あの鬱陶しいまでに騒がしかった京都校との姉妹校交流会が無事に(?)幕を閉じてから、早いもので二ヶ月の月日が流れていた。
秋の面影はすっかり薄れ、街ゆく人々の吐く息も白くなり始める十一月の終わり。呪術界におけるいわゆる「繁忙期」のピークは過ぎ去ったものの、人間の負の感情が存在し続ける限り、呪霊による被害が完全に潰えることはない。東京高専の敷地内には寒風が吹き抜け、木々が枯れ葉を散らしていた。
高専の敷地内にあるベンチでは、黒髪を後ろで一つに結い上げたポニーテール姿の禪院真希が、薙刀を手入れしながら大きく溜息を吐いていた。そばにはパンダと狗巻棘、そして乙骨も身を寄せ合い、寒さを凌ぐように寛いでいる。
「……たく、相変わらずアイツは帰ってこねぇな」
真希が呆れたように呟く。その言葉が指す対象を、パンダはすぐに察して苦笑した。
「菅公のことか? まあ、アイツの実力はすでに特級相当だからな。一級から特級クラスの重い任務がひっきりなしに舞い込んできてるんだろ。おまけに冥冥からの個人的な依頼まで受けてるっていうんだから、休む暇なんてあるわけないよなぁ」
「おかか」
棘も心配そうに頷く。
菅公——土師菅公(はじすがきみ)は、五条家の先祖である菅原道真の、さらに先祖にあたる古代の名門「土師家」の正統なる末裔であった。幼少期、五条家の屋敷で当時の五条悟と対面した際、菅公はその圧倒的な存在感に深い影響を受けた。のちに父親である土師宗矩の紹介を経て、自らの意思で一級術師の冥冥に師事。銭ゲバと称される冥冥の徹底した合理性と冷徹なまでのプロ意識を吸収し、若干十五歳にして呪術界でも屈指の戦闘能力を誇るまでに成長していた。
菅公の生まれ持った生伝術式『落落雷雷』は、自らの更なる覚醒を経て凄まじい変貌を遂げていた。術式によって生み出される稲妻は禍々しくも神聖な血の如き赤色へと変貌し、その破壊力は従来の数十倍にまで跳ね上がっていたのだ。
しかし、菅公には極めて強いこだわりがあった。彼は通常の戦闘において、意図的に術式を使用しない。鍛え上げられた圧倒的な体術と呪力操作のみで敵を圧倒することを基本としていたのだ。先の交流会においても、菅公は術式を一切解禁することなく、研ぎ澄まされた体術のみで京都校の面々を完膚なきまでに制圧してみせた。その圧倒的な格の違いは、高専関係者の間に強い衝撃を与えたほどである。
そして、菅公という男のもう一つの特徴——それは、ひとたび「敵」と定めた相手に対しては、一切の躊躇も容赦もなく『皆殺し』を果たすという、徹底した冷酷さであった。
「……菅公のヤツ、昔から一度決めたら聞きやがらねぇからな。五才の頃に禪院の屋敷で会った時から、あの物静かな顔の裏に狂気を秘めてやがった」
薙刀を肩に担ぎながら、真希はどこか懐かしむように目を細めた。幼い頃、禪院家の陰湿な環境の中で孤立していた真希と真依にとって、まっすぐに自分たちと接してくれた菅公の存在は救いだった。成長し、立場が変わった今でも、真希と真依にとって菅公は変わらぬ幼馴染であり、信頼を寄せる親友であった。
「まあ、あいつならどんな呪霊が相手だろうとヘボ打つこっちゃねえだろうが……体だけは壊さなきゃいいけどな」
真希の呟きは、寒空の風の中に静かに消えていった。
その頃、菅公は東京から遠く離れた大阪の地にいた。
師匠である冥冥、そして彼女に盲目的な忠誠を誓う弟の憂憂と共に、過密なスケジュールの合間を縫って引き受けた高難易度の任務をこなすためである。
