薄暗い廃倉庫の中に、小さな足音が響いていた。
数日前、彼は生まれて初めて「呪霊」の討伐に成功した。恐ろしく、おぞましい化け物を相手に、震える足で立ち向かい、何とか勝利を収めた。その褒美として温かい食事でも貰えるかと思ったが、彼のパトロンであり雇い主でもある1級呪術師・冥冥から与えられたのは、更なる「仕事」だった。
『素晴らしいわ、菅公。見事な初陣だった。でも、あなたの価値が本物かどうか、もう一つだけ試させてもらうよ』
冥冥から渡されたのは、この郊外にある廃倉庫の住所だけだった。
ターゲットが何なのか、どんな能力を持っているのか。彼女は意図的に一切の情報を教えなかった。ただ、「そこに巣食う害悪を祓え」とだけ告げたのだ。菅公は当然のように、今回も「呪霊」が相手なのだと思い込んでいた。
(……おかしい。呪力の残穢はあるのに、気配が、ない)
7歳にしては異常なほど研ぎ澄まされた菅公の呪力感知能力をもってしても、ターゲットの居場所が全く掴めなかった。
その時だった。
「――ヒャッハ!!」
突如として、何もない虚空から下品な叫び声と共に刃物が振り下ろされた。
「っ!」
菅公は咄嗟に短刀を交差させて防御したが、子供の細腕では到底防ぎきれない重い一撃だった。弾き飛ばされ、コンクリートの床を転がる。頬を浅く切り裂かれ、ツーッと生温かい血が流れた。
「いてて……」
痛みに顔を歪めながら立ち上がり、前を向いた菅公は、予想外の光景に目を丸くした。
そこに立っていたのは、おぞましい異形の呪霊ではなかった。
薄汚れたジャケットを着て、ニタニタと笑う中年の『人間』だった。
「なんだァ? 呪術連中の手先って言うから警戒してたら、こんなガキかよ。人手不足にも程があるんじゃねェの?」
「……にん、げん……?」
菅公の声が震える。呪霊じゃない。ただの人間だ。どうして人間が、呪力を纏って自分を殺そうとしているのか。7歳の頭では状況が追いつかない。
男――悪質な呪詛師は、怯える子供を見てさらに下卑た笑みを深めた。
「ガキ、お前なんで俺の姿が見えなかったか分かるか? 俺の術式『
男は自慢げに語り始めた。
「この力は最高だぜ。金庫の前でジッとしてりゃ警備員は素通りするし、邪魔な奴の背後で待ち伏せすりゃ簡単に首を掻き切れる。おまけに、夜道で女を――まぁ、お前みたいなガキにはまだ早い話だが、とにかく俺は誰にも見つからずに『なんでも』できるってわけだ!」
盗み、暗殺、強姦。
自らの術式を悪用し、人間の欲望の底なし沼を這いずり回ってきた男から放たれるのは、呪霊以上にドス黒く濁った邪悪な呪力だった。
「お前も高く売れそうだが、まずはその手足を切り落として大人しくさせ――」
男がそう言いかけた瞬間、その姿がフッと空間から『消失』した。
「……!」
菅公は息を呑んだ。
動かずに3秒。男の言葉通り、彼がその場に立ち止まったことで術式が発動したのだ。
右を見る。左を見る。上を警戒する。だが、視覚にも呪力感知にも全く引っかからない。文字通り、世界から完全に消え去っている。
(どうしよう、どうしよう……!)
菅公は冷や汗を流しながら後ずさった。
姿が見えない敵。次にどこから攻撃されるか分からない。
だが、恐怖で真っ白になりかけた菅公の頭に、冥冥の冷たくも甘い声が蘇る。
『呪術師に必要なのは、強さだけじゃない。どんな状況でも最適解を導き出す冷徹さよ。それができないなら、君に投資する価値はないわ』
価値がない。それは、この世界で見捨てられることを意味する。
菅公はギュッと唇を噛み締め、呼吸を整えた。
(相手は、動かないと見えなくなる。でも、僕を攻撃するためには絶対に『動かなきゃ』いけない。動いた瞬間には、術式は解けるはず……!)
