「ありがとっ!ヒロちゃん、探すの手伝ってくれて!」
「全く、こんなところにあったとは。次は気をつけてくれ。」
「うん!」
ヒロちゃんと一緒なら、大丈夫。
そう思っていれば上手くいったのは、小学校の終わりまでだった。
困ったらヒロちゃんが前に出る。迷ったら、たいていヒロちゃんが決める。誰かに何か言われても、ボクが口を開く前にヒロちゃんが片づけてしまう。助かったことは多い。たぶん、本当に。
だから……ボクにとってヒロちゃんが全てだった。お母さんもお父さんも大事だ。でもヒロちゃんはそれ以上。内心では、友達や親友という言葉でその関係性を表現することに自信がない、そんな事実に目を瞑りながら。
そのたびに一つずつ、自分で立つ感じが、自分が生きているはずの現実が薄くなっていった。
ヒロちゃんと同じ、この中学に合格すれば、もっと一緒にいられると思っていた。
同じ制服。同じ校舎。同じ時間割。朝も帰りも、たぶん同じで済むはずだった。家族同士での交流もあったから家でも一緒にいられるかも。
だから必死で勉強した。思えば今のところ、人生で必死に勉強したのはあの時が初めてだった。
でも普段とは勉強する理由が違った。有名で頭がいい中学だから、ではなかった。頭の片隅にはあったかもしれない。でも本当は、ボクが今のままのボクであるために、それが勉強する理由だった。
だから合格したときの感情は不純だった。きっと誰よりも。けどそれでいいと思っていた。
違った。
入学式の次の日にはもう、ヒロちゃんはヒロちゃんで勝手に前へ行っていた。
「エマ、廊下は走らないで。危ない」
振り向くと、ヒロちゃんはもう“中学生の二階堂ヒロ”の顔をしていた。
背筋が伸びて、声がよく通って、先生に呼び止められても慌てない。小学校のころと同じ顔のはずなのに、同じ場所に置くと少しだけ硬い。近いのに、遠い。
「ご、ごめん。急いでて」
「急いでもいい。歩くんだ。転ぶから」
正しい。けど、
その言い方が、変に残る。
ボクは笑って流した。流したつもりだった。口の端だけ上げれば、だいたいの会話は丸く終わる。空気も、少しは丸くなる。
でも、丸くなったのは周りだけで、ボクの息は浅いままだった。
教室は静かだった。
静かなのに、目だけが動いている。誰と誰が話したか、どこに座るか、誰が先に笑うか。まだ何も決まっていないから、みんな慎重だった。慎重なときほど、小さい違いが目につく。
席は出席番号順で、ボクは窓際の真ん中。前の席の子が振り向いて言う。
「桜羽さんってさ、給食好きなんだっけ?」
「うん。好き。揚げパンとか」
「わかる、私も。」
ボクも笑う。
相手も笑う。
そこで一つ、引っかからずに済む。たったそれだけのことで、肩の力が少し抜けた。
でも、輪はまだできていない。できていないからこそ、誰が入りやすいか、誰が外れやすいかが先に決まっていく。
ヒロちゃんはすぐだった。
先生に名前を覚えられて、係の話を振られて、委員を頼まれて、いつの間にか人の中心にいる。周りもそれを自然だと思っている顔をしていた。
ボクはその輪に入れないわけじゃない。入ろうと思えばたぶん入れる。けれど、そこへ行くには「ヒロちゃんと昔から一緒」であることを説明しなきゃいけない気がした。そこにいくのはズルい気がした。
説明した瞬間、何かが固まる。
(……ボクのヒロちゃん、じゃないのに)
思った瞬間、自分で嫌になる。
ヒロちゃんは誰のものでもない。そんなの分かっている。分かっているのに、こういうときだけ小学校のままでいたくなる。
休み時間、ヒロちゃんの周りに人が集まる。
ボクは行かない。机の上の筆箱を開けたり閉めたりして、輪の少し外で笑う練習をする。
うまく笑えれば、嫌われない。
嫌われなければ、一人にはならない。
でも、一人じゃないことと、誰かと一緒にいることは、同じじゃなかった。
昼休み。
教室の空気が、食堂へ流れる足音でゆるむ。
「エマちゃん、一緒に行こ~」
さっき話しかけてくれた子が言う。ボクはうなずきかけて、ヒロちゃんの席を見る。
ヒロちゃんはもう教室の前にいて、先生に何か言われていた。説明を聞いている顔。まっすぐで、ちゃんとしていて、こっちを見ない。見られたら、たぶんボクはまたそこへ寄っていく。
「……うん。行こ」
笑って輪に入る。
ぬくもりはある。あるけど、薄い。冬用じゃない毛布みたいだと思って、変なところで自分に腹が立った。
列に並ぶ途中で、誰かが鼻をつまむ仕草をした。
小さい声が落ちる。
「……くさ」
誰のことか、わざわざ見なくても分かった。
視線が教室の端へ流れる。月代ユキ。机の上に小さな弁当箱。あの子だけ、一人分の音がする。ボクよりもずっと居場所がない子だった。
ボクは見ないふりをした。
見たら、何か言わなきゃいけない気がした。言ったら、輪が冷える気がした。輪が冷えたら、たぶんボクはまた外へ出る。
それが怖い。
揚げパンのことを思い出したのに、甘さの感じだけ抜けた。
放課後、ボクは先に帰ろうとした。
