血の匂いは、どれだけ冷たい水で洗い流しても、鼻の奥にこびりついて離れない。
薄暗い路地裏で、七歳の小さな身体が小さく上下に揺れていた。土師菅公(はじすがきみ)は、足元に転がる『それ』を冷たい目で見下ろした。つい先ほどまで生きて、菅公に殺意を向けていた呪詛師の男。今はもう、ピクリとも動かない。
菅公の小さな手には、自身の背丈の半分ほどもある呪具が握りしめられていた。柄にはべっとりとどす黒い液体がこびりついている。呪霊を祓った時のような、紫色の煙となって消えることのない、生々しい人間の血と肉の残骸。
一月前、冥冥の指令の下で初めて人間を殺めたあの日から、菅公の世界には常にこの生温かい鉄の匂いが付き纏うようになっていた。
(……次。次の指示を貰わないと)
息を整え、菅公は小さく震える手を強く握り込んだ。
怖いわけではない。悲しいわけでもない。ただ、何もしていない時間があると、一月前に初めて奪った命の、あの骨を断つ感触と、最後にこちらを見つめた絶望の瞳がフラッシュバックして吐き気がするのだ。
だから、菅公はこの一ヶ月、憑かれたように任務をこなした。冥冥に命じられるがまま、あるいは自ら志願して、呪霊を祓い、呪詛師を狩った。呪術界の闇に蠢く有象無象を、七歳という幼さで作られた狂気で以て屠り続けた。
動いていれば、血を流していれば、あの日の記憶が少しだけ遠のく気がしたからだ。
路地裏を抜け、指定されていた高級ホテルの最上階へと向かう。
冥冥の待つスイートルームの扉は、菅公のような血に塗れた子供にはひどく不釣り合いなほど重厚で、豪奢だった。
「戻りました。対象の処理、完了しました」
ふかふかの絨毯に血や泥を落とさないよう、入口の土間で靴を脱ぎ、菅公は淡々と報告した。
部屋の奥、豪奢なソファに深く腰掛け、長い銀髪を優雅に揺らしている女――冥冥は、手元のタブレットから視線を上げることなく、ふふっと蠱惑的な笑い声を漏らした。
「ご苦労。今回も素早い仕事だったね、菅公。クライアントも喜ぶだろう」
「……はい。あの、冥さん。次の任務は」
「次?」
冥冥はそこで初めて、タブレットをテーブルに置き、菅公を真っ直ぐに見つめた。
前髪の隙間から覗く鋭い瞳が、菅公の全身を値踏みするように舐め回す。青白い顔、目の下にできた濃い隈、そして、微かに震えを帯びている小さな肩。
「今月だけで、君はすでに私の期待値の三倍の利益を叩き出しているよ。優秀な駒を持つと笑いが止まらないね」
「なら、もっと働けます。次の呪詛師でも、一級呪霊でも、なんでもいいです。すぐに――」
「駄目だ」
ぴしゃりと、冷たい声が遮った。
菅公はびくっと肩を揺らし、口をつぐむ。冥冥はゆっくりと立ち上がり、菅公の目の前まで歩み寄ると、その長い脚を曲げてしゃがみ込み、七歳の子供と視線を合わせた。
「働き蜂は嫌いじゃないがね、オーバーワークで壊れられては、せっかくの『投資』が無駄になる。道具にはメンテナンスが必要だ。お前は今、ひどく燃費が悪い状態にある」
冥冥の冷たい、しかしどこか甘やかな香水の匂いが、菅公を包み込んだ。血の匂いが、その瞬間だけふっと薄れた気がした。
「……こわ、れないです。僕は、平気です」
「嘘をつくのは下手だね、菅公。いや、子供らしくて可愛いと言うべきかな」
冥冥は、血のついた菅公の頬に、長い指をそっと這わせた。ひんやりとした彼女の手の温度が、熱を持った菅公の肌に心地よく響く。
「一ヶ月前。初めて人間を殺した日から、お前はまともに眠っていないだろう?」
図星を突かれ、菅公は息を呑んだ。
見透かされている。この人には、自分の恐怖も、罪悪感も、それを誤魔化すために無茶をしていることも、すべて計算の上なのだ。
「呪霊と人間は違う。消えてなくなるモノと、肉の塊として残るモノ。その違いに心が軋むのは、お前がまだ七歳の、純粋な子供だからさ。……呪術師としては致命的な欠陥だが、私個人としては、その青さは嫌いじゃない」
冥冥は菅公の小さな手を引き、ソファへと誘導した。
そして、自身が座ると、戸惑ったまま立ち尽くす菅公の腕を引き、無理やり自分の膝の上に寝かせた。
「め、冥さん……っ!?」
「暴れるな。血がつくのは構わないが、これ以上私の服を汚したら、給料からクリーニング代を天引きするよ」
冗談とも本気ともつかない言葉に、菅公はピタリと動きを止めた。
ふわりと、冥冥の膝の柔らかさと、高級なシルクの感触が頬に触れる。見上げると、美しい彼女の顔が、いつもよりずっと近くにあった。
「いいか、菅公。罪悪感というのは、ひどく無駄な『負債』だ。死んだ人間にいくら心を痛めても、一銭の利益にもならない。だが……初めての殺人というものは、どうしても心に重い税を課してくる」
冥冥の細く長い指が、菅公の血と汗で固まった髪を、ゆっくりと、優しく梳き始めた。
「だから、私がその負債を肩代わりしてやろう。お前が殺したのは私のためだ。お前の手にある血も、お前が奪った命も、すべては私が金に換えた。つまり、責任は雇用主である私にある。お前はただの、私の優秀な『武器』だ。武器が罪悪感を抱く必要など、どこにもない」
それは、あまりにも身勝手で、冷酷な資本主義の論理だった。
しかし、今の菅公にとっては、どんな優しい慰めの言葉よりも、その冷徹な理屈が救いだった。
自分が背負いかけたいくつもの命の重さを、この強くて美しい主人が、「すべて自分のものだ」と奪い取ってくれたのだから。
「……冥、さん……」
髪を撫でる一定のリズム。鼻腔を満たす甘い香水の匂い。そして、自分の存在を肯定し、罪を赦す(あるいは買い取る)絶対的な言葉。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「あぁ……そうさ。そのまま目を閉じなさい」
菅公の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。声を出して泣くことはできなかった。ただ、七歳の子供らしく、静かに、けれど止めどなく涙を流し、冥冥の膝に顔を押し付けた。
冥冥は嫌な顔一つせず、ただ黙って、子供の頭を撫で続けた。
「君はよくやっているよ、菅公。私の自慢の所有物だ。今日はもう、何も考えずに眠りなさい。……特別に、明日は丸一日休みにしてやろう。もちろん、有給休暇だ」
その言葉が聞こえたかどうか。
菅公の意識は、すでに深い深い眠りの底へと沈みかけていた。
一ヶ月ぶりに訪れた、血の匂いも、死者の顔も出てこない、暖かく甘やかな暗闇。
寝息を立て始めた小さな頭を見下ろし、冥冥はふっと口角を上げた。
「……さて。これでまた、彼は私のために身粉にして働いてくれるだろう。安い投資だ」
独り言ちたその声は、計算高く冷ややかでありながらも、膝の上の子供を撫でる手つきだけは、どこまでも優しく、甘やかだった。
はい、と言うわけで今回は珍しく姉様が甘やかしてくれました。菅公を依存させつつ癒しを与える正に魔性の女ですね。あれ?おかしいな真希と真依をヒロインに据えるはずが冥冥姉様の話ばかりになってるぞ。