男の姿が消えてから数秒。
静寂の中、菅公はわざと背中を向け、隙だらけの姿勢で立ち止まった。短刀を持つ手も下げ、「怖いよぉ……」と子供らしく泣きじゃくるフリをした。
しかし、その神経は極限まで研ぎ澄まされていた。視覚ではなく、皮膚で空気の揺らぎを感じ取るために。
(来る……!)
――背後の空気が、微かに動いた。
「死ねぇ!!」
空中に突如として男の姿が現れ、凶悪な刃が菅公の首筋へと迫る。動いたことで術式が解け、姿を現したのだ。
「そこっ!!」
菅公の小さな身体が、バネのように弾けた。
振り返りざま、男の振り下ろす腕をすり抜けるように懐へと潜り込む。男の顔に驚愕が浮かぶ。ガキだと舐めきっていた彼の反応は、死線を潜り抜けたばかりの呪術師の卵よりも、ほんのわずかに遅かった。
ドスッ!!!!
鈍く、重く、生々しい音が廃倉庫に響き渡った。
菅公の握りしめた短刀が、男の腹部を下から上へ、深々と突き上げられていた。
「ガ、ハッ……!?」
男の口から、大量の鮮血が吐き出される。
ドクン、ドクンと、柄を握る菅公の両手に、男の心臓の鼓動が直接伝わってきた。呪霊を斬った時のように、塵となって消えることはない。
温かく、粘り気のある真っ赤な液体が、菅公の小さな手を、顔を、服を濡らしていく。
「あ、あぁ……」
男は信じられないものを見るような目で菅公を見下ろし、そのままドサリと崩れ落ちた。痙攣を二、三度起こし、やがて完全に動かなくなった。
床に広がる、真っ赤な血の池。鉄の匂いが鼻を突く。
「……あ……ああ……」
菅公はその場にへたり込み、自分の手を見つめた。
手が震えている。止まらない。
呪霊とは違う。今、自分が殺したのは、自分と同じ血の通った『人間』なのだ。
人を、殺した。この手で。命を奪った。
胃の中のものが込み上げ、菅公は床に這いつくばって激しく嘔吐した。
「おえっ、ゲホッ……あぁ……っ」
涙と鼻水、そして胃液に塗れながら泣きじゃくる7歳の少年の姿は、あまりにも痛々しかった。
その時、倉庫の高い窓の桟から、「カァ」と黒烏が鳴いた。
『――お疲れ様、菅公』
烏の口から、聞き慣れた冥冥の声が響く。彼女は最初から、烏の視界を通じてすべてを観察していたのだ。
『気分はどうだい? 呪詛師……つまり人を殺す感覚は』
「め、冥、さん……どうして……人間だって、教えてくれなかったの……」
涙声で訴える菅公に対し、冥冥のトーンはどこまでも平坦で、それでいてひどく満足げだった。
『教えれば、君は躊躇したろう? 呪術師として生きていくなら、避けては通れない道だよ。人間だろうが呪いだろうが、殺すべき時に殺せるか。君は立派に証明してくれた』
冥冥の声は、優しい称賛を帯びていた。
『よくやった。これで君の資産価値は大きく跳ね上がった。誇っていいよ』
通信が切れ、烏は飛び去っていった。
薄暗い廃倉庫に、ただ一人取り残された菅公。
彼の目の前には、事切れた男の死体。
血に染まった小さな両手を抱え込みながら、7歳の土師菅公は、いつまでもいつまでも、声にならない声を上げて泣き続けた。
この狂った呪術の世界で、彼が失った「何か」を悼むように。
菅公の初めての殺人、呪いを祓い続ける為には必要な代償、ソレを躊躇なく突きつける我らが姉様。