原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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第22話 拉致・監禁

 

 

卒業式の日の空気は、やけに軽かった。体育館の床が光っている。壇上の花が妙にきれいに見える。誰もが「寂しいね」と言うくせに、目はもう次を向いている。高校。部活。離れるやつ、同じところへ行くやつ、制服が変わるやつ。未来の話をしている人間だけが、卒業式を祝える。俺は壇上に上がって、卒業証書を受け取った。カメラのフラッシュが光る。拍手。先生の顔。保護者席。全部ちゃんと見えていた。見えていたが、どこかで少し遅れていた。三年間、橘シェリーとして中学を終える。それはできた。最後まで笑って、最後まで妖精さんで押し切った。証書を受け取る手が、普通の力で動いた。三年前より少しだけ制御がうまくなっていた。その事実だけが、今日ここで確認できた進捗だ。押し切れたこと自体が、あまり嬉しくない。押し切ったということは、橘シェリーとして本当に存在したわけじゃない。橘シェリーのふりをして、三年間を通したということだ。三年間のふりが終わって、次のふりが始まる。終わりが来たはずなのに、また始まる。そういうことが、さほど感慨もなく起きている。体育館の天井を一回だけ見た。天井は高かった。当たり前だ。この三年間ずっと同じ天井だった。

 

エマとヒロとユキ。あの日から、全部が始まった。式が終わると、教室の空気は急にゆるんだ。みんな親や友達のところへ散っていく。写真。寄せ書き。制服のボタン。

 

最後まで、妥当な距離だった。親しくなったやつはいない。近づかせなかった。それは正しい判断だった。正しい判断だったはずなのに、廊下を歩きながら少しだけ変な気分がした。名前も知らない、あの子のことが、三年後にまだ気になるかどうか分からない。養父母は迎えに来ていた。だが、今日は先に帰ると言った。名探偵ですからね、秘密です!みたいな顔をしたら、養母は少しだけ困ったように笑った。養父は「気をつけて」とだけ言った。

 

帰り道、桜が少し咲いていた。満開ではない。咲き始め。だから余計に嫌だった。咲いているものを見ると、先に散る方を思う。前世でもそうだったかもしれないが、いまはそれを職業病とは呼びたくない。もう職業じゃない。もっと性質が悪い。

 

家に着くと、ポストに厚い封筒が入っていた。白。無地。窓なし。差出人の部署名が長い。長い部署名は責任の所在を薄める。誰が決めたのか分からなくして、でも従わせる時の書き方だ。三年前の封筒と同じ様式だった。あのときは検査の案内だった。今回は違う。手に取った重さで分かった。養母が台所から顔を出した。

 

「おかえり。……なにそれ」

 

「えへへ。名探偵への表彰状かもしれません!」

 

笑いながら封を切る。指先が少し滑った。中には紙が一枚だけ入っていた。日付。高校入学当日の午前。集合場所。持ち物最小化。同行者不要。短い。短い文章は逃げ道がない。言い換えも余白もない。

 

(来た)

 

そう思った。思いながら、心臓の位置が少し変わった気がした。腹か、みぞおちか、どこかが沈む。こういう感覚は前世でも何回かあった。逃げ道が閉じた、と体が先に知るときの感じだ。高校には合格していた。いわゆる超進学校だ。合格したとき、養父母は泣いた。本当に泣いた。養母は台所に消えてしばらく出てこなかった。養父はテーブルを叩いて「よかった」と言って、また叩いた。あの日のことを今でも覚えている。

 

あの日の二人の顔が、今この瞬間に浮かんだ。そこへ行けない。喉が鳴った。声ではない。もっと変な音だった。養父母が紙をのぞき込む。読み始めて、顔が変わる。養母は何か言いかけて、止まった。養父は紙をもう一度見たあと、短く息を吐いた。

 

「……また検査、じゃないんだな」

 

「集合、って……」

 

集合。便利な言葉だ。送致とも連行とも書いていない。だから余計に逃げられない。

 

「断れないの?」

 

養母が聞いた。珍しく、声の質が変わっていた。

 

「うーん、たぶん」

 

「たぶん、って」

 