ヒロちゃんの帰りを待つのが嫌だった。待って、待って、最後に「先に帰って」と言われるのが、一番こたえる。置いて行かれる気がした。ボクの手からヒロちゃんが零れ落ちていく。
階段を上がって、屋上の扉の前で足が止まる。
立ち入り禁止のはずだった。けれど鍵はかかっていない。誰かが閉め忘れたのか、それとも生徒が壊したのか、最初からこうなのかは分からない。
分からないまま、ボクは押した。
風が強かった。
校舎の匂いが急に薄くなる。教室の目が届かない。それだけで、息の入り方が変わる。
そこに、ユキがいた。
フェンスの近く。背中を丸めて、空を見ている。小さくて、細い。制服の袖が少し余っているのに、立ち方だけ妙に固い。
ボクは息を止めた。止めたまま、少しだけ近づく。
「……月代ユキちゃん、だよね?確か、同じクラスの……」
呼んでから、自分でびっくりした。
教室で陰口を言われていた子。匂いがひどいとか、近くにいると虫が湧くとか、そういう酷い理由で。
声をかけるつもりはなかったのに、勝手に出た。名前を知っているのも変な感じだった。少し恥ずかしくて、少し嬉しい。
ユキちゃんが振り向く。
目が合う。怒っている顔じゃない。でも、すぐ近くには来ない目だ。
「……」
そこに声はない。何もないのに返事をもらったような気がした。その距離が、今は楽だった。
ここでは笑わなくていい。うまく返さなくていい。そう思っただけで、喉が少しゆるむ。
それに、聞いていたような匂いも何も感じなかった。
ボクはフェンスの近くまで行って、校庭を見下ろした。下では部活の勧誘が続いている。私も本当ならあそこにいたのかな。声が小さい。別の学校みたいだ。
「屋上、来たことあるの?」
「ありません。今日が初めてです」
ユキちゃんが頷く。
風の音を聞くみたいに目を細める。
ボクは言葉を探した。
ごめん、と言いたかった。昼休み。食堂。見ないふりをしたこと。いろいろ。
でも、謝った瞬間に全部そっちへ流れていきそうで、口が重い。謝る側だけが軽くなるのも違う気がした。
だから、別の言葉を探した。
「……ここ、息がしやすくないかな?」
言ったあとで、自分の声のほうが驚いていた。
これはたぶん本音だった。輪の中じゃ絶対に言わないやつ。
ユキちゃんは少しだけ笑った。
声は出さない。顔だけ。
「……そうですね」
それだけだった。
でも、その短さのほうが助かった。大丈夫とか、平気とか、そういうのを返されるよりずっと。
静寂に包まれた。
誰も何も言わない。校庭には誰もいなくて、ここだけしか世界は残されていないような。気分が変になった。
「あの……もしよければボクと友達に…なってくれないかな!!!」
言った瞬間に、しまった、と思った。 もっと、他に言葉はあったはずなのに。
遠くでチャイムが鳴る。
屋上まで届くと、音が薄い。そのくせ、終わりだけがはっきりしていた。
「……いいですよ、エマ」
だから返事が返ってくると思わなかった。
嬉しかった。
ヒロちゃんと一緒なら大丈夫だと思っていた。
違ったのかもしれない。ヒロちゃんと離れるのが怖かっただけかもしれない。
そこまで考えて、やめる。言葉にすると、急に薄くなる。
ユキちゃんが前髪を押さえた。指先が少し震えて見えた。
「エマは……」
まだ続きがあった。今度はボクが返す番だと思っていた。違った。難しい。
「……エマは、やさしいです。やさしくて素直で善良で可愛い………」
「えっ?」
ユキちゃんはそれだけ言って、また前を向いた。
答えられなかった。
分からなかった。自分がどんな顔をしているのか。
ユキちゃんと知り合ってからまだ日は浅い。
正しい返事を探し始めた時点で、たぶん違う。
風は冷たい。
でも、教室にいるより息が入る。
ボクはその感じを覚えたまま、扉へ戻った。
下駄箱の前では、ヒロちゃんを待っている子たちがいた。アイドルみたいだ。
ボクはそこへ行かないで、校門の方へ歩く。外に出た瞬間、校舎の匂いがまた少し離れる。
駅前の小さな図書コーナーの前で、足が止まった。
ガラス越しに、青色の髪が見えた。
別の制服。分厚い本。周りの人は、近くの席が空いていてもそこへ座らない。
その子は気にしていないように見える。気にしていないふりにも見える。どっちかは分からない。
強い、と思った。
違うかもしれない。ただ、そう見えた。
声はかけない。そこまで手が回らない。
でも目だけで追ってしまう。ページをめくる指先が、一度だけ止まった。ほんの一瞬、力が入ったように見えた。
バレたくないのかもしれない。
何が、とは分からない。でもそういう感じだけはあった。
ボクは視線を外して、駅の方へ向かった。
背中が少し軽い。屋上の風がまだ残っている。
次は、見ないふりをしない。したくない。
そう決めたところで、すぐ怖くなった。決めたことは、あとでだいたい自分に返ってくる。
あの子はボクを優しいといった。それは嘘だ。
でも、今日の屋上で感じた……あの空気だけは嘘じゃなかった。