「ポーションより、とりあえず一杯」 作:高校ジャージ10年目
勇者一行を襲ったのは、魔王軍の刺客でも、痛風の激痛でもなかった。
それは、容赦のない「大自然の猛威」――猛暑であった。
「……暑い。死ぬ。魔王を倒す前に、俺が蒸発して、ただの『勇者の干物』になる……」
王都から次なる聖域へと続く『灼熱の回廊』。見渡す限りの赤土と、陽炎が揺れる荒野を歩きながら、アレクは死に体で呟いた。
聖女リリィも、自慢の美肌を隠すように法衣のフードを深く被り、恨めしそうに太陽を睨んでいる。
「ユウマさん……結界魔法で少しは熱を遮っていますが、この湿度の前には無力です。……もう、身体が求めているのです。あの、喉を切り裂くような冷快な刺激を……」
「わかってます。わかってますけど……」
ユウマは荷馬車の御者席で、額の汗を拭った。彼の表情は、アレクたち以上に沈んでいた。
なぜなら、彼の手元にはビールがある。しかし、それはもはや「ビール」ではなかった。
「……いいですか、皆さん。今、樽の中にあるのは、ビールじゃありません。『麦の香りがする炭酸スープ』です」
ユウマは苦渋の決断で、ジョッキに一杯注いだ。
立ち上がる泡は弱々しく、液体はどこかどんよりと濁って見える。
「……ぬるい。三十度を超えたビールなんて…ビールじゃない。こんなものを皆さんに飲ませるくらいなら、俺は醸造師を廃業します」
アレクがそれでもジョッキに手を伸ばそうとしたが、ユウマはその手をピシャリと叩いた。
「ダメです。不味いビールを飲むくらいなら、水を飲んでください。思い出を汚しちゃいけない」
「厳しいな! 贅沢言わないから飲ませてくれよ!」
「ダメなものはダメです。……俺が決めたんです。まずは、今のこの状況……『物流におけるコールドチェーンの欠如』を解消しなければなりません」
ユウマは地図を広げた。
灼熱の回廊の北、雲を突くような高嶺が連なる『永久凍土の山脈』。そこには、人里離れて暮らす伝説の魔導師がいるという。
「……『氷の魔女』セラフィナ。リリィさん、彼女について知っていることを教えてください」
「はい。彼女は氷結魔法の極致に達したと言われる天才ですが……極度の人間嫌いで、訪ねてきた者を例外なく氷像にして庭に飾るという、とんでもない偏屈だと聞いています。……でも、彼女の魔法があれば、確かにどんな猛暑でも氷を保てるかもしれません」
「決まりだ」
ユウマは荷馬車を北へと向けた。
「魔王軍との決戦よりも先に、俺たちは『冷蔵庫』を手に入れる」
三日後。一行は雪の降り積もる山頂付近にいた。
灼熱から一転、今度は凍えるような極寒。だが、ユウマの足取りは軽かった。
「……これですよ。この気温。これなら樽も少しは落ち着く」
「寒いよユウマ! さっきまで干物になりそうだったのに、今は冷凍肉だよ!」
アレクの文句を無視し、一行は氷で造られた巨大な館の前に辿り着いた。
そこには、予告通り、様々なポーズで固まった「元・人間」と思われる氷像が並んでいた。戦士、商人、挙句の果てには吟遊詩人までが、恐怖の表情のまま芸術的に凍りついている。
「……これ、絶対話通じないやつだよね?」
ガレスが盾を構え、震える声で言った。
「失礼します!! 王都から来ました、醸造師のユウマです!! 『至高の一杯』の品質管理について、技術提携のお願いに参りました!!」
ユウマの大声が氷壁に反響する。
直後、館の扉が音もなく開き、冷気が溢れ出した。
「……騒々しいわね。下等な種族が、私の庭を汚しに来たのかしら」
現れたのは、透き通るような白銀の髪に、氷の結晶を散りばめたようなドレスを纏った美女だった。瞳は鋭く、見る者すべてを凍りつかせそうな冷徹な光を宿している。彼女こそが、氷の魔女セラフィナ。
「……勇者? 聖女? 下らない。そんな肩書き、私の前では霜の一片ほどの価値もないわ。さあ、どのポーズで固まりたいか選びなさい。今の気分は……そうね、右端の吟遊詩人の横が空いているわ」
セラフィナが指先を向ける。絶対零度の魔力が収束し、アレクの足元が凍り始めた。
「待ってください! セラフィナさん!」
ユウマが一歩前に出た。
「……何? 命乞いなら聞き飽きたわ」
「いえ、プレゼンです」
「……は?」
ユウマは背負っていた、厳重に毛布で包まれた小樽を取り出し、手際よく氷のテーブル(セラフィナが威嚇で作ったもの)の上に置いた。
「あなたは、自分が最高の氷結魔法使いだと思っている。そうですね?」
「当然よ。私の氷は永遠。熱などという卑俗な概念に侵されることはない」
「素晴らしい。……でも、あなたの魔法には『心』がない」
背後でアレクが「おい止めろ! 殺される!」と叫んだが、ユウマは止まらない。
