原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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第13話 遠景の正義に惹かれた

 

 

 

 

 

ヒロを最初に見たのは、雨の日だった。

 

中学に入って二ヶ月目。

 

梅雨の入口。朝からずっと空が低くて、昼を過ぎても教室の蛍光灯が消えなかった。

 

その日はいつも通りミステリー小説を読もうと図書館へ向かう途中で、横断歩道の前に傘の列ができていた。信号待ちの人間が、歩道いっぱいに固まっている。雨の日はみんな下を向く。靴先とスマホと信号ばかり見る。この世界でも変わらない。その中で、一人だけ妙に背中のまっすぐなやつがいた。

 

傘の持ち方が一定だった。

 

立ち位置がぶれない。

 

隣の人が少し寄ってきても、体の向きを変えない。

 

なんとなく、目に留まった。

 

正しい立ち方をするやつ、というのはいる。

 

会社にもいた。コピー機の前でも、会議室のドアを開けるときでも、妙にまっすぐで、迷いがなくて、自分がどこに立つべきか最初から知っているみたいな人間。

 

ああいうのはだいたい、自分の中に線を持っている。良い悪いの線。正義とは何かという問題だ。幸福、自由、美徳、そういうやつだ。

 

線を持っているやつは強い。基本的に強いが、たまに面倒だ。バランスはとるべき時と無視すべき時がある。最低限の人間的活動は可能な上で、という条件付きがある。俺はそう考える。

 

信号が青になる。

 

列がほどける。

 

俺は少し遅れて歩き出した。

 

尾行というほどじゃない。ただ同じ方向へ進んだだけだ。

 

雨音が傘を叩く。車が水たまりを踏む。音が多い日は助かる。自分の足音を意識しなくて済むからだ。

 

その背中は、コンビニの手前で止まった。

 

歩道の端に、小学生が座り込んでいた。

 

膝を抱えて泣いている。ランドセルの中身が道に散っていた。消しゴム、鉛筆、プリント。プリントの端がもう雨を吸って丸まっている。

 

周りの大人は傘を傾けて通り過ぎる。

 

足は止めない。視線だけ一度落として、そのまま行く。

 

背中の子は、躊躇なく近づいた。

 

しゃがむ。

 

荷物を拾う。

 

自分の傘を、小学生のほうへずらす。

 

「大丈夫? どこか痛い?」

 

「……ひっく、ぅ」

 

「立てる? 家、近いのかな?」

 

声が聞こえた。

 

思っていたより優しかった。

 

でも、やわらかい種類の優しさではなかった。

 

助けなきゃいけないから助けている声だった。迷いがない。相手が断ってもたぶん一回は押す。そういう優しさだ。

 

小学生が泣きながら家の方角らしいほうを指さす。

 

その子は頷いて、散らばったものを全部集めてから、一緒に歩き出した。傘はずっと小学生のほうへ寄っている。自分の肩が濡れても気にしていない。

 

俺はその場に立ったままだった。

 

たぶん、ヒロだ。

 

制服の感じ。年格好。あの容姿。面影は、あった。あのまっすぐな目。公式サイトの断片と、街で拾ってきた仮説が一枚に重なる。

 

断言はしない。解釈はしているがまだ事実はない。

 

でも、近い。かなり。

 

雨が顔を打つ。

 

傘を持つ手が少し緩んでいたらしい。水が頬を流れた。

 

近づくべきか。

 

そこまで考えて、足が動かない。

 

今なら話しかけられる。

 

「いい人ですね!」とでも、「1人だと大変じゃないですか?お手伝います!」とでも言えば、会話のきっかけくらいは作れる。

 

作れたとして、その先どうする。

 

接触したら、物語の中に入る。

 

入ったら、たぶんもう観測だけでは済まない。今は前日談だ。

 

俺はヒロの未来をほとんど知らない。知っているのは、エマのように主人公っぽいこと。牢屋敷で重要な位置にいること。そこへ今の俺が割って入って、何が起きる。前日談でヒロが苦しむ何かがある。助ける?違う。大人が子供を助けたいんじゃなくて、これは子供が大人のフリをして子供を助けようとする愚鈍な行動だ。

 

止めるのか。

 

助けるのか。

 

何もせず見るのか。

 

小学生がよろけた。

 

ヒロが手を支えた。反射みたいだった。考えてやっていない動きだ。慣れた手つきだ。

 

ああいうのを見ると、面倒になる。

 

