京都の深い山々に抱かれた姉妹校交流会の戦場には、生い茂る木々を薙ぎ払った暴風の残り香と、焦土から立ち上る仄かな煙が漂っていた。
広大な敷地を包み込んでいた緊張感は、やがて呆気ないほどの静寂へと変わる。そしてその静寂を打ち破ったのは、東京校の陣営から上がった歓声とハイタッチの音だった。
「シャアッ! 楽勝だったな、オイ!」
豪快に笑い声を上げたのは、二年の秤金次だ。学ランの袖を捲り上げ、未だ興奮冷めやらぬ様子で拳を握りしめている。その隣では、同じく二年の星綺羅羅が爪を気にしながら親しみやすい笑みを浮かべていた。
「ほんと、あっけなかったね〜。東京校の圧勝じゃん?」
「あ、はは……みなさん、お疲れ様です……」
肩の荷が下りたように胸をなでおろすのは、一年の乙骨憂太だ。かつての怯えたような面影は少し影を潜め、その瞳には過酷な戦闘を潜り抜けてきた呪術師としての小さな強さが宿っている。
そして、彼らの中心に佇んでいたのは、一年の土師菅公であった。
黒髪を風になびかせ、凛とした佇まいでたたずむその姿には、一片の乱れもない。今回の交流会において、菅公は自身の術式を一切使用しなかった。ただその身に宿る天性の体術と、冥冥のもとで徹底的に磨き上げられた無駄のない洗練された動きだけを用いて、襲い来る京都校の面々をことごとく叩き伏せたのだ。
留守番として東京校に残ったポニーテールの似合う真希やパンダ、狗巻棘たちの顔を思い浮かべながら、菅公はフッと小さく頬を緩めた。
「怪我がないようで良かったよ、乙骨君。秤先輩も綺羅羅先輩も、お見事でした」
菅公の静かだが芯のある声が、勝利に沸く空間を心地よく締め直す。
その光景を、会場を見下ろす高台の樹上から眺めている二つの影があった。白髪を目隠しで覆った男、五条悟。そしてその隣に、どこか気まずそうに腰掛け、不機嫌そうに酒瓶を抱える京都校の引率、庵歌姫である。
勝負が決した広場を見つめながら、五条は口元に薄く笑みを浮かべ、誰にともなく言葉をこぼした。
「あの臆病だった憂太がすっかり逞しくなったね〜、菅公も他を纏める司令塔として頑張ってくれたし僕もその内、お役御免かな」
それは、最強と謳われる男の気まぐれな独白のようであり、どこか寂しげな吐息のようでもあった。すると、すぐ隣から遠慮のない鋭いツッコミが飛んでくる。
「何〜言ってんのよ、アンタの引退なんて100年は先よ、先!」
隣に腰掛ける歌姫が、あきれたように眉をひそめて五条を睨みつける。五条はわざとらしく大袈裟に肩を竦めてみせた。
「えぇ〜、100年先まで働けって? いくら呪術界がブラックでもあんまりでしょう。歌姫ブラック過ぎ〜」
「茶化すんじゃないわよ!」
歌姫はそう一蹴したが、次の瞬間にはその表情から毒気が抜け、眼下で仲間と笑い合う一年生の二人に視線を戻した。その瞳には、深々とした懸念の色が濃く落とされている。
「……でも、本当に大丈夫かしらねあの二人」
「二人って菅公と憂太の事?」
五条が問い返すと、歌姫は静かに首を縦に振った。
「あの二人を見てると思い出すのよ、昔のアンタ達を」
“アンタ達”――その言葉が耳に届いた瞬間、五条の思考の針が、一気に過去へと巻き戻る。
青い空、蝉の時雨、何者にも縛られないと信じていた高専時代。自らを『最強のコンビ』と称し、世界が自分たちを中心に回っていると疑わなかったあの青春の日々。何もかもが眩しく輝いていた記憶の底から、今もなお鮮明に脳裏に焼き付いている特徴的な“変な前髪”の親友の影が浮かび上がり、目まぐるしく駆け巡る。
だが五条は、その懐傷を覆い隠すように、いつもの軽い調子を保ったまま口を開いた。
「あの二人なら大丈夫、菅公は流石に冥さんに鍛えられただけに一片の緩みも無い、憂太も少しずつ呪術師としての心構えが出来てきてる。何よりあの二人には何が何でも成し遂げたい目標がある。彼等がそれを投げ出さない限り何の心配も無い」
乙骨憂太には、祈本里香を呪縛から解放するという絶対の誓いがある。