「できないんだと思います。たぶん」

笑いながら言えた。笑えたことが、少しだけ助かった。笑えている間は、余計なことを言わずに済む。三人で、しばらく黙っていた。台所で何かが鳴った。火にかけっぱなしの鍋だった。養母が戻って、火を止めた。台所から出てきたときの顔は、また元に戻っていた。

 

「……夕飯、食べよう」

 

それだけ言った。俺は頷いた。他に言えることがなかった。その夜の夕飯は、俺の好物が並んだ。ハンバーグ。味噌汁。出し巻き卵。この体になってから胃もたれすることがなくなった。養母は何も言わずに並べた。養父はテーブルについて、ニュースを消した。今夜はテレビを消した。その選択が、養父なりの全力だと分かった。

 

「いただきます」

 

三人で言って、食べ始めた。養母は入学式の話をした。

 

「制服どうするの」

 

「靴は新しいの買わなきゃね」。

 

養父は

 

「写真、ちゃんと撮ろうな」

と言った。何度も言った。三回か四回か、同じことを言った。何度も言うのは、怖いからだ。怖い時、人は同じ話を繰り返す。繰り返すことで、その話が本当のことになるかもしれないと思いながら繰り返す。俺は箸を持って、食べた。味はあまり分からなかった。いや、分かっていた。ハンバーグの味はちゃんとした、養母の手料理だ。三年間、こういうものを食べてきた。食べながら、返せない借金のことを思った。申し訳なさと言ってしまうと軽い。もっと、返せない借金に近い。この人たちは、橘シェリーを育てた。橘シェリーではない何かが入っているとは知らずに、三年間育てた。その三年間は本物だった。少なくとも、二人にとっては本物だった。俺にとっても、たぶん本物だった。そのことが、一番困る。恐怖もある。牢屋敷という言葉が頭の中にある。でも怖さよりも先に、ここを離れることの感覚の方が大きかった。食後、養父が珍しくテレビをまだつけなかった。三人でしばらく座っていた。

 

「……ちゃんと食べなよ」

 

養母がそれだけ言った。俺は

 

「もちろんです〜!」

 

と笑った。その笑いが、今夜一番苦しかった。養父が

「おやすみ」

と言った。養母も立ち上がりかけて、一瞬だけ俺を見た。何か言いかけて、言わなかった。言わないまま立って、電気を消した。廊下が暗くなった。俺は一人で食卓に座っていた。洗っていない食器がある。流しに置けばいい。置いて、部屋へ戻ればいい。それだけのことをする前に、少しだけここに座っていた。この食卓に座ったのは、三年間で何百回だろう。数えたことはない。数えなくてよかった。数えていたら、もっと変な気分になっていたと思う。部屋に戻ってからノートを開く。『送致決定:高校入学当日』『抵抗=監視強化の恐れ』『養父母に真実は言わない』『謝れない』最後の一行を書いたところで、ペンが止まる。謝るなら、その前に名乗らなきゃいけない。名乗る時点で、全部が壊れる。俺は一度、手紙を書こうとした。ノートから1枚破って取り出して、「ありがとう」と書いた。そこまでは書けた。その次が出ない。ありがとうの後に続く言葉が、全部嘘になる。元気で、とか。大丈夫、とか。心配しないで、とか。どれも成立しない。元気かどうかは分からない。大丈夫かどうかも分からない。心配するなというのは、心配しているなということを分かった上で言う言葉だ。それを全部知りながら書く言葉は、嘘でしかない。紙を丸めて、ゴミ箱に投げた。机の横に置いてあったノートを持ち上げる。三年分だ。仮説と観察と、街の地図と、学校名と、禁忌と、怪力と、どうでもいいメモまで入っている。これを残したら読まれる。読まれたら終わる。俺だけじゃなく、養父母まで巻き込む。養父母に調査が入れば、三年間俺が何をしていたかが分かる。分かった時の二人がどうなるかは、考えない方がいい。

 

