「ポーションより、とりあえず一杯」 作:高校ジャージ10年目
クラーケンを巨大なイカリングに変え、港町を黄金の歓喜で満たした一行。
次なる目的地は魔王領の入り口、通称『無風の停滞地』。そこは、魔王軍の中でも最も「地味で執拗」と言われる男が支配する領域だった。
「……ユウマ。何なの、この場所。不潔……不潔を通り越して、生理的な嫌悪感を覚えるわ」
セラフィナが、眉間に深い皺を寄せて温度計を睨みつけている。
そこは、草木が枯れるわけでもなく、かといって青々と茂るわけでもない、どんよりとした灰色の平原だった。
「風がない……。それに、暑くも寒くもない。ただ、じっとりとしていて……」
リリィが法衣の襟元をパタパタと仰ぐが、動く空気さえも重たい。
「ああ、なんだか力が出ねぇな。熱血修行をする気にもなれねぇし、かといって昼寝をするには少し蒸し暑い……」
勇者アレクまで、聖剣を杖代わりにしてダラダラと歩いている。
「ユウマ殿……。私の盾の『タルタルソース・タンク』が……変なのだ」
ガレスがおそるおそる盾のレバーを引くと、中から**「分離してドロドロになった、人肌のぬるさのソース」**が、やる気なさげに垂れ落ちた。
「ガレスさん、それは……一番ダメな状態です」
ユウマの顔が、かつてないほど険しくなる。
そこへ、灰色のローブを纏った、覇気のない男がふらりと現れた。
男は欠伸をしながら、一行に視線を向ける。
「あー……。ようこそ、僕の領域へ。僕は魔王軍常温将軍、カロン。……戦うの? やめなよ、疲れるし。ここでゆっくりしていきなよ。ここはすべてが『ちょうどいい』場所なんだから」
「ちょうどいい……だと? 貴様、この不快な停滞が『ちょうどいい』と言ったのかしら!?」
セラフィナが杖を突き出し、魔力を解放しようとする。
「演算開始! この一帯を絶対零度の静寂へ――」
「無駄だよ。僕の権能は『中庸(ミディアム)』。あらゆるエネルギーの勾配を平坦にするんだ。冷たすぎれば温め、熱すぎれば冷ます。……世界は25℃で安定するのが、一番エコだと思わない?」
セラフィナの杖から放たれたはずの氷結魔法が、カロンに届く前に「ぬるい霧」となって霧散した。
「なっ……!? 私の絶対零度が……ただの『加湿器の蒸気』になったというの!? 万死……万死に値するわ!! こんな、数式が平均値に収束し続けるだけの世界なんて!!」
「セラフィナさん、止めてください! 魔力を出せば出すほど、カロンの権能で『ぬるいエネルギー』に変換されて周囲が蒸し暑くなるだけです!」
ユウマは荷馬車へ駆け寄り、樽を確認した。
……最悪だった。
セラフィナが丹精込めて冷やし、魔法の断熱ジョッキで守っていたはずのビールが、「触らなくてもわかる、ぬるさ」に変貌していた。
「……嘘だろ。俺たちの……俺たちのキンキンのアイデンティティが……」
アレクが絶望の声を上げる。
「そう、それが僕の戦い方。喉越し? キレ? そんな刺激、心臓に悪いよ。……さあ、飲みなよ。僕が特別に用意した『三日間、日の当たる場所に放置したような温度のビール』を。酔いもしないし、シャキッともしない。ただ、お腹だけが膨れる最高の虚無だよ」
「……っ、この野郎……!!」
ユウマは、震える手でジョッキを掴んだ。
中に入っているのは、かつて自分が魂を込めて醸造したエール。それが今や、ただの「麦の香りがする、煮え切らない液体」に成り下がっている。
一口。
……ぬるい。
舌にまとわりつく、甘ったるいだけの重み。喉を通り過ぎる瞬間の、あの快感はどこにもない。
「……不潔……不潔よ……!! 物理法則に対する冒涜だわ!! ユウマ、何とかしなさい! 計算ができない、勾配がない、落差(ギャップ)がない!! 私、このままじゃ……脳が常温で溶けてしまう!!」
セラフィナが頭を抱えて座り込む。
プライドの高い氷の魔女にとって、冷やせないこと以上に「冷やそうとする意志を中途半端にされること」こそが、最大の屈辱だった。
「……カロン、さん。あなたは大きな間違いを犯している」
ユウマはぬるいビールを地面に捨てず、あえて飲み干した。
その瞳には、社畜時代に「ぬるい仕事」を押し付けられ続けた男の、執念の火が灯っている。
「ビールにおいて『常温』が許されるのは、一部の熟成エールだけだ。……このピルスナーをぬるくした罪、万死に値するのはセラフィナさんじゃなく、俺の知識だ。……ガレスさん、盾を貸してください」
「ユウマ殿!? まさか、その盾でカロンを殴るのか!?」
「いいえ。……世界がぬるいなら、『物理的に閉じ込めた極限の循環』を作るだけです。……セラフィナさん、泣いてる暇はありませんよ。あなたの演算能力を、『冷却』ではなく『圧縮』に回してください」
ユウマの反撃が始まる。
ぬるま湯の絶望を打ち破るのは、魔力でも熱量でもない。
現代日本の英知――「圧力」の力だった。