「相変わらず、君の仕事ぶりは無駄がなくて助かるよ、菅公」
移動の車内、高級な毛皮を羽織った冥冥が、艶やかな笑みを浮かべながら菅公に視線を向けた。
「滅相もありません、冥冥さん。指導していただいた教えを忠実に実践しているだけです」
菅公は穏やかな笑みを返し、車窓から流れる大阪の街並みを眺めた。菅公の一人称は「僕」であり、その物腰は常に丁寧で品格が漂っている。しかし、彼がこれまでに葬ってきた呪霊や悪質な詛呪師の数は、すでに並の一級術師を遙かに凌駕していた。
車が停車したのは、大阪の郊外に広大な敷地を構える歴史ある邸宅の前だった。門構えからして並の資産家ではない。だが、その豪邸全体には、非術師には感知できない歪で重苦しい気が澱のように充満していた。
住人は非術師の名家であり、苗字を西園寺という。今回の依頼は、この邸宅の当主から冥冥のもとへ直接持ち込まれたものであった。
重厚な屋敷の応接間に通された三人。茶が出されたものの、誰もそれに手を付けることはなかった。上質な和服を召した西園寺家の当主は、顔色を失い、身を乗り出すようにして切実な声を上げた。
「妊娠した愛娘が、不穏な悪夢を見る様になったんです」
当主の言葉に、菅公は静かに茶碗から視線を上げ、呟いた。
「悪夢、ですか」
「はい。娘曰く、『陣痛が始まったその瞬間、腹の内側から炎が溢れ、焼かれる激痛と共に燃え盛る赤子が産まれてくる』と……。一度や二度であれば“マタニティブルー”と思ったのですが、妊娠してからずっとなのです」
悲痛な面持ちでそう告げる当主に、冥冥は顎にそっと手を添え、深く頷いた。
「成程」
「コレは只事ではないと思い、冥冥氏に相談させて頂きました」
当主の説明を聞き、菅公、冥冥、憂憂の三人は軽く顔を見合わせた。非術師の精神にこれほど明確かつ継続的な悪夢を植え付けるなど、単なる精神疾患の類でないことは明白だった。
「取り敢えず、娘さんに会わせて貰えるかな?話はそれからだ」
冥冥が淡々と切り出すと、当主は藁にもすがる思いで「分かりました」と強く頷き、すぐに立ち上がった。
三人は当主に導かれ、屋敷の奥深くにある娘の部屋へと案内された。重厚な扉が開かれ、静かに部屋へと足を踏み入れる。
室内に満ちていたのは、異様な熱気と、肌を刺すような病的な呪力であった。
ベッドの上に横たわっていたのは、見るからに窶れ、焦燥しきった妊婦の姿だった。毎晩のように凄惨な悪夢にうなされ、碌に睡眠も取れていないのだろう。青白い皮膚の下には骨が浮き出ており、その両眼の下には痛々しいほど色濃い隈が刻まれていた。
「……誰、ですか……?」
怯えたように体を震わせる妊婦に対し、憂憂がすっと前に出た。
「ご安心ください。僕たちは姉様の指示で、貴女をお助けに参ったのです」
憂憂が可憐な仕草と整った容姿で妊婦の警戒を解き、恐怖を和らげている間、菅公と冥冥の二人は静かに妊婦の身体をくまなく観察していた。膨らんだお腹を中心に、渦巻くような異様な気配が漂っている。
「どう思う菅公?」
冥冥が隣の菅公に低音で問いかける。菅公は細い目をさらに細め、視線を妊婦のお腹に集中させた。
「間違いなく呪霊の仕業でしょうね。ただ………」
「ただ?」
思わせぶりに言葉を濁した菅公に、冥冥が尋ねる。菅公はそれには直接答えず、静かな足取りで女性へと近づいた。そして、大きく膨らんだお腹に対し、そっと呪力を纏わせた右手の手のひらを向け、触れようとした。
次の瞬間——。
ビリッ!!!!