ベランダに出た。夜の空気は冷たい。ライターをつける。火がつくまでの一秒が妙に長い。ノートの端に火を移す。紙が丸まる。黒くなる。三年分のメモが、数分で消えていく。あっけない。前世でも似たような経験がある。大事だと思っていたものが、いざ手放すとあっけない。あっけない方が、むしろ正しいのかもしれない。大事なものは形に残らない。残るのは記憶だけだ。記憶は燃えない。観察記録、仮説、学校名、候補校の地図、ヒロとエマとユキへの分析、禁忌についての考察、怪力の訓練記録、ノート、全部消えていく。消えていいのかという問いが来た。消えていい。消えていいから燃やしている。問いが来た時点で少し遅れている。燃え残りを崩して、灰を見た。それでも少し不安が残る。写真に撮った。癖だ。意味があるかは知らない。

 

 

部屋に戻って、布団に入った。眠れなかった。養父の「入学式の写真、撮ろうな」が耳に残る。入学式には行けない。行く場所が違う。写真は撮れない。撮れないということを、今夜は二人に言えなかった。言えないまま夕飯を食べて、眠れないまま横になっている。時計の針が進む。家の音が少しずつ減る。最後に冷蔵庫だけが低く鳴っている。三年間、ずっとこの音があった。夜中に水を飲みに行くとき、この音の中を歩いた。どうでもいい記憶ばかり残る。どうでもいい記憶しか残らない。でも今はそのどうでもいい記憶が、一番重い。来るとしたら今夜か、明日早朝か、入学当日の朝かだ。封筒に書いてあった集合場所までの距離と時間を計算すると、今夜か早朝のどちらかが自然だ。待ちながら計算している。待ちながら計算できるということは、まだ頭が動いている。頭が動いている間は大丈夫だ。たぶん。

 

目を閉じる。閉じたまま、来るのを待った。来るまでの時間が、三年間より長く感じた。その音に混ざって、別の音がした。廊下の端から、足音が近づいてくる。軽い。迷いがない。訓練された歩き方だ。普通の人間の歩き方じゃない。均等な間隔で、体重の移し方が安定している。慣れた人間の足音だ。俺は目を少しだけ開けた。暗い。暗いが、影は分かる。男が二人。黒い服。声はない。必要な確認だけしている感じだ。家の間取りは既に把握している。そういう動き方をしている。一人が俺の手首を取った。バンドを見た。バーコードに指を当てる。

 

「……667、確認」

 

小さく言って、もう一人に頷いた。手首を持たれながら、俺は天井を見た。自室の天井だ。三年間ずっとここで眠ってきた天井だ。染みが一つある。体が反射で動きかける。怪力を出力する前段階の熱が来た。腕の内側から先に。三年間で一番の速さで来た。出力を上げようとする信号が全身に広がる。脚が先に立とうとした。殴ればたぶん終わる。逃げられるかもしれない。でも養父母が起きる。起きた先がどうなるかは、考えたくない。そこで止めた。三年間、コントロールの訓練はしてきた。出力より先に歯を食いしばる。手を握らない。息を吸いすぎない。腹の底に力を入れて、上へ広がる熱を押し戻す。難しかった。今夜が一番難しかった。でも、止まった。開いた手のひらのまま、動かなかった。間に合ったのかどうかは分からないが、少なくとも振り抜きはしなかった。男が一人、部屋の出口を確認した。もう一人が養父母の部屋の方を見た。確認だけして、戻ってきた。家の中で何かが起きたわけじゃない。声もない。このまま静かに終わる予定だ。俺は奥歯を少しだけゆるめた。

 

 

白い布が顔に当てられる。甘い匂い。薬品。鼻の奥が冷える。まずいと思った瞬間に、息を吸ってしまった。世界が少しずつ遠ざかる。音が遠くなる。冷蔵庫の音も、廊下の足音も、全部が綿の向こうへ引っ込んでいく。最後に頭に浮かんだのは、夕飯の湯気だった。ハンバーグの上に、白い湯気が立っていた。養母が台所から持ってきた瞬間のあの湯気だ。走馬灯みたいだと思った。違うのは、これが終わりじゃなくて始まりだということだ。味じゃない。匂いだけが残る。

 

 

次に目を開けた時、潮の匂いがした。

 

 




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