そして土師菅公には、自らの一族の子孫である“雷神”菅原道真の怨霊の祓術を完遂し、目の前に立つ五条悟という巨星を超えていくという、苛烈なまでの目的が存在する。
だが、歌姫はその五条の言葉に納得するどころか、激しく反論した。
「だから余計に心配なのよ! 確かに菅公は強い、でもあの子はまだ15歳よ、本来なら同じ歳の子供達と遊んでる筈なのに余りにも重責を担い過ぎてる!」
それは教師としての、そして一人の大人としての悲壮なまでの叫びだった。呪術界という狂った世界で、凄惨な宿命を背負わされた15歳の少年の未来を思うが故の痛切な独白。
五条は目隠しの奥の視線を静かに菅公へと向け、低く落ち着いた声で応じた。
「確かに本来、あの歳の子供に背負わせるものじゃない」
「だったら!」
歌姫が身を乗り出し、声を荒らげようとした瞬間、五条はその言葉を遮るように静かに、しかし断固とした口調で言葉を継いだ。
「でも、あの子が自分で選んだ事なんだ。僕に焦がれ、超えたいと願い、そして今日まで弛まぬ努力、いやそんな生易しい概念はとっくに捨て去り、執念だけで僕に追いつき追い越そうとしてる、そんな人間の覚悟を今更“捨てなさい”なんて言えないでしょ。それは彼にとって人生の意義を奪われる事に他ならない」
静寂が二人を包み込む。歌姫は開いた口を閉じ、悔しそうに拳を握りしめたまま俯いた。菅公が高専に入学する前、幼い頃からどれほどの血を吐くような鍛錬を重ね、何を削り落としてここまで来たのか。それを知る五条だからこそ言える、残酷で、けれど最大級の敬意が込められた肯定だった。
五条は雰囲気を和らげるように、ふっと口元を緩めた。
「それに前から言ってるでしょう、“若人から青春を取り上げるなんて何人にも許されていないんだよ”」
「………分かった、これ以上は指図はしない」
歌姫は深くため息を吐き出すと、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には決意に似た強い光が宿っていた。
「だけど約束して。生きてあの子の、ううん、あの子達の生き様を見届けて!」
言葉に宿った重みが、二人の間の空気をわずかに震わせる。それは呪術師としての約束であり、逃れられぬ『縛り』のような確信を伴っていた。
だが、五条悟は一切の躊躇もなく、その重圧を軽く受け流してみせた。
「誰に言ってんの? 当然でしょ」
当然だ、と自信に満ち溢れた笑みを浮かべる最強の男。歌姫は少しだけ安堵したように息を漏らしたが、次の瞬間、五条の表情がニヤニヤとした悪友のそれに変わるのを見逃さなかった。
「……ところでさぁ〜、歌姫ってヤケに菅公の事、気に掛けるよねぇ〜」
嫌な予感が歌姫の背筋を駆け抜ける。
「もしかして? あの子の事、好きなの〜♪♪???」
語尾に音符を浮かべんばかりの煽り全開のトーンに、歌姫の顔が一瞬で爆発したように真っ赤に染まった。
「はぁ〜!?!?!? な、何勘違いしてんのよ!! そ、そんな訳ないでしょ〜!!!! 昔、一緒に任務を熟したから気にかけてるだけよ!!!!」
「顔が赤くなってる、可愛うぃぃ♪」
「だから先輩を敬え!!!」
立ち上がって猛然と怒鳴り散らす歌姫と、それをひらひらと手を振ってかわす五条。その喧噪は、樹上から広場へと筒抜けになっていた。
高台を見上げた菅公は、顔を真っ赤にして怒り狂う歌姫とヘラヘラと笑う五条の姿を目にして、静かに首をかしげた。
(あの二人、仲いいなぁ〜)
もし歌姫がこの心の声を聞けば「どこをどう見たらそう見えるのよ!?」と全力で否定するであろう頓珍漢な感想を抱きながら、菅公はそのまま二人の元へと歩み寄っていった。
「お疲れ様です、五条さん、歌姫さん」
「おっ、菅公。お疲れ〜」
ヒラヒラと手を振る五条に対し、歌姫は慌てて咳払いをして姿勢を正した。「お、お疲れ様、菅公くん……」とどこかギクシャクした対応になる歌姫に、菅公は特に突っ込むこともなく、前々から抱いていた疑問を口にした。
「ところで五条さん、明日の個人戦ってどうするんですか? 京都校のメンバーって僕達(祈本里香も含む)が軒並みぶっ飛ばしちゃいましたよね?」
