原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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第14話 臭い花が湿るときの衝動 (加害者:月代ユキ)

 

 

人間の優しさは、不思議だ。

 

間に合わなかったあとで「ごめんね」と言う。壊れたあとで「大丈夫?」と訊く。そのあとに、たいてい何か続く。仕方なかったとか、悪気はなかったとか、でもあのとき君も、みたいなやつ。

 

そうやって、綺麗な側だけが残る。

 

廊下はよく磨かれている。

 

ワックスの匂いがずっと残っている。新しい校舎でもないのに、こういうところだけ妙にきれいだ。清潔。正しい。そういう顔をしている場所は苦手だ。

 

私の周りには、別の匂いがある。

 

金属。薬品。濡れた布。どれも自分で選んだものじゃないのに、どこへ行ってもついてくる。制服にしみているわけじゃない。もっと面倒な形でまとわりつく。原因が分かっていても、人間というのは単純で愚かな生き物だ。

 

だから私は端にいる。観察をする。

 

端にいれば、ぶつからない。ぶつからなければ、壊したことにも壊されたことにもなりにくい。

 

朝、教室へ入るときに一番先に気にするのは、誰が先に鼻を触るかだ。

 

咳払いでもいい。席に着く前に、机を少しだけ離すやつでもいい。そういう小さい動きで、その日の空気はだいたい分かる。

 

今日は三人。昨日は二人。一昨日は四人だった。

 

増えたり減ったりするだけで、なくならない。

 

「ユキちゃんっ!、これ見て。今日のおすすめメニュー、スパイスカレーだって!」

 

エマが言う。うれしそうに。

 

エマの周りには、あたたかいものが集まりやすい。本人がそういう顔をするからだと思う。あの子は人を安心させる。安心させたぶんだけ、自分の中身が少し減っているようにも見える。だから私にとって一番扱いやすい。

 

エマは、私のことを友だちだと思っている。

 

たぶん、本気でそう思っている。

 

それが余計に好都合だった。

 

エマの声は、どこでも届く。声だけじゃなく、その声の質みたいなものが、皮膚よりもっと内側に届く。否定しようとしても、見下ろそうとしても、どこかで少しだけ熱くなる場所がある。それが一番まずい。まずいから「好都合」と書いておく。

 

人間が嫌いだ。この世界の人間は全員嫌いだ。傷つけて、傷ついて、傷つけたことを忘れる。その繰り返しを千年見てきた。飽きるほど見てきた。だから嫌いだ。

 

 

二階堂ヒロ。

 

石鹸。雨の前の空気。乾いた紙。そういう感じがする。まっすぐで、折れにくいものの匂いだ。

 

ああいう人間は危ない。曲がったものを見つけると、直そうとするから。

 

ある休み時間、背中に気配が寄った。

 

振り向く前に分かった。冗談のつもりの笑い方。ペン先が服に近づく音。

 

「……」

 

何も言わない。

 

言うより先に、ヒロの手が入った。

 

相手の手首をつかんで、止める。迷いがない。

 

「冗談じゃない。本人が嫌がってる」

 

「え、いや、別に」

 

「別に、じゃない。正しくない。」

 

言い切る声だった。逃げ道が最初からない声。

 

周りの空気が冷える。笑いかけていた子たちが、一瞬だけ黙る。

 

ヒロは正しい。

 

正しいから、あとで嫌われる。でも好かれる。

 

私はその場で何も言わなかった。

 

助かったとも思わない。ヒロがそういう人間なのは知っている。

 

その日の三限は体育だった。

 

更衣室の空気は、教室よりひどい。狭いし、逃げ場がないし、匂いの話をするにはちょうどいい。

 

誰かが制服をロッカーに押し込む音がして、誰かが笑った。私の名前は出ない。でも、出ない方が長持ちする話もある。

 

体育館でマットを出すとき、教師が「月代、軽いから先頭」と言った。

 

軽い。便利な言い方だと思う。小さい、でもいい。弱い、でも通る。本音が分かりやすくていい。

 

私は黙って前へ出た。

 

マットの上で、でんぐり返しをする。

 

回っている間だけ、世界の輪郭が少しだけ整う。着地すると戻る。

 

「くさ……」

 

起き上がったとき、前の列から小さい声が落ちた。

 

大きい声じゃない。ああいうのは、いつも小さい。あとで聞こえてないと言える音量で言う。

 

私は笑わない。笑うと、そっちに意識が引っ張られる。

 

エマが拍手した。

 

「ユキちゃんっ! 大丈夫だった……?」

 

 

エマの声。

 

 

声が届く。届いてしまう。否定しようとしても見下ろそうとしても、その声だけは少し体に入ってくる。でも「ありがとう」と言ってしまうと、それが癖になる。崩れる入口になる。だから曖昧に笑うだけで止める。「ありがとう」よりも、でんぐり返しより難しいことを、私はここで毎回している。

 

 

昼休み、教室は食堂へ流れていく。

 

誰かがエマの腕を引く。エマは一瞬だけこっちを見る。困っている顔はすぐ消える。次には笑っていた。

 

そういうのが上手い。

 