「あなたの氷は、ただ物を冷やすだけ、あるいは凍らせるだけの『暴力』だ。……本当の冷気とは、生命を輝かせるためにあるべきだと思いませんか?」
「……。面白いわ。その傲慢な口を、二度と開けないように凍らせてあげる前に……一分だけ、時間をあげましょう。何を企んでいるの?」
ユウマは、セラフィナを真っ直ぐに見つめ、ジョッキを構えた。
「この樽の中には、俺が三年かけて辿り着いた最高の麦酒が入っています。……でも、今のままじゃ不完全だ。山を登る間に、少し冷えすぎてしまった。……セラフィナさん、あなたの魔力を使って、このジョッキを『マイナス二度』で五分間、維持してもらえませんか?」
「マイナス二度? 冗談でしょう? 私の魔力は一瞬で海を凍らせるのよ。そんな微弱な調整……」
「できないんですか? 『天才』なのに」
カチリ、と空気が凍りついた。
セラフィナの額に青筋が浮かぶ。
「……いいわ。やってあげようじゃない。その代わり、一口飲んで私が『無価値』だと判断したら、あなたたちはこの山の一部になってもらうわ」
セラフィナがジョッキを指差す。彼女の膨大な魔力が、驚異的な精密さで絞り込まれ、ジョッキの周囲だけを一定の温度に保ち始めた。
ユウマは、その間に準備を始めた。
ただ注ぐのではない。
この極寒の地だからこそ、あえて提供する「魔法」がある。
「……注ぎます」
ジョッキを満たすのは、特別に醸造した『フローズン・ヘイズ』。
セラフィナの魔力と共鳴するように、液体の中に微細な氷の結晶が、まるで雪の精霊が舞うように現れる。
「……これは……?」
セラフィナの瞳が、初めて驚きに揺れた。
「『みぞれ酒』の技法を応用した、フローズン・ビールです。あなたの魔力が完璧だからこそ、凍りきらず、しかし飲む瞬間に口の中でシャリリと溶ける……ビールのシャーベットが完成した」
ユウマは、ジョッキを彼女に差し出した。
極寒の山頂。氷の魔女が、初めて「他人が作った冷たいもの」を手に取った。
「……飲みなさい。そして、自分の無力を知りなさい」
セラフィナは、優雅にジョッキを傾けた。
――シャリッ。
彼女の脳裏に、真っ白な雪原ではなく、春の訪れを告げる「雪解けの川」の光景が広がった。
「…………っ!!」
沈黙が流れる。
勇者アレクたちは、逃走の準備をしながら固唾を呑んで見守っていた。
セラフィナは、ジョッキを持ったまま動かない。
やがて、彼女の肩が小さく震え始めた。
「……先生、まずいですよ。怒りで氷河期が来ますよ!」
ガレスが叫ぶ。
だが、セラフィナの口から漏れたのは、怒号ではなかった。
「…………足りない」
「え?」
「全然、足りないわよ!! 一杯じゃ、この余韻の答え合わせができないじゃない!!」
魔女は、これまでの冷徹な仮面をどこかへ放り投げ、ユウマの胸ぐらを掴んだ。
「何よこれ! 私の氷が、ただの破壊の道具じゃなくて……こんなに、こんなに優しく、麦の甘みを引き立てるパーツになるなんて! なぜ今まで誰も教えてくれなかったの!? ねえ、もっと注ぎなさい! 全部の樽を、私が一番美味しくしてあげるから!!」
「セラフィナさん、落ち着いてください。提携の話は……」
「提携? 契約? そんなのどうでもいいわ! 今日からここは、私の館じゃない! あなたの『醸造所別館・冷凍保管庫』よ!!」
「話が早くて助かります」
ユウマは密かにガッツポーズをした。
こうして、世界最強の「魔法の冷蔵庫」が、今まさに誕生しようとしていた。
しかし、喜びも束の間。
セラフィナがジョッキを飲み干したその時、彼女の背後の氷壁が、轟音と共に砕け散った。
「……見つけたぞ、氷の魔女。そして、勇者一行め」
砕けた壁の向こうから現れたのは、青い炎を全身に纏った巨漢。
魔王軍四天王が一人――『炎獄のザルド』の義兄弟にして、魔王軍随一の熱量を誇る『灼熱のボルカノ』。
「我が兄ザルドの仇、そして我が領土である『灼熱の回廊』を不気味な泡で汚した罪……その命で購ってもらう!」
ボルカノの放つ熱気が、セラフィナの館を一瞬で溶かし始める。
氷の魔女は、空になったジョッキを握りしめ、かつてないほどの激怒をその美貌に宿した。
「……私の、最高の晩酌タイムを邪魔するなんて」
セラフィナの瞳が、絶対零度を超えた「虚無」の蒼に染まる。
「……ボイルして、一生解けない冷凍食品にしてあげるわ」
異世界初のコールドチェーンを巡る戦いは、氷と炎の全面戦争へと突入する。
今回の登場ビール設定メモ
• フローズン・ヘイズ
• 特徴: セラフィナの魔力調整により、液体と微細な氷の結晶が共存する「みぞれ状」のビール。
• バフ: 全身のクールダウン、魔法詠唱速度の向上(脳が冴える)。
• ユウマのこだわり: 「冷たければいいんじゃない。凍る寸前の、その刹那の揺らぎが一番美味いんです」