猛烈な衝撃音と共に、菅公の手が激しく弾き返された。
「っ……!?」
冥冥と憂憂が驚愕する。菅公は一歩後退り、弾かれた自身の右手を見つめた。その手のひらは、まるで灼熱の鉄板に押し付けられたかのように、皮膚が黒く焦げ、赤黒い肉が露出して焼け爛れていた。室内に、肉の焦げる異臭が僅かに漂う。
しかし、菅公の表情には一切の動揺もなかった。
「……なるほど。そういうことですか」
女性から粗方、悪夢の時期や体調の変化に関する情報を聞き終えた三人は、彼女を休ませるために部屋を辞し、用意された別室へと移動した。
別室の扉が閉まった瞬間、憂憂が心配そうに菅公へ駆け寄った。
「手のひら大丈夫ですか?兄様」
「大丈夫だよ憂憂」
菅公は憂憂に対し、にこやかに手のひらを向けた。そこには先ほどまでの痛々しい焼け爛れた跡など一切存在しなかった。反転術式を即座に循環させ、細胞を完全に再生・治癒させたのである。寸分の傷もない白皙の手のひらに、憂憂は安堵の息を漏らした。
冥冥は部屋のソファーに腰を下ろし、足を組みながら改めて問い直した。
「菅公、先程何か言いかけていたね」
「ええ、今回の呪霊はただの呪霊とは違います」
菅公は表情を引き締め、簡潔に答えた。
「どう違うのですか兄様?」
可愛らしく首を傾げて問う憂憂に、菅公は静かな笑みを浮かべながら丁寧な口調で解説を始めた。
「呪霊の魂の核を構成する要素は、本来であれば人間の“負の感情”です。しかし、あの妊婦の腹に宿っている呪霊の核からはそれが感じられなかった。より正確に言えば……魂の核の上に、周囲から吸い取った負の感情を纏っている、という感じです。そしてその内側の核には、明らかに“神聖”が宿っていた」
菅公の言葉に含まれた重みに、冥冥の目が細められる。
「それはつまり………」
と、冥冥が先を促すと、菅公は迷いのない視線で言い放った。
「はい、今回の相手は“神”です」
菅公のキッパリとした断言が、静まり返った別室に重く響いた。
神——。
それは森羅万象そのものであり、日本においてはありとあらゆる物に宿る存在とされている。時に人に“福”を与え、時に“災い”をもたらす。大自然そのものの如く勝手気儘に振る舞う、それが“神”という概念の正体であった。
神が現世に顕現するのは、呪術の歴史においても極めて奇跡的な確率である。膨大な時間を費やし、複雑極まる何重もの儀式を重ねたとしても、神自身の機嫌が悪ければあっさりと呼び出しを拒否される。そんな気紛れで絶対的な存在が、何の変哲もない非術師の女性の腹に宿り、胎児を通じてこの世に顕現しようとしているのだ。
これが何を意味するか。確実に、特級の分類すら生温い極大の超規格外案件である。
普段はどのような凄惨な現場であっても妖艶な笑みを崩さない冥冥も、今回ばかりは笑みを消し、真剣な顔つきで任務の異常な難易度を肌でヒシヒシと感じ取っていた。
「神と言っても数えきれない程居るからね。どの神かによって対策が異なるよ」
冥冥が試すように、かつ慎重に問う。
「確かに古今東西様々な神がいますが……母体を焼き、生まれながらに火炎を纏った神を、僕は一柱しか知りません」
真剣な表情を崩さず、菅公は静かに答えた。冥冥と憂憂は言葉を発さず、黙って彼の次の言葉を待つ。
息をのむ静寂の中、菅公はその神の名を口にした。
「それは、『迦具土(カグツチ)』です」
迦具土——それは日本神話に記された火の神であり、同時に凄惨な『親殺し』の神でもある。
神話において、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の間に産まれた最後の子供。産まれた瞬間にその絶大な火徳によって母である伊邪那美の陰部を焼き、死に至らしめた。そして、最愛の妻を失い激怒した父・伊邪那岐によって、十握剣(トツカノツルギ)で斬り殺されたという悲運と破壊の神である。
「迦具土は腹の中の胎児を依代に自身の神話をなぞりながら顕現するつもりなのでしょう」
菅公の予想に、冥冥は冷徹な現実を見据えるようにシビアな声で言った。
「そうなったら母子共に助からないだろうね」
「どうやって祓うのですか?」
憂憂のシンプルかつ根幹を突いた質問に対し、菅公は深々と息を吐き、静かに答えを出した。
「方法は一つしかない。陣痛が始まった瞬間に腹を切り開き、中の胎児を殺す。依代が死ねば、迦具土も顕現出来ない」
その言葉の意味を理解し、憂憂は尋ねた。
「では赤ん坊はどの道助からないのですね」
「…残念ながら、赤ちゃんは諦めてもらうしかない。迦具土は赤ちゃんの魂に完全に癒着している状態だからね」
菅公の答えには、命を奪うことへの痛心な響きが含まれていた。しかし、その瞳には一切のブレはなかった。敵対するもの、そして世界を破滅に導く脅威に対しては、いかなる対象であろうとも『殺す』という絶対の決意が宿っていた。もし顕現を許せば、大阪どころか日本全土が迦具土の神火によって焼き尽くされ、何千万もの命が消えることになる。天秤にかけるまでもなかった。
「その事については西園寺家当主を通して納得してもらうしかないだろうね」
冥冥は静かに、そして事務的に言った。非術師の名家がどれほど嘆き悲しもうと、呪術界の規律と世界の平穏のためには、この残酷な選択肢以外の道は存在しないのだ。
冬の冷たい風が、屋敷の窓をカタカタと揺らしていた。
神の顕現という未曾有の災厄を前に、十五歳の術師・土師菅公は、己の手を再び赤く染める覚悟を静かに固めていた。
と言う訳で神殺し編の始まり、始まり〜!!よろしくお願いします