都立呪術高等専門学校の敷地を包み込む空気は、かつてないほどに重く張り詰めていた。
夏油傑による宣戦布告——十二月二十四日、新宿および京都に千の呪霊を放つとする『百鬼夜行』。
その未曾有の危機に対し、呪術界総力を挙げた『対百鬼夜行作戦要綱』がようやく完成をみた。配置の最終調整が済み、各術師が配置につくまでの束の間の静寂。高専のあらゆる者が己の武具を研ぎ、呪力を練り上げ、来たるべき決戦の刻を待っていた。
静まり返った木造の旧校舎の一室。西日が落ち、藍色の闇が部屋の隅々から忍び寄る室内で、土師菅公はただ一人、床に座し瞑想に耽っていた。
静寂の中、彼の眼前に一振りの光刃が漂っている。特級呪具『緋蝕刃』。
菅公は手すら触れていない。完璧に制御された呪力の波長だけを以て、その極致たる刃を空中に浮遊させ、微かな起動状態を維持させていた。覚醒を遂げた彼の呪力は、以前の蒼雷の輝きを削ぎ落とし、より純粋で苛烈な朱鷺色——赤き稲妻の余韻を帯びている。空気の分子が微細に擦れ合い、時折、パチ…と小さく爆ぜる音だけが室内に響いていた。
日常的に行なっている精神統一の修練。呪力を極限まで削ぎ落とし、研ぎ澄まされた刃のように研磨する作業。その深い意識の底へと沈み込んでいた菅公の耳に、重厚な引き戸の開く音が届いた。
「菅公、入るぞ」
聞き慣れた凛とした声。
菅公は即座に空中の『緋蝕刃』から呪力を引き抜き、床に滑らせるように手元に引き寄せた。瞑想を中断し、ゆっくりと振り返る。
「真希、ゴメンね。この忙しい時に」
逆光の中に立つ少女——ポニーテールに結い上げた漆黒の髪を揺らし、眼鏡の奥から鋭い眼光を覗かせる禪院真希へと、菅公はいつも通りの笑みを向けた。
だが、振り返った菅公の瞳を見た瞬間、真希はわずかに息を呑んだ。
彼の双眸が、濃密な琥珀色に輝いていたからだ。
真希はその瞳が好きだった。
菅公の瞳が琥珀色の深い光を帯びるのは、彼が心の底で怒りを燃やしている時だ。そして、いつも穏やかな笑みを絶やさない菅公がそのような激しい憤怒を覚えるのは、己の身内——自分や妹の真依、あるいは菅公が師と仰ぐ冥冥に対して害意や危険が向けられた時が殆どだった。
誰よりも強く、誰よりも優しくあろうとする少年が、自分たちのために世界を敵に回す覚悟をその瞳に宿す。その瞬間だけは、どんな理不尽な世界にあっても、自分が彼にとって特別であり、最も近い場所にいるのだと実感できて安心できた。
(……ったく、何考えてんだアタシは)
浮つきかけた己の思考を、真希は強引に頭の隅へと押しやった。明日には命を懸けた大戦が控えているのだ。真希は努めて粗暴な態度を装い、短く息を吐いた。
「で? どうしたよ二人きりで話したいって」
「うん、最近ゆっくり二人で話が出来て無かったなぁ、と思ってね。京都へ向かう前に真希と色々と話したかったんだ」
相変わらず穏やかな声音だった。菅公は立ち上がり、着物の裾を払うと、真希との距離を縮める。その瞳の琥珀色は、真希を包み込むような柔らかい光へと徐々に落ち着いていった。
「どう? 明日の作戦は、緊張してる?」
菅公の静かな問いかけに、真希は「はっ!」と鼻で小さく笑い飛ばした。
「んなわけねえだろ。今まで何回任務で戦って来たと思ってんだよ。今更ビビるようなガラじゃねえよ」
いつものように強気な笑みを浮かべ、胸を張る真希。だが、菅公は誤魔化されることなく、その琥珀色の透き通った瞳でまっすぐに真希の顔を見つめ続けた。嘘も、強がりも、すべてを見透かすような無垢で深い視線。
それに耐えかねたように、真希の視線が次第に泳ぎ、強固だった態度が急速に萎んでいく。真希は気まずそうに髪を掻きむしり、息を漏らした。
「……悪りぃ。本当は少し緊張してる」
掠れた声で零された本音。
菅公は何も言わず、そっと自身の大きな掌を真希の頬に当てた。吸い付くような温もりが真希の皮膚に伝わる。そのままもう片方の手も添え、彼女の頬を両手で優しく包み込んだ。
「謝る事は無いよ、真希。明日君が迎え撃つのは特級呪詛師・夏油傑だ。自分より遥かに格上の相手と戦うんだ、緊張しない方が変だよ」
まるで幼子をあやすかのように、菅公の言葉は深く、優しく真希の心を解きぐしていく。言葉の一つひとつが、強張っていた真希の身体から余計な力を取り除いていった。
しかし、菅公の表情からふっと笑みが消え、切なげな影が差した。
「……本当はね、真希。この作戦に君を参加させたく無かったんだ」
その一言に、真希の身体が跳ねた。包み込まれていた手を振り払うようにして、真希は菅公にくってかかった。
「何でだよ! お前までアタシを足手まとい扱いするのかよ!!」