上手いから、間に合わないというのに。

 

相変わらず、エマは色んな表情を見せてくれる。

 

私は弁当箱を置いた。一人分の音がする。

 

静かだと思った。静かなのに、耳につく。教室はそういう場所だ。

 

机に突っ伏して、寝ているふりをした。笑い声。箸の当たる音。誰かの「かわいいー」。全部遠い。遠いのに、ちゃんと刺さるような気がする。

 

目を閉じたまま、エマの足音が遠ざかるのを聞いた。

 

少しして、机の横に誰かの気配が止まった。

 

ヒロだった。

 

「反抗しないのか?」

 

「・・・」

 

「アレは正しくない行為だ。」

 

「・・・ヒロは、かっこいいですね。」

 

自分でも嫌な返し方だとは思った。ヒロは怒らなかった。エマが依存するのも頷ける。彼女は机の横にしばらく立って、それから行った。

 

ああいう人は、優しさを引っ込めるタイミングもきっちりしている。押しすぎない。でも自分は貫く。だから余計に始末が悪い。相手の心が揺れるから。

 

揺れていい感情と、揺れてはいけない感情がある。私の中では、エマへのそれは後者だ。後者に分類しておかないと、全部が崩れる。崩れたら、この観察が終わる。

 

ヒロへの感情は、まだ整理できている。あの子は危険だが、危険の種類が分かりやすい。正しさを振りかざすタイプの危険だ。こちらが距離を保てば、干渉の頻度も限られる。

 

エマへの感情が整理できていないのは、エマが「危険」でないからだ。エマは危険じゃない。優しくて、明るくて、本気で友だちだと思っている。危険じゃないからこそ、距離が作れない。距離を作ろうとすると、距離を作る理由を自分に説明しなければならなくて、その説明が上手くできない。

 

 

 

放課後、私は駅の方へ歩く。

 

部活の勧誘。笑い声。改札の音。どこもちゃんと動いている。私だけが少しずれている感じがする。それは私がそうなるようにしているからに他ならない。

 

改札の前で、小さい子供が泣いていた。

 

迷子だと思う。周りの大人は見る。でも止まらない。こういう場面で止まる人と止まらない人がいる。たいてい、止まる人の方があとで面倒を背負う。

 

そこに別の匂いが混じった。

 

紙。新しい本。インク。あと、妙に明るい声。

 

別の制服の子。青色の髪。

 

にこにこしているのに、その周りだけ少し空いている。

 

以前見た姿だった。

 

噂に聞いた“妖精さん”というあだ名。

 

橘シェリー。遠くの中学にいるらしい、変な子。名前はもう耳に入っていた。私にとっては相手が離れていようと分かる。造作もないことだ。

 

その子は迷子の前にしゃがみこんで、言葉を並べた。

 

大丈夫? とは言わない。まず場所を確認して、次にどこへ行けばいいかを説明して、最後に相手が動くのを待つ。

 

感情より手順が先にあるしゃべり方だった。ヒロとは違う助け方をする。

 

迷子は泣き止んだ。

 

動き出した。

 

それでその場は収まる。

 

でも、あの子のやり方は少し冷たい。ヒロとも違う。ヒロは正しさで押す。あっちは、正しい手順だけ出して、自分は半歩引いている。

 

あの距離は、たぶん意識してやっている。ヒロは無意識だ。

 

私は少しだけ足を止めた。

 

面白い、と思った。前見た時と変わらないから?

 

輪の内側に入らない。入れないのかもしれないし、入らないのかもしれない。私にとっては、どっちでもいい。外側にいるくせに、外側のまま終わらない感じがする。

 

近づかない。触らない。見るだけ。

 

そのくらいがちょうどいい。

 

駅の壁に、花壇のポスターが貼ってあった。春の花がきれいに並んでいる。匂いはしない。当たり前だ、印刷だから。でも学校も似たようなものだ。並べて、見栄えを整えて、傷んだところは裏に回す。匂いが出たら、誰か一人のせいにする。

 

それが当たり前だ。変わらない。千年経っても同じだ。

 

だから嫌いなのに。

 

だから全部嫌いなのに、エマが笑いかけてくる。ヒロが正しさで守ろうとする。そしてあの青髪の子が、まるで何かを知っているみたいな顔をして、外側から観察している。

 

 

 

 

 

匂いがあるだけで、人は理由を作る。理由ができると、正しい顔のまま嫌える。そして誰が助け、救おうとする。

 

 

歩き出す。

 

少しだけ笑いそうになって、やめる。

 

あの青髪の少女は、たぶんこっちを見ていた。

 

見ていたのに、気づかないふりをした。

 

やっぱり、嫌いじゃない。

 

手前にあるうちは、壊さない。

 

壊す前に、もっとよく見る必要がある。




契約のような手続き上の信用じゃなくて、親友同士の無条件の信頼って危ういけどどんな関係よりも居心地がいいものですよね。三人の回想シーンを読んでいた時に感涙しそうになります。当たり前だと感じていたことが次第に努力しないと手に入れられなくなっていく。年を経ることに思い知らされる感覚です。
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