禁忌、という言葉が口から漏れたのは突然だった。
意味は後からついてきた。
第二段階検査のあとにもらった冊子の隅だ。注意喚起だった。書かれていた単語は、
特定の行動に対する追加観察。便利な言い方だ。監視と言えば揉めるから、柔らかく言っているだけに見える。冊子を閉じても、その一文だけ残った。
言い換えるなら、これをやるやつは危ない、危なくないというだけでない、人間としての在り方、その根幹を揺るがす言葉。
つまり禁忌というやつだ。やってはならない行動。最上級に重い意味を持つ言葉だ。
なら、禁忌行動って何だ。
暴力か。自傷か。逃走か。検査拒否か。
たぶんそれだけじゃない。こういう文書は、書いてあることより、書いてない部分の方が大きい。
夜、机の前でノートを開く。
『禁忌』
見出しだけ書いて、止まる。
こういうのは会社でもあった。明文化されていないルール。やってはいけないと誰も言わないのに、踏んだ瞬間に全員が急に同じ顔をするやつ。
シェリーの禁忌は知らない。
何度も考えた。
それよりは魔女になるべきではないのだから、他に優先すべきことはあった。
しかも、禁忌はどれも“結果”の形だ。もっと手前に何かある気がする。紙の前で考える。考えるほど、言葉が遠ざかる。
橘シェリーになれなくなる瞬間。
そこまで浮かんで、ペン先が止まった。
破綻、か。
たぶん近い。
でも、それだけでは足りない。破綻にも段階がある。語尾が一つ外れるだけなら、まだごまかせる。笑顔が一拍遅れても、体調が悪いで済む。問題は、もっと深いところだ。
橘シェリーが戻る?
戻る、という言い方も変だ。最初からここにいないんだから、戻るも何もない。
ノートの上に左手を置く。検査のバンドが机の横にいる。薄いのに、小さいのに、やけに存在感がある。
今日、学校で一度だけ危なかった。休み時間、女子が後ろの席の子の筆箱を投げて、笑いながら逃げた。笑われた方も笑っていたが、目は笑ってなかった。俺は止めそうになった。言葉で。手じゃなくて言葉で。
そこまではいい。問題は、そのあとに続きそうになった台詞だ。
『君がやっているのは一歩間違えたら犯罪行為だ。』
喉まで来た。
出たら終わっていたと思う。
俺は代わりに笑って、「事件の匂いがしますね!」で済ませた。済んだかどうかは知らない。少なくとも、その場では流れた。
つまり禁忌は、単語だけじゃない。
発想の癖も危ない。
子どもの身体に、三十前後の社畜の判断基準がそのまま乗っている。そのズレが言葉ににじんだ時点で、いくら妖精さんの語尾を足しても隠しきれない。口調は表面だ。表面だけ整えても、中の判断が古いままだとどこかで剥がれる。
俺は見出しの下に、ゆっくり書いた。
これは可能性だ。上手くやればいいだけだ。橘シェリーとしての生活には、前世の自分では味わえなかった新鮮さがあって楽しめている部分も多い。なりきるというのもそう。役割が1つ増えただけ。
ノートを見つめる。
『禁忌=演技の失敗?主体の混在の崩壊?』
気持ち悪い言い方だな、と思う。だが今はこのくらいしか近い言葉がない。
主体が混ざる。
“橘シェリー”がやりそうなことと、“俺”がやりそうなことが、同じ場面でぶつかる。どっちを出しても危ない。そういう場面が増えてきた。
たとえば養父母との夕食だ。
この家では、普通に暮らしていればいい。そういう顔をされたとき、一番危ないのは本音じゃない。本音に似た、年齢に合わない諦め方だ。
「(どうせそのうち出ていくんだよな)」
みたいなことを、冗談のつもりで言いそうになる。言ったら終わる。中学生はそういう事を言うかもしれない。だが、その前には過程がある。突然脈絡もなく言い出したのでは整合性がない。
学校では逆だ。
子どもっぽい反応をした方が安全な場面で、どうしても計算が先に立つ。空気の流れ。発言コスト。誰に貸しを作るか。そういう見方をする子どもは、いないとは言わないが、いたらだいたい可愛げがない。
可愛げがないことが問題ではない。だが、見せかけもできないならそれは子供だ。
そこまで考えて、横線を引く。自己批判は書きすぎると慣れる。慣れたら終わりだ。
代わりに、具体例を書く。
翌朝、ノートを開いて、少しだけ背中が冷えた。
昨夜書いたはずの『主体の混在』の下に、薄く線が引かれている。俺がやったのかもしれない。寝ぼけて。だとしても、覚えていない。
スマホを開いて昨夜の写真を見る。そこに線はない。
「……やめろよ、俺」
小さく言う。何に向かって言っているのか、自分でもよく分からない。
ページをめくる。別の箇所は変わっていない。たまたまかもしれない。紙の反射かもしれない。写真の角度かもしれない。理屈はいくらでも作れる。作れるのに、嫌な感じだけ残る。
だから結局、俺はその下にもう一行足した。
『記録は複数残すべきだ』
比喩じゃない、かもしれない。さっきそう書いたばかりなのに、急に冗談では済まなくなってくる。世界側のルールという大げさな言葉を使いたくなるが、使うと一気に胡散臭い。都合の悪い情報を翌日に持ち越せない、みたいな。胡散臭いものほど本当だったりもする。そこが嫌だ。
大事なのは、明日どうするかだ。
明日も演技する。
語尾を守る。
“俺”を出さない。
内心と、誰もいないときのみ使っていい。
判断だけ先にして、言葉は中学生に寄せる。
人を守りたくなったら、まず距離を取る。
分からないことは、分からないままメモに残す。
そこまで決めて、ようやくノートを閉じた。
部屋の電気を消す前に、鏡を見た。
黒じゃない、青い髪。整った顔。眠そうな目。どう見ても橘シェリーだ。利発そうないつもの顔はどこへやら、今は可愛げのある印象を受ける。
そこに「俺」がどのくらい混ざっているのかは、鏡では分からない。
「……禁忌、ね」
そんなものがあるか分からない。もしかしたらただ少女同士が魔法で殺し合って、最後の生き残りの1人が運営の1人に紛れ込む。それが600年続く。ただそれだけなのかもしれない。
宣伝のとき、少女13人という数字を聞いてまず連想されるのは、裏切り者、ミステリー、宗教、スピリチュアル、その辺りだった。
小さく言って、布団に入る。
言葉にしただけで少し近づいた気がして、嫌だった。
でも、名前を知らないまま怯えるよりはマシかもしれない。
そう思った時点で、もう半分くらい負けている気もした。