をして短く答えた。
「そう、僕の親友だ」
その一言、そして五条の反応と残された痕跡の質から、菅公は脳内で数少ない情報を繋ぎ合わせ、即座にある一人の呪詛師へと行き着いた。
菅公の眼光が、氷のように冷たく冴え渡る。
自らの内に眠る、赤く覚醒した破壊の雷術式『落落雷雷』。そして、和歌山の古墳から見出し、あらゆる概念すら切り捨てる特級呪具『緋蝕刃』の存在。
自らの圧倒的な力と決意を胸に、菅公は五条に向かって静かに、しかし断固とした口調で宣言した。
「例え貴方の級友だとしても——『私』の眼前に立ちはだかったら、躊躇なく“狩りますよ”」
敵対する者は、例外なく皆殺しにする。それが土師菅公という術師の揺るぎない流儀であった。
その恐ろしいまでの殺気と覚悟を受け止めながらも、五条悟は目隠しの奥で不敵な笑みを浮かべた。
「アイツはそう簡単にはやれないよ」
未だ直接相まみえていない“最悪の呪詛師”の影に思いを馳せながら、菅公は冥冥へ『任務先の呪霊が横取りされていた』件の真相と今後の動向を報告するため、静かにポケットから携帯電話を取り出すのだった。
と言うわけでとうとう前髪さんの影が見え隠れして来ました。次回のお話しを何にするか少し迷ってます、楽しみにお待ちください。