人を助けるやつを見ると、こっちまで何かしなきゃいけない感じが出る。別に義務でも何でもないのに、勝手にそうなる。

 

ヒロは角を曲がった。

 

背中が雨の向こうへ消える。

 

俺はしばらく動けなかった。

 

目の前の横断歩道は、また赤になっていた。コンビニの入口では、知らない高校生が傘をたたいている。自動ドアの開閉音が妙に大きい。

 

俺はやっと歩き出した。

 

図書館へ行くつもりだったが、足が向かなかった。意味もなくコンビニの脇を通って、ヒロが曲がった方を見る。もう誰もいない。

 

近づかなかった。

 

それでいいのかは分からない。

 

近づいていたら何か変わったか。

 

その問いも、今は雑すぎる。何がどう変わるのかが分からないまま、「変わったか」とだけ言っても、答えが出るわけがない。

 

ただ一つ、分かったことはある。

 

ヒロは“正しい”側の人間だ。

 

 

(...俺みたいな人間とは違う。)

 

 

自嘲気味になる。

 

 

少なくとも、見たまま通り過ぎるやつではない。

 

 

 

 

そのこと自体は、たぶん事実だ。

 

問題は、その正しさがどこまで持つかだ。

 

人を助けるのは分かる。

 

でも、人はずっと助けていると、いつか線を引く。助ける価値のある相手と、そうでない相手。守るべきものと、切るべきもの。そういう分類の仕方を覚える。覚えたあとで、前より優しくなるやつもいるが、だいたいは逆だ。

 

 

そういうことを考えている限り、二階堂ヒロのような主人公にはなれないんだろう。

 

 

 

雨が強くなる。

 

俺は傘を少しだけ上げて、空を見た。灰色しかない。

 

 

傘の外側から雨水が入ってきた。

 

 

目に染みる。それでよかった。

 

 

 

図書館はやめて、そのまま駅前を一周した。

 

歩いているうちに、さっきの背中が何度も頭に浮かぶ。しゃがみ方。荷物の拾い方。傘を相手側に寄せる角度。体で覚えているみたいに自然だった。

 

ああいうやつは厄介だ。

 

本人に悪気がなくても、周りの基準になる。

 

基準になった人間は、後でそれを裏切れなくなる。

 

それでも、俺は少しだけ安心もしていた。

 

牢屋敷に行く前から、ヒロが空っぽじゃないことが分かったからだ。正しいかどうかはともかく、反応する。見て見ぬふりをしない。それだけでも、情報としては大きい。情報と相違はなかった。なさすぎて驚いた。

 

家の近くまで戻った頃には、靴下まで湿っていた。

 

玄関の前で一度足を止める。中から夕飯の匂いがする。油と出汁の、いつもの匂い。

 

その場で、ノートを開く。軒先で濡れないように角度をつけて、急いでメモを書く。

 

『候補:ヒロ』

 

『雨天/小学生を保護/躊躇なし』

 

『接触せず』

 

『次回も観測を継続』

 

そこで、ペンが止まる。

 

「……観測」

 

口に出すと、少しだけ変な感じがした。

 

勝手に気取った言葉をつけるな、と自分で思う。見ていただけだ。近づかなかっただけだ。言い方を整えると、選ばなかったことまで正しく見えてくる。

 

 

ノートを閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

家に入る前に、深呼吸を一つした。

 

冷たい空気が入って、少し咳き込む。

 

「ただいまです~!」

 

玄関を開けると、養母がすぐ顔を出した。

 

「大丈夫? 濡れたでしょ」

 

「事件の匂いを追ってたら、つい〜」

 

「また変なこと言ってる」

 

タオルを渡される。

 

肩を拭く。髪を拭く。

 

何でもないやりとりが、そのまま続く。

 

食卓につきながら、さっきのヒロの背中を思い出した。

 

正しいやつは、たぶん最初から死ににくい。でも、死なないわけじゃない。むしろ妙な場所で一気に持っていかれる。いやはや、正義感というのは屋敷の中では危険だろう。大きく振舞えば振舞うほど閉鎖環境では影響が大きい。社会では制度が欠陥になるたびに、事件が起きる度に人間とセットで非難される。だが制度は人間の為に存在するはずだ。それじゃあ、制度が悪意そのものなら、俺は少女たちを糾弾できるのか?

 

そのとき俺は何をする。

 

......今はまだ分からない。

 

味噌汁を飲む。

 

熱い。

 

 

ふと思い出したように窓の外に目を向ける。

 

 

 

 

 

雨はまだ止まない。

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