そう、今回の団体戦は東京校の圧倒的な勝利に終わった。菅公の立てた作戦――『乙骨を東堂にぶつけて秤と菅公で他の京都校メンバーの迎撃、そして綺羅羅が呪霊狩りに専念する』という完璧な役割分担のもと、菅公は術式を封印した純粋な体術のみで加茂憲紀やその他の京都校メンバーを片端から制圧したのだった。
だが途中で計算外の事態が起きた。乙骨に宿る祈本里香が一時的に暴走を起こしかけたのだ。その暴走を即座に沈静化させ、被害を最小限に食い止めたのは菅公ただ一人であったが、その一連の激闘によって京都校の主戦力である東堂や加茂を含む大半のメンバーが文字通り完全にノックダウンされてしまっていた。唯一無傷に近かった西宮も、混乱の中で箒がズタズタのボロボロに破壊され、とても戦闘を行える状態ではない。
言われてみればそうだ、と後ろからついてきた秤たちがハッと目を見開く。
五条は悪びれもせず、あっけらかんと言い放った。
「あぁ、今回の交流会、個人戦はやんないよ」
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、爆音のような怒号が樹林に響き渡った。
「「「えぇ!!!」」」
特に猛烈なブーイングを打ち上げたのは秤金次だった。髪をガシガシと掻きむしり、五条に向かって詰め寄る。
「そりゃねえぜ五条さんよ〜! 正直、団体戦で圧勝したからよ〜、正直消化不良なんだよ〜!」
勝負において“熱”を何よりも愛する秤にとって、不完全燃焼のまま終わる交流会など納得がいくはずもない。勝ち取った勝利自体には文句はないが、暴走の鎮圧も菅公が一人で片付けてしまったこともあり、暴れ足りない不満が残っていたのだ。
ダダをこねる秤に対し、五条は肩をすくめて呆れたように言い返す。
「しょうがないでしょ〜、皆んなが京都校のメンバーを全員、ぶっ飛ばしたのが原因なんだから。それに皆んな忘れてるかも知れないけど、帰ったら学長に反省文出さなきゃいけないからねぇ」
「うぐっ……!」
その一言が出た瞬間、秤と綺羅羅の顔が同時に引きつり、あからさまにゲンナリとした表情へと変わった。
菅公が立案した作戦自体は合理的で隙のない完璧なものだった。しかし、里香の暴走という特大のイレギュラーが発生した際、一歩間違えれば交流会会場どころか京都の街全体が吹き飛びかねない危険な状況に陥ったのは事実だった。そのため、視察していた夜蛾学長から厳しいお叱りを受けることとなり、東京高専に帰還した後は東京校の参加メンバー全員に厳重な反省文の提出が言い渡されていたのだ。
「あー……もう、反省文とか一番ダルいんだけど……」
「作文とか超苦手〜……金ちゃん、代わりに書いてよ〜」
「俺に書かせるたぁいい度胸だな綺羅羅、文章構成ぐちゃぐちゃで余計怒られるぞ」
頭を抱える先輩たちのやり取りを見ながら、菅公は思わず苦笑いを浮かべた。
「まあまあ、帰ってからみんなで協力して書きましょう。僕も手伝いますから」
「マジか菅公!? 助かる〜! お前マジで良い奴だな!」
秤が菅公の肩を力強く叩き、周囲に和やかな空気が戻ってくる。
ひとまず交流会一日目は、東京校の完全勝利という形で無事に幕を閉じた。反省文という憂鬱な課題はあるものの、菅公の胸の中にはそれ以上の静かな期待と高揚感が広がっていた。
明日、個人戦がなくなったということは、丸一日自由な時間ができたということだ。
菅公は、ふと京都校の宿舎がある方向へと視線を向けた。見学として参加していた、同い年の少女――禪院真依の姿が頭に浮かぶ。
昔、幼い頃に禪院家の屋敷で出会って以来の仲であり、真希ともども気心の知れた大切な友人。今日一日、見学席からこちらの戦いを見守ってくれていた彼女と、明日は一日かけて一緒にお出かけをする約束をしているのだ。
(どこに行こうか……京都の街を案内してもらうのも良いかもしれないな)
夕闇が迫る京都の空を見上げながら、土師菅公は明日への期待に胸を躍らせ、静かに笑みを深めるのだった。
取り敢えず、交流会編は次で最後です。