禪院家で受け続けてきた蔑視と拒絶の記憶が、真希の頭をよぎった。呪力を持たぬ落ちこぼれ。足手まとい。誰もが自分を否定し、遠ざけようとしてきた。菅公だけは違うと思っていたのに、彼までもが自分を前線から排除しようというのか。
「違うよ」
菅公のハッキリとした、それでいて揺るぎない声が真希の怒りを遮った。
「真希がどれだけ必死で鍛錬を積み続けて来たか、どれだけ辛い思いを抱えながら生きて来たか……僕はずっと見て来たんだから」
言い終えるより早く、菅公は一歩を踏み出し、真希の華奢な体を強く抱きしめた。
「ッ……菅公!?」
「真希が大切だから、真希の事が大好きだから……傷ついて欲しくないんだ」
菅公は真希の首筋にそっと顔を埋めた。
彼の温かい息が首筋にかかり、真希の身体はビクンッと大きく跳ねた。全身の血液が一気に顔へと集まり、鼓動が耳元でうるさいほどに脈打つ。彼から伝わる圧倒的な情愛と、隠しきれない独占欲。それが痛いほど真希の胸に刺さった。
「そ、それでも私は……ッ」
真希は菅公の胸に手を当て、押し返そうとしながらも、なおも言い募ろうとした。自分には証明しなければならない意地がある。禪院家の鼻を明かし、呪具使いとして立つために、逃げるわけにはいかないのだと。
しかし、菅公は真希の身体を離すと、すべてを解解しているような微笑みを浮かべた。
「分かってる。真希は、それでも止まらないもんね」
折れることのない彼女の強靭な精神を、菅公は誰よりも深く理解し、尊んでいた。だからこそ、彼は引き留めることを諦め、もう一つの選択を選んだ。
「だから真希に、お守りを授けます」
菅公はそう言うと、真希の手を引っ張り、その掌の上に持っていた「ある物」を力強く握らせた。
手の中に残された冷たくも重厚な感触。真希が視線を落とすと、そこにあったのは漆黒と銀の意匠が施された、見覚えのありすぎる柄だった。
真希は目を剥き、絶句した。
「お前! コレは……!!」
「うん、特級呪具『緋蝕刃』。僕の頼れる相棒だよ」
菅公は事もなげに言ってみせた。
和歌山の古代古墳から持ち帰り、彼が三年の歳月をかけて幾つもの型を叩き込み、手足のように馴染ませてきた絶対的な主兵装。いかなる物体も、呪力すらも切り裂くというその刃は、菅公という術者の象徴そのものであった。
「君にコレを託す。だから真希、無事に帰って来て必ず返してね。……約束だよ」
菅公の顔に、いつもの和やかな笑みが戻っていた。
言葉が出なかった。
呪具使いにとって、あるいは戦場に赴く術師にとって、自らの命を預ける最上の武器を他人に託すことが何を意味するか。ましてや、菅公にとってこの『緋蝕刃』がどれほど特別な存在であるかを、真希は嫌というほど知っていた。
それを、躊躇いの一片すら見せずに自分へ差し出したのだ。
「死ぬな」「生きて戻れ」というどんな言葉よりも重く、苛烈なまでの愛情。
真希の胸の奥が、熱いもので満たされていく。柄を握りしめる手に力がこもった。彼から託されたこの重みこそが、明日、自分を死線から連れ戻す最強の呪いであり、絆なのだと真希は確信した。
「……あ、そうだ」
不意に、菅公が何かを思い出しかのように手をポンと打った。
真希の手を握ったまま、少し腰を落として真希とまっすぐに目線を合わせる。その瞳には、すでに怒りの琥珀色は消え、無邪気で、けれどどこか逃れられない決定決定事項を告げるような光が宿っていた。
「この戦争が終わった後、真希と真依の二人に大事な話しが有るんだ」
あっけらかんと言い放たれた言葉。
「だから、予定空けといてね」
「……は? おい、菅公……!?」
真希が問い質す暇を与えることなく、菅公は握っていた手をそっと離すと、軽やかな足取りで廊下へと出て行った。ひらひらと手を振りながら、引き戸の向こうへと消えていく。
「じゃ、京都に行ってくるよ。無事でね、真希」
パタン、と静かに戸が閉まり、室内には再び静寂が訪れた。
残された真希は、ぽつんと一人、暗くなりかけた部屋の中に立ち尽くしていた。
手の中にある『緋蝕刃』の確かな重みと、首筋に残る彼の温もり、そして去り際に残された「二人への大事な話」という謎めいた言葉。
「大事な話……って……」
顔に上った熱が、一向に引く気配を見せない。
真希は大きく一つ息を吐くと、呆れたように、けれど心底愛おしそうに呟いた。
「勝手なこと言い上がって……。帰ってきたら、たっぷり問い詰めてやる」
手に握りしめた特級呪具を強く抱え直し、真希はポニーテールを揺らして決意の固まった足取りで歩き出した。
明日、必ず生きてこの場所へ戻ってくるために。そして、あの男の待つ未来へ追いつくために。
いよいよ次回夏油一派との決戦です!お楽しみに!
※誤字を教えてくださる皆様、いつも感謝しております。
コレからもよろしくお願いします